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新田義貞  NF


1 はじめに

 鎌倉幕府を直接滅ぼし、一時は足利尊氏のライバルとして武家の棟梁の地位を争った新田義貞。群馬県の「上州かるた」では「歴史に名高い新田義貞」とうたわれ地元民の誇りである事が伺われる。しかし尊氏や後醍醐天皇の影に隠れる形になり存在感は一般的に薄い。戦前の皇国史観においては忠臣として顕彰されたものの楠木正成と比較して扱いは小さいものであった。戦後になると義貞の待遇は更に悪化し、時には暗愚の将としての評価すら見かける事もある。そこで今回は彼の名誉回復を図ってみたい。

2 新田氏

 新田氏は上野国新田荘に拠点を持つ関東の御家人であり、源義国(義家の子)の長男・義重が新田荘の下司職となった事に始まる。因みに弟・義康は足利氏の祖となっている。
 治承四年(1180)、源頼朝が挙兵した時点では平氏に服属しており、頼朝を討つためと称して領国に帰り兵を集めた。しかし頼朝と戦う訳でなく、臣従する訳でもなく中立的立場を保って日和見を決め込んでいた。そして北関東での頼朝の優位が確立した同年十二月になって初めて鎌倉に参陣、その出処進退のため頼朝から叱責された。また、頼朝が義重の娘を側室にしようとした際、政子の怒りを恐れて応じず頼朝の怒りをかっている。そうした経過もあって義重は頼朝から冷遇される事となった。ただし、義重が死去した際には「源氏の遺老、武家の要須」であるとして将軍・頼家が蹴鞠を慎んだと言う話もあり一定の敬意は払われていたようだ。
 その後も新田氏の受けた待遇は恵まれていたとは言い難い。四代目の政義は京都大番役中に無許可で出家し所領没収されている。しばらくは分家の世良田頼氏が代わって新田一族を代表し出仕していたが、執権北条時宗とその兄・時輔の争いに巻き込まれ連座で処罰されている。その他の新田氏惣領に関しては明らかな事績が知られていない。先祖を同じくする足利氏が代々北条氏と縁戚関係を結び鎌倉政権下で有数の有力者となっていた事と比較すると雲泥の差といえる。
 そうした中で新田氏は地方豪族として新田荘・八幡荘を拠点として周辺に勢力を伸ばしていく。東北に額戸氏、東南に里見氏、西南に世良田氏と山名氏、南に岩松氏などの一族を配して現地支配を固めていき、越後にも一族は勢力を扶植していった。新田荘周辺は渡良瀬川による扇状地で、周辺の湧き水を水源とする農耕地帯であった。東には八王子丘陵があり、更に東には園田御厨がある。こうした地形は新田一族を素朴な騎馬戦士として鍛錬する事となった。北の鹿田天神山からは良質な凝灰岩が産出され、この地域における石材供給源として大きな利益を上げていた。また東山道が通っており、貢馬・石材の運搬路として、また軍用路として重要地点であった。新田一族の菩提寺である長楽寺がある世良田は門前町として周辺の商工業者を集めていた。また、家臣の長浜氏・由良氏は武蔵・上野国境地帯である武蔵国長浜郷に拠点を持っていた。その地域は鎌倉街道が甲斐・信濃方面と越後方面に分かれており、東を神流川・北を烏川が流れ軍事上の要地であると共に水上交通でも重要地点であった。そうした交通面での重要性から長浜郷では朝市が設けられていた。新田氏は一地方豪族ではあったが、商工業が台頭する中で収入源を確保し経済的にもそれなりに豊かであったと言えそうである。
 義貞は、第十代目・氏光の子として永仁元年(1298)から正安二年(1300)の間に誕生したと言われている。若い頃の事跡については殆ど知られていないが、文保二年(1318)に八木沼郷の田地を売却した事が文書から判明している。この当時の新田氏の経済的苦境を表しているとも言われるが、長楽寺再建のための臨時資金が目的であり必ずしも貧困とはいえないとする説もある。因みに長楽寺再建の際には新田一族のみならず周辺の御家人からの出資も受けている。
 新田荘に隣接する渕名荘は得宗領であり、義貞が得宗家臣・安東聖秀の姪を正室に迎えているのは得宗との関係が重要となっていた事を示唆している。

3 時代情勢

 12世紀末の鎌倉幕府の成立以降は西を朝廷が、東を幕府が支配する形が出来上がっていた。そして承久の乱の後は幕府の優位が確立される。そして元寇を契機にして防衛のため西国・非御家人にも幕府は支配を及ぼすようになった。更にこの頃、皇室は後深草・亀山兄弟の嫡流争いを基に持明院統・大覚寺統に分裂し、幕府の調停を仰ぐ。そうした中で幕府の権限が強化され、国司の権限であった田文作成が守護の手に移り土地把握力が低下。一方で幕府は朝廷内の争いに巻込まれた上、西国の商業発展やそれに伴う「悪党」即ち武装した非農業民の台頭に悩まされる。それに対応するため幕府の首班である北条氏は一族の総領(得宗)の下で専制傾向を強化する。しかしこれは将軍体制化にある御家人達の反発を買うこととなり、更に朝廷や非農業民の不満も一身に負う様になった。時の得宗・北条高時の力量不足もあり政治混乱の兆しが見え始める。一方非農業民も日本を背負える程の実力はまだなく、一朝事あれば乱世に突入すると思わせる状態であった。
そうした中で14世紀前半に大覚寺統から即位した後醍醐天皇は親政を行う中で鎌倉幕府の打倒を目論むようになる。傍流であった己の血統に皇位を受け継がせ、皇位継承に干渉する幕府を倒し天皇による専制政権樹立を志向していた。元弘元年(1331)、後醍醐は挙兵し笠置山に篭ったが幕府の大軍により陥落して捕らわれ、持明院統・量仁親王(光厳天皇)に譲位した上で隠岐に流された。しかし、後醍醐の誘いに応じて河内で挙兵していた楠木正成は元弘三年(1333)に幕府軍を翻弄した上で金剛山の千早城に篭る。威信を傷つけられた幕府は大軍でこれを囲むが攻めあぐねた。これを受けて、かねてから幕府に不満を抱く豪族が各地で立ち上がる。彼等はこの頃盛んになった商業を背景とする新興豪族やかつて幕府に敵対し不遇に陥った地方豪族が中心であった。

4 義貞起つ

 義貞は、幕府軍が楠木正成の篭る千早城を攻めた際にその「搦手衆」の一員として里見氏や山名氏と共に参加していた。その際、義貞は幕府軍の苦戦と威信低下を見て取り、実質的に討幕軍の総大将であった護良親王(後醍醐の子)を経由して綸旨を獲得したと「太平記」は伝える。戦いが持久戦となり国許の不安から帰国する者たちも現れる中、それに混じって決起する準備をし時期を待つため彼も新田荘に帰った。
 時を同じくして、鎌倉はかさむ戦費を調達するため関東各地から有徳銭の徴収を行っていた。義貞の下にも紀親連・黒沼入道が派遣される。新田領は長楽寺門前町の世良田を抱えており上野における経済の重要地であったため、戦費負担が期待されたのである。義貞は二人を捕え、黒沼を斬った。これは幕府への反逆行動を意味しており、これを切っ掛けにして倒幕派として挙兵するに至る。時は元弘三年(1333)五月八日、生島明神で義貞は弟・脇屋義助をはじめ一族である大館宗氏・堀口貞満・岩松経家・里見義胤・江田光義・桃井尚義ら150騎と共に決起した。神前での同志の誓いを表す一味神水を行い新田の家紋・大中黒(円の中に太く一文字)の旗を掲げ綸旨を拝した上で東山道を西に出て上野の中央部に進撃した。八幡荘に来たところで二千騎が合流。これは里見・鳥山・田中・大井田・羽川など越後在住の新田一族による軍勢で、「天狗山伏が触れ回ったため駆けつけた」と言われている。恐らくは挙兵に当たって修験者を密使として利用してかねて示し合わせていた一族と連携したものであろう。越後は修験道の本場であり、修験者は行動しやすい環境であったと思われる。更に、甲斐・信濃・越後から豪族が約五千騎を率いて加わった。最初に義貞が西に向かったのは彼らとの合流が目的だったのである。もう一つ、上野中央部の北条方に圧力をかける狙いもあったであろう。そうした目的を果たした上で、新田軍は鎌倉へ向けて南下を始める。

