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足利義満  NF


(1)はじめに

 60年以上にわたった南北朝の動乱に一応の終止符を打った男、それが足利義満である。今回は、この義満の生涯を扱い南北朝の後半やその後の展開について概観したい。

(2)義満登場前までの概要

 11世紀頃より、日本は自給自足的に勢力を伸ばした寺社・貴族や各地の地方豪族が連合して形式的に朝廷を奉ずる形をとり始める。12世紀末に源平合戦を経て鎌倉幕府が成立して以降、東を幕府・西を朝廷が支配する二重政権の体制となり、承久の乱以降は武力で勝る幕府が朝廷に対し大きく優位に立つ。更に13世紀後半になると、元寇を契機に幕府は国防のため東のみならず全国に広範で強力な支配を及ぼすようになる。この頃、領地を分割により相続していた地方豪族たちの間で領地の細分化や本家・庶子の分裂傾向が一族争いの火種になりかねない状況になっていた。折からの貨幣経済の発展に伴う支出の増大も豪族たちを苦しめており、彼らの庇護者たる幕府への不満を募らせる事となった。また、畿内や瀬戸内海を中心に商業・運送業・芸能を生業とする非農耕民が実力を貯えつつあり、その力は侮れないものとなっていた。農業民中心の政権である幕府の支配が及ばない彼らは、貨幣経済の発展を背景に畿内周辺の農村にも入込み、幕府の武力をも脅かす存在となっていたのである。幕府を動かしていた北条氏も彼らを取り込むことで自分たちの権力を強化しようとするが、十分な支持が得られないばかりか旧来の豪族たちからの反発も受ける結果となった。更に朝廷では支配力を弱めたのみでなく皇室が持明院統・大覚寺統に分裂、それに合わせて貴族達も争い幕府の調停が不可欠な有様であった。しかし当時の北条氏当主・北条高時は力量不足でこうした事態に十分な対応が出来ない。そうした中で14世紀前半に大覚寺統から即位した後醍醐天皇は親政を行いやがて非農業民や没落豪族を味方につけての鎌倉幕府の打倒を目論む。皇位継承に干渉する幕府を倒し傍流である己の血統に皇位を受け継がせるため、そして全国支配権を朝廷に取戻すために。1331年、後醍醐は挙兵したが幕府の大軍により敗北、持明院統の光厳天皇に譲位させられ隠岐に流された。しかし、後醍醐の誘いに応じて河内で挙兵した楠木正成が1333年に幕府軍を翻弄した上で金剛山の千早城に篭り幕府の大軍相手に奮闘。これを受けて各地で幕府に不満を抱く勢力が蜂起し後醍醐も隠岐から脱出、そうした情勢下で幕府方の有力者である足利高氏(尊氏)も朝廷方に寝返り京の幕府拠点・六波羅探題を攻略。時を同じくして関東の豪族・新田義貞が鎌倉を滅ぼし後醍醐天皇による全国政権が成立した。後醍醐天皇は商工業を通じて台頭する非農業民を味方につけることで中央集権的な専制体制を志向したが、急速で強引な改革は混乱と反発を招き、朝廷や当時の非農業民はそれを抑えきるには余りに力不足であった。豪族たちの期待は彼らの中で最大の名門である足利尊氏に集まる。尊氏は関東での反乱鎮圧をきっかけに朝廷に反旗を翻し一進一退の末に後醍醐政権を打倒、持明院統・光明天皇を擁立し対抗した(北朝)上で京に自らの政権(室町幕府)を樹立した。一方で後醍醐天皇は吉野に逃れ自らが正当の朝廷であると主張(南朝)。ここに南北朝の動乱が始まる。武力で大きく勝る尊氏は南朝との戦いを優勢に進めつつ、弟・直義とともに政権安定を図る。足利政権は後醍醐政権よりもいくらか保守的で、商工業中心の新興勢力を取り込みつつも農業を基礎におく旧来の豪族たちにも配慮したものとなる。しかし今度はこれが裏目に出て、足利政権は主に新興勢力から擁立される尊氏と保守派豪族に支持される直義の派閥に分裂して内紛状態に陥り、それに乗じて一旦は没落した南朝も息を吹き返した。足利政権の内紛は尊氏が直義を滅ぼす形で終わるが、この頃になると各地の有力者がその利害に応じて思い思いの陣営につき都合に応じて寝返るのが常となっており南朝は勿論として足利政権にもそれを抑えきるだけの力はなかった。尊氏は終始一応の優位を保っているものの、京都を含め各地で騒乱は絶える気配も見られない状態であった。

