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1歴史・伝承   2残存遺構   3訪城記録・記念撮影   4アルバム  5交通案内   6参考・引用資料  7更新記録
関連ページへのリンク  2007年11月19日のブログ
所在地
 東京都北区上中里1丁目47−1周辺
歴史、人物、伝承

太田道灌により攻略
 豊島氏は文明9年(1477)正月に発生した長尾景春の乱において、景春方に与同し管領上杉方との抗戦に至ったが、江古田・沼袋原の戦いで名将太田道灌の軍勢に敗北を喫した。
 平塚城の初見は有名な「太田道灌状」に認められ、「豊島勘解由左衛門尉、江戸要害に向け、平塚と申すところに付城を拵え立てこもり候の間...」(文明10年正月)、と豊島氏最後の反抗拠点として登場するが、平塚城はまもなく落城し事実上秩父氏以来の関東の名族豊島氏は滅亡したともいう。
 「日本城郭大系5」によると、豊島勘解由左衛門尉の子康保は後北条氏に仕え「小田原衆所領役帳」に232貫余りの役高が記されていると記されているが、「小田原衆所領役帳」(戦国遺文後北条氏別巻/東京堂出版)を見る限りでは当該記述を確認することができない。
 また平塚城の所在地については、「新編武蔵風土記稿」が記すようにあくまでも不明であり、平塚神社=城跡という説が確定している訳でもないと考えられる。
 (『中世東国の領域と城館』所収の「武蔵国豊島氏の領域と城館」などより)

確認可能な遺構
 解説板のみ(比定地の一つ)
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2007年11月19日 8時05分から8時35分まで
訪城の記録 記念撮影

 たぶん40年ぶり
 大阪に所用があり、久々の墓参りも兼ねて立ち寄ることにしたものです。両親は戦後間もない1946年にこの神社で挙式。遥か半世紀以上前に不肖某もここで七五三の儀式を。数年前に他界した父とは頻繁に散歩に出かけた場所。早い話が自分の生まれ故郷。なお、更新をサボっているうちに実母も3年前に死去。
 さて卒業した小中学校もこのすぐ近くに所在し、何故か校歌も未だに記憶。「きよ〜らかに〜ただしく、なおく、もろともに...」区立なのにこうして文字にすると何か讃美歌のような..GHQの影響か..(笑)そういえば時代背景の象徴のように校舎裏に薪を背負い本を読む「二宮金次郎の石像」が転がっておりました。
 内田康夫氏のミステリ小説に登場する主人公。昔は榎木孝明、次に辰巳琢朗など、そして今は沢村一樹だったかと記憶。その主人公の実家が東京都北区西ヶ原3丁目という設定。特に所縁はありませんが自分の生まれた住所と偶然の一致。尤も自分の住んでいた所はかつての谷田川沿いの低地帯。小説に登場する屋敷町は確か北側の高台の方角に所在しています。
 このため子どもの時から平塚亭の団子はお馴染で、この日もお参りの後おやつ代わりにお買い物。朝まだ早い時間帯のため生憎と団子は無く、出来たての豆大福を購入。


 大分以前の郷土史関係資料には、この平塚神社の洪積台地を城跡と明確に記述。なかには切り通しの道路沿いに生育する樹木の傾斜を空堀の存在に結びつける見解なども提示。さらには「飛鳥山城」「西ヶ原城」の存在さえも示唆...しかし最近の研究者の見解では、平塚城が名族豊島氏の拠点であったかどうかについてさえ異論もあるようです。
 仮に実在したとしてもこの台地ではなく、もう少し南寄りの方面との説もあり、ことによると関連しそうな神社東側の城官寺にも立ち寄ることに。ところが法要日のために様々な葬祭用具が設置され写真撮影がなかなか難しく。
 そういえば卒業した小学校の隣に所在する大学の敷地は、あの有名な「下瀬火薬」の海軍工廠。道理で有刺鉄線が張り巡らされた高い頑丈なコンクリート塀や防空壕があった訳でありました。
 どうもこの年齢になると矢鱈に昔のことばかりが脳裏に浮かびますが、それに反して最近の記憶が一段と曖昧に。かつては奥行200m以上はあったと思われる神社境内の参道。諸般の事情からか、参道両側の半分以上が月極めの貸駐車場に変貌しておりました。

                   ( 2011/05/05 )記述
平塚城付近(平塚神社境内) ⇒ 画像クリックで拡大します
平塚城付近(平塚神社境内)の坂道
( 2007年11月19日 撮影 )
訪城アルバム
 ⇒ 画像クリックで神社の縁起へ
 ⇒ 画像クリックで平塚城址の解説板へ
凸1 平塚神社拝殿(画像1−1)
 大きさ自体は変わっていないと思われますが、近年父親の相続手続きの際に参拝した王子神社の記憶が新しいせいか、40年ぶりの平塚神社の拝殿がやけに小さく思えてしまいました。なお、当時は城跡(伝)との認識は欠片もなく...
 ※画像クリックで平塚神社の縁起へ
凸2 平塚山城官寺(画像2−1)
 平塚神社の別当寺であった真言宗豊山派の平塚山城官寺山門。この日は法要の予定が入っているらしくどことなく取り込んでいる様子が窺われましたので山門前でUターンを余儀なくされました。
 ※画像クリックで平塚城の解説板へ
交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係資料
「日本城郭大系5」(1974/人物往来社)
「日本の名城・古城事典」(1989/TBSブリタニカ)
「ビジュアルガイド日本の城」(2005/小学館)
「お城の地図帳」(2010/辰巳出版)
「探訪ブックス日本の城2関東の城」(1989/小学館)

■郷土史・歴史
「日本史広辞典」(1997/山川出版社)
「武蔵野歴史地理」(1971)
「豊島氏とその時代」(1998/新人物往来社)
「中世東国の領域と城館」(齋藤慎一 著/2002/吉川弘文館)
※近年の発掘調査などから平塚神社から飛鳥山方面を城跡の推定地から除き、江戸城に対する付城という視点から、石神井城、練馬城の構造に照らし本郷通に面した平坦な城郭であった可能性を示唆している。
「図説太田道灌」(黒田基樹 著/2009/戎光祥出版)※「太田道灌状」全文掲載、現代語訳付
「武蔵野城跡ウォーキング」(平野勝 著/2005/東京新聞出版局)

■史料
「新編武蔵風土記稿」(1996/雄山閣)
※「平塚城跡 今は所在地不明である。城官寺の辺りとも、西ヶ原の御殿山ともいうが何れも証左を欠く。平塚明神の後背には微高地があり、攻坂の転訛とも思われる蝉坂、小名隅櫓などの地名もありこの一帯が城跡であろう...」と記されているが、この点も推測の域を出るものではない。

・2011年5月5日 HPアップ
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