5 鎌倉攻め

 さて、新田の挙兵を受けた鎌倉方は迎撃体制を整えていた。十一日に金沢貞将が下総・下河辺荘方面に出陣し東関東を抑えると共に側面から新田の背後に回りこもうと図っている。新田軍の正面には桜田貞国・長崎高重らが入間川方面に進軍し迎え撃たんとしていた。五月十一日、小手指原(所沢市周辺)で両軍は遭遇し合戦となった。新田勢が以外に大軍である事に用心して北条方はす住まず守りを固め、新田軍は入間川を渡り攻勢に出る。戦闘を三十回以上繰り返すものの決着はつかず双方痛み分けで一旦陣に引き上げた。翌十二日、夜明けと共に義貞は再び攻撃をかけ、北条方は軍勢を広げて迎え撃ち新田軍を包み込もうとする。一方で新田は固まって突破を図り激しい戦闘の末に新田軍が鎌倉方を打ち破った。
 同じ頃、世良田で足利高氏(後の尊氏)の嫡男・千寿王(後の義詮)が挙兵していた。同じ源氏でも義貞と違い幕府有数の有力者であった高氏は、畿内への援軍の将として出陣していた。しかし五月七日に後醍醐方に寝返り、京の幕府拠点であった六波羅探題を落とした。有力者ゆえの粛清への恐怖や天下への野心が足利氏挙兵の動機であったと言われる。これに先立って千寿王は家臣・紀政綱に伴われて鎌倉の屋敷を脱出、世良田に逃れて挙兵したのである。新田の重臣である船田氏に紀氏出身者がおり、その縁を頼ったものと思われる。千寿王が新田軍に合流したのが五月十二日の事であった。名門・足利氏の嫡男が参加した事で馳せ参じる豪族も増加、軍勢は更に膨れ上がる結果になった。義貞と共に挙兵した岩松経家には事前に高氏から命令書が与えられており、一説では経家と義貞が同格の大将であったとさえ言われる。挙兵時期がほぼ同じであった事もあわせて足利・新田の連携が緊密であった事をうかがわせるが、同時に新田氏の勢威が足利氏の足元にも及ばない現実も明らかにしている。同時代の記録である「増鏡」「神皇正統記」は義貞を高氏の一門としか認識しておらず、千寿王を大将として義貞が代官を務めたと見る向きさえあったのだ。
 五月十五日、今度は北条泰家(得宗・高時の弟)率いる一万余騎の軍勢と分倍河原で衝突。北条軍はまず三千の射手を前面に立てて矢を激しく射掛けたため、新田軍は進めず立ち往生する。そこに北条方の騎馬戦士が攻撃をかけた。一方、義貞は精鋭を選抜して自らこれを率い敵中に突撃をかけるものの及ばず、一旦堀重に退却した。しかし勝利した北条方も少なからず損害を蒙っており追撃する余力はなかった。引き上げた義貞の下に三浦義勝が六千の軍勢と共に合流、再戦を進言した。義勝は足利氏の執事・高一族から養子に入っておりその縁で寝返ってきたものである。翌日、先陣を務めた三浦軍は敵への至近距離まで旗を立てず声も上げないで接近し北条軍に奇襲を仕掛けた。前日の激戦で疲労していた北条方は不意を疲れて混乱に陥り、そこへ義貞本軍が突入して泰家らを敗走させた。
その後、義貞は味方の一手を下総の千葉氏・小山氏と合流させるため別働隊として派遣。十七日には村岡合戦で北条方の反撃を受けるが大勢に影響は見られなかった。同日、下総方面に向かった金沢貞将の部隊が鶴見で敗北。時を同じくして畿内での六波羅探題滅亡の報が入り、鎌倉方は意気消沈すると共に新田・足利軍の士気は天を衝かんばかりとなった。
軍の再編成を経て十八日に新田軍は軍勢を三方向から鎌倉攻撃に入る。大館宗氏・江田行義の率いる一万が極楽寺方面から、堀口貞満・大嶋守之の一万が巨福呂坂方面、義貞自らの数万が化粧坂方面から攻撃をかけた。一方、幕府方も極楽寺方面に大仏貞直の五千、巨福呂坂に赤橋守時の六千、化粧坂に金沢貞顕の三千を配置して市街地に後詰として一万を控えさせていた。鎌倉は三方を山・残りを海に囲まれ、通路は狭く切り立った要害である。幕府方は街道に逆茂木を備えて防御し、海には軍船を浮かべて守備を固めていた。同日に新田軍は各所に放火して攻撃を開始。巨福呂坂方面の赤橋守時が激戦の末に自害しまずこの方面が突破された。守時は執権(幕府執政)の地位に就いてはいたが実権はなく、妹が足利高氏の妻となっていたため寝返りの疑いを一門からかけられていた。そうした憤懣を込めての奮戦であり最期であったろうと思われる。
一方、極楽寺方面では一旦新田軍が突入に成功するものの大仏勢に押し戻され指揮官の大館宗氏が討ち取られる事態になった。そこで義貞は二十一日、自ら極楽寺方面に救援に向かった。その辺りの道は険しく、敵は木戸を構え逆茂木を作り防備を固めており、海からは水軍が矢を射掛ける構えを見せていた。「太平記」によれば義貞がこの時に黄金の太刀を海に投じて竜神に祈りを捧げ、それに応じて海が引いて大干潟ができ新田軍はそれに乗じて突破する事ができたと言う。尤も、恐らくは事前に干潮時刻を知って突破したと思われる。守る鎌倉方も干潮については知っていたであろうが、予想を超えた大干潟ができたとも言われている。或いは、味方の士気を高めるために干潮時刻にあわせて義貞がパフォーマンスを行った可能性はある。
こうして新田軍は鎌倉市街に乱入、高時ら幕府首脳・北条一門は東勝寺に逃れて防戦した。大仏貞直は最後まで持ち場を守り討ち死に。金沢貞将もその奮戦を高時に称えられ餞に六波羅探題職(既に六波羅探題はなく今や幕府自体が滅亡に瀕しており実体はない)に任じられ、それを冥土の土産として敵中に乱入し最期を遂げた。二十二日、激戦の末に高時ら北条一門283人は自害を遂げた。源頼朝による政権樹立以来、約130年の歴史を誇った鎌倉政権はこうして滅亡したのである。

6 建武政権の下で

 鎌倉を占拠した後、足利と新田の間で主導権争いが起こった。参加した豪族たちはどちらの陣営につくべきかを見定めていたようで、中には双方に着到状を提出した者もいた。義貞は勝長寿院を本陣として北条の残党狩りを行い、足利方は二階堂に陣を設けていた。京で治安維持に当たっていた高氏は配下の細川和氏・頼春・師氏を鎌倉に派遣し千寿王を補佐させ義貞に対抗させている。結局は家柄で勝る足利に参陣する者が多数となり、義貞は不利を悟り対立を避けて六月に上洛した。もっとも、無位無官の一御家人に過ぎなかった義貞に馳せ参じる者が決して少なくなかった事は倒幕戦で義貞が指揮官として卓越した力量を見せた証であろう。
 さて、京では後醍醐天皇が律令的古代帝国・中世王朝的官職一家相伝・幕府政治のいずれでもない、新しい政治体制を構想していた。中央では経済・警察などの主要官職に近臣を就けて天皇に全権力が直結する様に図り、地方では公領の徴税を司る国司と軍事・警察を担う守護の併置により分権・牽制をさせる。また、各国の寺社の支配再編にも意欲的であった。天皇が目指したのは商工業の力を利用した天皇専制による中央集権体制だったのである。勃興しつつある商業などを軍事・経済基盤にして政権を支えさせようとした。
 義貞は、その戦功を認められ従四位上の位を与えられ上野・播磨・越後国司に任じられた。また、長男・義顕は従五位上で越後国司、義助は駿河国司に任じられたと言われる。更に、新たに設けられた皇居警備を担う武者所において新田一門は主要な位置を占めた。五番編制のうち、一番に義顕・一井貞政、二番に堀口貞義、三番に江田行義、五番に脇屋義治(義助の子)が名を連ねている。足利尊氏(高氏から改名)が功績一番として篤く賞されてはいたが、危険分子として警戒されてもいた。そうした中で、屈強な東国武者を抱える新田一族は朝廷がそれに対抗するための武力として期待されていたのである。
 義貞は後醍醐天皇による建武政権下で、上野・越後において在地豪族の所領安堵や判決執行に従事し支配を固めようとした。越前には一族の堀口貞義を派遣し同様に勢力扶植に励んだのである。

