アクセス解析
カウンター


北条高時  NF


1はじめに

 130年の歴史を持つ鎌倉幕府、そしてそれを支配した北条氏。その最後の当主である高時の生涯を概観し、やがては南北朝の動乱に至る14世紀の社会を北条氏に近い視点から見て行きたい。

2当時の情勢

 我が国において8世紀初頭に完成した中央集権的な統一政権は、早くも9世紀に崩壊の兆しを見せた。生産力の向上に伴い貧富の差が拡大し、貧困層が没落する一方で富裕化した地方豪族により自給体制が各地で形成されていく。中央政府(朝廷)は豪族達の利権を黙認せざるを得なくなり、人口把握して人頭税をとる方式から土地単位で税収入を確保する体制に方針転換した。こうして大土地所有者、すなわち有力貴族・寺社や地方豪族による連合体の盟主として政府(朝廷)が推戴される「王朝国家」が10世紀から11世紀前半にかけて成立。
 やがて、地方豪族の実力向上に伴い彼らを支配下に組み入れた軍事貴族が台頭。12世紀末には軍事貴族の代表者である源氏・平氏による内乱を経て、東日本に軍事政権である鎌倉幕府が成立した。幕府は朝廷の宗主権を名目上は認めつつも東日本を中心とした独自の支配体制を確立。朝廷が西日本、幕府が東日本を支配する形が出来上がる。特に13世紀前半の承久の乱以降は軍事力に勝る幕府が圧倒的な優位に立ち、次第に西日本も含めた広い地域に支配権を広げた。

3北条氏・その一(執権政治時代)

 北条氏は桓武平氏の末裔とされているが、12世紀後半における北条時政の時代には伊豆の中小豪族に過ぎなかったといわれる。源氏の棟梁である源頼朝が敗れてこの地に流刑となり、時政の娘・政子を妻に迎えてから運命が変わり始める。頼朝が挙兵し、鎌倉を拠点として関東を平定し更に平氏との争いを制し軍事政権を樹立させると、政権の主「鎌倉殿」の外戚として影響力を増すようになる。頼朝死後、時政・義時(時政の子)・政子は将軍(「鎌倉殿」)の外戚として、そして将軍の強権に反発する御家人(将軍と主従関係にある豪族)の代表者として将軍や対立する有力者を排斥しつつ幕府内で勢力を高める。頼朝直系が断絶すると、政子が将軍権力を代行し義時が御家人の代表として政務を取る形で権力を握った。承久の乱で朝廷に圧勝した後は更にその力を強め、義時の子・泰時は有力御家人との協力体制を強め、幕府における基本法である御成敗式目で知られるように慣習・道理を重んじる政治運営を行い広く支持を集めた。泰時は評定衆を、時頼の時代には訴訟審議のため引付衆を設けるなど、有力御家人の合議制を取りその議長役として北条氏は地位を確立させていった。他にも時頼は京都大番役など御家人の負担を軽減したり農民の負担に気を配り勧農を行い支持を集めたのである。しかし、一方で北条氏に反発する勢力も強く、彼らは名目上幕府の主である将軍の権威を立てて北条氏と対立(北条一族の中にも北条氏惣領と対立し将軍に近づくものがいた)。三浦泰村に代表されるそうした勢力を排斥し地盤を固める中で、時頼時代の後半には北条氏による専制化の傾向が見られるようになっていく。評定衆(北条一族は泰時時代には19人中5人であったのが時頼時代には13人中5人)や守護に北条一族の占める割合が高まったのはその一例であろう。

4北条氏・その2(得宗専制へ)