(3)幼少時代

 足利義満は、延文三年(1358)8月22日に足利義詮(尊氏の長男、足利幕府第二代将軍)を父として、義詮の側室・紀良子を母として生まれ幼名を「春王」と名づけられた。そのわずか100日前の4月30日に尊氏が病没しており、足利政権が新体制に入らんとしている時期であった。
 義詮は幼少時には「東国管領」として関東支配を受け持っていたが尊氏・直義の対立の最中に尊氏の後継者として上洛、直義の死後は文和三年(1354)頃から徐々に尊氏から権限を受け継ぎ、尊氏が没した年の12月に将軍宣下を受けた。
新将軍義詮は細川清氏を執事に任命。清氏は足利一族の仲でも有力者である細川和氏の子で、尊氏の下で直義との戦いなどで活躍して勇将として評価され文和二年(1353)に山名時氏と組んだ南朝によって京が陥落し美濃へ逃れる際、北朝・後光厳天皇を背に負い山越えをしている。文和四年(1355)に足利直冬(直義の養子、尊氏の実子)が京に侵攻した際には東寺に本陣を置く直冬を破った。因みに、その功績が認められ尊氏の代理として東寺から仏舎利を奉請した際には、仏舎利を収める宝物蔵の鍵が見つからないからと扉を打ち破って抗議を受けた逸話がある。戦場での活躍が評価されて文和三年(1354)には伊賀守護、同四年には若狭守護や引付頭人に任じられている。足利一門の有力者で、政権の中枢に関与してきた清氏が執事に任じられた事は、「執事」の地位が元来は足利家の家政を司る地位であったのを政権の重鎮としての性格をこれまで以上に強めたことを意味する。執事が「管領」と呼ばれるようになったのはこの頃からと言われ、以降は有力足利一門によって歴任されることになる。
さて、延文四年(1359)秋に義詮は南朝への総攻撃を計画し、関東より畠山国清の大軍を呼び寄せる。代替わりした直後であり、義詮は軍事的成功により権威を強化する必要を感じたのであろう。清氏は国清と共に南朝攻撃の指揮をとり、南朝の行宮があった金剛寺を焼き討ちし、後村上天皇は河内観心寺に逃れた。幕府軍は攻撃の手を緩めず、河内龍泉城・赤坂城を攻撃。清氏は龍泉城を攻める際には赤松範実と先陣を争い、南朝方の和田正武が夜襲を仕掛けた時には自ら迎撃するなど血気盛んなところを見せている。延文五年5月には南朝の命運も旦夕に迫ったかに見えたが、京で仁木義長が反乱を起こしたため幕府軍は引き上げることになる。
仁木義長は足利一門の傍流出身であるが、清氏と同様に尊氏の下で猛将として名を上げ伊勢守護に任じられていた。清氏と義長は以前より対立関係にあったが、南朝討伐戦の直前に畠山国清が清氏や佐々木導誉に義長討伐を誘いかけていた。義長の挙兵はそれに応じてのものであり、将軍義詮を自軍の陣営に軟禁して旗印として対抗しようとしたが、導誉の手引きにより義詮は脱出したため情勢不利と見た義長は伊勢に下って抵抗、南朝に降るも結局は帰参している。
さて南朝攻撃が失敗に終わり、逆に反攻を許すことになった国清は京での評判が下落し湯屋の世間話においても笑い者にされる有様であった。加えて、率いた軍勢が長期間にわたる遠征で疲弊し国元に引き上げ始めたため国清は関東へ帰国する。今回の出兵は関東の豪族からも強い不満を呼んでいたため、国清は鎌倉公方(関東の統治責任者)・足利基氏(尊氏の次男、義詮の弟)の不興をかう結果となり討伐を受け、流浪の末に病没した。
京では、今度は清氏と佐々木導誉の対立が顕在化していた。加賀・摂津の守護職を巡って双方の利害が対立していたのが大きな理由である。そうした康安元年(1361)に導誉は清氏が義詮・基氏らに反逆の心を抱いていると讒言した。義詮も清氏の振る舞いを専横として苦く思っており、中でも清氏が息子二人を無断で石清水八幡にて元服させたことを僭越と考えていたため清氏の討伐を決意し9月23日に後光厳天皇を奉じて今川範国邸に篭る。清氏は自らの拠点である若狭に逃れ抗戦するが敗れ、南朝に降った。南朝は清氏の降伏を受け入れ、彼を主力としての京攻撃を敢行。12月8日には清氏らは京を占領し、義詮は四度目(将軍就任後は初めて)の京失陥を味わう。この時、幼い春王も建仁寺を経て赤松氏が治める播磨へ逃れた。赤松則祐は白旗城で春王を迎え、退屈を慰めるべく松囃子を演じさせた。これは少年春王に強い印象を残したようで、義満が将軍となってからは毎年正月に将軍が赤松邸で松囃子を見るのが恒例となった。また、播磨滞在中に昼寝から覚めた春王が尊氏の描いた地蔵尊像を指して「この人が『吾、汝と永く離れず』と言った」と則祐に告げ、則祐は本願経に「人が地蔵尊像を描いて礼拝すれば、三十三天に生まれ、人間と生まれてもなお国王となる」とあることを思い起こし、春王は尊氏の転生かと喜んだという逸話も伝えられている。
清氏は20日後には京都を奪回され、翌年には四国へ落ち延びる。こうして春王も播磨から京へ帰ることができたが、その帰路に兵庫琵琶塚での景色を大変気に入り、「この地を京へ持って来い」と家臣たちに命じ、周囲はその気宇壮大に感銘を受けたと言う。
清氏は従兄弟・頼之の拠点である讃岐に橋頭堡を築こうと白峰に本陣を置く。一方で中国探題を務める頼之は備前の兵を主力に渡海し宇多津の守護所に布陣した。当初兵力に劣る頼之は持久戦を取り讃岐国内から兵力が集まり体制が整うのを待つ。その一方で実母を清氏の本陣に送り和平を試みてもいる。清氏は飽浦信胤の率いる南朝方水軍に備前と四国を封鎖させ、山名時氏と連絡して中国で攻勢を取らせ頼之を追い詰めようとするが徐々に現地の情勢は不利となった。最後には頼之が陽動作戦で部将・新開真行に西長尾城を攻撃させると見せかけて清氏軍を出撃させ、手薄になった白峰本陣を真行と共に攻撃して清氏を討ち取っている。

(4)「中夏無為の代に成て目出たかりし事共なり」

 貞治元年(1362)7月、義詮は清氏の次の管領として佐々木導誉の婿で足利一門である斯波氏頼を任命しようとしたが、その父・高経が下の子である義将を寵愛していた事もあり義将が管領となった。義将は13歳と年少であったため父の高経が後見として権勢を振るう。
翌貞治二年(1363)には中国地方で長らく反抗を続けていた山名時氏・大内弘世を幕府に降伏させることに成功した。彼らが旗印に掲げていた足利直冬の勢力が幕府の圧迫により衰退に向かっていた事がこれを可能にしたようだ。とはいえ、大内は長門・周防の既得権益を追認されそれまで長門守護であった厚東氏が逆に追いやられているし、両国の所領関係について全権を認められていたようである。山名も自力で獲得した伯耆・因幡・美作・丹後・丹波の守護職を認められている。降伏とは名目上に過ぎず実際には対等の和睦といってよい状況で、長年幕府に尽くした将たちが痛憤して「多くの所領を持ちたければ将軍の御敵になるのが良い」と皮肉ったと言う。
斯波高経は諸国の家臣たちにかける武家役の割合を1/50から1/20に増額、また有力守護に対し厳格な姿勢で臨み足利将軍家の権威上昇を図った。しかしこれらが守護たちの反感を買い、中でも摂津守護職や摂津多田荘を巡り利害対立していた佐々木導誉と関係が悪化。また、根拠地である越前の河口荘を巡り興福寺とも対立を深め、興福寺と導誉ら有力守護が連合して義詮に働きかけ、貞治五年(1366)に義将は管領を罷免され高経は失脚した。貞治六年(1367)、義詮は重病となり11月26日には政務を10歳の義満(貞治五年に名を拝領し従五位下となっている)に譲り、管領に讃岐から呼び寄せた細川頼之を任命。この際、義詮は頼之に「われ今汝のために一子を与へん」と言い、続いて義満に「汝のために一父を与へん、その教へに違うなかれ」と言い残したという。12月7日、義詮は38歳の若さで世を去った。
頼之が幼主・義満を補佐して管領につく前後から天下の情勢は安定へと向かう事になり、南北朝の動乱を描いた軍記物「太平記」はこの時点で「中夏無為の代に成て目出たかりし事共なり」(天下は何事もなく平和な時代となってめでたい事である)と結んでいるが、その後も南北両朝の並立は25年ほど続くのである。いわゆる「太平記」の時代は終わったが、我々はここで筆を置くことなく今後の展開を追うことにしよう。