7 尊氏との対立

 建武政権は早い段階から、その強引な政策や恩賞への不満から強い反発を生んだ。中でも、恩賞の問題は深刻で全国の豪族全てが満足するような処理は困難であった。しかも実務処理・裁判における混乱や経済基盤に不安を抱えていた天皇が側近・寵妃の名義で自身に土地を集中させた事も人々の不満に拍車をかけた。しかも、朝廷にはそれを押さえつけられるだけの軍事・社会的実力を備えてはいなかったのである。京の風俗・政権の現状を皮肉った「二条河原の落書」が出現したのもこの頃である。
 こうした中で足利尊氏と護良親王が豪族たちの指導者の地位を争って対立していた。尊氏は源氏の棟梁として再び武家による政権樹立を目論んでいたし、護良はそれを危険視して自身の下に豪族たちをまとめようと考えていた。後醍醐天皇は双方を警戒していたようであるが、護良を密かに支援して勢力で勝る尊氏を討たせようとした。楠木正成や義貞もこの謀議には一枚噛んでいたようである。しかし双方の勢力差は大きく、天皇は尊氏方による讒言もあって護良を切り捨て足利直義(尊氏の弟)がいる鎌倉に流罪とした。こうして尊氏は自らの対抗馬をまず一人葬り去ったのである。
 建武二年(1335)七月、信濃で高時の子・時行が挙兵し鎌倉に攻め寄せた。直義率いる足利軍が鎌倉を防御するも敗れ、北条氏残党が鎌倉を奪回する。それを受けて尊氏は直義救出のため無断で出陣し時行を打ち破って鎌倉に入った。そして尊氏は独断専行で論功行賞を行う。義貞の勢力圏である上野守護にも上杉憲房が任じられている。事実上の朝廷への反逆である。
 十月に入ると、尊氏から朝廷に義貞を弾劾し討伐を申し入れる旨が奏上された。曰く、@義貞は幕府の使者を斬った罪を免れるため尊氏の挙兵に乗じて蜂起したに過ぎないA義貞が苦戦する中で千寿王が参加し大軍となることで勝利できたB尊氏が北条討伐の苦心をしているときに策を巡らし讒言を横行させている、放置すれば大逆の災いとなるであろう、と。これに対し、義貞はすぐに反論し尊氏を非難している。@尊氏は日和見で、名越高家の討死を機に寝返ったに過ぎないA義貞挙兵は五月八日で尊氏は七日であり、京と関東の距離から言っても義貞が尊氏の挙兵を聞いて起った訳でないのは明らかB京占領後に京を専断し護良の従者を斬ったC鎌倉で将軍に奉じた成良親王を蔑ろにして専横D関東で乱鎮圧後の勅裁を用いていないE倒幕の功臣である護良親王を陥れて殺害した、という内容である。
 嘗て関東で見られた足利と新田の対立が再び表面化した。どちらの言い分を採用するかで朝廷の論議はしばらく揺れたが、結局は尊氏を討伐する方針で評議は決した。直接的には、護良の死に立ち会った女官の証言や直義名義での西国方面への義貞討幕軍督促状が決定打となったとされる。実際には、関東で自立の動きを見せ始めた最大実力者・尊氏に対し妥協するか対決するかが問題となり後者が採られたという事であろう。後醍醐の政治方針から言えば当然である。これを認めては何のために鎌倉政権を打倒したか分からない。
 十一月八日、義貞は朝廷から節度使に任じられ錦旗・節刀を賜った。ここに朝廷軍総司令官として尊氏を討伐する責任を負う事となったのである。護良親王亡き後となっては、尊氏への対抗馬を勤められる武将は家柄・実績から判断して、足利と並ぶ源氏の嫡流で鎌倉討伐の英雄である義貞しかいないと判断されたのであろう。また、朝廷としては尊氏や護良と比較して家柄・社会的実力に劣る義貞なら朝廷の威信を必要とするため操縦しやすいと踏んだとも考えられる。ともあれ、義貞はここで尊氏と対抗する存在として公式に認められた。朝廷軍は二手に分けられ、東山道を大智院宮・洞院実世らを奉じて江田行義・大館氏義が率いる一万の軍勢が、東海道を義貞自らが率い義助・義治や堀口貞満・綿打・里見・桃井・鳥山・細谷ら新田一族に加えて千葉貞胤・宇都宮公綱や大友・大内といった有力豪族も加わった数万の軍勢が東下した。

8 箱根・竹ノ下の戦い

 足利氏による政権樹立のために動き出し、当面のライバルとなる義貞との対立に踏み出した尊氏であったが、天皇を向こうに回して戦うことには消極的であった。尊氏は当初は出陣せず、寺に篭り出家して朝廷への恭順を示そうとした。自立への動きを見せた後としては余りに覚悟の足りない態度といわざるを得ない。そこで足利方は直義が上杉憲房・細川和氏・佐々木導誉らを主力に吉良・石塔・桃井・上杉・細川ら一族のほかに武蔵七党・土岐・小山ら有力豪族による軍勢を率いて出撃し三河矢作川に陣を布いた。
 十一月二十五日、義貞は矢作川西岸に到達。自陣側に馬を駆けさせられる間隔を空けた上で、砂州に射手を出し矢を射掛けて足利軍を挑発した。それを受けて吉良満義・土岐頼遠・佐々木導誉ら六千が渡河し新田軍左翼を攻撃。堀口・桃井・山名の五千がこれを迎え撃つ。高師直ら一万強は新田軍右翼に攻め寄せ、大嶋・糠田・岩松ら七千が迎撃した。両翼とも防戦する新田軍が優勢に戦いを進め、中央では仁木・細川ら一万が義貞の本隊七千に攻撃をかける。義貞は盾を隙間なく並べ密集して敵騎兵を受け止める。戦闘で敵に疲労から来る間隙が生じた一瞬を見て義貞は突撃を命令し、足利軍は崩れ立った。
 敗れた足利勢は鷺坂に撤退するが、今度は宇都宮・仁科ら先の合戦に加わらなかった三千の新手が奇襲をかけたため更に手越河原まで敗走し直義直属の部隊と合流した。十二月二日に義貞は手越河原に進出し、両軍はそれぞれ数万ずつの軍勢で日中に正面から戦闘、夜になり引き上げて休息を取った。夜が更けた後、義貞は弓の名手を選抜して藪の影を伝い敵陣の後方に回らせ矢を射掛けさせた。不意を突かれた足利軍は、これまでの敗軍で士気が下がっていた事と昼間の疲れもあり潰走状態となり伊豆国府まで撤退した。足利軍から新田軍への投降が相次ぎ、新田軍は一気に膨れ上がる。義貞は、これらの軍を再編成する必要に迫られた事や箱根の要害を前にした事から進撃速度を鈍らせざるを得なかった。一説では奥州の北畠顕家が南下するのを待ち挟撃する意図が在ったとも言われるが真相は不明である。
一方で直義は箱根に六千の軍勢で立て篭もり兄・尊氏の出陣を激しく促す。尊氏は、足利家の存在そのものが危機に瀕している事を認識し出陣。小山氏ら鎌倉に後詰として残っていた二千を先陣としたが尊氏出馬を聞き約一万の軍勢が集まった。十一日朝、尊氏は箱根山を越え足柄明神の南・竹ノ下に出て、尊良親王を奉じる脇屋義助軍七千に奇襲を掛けた。義助らは驚き潰走、箱根では義貞が直義と対峙し優勢に戦いを進めていたが敗報を聞き挟撃を恐れて撤退。翌日、新田軍は佐野山で陣を立て直し勢い付いた足利軍と激戦を演じるが大友貞載の寝返りで敗北、十三日には伊豆国府も失った。義貞は敵陣を突破し敗軍をまとめながら東海道を下る。天竜川では船橋を掛けて西に逃れるが、渡る際に混乱が生じ橋桁が落ちるなど難儀をしている。全軍が渡り終えた後に部将が橋を落そうとしたが、義貞は「敗軍の我等でさえ掛けられた橋を勢いに乗った敵がまた架けるのに造作はない。橋を落とした所で我等が慌てて逃げたと笑い者になるだけで意味が無い。」と述べて橋を残させたと「梅松論」は伝える。追撃してきた足利軍はこの有様を知り、涙を流し感嘆して「疑いなき名将」と義貞を称えたと言う。面子に拘り橋を落とさなかった事で足利軍の進撃速度を速めたと義貞が非難されることも多いが、これには義貞としても事情があった。義貞は、元来は無位無官の地方豪族に過ぎない。つまり、今回従軍した有力豪族たちは数年前までは義貞と同格かそれ以上の家格だったのである。また、新田一族内部でさえ惣領・義貞に対抗する動きがあったのである。そうした連中を統率するためには威信を見せ続ける必要がある。なりふり構わず周章する様子を見せようものなら、忽ちに彼らは義貞を見限り軍が崩壊する事は想像に難くない。義貞としては弱みを見せるわけには行かず余裕があるところを常に示す必要があったのである。前述の稲村ヶ崎での逸話をはじめとして、義貞に派手なパフォーマンスが目立つのはそうした理由がある。

