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滝の城(本郷城)
関連ページのリンク  200/01/28の日記  北秋津城    
おすすめ評価
訪城季節4 遺構状態4 探し易さ5 交通利便5 体力消耗5 歴史経緯3
所在地
埼玉県所沢市城537ほか
歴史と沿革

■「所沢市史」によれば、この地域の旧地名は城本郷であり、このため「小田原編年録」には「本郷城」と記されているとのことである。(以下は同史の記述を主に引用)築城者については武藏の多摩郡、入間郡、高麗郡に勢力のあった大石氏であると考えられている。正平11年(1356年)入間・多摩地域を足利氏から知行されていた武蔵滝山城を本拠地とする山内上杉氏の家臣武蔵国守護代大石氏が扇谷上杉氏の太田道真、道灌の江戸城・川越城・岩付城を意識して柏の城(志木市)とともに15世紀後半から16世紀前半に築城したもののようである。
■その後大石氏は定久の時、後北条氏と上杉氏の争いが起こり、天文15年の「河越夜戦」で上杉方が敗れたため後北条氏に藤田氏など共に服属し、北条氏康の次男北条氏照を養子として迎え一族の安泰を図った。そして氏照の代に外郭の増設などの防御が強化されたが、天正18年(1590年)の秀吉の関東侵入により後北条氏が滅亡し廃城となった模様である。
■滝の城については文献上の記述が殆ど残されていないようであるが、その中で最も有名なものが永禄7年(1564年)の北条氏照が差出した「清戸番所」に関する印判状とされている。これは氏照が清戸の番所(少数の軍兵が常駐する砦)の守備について三田氏、師岡氏に命じたものである。「所沢市史」ではこの清戸番所を滝の城と想定するような記述をしている。しかし、平時の番所と戦時の城とは別のものであるとしている見解もある。(「所沢史話」)

確認できる遺構
郭、土塁、空掘、物見台
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■武蔵野台地を流れる狭山丘陵に水源を発する荒川の支流柳瀬川が南東側を流れる。比高25mと言われる洪積台地の突出部に本郭、二の郭などの中心部を配置し北側に土塁・空堀、外郭などを備えていた本格的な戦国の崖城である。
 ただし現在北西側の県道から見ると城跡の場所は4m以上も低い位置にあり大木などに登れば容易に城の中が見通すこともできたのではないかと考えられ、大掛かりな空堀・土塁で防衛線を敷いていたとしてもやはりこの城郭の防御上の弱点であったように考えられる。

参考資料、古文書、
記録

「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「所沢市史 通史編 上」(1991年/所沢市発行)
「所沢市史 文化財・植物編」(1985年/所沢市発行)
「所沢史話」(1974年/所沢市教育委員会編集発行)
「所沢の文化財と風土」(1977年/所沢市教育委員会発行)
「滝の城横穴墓群(所沢市文化財調査報告書第2集)」(1978年/所沢市教育委員会)
「所沢市史 中世資料」(1981年/所沢市発行) 「滝の城跡」(滝の城跡保存会のパンフレット)   

文化財指定
埼玉県史跡 大正14年(1925年)3月31日指定
訪城年月日
200/01/28
訪城の記録

( 2005/01/28 )
何度来ても見事な空堀
  平成16年5月末に城蹟めぐりを思い立って出かけた最初の場所ですが、今までに何度も訪れており正確には何回目となるのでしょうか、10回は来ていない筈ですが。
 大分以前に来たときは、柳瀬川の堤防と土塁の区別さえ分からなかった様に記憶しています。城といえばとにかく石垣と天守閣がなければという人間でした。いや本当の話(^^; そんな自分が現在のように土塁・空堀大好き人間になるとは思いもよらず。
 さて、何時来ても二の郭の空堀の規模はなかなかダイナミックな印象を与えてくれます。二の郭の外側防備や外郭の備えが万全で、2千人位の兵力があり必要な食料・武器弾薬などが用意され、郭内に向かう橋などが切り落とされていたならば、直接この堀を越えて攻め入るのはなかなか至難の業ではないでしょうか。

城をめぐる攻防
  「新編武蔵風土記稿」の城村の条の記述によれば、天正18年の戦いの折、南側の攻撃に備えていたところ、豊臣勢は北側の方から攻め込んでたちまち落城したとの伝承があるようです。しかし、その合戦譚以前にこの城に十分な兵力と武器弾薬は備蓄されていたのかどうかなどについてはやや疑問に思われます。そうでなくても豊臣勢に比べ少ない兵力を氏照の最重要拠点ではないこの城に千人単位で分散配置するということは考えにくく、一人でも多く氏照の本拠地である八王子城に詰めるようにするのが緊急課題であったのではないかと思われます。
 「浅羽城」「三福寺陣城」(坂戸市)、「羽尾城」(滑川町)などと同様に、後北条氏と豊臣勢との合戦の伝承があるものの、ややその合戦の規模が伝承の段階で誇張されていったのではないでしょうか。もちろん兵役の対象とはならなかった在地の小領主の人々を中心に見張り要員程度の人数は在城していたと思われます。そうした少数の兵力であったので本郭を中心とした南側に集中配備せざるを得ず、そのため手薄な北側から攻撃を受けて持ち堪えられなかったのではないのかと勝手に解釈しています。
 文化9年(1812年)に刊行された「小田原編年録」(間宮士信/著)などの記述によれば太田資正の家臣太田下野守が居城としたとのことですが、「武藏夜話」にあるとおり八王子城落城の時「囲む兵もなく攻めるものもなきに城陥しといへり」とされているようなことだったのかもしれません。しかし何れも伝承の域を出ないことは確かなようです。

 Best Shot?