(5)細川頼之

 細川頼之は頼春の子で、清氏とは従兄弟にあたる。義詮時代には中国探題として、足利政権に抵抗する山名時氏・大内弘世の鎮撫を受け持っていた。反乱した清氏が四国に逃れた際には清氏を討ったことは前述の通りである。大内・山名の降伏後は四国の統一を進めており、当時の足利一門有力者では力量・家柄とも第一の存在であった。一説では頼之の妻は義満の乳母であったと伝えられ、義満を補佐して幕政を担うには適任者といえる。
義満は応安元年(1368)4月15日に元服し翌二年元旦に足利政権第三代の征夷大将軍に任じられているが、未だ年少であり政務はなお頼之の手にあった事は言うまでもない。
頼之は飽くまでも幼主・義満を立てつつ足利政権の安定に力を尽くした。「細川頼之記」に当時の頼之と義満に関する逸話が多く収められているが、俗書であり内容の信憑性には疑問がある。しかしこの時期に頼之が義満に帝王学を施し、追従・専権を諌め将軍の権威確立に努めたことは事実であろう。
ここで頼之の施策を見ることにする。まず目に付くのは義詮没後間もない貞治六年(1367)12月29日、早くも倹約令を発し有力守護の驕慢を戒めている事である。翌年には五山の禅寺にも倹約を命じている。更に応安元年(1368)6月には新たに半済令を出し、皇室・摂関家・有力寺社の一円領(荘園領主が直接支配する領域)は保護し、その他の荘園は半済とする(逆に言えばそれ以上の侵食は許さない)方針を打ち出している。朝廷や伝統寺社への融和策と見ることが出来る。
こうした中で、頼之の頭を悩ませたのが南禅寺問題である。尊氏時代より幕府の保護を受けた禅宗と叡山などの伝統寺社との対立が激化しており、この頃に南禅寺楼門建立のための関所を園城寺の稚児が関銭を払わず通行しようとして殺害された事件をきっかけに表面化した。叡山・園城寺は南禅寺山門の破却を要求するが、天竜寺の春屋妙葩はこの要求を呑めば朝廷・幕府の権威失墜につながると主張し頼之も一旦これに同意。応安元年(1368)8月29日に神輿を奉じて叡山大衆が朝廷に強訴、頼之は軍勢を出して迎え撃たせるが幕府軍は平伏して神輿を通してしまい、叡山僧兵達は神輿を内裏に放置して引き上げた。幕府軍の前衛は赤松・佐々木・山名ら山門への妥協派が多かったのも一員といわれ、そうした配置をした頼之も内心では叡山との妥協を考慮していたとも考えられる。結局、幕府は叡山の要求に屈し南禅寺楼門の破却を決定。洛中の禅僧は一斉にこれに抗議、中でも春屋妙葩やその門徒がボイコットに及び頼之は彼ら約230人の僧籍を削る挙に出ている。以上より、頼之の宗教政策はこれまで幕府との結びつきで力を強めつつあった禅宗は圧迫し管理を強め、一方で伝統仏教とは融和的に接するのが基本であったといえそうである。
頼之は一方で幕府の財源確保にも意を注ぎ、応安四年(1371)11月には後円融天皇即位の儀礼資金を得るためとして土倉・酒屋と言った京周辺の金融業者を対象に蔵・壷単位で課税し諸国からも段銭を徴収した。京の商業発達を背景に貨幣経済を利用して幕府直轄領の少なさをカバーする方針としたのである。これは後の明徳三年(1394)に酒屋役・土倉役という形で確立することになる。
南朝対策も重要な課題であった。南朝では応安元年(1368、南朝・正平二十三年)に後村上天皇が崩御し長慶天皇が即位、主戦派が力を持つようになったため和平派であった河内の楠木正儀は立場が微妙なものになっていた。頼之は正儀に働きかけ、翌応安二年には正儀を足利方に投降させる事に成功した。以降、正儀は一族から攻撃を受ける事となり、頼之は応安四年(1371)に赤松光範・細川頼基を援軍として差し向けるが守護たちは頼之・正儀への反感からか救援に積極的ではなかった。そのため頼之はこの時に西芳寺に篭り義満の説得で出家を思いとどまっている。幕府軍も摂津へと南下して正儀と共に南軍と戦っており、この時は事なきを得ている。応安六年(1373)には赤松光範・細川氏春が更に攻勢に出て天野行宮を焼き払い、長慶天皇は吉野に逃れている。
南朝対策で鍵を握るのが九州の問題であった。尊氏が没する前後から、懐良親王を要した菊池武光が九州全体に勢力を伸ばし、この頃には大宰府を拠点にして吸収を統一支配しており足利方の九州探題・渋川義行は現地に足を踏み入れる事すら出来ない状況であった。これに連動して四国の南朝方も河野氏を中心に南朝皇族を迎えての反攻を目論んでおり、一日も疎かに出来ない問題となっていたのである。応安三年(1371)に頼之は九州探題を今川了俊に交代させ、了俊も期待に応えて翌応安四年には大宰府を奪回している。了俊の九州経略についての詳細は後述する。

(6)「人生五十 功無きを愧づ」

この頃、頼之の守護への圧迫的な姿勢に反発する有力者も現われるようになっていた。頼之は中央政権の強化・将軍権威の確立を目論み政務を取っていたが、必ずしも強圧的な態度のみであったわけではない。先に斯波高経が収入の1/20に上げた武家役を従来の1/50に戻すなど妥協的な政策も取っているのであるが、それでも守護たちは赤松・富樫・一色・今川ら細川派と山名・六角ら斯波派に分かれての対立を激化させるようになった。応安五年(1373)に義満が15歳で始めて文書に署名・花押を押す判始を行って以降、徐々に実験を握り始めていた事も反細川派を力づけていたであろう。更に永和四年(1378)、紀伊で南朝方の橋本氏が挙兵しそれに対し義理が紀伊、山名氏清が和泉の守護に任命され戦果を挙げた事もこれに拍車をかけることになる。
同じ永和四年、大和で十市・越智氏が挙兵し翌康暦元年(1379)に斯波・吉見・富樫・一色・赤松・佐々木・斯波が大和へ出陣した。しかしその中に不穏な動きが見られたとして頼之は撤兵を命じるが、斯波義将・土岐頼康・京極高秀はこれに従わず領国に帰り蠢動していた。しばらくして斯波義将が叛意のないことを表明し軍勢を率いて上京して義満から赦免を受け、一方で京極・土岐は領国で不穏な動きを続けていた。また、鎌倉では氏満がこれに呼応するように上杉憲方を出兵させたが、関東管領の上杉憲春が諌死した事や京からの教唆で小山氏が挙兵し対応に追われた事もあり京との戦いには至らなかった。しかしこの後も鎌倉と京の将軍との対立は不安定要素となる。
鎌倉の不穏な動きにも押され、義満は3月18日に土岐頼康を、4月13日に京極高秀を赦免している。これは反頼之派を将軍が抑えきれなくなっている事を意味しており、彼らを勢い付ける事になる。彼らは赦免に応じる形で次々に上洛、閏4月14日には反細川派が将軍邸を包囲し頼之罷免を要求、その圧力に屈する形で義満は頼之を解任した。頼之は出家し一門を連れて讃岐に落ち延び、道中で以下の漢詩を詠じている。
人生五十愧無功             人生五十 功無きを愧づ
花木春過夏已中             花木春過ぎて 夏すでに中ば
満室蒼蠅掃難尽             満室の蒼蝿 掃へども尽くし難し
去尋禅榻臥清風             去りて禅榻を尋ね 清風に臥せん
(人生五十にもなるのに何ら功績を挙げられない事を恥じる。花や木も春を過ぎて既に夏の半ば。部屋中に煩い蝿がいて払っても切りがない。ここを立ち去って寝台へ行き清らかな風に吹かれて横になるとしよう)
志半ばでの失脚への無念と魑魅魍魎の政治の世界から離れ隠遁を思考する心情とが詠み込まれている。
頼之失脚の後、反対派の領袖である斯波義将が管領となった。義将は春屋妙葩を京に呼び戻し、禅宗と幕府との関係修復に努める。一方、成年に達した義満は頼之の庇護を離れ強力な権勢を発揮するようになる。

