アクセス解析
カウンター


南朝の軍事指導者と国家戦略  NF


はじめに
 以前、My氏が中国三国時代を題材に「孫呉の軍事指導者と国家戦略」(http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2002/020524a.html)というレジュメを作成しています。そこで、今回は日本の南北朝で同様のまとめをしてみようと思います。他人の二番煎じネタで申し訳ありませんが、少しの間ご辛抱ください。

・護良親王
略歴:
 後醍醐天皇の皇子として延慶元年(1308)に生まれる。寺社勢力を味方につける後醍醐の計画の一環として延暦寺の座主となる。後醍醐挙兵の際には比叡山・吉野などで寺社や新興豪族を中心に蜂起を呼びかけて倒幕勢力を組織化、後醍醐が隠岐に流された期間には楠木正成・赤松円心の補佐も受けて実質上の総司令官として活動。後醍醐政権下では足利尊氏と対立するが劣勢に陥り、折からその勢威を脅威としていた後醍醐によって切捨てされ捕縛される。その後は足利氏の拠点である鎌倉に送られ、やがて建武二年(1335)に足利直義によって殺害される。
国家戦略:
 鎌倉幕府の武力はいまだ強大であり、正面から戦っては勝ち目はなかった。そこで、寺社・修験道との深い繋がりを利用し、彼らを組織化して京周辺を中心に全国で蜂起させることで幕府を揺さぶり、更なる不平分子の蜂起を誘発させて状況を有利にする戦略をとった。中でも千早城で大軍を相手に奮戦する楠木正成と繰り返して京に攻撃を加える赤松円心は貴重な手駒であったといえる。こうした戦略は正成らの補佐により樹立されたものと思われるが、結果として全国の不平分子を動かし戦況を変化させる事に成功した。幕府打倒後は、全国の有力豪族に人望のある大豪族・足利氏を警戒し自らが豪族を束ねる事で朝廷を安定させようと図った。しかし足利氏の力を切り崩すのは難しく、しかも嘗て最高指揮官として「天皇代理」の役割を果たしていた事から後醍醐に危険視されており失脚することとなった。

・後醍醐天皇
略歴:
 皇室が持明院統・大覚寺統に別れて争っていた時代に大覚寺統・後宇多天皇の子として正応元年(1288)に生まれる。名は尊治。天皇に即位すると卓抜した政治手腕で朝廷の支配が及ぶ京都周辺で政治改革を行い高い評価を得た。朝廷による全国的な専制政権を樹立し自らが支配者として君臨する事を目論み鎌倉幕府を倒すため戦いを仕掛ける。緒戦は敗れ隠岐に流されるものの最終的に倒幕に成功し朝廷による統一政権を実現するが、その強引な政治方針は各方面から反発を買い足利尊氏の反逆により政権は瓦解。吉野に逃れ尊氏が擁立する持明院統の朝廷と対立。足利政権との戦いが不利になりつつある中で延元四年(1339)に病没。
国家戦略:
 後醍醐は、畿内を中心とする新興豪族や水軍・宗教勢力を味方につける事で統一政権樹立に成功したが、政情を安定させ政権を維持するには実力不足であった。政権が崩壊し吉野に移るのを余儀なくされた後も、新興豪族や反足利勢力を中心に各地方に味方勢力を扶植した上で都を奪回しようと計画していた。しかし劣勢の上に成果を急いだ事や味方間の連携が難しかった事から各個撃破され、失意のうちに没する事となった。なお、後醍醐は例外的な篭城戦以外では前線に出ておらず、足利尊氏との戦いで直接の軍指揮官を務めていたのは新田義貞であったが、戦略決定権を握っていたのは一貫して後醍醐であり義貞は戦略レベルの決定には与らず実質的に一方面軍司令官と大差ない状況であった。

・北畠親房
略歴:
 永仁元年(1293)、中堅貴族の家柄に生まれる。後醍醐天皇が即位した直後には重臣の一人として知られるが、一時期は距離を置いている。後醍醐政権成立後は奥州経略を任された息子・顕家に同伴して奥州に赴いた。尊氏が反逆し後醍醐が吉野に逃れた際、伊勢に南朝方の勢力を築いている。一時期、関東に入り南朝方の勢力扶植に腐心するが果たせず。吉野に帰還して後醍醐没後の南朝方を指揮するが間もなく畿内南朝軍主力を壊滅させてしまう。その後、足利政権の内紛に乗じて京都奪回を成功させるが一時的なものに終わった。正平九年(1354)に没している。
国家戦略:
 当初は後醍醐の構想に沿って、南朝の正統性を唱えアジテーションする事で各地の新興豪族・反足利勢力を味方につけ地方を組織化しようとしていた。しかし、戦況が不利であった事や後醍醐崩御直後の権力空白状態において十分な援護を受けられなかった事、加えて親房自身が原則論に固執する傾向が強かったことから豪族の支持を得る事はできなかった。吉野帰還後は味方勢力を自らのアジテーション理論を用いて組織化し、敵の内部分裂を巧妙に利用して立ち回り南朝の立場を向上させた。更に足利方の隙を着いて正平七年(1352)には一時的ながらも京奪回に成功している。しかしこの時期も京奪回に固執する傾向があり、成果を焦って正平三年(1348)に四条畷合戦で南朝主力である楠木正行軍を全滅させると言う失態をしている。さらに京奪回も結局は維持するだけの戦力がなく失敗に終わり、消耗する結果に終わった(ただしその際に北朝の天皇・院や神器を回収した事は、後に足利政権の正統性を奪う事になり和平交渉に影響を与えている)。また、京奪回後の具体的な展望は抱いていなかったと思われる。同時期に足利方との和平交渉も行っているが、南朝による統一という原則論にこだわり破綻させている。和平交渉は飽くまで敵の内紛に付け入り情勢を有利に運ぶための駆け引きとして捉えていたようだ。

