アクセスありがとうございます。 最初はホームページづくりの日記のようなもので始めたのですが。 時々ネコも出てきます。 もちろん、城跡めぐりも出てきます。 早い話、身辺雑記のようなものです....はい。
 
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・2005年1月29日   引っかかれた

 娘の猫を久しぶりに風呂に入れて洗濯した。その暴れること、嫌がること。最後は背中のほうに飛び乗って爪を立てて離れない....重ね着をしていてよかった(^^; 
 入浴が済むと娘に抱かれながらすっきりした表情でバスタオルの中に大人しく納まって、いつもと違う部屋にいるのできょろきょろ辺りを観察している。娘は日頃から頻繁に引っかかれていて、手足などあちこち傷だらけになっているが、それでも可愛いいらしく「ポミちゃん。いー子、いー子」などと猫なで声を出して構っていた。
 こっちの方も少しは構ってほしいのだが....(^^;




・2005年1月28日    滝の城と岡城
           

(プロローグ)
 河越氏館跡で確認したい点がいくつかあり、そのあと小川町の高見城と武田信俊館を予定し2か所+アルファということで、まず河越氏館に向かいましたが国道16号線は予想通り混雑の様相。先日訪城したばかりの河越氏館での用件は常楽寺の北側の空堀跡の所在とその有無の確認が一点。もう一つは大道寺政繁の宝篋印塔等の所在の確認。
 で、用件は済んだのかというと、情報不足と視力の問題もあり不首尾に。そうこうしている内に時間は正午を過ぎいしまい、小川町方面は往復だけでも約3時間かかるので諦めることに。しかし、こんなこともあろうかと何ヶ所か資料は用意しており、結局全く反対方向の所沢の滝の城に向かうことに予定変更。でもそうすると、時間が半端だし、2か所ずつコンスタントに訪城したいし、ということで自宅に立寄って朝霞の岡城にも行くことになったという次第。

■滝の城
 所沢にある滝の城までの道は、日常の自分の行動範囲なので状況に合わせ最短のコース選択が可能。城蹟めぐりを思い立って出かけた最初の場所で、正確には何回目となるのでしょうか、10回は来ていない筈ですが。
 大分以前に来たときは、柳瀬川の堤防と土塁の区別さえ分からなかった様に記憶しています。いや本当の話(^^; そんな自分が現在のように土塁・空堀大好き人間になるとは思いもよらず。さて、何時来ても二の郭の空堀の規模はなかなかダイナミックな印象を与えてくれます。郭内に向かう橋などが切り落とされていたならば、直接この堀を越えて攻め入るのはなかなか至難の業。
 天正18年の戦いの折、豊臣勢は北側の方から攻め込んだという話があります。しかし、それ以前にこの城に十分な兵力と武器弾薬は備蓄されていたのかどうかなどについてはやや疑問に思われます。そうでなくても豊臣勢に比べ少ない兵力を分散するということは考えにくく、一人でも多く氏照の本拠地である八王子城に詰めるようにするのが本筋であると思われます。「浅羽城」「三福寺陣城」(坂戸市)、「羽尾城」(滑川町)などの後北条氏と豊臣勢の合戦の伝承のあるものの、やや信憑性を欠くと思われる事例と同様な感じがしますが。もちろん兵役の対象とはならなかった在地の人々を中心に見張り要員程度の人数は在城していた可能性はあるとは思いますが。

■岡城
 一説によると太田道灌の太田氏が築城に関わったとも伝えられる城郭で、朝霞市の都市公園として整備されているもののその割には本郭、二の郭、折のつけられた堀切、数ヶ所の腰郭、斜面中腹の帯郭、物見台などがよく残されています。西側の城山通りからみた光景は清掃も行き届いており、丸太でできた階段などが施されているものの、すぐに城跡と判別できる風情があります。三の郭の一部と思われる小郭の西側のコンクリートで固められた公園部分を除けば、程よく保存整備されているのではないかという印象でした。