(7)花の御所

義満は、祖父や父が官を権大納言までとし朝廷とは一定の距離を置いたのとは異なり、積極的に官位を上昇させ貴族世界に入り込んだ。朝廷内でも栄達することにより権威を上昇させ、伝統貴族や有力守護らを圧倒する目的である。これは頼之の意図した方針でもあり、倹約令が出される中でも義満周辺は贅美を尽くし権威確立を目指した。
応安六年(1373)に参議・左近衛中将となり、永和元年(1375)には従三位となり有力貴族である日野氏から業子を正室に迎えた。尊氏が北条氏、義詮が渋川氏とそれまでの正室の出身が有力武門であったのとは異なり、ここにも貴族社会に食い込む方向性が見て取れる。以降、足利将軍家は日野氏より正室を迎える慣習となった。更に永和四年(1378)には従二位権大納言・右近衛大将に昇進。
同年に北小路室町の嘗て院御所があった地点に将軍邸を移転。ここは東洞院土御門の内裏と近接し、朝廷との一体化を象徴する形となった。四季の花々が邸内に咲き誇っていたため「花の御所」と通称される。以降、将軍は「室町殿」と呼ばれることになり、足利政権を「室町幕府」と呼ぶのはこれに由来する。
頼之が失脚し義満自身が主導権を握るようになってからもこの流れは変わらず、康暦二年(1380)には従一位となり内大臣に昇進、これまでの足利氏の極官を越えた。この頃より将軍として武家相手に使っていた花押とは異なる伝統貴族様式の花押を使用するようになり、諸事に関して摂関家に準じた待遇を受けることとなる。これまでの武門に留まらず、伝統貴族に対しても支配を及ぼそうと言う姿勢がこの頃より明確になり始める。永徳元年(1381)には完成した花の御所に後円融天皇が行幸し、これも義満の権勢を誇示することとなった。永徳二年(1382)には左大臣に昇進し、後円融天皇が子の後小松天皇に譲位し院政を開始すると義満は院別当となりその実権を掌握。更に翌年には源氏長者に任じられた。これまで伝統的に務めてきた久我氏(村上源氏)に替わっての異例の措置である。同年にはこれも左大臣には異例の准三后(皇后・皇太后・太皇太后に準じる)に任じられ、義満は朝廷に深く入り込んでいく。
こうした義満の専権は伝統貴族の不満を招いたが、最も圧迫を受けていたのは後円融院である。義満と同年齢の院は、永徳三年(1383)には寵愛していた厳子を、産後に実家より帰るのが遅いと咎め刀の背で殴打するという暴挙に出ている。また、同じく寵姫であった按察局が義満との密通を疑われ突如出家させられている。この時、義満から仲介の使者が来ると、院は配流されると恐れて持仏堂に入り切腹しようとしたという。院が神経をすり減らしていたことが知られる。
朝廷を牛耳る人間に相応しくあるため、義満は貴族的教養にも力を注いでいた。二条良基から和歌・連歌を、義堂周信より論語・孟子を学び、豊原信秋から笙の奥義を、飛鳥井雅縁より蹴鞠を伝授されている。永和元年(1375)に和歌会始を主催したのに始まりしばしば歌合・管絃を催し、朝廷の儀式もしばしば担当している。また、勅撰和歌集にも「新後拾遺和歌集」に19首、「新続古今和歌集」に7首の歌が入集している。至徳元年(1384)に完成した勅撰和歌集「新続古今和歌集」は将軍からの希望で編纂されたものであると言う。朝廷の専任であった伝統文化事業に至るまで足利政権は発言を及ぼすようになっていたのである。
こうした朝廷への食い込みが可能になった背景には、朝廷の経済・政治的な実力の後退とそれに伴う足利政権の実力の伸長がある。足利政権樹立時点では、武力を大きく足利政権に依存し権威が凋落しつつあったとはいえ、北朝朝廷にも京の市政を中心に一定の政治的権限が残されていた。しかし、各地に散在する朝廷や伝統貴族の領地は戦乱の中で有力守護を始めとする豪族たちに侵食されその収入を著しく減少させる。半済令発布以降は、それが法的に裏付けられた形になり荘園侵食に拍車がかかった。そうした経済力の弱体化を裏付けるように、京の市政に関する権限も徐々に幕府に吸収されていく。まず洛中の軍事・警察が検非違使から侍所に移り、朝廷・寺社が保有していた商業への課税も幕府の手に治められていく。前述した土倉・酒屋への課税もこうした過程を背景にしていたのである。義満は、戦乱で空洞化した朝廷を踏み台に、権威を比類ないものにしようとしていたのである。

(8)諸国遊覧

勿論、義満は有力守護たちへの支配強化も図っていた。応安年間に前世代の有力者が相次いで没しており、義満が守護に対し強い態度をとる上で大きな助けとなっていた。嘉慶元年(1387)に土岐頼康が没すると、翌年には美濃・伊勢を康行に、尾張を満貞に継承させ土岐氏を分裂させている。尾張で康行派が挙兵し満貞と争いになると、義満はこれに介入し嫡流の康行を追放。美濃を頼益、尾張を満貞、伊勢を仁木満長(義長の子)に与え、土岐氏の勢力を弱体化させた。なお、当時は没収地再給付が原則とされており、この時に伊勢が仁木氏に与えられたのも、かつて仁木義長の領国であったためである。
この頃、義満は各地への遊覧・寺社参拝を頻繁に行っている。嘉慶二年(1388)9月に富士遊覧し今川氏からの接待を受けている。翌康応元年(1389)3月には厳島神社を参詣し、その道中に讃岐で細川頼之と再会し同行。更に周防に至り大内義弘とも合流し九州へ渡航を図るが、嵐のためそれは断念した。これらは、単なる物見遊山ではない。富士遊覧は関東の氏満への示威・圧迫を意図したものであったし、厳島は瀬戸内周辺有力者への示威を目的としていた。加えて九州南朝方への圧迫・今川了俊への督促も狙っていたであろうし、道中で再会した頼之と今後の方針を打ち合わせたであろう。同年9月には高野詣をしているが、衆徒への圧迫・懐柔も目的であった。明徳元年(1389)の気比参詣は、越前守護であった管領・斯波義将への慰労・示威を目的としており、翌年の春日社参詣も大和衆徒への懐柔を意図していた。これらが将軍の権威上昇に大きく寄与したのは疑いない。
この当時、義満は将軍権力基盤の確立のため幕府機構・財源確立に力を入れている。これまで将軍直属の軍事力が貧弱であり、尊氏・義詮時代にしばしば京を明け渡して逃亡を余儀なくされたのはそれも一因であった。将軍直属軍である奉公衆が整備拡大されたのはこの頃であり、関東有力豪族や足利一門、譜代の有力者から人員を集め五番制に編成、それぞれに番頭をおいた。番頭は将軍直属とし守護に次ぐ家格と定められている。奉公衆の経済的基盤として山城周辺の土地を給付していたため、山城守護は侍所頭人が兼任するのが慣例となった。因みに侍所も将軍直属とし管領を牽制し専権を防ぐ役割が与えられている。他にも将軍直轄領の拡大に力が注がれ、財政管理は政所に委ねられた。
家格の整備もこの頃に行われ、三管領(細川・畠山・斯波)、四職(一色、京極、山名、赤松)、国持衆(守護)、御供衆(番頭)の順とされた。

