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本居宣長『鈴屋答問録』  翻訳:NF


はじめに
 「鈴屋答問録」は、「答問録」とも呼ばれ、宣長が晩年の安永年間に、弟子達から受けた様々な質問に答えたものです。宣長の考え方が固まった後のものであるため、その思想を知る上では重要な資料であると言えます。これは、岩波文庫版を中心に、筑摩書房の本居宣長全集も参考にしながら口語訳しています。なお、現代から見れば適切でない表現もあるかもしれませんが、敢えてそのままに訳しております。御了承下さい。

「鈴屋答問録」

安永六年丁酉冬
(一)荒木田瓠形(蓬莱、雅楽とも)が問う。「つたなし」という言葉の意味はどのようなものか。
答え:「無勤(つとなし)」という意味である。物事を怠り、勇気がない様子を言う。そのため「勇」の反対である「怯」を意味する、これが「つたなし」の本来の意味であり、それから「拙」の意味にも変わったのである。「つとむる」とは「進利(すすと)むる」の意味である。「す」と「つ」が相互入れ替え可能なのは、「次」を「すぎ」とも言う、これと同じである。そうして「広くする」を「ひろむる」、「固くする」を「かたむる」というのと同様にして、「利くする」を「とむる」と言うのである。
【「つたなし」は「無伝」という説は聞いた事がない。】

(ニ)同じく(瓠形が)問う。「きたなし」はどうか。
答え:「無明浄(あきらなし)」の意味である。「美麗(きらきらし)」は「あきらあきらし」、「清(きよき)」は「あきよき」である。これらは上の「あ」を省略する用例である。ところで「あき」は「明浄」の意味であることは、「古事記伝」御禊段で述べたとおりである。そして「きら」を「きた」というのは、「ここら」を「ここた」とも、「辺ら」を「辺た」とも、「ゆらゆら」を「ゆたゆた」とも言うように、これらは「ら」を「た」と入れ替える例である。
【「無段」の意味とするのは、古い用例ではない。】

(三)小篠道冲(石見濱田家中)が問う。「陸奥」を「むつ」と言うのは、「睦」の字と誤ってこう読むのであろうという人がいるが、それはどうであるのか。
答え:「みちのく」を「みちの国」という意味と思ったのであろうか。「古今集」にも「みちのくに」とある。これは「みちのくのくに」と言ったなら、同じ言葉が重なって、煩わしい様子なので、自然とそういうようになったのであろう。そうして「みちの国」と言い習わしていたため、転じて最終的には「むつの国」というのであろう。「みち」と「むつ」とは、自然に移り変わっておかしくない音である。また「陸」の字は、肆伍陸(しごろく)と数の「六」として用いる字であるので、「むつ」と理解し間違ったのであろう。

(四)同じく問う。柏手(かしわで)と言うのは、食事を「かしはで」と言うので、その時に手を拍つために言うのであろうか。
答え:「拍手」と書く「拍」の字を「柏」と思い違いしたのであろうか。それは「膳夫(かしはで)」という言葉があるので、その言葉を誤って、「拍手」の字にあてたのではなかろうか。「柏手」という名称は、古い書物には見当たらないように思われる。しかし、これはまだ良く考えた事はない。

(五)同じく問う。「職原抄」では、「左京」を「ひだんのみさと」と読んでいる。「ひだり」を「ひだん」と読むのは、昔にもあるのであろうか。また「京」を「みさと」と読むのはどうであろうか。
答え:左京右京の「京」を「みさと」と読むのは「御里」という意味である。同じ「京」でも「みやこ」というときは宮城にかかる名称である。「宮所」の意味だからである。また「みさと」と言う時は、京中にかかる名称である。したがって左右京職は、宮城の事を司る官職ではなく、京中の事を司る官職であるので、「みさとのつかさ」と言うのである。「ひだり」を「ひだん」と言うのは、音便で崩れた発音であって、正しい言葉ではない。「和名抄」にも、「比多利乃美佐止豆加佐(ひだりのみさとつかさ)」とある。

(六)同じく問う。神代の神は死なないものかと思えば、ニニギノミコトなどは崩御されている。そうであるのなら、国常立尊なども、みな死んだというのであろうか。死ぬ神と死なない神があるというのはどういうことであろうか。
答え:高天原にまします神は、死ぬと言うことなく永遠である。国にまします神はみな死ぬのである。また天つ神といえども、国に降りると死を免れないものであり、天にましますか国にましますかで、不死であるかと死ぬかを判断すべきである。ところで既に死んだといっても、その御霊は留まって存在しているので、時として、現身をも現す事はある。この意味合いは全く私の臆断ではない。古事記・日本書紀に記されている実例に基づいて述べているのである。少しであっても、自分の憶測を交えて理屈でものを言えば、漢意に陥るものである。