9 京都攻防戦

 義貞の敗北が影響してか、高松の細川定禅・備前の佐々木信胤らを始めとして各地の不平分子が反乱した。そして、勢いに乗る足利方は一気に上京しようとしていた。その中で叡山の僧兵たちが近江伊岐代館に篭り京都防衛のための時間稼ぎを図る。しかし十二月十日、高師直軍により一日で落城した。
 朝廷側は、京都防衛のため軍勢を展開して防衛線を布いた。瀬田を名和長年・千種忠顕・結城親光らの三千が守り川に大木を流し乱杭を打って防衛体制を築いた。宇治には楠木正成の五千が橋板を外し中州に大石を積み逆茂木を組む。山崎には義助が洞院公泰・文観・宇都宮氏・大友氏らの七千を率いて堀・塀を作り櫓を建設していた。そして義貞は、大渡に里美・鳥山・山名ら一族を中心とする一万の軍勢を率いて布陣した。橋板を落とし、盾を並べて櫓を構え、馬が通れそうなところに逆茂木を作って足利軍を待ち受けた。
 年が明けて足利軍が上京、尊氏は宇治を避けて八幡に布陣し直義は瀬田、畠山高国は山崎に進出した。また、西からは細川定禅・赤松円心ら二万余が上洛して参加していた。義貞の率いる本隊では、筏を組み渡河を図る足利軍が乱杭にかかり進めないところを見計らい矢を射掛けたり、足利方の数人が奮戦して板の外された橋を渡り後続が続いた際に仕掛けを発動させて橋桁を落として敵を川に呑ませたりと善戦していた。一月十日、細川・赤松軍が山崎に突入。義助は奮戦し支えようとするが元来が寄せ集め部隊である上に兵数で劣るため限界がありついに突破される。義貞はこれを見て守備を放棄し足利軍の追撃を受けつつも京に引き上げた。劣勢の兵力で京都守備をする事にそもそも限界があったといえる。
 この日、後醍醐天皇は京を逃れ比叡山に避難した。一方、長らく比叡山と敵対関係にある園城寺は対抗して入京した足利方につく。一月十六日、奥州から駆けつけた北畠顕家の五千が坂本に到着。義貞はこれと合同してすぐに園城寺に攻撃をかけた。顕家の二千、義貞の三千、義助の千五百が合同して出撃し数千の足利方に攻撃をかける。北畠軍は数に勝る敵軍を相手に苦戦したが、義貞はこれに加勢して追いたて更に細川定禅軍六千にかかった。蹴散らされた足利方は園城寺に逃げ込み門を閉ざすが新田軍はこれを突破し園城寺を炎上させた。
 義貞は更に洛中の足利本軍に迫り、配下の軍勢二万を将軍塚から真如堂・法勝寺を経て二条河原まで展開させた。この際、兵力に劣っていたため山を背にして布陣し兵数が敵に読まれないよう気を配ったという。一方で足利軍は、尊氏・直義が二条河原に本陣を置き、数万の兵を糺の森から七条河原にかけて布陣。前哨戦として高師泰が将軍塚に攻め上ったところ、義助の率いる数千は射手に盾の後ろから矢を浴びせさせ敵が崩れたところに突撃して撃退している。一月十六日、両軍が衝突し乱戦となるが、足利方は統制に苦しみ新田軍を圧倒できない。そこへ足利軍に潜んでいた新田兵が突然に新田の旗を敵の真ん中で掲げて鬨の声を挙げて撹乱したため足利方が同士討ちに陥る一幕もあったものの、側近・船田義昌を失うなど新田軍の被害も大きく義貞は京奪回を果たせず一旦引き上げた。
 更に一月二十七日には楠木正成・名和長年・結城宗広らが三千で一乗寺下松へ、北畠顕家五千が山科へ、洞院実世が赤山禅院へ、叡山僧兵数千が鹿ケ谷へ、そして義貞の二万が北白川へと布陣し足利軍に総攻撃をかけた。再び激戦となり上杉憲房らを失った足利方が京を一旦放棄し新田軍が京に入るが、今度は細川定禅が少数の兵で新田軍に夜襲をかけ京を奪回している。翌日には糺の森から楠木軍三千が進軍し、盾を繋いで進み騎兵を防ぎながら上杉勢を翻弄した。一方で北畠軍五千は粟田口から四条・五条に侵入するが尊氏自らが数万の兵で迎撃し苦戦を強いられた。そこへ義貞の率いる二万が到着して突撃をかけ足利軍を撃退し京から再び追い散らしたが新田軍も大きな損害を受けて引き上げた。この時、義貞・正成が討ち取られたとの噂が足利軍に流れており、「太平記」によれば足利軍を油断させるための正成の謀であったという。この夜、大原・鞍馬に向けて数千の松明が移動するのを見た足利軍は、朝廷方が逃亡すると思い込み追撃のため軍勢を派遣し洛中は手薄となった。
 翌三十日早朝、朝廷軍は二条河原に進出して足利軍本隊を奇襲。潰走した足利方は京を逃れ摂津に向かった。二月十日、西宮で楠木軍が足利軍を捕捉し戦闘となるが勝敗はつかなかった。翌十一日、朝廷軍は豊島河原で足利方を攻撃。北畠軍は多数の足利方を撃破できず苦戦するが、義貞の数千がこれに加勢し激戦となる。更に正成が神崎に迂回したため足利軍は挟撃を恐れて撤退した。足利軍が軍の再編成を試みるため西国に逃れるのは翌日十二日の事であった。