 時頼は出家して執権(将軍を補佐し政務を執る役目。北条氏が代々その地位についていた)から退き公的地位を持たなくなった後も、幕府清二の実験は握り続けていた。そしてその子・時宗が幼少時より後継者として目される。北条氏が幕政における最高実力者の座を引き継いでいく事は固定的な事実として受け止められる傾向が強くなったのである。公的地位である「執権」としてでなく北条氏惣領として重んじられ権力を握る様子は、朝廷において公的地位「天皇」より皇室当主である「治天の君」が実験を握っていたのと似ている。そうした中で、北条氏の家令が執権の代官という役割を果たすようになり「内管領」と呼ばれるようになった。また、得宗(北条氏惣領、義時の法号に由来)の私邸で秘密会議が行われ、そこで人事・土地問題における中央貴族との折衝・制度の調整など重要な政治方針が定められるようになった。これはやがて「寄合」として公式制度化するようになっていく。
 時宗の時代になると、将軍・宗尊親王と対立した末に将軍交代が行われその間に時宗が「鎌倉殿」代理として御家人との主従権をも手に収めるようになる。これが時の経過と共に固定化し恩賞授与・主従関係といった将軍権力の代行を北条氏惣領が行うようになる。また従来は評定衆の手にあった官位推薦権を将軍の手に移し実質的に北条氏の意思が反映されるようにしている。折からの元寇により国家を挙げて防衛に当たる必要が生じたこともあり、従来は幕府の力が及ばなかった中央貴族領の豪族にも動員をかけるようになるなど専制的な傾向を強くしていった。また、外的防御のためもあって山陰・瀬戸内・九州の要地を北条氏が守護として把握、交通要所や周辺の商工業に従事する豪族達を支配下に収めることで経済力・支配力を高めようとした。六波羅探題(京における幕府の拠点で歴代長官は北条氏が輩出)が摂津・丹波・播磨を、鎮西探題(元寇後に九州管轄のため設けられ北条氏が歴任)が肥前を直轄するようになったのはその一例である。
 時宗の子・貞時の時代になると、代替わりして間もない弘安七年(1284)五月に
前半を得宗・後半を将軍に奏上する形式と考えられる法令が出され、将軍権威の再確認と同時に得宗地位の公式化が図られた。翌弘安八年には政権中枢に残った有力御家人である安達泰盛一族(貞時の外戚でもあり得宗の身内という性格も強い)が滅ぼされ(霜月騒動)内管領・平頼綱が幼少の貞時を補佐する形で強権を振るう。全国で多くの反対派が滅亡の憂き目に会い、これに敵対できる勢力は存在しなくなった。この時期、頼綱の子である飯沼助宗が五位検非違使判官に昇進している事実がその権勢を如実に表している。尤も、頼綱は自らの一族だけでなく貞時も北条氏の極官を越えた従四位下に任官させ主家の権威上昇を図っている。
 貞時が成長すると、永仁元年(1295)に専権を振るった頼綱を滅ぼして(平禅門の乱)実権を得宗自身の手に取り戻す。まず貞時は土地をめぐる訴訟の増加・長期化への対応を打ち出した。合議制のため審議が長期化していた引付衆を廃止し、執奏七人により迅速に判決を下すようにした。これは翌年には中断され引付衆が復興されるものの、これを契機に貞時が判決を握るようになる。また再審機関・越訴方を廃止し御内人(北条氏と主従関係にある豪族)五人により扱わせた。また、この時期に告訴に応じない者を犯罪として処断する、裁判における主張内容の追加は禁止する、従来は民事事件であった刈田狼藉・路次狼藉を刑事事件とするといった改革がなされた。嘗ては慣例尊重・当事者主義で正確さを重んじていた土地関連の訴訟は、この時期には強大な公権力を背景とした法的な強制機関へと転換したのである。膨大な数に上る土地問題への対処としてやむを得ない面は大きかったが、これが得宗の強権を制度的に裏付けるものとなったのも事実である。
 さて、土地関連の訴訟が増大する原因として、御家人の窮乏が挙げられる。所領は一族で分割相続するのが通常であり、代替わり毎に零細化するのは避けられなかった。加えて、この頃に発達した貨幣経済に巻き込まれ出費が増大、更に元寇による軍役負担の増加による経済的苦境が圧し掛かった。元寇により領地が増大した訳ではないため、恩賞に当てる土地が不足した事もこの問題に拍車をかけた。将軍や北条氏の土地を一部細分化して恩賞としたり、謀反人などの所領を与える事で対応していたがとても足りなかったのである。そうした状況から、本所(土地に権限を持つ中央貴族)や非御家人・商人に売却したり金融業者から金を借りて所領を質流れさせる御家人が続出した。金策に好都合である事から借上(高利貸)・山僧といった金融業者を代官として用い、彼らに支配権を奪われる例も多かった。その結果、土地を持たない「無足御家人」が多く生まれ御家人の没落が生じていたのである。こうした御家人達の救済も重要な政治課題であった。御家人には幕府の推挙により官職につける、査問手続なしでは逮捕されないといった特権があるだけでなく、「鎌倉殿」の直臣としての誇りも伴うことから特権意識を持った閉鎖性のある階層となっていたのは否めない。
幕府を軍事的に支えていた彼らの要求に応え、経済的・精神的な救済をする必要があったのである。貞時は法的に彼らの御家人身分を保証すると共に、永仁二年(1297)に徳政令を発布した。この法令では、まず訴訟の増加や判決の不安定化への対策として越訴(再審請求)を禁止し、無足御家人救済のために売却地の返却を命じた。ここには下文がある事例や二十年以上経過した事例は返却できないと定めたが、御家人以外に売却した場合は無期限で返却できるとされている。
また、銭の貸借に関する訴訟を不受理とした。これも借金に悩む御家人への救済が目的であろう。しかしこれは却って社会の混乱を招き、一年後に停止せざるを得なかった。
 また、防衛上重要な九州を中心に、前述のように非御家人をも動員し幕府の支配下に組み入れたり、現地の庶子を惣領から独立する事を許したりするなど現実的な対応を余儀なくされていたが、これが御家人と幕府との主従関係を揺るがす事となっていく。また、西日本を中心に、非御家人・商工業者が御家人による収奪に対して激しい反発を抱く事例が目立つようになっていた。既に13世紀中ごろより幕府・朝廷の制御を外れ荘園に実力行使する「悪党」が問題となっていたが、この時期から特に目立つようになってくる。
 こうした問題を抱えた時期である応長元年(1311)、貞時は病没。跡を継いで得宗として幕府の頂点に立ったのが今回の主人公である高時である。時に九歳。