(9)明徳の乱

康応元年の厳島参詣を契機に頼之と再度連携、養子の頼基を管領に任じ頼之はその後見となる。この時期、南朝が弱体化し最大の脅威は寧ろ有力守護であった。中でも山名氏は11ヶ国にわたる守護職を一門で占め「六分の一殿」と称されていた。以前には長年にわたり幕府と敵対した経過もあり、義満にとっても大きな懸念材料だった。
義満は細川氏と連携して山名氏対策に当たることになる。康応元年(1389)に山名時義が死去すると満幸が丹後・出雲・伯耆、義理が美作・紀伊、氏冬が因幡、氏清が丹波・山城・和泉、時煕が但馬・隠岐・後に伯耆を受け継いでいる。この時、義満は山名氏を分裂させる氏清・満幸に時煕・氏幸を討たせ、氏清に但馬、満幸に伯耆・隠岐を与えた。
明徳二年(1891)、時煕・氏幸は義満に面会し赦免を求める。この際に義満が二人を不憫に思ったとの風聞もあり、不快に思った氏清は義満を招いての宇治紅葉狩を中止し義満の不興をかう。また満幸は出雲横田荘を横領した罪に問われ守護職を奪われた。満幸は、義満が山名氏を潰す魂胆である事を知り氏清・義理と語らって幕府に反旗を翻す。彼らは南朝より綸旨を受け取り名分を立てる一方、義満は綸旨を北朝より受けることなく、烏帽子・直垂とフスベ皮の腹巻を身に着けて戦いに挑んだ。「家僕戒めの戦い」としての例との事である。因みにこれ以降は義満・義持の時代を通じて将軍は敵を討つに当たり綸旨を求めなくなった。軍事指揮権・権威を名実共に将軍が把握したと言える。
12月25日に戦評定し義満は「当家の運と山名一家の運とを天の照覧に任すべし」と述べて決戦を決めた。内野に5000を布陣させ義満は堀川一色邸で奉公衆3000騎を率いて本陣を置いた。氏清率いる3000騎は堺から、満幸率いる2000騎は丹後から京へ侵入。満幸は26日に峯の堂に布陣し30日に洛内に入るが氏清は遊佐勢に阻まれて遅れ、29日に淀に至り軍勢を分けて南より侵入。
30日、大内義弘と氏清配下の小林上野介の手勢が衝突、大内は弓で応戦し小林らは馬を捨てて切り込んだ。一方、満幸らは内野へ侵入し細川・畠山と奉公衆3000騎が迎え討った。氏清率いる2000騎は大内義弘・赤松義則を押し返すが、これに一色・斯波勢が加勢し奉公衆も応援に駆けつけたため山名勢は敗北し氏清は一色詮範に討ち取られ満幸は逃亡した。この山名氏との戦いは元号より明徳の乱と呼ばれ、軍記物「明徳記」で語られる事になる。
戦後に論功行賞が行われた。その結果、丹波に細川頼元、丹後に一色満範、美作に赤松義則、和泉・紀伊に大内義弘、但馬に山名時煕、因幡に山名氏冬、伯耆に山名氏幸、隠岐・出雲に京極高詮が宛がわれた。山名氏の勢力は11ヶ国から3ヶ国に大きく削られたのである。それも単純に相続が認められたのでなく一旦召し上げられた上でこの乱で勇戦した功に対する恩賞として給付されたものであった。
明徳三年(1392)、義満は1100人の僧を集め内野でこの戦いで戦死した人々を慰霊する法要を営ませており、これ以降に北野万部経が行われるようになったという。山名氏の勢力削減を成し遂げた後、氏清の生前の功績にも思いをいたしたのであろうか。

(10)「南北合一、一天平安」

明徳三年(1392)、山名氏の没落を見届けるようにして細川頼之が没した。義満は幼年より自分を補佐した功臣の死に対し、自ら写経して供養を行っている。
頼之が生前より大きな課題としていたのが対南朝問題であった。観応の擾乱や明徳の乱を引くまでもなく南朝の存在が反乱者にとっての錦旗となっている事、観応の擾乱の際に尊氏と南朝が一時和睦した際に南朝に北朝の神器を接収されたため以降の北朝には神器がなく北朝の正統性に問題がある事(これは北朝天皇より将軍に任命されている幕府自体の正統性にも問題があることを意味する)。これが勢力的にはほぼ消滅寸前である南朝を無視できない理由であった。
南朝は長慶天皇即位以後は強硬な方針を取っていたが、山名氏清らにより楠木氏を始めとする味方(楠木正儀は永徳二年に再度南朝に帰参している)が大きな打撃を受けた事や頼みの綱であった九州南朝方が次第に圧迫されつつあった事もあり、主戦派の発言力は弱まり弘和三年(北朝永徳三年、1383)に後亀山天皇が即位した。その後も長慶院は意気軒昂であったようで元中二年(北朝至徳二年、1385)に「今度之雌雄思ひの如くば、殊に報賽を致すべし」と天野丹生明神に願文を納めている。「雌雄」の意味としては後亀山ら和平派との対立と幕府との決戦の両説があるが、いずれにせよ長慶と後亀山とでは方針に大きな差があり南朝は既に深刻な内部分裂にあったと言える。
後亀山天皇の下で南北両朝の和睦が模索され、明徳三年(1392)に吉田兼煕が義満の使者として吉野に向かった。兼煕は北朝廷臣であったが、後亀山に神道の講義をした経緯もあり南朝方とも顔が利く関係であるためこの役目に抜擢されたのである。南朝方の代表は阿野実篤・吉田宗房で、かつて南朝方であった経験を持つ大内義弘が両者を仲介しつつ交渉は進められた。@譲国の儀式を行いそこで後亀山天皇から後小松天皇に神器を譲渡する、A皇位は今後持明院統(北朝)と大覚寺統(南朝)が交互に即位する、B諸国国衙領は大覚寺統、長講堂領(皇室領最大の荘園)は持明院統が支配するという条件で妥結し、10月28日に後亀山は吉野を出発、閏10月2日に入京し大覚寺に入った。この時、京に入った南朝の行列は神器を先頭に立て天皇・東宮に続いて廷臣17人・従士約50人(名和氏6人、楠木氏7人、和田氏1人、宇陀郡の国人ら)のみを従えるという朝廷一行としては極めて侘しいものであり、南朝の衰弱を如実に示したものであった。閏10月5日、譲国の儀式は行われることなく神器は接収され、土御門の内裏に移され、源平争乱の後に神器が帰座した例に倣い三日の神楽が施行された。早くも@の条件が守られなかったのである。義満としては、譲国の儀式を行うことはこれまで奉じてきた北朝を否定することになるため実際には無理な相談であった。後亀山に太政天皇号を与える事が可能な範囲で精一杯であったが、これも応永元年(1394)2月に「特に礼敬の新制」、つまり特殊な例外として行われたに過ぎなかった。Aの条件についても、朝廷の混乱を招く危険が大きくそれがどのような結果となりうるかはこれまでの60年の歴史が示していた。Bについては、後亀山院が国衙領管領の院宣を出していることが分かっており一応は守られたようである。しかし守護や現地豪族による侵食が著しく有名無実名者となっていたと考えられる。
義満は可能な範囲で約束を守り、旧南朝を尊重したと言えるが、実質的には条件は無視されたと言ってよい状況である。しかし南朝の勢力は消滅寸前の状況であり、約定を無視される危険を承知の上でも和睦を決断せざるを得ないと後亀山は判断し和睦につながった。
ともあれ、60年の内乱を招いた南北朝並立は終焉し朝廷の合一が実現した。当時の興福寺の僧による日記には「南北合一、一天平安」と記されている。しかし旧南朝の不満は蓄積し、後南朝の活動を生む事になるのである。

(11)北山第

南北朝合一が実現した翌年の明徳四年(1393)9月、義満は伊勢参宮した。南北朝合一が実現した謝礼を神に行うと共に旧南朝の有力者である北畠氏への示威が目的であった。
応永元年(1394)12月17日、義満は将軍を辞任し長男・義持が9歳で将軍宣下を受けた。同時に従五位下に任じられており、これは摂関家の子弟が初めて任官するときの例に準じたものであるという。数日後の25日には義満は太政大臣に任命され、人臣位を極めた。「足利治乱記」はこの時に朝廷が難色を示したのを受け、義満は「ならば自立して斯波・細川・畠山・六角・山名を五摂家とし京極らを六精華(大臣の家柄)とする」と豪語したと記す。この話自体は信頼に足りないが、足利将軍家のこの時期の実力・自負を覗わせる逸話ではある。
自身の栄達に留まらず、貴族たちの任官も義満の意のままである状況で、本来は叙位任官の際には参内して天皇の前で舞踏するのが慣習であったのであるが、この頃には花の御所で義満の前で舞踏する貴族も出現する有様であった。人事が義満の意思で左右される状況は、応永年間になると人事原案である折紙を天皇に代行し義満が書くというまでに進展する。朝廷の人事権は名実共に天皇から義満に移っていたのである。
応永二年(1395)6月20日に義満は絶海中津を師として出家し、管領・斯波義将や細川頼元、大内義弘、今川仲秋ら幕府有力者もこれに倣い出家。貴族たちも右大臣・花山院通定や徳大寺実時らを始めとして多くが出家した。常盤井宮に至っては義満に法名を尋ねられ慌てて出家する哀れな有様であった。義満は応安五年(1373)に既に受衣し「道有」の法名をもっていたが、出家後まもなく「道義」と改めた(ただし本文ではこの後も「義満」と表記する)。尚、出家後の受戒の時には、法皇の例に倣って行われている。出家と言っても俗世・政治から離れるわけではなく、俗世の束縛から離れ自由な立場から専権を振るうのが目的であった。
応永四年(1397)には北山第を上棟。北山は古くから遊楽の地として知られ、鎌倉期には西園寺氏により氏寺が建立された事もある。仙洞御所(院御所)に倣って建てられた北山第は、西南に護摩堂、東に懺法堂・紫宸殿、更に公卿の間・天鏡閣・泉殿・看雲亭・法水院・舎利殿を備え「西方極楽にも換ふべからず」と称された。中でも華麗眼を奪った三層の舎利殿(現在の金閣)は金箔で塗られ、第二層に観音像、第三層に仏舎利を安置し屋根に鳳凰像を飾った。第一層・第二層は寝殿造、第三層は禅宗建築である。義満はここに移り政務を執るようになった。以降は北山第が政治の中心となり、後に明の使者が来航した際もここで国書を受ける事となるのである。