10 白旗城での苦戦

二月初頭には後醍醐天皇は比叡山から帰京し花山院を皇居とした。尊氏を追い落とした功績を認められ義貞は左近衛中将、義助は右衛門佐に任じられる。無位無官の地方豪族に過ぎなかった義貞の絶頂であった。二月二十五日、兵乱が続く世を憂いて「延元」と改元された。
一方、京を追い落とされた尊氏は瀬戸内地域における水陸交通の要地に一族・腹心を置いて現地有力者と共に足場を固めさせ西国を支配下に置こうとしていた。四国に細川和氏・頼春・師氏・顕氏・定禅、播磨に赤松円心、備前三石に石橋和義・松田盛朝、備中鞆尾に今川俊氏・政氏、安芸に桃井氏・小早川氏、周防に大嶋義政・大内弘世、長門に斯波高経・厚東武実という配置である。全国的に朝廷への不満が高まっているのを背景に、尊氏は現地豪族の支持を集め背後を固めながら九州へ海路で逃れたのである。
これに対する義貞ら朝廷軍の対応は迅速とはいえなかった。朝廷は新たに降伏してきた者を組み入れて軍の再編成を行ったり、凶作を背景として難航する兵糧集めをしたり、東国を中心に調略を行ったり、奥州失陥を防ぐため北畠顕家らを再度派遣する事に力を注いでおり寧ろ足元を固める事に精一杯であった。尊氏を追撃できず、その勢力挽回と反攻を手を拱いて見るしかない状況に焦燥を感じる朝廷方の武将は少なくなかったであろう。天下の人心は尊氏に傾いているため新田を切り捨ててでも尊氏と講和するべきだと楠木正成が献策したと「梅松論」が伝えているが、事実かは兎も角としてそうした風説がこの時期にあったのであろう。「太平記」によれば義貞は朝廷から賜った美女・勾当内侍への愛に溺れていたと言われるが、事実ならこうした情勢への焦りを紛らわせていたのかも知れぬ。朝廷の追撃が遅れたのを義貞の無能に帰する向きが多いが、そもそも義貞は天皇の管轄下で軍を動かす朝廷軍指揮官に過ぎず政略・国家戦略に関してはどの程度権限があったであろうか。義貞個人よりも朝廷の事情によるところが大きかったと思われる(更に言えば行動の遅延により追撃の好機を逃したという記述は足利方にもしばしば見られ、個人能力より軍再編成などの事情による事を裏付けている)。
もっとも、義貞もこの時期に病に倒れており自身の出陣は叶わぬ状態ではあった。江田行義・大館氏明に三千の兵を与えて先行させた後、義貞が出馬したのは三月である。播磨白旗城に篭る赤松円心に対し、まずは播磨守護職を条件として帰順させようと図るが不調に終わり敵に時間稼ぎを許す結果となった。交渉決裂の後、城を包囲し攻城戦を展開するも攻めあぐね時間を重ねる。播磨は農業生産力が高いのみならず交通の要所であり、西国を攻めるには手中にする事は必須条件であった。義貞としては権限を与えられた土地でもあり、兵糧や背後の安全を確保するためのみならず自らの威信を保つためにも播磨を平定する必要があったのである。
しかしながら、城塞を攻略するのは容易ではないのが通例である。白旗城攻撃に難航する事で威信低下を招くのみならず、反攻してきた尊氏を食い止める事が難しくなる。そこで主力を白旗城に置く一方で別働隊を編成して中国攻略を行った。まず江田行義率いる二千の軍勢を美作へ派遣し奈義能勢・菩提寺の城を攻略。更に大井田氏経や菊池・宇都宮ら五千に備中福山を落とさせた。義助は備前に向かった。精鋭を選抜して地元民の案内で間道を通じて三石の西から奇襲させ敵に打撃を与えてから三石城を包囲攻撃している。
一方、尊氏は三月二日に多々良浜で菊池氏を破り九州を平定、四月初旬には赤松からの援軍督促もあり水陸両路から西上を開始。水軍・陸軍ともそれぞれ数万に上る大軍であったと言われ、福山城を守る江田行義は五月十八日の足利軍来襲の際には篭城準備を整える暇がなく城を放棄して撤退した。また、三石を包囲していた義助も兵庫へ撤退した。義貞は全軍を兵庫に集結させここで足利軍を迎え撃つ事とした。義貞自身は味方が無事到着したのを確認して最後に渡河し兵庫に至っている。その上で、朝廷に急を告げて援軍を要請。元来が関東の地方豪族であった義貞は、西国においてその勢力・人的結合を有していなかったしそれを築き上げる時間もなかった。それが中国遠征の失敗に繋がったのである。

11 湊川の戦い

 兵庫は、古来より畿内への入り口として重要な港であった。12世紀後半の源平争乱においても一時期は都を置くなど平氏が重要拠点として重視しており、上京を図る平氏を源範頼・義経が撃退した一ノ谷の戦いもこの地で行われている。義貞がこの地を決戦の場として選んだのはそうした背景があった。
 義貞から急報を受けた朝廷は、正成を召して戦略を問う。正成はこの時、義貞を召し返した上で比叡山に避難して尊氏を京に招きいれ、河内で自分が後方の補給を撹乱して義貞と共に尊氏を包囲・挟撃する作戦を具申した。しかし年二度にわたる天皇の避難が更なる威信低下・人心離反を招く事を恐れた朝廷はこれを受け入れず、兵庫での決戦を命じた。正成は状況に絶望し討ち死にを覚悟したといわれる。
 正成が兵庫に到着し義貞と対面したのが五月二十四日。義貞はこの時、正成の策の正しさを認めると共にこれまでの不首尾を自嘲し、この戦いでは勝敗を度外視して命運をかけると述懐。これに対し正成は、世間の勝手な言い草を気に留めないよう説くと共にこれまでの義貞の功績を称えて慰め、これまでの義貞の動向が理に適っていると励ましている。
 五月二十五日の朝、細川定禅の四国水軍五百艘が湊川と兵庫島を左に見て神戸方面へ進撃。錦の旗・天照大神八幡大菩薩の旗を掲げた尊氏の御座船・数千艘の軍船が続く。水軍で二,三万に及んだと言う。陸上では中央から直義・高師泰が率いる播磨・美作・備前の兵、山手から斯波高経の安芸・周防・長門の兵、浜手から少弐頼尚率いる筑前・豊前・肥前・山鹿・麻生・薩摩の兵が進軍。陸軍は二万ほどと考えられる。
 一方、兵力に劣る朝廷側は水陸両面から迫る足利軍に対し各個撃破によって勝利の可能性を見出そうとした。兵庫港の船舶停泊地である経ヶ島に脇屋義助千五百、灯篭堂南の浜に大館氏明九百を配置して尊氏や細川定禅率いる水軍の上陸を阻止しようとする。一方で正成・正季二千が会下山一帯から夢野付近に布陣し直義軍に当たる。兵庫は平地が狭く幅の広い川も多い湿地帯で大軍の移動に適さず、この地の利を生かして直義軍を撃破する方針であった。楠木軍は軽装の歩兵を中心とし四天王寺や洛中での野戦でも実績を上げた部隊でありこの戦闘でも臨機応変な戦いぶりが期待されていた。そして足利陸軍を退けた後に全軍を挙げて水軍を撃つ作戦であったろう。和田岬に総大将新田義貞が最精鋭部隊を率いて陸・水両方面に睨みを利かしどちらの戦況にも対応できるよう陣取っていた。その数は七千五百程。正成や義貞は絶望的な思いを抱きもしたであろうし討死の覚悟もしたであろう。しかし飽くまでも最後まで勝利の可能性を模索もしていたのである。
 足利の陸軍は山手軍が鹿松峠から大日峠を超え、大手軍は上野山から会下山に通じる道を進み、浜手軍は水軍と連絡しながら海岸沿いに進み楠木勢に迫った。一方で水軍も戦端を開いていた。開戦に先立ち新田軍の本間重氏が鶚を足利の船に射落とし、更に射手を知ろうとした足利軍に自分の名を刻んだ矢を射た。足利方の返し矢が陸に届かず敵味方の嘲笑を浴びた為、憤慨した細川勢二百人が経ヶ島から強行上陸して殲滅される。その後に尊氏の御座船から戦鼓が鳴り響き、水軍・陸軍もそれに合わせ鬨を上げた。細川の水軍は船舶停泊所である経ヶ島でなく紺辺から上陸、新田の後方撹乱を図る。新田本隊は、水軍の上陸を阻止して陸軍を撃破する計画が頓挫するのみならず退路を絶たれる体制となったためそれを防ぐため陣を引払い細川勢を追う。そして細川勢と戦闘を開始したが、その間に経ヶ島に尊氏本隊が上陸し新田軍と楠木軍は分断された。
「太平記」によれば、義貞は包囲の突破と楠木勢救出を目論んでか一旦兵庫に引き返し尊氏本隊と戦闘に入るが、兵力差は如何ともし難く劣勢に陥る。足利軍は義貞に矢の雨を降らせて討ち取ろうとするが、義貞は「鬼丸」「鬼切」の太刀を両手に持ち矢を切り払って防いだ。そこへ小山田高家が来援し身代わりとなってようやく義貞を逃れさせた。義貞は敗軍をまとめ細川定禅の軍勢を突破するのが精一杯の状態に陥り、楠木勢救出どころではなくなっていた。敵軍の包囲に残された正成らは一時は直義を追い詰めるという激烈な戦闘の末に自害。一説には義貞は正成を見下してこの際も見捨てて退いたと言われるが元弘以来正成が廷臣の信任を一身に受けてきた事を考えるとこれは穿ち過ぎであろう。
こうして、朝廷は足利軍を食い止める力を失い足利軍は一気に上洛へと弾みをつけた。大きな犠牲を払い大敗を喫した義貞に残された道は、可能な限り戦力を残して他日の反攻に備える事のみであった。義貞は京へと撤退し天皇と合流する。

