水流渓人エッセイ集「父さんに教えて」
 

第一章/十二編


自分の中のレジスタンス!


 それは、母の入院先の付き添いで、泊まった翌朝に起きた。一月十七日・阪神を襲った大地震である。癌の痛みを我慢する母の、ベット横のテレビが、その惨事を克明に伝えていた。考えて見れば、神戸・三宮で4年前まで働いていた自分が、今こうして故郷の母の側にいることが悲しかった。神戸の会社を辞めたのも、将来起こるであろう親との別れを予測しての事だった。父を二十四才で失った時の決心だった。以前から、病弱な母の為に何かしてあげたいと思った。父の死後、私は結婚し、孫を作り、故郷に戻り、同居し、母の為に土地を買い、家を建てた。その南東の部屋は母の部屋で、とても気に入ってくれた。そんな母が、息を引き取る五日前に地震は起きた。ガレキの山・火災・倒れたビル・家を失った人々・救出される人・亡くなった人・・・・・ぽつり、母は言った。
「神戸の人達は可愛そうだね。」
私は、涙が出そうになった。被災地の人達は本当に可愛そうだか、命の炎が、か細くなり、終局へ向かいつつある、母の言葉が悲しかった。『本当にかわいそうなのは自分じゃないか!。』そう叫びたかった。
 息を引き取った母の遺体を、手で押さえながら、主治医の土井先生は涙を流してくれた。そして、担当する患者の中で、いつも明るい患者であった事、自分が癌であり、もう助からない事を知りながら、逆に周囲に気を使っていた事、孫や嫁や息子がよくしてくれると、いつも言っていた事を、土井先生から聞いた。遺体を自宅に運ぶ車の中で、あの時の言葉を思いだして、全身に電気が走った。自分の死を見極めた上で、神戸の人達を可愛そう・・・と、言った母の言葉は、あまりにも尊く、あまりにも優しすぎて、私の胸の中に深く刻まれ、これからの私の生涯をずっと見守ってくれる、これが母の愛だと気づいた。
 今年の始め、母の乗降に少しでも楽になるようにと、女房の車を、軽自動車からステーションワゴンに変えた。その車を、母は喜び、少しの援助をしてくれた。結局、その車に母を乗せたのは、亡くなる一週間前、自宅に連れて帰った時、それ一回限りとなったが、痛みの中の、母の笑顔を見る事が出来た。葬式を終え、我家がようやくいつものペースに戻ったある日、翌日が休日に気づいた私と女房は、その車に、シュラフと着替えと寝静まった子供三人を積み込み、高速道路を走っていた。いつもの四駆ではない静かな走行が、悲しかった。鹿児島のインターから、指宿スカイラインへ抜け、峠にさしかかった時、助手席の私は目を覚ました。眼下に広がる鹿児島市内の夜景が、あまりにもきれいで、見上げると限りない星が輝いていた。ここで寝る!そう決め、シュラフにもぐりこんだ。
 翌朝、知覧の特攻記念館を見学した。第二次大戦で、特攻隊として若い命を散らせた人達の写真、辞世の手紙、当時の記録映像等が展示してあった。長女五才、ここに興味を持ったらしく、戦没者の写真が何百も展示してあり、その人達がすべて戦死した事が、大変なショックだったみたいである。それから、開聞岳〜長崎鼻〜指宿〜池田湖と回って帰宅したが、道中の車の中は、長女の知覧・戦争に関する質問だった。『なぜ戦争になったのか。』『なぜ人を殺すのか。』『平和の方がいいのにどうして戦争があるのか。』『本当に知覧の写真の人達は誰も生きていないのか。』『どうして戦争をした国の人達と、今は仲よく出来るのか。』『その頃、愛と平和の美少女戦士・セーラームーンはいなかったのか。』・・・・・。どうも、おばあちゃんの死は病気によるもので、葬儀を経て火葬し埋葬する、と言う順序だったし、死にたくないのに、病気により死に至り、その死によって病気の痛みからは解放され、最期には、穏やかなおばあちゃんの顔の写真だけが残ったのが、長女の記憶なのだ。それが、知覧の戦没者達の、穏やかな写真の裏側に隠された彼らの死の形が、長女の記憶する死の形でなかった事が、大変なショックの原因のようだ。
 次女三才・現在、我家のお目付け役である。朝、起きると、
「お母さん、おばあちゃんとおじいちゃんのお茶を入れた?」
寝る前には、
「おばあちゃんに、おやすみ言った?」
そして、不思議がある。朝、おばあちゃんにお供えしたお茶が、いつも夜には空っぽになっているのである。長女も次女も知らないと言う。ただ長男だけは、聞いても「バブバブ」としか言えない。
 最近になって、私が以前勤めていた会社の上司から電話があった。彼も現在、その会社を辞め、他方面でバリバリ活躍しているが、今でも尊敬すべき人物の一人である。当時、まさに神戸・三宮時代であるが、企業戦士として、過激に時代に挑戦していた。とにかく感性と発想の達人であり、部下の私を大いに育ててくれた恩人でもある。そんな彼の住まいは、あの神戸市・長田区のマンションであり、あの火災は、彼のマンション横から発生していたのである。無事とこれからの意欲を確認出来た私は、本当に嬉しかった。数日後、送られてきた彼の手紙の終わりがこう結ばれていた。
《生きてさえいれば、ふたたび再建できる!そんなチャンスを神が与えたのだと思います。「何か要るものがあったら」と多くの方々にお声がけいただきましたが、不思議なくらい、何ひとつほしいものがないのです。焼け跡にたたずんで「よォーし、自力再建してみせるぞォ!」と、ムラムラ沸き出でくる闘志がウソのように純粋なのです。関西弁で「へこたれへん!」見事に立ち直って見せますので、その節には是非拍手を頂戴できたら幸いです。》
病床で被災地・神戸を思いやった母の愛が、いま私に戻って来たような気がした。まるで、被災者の彼が、私に勇気を与えてくれたような気がした。彼が手紙に書いたのは『湧き出てくる闘志』ではなく、『沸き出てくる闘志』なのだ、自然に任せて湧き出てくるものでなく、今在る自分の中から、沸き出させる闘志なのだ!と思うと、両親を失った事は、あくまでも過程であり、これからの自分の在り方・成長の方が大切なのだ。両親も、きっと、そう願っているに違いないと確信出来た。


 
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