(エピローグ)
 岡城本郭の物見台の近く、落ち葉の集められた堆肥置き場のような所に、体重5K以上はありそうな老境にさしかかった年配の大猫が一匹ぽつんと日向ぼっこをしていました。近寄って会話を試みたのですが、かなり眠たげで薄目を開ける程度で殆ど無視されました(^^; 接近して写真を撮っても全く動じる様子も無く、終始同じ姿勢で置物のように座り続けていました。鼻の辺りに黒っぽい模様があるトラ猫の雑種のようでしたが、そのためになかなか迫力のある形相をした猫ではありました。


ひたすら物憂げなねむり猫



 こんな所が好きなようで、先ほどから全く動いていない。枯れ草の間からお尻が見える。



・2005年1月23日   道理で寒かった

 年度末になり予算の残額が欠乏しつつあり、取敢えず節約できる所からと、事務室の暖房をつけないでいます。今年に入って暖房を入れた日は1日だけです。とはいったものの一日あたり数百円の節減でどうなるものでもないのですが、一応経費の節減姿勢を示しておかないといけないもので。
 冬場でも日差しがあれば15℃ぐらいまでにはなるので、ガラス越しに結構暖かく何とか過ごせます。しかし、今日のように曇っていると室温も7℃ぐらいにしかなりません。暖房を入れようとも思ったのですが、一人しかいないこともあり、コートを着込み電気スタンドの余熱で何とか午後6時半まで持ちこたえました。帰宅しようと通用口から出たところ小雪が舞っていました。道理で寒いはずです。
 HP関係は、参考資料1冊追加とビジュアルインデックスを50音行別頁に変更。




・2005年1月22日    砂久保陣場、小室陣屋、河越氏館
           

プロローグ
 最近はどこに行きたいというよりも、訪城後のサイト更新のことも考えて訪城先を選ぶようになってきてしまいました。早い話が著名な城跡だと撮影写真の枚数も多量となり、全体の情報量が多く編集にやたらと時間がかかリ過ぎるわけです。加えて、昔から美味しいものは後回しにするという習性などもありまして。しかし逆に、全く無名な所だと極端に情報量が少なく、ページとしての構成が整わないだけではなく、それ自体が城館跡であるかさえ不明である場合さえあり、不詳の遺構だらけになってしまいその辺が難しいところですが。
 さて、今までの60ケ所程度の訪城とその後のサイトの更新の経験と自己の能力から考えますと、今後順調に訪城を継続し、かつサイトとしての情報の充実を図っていくには毎週2ヶ所から多くても3ヶ所程度の訪城としていきたいと考えています。そして、ほぼ一週間のサイクルでサイトの更新を実施していくのが無難なところではないかと思っております。
 更新予定個所の情報を十ケ所以上も溜め込んでしまうと、同時にストレスも溜め込みますし、もともと曖昧ですがどんどんと訪城の記憶が薄れていきます。事実、今までも少し時間を空けてしまうと自分で撮影したにもかかわらず、全く何の画像か思い出せないという事態も少なからずありましたので。また、当面訪城先も往復の所要時間も考慮して原則として、今のところ車で片道一時間程度の範囲で考えています。あくまでも計算上ですが毎週二ケ所ずつとすると一年で百ケ所、十年で千ケ所になるはずですが....遠大な目標になりますが取りあえずの目安として掲げておきたいと考えています。ま、どう見ても明らかに大法螺ですけど。
 そんな訳で益々マイナーな傾向に拍車がかかるという按配で、今回も自宅周辺の訪城となった次第です。

