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徳川期の茶の湯  NF


 以前、茶の湯の通史や近代茶の湯を支えた数寄者についてまとめましたが、一般に停滞期とみなされる(僕も以前にそういったニュアンスで述べた事がある)徳川期については余り詳しくは触れませんでした。この時代、どのように茶の湯が受け入れられどのように受け継がれてきたのか。利休らの時代と数寄者の時代を繋ぐこの時期について見てみたいと思います。

織豊時代
 16世紀後半には畿内の富裕な商人たちの間では茶の湯が広がっていましたが、信長は商人たちから有名な道具を召し上げて権力の誇示・家臣への褒賞として用いたと言われます。功績を挙げた家臣に茶道具の下賜や茶会開催許可を恩賞として与える事で、領地を家臣に与えすぎないようにするという訳です。既に茶を嗜む人々の間で茶道具の所持はステータスシンボルとなっていましたが、この事がそれに拍車をかけたと思われます。
 信長が倒れた後にその後継者となった秀吉は、信長と同様に茶の湯を利用するとともに、禁中で茶会を催したり大徳寺茶会で広く人を招き自分の茶道具を誇示したりして茶の湯の文化的地位上昇を図りました。茶の湯を自分の時代の文化とすることで自分の権威向上にもつなげようとしたと思われます。その集大成が北野大茶会でした。
 この時代、秀吉の下で茶の湯を大きく発展させたのが千利休です。彼については、茶の湯通史である程度述べましたし、詳しく述べだすとそれだけで長いレジュメが一本できてしまいますのでここでは申し訳ないですが割愛します。

大名茶人
 利休が秀吉と対立して自陣に追い込まれた後に茶の湯の指導的地位に立ったのは利休の弟子・古田織部でした。利休が小間で茶事を完結させ主客の緊張感ある関係・世間での身分差に捉われない茶の湯を目指したのとは異なり、小間から広間に途中で席を移したり貴人席を設け武家・町人の区分を設けたりといった事をしています。利休が手捏ねの楽焼を好んだ一方で、織部も独自の陶器を好んでいます。これまでの道具の評価には捉われず自身の価値観により道具の価値を新しく作り出すという点で共通すると言えます。また同時代の織田有楽は、茶会で主君が家臣宅を訪問する際に茶席から入り奥座敷に通る「数奇屋御成」の儀礼を固めたと言われています。時には秀吉との衝突も辞さず茶の湯の質を純化し高めようとしていた利休に対し、彼らは時の政権に公認され保護される文化として茶の湯が扱われる時代において権力による要求に応えつつもその範囲内で可能な限り茶の湯の芸術性を高めていくという道を選ぶ事になったものと思われます。
 17世紀に入り徳川氏が政権を握った後もその傾向は続き、織部の弟子・小堀遠州は国産の新興陶器を盛んに取り上げて銘をつけて諸大名に分け与えました。これらの道具は「中興名物」と呼ばれ珍重される事になります。遠州は寛永十三年(1636)に将軍・家光の前で点前をする栄誉に預かります。これは彼の流儀が徳川政権に公式に採択された事を意味しており、諸大名にも遠州流を学ぶものが多く見られるようになります。一般に遠州の茶の湯は優雅で比較的リラックスした雰囲気を持つものであったと言われ、それが置けいれられたと言われています。同時期の金森宗和は「姫宗和」と呼ばれるほど優美・端整な流儀の茶の湯を行い、色絵のついた仁清焼を作らせ好んで用いました。彼の流儀は優美な趣味を好む朝廷貴族に受け入れられる事となります。片桐石州は利休の長男・千道安に学び「天作のわび」を重んじるなど利休の好みに近い茶の湯を行いました。彼の流儀は将軍・家綱に採択され遠州流に代わって主流となります。
 彼ら大名茶人が時の政権公認の文化としての茶の湯のあり方を模索した一方で、利休の孫・千宗旦は仕官せずそうしたしがらみのない状態で利休の流れを汲む茶の湯を追及していました。ただ、宗旦はそうした茶を息子達を仕官させる事で普及させようとしていましたし、朝廷貴族と交流を持ち広げようとしていたようですが。