・足利直冬
略歴:
 足利直義の養子(実父は尊氏)。実際には尊氏の長男であるが、母の身分が低い事もあり冷遇される(一方、義詮は正室の子であった)。中国探題に任じられるが、尊氏・直義が対立して足利政権が内紛状態になると養父・直義に味方して九州・中国地方で勢力拡大を図る。直義没後は旧直義派を率いて南朝に降伏、総追捕使に任じられ軍事指導者とされる。正平十年(1355)に京を一時占領するがやがて劣勢となり、山陰に逃れる。生没年は不詳。
国家戦略:
 旧直義派と南朝の勢力を合同させ京を尊氏から奪取する事に成功しているが、尊氏に一泡吹かせる事が全てだったようで、長期的な展望を抱いていたとは思われない。また、分裂した足利方の首領であり本質的には南朝軍事指導者と呼ぶにはそぐわないのであるが、便宜上とは言え南朝から軍事総指揮官の資格を与えられ戦略的権限も得ているためここに記した。

・細川清氏
略歴:
 足利一族として生まれ、青年期より足利尊氏配下で武功を挙げ勇将として知られた。足利政権第二代将軍・義詮の時代には執事として足利政権の運営にあたるが、強引な方針が有力者の反発を受けて北朝康安元年(1361、正平十六年)に失脚し南朝に降る。同年に楠木正儀と共に南朝軍を率いて京を占領するが短期間で奪回され、四国に逃れる。正平十七年(1362)に敗死。
国家戦略:
 自らの軍勢と南朝の勢力を合同させ京を足利方から奪取しているが、長期的な展望を抱いていたとは思われない(楠木正儀は、戦略的に無意味として上述の京攻撃に反対している)。足利政権内部の権力争いに敗れて大義名分を求め南朝に近づいた存在であり本質的には南朝軍事指導者と呼ぶにはそぐわないが、便宜上ながら南朝総指揮官を務めて戦略的権限も与えられているためここに記した。

・楠木正儀
略歴:
 楠木正成の三男。兄・正行が戦死した後は楠木氏当主として軍事的に南朝を支える。足利方の分裂に乗じて何度か京奪回を果たしてもいる。後村上天皇の篤い信頼を受け、足利政権との和平を模索。後村上死後に強硬派が台頭すると立場が微妙となり、一時期は足利方に投降している。晩年は再び南朝に帰参しているが没年は不明である。
国家戦略:
 南朝拠点における南朝方有力豪族(楠木氏は河内・和泉を拠点とする中小豪族であり、それが南朝有力者となっている時点で南朝の圧倒的劣勢が伺える)の当主として、親房没後に南朝の軍事面を双肩に担う。この時期は足利方の内紛を利用して一時的に京奪回を果たす事はあるものの、足利方との戦力差は隔絶しており南朝の巻き返しは絶望的であった。軍事的には戦力消耗を避けて河内・紀伊・大和の険阻な地形を利用した守勢を基本としながらも、折を見て足利方に攻勢に出て圧力をかけていた。長年にわたり前線に身をおいて戦況を熟知する立場から、軍事的圧力をかけて足利方を揺さぶる一方で機会を捉えては和平交渉を行っており、南朝の面目が立つ形での和平を志向していたようだ。後村上天皇による絶大な信任を背景にして正平二十二年(1367)には和平成立手前まで交渉を運ぶが、折から台頭した強硬派の妨害があってか失敗に終わっている。逆に、後村上の次に即位した長慶天皇の下では強硬派と対立して足利方に降伏する羽目に陥っている。南朝で再び和平派が勢いを増したのを見てか、再び南朝に戻っているが南北朝合一前に没したとされる。

