水流渓人エッセイ集「父さんに教えて」
 

第一章/十一編


やっぱりキャンプ?!


 去年まで、妊娠・出産とあまり外へ出かけられなかった我が家が、打って変わってキャンプへ、川へと、日曜日たびに出かけられるようになった。おかげで私は、自分のやりたい事に制限されるようになった。この時期、親子の触れ合いが大事とばかり、日曜は家族で出かけるようにしている。好きな渓流釣りは、たまに平日の四時起きで、出勤前に尾鈴・名貫川へ出かけるようにしているが、考えてみれば平日・早朝の渓は誰にも邪魔されず、今、我家の冷蔵庫に十匹のヤマメが、姿焼きの出番を待っている。
 そして、子供が眠ってしまった平日の夜、木を削ったり、貼り合わせたり、磨いたり、塗装したりの大忙しである。おかげで、シングルバドル四本、ガーデンテーブル二台、ベンチ三脚、キャンプテーブル四台が完成している。先日、休みの朝、電動ドライバーで木ネジを締めていると、近所の女児五才が
「おじちゃん、それは私のテーブルね?。」
と、突然に聞くのであった。そうではないけど
「そうだ!。」
と、言ってしまった。

 次女二才、かなりの気分屋である。つむじを曲げてしまうと、少々の機嫌取りでは云う事を聞かない筋がね入りの、美少女戦士なのである。この次女が機嫌のいい時、私に駆け寄り抱きつくと、口髭をひっぱりながら
「ハゲ、ハゲ。」
と、言い、どう教えてもヒゲとは言ってくれないのである。先日も一緒に風呂に入っていると、またまた髭をつまみながら
「ハゲ。」
と、言うので
「これはヒゲでしょう、ハゲはここ。」
と、自分の頭を指さした自分が悲しかった。
 長女5才いわく、我家の家族数は七人だと言って譲らない。オトウサン、オカアサン、ワタシ、イモウト、オトウト、オバアチャン、シンダオジイチャンだと言うのだ。私の親父が死んで十一年が経つが、我娘の気持ちの中では、見た事もないオジイチャンが存在しているのかな?と考えさせられてしまった。親父が死んだ時、二十四才だった私は、一人前の大人を自負し、何も親父に教わる事などない様に考えていた。しかし、親父は自分の死をもってまで、私に一人で生きていく厳しさと勇気を教えてくれた。親は子供に対し、最後まで教えを説く存在であるようだ。そんな長女の一言が、親である私に何かを忠告しているような気がした。時々、長女を膝に乗せ
「お父さんかお母さんが死んだらどうする?。」
と、尋ねると、その言葉を聞いたとたん、大きい瞳に、涙が涌いてくるのである。その後、ひとしきり泣いている感傷的な性格の、美少女戦士なのである。その態度が嬉しくて、意地悪親父は、すぐ長女を泣かせてしまう。最近知ったのであるが
「お父さんかお母さんが死んだらどうして悲しいの?。」
と、聞いてみると、
「ご飯、誰がつくるの?お洗濯、誰がするの?妹と弟を、誰がお風呂にいれるの?幼稚園のお迎えは誰がするの?。」
と、言っていた。どうも女房のやっている事ばかりで、私は少しさびしい気分になってきた。しかし、
「お父さんが死んだらどうする?。」
と、聞く勇気がない。

 長男一才、まだ歩けず、歯も上四本・下二本しかない。バブバブ、ギャーギャーの世界であるが、彼にも特技がある。誰に対しても愛想よく、すぐ抱かれるのである。おかげで、彼の場合、歩けないのに外出・外泊が多く、渡り歩きの放浪人生を一才にして実行している。それは、それは女房の育児の手助けになる親孝行者である。そして、現在、彼には、食料品店・床屋など数カ所の行き着けの店があり、金を使わずにいろんな物を握って帰ってくる特技も、収得しているみたいだ。
 十月の連休に、霧島高原へキャンプに行く事になった。近所も加わり、大人六人・子供八人となった。とにかく、連休など行くものではない。たくさんのキャンパーで、パンク状態のキャンプ場と変し、結局、管理棟前の公園でキャンプする事になった。折からの低気圧接近で、風雨が予想されたので、特に張り綱・ペグは強固なものを準備した。私の使用しているヘキサゴンタープは、風雨には抜群の威力を発揮する。五年来使用しているが、何のトラブルもなく、安心して雨や風を楽しめた。このキャンプ場では、四年前に、女房・長女と、強烈な低気圧の経験もしており、今回以上の楽しみも味わっている。勿論、その時も、このタープはびくともしなかった。翌朝、風はやんだが、雨がだんだん強くなり、変竹林な十四人集団は、管理棟にある異常に汚れの漂う温泉に入り、簡単食事を取った。
 2泊目は、家族での初体験、『ホテル泊』を試みた。霧島ロイヤルホテルなのだが、それはもう大変な惨事であり、豪華レストランの食事風景は、長女通路運動会状態、次女通路ゴロ寝厨房探検状態、長男懐石料理テーブル這い回り状態にして、料理の味も判らないままワーワーギャーギャー状態でディナーの幕を下ろした。
「やっぱりキャンプがいい!」
と、ひとしきり叫んだ末寝た長女や、知らない間に寝た次女、指をチューチュー状態で寝た長男。子供達の寝顔を見ていると、賑やかな事が、今の幸せかなと感じた。子供が寝静まり、女房と部屋をぬけだし、ホテルの中を、久しぶりに2人で歩いてみたが、まずいラーメンを食べただけで、やっぱり気になる我子達の寝る部屋に、スゴスゴと戻ってしまった。そんなこんなの7年目の結婚記念日だった。
(以上、一九九四年十一月二十日筆)
 追記・・・九月に、母の命の期限を聞かされた私と女房、それを知らない私の母、そして我子三人。これが最期のキャンプになる事も、母をとりまくすべての事が、カウントダウンしていくのも判った上での三日間であった。そして、一九九五年一月二十二日、母は、この世で最高の痛みを受けながら、この世を去った。人間として、最期まで自分の人生を貫いた、素晴らしい最期だった。父親同様、親として、子供である私に、家族の大切さを教え、先に逝った父と共に、永遠の生命を得たのである。


 
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