12 北陸へ

 湊川での大敗を受け、衝撃を受けた朝廷は二十七日に義貞らに守護されて比叡山へと再び避難する。それを追うようにして足利勢が入京したのが三十日。朝廷軍は比叡山に篭城して北陸や奥州からの援軍を再び待つ方針であった。直義の指揮する足利軍は京から攻め入る大手軍と東坂本方面からの搦手軍に分かれ比叡山へ進攻。六月五日の戦いでは雲母坂で千草忠顕が戦死するなど朝廷軍は大きな損害を受ける。しかし足利軍も険阻な叡山を攻め倦んでおり、義助は城砦に数千の兵で立て篭もり、琵琶湖上に停泊する水軍の助けもあって高師重の度重なる攻撃を撃退していた。六月二十日には、逆に師重が新田軍の奇襲を受けて討死する事態となる。直義は叡山攻撃から撤退し、戦場は洛中に移った。
 六月三十日の早朝、義貞は内野で細川勢に攻勢をかけて撃退し、大宮猪熊から東寺の尊氏本陣まで攻め寄せて門の扉に矢を射込み尊氏に一騎打ちを申し込んで挑発した。結局は果たせず多勢に無勢で包囲されぬうちに徹底を余儀なくされている。兵力に劣る新田軍としては、中央突破して敵の中枢を破るほかに道はなかったのである。この時に猪熊方面に進軍した名和長年が討死、楠木正成・結城親光・千草忠顕らに続き「三木一草」(建武政権での後醍醐の寵臣)は全滅した。
 その後も京に出撃を繰り返したが戦況を打開する事はできなかった。兵力で勝る足利方が次第に優位を確立し、九月に入ると小笠原氏・佐々木導誉が近江を制圧し叡山への糧道を断った。叡山僧兵達が尾張・美濃方面への通路を切り開こうとしたが果たせず、後醍醐軍は兵糧攻めに合うこととなる。
 十一月、尊氏と後醍醐の間で和平交渉が持たれた。条件は持明院統・光明天皇(八月に尊氏により擁立された)への譲位、皇太子は成良親王(後醍醐の皇子)とする、皇位は両統迭立で継承と言うものであったと思われる。これ以上戦いを継続するとジリ貧に追い込まれ全てを失う事が目に見えていた中、後醍醐にとって悪い条件ではなかった。天皇は独断で和睦を決定、これまで朝廷軍の総大将として働いてきた義貞を切り捨てる事にしたようである。足利と妥協して最悪でも子孫の皇位継承資格を確保し、状況によっては再起を図るにせよまずは叡山に閉じ込められた現状を打開する必要があると判断したのであろう。この時期になると朝廷軍の士気低下は相当広がっていたようで、江田行義・大館氏明といった新田一族の中からでさえ義貞を捨てて天皇に従う者が現れていた。
 一方、義貞は和睦については全く聞かされていなかった。洞院実世から聞かされても本当にはせず取り合わなかったといわれる。しかし堀口貞満が天皇の下に押しかけて激しく詰問し、これまでの新田氏の忠誠を挙げそれを見捨てる天皇の無情・無節操を非難した。次いで義貞が三千人を連れて天皇の下に参上しこれを取り囲んだ。この際の義貞は怒りの色に満ちてはいたものの尚も礼節を欠く事はなかったという。義貞とその家臣たちに取り囲まれた後醍醐は、この度の和睦は時節を待つための方便であり知らせなかったのは外に漏れるのを恐れたからだと陳弁。この時に義貞は和睦を認め自らは越前に落ち延びる代わり、朝敵の汚名を受けないよう皇太子恒良親王と尊良親王を擁立する事を妥協案として願い出ている。「太平記」によればこの時に後醍醐は恒良に三種の神器を譲渡し譲位したと伝えられる。
 こうして後醍醐天皇は下山して足利方に身を委ね、義貞らは一族や洞院実世・千葉貞胤・宇都宮泰藤らを伴い越前へ向かった。出発に先立ち、義貞は日吉山王社に参詣し太刀「鬼切」を奉納している。船で塩津・海津に上陸、斯波高経の軍勢が街道を遮断していたため東近江の峠を越える事とした。まだ冬には早かったが特に寒冷であり、吹雪に遭遇した新田軍はこの峠越えで多くの凍死者を出した。千葉貞胤は脱落して足利方に降伏、多くの者が討たれる。木曾杉の年輪からは、この年が特に寒冷であったことが分かると言う。十一月十三日、多くの犠牲を払いながらも義貞らは敦賀に到着し気比大宮司の迎えを受けて金ヶ崎城に入った。

13 金ヶ崎篭城戦

 金ヶ崎は、天筒山脈が海に向かって延びた岬に建設された要害である。そこに拠点を置いた義貞は、叡山で皇位を譲り受けた恒良の綸旨を発布して周囲の豪族を味方につけようとした。また、長男・義顕に二千の兵を与えて越後に赴かせるとともに義助に千の兵を与え現地豪族・瓜生保が守る杣山城へ向かわせて勢力拡大を図る。義貞としては天筒山に本城を置き金ヶ崎は詰の城としたかったところであったが、そうして守りきれるだけの兵力がなかった。義助・義顕を派遣したのは現地豪族や越後にいる一族の力でそれを補おうとしたためである。そして、海上交通を利用して越後などと連絡を取る方針であったろう。
間もなく、越前守護・斯波高経が現地豪族の兵を動員して金ヶ崎城を包囲したため義助・義顕はすぐに救援のためとって返した。この際、義顕が旗を多く立てて援軍が来たと呼びかけ足利方の動揺を誘いそれに合わせて城から義貞が打って出たため足利軍は混乱し同士討ちに陥った。こうして一旦は足利軍を撃退する事に成功する。
 これで新田軍は意気上がり、瓜生氏が脇屋義治(義助の子)を擁立して挙兵し新善光寺を陥落させる。また、平泉寺も新田方に心を寄せるようになった。この時期は、金ヶ崎で舟遊びをして恒良らを慰める一幕もあり比較的余裕が認められていた。
 しかし、越前での敗戦を知った尊氏は延元二年(1337)一月に高師泰を大将とした数万の軍勢を派遣。再び包囲された金ヶ崎を救援するため瓜生保らが出撃するが今川軍に迎撃され保は討死した。金ヶ崎では厳冬の最中であり兵糧の蓄えができておらず、やがて食糧難に陥り軍馬を殺してその肉を食い、更には死者の肉で生き延びる凄惨な状況に陥った。義貞は二月五日に杣山へ脱出し援軍を編成するも、三月六日に金ヶ崎は落城、恒良親王は捕えられ尊良親王・義顕は自刃した。こうして義貞の北陸経略は一旦頓挫したのである。
 なお、目を京に移せば、尊氏と和睦した後醍醐は光明天皇に神器を譲渡し上皇とされて幽閉されていたが、延元元年(1336)十一月二十一日に脱出し吉野へ逃れて自分が正統な天皇である事を宣言した。これ以降、尊氏が擁立する持明院統の京都朝廷を北朝、後醍醐天皇とその子孫による朝廷を南朝と呼ぶ。それにしても、結果としては後醍醐は尊氏のみならず義貞・恒良をも欺いてみせたことになる。
 ところで、この時期に義貞が恒良を天皇とする北陸朝廷を擁立していたという説が唱えられている。現在となっては証拠は明らかでないが、南朝興国七年(北朝貞和二年、1346)に越前で「白鹿」元号を用いた南朝方と思われる文書が見られている事は「北陸朝廷」の名残である可能性を思わせ興味深い。