(七)同じく問う。人が死ねば黄泉国に行くというのは、仏教でいう地獄に行くと言っているのに拠っているかのようである。また、魂が天に昇るという見方は、興深いが黄泉国に行くというのには合致しない。この点はどうであろうか。
答え:人は死んだら、善人も悪人も黄泉国に行くほかはない。そうであるものを仏教で言う地獄の話に似ていると疑うのは、どうしたことか。たとえ黄泉国の話が地獄と全く同じ内容のものであろうと、全く問題はない。神代の古い伝説は、どうして後世の仏教に憚る事があろう。それに加えて言えば、仏教の教えは、悪人は地獄、善人は天上浄土に生まれると言っており、これは私の唱える道とは大いに異なっているのである。あれは方便の作り事であるため、善悪や世間で当然の理屈に合うように作為しているのである。また魂が天に昇るというのも、中国の人の理屈で作為した作り事であるので、興味深くは聞えるが、それは作り事であるので、どのようにも興味深くは言えるものである。

(八)栗田土満(遠江国平尾八幡社司で求馬と称する)が問う。皇祖神を祀る神社に、臣下の位階を賜る事は、どのようなものであるか(不敬ではないだろうか)。ある人は、「位田を賜る意味である。その神に位を賜るというのではない。」と言っている、またある人は、「そこの神社に賜る位であって、神に賜るのではない。」と言っている。共にはっきりしないがどうであるのか。
答え:この事は誰でも不審に思わずにはいられないものである。しかしながら必ず然るべき理由があるはずのものである。考えるに、「古語拾遺」に、「天照大神者惟祖惟宗尊無二。因自余諸神者、乃子乃臣云々(天照大神はこれ祖これ宗尊きこと無二。因て自余諸神は、乃ち子乃ち臣云々)」とある。天照大神は伊勢大神宮、自余の諸神とは諸国の諸社の神である。その諸国の神社の中には、伊邪那岐命・高皇産霊命などを祀る神社もあり、それは天照大御神の御祖であり御父である。しかしながらそれらの神社をも全て子・臣下とするのは、その神社によって尊卑があるからであった、必ずしも祀る神の尊卑には関係しないと見える。そうであるので同じ天照大御神を祀る神社と言っても、必ずしも、伊勢神宮同様には尊い訳でなく、その神社の程度に従って、その神には尊卑があるので、位階を賜るのも、その神社の神に賜るのである。

(九)小篠道冲が問う。奥津棄戸というのはどのようなものであるか。
答え:「奥」は地下を意味する。海底をも「奥」というのとも同じ意味である。棄戸は別の字を借りた当て字であり、「下方(したべ)」である。下方(したべ)に将臥(ふしなし)具(かまへ)(下のほうに横になって身構える)という事である。

(十)南川文璞(菰野領主土方近江守儒臣)が神道について問うた中で、陰陽について弁じた一部:
 まず世の中には二つあるものが多い。天地、日月、男女、昼夜、水火などの類である。このように二つあるものが多いのは、これ全て陰陽の理屈であるとするのが一般であるが、これは決して陰陽の理屈でそうなっているのではない。自然とそうなっているのである。
 その理由は、一つにもう一つを加えれば二つである。また一つのものを一旦分けると二つになる。そのため、二つあるものが多いはずである。さて二つあるものよりも一つであるもののほうが多いのであるが、それには人は関心を寄せない。人の肉体で言うなら、耳目手足などは二つあるが、頭も鼻も口も臍もみな一つである。もし実際に陰陽の理屈があるならば、万物はことごとく二つずつあるはずである。そうであるのに一つのものもあり、二つのものもあり、またまれには三つのものもあるのは、みな何となくそうなっているのである。その中で、三つあるものは、それぞれ並列してはきちんと定まらないので、時には一つを除いて二つと定めることも多い。また四つあるものは、多くは二つを分けたものであり、実際に四つであるものは少ない。
 さて二つであるものは、多くは相反するようである。これも陰陽の理屈でそうなるのでない。元来二つとなるのは、これとそれとが異なるために二つなのである。そうであるので二つであるものは必ず、これとそれとは異なる筈のものである。さてただ二つに分けて他にない場合、その二つはそれとこれとが異なる時は、必ず相反して然るべきものである。また必ずしも二つではないものも、相反するように見えるものを無理に対にすることもある。ともかく陰陽の理屈と言うものは、元来ないものであるのに、二つあるものに当てはめるために、設けた仮の名称である。

