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足利直義  NF


1はじめに

 足利幕府樹立に当たって兄・尊氏を卓抜した政治手腕で支えるものの、後には保守派の領袖として兄や高師直と対立して悲劇的な最期を迎えた足利直義。今回は彼の視点から南北朝を見て行きたい。

2当時の情勢

 8世紀初頭に確立した中央集権的な統一政権は、9世紀には崩壊に向かう。生産力の向上に伴い貧富の差が拡大、貧困層が没落する一方で実力を付けつつあった地方豪族は彼らを支配下に納め自給体制を各地で形成した。中央政府(朝廷)は豪族達の利権を黙認し、人口を把握するのを断念して土地単位での税徴収体制に転換。こうして大土地所有者、すなわち有力貴族・寺社や地方豪族による連合体の盟主として朝廷が存在する体制が11世紀前半に確立する。
 やがて、地方豪族の実力向上に伴い彼らを支配下に組み入れた軍事貴族が台頭。12世紀末には軍事貴族の代表者である源氏・平氏による内乱を経て、勝利した源氏によって東日本に軍事政権である鎌倉幕府が成立した。幕府は朝廷の宗主権を名目上は認めつつも東日本を中心に独自の支配体制を確立。朝廷が西日本、幕府が東日本を支配する形となった。13世紀前半の承久の乱以降は軍事力に勝る幕府が圧倒的優位に立ち、次第に支配権を広げた。13世紀末のモンゴル帝国(元)の来襲(元寇)を契機として幕府は国防の必要上から全国規模で支配権を強化、発達しつつあった商業勢力を把握する事で専制化を志向していた。
 一方で、従来より幕府に従属していた豪族達(御家人)は分割相続による支配領域の零細化、商業発達に伴う貧富の差の拡大、元寇やその後の海岸警備による経済的負担もあって専制化する幕府に不満を募らせていく。また、経済先進地域であった畿内を中心に、貨幣経済発達に伴い非農業民を支配下に置き新興豪族が台頭、伝統的勢力としばしば衝突し「悪党」と呼ばれ朝廷・幕府も統制しきれず頭を悩ませる社会不安要素とみなされるようになっていた。幕府は彼ら非農業民の組み入れに腐心していたが、西国の非農業民は伝統的に朝廷と深い繋がりがあった関係もあってか、「悪党」らは寧ろ取締りにより自らを制肘する存在として幕府への反感を持つ者も多く見られるようになる。
 一方、承久の乱以降弱体化していた朝廷は、更に皇室や有力貴族が地位をめぐって分裂。皇室は持明院統と大覚寺統に分かれ、摂関家は五摂家に分裂して対立する。中でも皇位や「治天の君」(皇位を退いた上皇の中でも天皇の保護者として実験を握った者をこう呼ぶ)をめぐっての両統の対立は深刻で、幕府による調整が必要なほどであった。その結果、思い通りに行かなかった陣営による幕府への遺恨を生む事となるのである。
 経済発達を背景に専制化を進める幕府であったが、その一方で各階層から反発を買い孤立化も進んでいた。人々の不満や社会不安も高まりつつあり、幕府は火薬を満載した導火線の上に座しているような状況であったのである。

3青年期

 「足利尊氏」《サイト管理者註:京都大学歴史研究会サイト掲載》でも記したが、足利氏は源義家の孫義康に始まる現時の名門である。鎌倉政権成立後は頼朝から優遇され、北条氏が実験を握った後も代々の当主は北条氏と縁戚関係を保ち北条一族に準じる扱いを受けていた。陸奥・上野・下野・上総・安房・相模・三河・山城・丹波・美作・筑前に35箇所の所領を持ち上総・三河の守護を勤めていた。徳治元年(1306)に貞氏・上杉清子の間に生まれた直義は元服時、得宗北条高時から一字を受け「高国」と名乗った。兄・尊氏も同様に「高氏」と当初は名乗っている。
 さて、北条氏にとっては御家人の秩序を保つためにも、そして後には自分達の独裁体制を確立ためにも自分達に次いで強力な足利氏を抑える必要があった。それにつれて足利氏は圧迫感や有力御家人で次に潰されるのは自分達という不安を感じるようになる。彼らの祖父家時が三代の後に天下を取る事を悲願とし自刃したことが知られているが、北条氏への不満や家門の誇り、それが高じての野望が足利氏の内部で募っていたのは間違いなさそうである。
 さて、鎌倉政権期における直義(以後は便宜上、「直義」の名を用いる)については多くは知られていない。嘉暦元年(1326)に兵部大輔に任官している事や渋川氏の女性を正室に迎えている事位であろうか。

4風雲

 この頃、大覚寺統から即位した後醍醐天皇は親政を行い京都周辺の商業勢力を保護して彼らを支持基盤に取り込もうと図る。そうした中で、後醍醐は幕府の打倒を目論むようになる。傍流であった己の血統に皇位を受け継がせ、皇位継承に干渉する幕府を倒し天皇による専制政権樹立を志向したためである。後醍醐は寺社勢力の経済力・軍事力を頼みにして彼らの取り込みを図った上で、元弘元年(1331)に挙兵し笠置山に篭った。しかし幕府の軍事力は未だ圧倒的であり笠置は陥落して捕らわれ、持明院統の量仁親王(光厳天皇)に譲位した上で隠岐に流された。
 しかし、後醍醐の誘いに応じて河内で挙兵していた楠木正成は元弘三年(1333)に幕府軍を翻弄した上で金剛山の千早城に篭る。また、後醍醐の皇子・護良は各地の豪族に挙兵を煽ると共に自身も吉野に篭った。威信を傷つけられた幕府は大軍を動員し吉野を陥落させるものの、千早城は攻めあぐねる。これを受けて、播磨の赤松円心のようにかねてから幕府に不満を抱く豪族が各地で立ち上がった。彼等はこの頃盛んになった商業を背景とする新興豪族やかつて幕府に敵対し不遇に陥った地方豪族が中心であった。やがて後醍醐が隠岐から脱出し名和長年に迎えられて伯耆船上山に篭る。後醍醐方の意気は天を衝くばかりとなり、京は赤松氏と後醍醐寵臣の千種忠顕により攻撃を受ける状況で京における幕府方の拠点・六波羅探題より鎌倉に援軍依頼が出されていた。
 これを受けて、幕府は名越時家と足利高氏を援軍として上洛させる方針とした。足利氏は情勢を見て今こそ北条氏を倒し天下を狙う好機であると睨んでいたが、幕府もそれを察したか妻子を人質とし反逆しない旨を神に誓う起請文を提出するよう要求。高氏はこれを受けて迷いを生じたと言われるが、ここで直義は大事をなす際には小さな事を顧みるわけにはいかないと言って兄を励まし、ここは一旦幕府の要求を呑み兎も角行動を起こすよう説いた。高氏はこれで心を固めて人質・起請文を北条氏に提出した上で上洛の途につき、途中の三河で後醍醐に連絡を取り綸旨を手に入れた上で丹波にて倒幕の挙兵をした。これにより六波羅探題は滅亡して畿内は後醍醐方の手に落ち、形勢は一気に後醍醐方に傾いた。やがて新田義貞により鎌倉が陥落、大友氏・少弐氏により鎮西探題も陥落して鎌倉幕府は130年の歴史を閉じた。
 形勢を決定付けたのは足利高氏の行動であったが、その際に逡巡する高氏の背中を押したのが直義であった。この後も迷う高氏に対して行動を促す直義という関係が大事な場面では認められるのである。