5得宗北条高時

 高時は嘉元三年(1303)に貞時の嫡男として生まれた。七歳で元服して「高時」と名乗り、十歳で正五位下・左馬権頭に任官した。そして十四歳になると執権に就任し十五歳で相模守となった。因みに、このコースは祖父・時宗や父・貞時とほとんど同一であり(時宗が十四歳で就任したのは連署、すなわち副執権であるが)、得宗の官職が先例重視となっていたことが伺える。
 こうして幕府の頂点に立った高時であるが、評判は芳しくなかった。一族の金沢貞顕は「田楽の外無他事候」「連日御酒、當時何事もさたありぬとも不覚候、歎入候」と記しているように、酒宴・田楽に興じて政務を疎かにしていたといわれる。「太平記」によれば闘犬にも熱中し、鎌倉中に犬が溢れたとも言われる。後の二条河原落書でも「犬田楽ハ関東ノ ホロフル物ト云ナカラ」とあるため、高時が田楽に並び闘犬を好んだのは事実であろう。また病気がちでもあったようで酷い時は他人と話をすることもできず、「久御坐かなはぬ御事に候」とも貞顕は記しており、高時の病状に一喜一憂する内容の書状も「金沢文庫」には残されている。「保暦間記」にも「頗亡気(うつけ)ノ軀ニテ、将軍家ノ執権モ叶イ難カリケリ」と記され、「高時正軀ナキ儘、高資心ニ任セテ天下ノ事ヲ行フ。人ノ歎キ積リケレバ、関東ノ侍ドモニモ深ク疎レニキ。世上ニ果敢果敢(はかばか)シカラジナド申セリ」と評されている。夢窓国師や南山士雲に参禅し、茶・仏画を好んだ事も知られており、自ら「南山士雲像」を描いてもいる。必ずしも暗愚ではなく文化的素養にも不足はしていなかったといえるが、全般的には上述のように高時が病弱のため政治をとらず、その指導力においては全く評価されていなかったといえる。花園院もその日記「花園院宸記」で「近年東風有若亡、関東当時無人の故か」と記しているように誰が幕府を引っ張っているかが外からは見えなかったといえる。事実、この時期に目立った事績といえば文保二年(1318)から元応元年(1319)にかけて日蓮宗と他宗派との論争をさせ、日蓮門下が他宗を論破したため題目の不興を許可した事(鎌倉殿中問答)位である。もっとも、しばらくは大過なく政権運営がなされていたということも出来る。

6得宗専制期の政治運営

 高時が得宗として君臨していた時期、幕府政治はどのように行われていたのか、これを少し見てみよう。
 当時において実質的に最高決定機能を持っていたのが「寄合」である。時頼時代にその私邸で政治方針を決める秘密会議を行った事に端を発するこの会議は、やがて公式化し得宗・内管領・執権・連署や一族有力者により行われた。以前において政策決定や裁判に大きな役割を果たした評定衆・引付衆も北条一門の割合が増加し、引付頭人が北条氏により占められると共に構成員の若年化が進行していた。評定衆を例にとると義時時代には19人中5人であったのが時宗時代には10人中5人となっており、やがて十代で評定衆の座を占める例も見られるようになっている。これらが実務能力より家格により構成員が決定されるようになり、権限を奪われて形骸化していたことが分かる。
 また北条一族が守護職に占める割合も上昇していた。泰時時代には39ヶ国中11ヶ国に留まっていたのが時宗時代には52ヶ国中27ヶ国となっており、高時時代に至っては57ヶ国中30ヶ国にのぼっている。中でも得宗家は武蔵・伊豆・駿河・若狭他の守護職を兼任しており、経済・軍事力の強大さが伺える。
 こうした中で、幕府内の役職を基準に家格が定められていった。最も格式が高いとされるのが「寄合衆」であり、得宗家を含めて寄合に参加するのを認められた有力一族である。得宗家、北条宗政(時宗の弟)系、名越時常系、赤橋、普音寺、北条時村系、金沢顕時系、大仏嘉宗系がこれに当たる。それに次ぐのが「評定衆家」であり名越時基系、塩田などがこれに相当する。そしてその下にその他の一族が位置していたのである。
 北条一門だけでなく、御内人の間でも家格が分かれていた。執事(内管領)となりうる家系として長崎・諏訪・尾藤があり、これに次ぐ執事を補佐する存在として安東・工藤が位置していた。中でも有力だったのが長崎氏であり、実際に執事となったのは大半がこの一族であった。彼らは侍所所司を世襲しており、加えて寄合衆・執事の職を掌握しその相互作用により強い権勢を確保していたのである。そして御内人の勤める役職は時代が下るにつれて増大している。鎌倉市政を司る地奉行も御内人が歴任していたし、末期には評定衆の着到を記す参否を安東氏が勤め、将軍と御家人の主従関係を司る御恩奉行にすら塩飽氏が任官している。北条氏の幕府への侵食の深さを表している。
 この時期の政権運営において、人事・所領処分・官位昇進に関しては長崎円喜・高資父子や安達時顕が高時を補佐する形で握っていたといわれる。霜月騒動で失脚した筈の安達氏が再び幕政の要職を握っている一因として、平禅門の乱後に貞時が彼らの復権を進めたことがあり、更に内管領と安達氏が得宗を補佐するという時宗時代の形式を先例として重んじたからと言われている。
 以上から分かるように、この時期の幕府政治は家格・先例重視で行われておりその点では朝廷と変わらない。高時が非常な若年で幕府の頂点に立ったのもそうした事情によるものであり、彼自身の実務能力は当初から期待されていなかったと言って過言ではない。これは得宗を頂点とした政治運営体制の完成・成熟を意味すると同時に、形式化・硬直化をも一方では意味していた。これが政情不安定に際しての対処を難しくしたのである。