安永七年戊戌二月
(十一)垂加流の神道について問う。
答え:垂加流神道については、仰ったとおりです。仏教を嫌って神仏習合しなかったとはいいましても、その代わりに、みな儒教を習合させて作っておりますので、実際にはこれも両部神道なのです。先年にこの事をある人が質問しました際に、たとえ話で申しましたのは、いわゆる両部神道(神仏習合)は陽性の病気のようなものである。熱に悩まされているのが外部からもはっきり分かる。垂加流のように、唯一と称する流派は、陰性の病気のようなものである。表面上は唯一神道であるが熱が外からは見えないので、人はみな病気だとは気付かず、実際に唯一神道であると思うけれども裏側は完全に儒教の高熱に侵されて、難治の病である、と。
 ところで玉木氏が玉籤集についてお尋ねになりました。この類の書はどれも一向に取るに足りないものです。その他に垂加流の他にも、あれこれ少しずつ違いのある流派はございますが、どれも陰性の病気を免れてはおりません。

(十二)
一:私の作品である「直毘霊」の趣旨が御心に合致したとのことで、喜ばしく存じます。それについて、人々の個人個人の安心についてはどうであるかと、これをやはり疑わしくお思いになるのは、御もっともです。この点については、誰もがみな疑問に思われることですが、個人での安心と申すものはないのであります。その理由はまず、下々はただお上の定めなさった制度方法をそのまま受け入れてよく守り、人として出来る限りの事をし、世間を渡るより他はありませんので、別に改めての安心は少しも必要ないのです。そうであるのに、思っても仕方のないことを色々と心に思い、またはこの天地の道理はこのようであるものだ、人が生まれるのはこのような道理である、死ねばこのようになるものだ、などと実際には判らないことを様々に論じて、自分の心に固執して、安心を作り出しておりますのは、それも外国の儒教や仏教などの小賢しい知恵であり、結局は無益な空論であります。一般にそうした事は、ども実際には人智で測り知れる事ではございませんので、色々に申すのもどれも推測だけであります。
 御国の太古の人は、そのような無益な空論に心を費やす事は、けっしてありませんでした。しかしながら、外国から様々な書物が渡来して、それを学ぶ世になりましてからは、上述のような無益な事を、あれこれと心で考え、ある者は儒教によって、仏教によって、ある者は老子の教えによって、それぞれが安心を作り上げるようになりました。さてそのように世の中が、一般に小賢しくなりましてからは、何らかの道によって、一つのところに心を定めなければ心の拠り所がないように、人は皆思いますので、神道による安心も作り上げて、人に教える事になりました。これも安心がなければ人が信じないためであります。
 しかしながらその神道の安心は、どの流派もともに太古をよく考察しない者がみだりに作ったものですから、ただ仏教や儒教の内容に依拠して作りましたもので、どれも太古の道には叶っておりませんで、もし強いて神道の安心を定めようとするなら、まったく儒教や仏教などの内容を心に交えず、この影響をよく心から洗い流して、染まっていない清らかな心で、古事記・日本書紀の太古についての部分をよく御覧になることです。少しでも儒教・仏教の影響がありましては、真実の道は見えなくなりますので、これを洗い流す事が、第一であります。しかしながらこの影響は、千年以上にわたって人の心の奥底に染み付いておりますので、随分と洗い清めたと思っても、やはり残っており、とかく抜けにくいものです。
 さてその影響を残らず消し去った後に、古書を良く見ますと、人々に、個人個人の安心と申すものはないと申し上げたことも、その安心は無益な空論であり、みな外国人の作為であると申し上げることも、自然とよく分かるのです。これが真実の神道の安心なのです。しかしながら、この域に達しておりませんうちは、どれほど説いて聞かせましても、安心無しと申しては、人は承知しないものです。それはあの儒教や仏教などの悪癖があるためです。
 さてこのように神道に安心はないということを申し上げて、他の事は承知する人も、千人や百人の中で一人二人はおりますが、ただ一つ人が決して承知しない事は、人は死んだ後にはどうなるかと言う事で、これはまず第一に、人の心にかかるものです。人情として全くもっともなことです。そのため、仏教の道はこの辺りをよく見極めて作ったものです。だから、平生は仏教を信じない者も、今わの際になりましては、心細さの余りにややもしれば仏教に傾く事が、多いものです。これは人情の本当にもっともな道理です。従って神道において、人が死んだ後に、どうなるものかと申す安心がありませんでは、人が承知しないのも、もっともなことです。神道の安心は、人は死にましたら善人も悪人も全て、みな黄泉国に行くことです。善人だからと言ってよい場所に生まれると言う事はありません。これは古書の内容で明らかです。