14 義貞の反撃

 一旦は北陸経略が挫折した義貞であるが、杣山城で軍を再編成して徐々に巻き返しを行っていく。まずは畑時能に越前・加賀国境に細呂木城を築かせた上で、加賀の豪族である山峯氏・上木氏らを調略して大聖寺城を手に入れ加賀を勢力化に置く事に成功している。また平泉寺も新田軍に再び誼を通じるようになった。
 義貞の勢力が再び拡大するのを見た斯波高経はこれを討伐しようとするが、逆に延元三年(1338)二月に義貞が三千の兵で越前国府に攻め入った。高経は出撃してこれを迎え撃ち激戦となるが、その間に平泉寺僧兵や杣山の軍勢が背後に回りこみ火を放ったためこれを見た斯波軍は潰走。高経は国府のみならず新善光寺城をも捨てて逃れた。これを受けて越前国内七十箇所以上の城が新田軍の支配化に靡くことになる。時を同じくして大井田・中条・鳥山・風間といった越後の新田一族が数万の軍勢で越中・加賀に侵入。短期間で北陸一帯に義貞は覇を唱える事となった。
 しかし高経は黒丸城に篭って捲土重来を図っており、北陸を完全に押さえるにはこれを陥落させる必要があった。不安定な情勢に乗じて北陸の大半を手に入れたものの、これは裏を返せば何かの契機で簡単に形勢が逆転しうるという事を意味していたからである。
 この時期、北畠顕家が再び奥州から上洛を開始し各地で足利方を破り美濃に迫っていた。そして義貞と顕家の攻勢は全国の南朝方を勇気付け、各地で蜂起が行われた。後醍醐と共に足利と和睦した江田行義・大館氏明はそれぞれ丹波・四国で挙兵し、得能氏・土居氏も四国で蜂起した。また金谷経氏は播磨で吉川氏と共に挙兵し遠江では井伊氏が立ち上がっている。これを受けて、吉野の後醍醐天皇から義貞にもこれと協力して京を奪回するよう綸旨が届けられる。しかし義貞としては高経を駆逐しない限り北陸が安定しないため動けない状態にあった。そこで比叡山と連絡を取った上で代理として義助に三千の軍勢を与えて南下させている。一方で顕家は延元三年一月二十八日に青野原で足利方を破った後、思いの外に被害が大きかったため父・親房が拠点を定めている伊勢に逃れて軍勢を再編したが、その後に奈良・石津で高師直に破れ五月二十二日に討死。八幡に布陣して京を窺っていた顕信(顕家の弟)による北畠軍別働隊も七月に撃退され、新田軍との連携による京奪回は果たせなかったのである。

15 藤島に散る

 斯波高経は、事態を打開するために平泉寺に藤島荘の安堵を条件として足利方に付くよう働きかけていた。平泉寺はこれを了承して藤島城に立て篭もり義貞に反旗を翻したのである。義貞は黒丸城を包囲すると共に、藤島城を攻略して越前を安定化させようと図った。閏七月二日、義貞は河合荘に数万の軍勢を集結させて出陣。この時の壮観さは、尊氏を倒せる者がいるとすれば義貞に違いないと人々に確信させる程のものであったという。義貞は黒丸城の支城群を孤立させるため城砦を築かせ、藤島城を攻撃させた。
 藤島城攻撃がはかばかしくないのを見た義貞は、自ら兵士たちを督戦するために少数の側近を従えて藤島に向かう。丁度そこで黒丸城から藤島城へ救援に向かう足利方の軍勢三百がこれと遭遇し、深田で矢を射掛けてきた。義貞らは少数で盾も持たず、水田では騎馬の機動力を発揮して逃れる事もできない。義貞は馬を射止められて立ち上がろうとしたところに眉間に矢を受けて落命。享年は三十七歳とも三十九歳とも言われる。武家の棟梁を争う武将としてはあっけない最期であった。
 討ち取った斯波勢も当初は身分の高い人物としか分からなかったが、左眉の傷跡や所持していた太刀・後醍醐天皇の感状から義貞であると判明。遺体は時宗僧により往生院で荼毘に付され、首は京に送られて晒されたという。
 「太平記」は、義貞戦死のくだりに続いてその後の勾当内侍について語っている。義貞は北陸へ下る際に危険を慮って内侍を今堅田に留めるが、彼女は義貞への慕情止みがたく越前へと向かう。しかしそこで義貞の討死を知り、同じ場所で死のうとするも周囲がそれを留めて杣山を経て京に返した。京で内侍は義貞の首が獄門に懸けられているのを目にし、悲しみの余り嵯峨野往生院で出家し義貞の菩提を弔ったという。また、琴ヶ濱で身を投げたという伝説もあり、今堅田には彼女を祭る野上神社や彼女の墓が、本堅田には菩提寺である泉福寺が残っている。「太平記」を語る芸能者により彼女の物語も広められ、ゆかりの地の人々によって語り継がれたのである。義貞は不慮の事故ともいえる出来事であっけなく最期を遂げてしまったため、彼女の伝説により英雄義貞の最期を飾ろうとしたものであろう。

16 新田氏その後

 義貞の死によって、尊氏は武家の棟梁を争う当面のライバルがいなくなった。同年八月に尊氏は北朝朝廷より征夷大将軍に任じられ名実共に頼朝の再来とも言うべき立場となる。一方で南朝は東国に北畠親房らによって勢力扶植して反攻を目論むが捗捗しくは行かず延元四年(1339)八月に後醍醐天皇が崩御。
義貞の死後、総大将を失った新田軍は一気に空中分解し再び足利方が有利となる。しばらくは脇屋義助が北陸で形成挽回を図るが、その威信は義貞に遠く及ばず北陸経営の挫折をやむなくされる。興国二年(1341)に義助は懐良親王を奉じて伊予今治で勢力扶植に励むものの翌年に病没。
義貞の次男義興・三男義宗は関東を中心に抗戦を続ける。一時は足利政権内での尊氏・直義両派閥による内紛に乗じて鎌倉を占領するが長くは続かず、正平十三年(1358)に矢口渡で義興は謀殺される。
その他の新田一族も各地で足利方への抵抗を続けていた。伊予の大館氏明は義助病没後間もなく細川頼春により滅ぼされる。その子孫は足利方に降伏し政所奉行として活躍した。丹後の江田行義や播磨の金谷経氏は正平年間に活動が途絶える。大井田氏経は越後山間部で活動し北陸における南朝方の拠点を確保した。また大井田義氏も三河・石見で活動している。その他、岩松氏は南朝・北朝に分かれて属しており、北九州でも新田禅師や岩松氏といった新田一族の活動が確認され、土佐でも綿打入道が足利軍と戦っている。南朝方の新田一族は多くが足利方によって滅亡に追いやられていく。
一方、足利方として活動した者も少なくなかった。里見義宗は足利方について奉公衆となっている。大嶋義政は尊氏が義貞に破れ西国に逃れるときに周防の大将に任じられ直義との内紛でも尊氏方として活躍。その子の義高は一時期三河守護となっている。世良田義政も一時期上総守護として活動している。また、山名時氏が足利方として活躍し尊氏・直義の争いでも巧みに立ち回って勢力を伸ばし一時は一族の守護する国が十一ヶ国に上って「六分の一殿」と称されるまでになった事は余りに有名であろう。