■砂久保陣場
 史上に有名な天文15年(1546年)の川越夜戦が行われたとされる上杉方が河越城包囲の陣を置いていたと伝えられる場所です。陣場跡とされているのは、稲荷神社の境内に川越市が設置した説明版があるだけの所です。
 道路を挟んで反対側にはダスキンの関係の営業所があり、周辺の住宅もだいぶ増えたようです。あまり以前の記憶がないのですが四十年以上前には雑木林と畑しかない場所に、ぽつんと稲荷神社があったように思います。あくまでもこの一帯に上杉方が陣を置いていただろうということで、明確にこの場所に本陣があったということでもないと考えられます。
 もちろん具体的な遺構はありしませんし、五百年前には畑はおろか一面の茅などが茂る草原と僅かにコナラ・クヌギ・アカマツなどの疎林が点在するような風景ではなかったのかと思われます。ちなみに雑木林というのは中世からの入会地や近世の新田開拓により薪炭林として、有機肥料の原料、民家の建設資材を調達するなどのために人手を介して管理されたていたものが多く、いわゆる原生林というのは少ないとおもわれます。
 「みよしほたる文庫2 人と緑の文化誌」によると古代・中世の武蔵野台地は、鉄道や道路工事の際に地形の断面に古い大木の痕跡が認められないことから草もまばらな大地平であったという推論もあるようです。そこまではどうか分かりませんが、川越市の設置した説明版のように何れにしても荒涼たる無人の野原が広がっていたものと思われます。
 しかしこの場所にたどり着くまでに、もともと道路幅員が狭いところに加えてあちこちが工事中で右往左往してしまいました。

■小室陣屋
 徳川氏の旗本水野多宮守重の陣屋跡といわれているが、所在地はJR川越線の西川越の駅に近い法心寺の付近であるという。周辺をうろうろと歩き回ってみたが農業用水の水路以外にはこれといった遺構を認めることができませんでした。
 徳川氏の旗本の陣屋は新たにこれを設けるというよりも、支配者の政権交代という折柄の政情不安の下、帰農した後北条家の家臣、在地領主が多い中のことです。いたずらに被支配者であるそうした村人の負担を増やすのは得策ではないと考えられ、既存の後北条氏時代の館跡などを活用することも多かったのではないかと思います。この地域は河越城代を務めた大道氏などの一族の居館であったのではないかとも考えますが、具体的な根拠は全くありません。どうにも仕方がないので、秩父の山並みの写真を撮影したりして時間をつぶしていました。

■河越氏館
 有名な観光名所の川越城ではなく、国の史跡に指定されている中世初期から南北朝期にかけて活躍した入間川沿いの上戸に所在する河越氏の館の方です。館跡の南東には時宗常楽寺があり、目立つ遺構は西側の土塁と北側に一部残る土塁ぐらいです。あとはモグラが活発な活動をしているようで、あちこちに顔を出した跡がありますが一応整備された草原が広がっています。また現在北東部分で発掘調査が行われています。
 文治元年(1185年)河越重頼は源義経の義父であることから源頼朝に誅され伊勢国の所領も没収されてしまいます....いかん、大河ドラマの中に出てきそうだ....マイナーの路線から外れてしまう。しかし、河越荘を中心にしてその後勢力を盛り返しますが応安元年(1368年)の武蔵平一揆の乱で鎌倉公方方に敗れ衰退していったということです。
 しかし国の史跡の指定を受けている割には、西側の土塁の隣がゴルフ練習場であったり、車がすれ違うたびに土塁が削られていったり....大体自分の車を止めた場所自体が元土塁の一部のような気が。

エピローグ
 入間川にかかる川越橋の上からは一週間前よりもはるかに雪化粧の濃くなった秩父、奥多摩の山並みが一望できます。周辺には殆ど遮るものもなく、歩道のスペースなども十分にとってあるので冬の時期はそうした山並みを眺望するにはもってこいのポイントのようです。難点といえば遮るものがないのでやたらに風が冷たいのと、大型車が通過するたびに一瞬地震かと勘違いするくらい微妙に橋梁自体が振動することでしょうか。
 この橋の袂の両側には三十六歌仙の歌碑のプレートが埋め込まれたりしていて、それなりの風情もあります。真冬とはいえ穏やかな南側からの日差しに入間川の水面がきらきらと輝く様子がその趣を増しているように見えました。