5鎌倉将軍府

 親政を再開し全国の支配権を手に入れた後醍醐天皇の最初にすべき事は倒幕に協力した人々への恩賞であった。全国から無数の武士・寺社が功績を具申し恩賞を求めており、限られた領地で充分それに応え切れるか疑問な状態であった。しかも天皇は己の実力基盤を確立する為に自身や近臣らに多くの旧北条氏領を付帯させていた。これが恩賞の公平性への不満を大きくした。さて足利氏は形勢を定めた功績が認められ、高氏は頼朝の先例に倣い武蔵・相模・伊豆の権限や、更に多くの所領を受けた他、天皇の名「尊治」から一字賜り名を「尊氏」と改めている。直義も三河(遠江という説もあるが確証なし)に権限を与えられると共に相模国に十五ヶ所の所領を与えられた他、左馬頭に任じられた。
 さて後醍醐は弱体化した王朝の危機的状況を脱出する為、自己の子孫に皇位を伝える為、そして自己の支配欲を満たす為に新たな政治体制を構想していた。中央では経済・警察など主要官職は近臣が就き天皇に全権力が直結する様に図り、地方では公領の徴税を司る国司と軍事・警察を担う守護の併置により分権・牽制をさせる。こうして農業と非農業の均衡を取る中央集権的な専制政治を目論み、勃興しつつある商業などを軍事・経済基盤にして政権を支えさせようとしていた。しかしそれを貫徹するには実力が未だ不足しており、急激な改革に反発する勢力は数多く存在した。その中でも、豪族達から名門として信望を集める足利氏は最大の危険分子であった。尊氏は京に奉行所を設置して豪族達と主従関係を結ぼうとしていたほか、また新田義貞の鎌倉攻めに長男・千寿王(義詮)を参加させて足利を盟主として鎌倉を落としたという形を作り関東に勢力を張りつつあったのである。
 そこで、建武元年(1334)に後醍醐は奥州を把握して関東の足利勢力を牽制するために義良親王を将軍とし北畠顕家に補佐させる奥州将軍府を設置。これに対抗して足利氏は、後醍醐の許可を得て成良親王を将軍として鎌倉将軍府を開設。将軍の補佐役として実権を握る事となったのが直義である。後醍醐としては当面は足利との正面対立は避けざるをえず、そのため彼らにより作られた既成事実を追認せざるを得なかったのと、有力者である足利氏を配下に組み入れることで敵地である関東の有力豪族を宥めようとした側面がある。また、奥州・関東に皇子を配する事で後継者候補のリスク分散という狙いもあったようだ。
 さて、鎌倉将軍府は「建武年間記」によれば「関東十か国成敗」を任されていたという。所務相論・年貢などの裁判や所領問題に権限があったとされる。直義は「執権」と呼ばれていたと言うが、実際に「将軍執権次第」では守邦親王(鎌倉幕府最後の将軍)の次に成良が、赤橋守時(同最後の執権)の次に直義が記されており関東では鎌倉幕府の延長線上として認識されていた事が分かる。事実、直義は訴訟裁決・所領安堵に下文・下知状を用いており鎌倉幕府執権に準じた形式をとっている。因みに当時の関東には尊氏による書状も見られるが、こちらは頼朝に準じて袖判下文を用いている。更に千寿王が尊氏名代として鎌倉に存在しており、鎌倉幕府末期における得宗(北条氏惣領)に相当するといるかもしれない。
 彼らの下においてどのような機関がおかれたかを見てみよう。まず政所執事に長井広秀が任命され、侍所には三浦氏から任じられたとされる。また将軍を守る御所奉行には二階堂時綱が就いた。鎌倉の常備軍である関東廂番は足利一族や外戚である上杉家から39名が任じられた。因みに直義の妻の兄に当たる渋川義季も名を連ねている。この関東廂番は出身者に後の評定衆・引付衆構成員が多く、これらの機能も有していたと推測されている。
 以上より、鎌倉将軍府は足利一族や旧鎌倉幕府実務官僚によって構成された鎌倉幕府の縮小版であることが分かる。足利氏としてはこれにより北条氏に取って代わり天皇の宗主権を認めつつ武家の棟梁となる事をめざしたといえる。後醍醐が関東に独立政権が形成するのを好まなかったのは明白であるが、京において尊氏と対立していた護良親王が失脚し関東の直義へと預けられるなど尊氏に対抗できる存在は見られなくなっており、時間の経過と共に既成事実として足利氏の手で幕府再建を行う事を直義らはこの時点において考えていたであろう。しかしそこに大事件が勃発する。

6中先代の乱

 建武二年(1335)六月、信濃で一大反乱が勃発した。北条高時の子・時行が諏訪氏に擁立されて挙兵したのである。彼らは信濃守護である小笠原氏を破り、関東に侵入。7月14日に女影原で足利方は敗れ、更に小手指原・府中でも敗北。これを受けて直義は自ら出陣して迎え撃ったが、22日に井出沢で大敗した。この一連の敗北で直義は細川頼貞・岩松経家・渋川義季・小山秀朝といった幹部を多数失っている。これで一旦鎌倉を明け渡して退去する事を余儀なくされたが、その際に直義は手元に抑留していた護良親王を殺害させている。これは混乱に紛れて危険分子を始末したと見ることも出来るが、ここまで生かしていたことを考えると時行らに擁立され野に放たれた虎となる事を実際におそれたと見るほうが妥当であろう。さて、直義は8月2日に三河矢作に到着し、そこから成良親王を京に帰した上で状況を報告している。
 京に滞在していた尊氏は、これを受けて後醍醐に征夷大将軍任命と出陣許可を求めるが認められなかった。そこで尊氏は許可を得ないままに出陣。尊氏出馬を知った豪族達は続々とこれに加わり、尊氏はそれに力を得て各地で北条軍を撃破して鎌倉を奪回した。尊氏は、鎌倉に留まり独自で論功行賞を行った。朝廷はこれを重視し、尊氏に京に戻るよう命令。尊氏は一旦は応じようとしたものの、直義が粛清される危険を説いて強く諌止した。直義は尊氏が関東に下向した時点で足利氏による幕府の完全復活を目論んでいたと思われる。