17 おわりに

 最後に、義貞の力量や敗因について評価してみたい。義貞が愚将と評価される根拠は以下のように要約できそうである。
@ 長じているのは平地での騎馬戦のみ
A 討死した時の軍編成は盾もない騎馬戦士のみであり弓を持った歩兵を擁する足利方と比べ時代遅れ
B 尊氏との戦で一騎打ちに拘る時代錯誤
Cしばしば絶好の機会を逃しており機を見るに鈍
D「犬死」と評価される最期
 しかし、詳細に検討すればこれらの論拠は必ずしも当を得たものでない事が分かる。@は対陣した尊氏が評しての言葉が元になっているが、実際にはこの戦いで義貞は弓兵を効果的に用いて山岳戦で足利軍を破っている。その他にも弓兵・歩兵や時には水軍を用いて足利軍を翻弄している事は上述の戦闘描写で読み取れるであろう。Aに関しては急いで戦場に急行している際に敵に遭遇するという突発事故に近い状況であり、義貞の無用心さを攻める事はできるが軍編成に一般化して論じる事はできない。弓兵・歩兵も使いこなしている事から考えて、新田軍の編成が同時代の標準と比較して特に遅れているとはいえないであろう。Bに関しては尊氏も一騎打ちに応じようとして側近に留められている描写があり義貞と大差があるとはいえない。また、兵力で劣る義貞としては一気に敵を突破して中枢を討ち取る他に打開策はなく、一概に責める事はできない。なお、軍事的側面のみならず社会的にも関東の一土豪に過ぎなかった義貞は貨幣経済の発達した時代に適応できなかったと言う論も見かけるが、冒頭で述べたように新田氏も貨幣経済による恩恵を相当に受けている存在であり義貞も正成らと同様に時代の子であったといえる。Cであるが、決断の鈍さゆえに機会を逃し敵殲滅できなかったという描写は足利方にもしばしば見られており義貞のみではない。義貞は朝廷軍の指揮官に過ぎずその戦略は朝廷の方針に大きく束縛を受ける。また、義貞個人の決断よりも様々な状況や束縛で動くに動けなかったと見るほうが妥当である。Dに関しては、「太平記」が「犬死」と酷評しているのは義貞でなく彼を救えなかった部下であり、「神皇正統記」は元来が貴族自尊主義により義貞ら武家への評価が低い(正成に至っては戦死について触れられてさえいない)ため割り引いて考える必要がある。
 先入観を除いて評価してみると、義貞は少なくとも軍事指揮官としてはかなり優秀であった事が分かる。勇猛であるだけでなく、戦術面では正成のような奇策を弄する事は少ないものの十分に柔軟であり、戦略面でも様々な束縛の下で最善を尽くしているといえる。また人柄は実直であり部下思いであったことも知られる。しかし正統派の武人である事が逆に災いして後醍醐天皇・足利尊氏・楠木正成といった個性的な人物と比較して影が薄くなったのは否めない。
 しかし、尊氏が政治的な面にまで視野に入れて広く根回しを行っていたのと比べ、義貞は政治的な駆け引きや政略・国家戦略に長じていたとはいえない。尤も、尊氏もしばしば読みの甘さが指摘されているし義貞は晩年にはそれなりに政治的工作を行うようになっており両者の差は余り大きなものではないのかもしれない。ただ、尊氏が政治的力量に優れた弟・直義や執事・高師直による補佐を受けられたのと異なり、義貞には周囲に政治に長じた人物が存在しなかった。そして義貞もその軍事的力量でカリスマとして台頭したが、尊氏には直情的な義貞にはない不思議な人間的魅力があった。加えて何より、尊氏は不可解なまでに強運でありここ一番で不運に泣かされる事の多かった義貞とは対照的である。家系の経済・軍事力で劣っている以上は個人的力量で大きく上回っていない限り逆転は難しいのだが、尊氏が相当な傑物であった事は義貞にとっては悲劇であった。
 また、義貞は尊氏と比べて家柄で大きく遅れを取っていたため、彼と対抗するには朝廷軍の司令官として天皇の権威を借りる必要があった。しかしそれが朝廷への不人気の煽りを受け、豪族たちの広い支持を集める事ができなくなった原因となった。尊氏が「頼朝時代の再興」を公約に掲げ体制に不満を持つ豪族たちの受け皿となったこととは対照的である。豪族たちの期待の星である武家政権の棟梁であった尊氏と異なり、義貞は朝廷の傀儡としか見られなかった。朝廷の不人気に関しての責任は義貞でなく後醍醐が負うべきであるが。晩年には北陸で御教書を発布し尊氏同様に武家の棟梁として振舞うようになるが、その時は両者の勢力が隔絶しており余りにも遅すぎた。
 上記のように義貞は尊氏と争うにはかなりの不利があったにもかかわらず、後醍醐と尊氏の対立が不可避となる中で尊氏と家柄・力量・実績・人望で曲がりなりにも対抗できる人物が義貞しかいなかった。尊氏から見ても、「頼朝の再来」として武家の棟梁を目指す際に、名目上で競争相手となり敵手となるべき存在は天皇でもなく正成でもなく自身同様に源氏の嫡流である義貞しかありえなかったのである。こうなると黙っていても周囲が義貞を尊氏と争わざるを得ない方向へと持っていく。なまじ力量があり時流に乗って名を挙げたが故に強力な宿敵相手に絶望的な戦いを強いられた。それが義貞にとって、そして新田氏にとっての悲劇であった。
 …それにしても、数多くの南北朝人物伝を書いてきたが、今回のように時代背景や政治的要素にほとんど言及せず合戦描写ばかりになったのは珍しい。義貞の生涯とその敗因をよく表していると言えそうであるが、腰を落ち着ける暇もなく広い範囲で各地を転戦した義貞の生涯はこれはこれでこの時代を象徴するものと言える気がする。

参考文献
人物叢書新田義貞 峰岸純夫 吉川弘文館 (基本的にこれに拠った。ただし具体的戦闘描写を欠いている)
日本の歴史8蒙古襲来 黒田俊雄著 中公新書
日本の歴史9南北朝の動乱 佐藤進一著 中公文庫
南北朝時代史 田中義成 講談社学術文庫
日本の歴史11太平記の時代 新田一郎 講談社
週刊朝日百科日本の歴史12後醍醐と尊氏 朝日新聞社
帝王後醍醐 村松剛 中公文庫
新編日本合戦全集2鎌倉南北朝編 桑田忠親 秋田書店
日本古典文学大系太平記 一〜三 岩波書店
「芝蘭堂」(http://homepage1.nifty.com/sira/)より「梅松論」
京大本梅松論 京都大学国文学会
南北朝時代史 久米邦武 早稲田大学出版部
南朝の研究 中村直勝 星野書房
新田氏研究 藤田精一 雄山閣
日本中世史を見直す 佐藤進一・網野善彦・笠松宏至 平凡社 
中世を考えるいくさ 福田豊彦編 吉川弘文館
「中世悪党の研究 新井孝重 吉川弘文館」より「南北朝内乱期の戦力」
神皇正統記 岩佐正校注 岩波文庫
増鏡 和田英松校訂 岩波文庫 
ピクトリアル足利尊氏南北朝の争乱 学研
太平記の群像 森茂暁 角川選書
楠木正成と悪党 海津一朗 ちくま新書
建武政権 森茂暁著 教育社歴史新書 
皇子たちの南北朝 森茂暁著 中公新書
後醍醐天皇 森茂暁著 中公新書 
異形の王権 網野善彦 平凡社
馬・船・常民 網野善彦・森浩一 講談社学術文庫
足利尊氏 高柳光寿著 春秋社 
足利尊氏 山路愛山著 岩波文庫
日本外史(上)(中) 頼山陽著 頼成一・頼惟勤訳 岩波文庫
楠木正成と悪党 海津一朗 ちくま新書
「中世社会の研究 松本新八郎著 東京大学出版会」より「南北朝内乱の諸前提」「南北朝の内乱」
悪党と海賊日本中世の社会と政治 網野善彦 法政大学出版局
南北朝動乱と王権 伊藤喜良著 東京堂出版


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