7当時の社会

 13世紀後半から、畿内を中心に生産力向上・海外交易を背景にして商業・貨幣経済が発達。一方で主流であった農業経営を営む豪族達は、貨幣経済に巻き込まれて出費が増大したり、分割相続で所領が細分化するなどの要因で没落する者が見られるようになった。北条氏による権力強化は一般御家人の没落に拍車をかけた面があり、幕府も彼らの救済に乗り出したが十分な成果を挙げられなかった事は前述した。こうして御家人層に北条一門に不満を抱く者が増加。
 一方、北条氏は、専制的な権力を固めるに当たり商業・交通の要所を直轄領として組み入れたり商工業に従事する新興豪族を家臣として取り込むなど、商工業者を支配下に置くことで経済的な実力基盤をつけようとした。しかし、西国の新興豪族は伝統的に朝廷と関係が深いものが多く必ずしも順調には運ばず、寧ろ東国政権の首領である北条氏に反発するものも少なくなかったようである。こうした西国の新興豪族の中には、朝廷・幕府の権威に従わず実力で所領を荒らす行動に出るものも少なからず存在し、社会不安要素となっていた。
 一方で朝廷は京都周辺に実力が限定されており、しかも皇室・主要貴族が分裂している有様であった。幕府はこれに対して介入し調整する事も余儀なくされており、ともすれば恨みを買いやすい状況であった。
 得宗政権は必ずしも無為無策でなく、新しい時代にそれなりに対応を図っていたのであるが、却って孤立の危険に晒されていたのである。しかしながら北条氏、すなわち幕府以外に日本を押さえられる実力者は存在せず、幕府が倒れれば無政府状態になる可能性が懸念される、そういった状況であった。

8当今御謀反

 前述のように皇室は持明院統・大覚寺統に分裂して主導権争いをしており、幕府の調停が不可欠な状況であった。そうした中、14世紀前半に大覚寺統から後醍醐天皇が即位。後醍醐は精力的に改革を推し進め、京周辺の商工業者・日農業民の支持を獲得することで専制的な政治運営を志向する。しかし後醍醐は大覚寺統の傍流出身で中継ぎとしての即位であったため彼の子孫が皇位につく可能性は通常では考えられない状態であった。自らの子孫に位を受け継がすためには皇位継承の仲介役である幕府の存在はあってはならなかった。更に、衰微する朝廷が実力を取り戻し日本の統治者としての実質を回復するために商工業勢力を取り込んでの倒幕が必要であると後醍醐は考えたのである。
 かくして正中元年(1324)、後醍醐は北条氏に不平を持つ豪族を味方に引き入れ、北野天満宮の祭礼での賑わいに紛れて挙兵する計画を立てる。しかしこれはすぐに露見し、計画者で後醍醐側近の日野俊基・資朝らが捕らえられた。現役の天皇が現体制を転覆しようと計った前代未聞の事件であり、人々は「当今御謀反」とささやきあったという。後醍醐は事態を収拾するために万里小路宣房を鎌倉に使者として派遣し事件と無関係であると主張。幕府はこれを受けて天皇を不問とし、資朝を佐渡へ流し金沢貞将に五千の兵を与え六波羅探題に常駐させるに留めた。何とも微温的な対応であるが、この時、幕府としては軍事的実力を持たない朝廷に余り関わりあって事態をこじらせられない事情があったのである。