7建武政権への叛旗

 十月、尊氏から朝廷に新田義貞討伐を求める奏上がなされ、義貞はこれに対抗して尊氏討伐を求める奏上をした。また、直義の名義により義貞討伐のため挙兵を求める檄文が各地に飛ばされていたようだ。実際に(時期はやや遅れるが)讃岐で細川定禅が、備中で飽浦信胤・田井信春が直義の文書に応じて朝廷に叛旗を翻している。後醍醐は事がここに至っては最早足利との妥協は不可能であると考えて義貞に尊氏討伐を命じる。一方で尊氏は後醍醐との正面対決をする決心は付いておらず、出陣を拒み出家すると言って寺に篭ってしまった。
 そのため、直義が足利軍を率いて出陣。上杉憲房・細川和氏・佐々木導誉らを主力に吉良・石塔・桃井・上杉・細川ら一族のほかに武蔵七党・土岐・小山ら有力豪族による軍勢を率いて三河矢作川に陣を布いた。
 11月25日、義貞は矢作川の足利軍を撃破し、更に鷺坂でも足利方を破っている。勢いに乗って義貞は12月2日に手越河原で直義の率いる軍勢と対峙した。直義は数万の軍勢で日中にこれと戦闘した後、夜になり陣に引き上げて休息を取った。そこへ新田軍が射手を接近させて矢を射込み奇襲をかけたため、不意を突かれた足利軍は潰走し伊豆国府まで撤退。直義は要害の地・箱根に六千の軍勢で立て篭もったが、義貞による攻撃を受けて劣勢であった。足利の命運は風前の灯であり、直義は兄・尊氏の出陣を激しく促した。直義は政治的な流れを読み取る事に長け、積極的に尊氏を動かす役割を果たしていたが、軍事的能力には恵まれていなかった。それがこの局面にも徐実に現れていると言える。
 さて知らせを受けた尊氏は、足利家の存在そのものが危機に瀕している事を認識し出陣。竹ノ下において脇屋義助の軍勢に奇襲をかけることで形勢を逆転させた。これを切っ掛けに新田軍は潰走し、足利軍はこれを追撃して上洛。建武三年正月に京を占拠した。尊氏・直義は京において新田軍・楠木軍に加えて奥州から来援した北畠軍と合戦を繰り返し、一月末には敗北して西国に落ち延びた。この際、瀬戸内の要所に現地豪族と足利一族を配置して守りを固めさせてから九州に向かっている。四国に細川和氏・頼春・師氏・顕氏・定禅、播磨に赤松円心、備前三石に石橋和義・松田盛朝、備中鞆尾に今川俊氏・政氏、安芸に桃井氏・小早川氏、周防に大嶋義政・大内弘世、長門に斯波高経・厚東武実という配置である。これは政治力に長けた直義の発案であった可能性がある。

8多々良浜の戦いと再上洛

 尊氏の領地である長門赤間に着いたのは2月20日であった。少弐頼尚に迎えられて29日に筑前芦屋に到着。尊氏らは宗像社に陣を布いて菊池勢を迎え撃つ形勢を整えた。3月2日、菊池勢が大宰府から出撃。足利方も出陣し、敵が笹の葉を目印に付けているのに対抗して宗像社にある神木の杉の枝を目印とした。
 菊池軍は多々良浜の南の外れにある小川の南岸で箱崎八幡の松原を背に布陣していた。その数は「太平記」や「梅松論」では数万とされるが、「北肥戦誌」によれば七千と伝えられる。恐らくは後者が妥当であろう。一方尊氏軍は正面に三百騎余、東側に少弐頼尚の五百騎余、歩兵も合わせるとそれぞれ千余・千五百余であったろうか。尊氏が落胆し切腹を口にする程の劣勢であったが、直義は戦は数のみでは決まらず、戦ってみなければ分からないと説いて兄を励ました。直義は少弐勢と共に先陣として出撃。菊池勢は正面から攻掛かるが足利軍は歩兵が矢を射掛け敵が怯むのを見て決死の勢いで突撃する。折り良く北風が吹き砂や塵を巻上げ、それが菊池軍の兵達の目に入ったため菊池軍は動揺、直義らは追風に乗って打向かった。ただでさえ菊池軍は制圧された豪族達の寄集まりで、内心は朝廷に不満を抱き尊氏に好意を抱く者が多かった。それに対し菊池直属の兵は千人に満たなかったと言われ、大軍といえども戦意は低い烏合の衆で実際に戦闘に加わる者は多くなかった。菊池勢は浮足立ち、勢いに乗った直義は追撃し松原を過ぎる。そこで武敏は大軍に物を言わせて松原の方面と東の2方向に軍勢を分けて直義を挟討とうとした。直義は一転して苦戦に陥り、討死を覚悟した。その際に直垂の片袖を形見として尊氏に届けさせたと言われ、兵達はこれを見て感嘆したという。そこへ、尊氏は直義を救出すべく自ら手勢を率いて突撃し敵の一方を打ち破った。こうして足利軍が有利に戦いを進めるうち、元来烏合の衆であった菊池勢の中から松浦党らが寝返った。これを切っ掛けにして直義・少弐勢が息を吹返したので菊池本隊の奮戦も空しく勝敗は決し、武敏は辛うじて逃れた。
 九州の地固めをするか勢いに乗り上洛するかが問題となったが、播磨白旗城で新田軍を防いでいる赤松円心から兵糧が乏しいため早急に救援を求めるとの使者があったため一色・仁木らを残し、上洛を急ぐことにした。5月10日、足利軍は尊氏が海路・直義が陸路を進む事として博多を出発。水軍・陸軍ともそれぞれ数万に上る大軍であったと言われる。直義は備中福山城を攻撃し、守将・江田行義は城を奪取したばかりで18日の足利軍来襲の際には篭城準備を整えられず、城を放棄して撤退した。また、三石城を包囲していた義助もこの情勢を見て兵庫へ撤退。播磨で赤松氏を攻めていた義貞も包囲を解いて全軍を兵庫に集結させた。
 元来、西国に逃れた足利軍に対する朝廷の対応は迅速とはいえず、新たに降伏してきた者を組み入れての軍の再編成や、凶作のため難航する兵糧集め、東国への調略、北畠顕家らを再度派遣して奥州を守る事に精一杯であった。これに焦燥を感じる朝廷方の武将は少なくなかったであろう。新田を切り捨ててでも尊氏と講和するべきだと楠木正成が献策したという「梅松論」の逸話はその一端を現しているであろう。「太平記」によれば義貞は朝廷から賜った美女・勾当内侍への愛に溺れていたと言われるが、事実ならこうした情勢への焦りを紛らわせていたのかも知れぬ。
 ともあれ、こうした朝廷の動きに助けられて足利方は勢力回復の十分な時間を手にすることができたのである。