徳川期初期の町人
 徳川政権が成立した時期には、徳川氏と結びついた御用商人が力を持ち財を蓄えました。彼らは諸大名とも経済的に繋がりを持ち利権を得る事になりますが、茶の湯を通じて大名と交わりを持っていたのです。またこの時期は一般町人や女性にも茶の湯が広がり始めており、石州流の大口樵翁が「刀自之袂」を著して女性茶人の心得を説いたのは画期的な事でした。基本的に男性と同様に慣習に従うが、男性と同席する事に伴う無用な誤解を招くのは避けるよう配慮を求めると言う内容でした。

朝廷での茶の湯
 秀吉が宮中で茶会を行って以来、徐々に朝廷にも茶の湯が根付いていきます。ただその様式は世間一般と些か異なっており、茶の後で宴会・歌舞音曲・遊戯(双六など)が催される事が通例で道具も金の茶道具などが好まれたようです。17世紀半ばには常修院宮慈胤法親王により朝廷の茶も様式化されていきます。小座敷を中心にして茶を行い書院も用いて音曲を楽しむ、比較的新しい陶器を珍重、掛け物では伝統的貴族文化を重んじるといった性格が確立されていきます。朝廷では他とは異なった独自の茶の湯文化が育っていたと言えます。それは村田珠光・千利休に代表される侘び茶よりも寧ろ足利時代の闘茶に近い遊興的な性格を持っていたのです。
 17世紀後半には後西院・真敬法親王らが茶を好み、後西院が親しい人々を中心に限られた客たちと茶を楽しんだ一方で真敬法親王は武家も含め広い範囲の人々を客として招いています。近衛家熙は楽焼を用いるなど外部の流儀も取り入れたと言います。その一方で、和歌や物語解釈と同様に「秘伝伝授」されるものとされたのも朝廷茶の湯の特徴でした。

千家の宗匠たち
 17世紀後半になると宗旦の息子たちは長男・宗守(武者小路千家)が高松松平家、三男・宗左(表千家)が寺沢家などを経て紀州徳川家、四男・宗室(裏千家)が加賀前田家に仕官しつつもそれぞれ拠点を京に置いて活動しています。茶の湯の中心地である京を押さえた上で各地に流儀を伝える事で、利休の血脈と言う強みもあり次第に三つの千家流は力を伸ばしていく事になります。また当時、表千家からは新たな流派が多く生まれており藤村庸軒や杉木普斎などを輩出しています。普斎は伊勢外宮御師で伊勢や担当区域・網干で教えを広げ、弟子の習得に応じて「伝書」を与えていました。一方で同様に表千家から分かれた山田宗徧は「茶道要録」「茶道便蒙鈔」といった茶書を刊行して世間への啓蒙を進めています。17世紀初頭より町人らを対象に茶の解説書が多く見られていますが、その代表的存在と言えるでしょう。18世紀になると裏千家の一燈宗室も「又玄夜話」「茶道浜真砂」などの茶書を刊行するとともに、茶の湯の広がりに対応した新しい稽古方法として表千家の如心斎宗左(一燈の実兄)・川上不白とも相談して「七事式」を開始しています。一度に多人数を相手にする・広間で行うなど旧来のあり方と比べて異なっていたため批判もありましたが、茶を学ぶ人口が増加した事を受け、多人数を対象としての教授法が必要とされており七事式は定着。多人数を収容するスペースを確保するため広間を用い、基本学習としての反復練習を重んじる七事式は千家流においても時代に対応した変化を余儀なくされた事を示しています。また、この時期に三千家とも一子相伝制度・惣領制など形式が整えられています。同時期、川上不白は江戸に根拠を置き関東への茶の湯の広がりに一役かっています。