9陸奥安東氏の乱

 この頃、幕府は奥州での兵乱への対処に悩まされていた。陸奥における北条氏の代官・安東氏の内乱である。
 安東氏は義時時代に奥州に代官として下向し、十三湊を中心に奥羽・渡島を支配してアイヌとの交易に従事。「蝦夷管領」「日本将軍」と呼称される有力者であった。彼らは奥州において沿岸の民を支配下に置いて現地の商工業を把握していたと思われる。
 1320年ごろから、その安東氏内部で十三湊を拠点とする貞季(津軽安東氏、下国家)と出羽に勢力を築いた宗季・季久(秋田安東氏、上国家)の争いが起こっていた。幕府はこの調停を図るが、不調に終わっている。内管領長崎高資が双方から賄賂を受け取ったのが原因とも言われる。やがて両陣営に加えて蝦夷が放棄し、奥州全土にわたっての争乱に発展した。
 幕府は正中元年に嫡流である貞季を解任し宗久を代官に任命したが、これが貞季の強い反抗を招いた。嘉暦元年(1326)に工藤祐長を派遣して季長を捕えさせるが、尚も戦乱は沈静化しなかったために翌年には宇都宮高貞・小田高知をも派遣して翌年にようやく和議に持ち込むという騒ぎになっている。こうした北条氏の勢力圏での北条氏家臣による戦乱を捌きかねているという事態は、幕府の威信を低下させかねないものであった。これに加えて新たな火種を抱えたくない、というのが後醍醐挙兵未遂の報に接したときの幕府首脳の本音であったろう。北条氏が朝廷に強い態度を示さなかったのには、そうした舞台裏があったのである。

10鎌倉内部での暗闘

 嘉暦元年(1326)三月、高時は執権の職を退いて出家した。法名は宗鑑。病のためとされているが、時頼・時宗・貞時も同じような年齢で出家しておりこれも得宗家の先例となっていた可能性はある。この時に数多くの有力御家人が付き従い出家している。さて、泰家(高時の弟)が次の執権職を希望するものの、高資は認めず北条一族有力者である金沢貞顕を執権とした。泰家は憤懣やるかたなく、出家してしまった。これは、温厚な貞顕なら操りやすいと高資が踏んだためと言われているが、泰家が執権になった場合には得宗家に当主が二人生じることになり分裂の火種になることが予想され妥当な判断であったと言える。さて就任時には喜びを示していた貞顕であるが、わずか1ヶ月の在位で執権を退き出家してしまう。おそらくは泰家陣営からの強い圧力がかけられ続けていたものと思われる。後を受けて就任したのは、やはり一門の有力者である赤橋守時。鎌倉幕府最後の執権となる人物である。
 執権の地位をめぐって北条一族内で暗闘が繰り広げられた四年後の元徳二年(1330)八月、長崎高頼・工藤七郎らが長崎円喜(貞時時代に内管領を務めた。高資の父)と高資の暗殺を計画したことが露見。高時が彼らに命じて内管領父子を討たせようとしたと言われている。かつて父・貞時が平頼綱の専横を嫌ってこれを討伐し実権を取り戻した前例に倣おうとしたものであろうが、この時は失敗に終わったのである。尤も、成功していたとしても高時にその後の政局を乗り切れる力量があったかは極めて疑問であるが。
 ともあれ、北条氏の政権は全国的に孤立を進めるのみならず、奥州・畿内に加えて内部にも火種を抱える状況であった。後醍醐天皇により再び倒幕の烽火が上げられたのは、こうした時期だったのである。

11動乱の世へ

 後醍醐は前回の失敗で諦めず、再び倒幕を目論んでいた。新たに寺社勢力に皇子・護良親王など息の掛かった人物を送り込んでその経済力・軍事力を頼みにして彼らの取り込みを図った上で、元弘元年(1331)に挙兵し笠置山に篭った。この時、後醍醐は奈良・東大寺を当初便りにしたのであるが、北条氏も寺社勢力の把握を怠ってはおらず幕府方の要人も相当に存在したため笠置に移ったのである。この時点でも、幕府内部にはなお穏便な解決を模索する動きもあったが、事ここに至っては正面からの軍事対決は避けられなかった。幕府の軍事力は未だ圧倒的であり笠置は陥落して捕らわれ、持明院統の量仁親王(光厳天皇)に譲位した上で隠岐に流された。
 しかし、後醍醐の誘いに応じて河内で挙兵していた楠木正成は元弘三年(1333)に幕府軍を翻弄した上で金剛山の千早城に篭る。また、後醍醐の皇子・護良は各地の豪族に挙兵を煽ると共に自身も吉野に篭った。威信を傷つけられた幕府は大軍を動員し吉野を陥落させるものの、千早城は攻めあぐねる。これを受けて、播磨の赤松円心のようにかねてから幕府に不満を抱く豪族が各地で立ち上がった。彼等はこの頃盛んになった商業を背景とする新興豪族やかつて幕府に敵対し不遇に陥った地方豪族が中心であった。やがて後醍醐が隠岐から脱出し名和長年に迎えられて伯耆船上山に篭る。後醍醐方の意気は天を衝くばかりとなり、京は赤松氏と後醍醐寵臣の千種忠顕により攻撃を受ける状況で京における幕府方の拠点・六波羅探題より鎌倉に援軍依頼が出されるのである。