・2005年1月17日    古尾谷氏館と寺尾城
           

 さて相変わらす怠惰な城蹟めぐりの一節を。起きた時間はすでに十時過ぎ。目覚ましは一応7時30分。土曜日の親類の法事と昨日の出勤でどっと疲れが(^^; 目指すは予定通り河越氏館以下4か所。国道254バイパス、国道16号を横断するので近い割には時間がかかる。おまけに道路工事によりあちこち通行止めで。うむ、確実に景気は回復基調に。
■最初の訪城は古尾谷氏館
 昨日一夜漬けで調べたら古尾谷氏=古谷氏という事実を始めて知った次第。城館跡の所在地は当然古谷上とある。地図で調べると南古谷の北の方、16号の北側。地図で見る限りどう見ても迷路状態。いってみたらやっぱり迷路。堀の内の地名の通り四方が水路で囲まれている。その場所に行くには道はたった一つの模様。後で地図をよく見てみると、そのまま方形館の外堀が用水路に(^^;
 城館跡は善仲寺境内。墓地の拡張といういやな予感も杞憂に。墓地の北側には低いながらもしっかりと土塁が。ただし裏側は水路のため、しっかりとコンクリートの擁壁が。東側には高さ2mの土塁も一部残。(古墳かも)堀跡は一部を除きコンクリートの工事が。西側、南側の堀跡は往時の面影も散見。元々期待しない訪城なので、望外の収穫が。
■寺尾城
 場所は新河岸川南岸、堤防からの比高4m。日吉神社境内そのもの。有名な後北条・上杉の河越夜戦に関連する遺構らしいが。しかし、詳細は不詳の部分が多い模様。新河岸川堤防から見る遺構は、小規模だがいかにも城跡らしい光景にて予想外の収穫。
 この時点で時刻はすでに1時半過ぎ。自宅に3時半まで戻る必要があり、この2か所のみの訪城となった次第。
 出かけるときに隣の市の商店街を通過したのだが、街路灯に細長い棒の先に球状の小さな飾りがついたディスプレイが設置されていた。今までならば気にも留めず見過ごすところだが、職業柄それが繭玉飾りであることに気がついた。豊作を願う餅花と養蚕の蚕の成長に対する願いが結びついた小正月から節分あたりまでの風習・年中行事の類だそうだが、総プラスチック製というのが何とも。このあたりでは上新粉を水で練り団子状にしたものを食紅などで着色し、柳などの枝にさして作るようである。
 2日間の霙模様で、秩父の山並みはすっかり雪化粧の様相を呈していた。




・2005年1月16日   弔事が続く

 この年代になってくると「葬式関係」のお付合いが多く、寒さのせいか今年既に2件目となってしまいました。昨日は享年75歳の父方の従兄弟で、最期は病院で四ヶ月寝たきりの状態だったようです。去年の四月から数えると既に九件目ぐらいになりますが、このようにしてだんだんと自分の番が回ってくるのだと思うと妙に納得できます。
 土日連続の雨で訪城できませんが、HPの整理はお陰で捗っています。一昨日、有り難いことにアクセス件数が五千件を超えました。ご覧いただいた皆様方に衷心より感謝申し上げます。HP立ち上げたときは先行き全く不透明でアクセス件数もなかなか四桁に届かなかったのですが、最近は何とか順調にアクセスもあるようになってきました。やはりアクセスのあると無いとでは、ホームページの更新作業も力の入り方が違ってきます。
 明日は天候が回復すれば、一週間ぶりの訪城へ。




・2005年1月13日   誕生日の翌日

 この年代になってくると「誕生日」は冥土のたびの...の様相を呈してくるので少しも嬉しくないが、周りが全然気にしないとやはり寂しい(^^;
 MAP FANのリンクサービスをテスト的に導入してみました。以前から課題の一つではありましたが、大きな問題がないようならば、可能な限り案内図のリンク表示を導入しようと考えています。
 ただ、該当地が完全な宅地である場合については、お住まいの方のプライバシーとご迷惑を考えると、できるだけ縮尺の分母が大きい大まかな地図にしなくては....でもそうすると一般的には不親切だし....けれども、該当個所が住宅地の場合には原則的に案内図は掲載しないほうが....そうなるとHPの掲載自体も....(^^;