(12)応永の乱

この頃、義満が警戒した有力者は大内義弘であった。今川了俊の九州経略に協力し、明徳の乱では勇戦し、南北朝合一の際には仲介を努めるなど功績は絶大であった。周防・長門・石見・豊前・和泉・紀伊の守護を務め、足利一門に准ずる待遇を受ける身であった。瀬戸内の両端を把握し要港・堺を支配して明・朝鮮との貿易で有利な立場にあった。朝鮮に使者を出して百済王族の末裔である事を根拠として朝鮮に領地を得る事を申請した事もあり、朝鮮との関係を重視していた事が覗える。
応永六年(1399)、義満は細川氏と結び大内氏の圧迫にかかる。これに対し義弘は強く反発し、楠木ら旧南朝の強硬派と結び義満に反旗を翻した。10月13日に堺に上陸し町ぐるみで城塞を築いた。義満は仲介の使者として絶海中津を差し向け義弘に上洛を促すが、義弘は義満が少弐・菊池に大内を討たせようとしている事、紀伊・和泉の守護職を取り上げようとしている事、弟・満弘が討死したにもかかわらずそれに対する勲功が認められない事を詰問し上洛を拒否した。上洛した場合には誅殺される可能性も大いにあり、当然の反応と言える。義弘は堺に篭城して抵抗、予め通じた各地の不平勢力に蜂起させた上で鎌倉公方・足利満兼の上洛を待ち挟撃する戦略を取った。
10月28日、義満は細川頼元・赤松義則ら6000の軍勢を淀・山崎を経て和泉へ発向させた。11月8日には義満自身は東寺に陣を置き2000の馬廻を率いる。これに畠山基国・満家、斯波義将・義重、吉良、石塔、今川ら三万騎が従ったという。14日には陣を八幡に布き畠山基国・斯波義将らを先陣として堺に向かわせた。
義弘が堺に築いた城砦は1.8km四方にわたり、ここで義満の手勢を迎え討つ事とし森田城で合戦していた味方を呼び寄せ兵を結集した。一方で最期を覚悟し、僧に菩提を弔う事を依頼すると共に老母に遺言を送っている。
11月29日、堺を包囲する幕府軍が陸・海から攻撃。北を畠山・山名・北畠、南を細川・赤松、東を京極・六角が担当し攻城戦が行われるが、木戸を突破できず攻めあぐねる。
この間に義弘と打ち合わせていた不平分子が兵を挙げる。まず土岐詮直が尾張で挙兵し美濃に攻め入る。堺に参陣していた土岐頼貞は国許に帰り詮直を破っている。次いで山名時清も丹波で蜂起、京に攻め入り300騎を率いて八幡の陣に攻め寄せた。近江では京極秀満が挙兵、勢田で三井寺と戦っていた。守護一門で一族間の争いに敗れたものが主に挙兵していたようである。
鎌倉では満兼はこれに呼応して出兵し、かねてから対立状態であった京の将軍家に取って代わろうと図ったが、関東管領・上杉憲定に強く諫止されていた。満兼上洛を待望していた義弘であるが、覚悟を定め和歌百首・連歌千吟を詠んで部下達と別離の宴を催した。
12月21日、強風を利して幕府軍は多数の大きな松明に火を付け城内に投げ入れる。城砦は炎上し、義弘は左右を駆け抜けながら奮戦、最期は畠山満家の軍勢に突入し満家を討ち取ろうとするも果たせず自刃して果てた。かくして大内氏も勢力を削減され、大陸との交渉も義満の手に落ちたのである。

(13)九州経略

今川了俊が応安四年(1371)に九州探題に任じられて以来、徐々に平定を進行させる。了俊はまず今川義範を豊後から、仲秋を肥前より上陸させて土豪を組織させた。そして自らは大内氏の後援を得て吉川氏・小早川氏・毛利氏を組織して門司へ上陸。大内氏・松浦党も味方につけた。そして翌応安五年には早くも征西府のある大宰府を奪回している。しかし永和元年(1375)、水島で有力守護を招いた上で少弐冬資を謀殺。以前より反抗的であった少弐を粛清し守護を威嚇する目的であったが、これは裏目に出た。守護たちはこれに反発、大友氏は何とか慰撫する事ができたが島津氏は了俊に反旗を翻した。これ以降、了俊は南朝方(征西府)と島津の両面作戦を強いられる。島津を帰順させるには南朝方を圧倒して孤立させる他なく、南朝を抑えるには島津を弱体化させる必要があり、双方の戦線に力を注ぐ必要があった。そんな中で辛抱強く了俊は地元豪族を味方につけ平定を進めた。永徳元年(1381)には隈武を落とし、明徳三年(1392)には菊池・阿蘇氏を降伏させた。そんな中、頼みとする菊池武光らを失った征西将軍・懐良親王は弘和元年(北朝永和三年、1383)に筑後矢部で没し甥の良成親王が跡を継いだ。
了俊が九州の豪族を帰服させる際に用いた方法は、半済の給付・本領の返付・官位の推薦である。この時、了俊は数多くの書状を送り豪族たちに道理を説いている。将軍の権威が絶対である事、自らは将軍の代理としてこの地にいる事を説いて権威の下に帰順させようとしたのである。これはかつて南朝の北畠親房が関東において行ったのと同様な方法である。親房は失敗し了俊は成功した。その根本的な理由は、実も蓋もないが戦況の有利不利の違いにあったと見る他はないであろう。
九州平定をほぼ完成させた応永二年(1395)、了俊は突如として九州探題職を解任され、後任には渋川義行が任じられた。長年にわたり活躍した了俊への恩賞としては駿河半国の守護職を与えられたのみであった。不平に思った了俊は、応永の乱で大内義弘が挙兵した際に鎌倉公方・満兼と共に蠢動したものの不発に終わる。晩年は今川氏の功績を主張する「難太平記」や多くの歌学書を著し隠居生活を送ったとされる。了俊解任は大内義弘の讒言が切っ掛けと「難太平記」にはあるが、他にも理由はあった。九州は大陸との交易をする上での要地であり、大陸との直接交易を目論む義満にとって了俊は目の上の瘤となりつつあった。そして九州のほぼ全域を将軍代理として把握する了俊は最早義満にとって最大の脅威であったのだ。更に、九州経略を最終的に完成させる上で島津氏と対立関係にある了俊では難があるとの判断もあったようである。九州・瀬戸内を手中にした義満は大陸との交渉に乗り出す事になる。