12終焉<前>

 京への援軍として派遣されたのは足利高氏であった。足利氏は源氏の嫡流であり、本来なら北条氏より家格は上の存在である。また三河・下野を中心に多数の所領を持つ有力者であり、北条氏も一目置いて代々婚姻関係を結び一族に準じる扱いをしていた名門であった。しかし、足利氏としては北条氏による圧力を絶えず感じていたであろうし、有力豪族が次々に排斥されるのを目の当たりにし次は自分達であろうと警戒もしていたと思われる。そうでなくとも家格で劣る北条氏に臣従せざるをえない現状に不満を抱いており、反逆の機をうかがっていた存在であった。そのため、北条方でも出陣に当たり裏切りを警戒して起請文(誓約書)と人質を提出させている。
 上洛した高氏は、果たして後醍醐と連絡して寝返り四月二十七日に丹波篠村で挙兵、五月七日に赤松・千種と協力して六波羅探題を攻撃。六波羅方も善戦するものの衆寡敵せず八日には北条時益・仲時の両探題は京を捨てて逃れる決意をせざるを得なかった。彼らは直臣である千人の兵を率い、後伏見院・花園院・光厳天皇を供奉して鎌倉へと逃れる事にした。足利軍は六波羅軍の反撃を弱めるため敢えて東方の退路を残しており、そこから脱出したのである。
 両探題はまずは近江に入り、守護である六角時信の軍勢を頼る事とした。しかし道中の苦集滅道で野盗からの襲撃を受け時益が討死。また山科四条河原でも野伏から攻撃され天皇に従う貴族達は次々に逃散した。「帝が関東へ臨幸なさるに狼藉を図るは何者か」と配下の部将が威嚇したところ、「帝とは言え既に運は尽きておいでである。通さないとは申さぬ、部下の馬・甲冑を全て捨てて安心して落ち延びなされ」という嘲弄が返ってきた。幕府・朝廷の権威も歯牙にかけない層の存在が如実に伺える。この場は配下が大金の隠し場所を教えると野盗らを欺いて通過。一行は篠原で宿を取り翌九日に愛知川を越えて番場宿に差し掛かったところで再び野伏の襲撃があったため撃退したが、山上まで追撃した際に錦旗を掲げた五千近いと思われる軍勢が認められた。これを見た六波羅軍は六角勢の合流を待つ事にしたが、六角は待てどもやって来ない。仲時らはもはやこれまでと判断して一斉に腹を切った。所は番場蓮華寺、自決した六波羅方は432人でうち仲時ら189人が過去帳に名を記されている。天皇や院は捕えられ京へ護送された。この時に番場で軍勢を集めて六波羅方を自害に追い込んだのは誰か明らかでないが、足利と内通し青海に勢力を持っていた佐々木導誉であろうと推測されている。かくして畿内における幕府の拠点である六波羅探題は滅亡した。