9湊川の戦い

 足利の大軍が上洛するという知らせを受け、朝廷は楠木正成の軍勢を援軍として差し向けた。この時に正成は京を明け渡して叡山に篭城し足利軍を包囲して兵糧攻めにすることを進言したといわれるが、受け入れられず兵庫での決戦が命じられた。これを受けて子の正行を河内に帰しており、死を覚悟しての出陣であったという。
 5月25日、細川定禅の四国水軍五百艘が湊川と兵庫島を左に見て神戸方面へ進撃。これに錦の旗(足利軍は朝敵の汚名を防ぐために後醍醐と対立する持明院統から院宣を受けていた)・天照大神八幡大菩薩の旗を掲げた尊氏の御座船・数千艘の軍船が続く。水軍だけで二,三万に及んだと言う。陸上では中央から直義・高師泰が率いる播磨・美作・備前の兵、山手から斯波高経の安芸・周防・長門の兵、浜手から少弐頼尚率いる筑前・豊前・肥前・山鹿・麻生・薩摩の兵が進軍。陸軍は二万ほどと考えられる(「太平記」は例によって50万騎と誇張)。
 一方、兵力に劣る朝廷側は水陸両面から迫る足利軍に対し各個撃破に活路を見出そうとした。兵庫港の船舶停泊地である経ヶ島に脇屋義助(「太平記」では五千騎だが「梅松論」の記述から千五百と考える)、灯篭堂南の浜に大館氏明(同じく「太平記」では三千騎だが九百とする)を配置して水軍の上陸を阻止し、正成は弟正季と共に七百騎(歩兵も考えると二千程か)で会下山一帯から夢野付近に布陣し直義軍に当たる。この辺りは狭く幅の広い川も多い湿地帯で大軍の移動に適さなかったため、地の利を生かして大軍を翻弄するに向いた地形である。楠木軍は軽装の歩兵を中心に四天王寺や洛中などで野戦の実績が豊富であり、今回も臨機応変な戦いぶりが期待されたであろう。そして直義の率いる陸軍を退けた後に全軍を挙げて水軍を撃つ計画であったと考えられる。和田岬には、朝廷軍の総大将・新田義貞が最精鋭部隊を率いて陸・水両方面の戦況に対応できるよう陣取っていた。その数二万五千騎と「太平記」は記すが「梅松論」によると新田軍は総勢一万前後とされていること、足利軍と比べ数で劣っていたことを考えると義貞本隊は七千五百程であったであろう。正成や義貞は戦況や上層部の決定に対し絶望したであろうし討死を覚悟もしたであろう。しかしその中でも飽くまでも勝利の可能性を探る事を止めはしなかったのである。
 さて足利の陸軍が接近、山手軍は古道越を取り鹿松峠から大日峠を超え、正成の右側面をつこうとした。大手軍・山手軍が一の谷を越えたのは九時頃。大手軍は上野山から会下山に通じる道を進み正成の正面に対峙。一方浜手軍は水軍と連絡しながら海岸沿いに進み駒ヶ林の北から新田軍の側面へ。十時に尊氏の御座船から戦鼓が鳴り響き、水軍・陸軍もそれに合わせ鬨を上げた。細川の水軍は船舶停泊所である経ヶ島でなく紺辺から上陸、新田の後方撹乱を図った。新田本隊は、水軍の上陸を阻止して陸軍を撃破する計画が頓挫するのみならず退路を絶たれる体制となったためそれを防ぐため陣を引払い細川勢を追い、戦闘を開始した。が、その間隙に尊氏の率いる軍勢が上陸し、新田軍と楠木軍との連絡が断たれ正成は湊川に孤立。正成は正季と共に正面の直義軍に攻込む。直義軍は菊水旗を見て勇躍し、大軍に物を言わせてこれを取囲もうとしたが正成らが直義の本陣に突入するとこれを防ぎきれず、直義軍は壊乱寸前に陥った。直義自身も乗馬の足を引きずりながら逃げ、危うく楠木勢に討取られる所だったが薬師寺十郎次郎が防ぐ間にやっと命拾いする有様であった。弟の苦戦を見た尊氏が吉良・石堂・高・上杉の軍勢六千騎に正成らの背後を囲ませ、正成・正季は激闘するも衆寡敵せず念仏堂で自害。一方、義貞は尊氏と勝敗を決し楠木勢を救出しようと尊氏軍に攻め入り矢の雨をものともせず激しく戦闘を行ったが果たせず、京へ撤退を余儀なくされた。こうして足利軍は朝廷軍を撃破し再び京へ入ったのである。

10南北両朝への分裂

 湊川で朝廷軍が敗北すると、後醍醐は再び叡山へ避難。足利軍は仁木頼章・今川頼貞を先陣に入京し、6月5日から直義を中心として叡山攻撃に入る。尊氏は東寺に、直義は三条坊門に本陣を置き今路方面は三井寺、大手の雲母坂は細川勢、横川は少弐勢が受持った。義貞を大将とする後醍醐方の奮戦で苦戦を余儀なくされたが、近江の佐々木導誉により叡山の糧道を断つことで後醍醐方を追い詰める事に成功した。この攻防戦の最中である8月15日、光厳院が院政を行う体制で、その弟・豊仁親王が天皇に擁立された。光明天皇である。
 足利方の優勢が固まったところで、尊氏は後醍醐に和睦を申し出た。神器を光明に譲渡する、皇位は両統で迭立、後醍醐方の公家を処罰しないという当たりが条件だったと推測されている。和睦が成立し後醍醐が京に戻った際に直義がその対応に従事した。しかし義貞は勿論、桐院実世など後醍醐方の幹部が多数見られなくなっており後醍醐が再起を期して各地に潜伏させた事が推測された。直義は、この「違約行為」に対し後醍醐を花山院に軟禁する事で対処する。しかし一方で成良親王を光明の皇太子に擁立しており講和時の約束は守る姿勢を見せてもいた。さて、反足利方に擁立されないよう軟禁されていた後醍醐は予想に反して11月21日に脱出、楠木氏の案内で吉野に入り正統の帝位を宣言した。南朝である(光明天皇の朝廷は北朝と言われる)。以降、60年以上にわたって両陣営の争いが行われるのである。