 本郭の北側に所在する大変立派な城山神社。明治41年の折からの神社合祀の流れの中で、天神社、熊野神社、八幡神社、稲荷神社2社、愛宕神社を合祀し城山神社と社号を改称したとのことです。記念碑の説明によれば近年社殿が新築されたもので2億数千万円の巨費が投じられたとのことです。
 本郭への入口は現在の土橋ではなく、この神社の裏側から、木橋が架けられていたのではないかという推定がなされている様です。
 ( 2005/01/28 撮影 晴 )
もう一つの文化財
滝の城横穴墳群
 滝の城の土塁の補強工事の際に発見された「滝の城横穴墳群」の説明版。場所はこの本郭の直ぐ下あたりということです。
 「昭和49年秋の集中豪雨の際に本郭南東部の崖が一部崩壊し、その後日を追うごとに浸食がひどくなり、昭和50年度の埼玉県の助成事業として土塁防護工事を実施したところ、昭和51年2月13日人骨の一部が発見され、現場調査したところ9基の横穴墓群の所在が確認された」とのことです。その後、2月24日から3月9日まで発掘調査が行われ、金環、ガラス小玉などが出土しました。墓の年代は7世紀中ごろと推定されています。
 画像クリックで拡大します。
交通アクセス

・県道179号線の南側、東所沢病院の東側。国際興業バスの城バス停留所から徒歩4分。
MapFan Web の案内図です 


( 2005/01/28 撮影 )

■二の郭は南側は城山神社の関係者の方の住居兼社務所となっていますが、北側には内側に土塁も残る駐車場?のように使われています。土塁の内側の高さは1m余りというところです。
 車で来訪したときはこの場所(5台位)か中腹の神社の石段の前(2台位)、または少し遠くなりますが平日ならば滝の城跡公園の駐車場(野球場の方は30台位)を利用すればよいかもしれません。
■地元所沢「滝の城跡保存会」の皆さん方が設置されている説明パンフレット配布装置。
 左側の郵便受けのようなケースにA3片面印刷の手作りの案内図の描かれたパンフレットが置かれています。
 これを一枚拝領して城跡めぐりをすると大変便利です。
■下の写真の反対側の北側の空堀で、空堀の右側の郭は右の写真と同じものです。
■二の郭北西側の部分と空堀。郭の先端が土塁のためにやや高くなっている。
画像クリックで拡大します
■深さ約8m前後の規模で屏風折の形状を有する二の郭外側の空堀の南側部分。画像クリックで拡大します。
画像クリックで拡大します
■滝の城の説明版。画像クリックで拡大します。
 説明には約6万6000屬旅さがあると書かれていますが、「所沢市史文化財編」では87,400屬判颪れています。
■本郭の南側に設置されている城跡の記念碑と説明版。
 見づらいのですが、背後に高さ数十センチ程度の土塁があります。
■本郭から見える南東側の柳瀬川と交差している東西に走るJR武蔵野線の高架陸橋で、折りよく貨物列車が通過していきました。
 こうしてみると25mの比高差というのもなかなかのものです。
 また、その向こう側の集合住宅は東京都の清瀬旭が丘団地。
■本郭の西側にある物見台で高さ2.5mほどあり、現在は稲荷社、天神社などの祠が祀られています。
■二の郭と三の郭の間にある物見台で高さが約3mほどあり、通路の右側が三の郭といわれている小郭。
■通路の正面の日の当たっている部分が三の曲輪の少し高くなっている部分。
■同じ通路から見た二の郭の外側の空堀で、この部分の幅は先ほどの部分よりも更に広くなっている様です。
 この場所の右手に上の写真に写っている物見台があります。
■三の郭といわれる小郭の東側の急傾斜の坂道。この左手に更に外郭の土塁が続いていたらしい。
■民家の庭先に残されている物見台。
 市教育委員会の調査などによれば、この物見台は外郭の土塁に相当する場所で、この左側の辺りに大手口があったということですが。
■搦手口の城山神社の石柱と滝の城の説明版。
 この右手の藪の中には現在でも高さ2m程度の規模の大きな土塁があり、所沢市教育委員会の調査によればその更に外側には空堀が存在していたということである。
 この土塁の内側の帯郭上の細長い部分を三郭としている考え方もあるようです。
■南側の滝の城跡公園の通路から本郭方面を望む。
 難攻不落とはいわないまでも約20m近くの比高があり、こちら側から攻める上るのは難しい。
 
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