(14)「日本国王源道義」

 13世紀後半より日本人を中心とした九州周辺の海賊が朝鮮南岸を荒らすようになった。彼らは「倭寇」と呼ばれ、14世紀半ばには日本の内乱に伴う政治的空白に乗じて勢いを強めて凶暴化、海上兵力のみならず騎兵も擁しておりしばしば内陸まで攻め上るようになった。首都・開城付近まで迫られる事も多く、高麗人貧困層も多数合流するようになっていたという。李成桂が活躍し倭寇に攻勢をとると、活動地域を山東を中心とした中国沿岸に移すようになる。倭寇の勢いが強かった時期は九州で懐良親王が勢力を誇った時期とほぼ一致しており、九州の海上勢力が南朝との結びつきが強かった可能性を示唆している。
 今川了俊は高麗やその後継王朝・朝鮮(1392年に李成桂が建国)から倭寇禁圧を要求され、それに応じて通行し倭寇による捕虜を返還するなどしていた。応永六年(1399)には九州を直接手におさめた義満が「日本国大相国」として自ら朝鮮に国書を送っている。
 元を北方に逐い建国された明も日本に倭寇禁圧を求めていた。懐良親王は当初、明に臣従するのを拒否していたが最終的には修交を決意したようで「日本国王良懐」として使者が何度か明に送られている。義満も明との交易を望み使者を送っているが、既に良懐を国王に封じている・国王でなく臣下が直接皇帝に使者を送るのは非礼であるとの理由で拒否されていた。
 応永八年(1401)、「日本国准三后道義、書を大明皇帝陛下に上る」で始まる国書を東坊城秀長に起草させ博多商人肥富・同朋衆祖阿を明に遣使。明の建文帝はこれを朝貢として受け入れ、翌年8月に返礼使を日本からの使者に同伴させ派遣した。明使が到着したのは9月、義満は使を北山第で迎え国書を焼香三拝して拝見する。「爾、日本国王源道義」で始まるこの国書により日本と明の国交が樹立された。この頃、建文帝の叔父・燕王が反逆し帝位を奪った(永楽帝)。そこで義満は関係再構築のため応永十年(1403)に新帝即位を賀する使節を派遣し改めて「日本国王臣源表」で始まる国書を送った。永楽帝はこれに応じて冠服・金印・勘合符を与えた。以降、倭寇を禁圧すると共に、勘合符を持参した朝貢使のみ交易が可能な体制となった。
 義満の遣使が受け入れられた背景には、燕王を始め有力諸侯と対立し権威確立が必要だった建文帝・簒奪による即位で正当性に問題を持ち朝貢により権威を高めようとした永楽帝の事情が考慮される。
 明に臣下の例をとっての国交には当初より国内で強い批判があった。臣と称する事や国書に明の元号を用いる事、朝廷を差し置いて交渉する事が特に非難を浴びている。しかし義満はこれを押し切り交易を行った。応永十四年(1407)には銀千両・銅銭一万五千貫・綿十反などにより二十万貫以上とも言われる利益を挙げている。幕府の経済基盤確立という面から見て、名分を捨てる(他の周辺諸国は当時当然のように行っていた事であるが)に値する実益が確かに存在したのである。

15)北山文化

 ここで、義満の時代における文化について見てみることにする。
 古代国家においては中央政府に管理されていた芸能民は、政府が弱体化し寺社や貴族・豪族による自給体制の時代となると寺社の管理を受け、同業者組合「座」を結成して儀式などで奉仕する事になる。その中で物真似を中心とする猿楽・豊作祈願に由来を持つ田楽などが大和四座に代表される有力なものに組織され一般にも愛好されるようになる。また、農村・都市で寄合により結束を固める慣習もあって茶・連歌が好まれるようになっていた。
 そうした中で、大和猿楽の観阿弥・世阿弥を義満が初めて観賞したのは応安七年(1374)のことであった。義満は世阿弥(藤若)の美貌・才能に心奪われ、世阿弥は同朋衆として義満に仕える事になる。永和四年(1378)の祇園会見物の際に義満・世阿弥が同席し人々の注目を集めている。広い階層からの人気を集めていたとはいえ、貴族たちの視点からは猿楽は「乞食の所業」(「後愚昧記」)と表現されたように卑賤の対象であり破天荒の待遇であった。
世阿弥はその作品に「源氏物語」「平家物語」など伝統貴族文化を取り入れ洗練されたものとし人々の生と死を描いて作品の質を高めた。「風姿花伝」でこれまでの「衆人愛敬」(広範な人気)に加え「貴人本位」を重く見ているのも貴族伝統文化を吸収しより洗練されたものに能楽を昇華させる事を意識していると言える。また、秘伝を作り習得の順序・軽重を定めると共に貴族伝統文化に準じることで能楽の権威上昇を図っている。
世阿弥らによって大和猿楽が幕府の庇護の下で洗練され能楽として大成する一方、従来の田楽・猿楽も庶民により受け入れられていたが徐々に圧迫を受け消退していく。
同時期に、同じく田楽などから発展した即興喜劇である狂言も人気を博すようになっており、時に権門を風刺して取締りを受けることもあった。
当時の文化は、義満が建立した北山第の舎利殿(金閣)に代表されるように、鎌倉以来の武家文化や都市庶民・新興豪族を中心に盛んとなった新しい文化が伝統貴族文化を取り入れ華麗に洗練されたものであった。前述した世阿弥の能楽然りであり、二条良基により「応安新式」で連歌の理論が確立し連歌集「菟玖波集」が准勅撰となったのも然りである。立花などの作法が整えられたのもこの時期であり、新しい文化が当時の権力者の権威を支える新しい教養となりつつあったのである。義満が朝廷の権威を取り込んで将軍の政治的権威を確立しようとしていたのと相関した動きであり、時代を象徴しているといえよう。