・2005年1月10日   成人の日

 自分も年取るわけで3番目の子どもが20歳になってしまった。妙なこだわりがある性格が父親そっくりで、似て欲しいところが似てない(^^;
 HPの訪城数も何とか60を超えましたが、3月末までに何とか100ヶ所に到達できればとHPに表示し、カレンダーに計画を書き込んでみたものの、資料・写真の整理やHPの更新を計算に入れると90ヶ所どまりという所でしょう。
 藪の多い場所は今のうちで、暖かくなってきたら近県も含め整備された城址公園のようなところに足を伸ばす...真夏は行ける場所が限られるため、1年間で150ヶ所も訪城できれば良いほうかも知れません。
 遠大な計画として10年間で1000ヶ所を目指して行こうと思いますが、はてさてどうなることになるのやら....あくまでも計画ですので(^^;




・2005年1月8日   下広谷の諸城
           

■プロローグ
 大堀山周辺の残りの遺構めぐりということで一昨日に続いて当地に。今回は一昨日の反省から、きちんと午前10には出立したので、途中の渋滞も殆どなく10時45分には現地に到着し、入手したメモ用のボードを片手に訪城へ(^^)

■広谷北城
 一昨日訪城した時には天候と時間の関係で、余り林の奥の方は探索できませんでしたので、今日は遠慮なくどんどんと奥のほうまで分け入っていきました。
 最初は堀の規模も水の量も、そんなに大したことは無かったのですが、整形外科の敷地の西側の裏手と運送会社の敷地の境辺りはかなりの規模の堀が残っています。もちろん、伐採された樹木がそのままになっていたりしていて、あまり見栄えは良くないのですがそれでも幅3間以上、深さ2mの規模を残しています。ただ、ここまで到達するのには3ヶ所ぐらいの湿地帯となっている堀跡を通過しないといけないことと、ある程度「藪こき」が好きでないと難しいようです。
 また、形態的に当時のものかどうかの確証がありませんが、ちょっとした池のようになっている水濠も残されており、黒々とした水をたたえて深さも不詳なようで、やや不気味な気配さえ漂ってきます。この一帯は大堀山の北側を流れる小河川の水源地帯の低湿地帯となっているようですので、まとまった雨が降った跡は奥まで入り込むことは難しいというよりも多少の危険が伴います。したがって、晴天が続く冬場が最適ではないかと思います。大堀山周辺の訪城の節には、是非とも立寄ってみる価値はありそうです。ただこの僅かに当時の雰囲気を伝える遺構が、何時まで存在できるのかが非常に気になる所です。

■大堀山館
 いくつか確認したいこともあったので、ことのついでに再訪城。
)迷Δら入るときには外堀の上にあるプレハブ小屋の左側から進むのがベストであること。
⊆膤圓了津擇ある部分は西側の内堀の手前で、西側の内堀自体は辛うじて残されていること。
K姪貮分の外堀のコーナーの状態は本応寺の墓苑の拡張によって狭められてはいるものの、それなりにきちんと残されていることを確認。
づ貘Δ粒伊戮魎泙狠殞咾涼罎里笋篳雑な縄張りの確認。
コ伊戮遼迷Δ糧庄澤舛療變櫃侶梗个塙發気覆匹竜模の確認。
以上の諸点について確認しましたが、土塁を下るときに木の枝の冬芽を掴んで左手の指を少し負傷(^^;

■広谷宮前城
 一昨日は悪天候のため途中撤退を余儀なくされたましたが、今回はほぼ全容について掴むことができました。一昨日闇雲に回った辺りは、結果的にはおおむね遺構の所在地であったことが確認できました。
 いずれにしても、遺構がぱらぱらとあちこちの場所に分散しているので、探すのに骨が折れることは確かですが。この場所も多分霊園関係と思われる開発のために、伐採され整地造成が始まっていました。このため残念ながら、比較的状態の良さそうな遺構の東側の部分も一部破壊が進行中です(^^;

■ 下広谷の不詳の遺構
 不詳の遺構の一つですが、結構多くの方が訪れているようです。以前目印だった北側のグランドは畑に戻っていますので、訪れる予定の方はご注意を。
 また、この場所は地理的に大堀山や広谷北城の南方に所在しているために広谷南城と間違われる場合があるようで、大堀山を別としてこの一帯の遺構の名称のややこしいこと...

