水流渓人エッセイ集「父さんに教えて」
 

第四章/七編


ぶつぶっツブヤキ


 長女の国語の教科書に『かさじぞう』がある。雪に埋もれた地蔵様に、自分がしていた手ぬぐいをかけてあげる話だが、その地蔵様が『かたがわだけが雪に埋もれて立っている。』情景が描写され、問題集に『地蔵様は、なぜかたがわだけ雪にうもれていたのですか?』とあった。吹雪で片側だけに雪が張り付いた様子を見たことがある私は、長女の解答が気に入らなかった。・・・・・雪が降ったから・・・・・とか、・・・・・雪がふぶいていたから・・・・・とかしか書けないのである。模範解答には『かたがわだけから雪が吹き付けたから。』と書かれてある。それも長女が言っている解答と変わり無いように思えた。いったいどちらからの風で、どちらに積もるのか、いろんな情景を彼女に見せてあげたくなった。今年は暖冬の予想なので、南国の山が雪に覆われるか判らないが、降雪時の登山も経験させてあげたくなった。
 長女のクラスに、いわゆるイジメっ子ではないが『リーダー的存在』『目の上ノタンコブ的存在』『遊ぶ時には中心でないと気が済まない的存在』『自己主張が強いタイプ』がいるらしく、最近の彼女の悩みでもあるみたいだ。仲間にするとかしないとか、従わねばならない的遊びに、長女は断固拒絶反応を起こすみたいである。長女本人だけがそうされているのではなく、周囲の友達がされているようで、ただただ従うだけの友達もいたりするらしい。親の私から見れば、長女にも多分にその傾向有りだと思うが、毎夜、風呂の中での話題である。そして、数日前彼女が言った。
「おとうさん、○○○○○さん家はきびしいんだって。」○○○○○さんとは、彼女の話題の中心人物である。「きびしいって、親がか?」
「うん」
「しつけがきびしいのか?勉強しろってきびしいのか?」
「わからないけど、どっちもみたい。」
「しつけがきびしいのに、イヤな事するっておかしいね!」
「・・・・・・。」
「じゃ、おまえは自分の家とその子の家と、どっちがきびしいと思う?」
「うーん、私ん家かなぁ!?」
「どうして、家の方がきびしいと思う?」
「わかんない!」
「そうかぁ、わかならいけど家の方がきびしいと思うのか。だけど、おまえは、きびしいと言う意味がその子よりわかっていると思うけどなぁ、父さんは・・・・。」
「そうよねぇ、本当にきびしければ友達にもやさしく出来るもんね!」
と、言った。手探りばかりの子育てが、彼女にも理解してもらえているのかなと、多少嬉しくも思った。彼女の成長が嬉しく思った。風呂から上がった長女は、体から湯気を上げながら、リビングで遊んでいた妹・弟に向かって、
「おねえちゃんの言うこと聞かんと、もう遊んであげんかいねー。」
と、大声でどなっていた。『アチャー!そんなもんだわ!』と思いながら、ひょっとして○○○○○さんには、兄弟姉妹がいないからなのかも知れないとも考えた。 寝袋。最近はシュラフと言う。小学生の頃、親父の知り合いがくれた自衛隊用の夏用寝袋を、今でも持っている。ジトーッとして、夏は暑いし冬は寒すぎる。おまけに短くて足を伸ばすと、頭を圧迫される。表面はまったく水をはじかず、中身は真綿で重い。しかし、手放せず、今でもたまに使用している。以来、大学生の時、山岳部の友人が、部所有の羽毛シュラフを貸してくれ、そのまま返さずに、いまだに私の手元にあり、冬は抜群に暖かい。先日、えびの高原でのキャンプの時、皆寒くて安眠出来ずにいた深夜三時頃、このシュラフで寝ていた長男が、
「暑いー。」
と、うわ事を言っていたのを聞いた。母校よ!もうしばらく私が預かってやる!・・・。そして、結婚後ファミリーキャンプでも・・・と購入した、意志のないバーゲンシュラフ三つ。封筒型とか言って、平らな掛・敷布団にもなる。もっぱらテントの中敷化している。子供の多いわが家には重宝だと信じていた封筒型。長男出産の際、長期戦になりそうなので、私も病院泊まりになりそうだとモンベル社の分厚いやつを、もう一枚追加購入した。結局、シュラフを手に下げて陣痛控え室に戻った一時間後、長男は産声をあげた。かさばるが、スキー場での前夜車中宿泊には、絶対的にフカフカ暖かい。以後、知人の『アウトドア・ショップ』オープンの頃、長女・次女へ、モンベル社の新素材のシュラフを購入した。さすが新素材だけあって、軽い・小さい・機能的で、夏からマイナス三度まで対応している。気が付けば、八つのシュラフがあるので安心していたが、先日のキャンプで私に回ってきたのは、家で使っている毛布と、小学校から持っている短い寝袋で、大変寒い思いをした。以上の理由をもって、マイナス二十五度まで対応の、シュラフを注文したのだ。コノヤロウ!ついさっき入荷の確認をしたところだ。コノヤロウ!
シュラフを買ったというだけの事だが、
「また買ったとね!」
と聞かれて、説明みたいな言い訳みたいな事を、いちいち言うのは面倒なので、ここに書いておく。これで、
「また買ったとね!」
「ウン。」
だけの会話で済む。
 近頃、つくづく考え込んでしまう事がある。休日の一日を子供と過ごしていると、私と子供を流れていく時間の違いの事である。一日は二十四時間で、子供にも私にも二十四時間なのだろうが、八才や五才や四才や一才が過ごす二十四時間と、間もなく四十才を迎えようとしている私では、二十四時間の重みが、ずいぶん違うような気がするのだ。子供達が、私の年齢に追いつく事は、永久に無いのだし、私の年齢まで三十年以上の時間がある事を思えば、ずいぶん一日二十四時間の速度が違っていると感じてしまう。これから先に思いを馳せる子供達の目は、おそらく最終到達地点などまったく見えていない。それに比べ、私の目には、最終点が見えているのだろうか?完全に折り返し地点を過ぎてしまったのだろうか?子供の頃に思った、限りない時間の感覚は、今はもう無く、限られた時間の念が非常に強くなってきている。これから何に時間を費やして生きていけばいいのだろうか?と、近頃よく考えてしまう。三十代前半まで、何をしても満足感が薄く、ああすれば良かったこうすれば良かったという後悔だけが残り、それが次のステップへの原動力になっていたと思う。しかし、四十代を目前にして、少なからず満足や感謝する気持ちが持てるようになった。目標を持ち、達成する。その達成の度合いは別として、目標にチャレンジが出来ると言う事が嬉しい。結果はどうあれ、チャレンジ出来た自分と環境と家族へ対して、結果なりの満足と感謝の気持ちが快く感じれるようになってきている。何をするにしても、誰にとってどうかでなく、自分にとってどうなのか?家族にとってどうなのか?を大切に考えることが出来るようになってきた。


 
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