 しかしながらこのように申しては、儒者も仏教者も承知いたさず、たいへん愚かなように思うのです。また愚かな人であっても、常に仏教の教えなどを聞いておりますので、このようにばかり申し上げては承知しないのです。ますます仏教者は、生死の安心を人情に関係させて、面白く説明しており、儒者は天地の道理というものを作為して、もっともらしく申し上げているので、天下の人はみな、この儒教や仏教の説を聞きなれて、思い思いに信じておりますところへ、神道の安心は、ただ善人悪人共に黄泉国に行くとだけもうしあげて、その然るべき道理を申さなければ、千人いようと万人いようと承知するものはありません。
 しかしながらその道理はどのような道理かと申す事は、実際のところ、人が測り知れるものではなく、儒教や仏教などの説は、面白くはありますが、実際に面白いようにそちらで作り上げて、その党利になったものです。御国で太古にそのような儒教や仏教のような説を、まだ聞かない時期には、そのような小賢しい心がありませんでしたので、ただ死ねば黄泉国に行くものとだけ思って、悲しむより他の心はなく、これを疑う人もなく、その理屈を考える人もありませんでした。
 さてその黄泉国は、汚く悪いところでございますが、死ねば必ず行かねばならぬものですから、この世に死ぬほど悲しいものはございません。そうであるのに、儒教や仏教はそのような至って悲しい事を、悲しむべきでないことのように、色々と理屈を申しているのは、真実の道でない事は、明らかであります。
(十三)
一:ややもすれば老子の言う内容に流れるとお思いになるのは、御もっともです。まず老子の言う自然と申しますのは、真実の自然ではございませんで、実は儒教よりも甚だしく誑かしたものです。もし真実に自然を尊重しておりますなら、世の中がたとえどのようになりましても、成り行きのままに任せておくべきであります。儒教が行われるのも、太古の自然が損なわれていくのも、みな天地の自然に起こることであるはずなのに、これを悪いと言って、太古の自然を強いるのは、かえって自然に背いた無理強いであります。そのためにその流れを汲むものは、荘周などを始めとして、自然を尊ぶと言いながら、その言う内容、する内容は、みな自然ではなく、作為であり、ただ世間と異なって異様であることを喜び、人の耳目を驚かすだけ。
 我が神道は大いにそれとは異なっており、まず自然を尊ぶと申す事はありません。世の中は、何事もみな神の仕業です。これが第一の安心なのです。もしこの安心を定めることなく、神の仕業と申す事をかりそめのように思いましたなら、実際に老子に傾くでありましょう。
 さて何事もみな、神の仕業であり、世の中に悪い事があるのも、みな悪い神の仕業ですので、儒教・仏教・老荘などと申す道ができたのも、神の仕業で、天下の人の心がそれに惑わされましたのも、これまた神の仕業です。そのため善悪邪正の区別があるのです。儒教も仏教も老荘も、みな広い意味で言えば、その時々の神道です。神には善いものもあり、悪いものもあるので、その道も時々によって善悪があり行われるのです。したがって、後世に、国家天下を治めるにも、まずはその時代の世の中に害がないことには、太古の方式を用いて、しっかりと善神の御心に叶うようにするべきで、また儒教で統治しなければ治まらないことがあれば、儒教で治めるべきです。仏教でなければならないことがあれば、仏教で治めるべきです。これはどれも、その時代の神道であるからです。
 であるのにただ、ひたすら太古のやり方で、後世をも治めるべきもののように思うのは、人の力で、神の力に勝とうとするもので、できないばかりでなく、逆にその時の神道にそむくものです。そのため神道の行いと言って、別に一つではないことだと申すのは、この事を言うのです。
 しかしながらその善悪邪正をわきまえて論じるなら、太古の世は悪い神が荒々しく暴れることなく、人の心も良かったので、国は治まりやすく、万のことが善い神の道のままであったのです。後世は悪い神が暴れて、太古のままでは治まらなくなったのです。このように時に悪い神が暴れましたなら、善い神の御力でもどうしようもない事があるのは、神代にその証拠は明らかです。
 そうであるなら人の力ではますますどうしようもないことなので、仕方なく、その時々の良いように従うべきものなのです。これは、どうして老子が自然を強いるのと同じでありましょうか。