(16)「鹿苑院太政天皇」

 応永十三年(1407)12月27日、後小松天皇の生母・通陽門院が崩御。以前に父・後円融院が崩御された際に諒闇となっていたため、一代で二度にわたる諒闇は不吉であるとの議論が起こった。その結果、義満の正室・日野康子が准母とされ北山院の院号が与えられる事となった。一代二度の諒闇が不吉であるという論拠は特に存在しておらず、康子を准母としての義満の権威上昇を当初より目的としていたと考えられる。
 また、北山第造立以降に義満は盛んに仏事を催しているが、朝廷の仏事を担当する僧よりも格で上回る僧が常に北山第仏事を担当していた。政治的権力のみならず宗教的権威も朝廷から自らの手に収めつつあったのである。
 この頃、義満は「百王」について尋ねる事があったと言われる。この「百王」とは「野馬台詩」に登場する「百王の流尽く竭き、猿犬英雄と称す」の句を指すと考えるのが妥当とされる。「野馬台詩」とは、中国梁代の宝志和尚が日本の未来を奇妙な文字の配列で予言した詩と言われ、8世紀の政治家・吉備真備が唐滞在中に縦・横に読んで解読したと伝えられる。この話は12世紀末から13世紀初頭に作られた逸話である事が現在では判明しているが、当時は社会不安や末法思想に代表される終末観も影響して皇統の断絶を予言したものとして広く囁かれていたのである。後円融天皇が百代目天皇と認識されていた(弘文天皇が外されている、北朝正統で数える)ことや朝廷が幕府に強い圧迫を受ける現実からこれを意識する人は少なくなかったと思われる。義満は戌年生まれであることも踏まえて考えると、「百王」断絶後を牛耳る、すなわち簒奪も視野に入れた事をそれとなく表したと見る向きがでるのはごく自然であった。
 応永十五年(1409)、義満の子・義嗣が童殿上し後小松天皇より盃を与えられた。同年4月15日の元服に際しては従三位参議に任官され、元服の儀式は親王に準ずるものであった。義満は将軍とした長男・義持よりこの義嗣を寵愛していたと言われる。この時期、義満は後小松天皇を北山第に招いてその権勢を示している。義満は若き日より朝廷に入ることでその権威を将軍家に取り込んできたのであるが、ついに足利家を皇室に準ずる存在としていたのである。
 4月末、義満は急に病に倒れ重態に陥り、5月5日に没した。義満は将来的に足利氏による皇位簒奪を行った上で義嗣を帝位につける考えもあったとされ、これまでの経緯を見れば可能性としては否定はできない。また政治的実力・宗教的権威の双方を手中に収め冠絶した専制体制を目指していた最終点としてもごく自然ではある。しかし、それらは現実になる事はなく義満は没し、その真偽は今となっては神のみぞ知るである。ともかく義満死後間もなく、朝廷で義満に対し太政天皇の称号を与える建議があったのは事実である。この時、将軍義持に内意が伝えられ義持が辞退したという。朝廷内でも「凡人に其例なし」として最終的に退けられたようである。しかし相国寺過去帳には「鹿苑院太政天皇」、臨川寺位牌にも「鹿苑院太政法皇」と記されている。
 義持は有力守護たちからの支持を得た上で、義嗣を排斥し北山第を取り壊して自らの権威を確立。有力守護たちは、足利将軍家が専制君主となり自分たちを圧迫する事を望んでおらず義満の朝廷をも超越する方針には好意を持っていなかった。義持は守護たちの支持が不可欠な状況にあり、また弱年である事もあって有力者たちを圧倒することはできなかった。こうして朝廷に対して距離を置きその権威を尊重する従来の関係がとられることになった。これを契機に朝廷の権威は回復への第一歩を踏み出す。皇統の危機はとりあえず回避されたのである。足利氏による簒奪の可能性は、義満の個人的政治力とその勢威を脅かす対抗者が存在しない幸運な情勢により初めて現実味を持つ一過性のものに終わったと言えよう。
義持は准后三宝院満済を顧問として、有力守護達に融和的な関係を築き彼らの合同の補佐を受ける形で堅実に政治を運営した。国内でも反発が強かった事を考慮して、明への臣下の礼は停止し日明貿易を中止したのもそうした流れでの対応であろう。一方で朝廷に対しては義満以前の伝統にのっとり一定の敬意をもって穏健に接するものの義満時代に確立した優位を崩すことなく、反逆者を討伐する際にも朝廷より綸旨を求めることなく処理している。義持時代には関東での上杉禅秀の乱などはあったものの概ね政治情勢は安定していた。義持は一旦子の義量に将軍職を譲るが義量が若くして病死。正長元年(1428)に義持は病没、この際に自分が意志を通しても守護が従わねば意味がないとし、後継者を決めず選定を守護達に委ねている。義満も臨終に当たって後継者を確定しておらず、足利政権が本質的に有力守護の支持・補佐によって初めて保たれるものである事を如実に表しているといえる。義満は朝廷を取り込んで権威を確立すると共に有力者の勢力を削り将軍の優位を確立したかに見えたが、削減した領地も味方した有力守護に恩賞として与えざるを得ず、有力者に支持・擁立される盟主としての本質は変えることができなかったのである。直轄領の増加・商業への課税・貿易により所領の少なさを補おうとしたが十分とはいえなかったようだ。義持時代の朝鮮の使者は「御所(義持)の命令は都の近くに行われるのみで、国土は強宗(有力守護)に分割されて、何事も御所の思うままにならない」と述べている。ここから考えると、義満の朝廷乗っ取りといえる動きも足元の不安定さを圧倒的権威を帯びて補うためのものと思えるのである。
 義持死後に将軍に選ばれた義教は、日明貿易を再開して財源を強化すると共に長らく対立関係にあった鎌倉公方・足利持氏を関東管領との対立を利用して討伐して年来の懸案を解決した。しかし持氏を討伐する際に義満・義持時代の先例を破り密かに朝廷から綸旨を受けていることから分かるように関東での将軍の権威に不安が生じていた。これも朝廷権威の回復を助ける結果となる。有力守護に対して強圧的に統制するなど強硬な姿勢で将軍権威の向上を図ったが、粛清を恐れた赤松満祐により暗殺された。これにより将軍の権威は地に堕ち、義政の時代にはもはや有力者を統制する事はできなくなった。将軍継嗣問題を切っ掛けに有力守護を二分した応仁の乱を決定打として足利政権は名ばかりの存在となる。それに伴うようにして、統治の正当性を将軍よりの任命により現地豪族の支配を足利政権下での権限に基づき進めていた守護達も、多くは後ろ盾を失って現地有力豪族に取って代わられた。その一方で、朝廷は政治的実権を取り戻す事はもはやできないものの各地に割拠する新興豪族が自らの権威を求める事で却って権威保証者としての朝廷の地位は回復することになる。やがては新興豪族の中から台頭した織田・豊臣・徳川氏により強力な統一政権が形成された。しかし彼らが足利氏と比較して成り上がり者であることは否めず朝廷圧迫・簒奪より寧ろ伝統的権威の保護者という形に自らの権力の正統性を求めた事、都市庶民の成長・キリスト教に代表される異文化との接触に伴う民族意識の発達により宗教的権威・象徴が必要とされた事もあって、義満時代と同様な皇室の危機は訪れることはなかった。逆に徳川政権への反逆正当化や国民国家として人々を国家の制御下に入れる旗印として尊重される形で近代を迎えるのである。

(17)おわりに

 これまで南北朝に関連した多くの人物の生涯をレジュメで追ってきた。今回で南北朝の終焉まで全期間をカバーする事ができ、一通りは完結できたと思う。長かった…。

参考文献
足利義満 佐藤進一 平凡社ライブラリー
人物叢書 足利義満 臼井信義著 吉川弘文館
人物叢書 細川頼之 小川信著 吉川弘文館
人物叢書 今川了俊 川添昭二著 吉川弘文館
太平記一〜三  岩波書店
日本の歴史9 南北朝の動乱 佐藤進一 中公文庫
日本の歴史10 下剋上の時代 永原慶二 中公文庫
新編日本合戦全集2鎌倉南北朝編 桑田忠親 秋田書店
南北朝時代史 田中義成 講談社学術文庫
足利時代史 田中義成 講談社学術文庫
内乱の中の貴族 南北朝と「園太暦」の世界 林屋辰三郎 角川選書
「群書類従第二十一号合戦部 続群書類従完成会」より「難太平記」
週刊ビジュアル日本の合戦47 足利義満と明徳・応永の乱 講談社
芝蘭堂(http://homepage1.nifty.com/sira/)より「難太平記」「応永記」
佐々木道誉 林屋辰三郎 平凡社ライブラリー
太平記の群像 森茂暁 角川選書
闇の歴史、後南朝 森茂暁 角川選書
倭寇 田中健夫 教育社
海賊たちの中世 金谷匡人著 吉川弘文館
室町の王権 今谷明 中公新書
戦国大名と天皇 今谷明 講談社学術文庫
京都大学歴史研究会(http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/index.html)より拙稿「日本民衆文化史」(http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2002/021206.html)
歌舞伎以前 林屋辰三郎著 岩波新書
観阿弥と世阿弥 戸井田道三著 岩波新書
老松堂日本行録 宋希m著 村井章介校注 岩波文庫


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