11足利政権の樹立

 少し話は戻って後醍醐との和睦が成立した直後の11月7日、足利方は二階堂是円らに諮問した上での答申を公布。建武式目である。まず「義時・泰時父子の行状」「延喜・天暦の徳化」を理想とすることを宣言した。そして政権の拠点について述べ、鎌倉が望ましいが異論が多ければそれに固執しないとした。以下の17条では、例えば庶民の生計が成立つよう計らい土倉を復興させ商人・旅人を悩ませないようにと定めている。明らかに戦乱期における洛中施政を意識した取決であり、京に政権を置く事を前提にした条文である。京周辺に後醍醐方が多く油断できない事、同様に地盤が不充分で商業からの収入も必要としている事。これらにより拠点を京に置かざるを得ない現実と鎌倉の持つ伝統への未練とを如実に表している。また、守護は政治能力を優先して決めるべきであり軍功への恩賞とすべきではないとも述べており、平時の内政を重視する方針と言える。他に、「バサラ」と呼ばれる当時流行した派手な振る舞いを取り締まる旨も言及。北条泰時・時頼の時代における質実で道理を重んじる政治を理想としている事が読み取れ、万事に鷹揚な尊氏より寧ろ道理・理性を重視する直義が主導した法令である事がわかる。この建武式目は足利氏による政権樹立宣言と言える。足利政権、通称室町幕府はこの時点で成立したと考えるのが妥当である。

12足利政権の政治運営

 初期の足利政権では、尊氏が動員・恩賞給付など主従関係を、直義が本領安堵や裁判・政務運営を請け負う二頭体制が採られた。尊氏は直義の政治手腕に厚い信頼を寄せ、一切の口出しをしなかったと伝えられている。また、世間一般での評価も高かった様で、「梅松論」では「廉直で実々しくいつはれる色なし」と絶賛され、直義に比較的批判的な「太平記」からも「政道をも心にかけ、仁義をも存じた」と高く評価されている。朝廷の光厳院からも信頼され「ただ爪牙の良将たるのみに非ず、已に股肱の賢弼たり。」と言われるほどであった。
 足利政権は伝統的土豪や新興の商工業勢力などをも支配下に組み入れながら倒置を進める必要があった。いわば同床異夢の性格が強く、彼らを束ねるには直義の厳格さ・公正さは不可欠なものであった。
 ある時、功臣土岐頼遠が光厳院の一行と諍いしその車に矢を射掛けたことがあった。頼遠は北畠顕家との戦いで奮戦した功臣であったが、直義は断固とした態度で頼遠を処刑した。また日常生活においても、田楽など遊興を割合好んだ尊氏と違い一切そうした物を近づけなかった。そして八朔の行事で慣例の贈物を賄賂として一切受取らなかった(因みに尊氏は快く全て受取り快く家臣達に全て与えた)。ただし決して無教養ではなく、夢窓国師に参禅して「古山」の号を与えられている。彼が夢窓と交わした対話は「夢中問答」としてまとめられており、その合理的な思考傾向がうかがえる。また、連歌・連句を比較的好んだ事も知られている。政治的傾向においては伝統的権威を尊重し、所領音大に関しても慣例・道理を重んじて非法を許さなかったといわれる。贅沢・遊興を廃し質実さを重んじて実務に長じた直義には、代を重ねて足利氏と縁戚関係にあった北条氏の血が濃く流れていたのかもしれない。
 尊氏と直義の分業について詳述しよう。当時の文書からは前述したように守護任免・新領給付を尊氏、旧領安堵・禁制・裁判判決を直義が受け持っていた事が推定されるのであるが、それに即して足利政権各機構がいずれに属していたか見る事ができる。まず尊氏管轄の機構であるが、侍所・恩賞方・政所が逸れであったろうと思われる。刑事裁判が守護を通じて侍所にしばしば持ち込まれた事から、尊氏が侍所を直轄し守護を把握していたと思われる。更に新領給付関係で恩賞方を、そして鎌倉幕府時代から将軍直属の部門が多い政所も尊氏の支配下であったろう。次に、直義管轄であった機構について考える。まず所領安堵を受け持っていた問注所・安堵方は直義指揮下とみて間違いないようだ。また、豪族達への官位を推薦する官途奉行にも直義の関連があることが知られている。そして裁判に関連する機構も直義の支配下にあり、以下のものが知られている。まず所領関連の裁判を受け付ける引付方・内談方、寺社関連の裁判を受け持つ禅律方、手続き上の過誤救済機関である庭中方、過誤判決救済機関の越訴方、同様に過誤救済機関とされる仁政方・内奏方である。そして、鎌倉期以来の合議機関・評定衆も直義邸に設置されており、評議結果が直義の名前で下達されている事から直義管轄下であったと思われる。評定衆の構成員が足利一族・鎌倉幕府以来の評定衆クラスの豪族を中心としており後述する内紛でも直義方として活動している人物がほとんどであった事もこれを裏付けている。結論すると尊氏が侍所・政所・恩賞方を把握して軍事・恩賞を管轄し、直義が評定衆を把握した上でその下に安堵方・引付方・禅律方・問注所・官途奉行などを把握して旧領安堵・裁判・一般政務を担っていたのである。
 この当時の足利政権の主な政策について述べていこう。
 まず、南朝との戦いによる度重なる軍事動員に対応するため、守護に荘園・公領から年貢の半分を兵糧として徴収する権限を与えた。半済である。承久の乱で荘園の20分の1が地頭領となり更に後に地頭の取分は半分に拡大するところも多かったが、これで所によっては徴税権の4分の3が貴族の手から離れた事になる。守護が在地武士を養える経済力を身に付け、強力な社会的実力を手に入れていく。例えば、兵糧料所・要害地の指定、関所・港湾管理の権限も守護が持つようになるのである。
 また、吉野で崩御した後醍醐の菩提を弔うため天竜寺を建立したが、その際の費用捻出と称して元に貿易船を派遣した。天竜寺船である。海外交易により収益を上げて財政に反映させようとした。
 更に、戦乱での死者を弔うためとして貞和元年(1345)に、全国に安国寺・利生塔が設立された。これは「梅松論」によれば直義の発案とされ、実際に直義による寄進状が残されている。主に守護の菩提寺が選定されており、足利政権による仏教寺院勢力の統制を意図していると考えられる。
 康永元年(1342)の五山十刹制導入も、禅宗を保護すると共に旧仏教と対抗させ寺院統制を意図していると言えよう。
 当初においては、直義の政治手腕は朝廷・尊氏との円滑な関係もあり存分に発揮され政権の基盤作りに大きな貢献がなされたのである。