13終焉<後>

 同時期、関東でも火の手が上っていた。五月八日、上野国生品神社で新田義貞が一族と共に挙兵。新田氏も足利氏と同様に源氏の嫡流に当たる家柄であるが、足利と比べると格段に不遇であり上野の有力土豪の一人に過ぎなかった。さて義貞は一旦東山道を西に出て越後の一門と合流した上で鎌倉へ向けて南下。
 これに対して北条方は金沢貞将を下総・下河辺荘方面に派遣して東関東から新田の背後に回らせ、一方で桜田貞国・長崎高重らを入間川方面に向かわせ正面から迎え撃つ体勢をとった。十一日に小手指原で両軍が遭遇し合戦となった。北条方は用心して守勢を取り、一方で新田軍は入間川を渡り攻勢に出る。丸一日の戦闘の末に痛み分けで両軍は一旦引き上げたが、翌十二日に夜明けと共に北条方は攻撃を受け、新田郡の中央突破を許す結果となった。
 十五日、今度は北条泰家率いる一万余騎の軍勢が分倍河原で新田軍を迎え撃った。北条軍はまず三千の射手を前面に立てて矢を激しく射掛けて新田軍の出足を止め、騎馬戦士が攻撃をかけて新田軍を撃退。しかし勝利した北条方も少なからず損害を蒙っており追撃する余力はなかった。さて三浦義勝が新田軍に六千の軍勢を率いて合流し、翌日に先陣として北条軍に奇襲を仕掛けた。前日の激戦で疲労していた泰家軍は不意を疲れて混乱に陥り、そこへ義貞本軍の攻撃を受けて敗北した。
 十七日には村岡合戦で北条方が新田軍に反撃を加えるが大勢に影響を及ぼすには至らなかった。一方で同日、下総方面の金沢貞将の部隊が鶴見で敗北。更に畿内での六波羅探題滅亡の報が入り、鎌倉方は意気消沈した。
 十八日、新田軍は三方向から鎌倉攻撃に入った。大館宗氏・江田行義の一万が極楽寺方面、堀口貞満・大嶋守之の一万が巨福呂坂方面、義貞自らの数万が化粧坂方面から攻撃をかけた。一方、幕府方は極楽寺方面に大仏貞直の五千、巨福呂坂に赤橋守時の六千、化粧坂に金沢貞顕の三千を配置。更に市街地に後詰として一万を控えさせた。鎌倉は三方を山・残りを海に囲まれ、通路は狭く切り立った要害である。幕府方は街道に逆茂木を備えて防御し、海には軍船を浮かべて守備を固め、地の利を活かすことに最後の希望をかけていたのである。 
 まず、赤橋守時が激闘の末に自刃して果てた。彼は執権の地位にはあったが実権は得宗高時や長崎父子に握られており、更に足利高氏の義兄であったため疑いの目を向けられていた。そうした微妙な立場が彼の壮絶な最期に影響していたと見る向きも多い。
 一方で極楽寺方面では新田軍を防ぎとめ、一時新田軍に稲村ヶ崎から突入を許したが、大仏貞直勢は押し戻して敵将・大館宗氏を討ち取っている。この知らせを受けた義貞は、二十一日に干潮を利用して稲村ヶ崎を突破して鎌倉に乱入し、各所に火を放った。
 防衛線を突破された北条方は鎌倉での市街戦に突入。この中で北条氏身内の者達は次々と壮絶な最期を遂げていった。まず長崎思元父子が敵中を駆け巡って奮戦の末に討死。大仏貞直は、側近三十人が切腹して主に自刃を勧めたのを見てその気の早さを非難し、新田軍に突入して果てた。金沢貞将も新田軍相手に奮戦した。高時はその戦いぶりに感嘆して六波羅探題職を与えている。既に六波羅は陥落しており鎌倉の滅亡も時間の問題なこの時点では、実際的な意味はない任命であったが、貞将は一族間でも名誉とされる地位を与えてくれた高時の心遣いに感激し敵の大軍との戦闘で散華している。その他にも、北条基時(仲時の父)・塩田道祐父子・塩飽聖遠父子・安東入道(御内人、義貞の義父)…。数多くの人々が鎌倉・北条氏に殉じている。
 二十二日、高時は一族を集めて東勝寺に逃れた。長崎高重(円喜の孫)はそれまでも散々に戦闘をしていたが、高時に自分が戻るまで自害を待つように申し出た上で百五十騎を率いて新田本陣に潜入した。義貞と刺し違える心積もりであったが、敵に高重の顔を知るものがおり失敗。数千の兵を討ち取り東勝寺に戻った際には身体に23本の矢が刺さっていたと言われる。高重は盃を三度傾け、おもむろに腹を切った。隣席の摂津入道道準もこれを見て盃を半分傾けて切腹する。次に諏訪入道直性が盃を三度乾してから十文字に腹を切る。長崎円喜は高時が見苦しい振る舞いに出ないかを心配し腹を切れずにいたが、孫の新右衛門がこれを見て円喜の胸を刺した上で自刃。これを受けて高時も腹を切った。享年31歳。北条一門・有力御内人283人、それ以外も含め870余人がこの時に命を落としている。頼朝以来130余年の歴史を誇った鎌倉幕府は、ここに滅亡したのである。

14その後

 自決直前、高時は子息の万寿・亀寿を落ち延びさせていた。万寿は五大院宗繁の裏切りにより捕えられて処刑されるが、亀寿は信濃に逃れ諏訪氏の保護を受け時行と名乗る。
 さて北条政権を滅亡させた後醍醐天皇は自らの政権を京に樹立させる。商工業勢力を基盤においての専制的政権を志向するが、急激で強引な改革や恩賞問題から各地で不満が高まる。
 これを受けて各地の北条氏残党が反乱。中でも主なものは建武二年(1335)に西園寺公宗と北条泰家が結んで目論んだ後醍醐暗殺計画であった。これに時行や越中の名越時兼が呼応する予定であったが、未然に密告で露見し失敗に終わる。時行は引くに引けず七月に挙兵。この時、保科・四宮氏が挙兵して信濃守護・小笠原貞宗の注意を引きその間に時行が蜂起して信濃から関東に攻め入った。これに北条残党が加わって数万の軍勢となり関東を支配していた足利軍を各地で破り七月二十五日に北条軍は鎌倉を奪還、足利直義は三河に逃れた。
 しかし北条氏の再起も長くは続かなかった。京から足利尊氏(高氏、後醍醐から「尊」の一字を賜り改名)が大軍を率いて攻め入り、北条軍相手に連戦連勝で鎌倉を再奪回したのだ。時行は信濃に落ち延び再起をうかがう。
 やがて尊氏は自らの政権樹立を目指し後醍醐と敵対して挙兵、後醍醐方は敗北して日本は尊氏ら足利政権が擁立する京の朝廷(持明院統、北朝)と吉野に逃れた後醍醐方(大覚寺統、南朝)に分裂する。この時、時行は後醍醐から朝敵赦免の綸旨を受け足利軍と戦っている。彼にとっては直接鎌倉を滅ぼした義貞より、長年にわたり北条の恩を受けながら寝返りで形勢を定めた足利の方が仇敵であったようだ。或いは、天皇の臣下となるのは従来通りなので問題ないが、足利の下風に立つ事は北条嫡流の誇りが許さなかったのかもしれない。
 ある時は奥州の北畠勢と合流し、別の時は新田軍と合同作戦を取り、正平七年(1352)には足利方の内紛に乗じて新田軍と共同で鎌倉を奪回した事もある。しかし結局は衆寡敵せずで敗北し、翌正平八年(1353)に捕えられて五月二十日に鎌倉竜ノ口で処刑された。ここに北条氏嫡流は滅亡したのである。