(十四)小篠道冲が問う。「夷(ひな)」という言葉の意味はどうであるか。
答え:「辺之処(へのか)」である。「辺」は片隅の辺りを言う。それを「び」という(「ひなび」)例は、「濱び」・「岡び」のようなものである。「処(か)」は「ありか」「すみか」「かくれが」などの例のようなものである。そうして「のか」の変化したのが「な」である。また「田舎(ゐなか)」は「小辺之処(をひのか)」である。「をひ」の変化が「ゐ」である。

(十五)同じく問う。「盬土老翁」の名前の意味はどうであるのか。
答え:「知識(しり)大(おほ)つち」であり、よく物を知る人を称するものである。「つち」は美称であり実例は多い。

(十六)同じく問う。「侍者(まかたち)」とはどういう意味か。
答え:「前児等(まへこら)たち」であろうか。「まへつきみ」と言う事もあるので。

(十七)荒木田経雅(大神宮八禰宜中川)が問う。鈴の起源は何か。また、「佐那伎」とは鈴の事か。
答え:鈴の起源は未詳である。先例としては「古語拾遺」石屋戸の段で、鉄鐸の記事が見られる。これが始まりであろう。さて鈴の古い名を「佐那伎」と言う事を記したものは、知らない。鐸は「古事記」雄略段大御歌に、「奴弖」とあるのが見られ、また仁徳紀に「須儒」とある。「さなぎ」と呼んでいる記事は、何にも見られない。従って思うのであるが、「古語拾遺」で、「著鐸之矛」とあるのを「さなぎのほこ」と読んでいる。そうであるなら「さなぎ」は、鐸を付けた矛の名前であるのを、後世に勘違いして、鐸の古い名前であるように記したのであろうか。「さなぎのほこ」という理由は、「さなぎ」を省略したためであろう。「ささ」は「すず」と同様で、鳴る音をいい、「なぎ」は「草薙」などの「薙」で、鐸をつけた矛で、物を薙げば、ささささと鳴るために、さなぎの矛と言うのであろうか。

(十八)同じく問う。古代の書に「麻笥(をけ)」と「桶」とを相互に入れ替えて書いている事が多い。この意味はどういうことか。
答え:「桶」は形が「麻笥」と同じであるので、入れ替えて「をけ」というのであろう。大神宮式神宝の麻笥は、「木工寮式」によれば、鉄で作ったもので、その形も下がすぼんだもので、「二合」とあるので、蓋もあるようで、どれも桶とは大変異なっているが、あるいは昔から桶と同じ形の麻笥があったのであろうか。今私の郷里の周辺では、麻を生産して入れる器を、「をごけ」といって、深さ一尺程、径七から八尺で形は円筒状で、桶のようである。曲物である。これも昔からある形なのであろうか。
 さて桶は、今は厚い板を並べて丸くして、竹の輪を囲むのであるが、中世頃までは曲物であったと見えて、「職人歌合」檜物師の歌に、「汲たむる桶なる水に影見れば、月をさへこそまげいれてけれ」とある。これは、檜物師の歌として読んで、「まげいれて」などと読んでいるのも、曲物であるがための縁語である事を考えて然るべきである。そうしてみれば昔の曲物の桶は、上述の「をごけ」と同じ形であったに違いない。

(十九)同じく問う。「儀式帳」所摂は大土の神を、国生神とも、大国玉とも、または大国玉姫とも申し上げると書いてあり、紛らわしい。これはどういうことか。
答え:大土、国生、大国玉はみな同じ意味の神名である。国生は「くになし」と読むべきである。この国を経営(つくり)成立させなさった神である。国とは、上代には一県一郷程度の場所をも言ったので、その土地、その土地ごとに、国生神はあるはずである。大土神と申し上げるのも、そこの土地を経営しなさったための神号である。国玉については、「古事記伝」八の五十五丁、十一の二十八丁にある通りであり、これも同じ意味である。したがって諸国にその国玉の神社は多い。
 さてまた、大国玉比売と申し上げるのは、その国の大国玉の神の后を言う筈であるが、度会の大国玉比売などは、女神であり、その国を経営する神と聞いている。また国御祖の神、大土御祖の神などと申し上げるのも、上述の意味である。