・長慶天皇
略歴:
 興国四年(1343)に後村上天皇の子として生まれる。正平二十三年(1368)に即位し、弘和三年(1383)頃まで在位したようだ。在位期間において和平交渉は行われておらず、南朝の主戦派により擁立されたと推定されている。南北朝合一時にも京に入る一行に同行せず吉野に留まったとされる。
国家戦略:
 即位時点で、南朝中枢部は紀伊・大和・河内・和泉の山間部のみに残存するに過ぎず消滅寸前の状態であった。後村上崩御に伴う不安から空中分解の危険も懸念されたと思われる。強硬な主戦論を前面に出す事で、人心を統一し共通の敵に当らせて動揺を防ぐ狙いであったろう。そして南朝方で唯一優勢に戦いを進め九州統一を成し遂げていた菊池氏による来援を頼みに抵抗する方針だったと考えられる。しかし、現実との乖離が著しい強硬論が軍事的主力であった楠木正儀を敵方に走らせ、更に和平派との対立と言う形で内部分裂を招いたのは皮肉であった。最終的には圧倒的な足利方の攻撃の前に挫折を余儀なくされている。なお、この時期に前線の総司令を務めたのは楠木一門の長老格である和田正武であったが、戦略レベルでの権限はなかったと思われる。

・後亀山天皇
略歴:
後村上の子であり、長慶の弟にあたる。主戦派の挫折を受けて弘和三年(1383)頃に即位。和平派の支持を受けていたと思われ、元中九年(1392)に足利方からの和平を受諾して神器を北朝・後小松天皇に譲渡。ここに南北朝動乱は一応の幕を閉じた。しかしその後、和平条件であった南北両系統が交互に即位するという約束が果たされないのを不満として再び吉野に逃れた事もある。応永三十一年(1424)に没。
国家戦略:
 この時期には九州も足利方の手に落ちつつあり、畿内では頼みとした楠木氏の拠点が次々に落とされるなど軍事的崩壊に直面していた。軍事的に南朝を背負える人物も存在せず、抵抗の余地はなく表向きの対面を保つ形で和平(実質上の降伏)に応じるほか選択肢はなかったと言える。なお、皇位を象徴する神器を保有していたのは南朝のみであったため、足利政権は神器を平和裏に譲られる事で北朝及び足利政権の正統性を確保する事を望んでいた。それを利用して、両系統が交代で即位・公領は南朝が支配という可能な限り有利な条件を引き出している。しかし実力のない身の悲しさ、この条件は結果として反故にされたも同然となる。

おわりに
 意外な事に、実際に戦場に出た武将ではなく天皇自身が国家戦略を担う指導者となっている時期が多い事が分かりました。南朝は、その前身である大覚寺統時代から天皇が政権運営の主導権を取る伝統があるのですが、軍事面でもそうした性質が現れたと言えるでしょう。特に後醍醐天皇は専制的な政治体制を志向していましたので尚更です。しかし、これがややもすれば現実にそぐわない理想論に流れる傾向を作り出し、情勢を更に不利なものとした面は否めません。
 また、独力で状況を打開するだけの力を失った後には足利政権の内紛に乗じるほか対抗手段を失っていましたが、それすらも後には足利政権における内紛の敗者が降伏して南朝の指揮官を務めるようになっています。南朝が内紛に付け入って主導権を握る事すらできなくなっていた実情がそこからは垣間見えるのです。
 これらの事情は、南朝の動きを長期的展望に欠けた機会主義的なものとしたといえます。一方、楠木正儀は長期的展望を持った数少ない指導者でしたが、中小豪族に過ぎない彼が指導的立場に立たざるを得ない状況自体が南朝の弱体を示すものでした。こうして見ると、軍事的経験と社会的実力を兼ね備えた南朝方生え抜きの指導者は、護良親王しか見当たりません。南朝は早い段階で実に惜しい人材を失ったといえます。
 南朝六十年の国家戦略からは、南朝の目指す理想と現実の落差、そしてその弱点が垣間見えると言えそうです。

参考文献
日本古典文学大系太平記一〜三 岩波書店
帝王後醍醐 村松剛 中央公論社 
南北朝時代史 田中義成 講談社学術文庫
日本の歴史8蒙古襲来 黒田俊雄 中公文庫 
日本の歴史9南北朝の動乱 佐藤進一 中公文庫
南朝の研究 中村直勝 星野書店
闇の歴史、後南朝 森茂暁 角川選書
南朝全史 森茂暁 講談社選書メチエ
足利尊氏 高柳光寿著 春秋社 
足利尊氏 山路愛山著 岩波文庫 
ピクトリアル足利尊氏南北朝の動乱 学研 
南北朝動乱と王権 伊藤喜良著 東京堂出版
建武政権 森茂暁著 教育社歴史新書
皇子たちの南北朝 森茂暁著 中公新書
太平記の群像 森茂暁 角川選書
後醍醐天皇 森茂暁著 中公新書 
異形の王権 網野善彦 平凡社
増補無縁・公界・楽 網野善彦 平凡社
馬・船・常民 網野善彦・森浩一 講談社学術文庫
日本の中世国家 佐藤進一 岩波書店
日本の中世社会 永原慶二 岩波書店
「日本中世の国家と宗教 黒田俊雄編 岩波書店」より「中世の国家と天皇」
「中世社会の研究 松本新八郎著 東京大学出版会」より「南北朝内乱の諸前提」「南北朝の内乱」
悪党と海賊日本中世の社会と政治 網野善彦 法政大学出版局
日本中世史を見直す 佐藤進一・網野善彦・笠松宏至 平凡社
楠氏研究 藤田精一 廣島積善館


発表一覧に戻る