13高師直

 この頃、尊氏の命の実行を補佐したのが高師直である。師直は鎌倉時代以来の足利氏の家宰であったが足利氏が政権を掌握するに伴い中央に進出、将軍の親衛隊長として中央軍を指揮するようになった。指揮官としても傑出しており前述の北畠顕家を討つなど度々武功を立てる。特に顕著なのが四条畷合戦である。楠木正行が直義派である細川顕氏・山名時氏を撃破して幕府を震撼させたが、師直は正行が率いる南朝主力を壊滅させて吉野を焼討。それ以来、功を誇り実力のみを信じる傾向が強くなった。直義はその師直と対立を深めるようになったのである。師直は朝廷を軽んじる発言で知られるなど伝統的権威を否定する新興勢力の代表的存在であった。どちらかと言えば保守的な直義とは価値観が合わないのは当然の事である。この対立は保守的な有力名門豪族と新興勢力との対立として発展する事になる。
 それだけでなく、これには軍事動員を主に担う尊氏と平時の政務を主とする直義の間での衝突が根底にあった。守護の任免を例に取れば、軍功への恩賞とするのでなく政治能力を優先すべきという立場を直義が取っていたことは前述した。しかし実際には南朝との戦いを繰り返す中で、功臣に恩賞として守護職を与えざるを得ない状況も多かった。その中で、戦時には尊氏派・平和時には直義派の発言力が強まる状況にあったのである。
 総体的に見ると、従来からの勢力(既得権益があり保守的)・政務従事者が直義を、新興勢力・軍務従事者が師直を支持する傾向があった。もう少し細かく言えば、官僚・惣領・足利一門・関東や九州の大豪族が直義寄りで武将・庶子・譜代・畿内豪族が師直側となる傾向が強かったと言える。
 そうした中で貞和三年(1347)、直義の長男直冬(養子。実父は尊氏)は紀伊の南朝方を討伐し功績を挙げた。翌年には直冬は中国探題として備後・備中・安芸・周防・長門・出雲・因幡・伯耆を管轄することとなったが、これは直義による師直への牽制と見るべきであろう。
 さて貞和五年(1349)閏六月十五日、直義は尊氏に要求して師直を執事から罷免し、甥の師世に交替させた。更に光厳院の院宣で師直を討とうと図る。一方師直も黙ってはいず、八月九日に挙兵して直義を襲撃した。この時に直義側に駆けつけたのが吉良満義・満貞、石塔頼房、石橋和義、斯波高経・氏頼、細川頼春・顕氏、畠山直宗、上杉重能・朝房、高師秋、大高重成、二階堂行通、佐々木顕清。一方、師直側についたのが今川範国、吉良貞経、仁木頼章・義長、桃井義盛、畠山国頼、細川清氏、土岐頼康、佐々木秀綱、千葉貞胤、武田信氏、小笠原政長、佐竹師義、粟飯原清胤、二階堂行元らである。数としては師直が圧倒的に優勢であり、直義は尊氏邸に逃れたが師直はそれを包囲し直義側近の上杉重能・畠山直宗・妙佶の引渡しを求めた。
 尊氏の調停により、重能・直宗の流罪、直義は政務権を尊氏の長男義詮に譲り補佐に回る、師直は執事に返咲くという条件で話はまとまった。政務を直義から義詮に譲って欲しいと思っていた尊氏と師直で利害が一致し両者が裏で共犯であったと考えられている。もっとも尊氏は直義にも色よい返事をしていたようで双方とも自分を立ててくれるだろうとの尊氏の甘えや八方美人・優柔不断さが尊氏をこうした立場に置いたのかもしれない。義詮と入れ替わりに、関東には尊氏の次男・基氏が直義の養子として赴いた。直義と師直の双方にとって顔が立つ裁定になってはいる。が、実際には直義の敗北に他ならず、流罪にされるはずの側近二人は殺され、中国探題の直冬は師直の圧力により討伐を受け九州に逃れた。更に直義自身も圧力に耐えかね十二月八日に出家し恵源と号している。
 しかしこれに不満を持つ直義派、もしくは反師直派の勢力は侮りがたいものであった。直冬も九州において尊氏・直義の命令で渡航してきたと触れ回り現地の豪族を味方につけようとしていた。そして、直義自身もこのまま収まるつもりはなく、反撃の準備を水面下で進める。幕府内部での内乱がこうして始まるのである。

14観応の擾乱<前>―師直没落―

 観応元年(1350)十月に尊氏は直冬討伐のために師直とともに九州へ出陣。その直後の二十六日、直義は京を脱出し大和へ出奔した。そして十一月三日には師直・師泰兄弟を討伐するよう命令を発する。さらに直義は十二月末には畠山国清の河内石川城へ移り、南朝と和睦交渉を開始した。一方で細川顕氏を尊氏の元に派遣し、師直らの引渡しを要求している。直義は、あくまでも敵は師直であり尊氏に弓を引くものではないと言う立場を堅持していた。
 この頃、各地で直義派が挙兵していた。加えて、情勢の不安定化を受けて不平分子や南朝方も蠢動を開始していた事が直義を有利にしていた。十二月初頭には上杉顕憲が上野に進出、更に石塔頼房が八幡に向かっていた。十二月十三日には南朝では直義の和睦を受け入れ後村上天皇から義兵を挙げるよう直義に綸旨が発布された。これで直義は敵を師直らに絞るとともに大義名分を手に入れたのである。十二月二十五日、関東では高師冬が上杉顕憲に敗北し、やがて討死した。更に奥州では、直義派の吉良貞家が奥州管領の畠山高国・国氏を滅ぼしている。急速な直義派の優勢には、師直が強引な直義派粛清に対しての反発により人望を失い、更に不平分子が勝ち馬に乗るべく勢いのある直義に付いたためであろう。
 年が明けて観応二年(1351)、直義派の攻勢は更に強まった。一月四日に桃井直常が東坂本に到着し、七日には直義自身も八幡へ進出。同じ頃に直義は近江三ヶ荘を条件に叡山を味方に引き入れることに成功している。十日には中国地方にいた尊氏が山崎まで引き返すものの、十五日には義詮が兵の脱走が相次ぐため京を放棄し直常が入京した。これを受けて尊氏は四条河原へ進出して直常を撃破するものの、逆に斯波高経・上杉朝定・今川範国・山名時氏・佐々木貞氏らを始めとして次々に直義の下に合流するものが続出する状況であった。尊氏は情勢の不利を悟り播磨書写山に撤退。こうした有利な状況下で直義は一月十九日に北朝・崇光天皇に銭三万疋を献上、更に二月六日には南朝・後村上天皇にも銭一万疋を献じている。この機会を利用して両朝の講和を図ったものと思われる。
 さて二月十四日には細川顕氏が書写山へ向かい、これに対して尊氏が十七日に出撃し兵庫で迎え撃とうとした。八幡から五千の兵で向かってきた石塔頼房はこれに対し光明寺に篭る。尊氏軍が攻倦む間に、直義方の石塔義基・畠山国清が七千を率い後詰に回る。尊氏らは味方を二つに分け挟撃する作戦を立てたが、国清は衝突を避けて兵を松や藪に伏せて矢を射掛け防戦に徹した。苛立った師直らは突撃するが犠牲を増やすばかり。そこへ畠山軍の攻撃を受け尊氏方は潰走した。一方南に控える別働隊に対しても石塔軍が優勢に戦いを進めた。結局、師直・師泰兄弟が負傷した事で直義軍が勝利。直義は総大将として戦った際にはなかなか勝利できなかったのであるが、今回は前面に出ずに配下の武将に任せた事が功を奏したというべきであろうか。更に関東で師冬が上杉憲顕に滅ぼされた知らせが届き師直らの士気が更に低下したこともあり、二月二十日に尊氏は直義に使者を送り和睦を打診した。二十六日に和議が成立し尊氏一行が兵庫を出たところ上杉能憲の手勢が混り込み師直一族を殺害。権勢を誇った執事としては実に無残な最期であった。
 宿敵を滅ぼして幕府の主導権を取り戻す事で本懐を遂げた直義であるが、この際に一つの痛恨事に出会っていた。子息・如意丸の死である。貞和三年(1347)に授かった初めての実子であっただけに、その夭折に対しては哀傷限りなかったであろう事は想像に難くない。

