水流渓人エッセイ集「父さんに教えて」
 

第四章/十二編


春の嵐


 いつの間にか三月を過ぎていた。日曜出勤が体に馴染まないまま、一ヶ月余りを呆然と過ごしてしまった。いつもは、渓流解禁に心ときめく時期でもあり、咲き始めた岩ツツジや山桜の淡い色に、穏やかな時間を迎える事が出来るのである。それにも増して、二月の殆どが、雨天の状態でもあった。結局、スキーへ一度も行けず、不満とストレスが体中に溜まったまま、〜我、掌を眺め、漏れる吐息の如く、性を嘆きて夢見えじ〜であった。そんな時、
「タラの芽食べたよ。」
「もう、山桜が満開じゃったよ。」
「ツクシん坊がたくさんあったよ。」
の声を聞いた。加えて、
「卒園式と入学式の服、どうしようか。」
と、女房が私に聞いた。登山や釣りやカヌーやスキーといった、仲間達の羨ましいほどの活動情報が聞こえてくる中で、完全に『世捨て人』と化していた私も、桃の花の匂いが微かに香った様であった。
「そうか、春だよなぁ。」
と、自分に無理矢理言い聞かせて見た。
 長女八才八ヶ月、近頃、『誰が好きだ嫌いだ』、『誰と付き合う付き合わない』などと口走り、色気にかけては最先端の小学二年生だ。机に向かい、勉強かな?と思えば、友達との交換日記を書いたりしている。私に対して絶対的秘密の事項も増えてきているみたいで、なんだか悲しい気もする。彼女の場合、静止している時は殆ど無く、常に何やらゴソゴソと動き回り、喋り回っている。先日の昼食の時、食事時間になっても庭で遊んでいるみたいで、女房が玄関に鍵をかけた。チャイムを鳴らすかなと思っていたら、鳴らすことなく玄関外の軒下の自転車にまたがり、鍵が開くのをじっと待っていた。悪いことをしたと自覚していたのか、昼食を済ませた私が、会社へ戻るために玄関を開けると、自転車に座ったままでボーッしていた。
「食事の時は、ちゃんと家に居ろよ。」
と、言う私の顔を見て、瞳が潤んできた。スゴスゴと肩を落としてリビングに入って行った。
先日は、妹・弟の『お別れ運動会』で、体操やフォークダンスを弟の手を握り、母の代理として楽しそうにしてくれた。
 次女六才三ヶ月。私は、彼女の秘めたる闘志が好きだ。くやしさをグッと奥歯に溜め込み、淡々としている。縄跳びは、毎晩の室内練習の末、長女を追い抜いた。仕返しは、完全励行。虫収集が大好きで、数カ月前、彼女の愛玩ペットであったカマキリの『キリ子ちゃん』の飼育に関しては、餌付けに始まり散歩が日課であった。餌付けのエサは、自ら捕獲したコオロギや蝿を『キリ子ちゃん』の眼前でチラつかせ、捕食させていた。しばらくすると、彼女の差し出す指先から、直接エサを取っていた。散歩に関しては、カゴごと庭や公園へ連れ出して放していた。霧吹きで土や草を湿らせたり、熱心な飼育であったが、十二月上旬に『キリ子ちゃん』は息を引き取ってしまった。現在は、一月下旬に採取してきた、三百個ほどのカエルの卵が、オタマジャクシとなって飼育カゴの中でうごめいているが、さすがに数が数だけに命名は差し控えているようである。ふと気が付くと、昨日には冬眠中のダンゴ虫を捕獲したらしく、玄関のゲタ箱の上に飼育カゴが並べられていた。そして、当然『蝿タタキ』も長女より上手である事は言うまでもない。
 長男四才五ヶ月、現在『静かな反抗期』を迎えている。遊びも自己世界没頭型で、友達が遊びに来ていても、一人部屋の隅でウルトラマンの世界に浸りきっている。夕方五時を過ぎ、友達が戻ってしばらくした頃、
「僕は、まだ、○○くんと遊んじょらんがぁー。」と、怒るらしい。姉や弟に対しての反発は、もっぱら泣き声のみで、その都度、私に
「男が泣くな!」
「泣きながら話しても、何言っているか判らんが!泣きやめ!」
と、怒鳴られている。怒鳴られても四人の我が子達は、少々の怒鳴りかたでは動じない。そして、叱られて泣いても、元気回復のスピードも、すこぶる早い。この『静かな反抗期』の中で、彼の愛らしさはたまらない。ムチムチッとした頬は、噛みつきたい程であるが、私がそうこう思っている間に、先日長女が吸い付いたらしく、彼の右頬に特大の『キスマーク』が出来ていた。長男、姉に付けられたキスマークを恥じることなく、堂々と登園している。記念に写真を撮っておこうかとも考えたが、彼の将来において、姉につけられた『キスマーク』では格好が悪いだろうと、差し控えた。
 次男一才十一ヶ月、まもなく二才になろうとしている。やはり少し成長が遅く感じる。歩行も少し不安定で、左足がスムーズではないので、かわいそうで仕方ないのであるが、最近は散歩好きで一時間以上も歩くことがある。言葉は達者で、十分に姉兄と戦っている。どこで覚えたか知らないが、現在の彼の怒りの言葉は『ジジババ』である。相手に対して『ジジババァー!』と叫びながら向かって行っている。当然、姉兄は手加減なしに彼の抵抗に応戦しているのであるが、彼の武器は他にもあり、泣き叫び親応援誘引攻撃である。末っ子として、自分の幼さを自覚した上で、その立場を利用して姉兄に反撃している。この攻撃は、姉兄は理解しているので慣れているのだが、先日、彼はこの攻撃を知り合いの同い年の子供にしたらしい。状況はこうである。置いてあったディズニーの乗り物をその子から取り上げ、自分がまたがりながら大声で触るなと叫ぶのである。その子は、乗り物を取り上げられた上に叫ばれ、呆然としていたそうだ。ついには、次男を叩きに行ったらいしが、それはいつもの事、平然と取り上げたオモチャで遊んでいたそうだ。四人姉妹兄弟の末っ子、恐るべし!である。
 自然から受ける息吹は、私のストレスを和らげてくれた。尾鈴・名貫川水系の袋谷へ、単独出かけてみた。ここは入渓すると、林道が別の支流の沢沿いに大きくえぐれ見えなくなる。後は、ロッドを振りながら、三時間上流に行かないと林道に出会わない。恐ろしい程深く透明で暗い淵と、何段も連なって落ちる滝があり、横の山肌をへばりつくように登らねばならない。一時間も歩くと太股の筋肉がパンパンになってきたが、七つの滝横を巻いても、吹き出る汗が壮快だった。あえぎながら、林道にたどり着いた時、何だか幸せな気分だけが残り、戻り四十分の林道歩きが妙に宝物のような行程に思えた。結局、下手な私は、いかにも釣れそうな渓相の中を歩いただけで、帰宅した。


 
Copyright(C) 水流渓人 All Rights Reserved

戻る