大名の茶の湯
 大名たちは多くがステータスシンボルのためや社交場の必要もあり茶道具の収集に力を注ぎました。17世紀後半の伊達綱村や18世紀初頭の島津吉貴は数多くの茶会・茶事を催した事で知られていますが、点茶など茶の湯における実務はお抱えの茶道役が担っていたようです。この二人に代表されるように、茶道役を召抱えて実務を行わせ大名は名目上のみの亭主であったのが通例だったようです。こうして茶の湯における実務から解放された大名の中には道具の分類など特化した関心を示す事例も現れました。例えば18世紀前半の松平乗邑は家蔵道具や他家からの借覧道具を図・寸法・付属品に至るまで記録し分類した「三冊名物集」をまとめています。
 尤も、全ての大名が茶の湯の実務ができなかったわけでは勿論ありません。18世紀後半の柳沢堯山は石州流を学び利休の流れを汲む侘び茶を好み、しばしば自ら茶会を催しました。また既存の道具だけでなく自らの好みの道具も新たに作らせたり茶席を設計したりしています。また石州流伝授者として免許発行するほどの腕前でした。同時期の松平不昧も石州流伊佐派を学び真台子の伝授を受ける腕前で、大名に茶を教授したり名物道具を収集するほかにやはり自らの好みの道具を作らせたりしています。また不昧は茶器を時代別・種別に分類しランク分けした「古今名物類聚」を編纂した事でも知られます。
幕末期の大老として知られる19世紀半ばの井伊直弼も、石州流を修め好みの道具を作らせるだけでなく自ら窯を設けて道具を作ったり家臣に教授したりしています。また「一期一会」「余情残心」の言葉で知られる「茶湯一会集」を著して茶の湯における理念を説いてもいます。後に茶の湯の近代化を進めることになる裏千家の玄々斎とも親交があったのは知られています。

幕末期の町人茶の湯
 19世紀になると町人の茶の楽しみ方も多様性が見られるようになります。茶道具の分類の他に茶書や古典・会記まで記録した「茶器名物図彙」を編纂した大坂の草間直方のように茶器研究をする者、北陸の銭屋五兵衛のように投機の一環として茶道具を集め茶の湯を行っていた者、伊勢の竹川竹斎のように仲間と教養を高める目的で茶を嗜む者まで多種多様であった事は、茶の湯が富裕層を中心に町人にも広く根付いていた事を意味しています。

おわりに
 徳川期には、茶の湯は利休ら時代のように文化の主役として時代を象徴する事はありませんでした。しかし町人・武家を問わずステータスシンボルとして、必須教養として上流階層の文化素養を支える役割をしっかりと果たしていたのです。近代に入ると、圧倒的な技術・軍事力を持つ西洋文明を礼賛する風潮が高まり茶の湯もその煽りを受けて敬遠され逆境の時代がしばらく続きましたが、その風潮が収まると新たに台頭した実業家たちが自らのステータスシンボルに茶の湯を選ぶのは自然な成り行きでした。彼らは「近代数寄者」として茶道具を収集するのみならず独自の感性で趣向を凝らし茶の湯の歴史に特筆すべき一頁を形成する事になるのです。
 そういえば近年も経済格差の拡大、新たな富裕層形成が言われていますが、彼らの文化素養を支えるものは何かあるんでしょうか、気になります。

参考文献
茶の湯の文化史 谷端昭夫 吉川弘文館 (基本的にこの本の要約)
拙稿「茶の湯」(http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/1998/980424.html)
茶の湯を楽しむ もてなしの心と作法 講談社編
裏千家茶道教科教養編⑧茶人伝 千宗室監修 井口海仙編 淡交社
裏千家茶道教科教養編⑨茶道史 千宗室監修 村井康彦編 淡交社
日本茶道史(重森三玲、藤森書院)
茶の湯人物志(村井康彦、角川選書)
茶の湯Q&A(淡交社編集局編、淡交社)
チャート茶道史 谷端昭夫 淡交社
茶の湯ハンドブック四茶人・花押小事典 小田栄一 主婦の友社


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