15おわりに

 北条氏は、元来は伊豆の中小豪族に過ぎなかったが、頼朝の外戚という有利な立場を足がかりに地位を上昇させ、やがて豪族達の代表者と言う形で権力を掴んでいった。巧みに豪族達の利害を調整して支持を集める他、その権力を安定したものとするため他の有力豪族を排斥し、商工業勢力も積極的に取り込んで経済力・社会的実力を付けていった。
 しかし、元が中小豪族であったためにこの過程で相当な無理が生じており、多くの豪族が脱落し犠牲となった。豪族達の代表であった筈の北条氏は、いつしか彼らを抑圧する存在となっていき彼らから敵視を受けるようになった。無論、北条氏も彼らの代表者である事に自身の権力が根差している事は認識しており救済政策を打ち出しているが、北条氏の勢力拡大そのものが御家人没落の一因であったこともあって効果は十分に上らなかった。
 また、商工業者・寺社勢力取り込みに関しても、先進地域である畿内では伝統的に朝廷との関係が強く、外来者である御家人への反発が存在した。関東の代表者である北条氏はその時点で彼らの反感をかいうる存在であり、多くの離反者を彼らからも出す事となった。
 こうして、無理な勢力拡大の結果として各方面から孤立したのが北条氏滅亡の最大の原因であろう。鎌倉滅亡時に膨大な数の人間が殉じている事から北条氏を支える階層が相当に形成されていた事は察せられるが、それでも時代の流れに抗する事はできなかった。関東は依然として農業中心の豪族が社会の中心であり、商工業者のみでは対抗できるものでなかった事も挙げられよう。
 加えて、北条政権そのものが先例第一となり機構の整備はされている反面で柔軟性を失い動乱への適切な対応が難しくなっていた事も大きかった。
 高時自身にこうした動乱を乗り切る力量がなかったのは確かであろうが、彼の暗愚のために鎌倉幕府が滅亡したと見るのは酷であろう。北条氏が支配体制を固める中で重なってきた問題・矛盾が遂に覆いきれないレベルまで達したと見るべきである。北条政権は、無論状況を認識して精一杯の対応をしたのではあるが、時に利あらず力及ばなかったのである。高時が精神的に不安定な一面があり遊興に我を忘れがちであったのも、そうした重圧感や閉塞感から逃れようとしたからではなかったろうか。
 北条得宗政権、それを受けついた後醍醐政権や足利政権。彼らの時代は商工業が発達し主流となり始めているが、社会を支えきれる段階には至っておらず中世的な地方豪族・寺社といった自足的な存在の力がまだ侮れないと言う未熟な段階であった。そうした中で集権体勢を目指して苦闘した彼らは、近世への生みの苦しみを味わっていたと言える。

参考文献
鎌倉北条氏の興亡 奥富敬之 吉川弘文館
日本の中世国家 佐藤進一 岩波書店
「日本中世史論集 佐藤進一 岩波書店」より「幕府論」「武家政権について」「鎌倉幕府政治の専制化について」
南北朝 林屋辰三郎 朝日文庫
鎌倉政権得宗専制論 細川重男著 吉川弘文館
人物叢書金沢貞顕 永井晋 吉川弘文館
日本の歴史8蒙古襲来 黒田俊雄 中公文庫
北条高時のすべて 佐藤和彦編 新人物往来社
日本古典文学大系太平記一〜三 岩波書店
帝王後醍醐 村松剛 中央文庫
太平記の群像 森茂暁 角川選書
足利尊氏 山路愛山著 岩波文庫
「中世社会の研究 松本新八郎著 東京大学出版会」より「南北朝内乱の諸前提」「南北朝の内乱」
異形の王権 網野善彦 平凡社
馬・船・常民 網野善彦・森浩一 講談社学術文庫
増補無縁・公界・楽 網野善彦 平凡社
足利尊氏 高柳光寿著 春秋社
楠木正成 植村清二 中公文庫
増鏡 和田英松校訂 岩波文庫 
神皇正統記 岩佐正校注 岩波文庫 
南北朝動乱と王権 伊藤喜良著 東京堂出版
日本中世史を見直す 佐藤進一・網野善彦・笠松宏至 平凡社
日本二千六百年史 大川周明 第一書房
日本異譚太平記 戸部新十郎 毎日新聞社
山河太平記 陳舜臣 ちくま文庫


発表一覧に戻る