■ 下広谷の不詳の遺構
 取立てて遺構という程のものではないのですが、広谷北城の南側の杉林の中に南側を除いて三方向に空堀が走っています。堀の深さは60センチから1m程度ですが、北側にはクランク状の折も見られるので、間違っても自然の水路ではありませんし、畑の畦堀でもありません。堀の長さは西側の直線部分で50メートルほどでしょうか。杉林の南側には新しい住宅が分譲されていますが、空堀の消滅している状況から見て、以前にはその辺りにも遺構が及んでいたように思えます。もちろん広谷北城と100メートルも離れていないこともありますので、その一部とも考えられますがどんなものでしょうか。

■宮廻館(広谷南城)
 いやすごいのなんのって、何がすごいのかというと竹薮が....(^^; 進退窮まるというのはこのことで、多少の藪は気にならないのですが、さすがに東側への踏査はできませんでした。今日は風は冷たいものの冬晴れの上天気であるにもかかわらず、竹薮の中は薄暗くびっしりと竹が密生していて人の入りこむ隙間が....(^^;
 おまけに遺構の北側の半分以上は工業用地と思われる造成工事によって完全に茫漠とした更地となり、土塁が途中で切断された跡が痛々しい様子を見せていました。

■エピローグ
 写真を撮るとき両手が必要なので、北風が多少強かったこともあり、購入したメモ用のボードは大いに役立った一日でありました。やはりこの地域で何とか生き残れるのは大堀山だけなのでしょうか。
 今日は遺跡の破壊の跡と破壊進行中などの光景を随分と目にしたために、5ヶ所をウロウロと回ったことと合わせてどっと疲れが....(^^;
 年も明け日没の時間は少しずつ遅くなってきたように思いますが、おおむね写真撮影に西日は天敵です。
 帰りの車の中で、強めの北風が竹林の竹と竹とを拍子木のように「カーン、カーン」と甲高く打ち鳴らす音が、何時までも耳のなかでリフレインしていました。




・2005年1月6日   大堀山館と広谷北城
           

 ■プロローグ
 振替の休みをもらって入念に下調べをしたつもりになって、向かった先は川越市の「大堀山館」。確か、所沢市の「滝の城」に寄ってから向かったように記憶しています。実はこの城跡は昨年の5月末に一度来ていますが、そのときは5月の終わりとはいえ記録的な暑さで30度を超えていました。思えばそれが、城跡めぐりの彷徨の始まりでした。
 その頃は資料といえば、ネットで集めたものだけでそれでさえろくに理解できないとい、とりあえず土塁と空堀の区別がつくというぐらいの非常にいい加減なレベルの予備知識でした(^^; ま、そういう状態でしたので、5月下旬ということもあり、神明社の場所までは行けましたが季節柄藪が酷く、暑さと虫さされのため緊急退避を余儀なくされました。
 さて、では今回はいくらか進歩したかというと、さに非ず。目覚ましを7時に合わせたのが裏目に出て、起床時間が早すぎたため、ぼーっとした意識でま〜だ時間があると...Zzzz..完全に正月モードから抜け出ていない頭と体。二度寝をしたため寝坊をして、ぱっと目が覚めたらもう午前11時前に。午前9時には出かける予定がこの有様。慌てて食事をして午前11時30分に出立という体たらく。おまけにメモを書くときのバインダーを「キャンドゥ」に寄って買いにいったらこれがない....。このようにして、現地の大堀山館前のローソンの駐車場に着いたのは途中の渋滞もあって12時40分(^^;