15観応の擾乱<後>―直義の最期―

 二月二十七日に尊氏・直義兄弟は入京し、合戦の賞罰について話合う。その席で尊氏は自分に従った将兵への恩賞を優先させるよう主張。直義は味方を集めるに当り恩賞の約束をしていたので、これを容れると味方への約束が不可能になる。しかし尊氏が将軍である以上恩賞の権限を行使できるのは尊氏だけなので、将軍に最後まで付従った武士の恩賞をまず行い他の賞罰はそれから行う事となった。また、尊氏は師直一族を暗殺した上杉能憲の諸兄を要求したが、忠義の弁護により流罪でとどまった。最初においては尊氏に押されはしたが、戦いの勝者として直義は自身の体制を形成する。まず、義詮が政務を見る体制はそのままであるが直義が補佐をすることとなる。そして、直冬が鎮西探題となり、引付は桃井直常ら直義派で固められたのである。こうして直義優位の下で和平がなったように見えたが、実際には尊氏派の不満も強く各地で残党との戦いが行われていた。
 和平後も、直義による南朝との交渉は続けられていた。直義が朝廷による単独支配は実情にそぐわないとして幕府存続を前提に持明院・大覚寺両統の迭立を条件としたのに対し、南朝はとにかく南朝方による皇位継承・天下一統を唱えたため議論が噛合わない。更に双方の所領問題も絡んで紛糾化し、結局決裂に終わった。この際双方を取持った楠木正儀は固陋な南朝方の態度に怒りを覚え、今南方を攻めるなら自分はそれに呼応するとまで口走っている。因みにその後も正儀は南北両陣営の和平に奔走、一時期は足利側に走っている。
 さて、表面上は落ち着いたに見えた尊氏派と直義派の関係にも次第に破綻が明らかになってきた。三月三十日には評定衆斎藤利泰が暗殺され、五月四日には桃井直常が襲撃された。また、四月三日には直義は義詮と同宿するため三条坊門に赴くがすぐに帰宅すると言う出来事があり、両者の軋轢・齟齬が誰の目にも露呈しつつあったのである。六月になると、信濃で早くも尊氏方の小笠原為経と直義方の諏訪直頼が勝手に戦闘を開始する始末である。事態は既に尊氏・直義個人の手を離れ、それぞれを擁立する派閥の利害問題となっていたのである。七月後半、義詮は土岐頼康・細川頼春・仁木義長・仁木頼章・細川清氏らを率いて謀反した赤松則裕を討伐するためと言って播磨に出陣。尊氏も同様に佐々木導誉を討伐すると称して近江に出陣した。これは、直義のいる京を東西から挟撃する態勢であった。これを見た直義は危機感をもち八月一日に京を出奔した。これに従ったのは斯波高経・桃井直常・上杉朝定・上杉朝房・上野頼兼・山名時氏・畠山国清・吉良満貞・高師秋・宇都宮公貞・二階堂行綱らである。
 尊氏は、この時期に既に南朝との和平を模索していたようである。この段階では、尊氏は義詮を後継者とするために直義を除こうと考えていたと思われ、中でも直義を通じて直冬に後継者の座が行くことを恐れていたように見える。寛大で人への怨恨を抱く事がないと評された尊氏であるが、珍しくこの直義の養子にして自身の実子である直冬に関しては格別な宿意を抱いていたようである。かつて庶子である竹若については認知していた事を考えると、非嫡出子だからのみならず本当に自身の子かを疑っていたのではないかと指摘されている。また、権力二重状態そのものが最早不安定要因であり、義詮のために尊氏が図ったとすればその二頭体制の解消が目的であったろう。
 北陸に逃れた直義に対して、尊氏は和平を打診するが事態は最早二人の手を離れていた。9月、近江八相山で直義軍二万は尊氏軍一万と小競り合いをするが敗れ、意気阻喪した。この機を捉えて再び和平交渉が持たれたが両派閥は二人の意志を離れ最早妥協の余地を見出せなかった。止む無く直義は鎌倉へと引揚げる。さて、尊氏と南朝との和平は政権を南朝方に返す事で話がまとまり十一月二日に南朝の勅使が入京、尊氏は後村上天皇から直義討伐の綸旨を受け鎌倉へ出陣。それにしても直義の条件と比べると尊氏が無節操なのは否めぬ。この結果、尊氏方は北朝方の年号「観応」を廃し南朝方の「正平」を用いる。この和平を「正平一統」と呼ぶのはそのためである。
 鎌倉に立てこもる直義を追う尊氏は十一月三十日に三千の兵で薩多山に到達し宇都宮ら関東豪族の来援を待つ。これに対して直義は一万を率いて伊豆国府に本陣を置き、山を包囲して合流しないうちにこれを撃破しようと図った。また、宇都宮を討つため桃井直常に別働隊として一万を与え上野に向かわせる。尊氏は高地の優位を生かし山に立篭もり石を落とし矢を射掛ける事で凌いでおり、直義は攻めあぐねていた。一方、上野では十二月十五日に桃井直常が宇都宮軍に敗北していた。宇都宮氏綱は数千の兵しか持っていなかったが、三方から紀州をかけたのである。桃井を破った氏綱は尊氏救援のため進軍し、軍勢を数万に膨れ上がらせて二十七日に竹ノ下に到着。挟撃される形となった直義軍は日毎に兵が脱走、不利に陥った直義は翌年一月二日に早河尻で決戦し敗北。五日に尊氏に降伏し鎌倉に入った。直義は大蔵の延福寺に幽閉されていたが、二月二十六日に急死。師直の一年目の命日である。「常楽記」には延福寺で円寂したと記すのみであるが、「太平記」によれば尊氏により毒殺されたと囁かれたと言う。「臥雲日件録」には、直義死後にたいへん神霊があったため、これを祭り大蔵明神としたという記録があり、毒殺の真偽は不明だが直義が恨みをのんで怨霊となった考えられた事がわかる。これがその後の尊氏に暗い陰を落したのは疑い得ない。

