世界のうた



リパブリック讃歌(Battle Hymn of the Republic)

 1856年、サウス・カロライナのウイリアム・ステッフェが「グローリ・ハレルヤ」という伝統的なリフレインの入っている伝導集会の歌を作りました。それは以下のような歌い出しでした。
 ”Say,brothers,will you meet us on Canaan's happy shore?”
 (さあ、兄弟達よ、カナーンの歓びの岸辺で出会おう)
 そのメロディーは一度聞いたら忘れられないもので、瞬く間に広く知れ渡りました。南北戦争が始まって間もなく、ボストンに駐屯していた連隊にいたジョン・ブラウン(John Brown)という兵士が、奴隷制度に勇敢に立ち向かい命を落としました。この連隊の兵士たちは、ステッフェのメロディーをこのカンザス出身の勇敢なJohnについての替え歌にして歌い始めました。
 ”John Brown's body lies a-mouldering in the grave,but his soul goes marching”
 (John Brownは墓の中。けれど、その魂は今も行進を続けている)
 これは連隊から連隊へと広がり、やがてユニオン全体で歌われるようになりました。ちなみに、ユニオン(the Union)とは、南北戦争当時のアメリカ合衆国をさす呼び方です。
 1861年12月、ジュリア・ウォード・ハウ(Julia Ward Howe)という女性が、この歌が歌われているのを聞き、友人のすすめもあって、ワシントンのウイラード・ホテルで現在「リパブリック讃歌」として知られているこの歌詞を書き上げました。
 この歌う者の心を昂揚させる歌は、1862年の2月に、アトランティック・マンスリー(The atlantic Monthly)の2月号に掲載され、ユニオンの信条と一体となりました。

  Mine eyes have seen the glory of the Lord;
  私は見た この道を 神の栄光が 進んでくるのを
  He is trampling out the vintage Where the grapes of wrath ara stored;
  刈り集められた 怒りの葡萄を 力強く踏みつぶし
  He hath loosed the fateful lightning of his terrible swift sword;
  稲妻のように きらめく 恐るべき剣を 抜き放ち
  His truth is marching on.
  神の正義が 行進して行く
  Glory! Glory! Hallelujah! His truth is marching on.
  栄光よ! 栄光よ! ハレルヤ! 神の正義が 行進して行く

  I have seen Him in the watch fires of a hundred circling camps;
  私は見た 神の姿を 野営地をかこむ 無数のかがり火の中に
  They have builded Him an alter in the evening dews and damps;
  兵士は 夜露に濡れながら 祭壇を築きあげ
   I can read His righteous sentence by the dim and flaring lamps;
  その幽かな 灯りの中に 私は み言葉を読み取る
  His day is marching on.
  神の日々が 始まっている
  Glory! Glory! Hallelujah! His truth is marching on.
  栄光よ! 栄光よ! ハレルヤ! 神の正義が 行進して行く

 歌詞の中に現れる The Grapes of Wrath (怒りの葡萄)という言葉は、ある集団の怒りや苦しみが大きくなり、それらがいつ爆発するかわからない危険な状態を指しています。葡萄というのはそれを象徴的に表したもので、その地方の果実一般の代表として使われた単語です。すなわち、そこにたわわに稔っているのはもはや「果実」ではなく民衆の「怒り」そのものである、という意味になります。
 この歌での「怒り」とは、もちろん「神の怒り」、「正義の憤激」というもので、特に当時の奴隷制度への「怒り」という形で描かれています。南北戦争自体は、決して奴隷制度の撤廃のための戦いではなかったのですが、この歌はその精神的表現として、奴隷制度への怒りを中心に据えているのだと思われます。この言葉は、奴隷制度に対するものだけでなく、圧政や搾取に対する民衆の怒りを表すものとして広く使われています。
 アメリカの代表的な小説家スタインベック(John Ernst Steinbeck 1902-1968)もカリフォルニア州での移動農民の苦しみを描いた小節の題名としてこの言葉を用い、映画化もされました。スタインベックの作品としては、「はつかねずみと人間」、「エデンの東」、「長い谷間」(短編集)などが有名で、これらの作品により、スタインベックはノーベル文学賞(1962年)を受賞しました。              <絢>
             この資料は櫻井先生を通じ、富田林女声コーラスの方から頂きました。 


マリアの歌 Op.22
   Johannes Brahms  (1833〜1897 )

