水流渓人エッセイ集「父さんに教えて」
 

第二章/九編


どうして魔人


 納得出来ない事、それは歳を追う毎に減って来るような気がする。納得している訳ではないが、
「まあ、そんなものだろう!。」
と、妥協してしまうのだ。テレビはなぜスイッチ一つで映るのか?そんな事、考えるのも調べるのもメンドウだ。そういう気持ちで子育てをすると、大変な事になってしまうのではないか?と言う疑問が、フィールドに子供を連れ出すきっかけになった。 
 私の子供も含めて、疑問を持たない子供が多すぎる。知識や経験の少ない者から受ける質問に、ハッとさせられる事がよくある。その代表選手が子供の質問である。
「どうしてごはんの前にお風呂に入らなければいけないの?」
「どうして五時にはお家に戻らないといけないの?」
「どうして子供が先に寝ないといけないの?」
「どうしてお仕事しないとごはんが食べれなくなるの?」
理屈なしに従わせると言うのも教育らしい。しかし、究極的には私もどうしてなのか判らない。
「河口は海なの?川なの?」
「どうして水の中では息ができないの?」
「どうして私は妹と弟のお姉ちゃんなの?」
「車に乗っていると車が動いているのか?まわりが動いているのか判らない!」
「お月さんがついてくる!」
「1たす1がどうして2なの?」
「犬はどうして喋らないの?」
「ここが、どうして日本なの?」
とにかく、長女の『どうして攻撃』には、大変なものがある。なんとか説明はしているが、もっともっと子供は疑問を持って欲しいものである。
 長女の、
「どうして?」
に対して、納得させられた事がたくさんある。
「どうしてタープを張るの?空が見えないし、夜は紐にひっかかるよ!」
そうである、夏の日除けや雨避けや風避けならともかく、それ以外は大して必要はないのである。なんとなくタープを張った方が、キャンプらしいとか、ここからここまでは私の占有だ!とばかりにタープを張っている。秋の紅葉を眺めながら、心地よい風に吹かれた方がずっと気持ちいいのである。まったくもって、長女のタープ疑問説は、私を唸らせた。キャンプの食事準備に関してもそうである。
「キャンプに来ると遊びたいし、遊んでいるとどうして突然お腹がすくの?」
まさにそうなのである。自然の中で存分に遊ばせたいからキャンプに連れて来るのであって、その子供の遊びにつき合ってあげたいのだ。一緒になって遊んでいると誰も食事の準備をする者がいなくなる。従って、簡単に準備出来て、簡単に後片付け出来る食事となる。パック類は、あらかじめ家で選別を行いゴミを最小限にしている。キャンプ=ご馳走の方程式は完全に消滅させた。長女の言う様に、家や街中で出来ないいろいろな遊びを考え出し、子供と一緒に遊んで、腹が減ったらサッと食事を済ませ、また遊ぶ。夜明けと共に目を覚まし、日没と共にシュラフに潜る。そんな方程式が、我が家流キャンプスタイルになっているのだ。
 先日、女房殿が突然、
「あんたは、相手の事が好きでたまらない!って状態になった事ある?」
と、聞いた。突然、なんて事聞くのだ!と思ったが、よーく胸に手を当てて考えてみた。考えてみると、心のどこかに卑怯な自分がいて、いつもその恋がダメになったとしても、自分が傷つかないようにしていたのではないか?と、疑問符がつくのだ。それは、大部分が私の育って来た環境によるものだと思うが、屈折した性格と、自分は自分で守らないといけない!と言う自分なりの悟りであったのかも知れない。私自身、家庭を持つまでの過去に否定的な部分がかなり多いが、これから追い続ける夢に対しては、希望と真実なのだと信じている。
 女房の言う、好きでたまらないと言う意味は、おそらく彼女の経験・性格上、かなり激しいものであるのは間違いない。きっと、『自分がボロボロになってもいい』『たとえ親・兄弟に見捨てられてもいい』『たとえ周りの人達に何と言われてもいい』と言う状態の筈だ。そういう意味では、私なんかより、しっかりとした自分を持っており、自分の気持ちに対して忠実なのだ。この感情のストレートな彼女が私の妻となり、その性格を受け継ぐ子供が出来、ようやく私は自分の道がオボロゲながらも判って来たような気がする。自分と家族の人生は、誰の為のものでもないと言う事だ。結局、私は女房の質問に対して、いろいろ考えてみたが
「ない。」
と、答えた。
「ない。」
と、答えても、女房は嫌な顔をしなかった。今日まで2人で歩いて来た事が、間違いではなかったと言う事なのか、もう今更どうでもいいと言う事なのか、そのどちらかであろうが、前者だという確証が今、女房の子宮の中で日一日と力強く育とうとしている。
「どうして?」
と、疑問を持たれても困るのだ。


 
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