■大堀山館
 気を取り直していざ大堀山に。ローソンの東側の日蓮宗本応寺別院の北側の細い道からアプローチ。もう5日も経ったのだから、いくらなんでも雪はすっかり解けては....いなかった。南北に林に囲まれた道路なので日差しが当たらないらしく、ガリガリに凍結していました。
 100mほど進むと右側にプレハブの倉庫があり、左側にも次第に廃墟と化しつつある住宅が1件。そのプレハブの倉庫に分断されていましたが一番外側の北側の空堀が道路からでも東西に確認できます。堀自体の深さは1m強程度ですが幅は5間以上もあるような規模です。
 この時期であるにもかかわらず、全体として結構藪があり南側から迂回しようかとも思いましたが、外側の東の堀を確認後東西の中間地点を強行突破。これは結果的に成功で、中間の堀にある土橋も確認できましたし、遺構全体の中で堀跡については、中間部分が最も状態が良いことも自分の目ではっきりと分かりました。早い話、明確な遺構に対面してあまりの嬉しさに中間部分の堀は水のある南側を除いて1周半した訳ですけど(^^) 中間部分の堀は深いところで4m近くはありますので、埋まっている表土などを取り除けば5m以上になるのではないかと。
 ただ、意外に思うこととしては北側の外側の堀の道路を挟んで反対側にある半円形の半径10mほどの馬出の遺構があります。これについては「川越市史」では掲載されていますが、「埼玉の中世城館跡」などでは掲載されていません。確かによく注意して観察しないと分かりにくいことは確かですが、完璧な半円状の形態が保たれているのが奇跡的ですし、見落とすということも余り考えられないので実に不思議な気がします。
 このあと東側の広谷宮前館に向かいましたが、またもや少し見当違いをしてパイオニアのグラウンドをぐるっと迂回しているうち霙がぱらぱらと。このため、遺構らしきものを確認しつつも、ローソンの車まで緊急撤退し遅めの昼食を。

■広谷北城
 さて、霙が本格的にはならなかったので、すぐ近くの広谷北城を訪城。場所自体は昨年大堀山を探していた時点ですでに何らかの遺構であることを確認していましたので、全く問題はなかったのですが。現在は南側も広く伐採整地され、遺構として確認できるのは北側と南東側の堀の一部ぐらいになってしまいました。確かに遺構としての広さは大堀山を凌ぐものが推定されますが、残念なのは何と言っても殆ど遺構が消滅しつつあるという現実です。周辺では工場を含む宅地開発、産業廃棄物の集積場、墓苑の開発なども少なくなく、それだけに大堀山の遺構の状態の良好さはまさに奇跡的であるといっても良いと思います。

■エピローグ
 午後3時過ぎまで粘りましたが、霙模様も一進一退ということもあり、本来5ヶ所を訪城する予定が、寝坊のために2か所で終了してしまった悔いが残ります(^^; 帰路は川越市内が以上に混雑しており、予想以上の時間も費やしましたが、帰り際に「ダイソー」に立寄りメモ用のバインダーを購入。少々やけになって5点も買ってしまいました。しかし、プラスチック製なので今回のような天候の時にはちょっとした傘代わりにできるのだ、と無理やり自分を納得させた一日でした。




・2005年1月5日   ネコの特技くらべ

 「ポミ」と「ちゃっぴー」は、よく考えたら義理の従兄弟に当たるわけです。「ちゃっぴー」は子ネコのときから引き戸を開けるのが上手で、息子の会社の社宅に用事で訪れると、本人は不在でもよくガラス戸の引き戸を器用に開けて「にゃー」と顔を出したことを思い出しました。これは特技になるのだろうか....重いガラスのサッシュはあけられないそうですが、いまだに網戸などは上手にすうっと開けるということでした。
 久しぶりに「ちゃっぴー」の顔をまじまじと見てみたのですが、当時の面影が口元辺りによく残っているのが分かりました。元の飼い主の方はというと、彼此1年以上も会っていませんが元気でやっているのでしょうか。
 さて、右の写真のポミの方はというと、これがなかなかじっとしていてくれません。とにかく写真に撮るのが相当に難しいわけなのですが、今日は珍しく大人しくしていたのでなんとか撮影範囲に収まりました。(^^;
 テレビの夏目漱石のドラマを不思議そうな顔をして見ていましたが....あっ、そうか、「吾輩は猫である」だからか....ま、ポミのほうの特技はテレビ好きということで(^o^)