 ブラームスは、「ドイツ・レクイエム」をはじめ、沢山の合唱曲を残していますが、こ
の曲は26歳の時、ハンブルク女声合唱団を組織して指揮を始め、そのころ男声を
加えた作品として書かれたのが、無伴奏混声合唱組曲集です。
 「マリアの歌」といっても、いわゆる宗教音楽ではなく、ブラームスらしい重厚さの中
にも親しさを宿す、ごく短い七曲から成っています。
                                       (櫻井 武雄)

        1.天使の挨拶
        2.マリアの教会詣り
        3.マリアの巡礼
        4.狩人
        5.マリアの願い
        6.マクダレーナ
        7.マリア讃歌



MISSA CHORALIS
   Liszt Ferenc  (1811〜1886 )

 ピアノ曲で有名なリストであるが、彼の作曲した教会音楽はかなりの数であり、その
多くはリストのピアノ曲以外の作曲家としての優れた才能がうかがい知れる作品であ
る。そのことの裏付けの一つとして、なんと彼は11歳で最初の教会音楽となる作品
を書いている。《みさ・コラーリス》は混声合唱とオルガンのための作品として1865
年に作曲され、いわゆるロマン主義的な様式を避けた作風ななっている。1860年
代に、リストが作曲した教会音楽の中でも最も重要な曲である。
                                  (HMVのCD解説より)



ヒロシマ

 2013年5月23日、フランスの歌手ジョルジュ・ムスタキ(Georges Moustaki)が79歳で
亡くなった。
 ギリシャ系ユダヤ人としてエジプトに生まれ、17歳の時にフランスに移住したムスタ
キは、その出自からフランスの中で「よそ者」意識を抱き続け、その気持ちを歌に込
めていった。1957年からエディット・ピアフをはじめ何人ものシャンソン歌手のために
曲を作り、1969年からは自らも歌手としてデビューする。彼はパリ五月革命に共感を
寄せ、スペインの軍事独裁者フランコ大統領を批判する歌を作るなど、フランスにとど
まらず全世界に関心を寄せるプロテスト・シンガーとしても知られている。日本の平和
運動の中で歌い継がれてきた『ヒロシマ』も、このムスタキの手になる。
〈2012.6.9 中国新聞朝刊掲載〉 ヒロシマ音楽譜 作品が紡ぐ復興 (4) ジョルジュ・ムスタキ

絶えない戦争に警鐘  平和と自由実現へ歌う
 「平和と自由が実現されていないから私は歌う」 自作のシャンソン「ヒロシマ」を携
え1976年に初めて広島を訪れたジョルジュ・ムスタキは、新聞社の取材に答えてい
る。ベトナム戦争に中東戦争と60年代に入ってもなお、どこかで新たな戦争が始まっ
ていた。「ヒロシマ」を創作したのは、こうした世界に警鐘を鳴らすためだった。
 ムスタキはギリシャ系ユダヤ人の両親の亡命先、エジプトで生を受けた。17歳でパ
リに出た後シャンソンを書き始め、伝統的シャンソン歌手、エディット・ピアフのために
書いた「ミロール」のヒットで注目を集める。その後、自らの境遇を歌った「異国の人」
が大ヒットし、歌手としての活動も本格化させるようになった。
 「ヒロシマ」を発表したのは1972年、既にシャンソン歌手としての名声を確立していた
ころだ。決して声高に政治的な発言をしてきたわけではない。しかし、彼の自伝には、
子供時代に戦禍の記憶がさりげなく重ねられ、その歌には戦争や社会に対する抗議
がそれとなく表される。柔らかく語りかけるような彼の歌声のように。
 歌い口は「ヒロシマ」でも変わらない。だが、わずか16小節の旋律上に韻を踏んだ
短い詩句を繰り返すシンプルな構造からは、根底に流れる強さ、厳しさが切々と感じ
られる。「ヒロシマ」という語が登場するのは曲の末尾。「ヒロシマからもう少し遠くに 
多分あしたには来るだろう 平和が」(ヒロコ・ムトー訳)
 謎めいた言葉だが、ムスタキ自身の次の言葉が補ってくれる。「ヒロシマが私たちの
心の中からもう少し遠くに、そして遥か彼方に去っていった時、初めて平和が訪れる
のではないでしょうか」。つまり、相次ぐ戦争への警鐘のシンボルとしてヒロシマを捉え
た彼にとって、ヒロシマはまだ続いていたのである。原爆資料館を見たムスタキは、館
外に広がる平穏な日常との差に衝撃を受けていた。広島の復興とは何か。問いかけ
てくる歌である。
(広島大学特任助教・能登原由実)