16その後

 直義の死後も、直冬は尊氏への抵抗を続けた。直冬は九州から脱出し、中国地方の山名時氏ら直義派と結んで南朝に降り、文和三年(1355)十二月に上洛した。翌年になり尊氏と京を巡っての戦いを行ったが、結局は及ばずに敗れ去っていった。「太平記」によれば八幡の神託により父に弓を引く子には助力できないと言われたため味方が意気消沈したとされる。直冬の願文には実父と戦う事の苦渋が込められており、その心中に後ろめたさがありそれが戦局に影響した可能性はある。しかし、尊氏が直冬を受け入れない以上、直義の後継者として実父と戦う以外の道はなかったのである。
 直冬は、敗れて中国地方に逃れた後も幕府への敵対を続けていたが、南朝が本格的に弱体化し頼りとしていた山名・大内などが幕府の軍門に降ることで孤立し消息を絶っている。
 時は流れて15世紀半ば、足利政権第六代将軍・義教が有力守護である赤松満祐に暗殺された際、直冬の孫である義尊が赤松氏により擁立されている。赤松氏の反乱が鎮圧された際に義尊も討ち取られ、以降は直義の養子・直冬の系統が歴史に姿を現すことはなくなるのである。
 一方、前述したように尊氏の次男・基氏が関東に降る際に直義の養子とされていた。この養子縁組は直義の体面を考えての形式的なものではあったが、基氏はこれを強く意識して為政者として見習ったようである。尊氏が田楽などを好んだのと異なり直義は遊興を政務の妨げとして退けたのであるが、基氏も同様に学問は好んだが一切の遊興はこれを遠ざけていたのである。これを考える際、基氏が統治したのが関東であったのも興味深い事実である。直義以来のこうした姿勢は北条執権政治の理想化された姿と実に良く似ている事を考えれば、関東で発達した倹約・道理・慣習を重んじる政治思想が基氏により関東で受け継がれ、その系統が鎌倉公方として続いたと言えるであろう。
 「実父は尊氏、養父は直義」であった直冬と基氏。直冬は直義の無念を引き継いだが、一方で直義の理想は基氏が継承したと言えるかもしれない。

17頼朝?直義?

 神護寺に伝わる三つの人物画がある。それぞれ、源頼朝・平重盛・藤原光能の肖像であると言い伝えられてきた。その根拠として「神護寺略記」に藤原隆信の手による後白河院・平重盛・源頼朝・藤原光能・平業房の像があると記されている事が挙げられてきた。しかし、近年になって米倉迪夫らにより従来頼朝像とされてきた肖像は実は直義の像ではないかという説が唱えられるようになった。その根拠として、「略記」において隆信は一筆で像を描いたとされるが、残されている肖像画は一筆では描けない彩色画であることがまず挙げられる。また、冠・太刀・絹など装束や人物表現の様式が鎌倉末期・南北朝以後であることも隆信作としては疑わしいと考えられた。加えて、直義が神護寺に尊氏と自身の肖像画を納めたと願文を残していた事も考慮すると、「頼朝像」は直義で「重盛像」が尊氏ではないかというのである。因みに、もう一つの「光能像」は義詮ではないかとも言われている。しかしながら、この説は注目を浴びているとはいえ、定説化したとまでは言えず決着はまだ付いていないと見るべきであろう。嘗て「足利尊氏像」とされた騎馬武者像に関しても同様な議論があったが、肖像に関する言い伝えを鵜呑みにすることは危険であるようだ。

18おわりに

 足利政権創立者として尊氏の名が挙げられる一方、その政務を担った直義の名は余り一般には語られないようである。テレビで上述の肖像画問題が取り上げられた際も、「尊氏の弟」としか言われず「直義」の名が出なかったことが印象的であった。南北朝自体がマイナーな存在であるので無理もないことかもしれないが、その政治能力や清廉・誠実な姿勢、足利氏の優勢確立や足利政権初期の体制作りにおける大きな貢献を考えるともっと評価されて然るべき存在ではないかと思う。直義自身が文官気質で華の乏しい存在である事も関係して入るであろう。何より彼は尊氏と異なり軍事的力量に恵まれているとは言いがたかった。中先代の乱では多くの幹部を失い、義貞を迎え撃った際には連戦連敗で追い詰められ、湊川では万の軍勢を率いながら二千弱の楠木勢に危うく殺されかかっている。尊氏との最後の戦いでも倍の軍勢を擁していながら敗北しているのである。これが直義のイメージを振るわないものとしているのは否めない。また、護良親王を殺害したり後醍醐に反逆する際に前面に立って挙兵を促すなど汚れ仕事をこなす事があったこともイメージ悪化に繋がっているであろう。それにしても戦前は「逆賊」で戦後になると「忘却」。果たした役割やその人間性に比べると、その最期も含めて相応しくない不遇な扱いを受けている人物だと思わされる。

参考文献
日本の歴史9南北朝の動乱 佐藤進一著 中公文庫
足利尊氏 高柳光寿著 春秋社
足利尊氏 山路愛山著 岩波文庫
南北朝時代史 田中義成 講談社学術文庫
日本古典文学大系太平記 一〜三 岩波書店
「芝蘭堂」(http://homepage1.nifty.com/sira/)より「梅松論」
京大本梅松論 京都大学国文学会
南北朝時代史 久米邦武 早稲田大学出版部
帝王後醍醐 村松剛 中公文庫
日本中世史を見直す 佐藤進一・網野善彦・笠松宏至 平凡社 
中世を考えるいくさ 福田豊彦編 吉川弘文館
神皇正統記 岩佐正校注 岩波文庫 
ピクトリアル足利尊氏南北朝の争乱 学研
太平記の群像 森茂暁 角川選書 
異形の王権 網野善彦 平凡社
馬・船・常民 網野善彦・森浩一 講談社学術文庫
「中世社会の研究 松本新八郎著 東京大学出版会」より「南北朝内乱の諸前提」「南北朝の内乱」
「日本中世史論集 佐藤進一 岩波書店」より「幕府論」「室町幕府論」「室町幕府開創期の官制体系」
悪党と海賊 日本中世の社会と政治 網野善彦 法政大学出版局
南北朝動乱と王権 伊藤喜良著 東京堂出版
後醍醐天皇と建武政権 伊藤喜良著 新日本新書
建武政権期の国司と守護 吉井功兒 近代文藝社
人物叢書足利直冬 瀬野精一郎著 吉川弘文館
週刊朝日百科日本の歴史12後醍醐と尊氏 朝日新聞社 
週刊朝日百科日本の歴史6海民と遍歴する人びと 朝日新聞社
源頼朝像 沈黙の肖像画 米倉迪夫 平凡社
肖像画を読む 黒田日出男 角川書店
日本史の快楽 上横手雅敬 角川ソフィア文庫
「群書類従 第二十一号 合戦部」より「難太平記」「吉野御事業書案」 続群書類従完成会


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