ストロボが眩しいので

テーブルの下がお気に入り

爪とぎも大好き

娘は美ネコだというが



・2005年1月4日   仕事始め

 年末から6日間も城めぐりもせずに、ひたすら怠惰な生活をしていたので明らかに太ってしまった。家内の実家にいる息子の元飼ネコも相当太っていて顔の輪郭がグレープフルーツ状態だったが、親父のほうもそれに負けないぐらいに頬っぺたの辺りが肉がついて顔の形が変わってしまった(^^;
 ま、動き出せば元に戻るんですけど、只今体重86圓覆里如△△硲喚塒遒箸気覆ては.....ということで、職場で雪の片付けの真似ごとを....体重が落ちる前に、筋肉が笑い出しましたけど(^^;




・2005年1月2日   人見知りしないネコ

 新年の挨拶に小川町の家内の実家へ出かけました。本来は元旦に行くつもりでしたが、降雪のため道路事情が思わしくなく本日になったという次第です。
 やはり予想したよりも、埼玉県の中西部は降雪があったようで降雪の2日後でもまだ、10cm以上残っていました。道路上の雪も太陽が当たっている部分は問題ないのですが、日陰の部分はガチガチに凍結している所もあり徐行運転を余儀なくされました。結果的に昨日は出かけなくて正解でした。
 家内の兄弟関係は昨日集まったようで、特に何かすることもないのでネコの写真でも撮ろうということに(^^;
 このネコは元々息子が飼っていたのですが、引越しのため2年ほど前に小川町の家内の実家に引き取ってもらったという経緯があります。本当は兄弟のもう一匹の黒ネコもいたのですが、環境の変化に順応できず、懐かずにどこかに行ってしまったようで音信不通となってます(^^;
 一方このネコは、全く正反対に以前からやたらと人懐こい性質で、人の様子を窺うなどということは全くしない猫でした。このため近所でもずいぶんと可愛がられていたので、義母が亡くなった後も隣の家の方が自分の家のネコのようにして面倒を見ていただいています。
 ゴキブリとネズミを捕るのが得意で、褒めてもらおうと「ほら、つかまえたよ」と人の前に持ってくるので、ネコ嫌いでネズミに対してトラウマのある家内はなるべく近づかないようにしているらしい。
 しばらく見ないうちに大きくなって、娘のネコのポミに比べて3倍ぐらいの大きさはあります。現在、近所のネコとけんかして左目のまぶたを負傷療養中(^^;
 帰途は路面凍結すると危ないので、早めに失礼しましたが帰りの東松山の国道254線で、ライトバンが1台雪のため横転して車線を塞いでいたため片側通行となっていました。明日の午後辺りまで運転には十分注意したほうがよさそうです。


ネコのちゃっぴー

娘が一番ネコ好き

右端はネコ嫌いの家内

体長約55cm、体重4K

どこでも熟睡



・2005年1月1日   元旦

 さて、また新しい一年が始まってしまった。されとて取り立てて変わったこともなく、もうじき誕生日が来るのでまた年をとることになるだけで....(^^;
 昨年訪城した分は、年末の降雪のおかげで訪城できなかったので全て整理が終わり、だいたいホームページの更新を完了しました。しかし、再訪した分がまだ数ヶ所残っていて早めに整理しておかないとどんどん記憶が薄れていく....
 それは別として、新年は川越市あたりから攻略していこうと、元旦の夜に決意しました....というほどのものでもないか(^^;



 
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