(二十)同じく問う。崇神紀に、「玉菨鎮石云々御宝主也」とあるが、この言葉の意味は何か。
答え:「たまもしづかし、いつもびとまつれ、またねのうましかがみ、おしはぶれ、うましみかみのそこだから、みたからぬし、やまがはのみくくみたま、しづめかけよ、うましみかみのそこだから、みたからぬし。」このように読むべきである。今の本での読みのままでは、意味を成さない。大凡の意味は、鏡と玉とで出雲の臣はこれを祭るべきであると言う事である。「しづかし」は「しづき」を延ばして言う言葉である。「玉藻沈き厳藻」と受けたのである。「いつ」は清浄という意味である。水の底に沈んでいて、清浄である藻を言ったものである。「真種」の意味はまだ考察できていない。「おしはぶれ」は鏡を押し振り上げて祭れということだ。「そこだから」は至極の宝である。一般に物が至り極まる所を「そこ」というのである。「みたからぬし」は宝の最上を言う。これはみな鏡を褒めて言う言葉である。「御霊」は御宝である。「しづめかけよ」は玉を鎮め掛けて祭れということである。以上は、玉を褒める言葉である。鏡と玉を遂にして褒めて言う言葉を、よく味わう事だ。

(二十一)小篠道冲が問う。「神代紀」に出ている倭文神と建葉槌とは別の神か、同一の神か、どちらであるのか。
答え:同一の神である。「倭文」は「しどり」と読むべきである。訓注の「図」の字は、「と」の仮字に用いているのである。さて「しどり」は、「後取(しどり)」であり、経津主神の殿後(しんかり)神である。「殿後」を「しどりべ」とも言うのはこれによるのである。そして、「建葉槌」はその神の名前である。

(二十二)同じく問う。打橋(うちはし)という名称の意味はどういうことか。
答え:「移橋」である。【「つち」の変化したのが「ち」】これは通常の橋のように、同じ場所に定着して掛けておく橋ではない。時々に臨んで、何処へでも移して持っていって掛けるための名である。打ち渡す橋であるからという説は採らない。

(二十三)同じく問う。神武紀に天皇を「天圧神」と申し上げるところがある。この名称はどういう意味であるか。
答え:この頃の大和国の人が言った称号である。その意味は神武天皇は天つ神の御子孫と名乗って、大軍で大和へ上ってこられて、その御勢いが盛んであり、敵を破りなさることは、物を圧迫するようであったために、大和国の人はたいそう恐れて、このように申し上げたのだ。「あめのおしがみ」と読むべきである。注に、「圧者飫蒭(おす)」とあるのは、言葉の定着している方法で注をする例である。「あめおすの神」と読むのは、間違いである。

(二十四)荒木田経雅が問う。「祝部(はふり)」という名称の意味は何か。
答え:まず「いむ」を「いはむ」とも、「ゆまはる」とも言うように、「いはふ」を「いはふる」とも言うのである。「ゆまはる」と音が通じている。そうであるので「はふり」は「いばふり」の「い」を省略したもので、「いはひ」と言うのと同じである。神を祭祀する人ということである。

(二十五)同じく問う。荒魂(あらみたま)和魂(にぎみたま)の意味はどうか。
答え:まず古語で「あら」と「にぎ」を対置するのには、様々な意味がある。まず物が生まれたままで、まだ修飾を加えないのを「あら何々」と言う。【「あら玉」「あら金」のようなもの】
 さて「にぎ」という言葉に、「熟」という文字を充てるのは【「日本書紀」に「熟田津(にぎたつ)」とある】この「あら」の反対であって、この場合は「生(あら)」と「熟」の意味である。また「麁妙(あらたへ)」「和妙(にぎたへ)」の類は麁精(あらにぎ)の意味である。また物の間隙が遠めに空いているのを「あらき」と言う。【「大間麁蘢(おほまあらこ)」、「あらら松」などの類】さて「饒(にぎはふ)」は物が繁っていて多いことを言うので、これは上述した「あらき」の反対で、稠密と麁疎の意味である。また、波風などが騒ぐのを「ある」と言い、鎮まるのを「なぐ」【「なぎ」と「にぎ」とは同音】と言う。これは動静の意味合いである。また遠ざかって寄り付かないのを「あらぶる」と言い【「万葉集」に「あらぶる君(私から遠ざかって寄り付かないあなた)」などと言うのはこれである】、分散するのを「あらくる」と言う。これらも動散の意味合いである。また「にぎ」に「和」の字を、「あら」に「荒」の字を用いる事も考えに入れるべきである。このように様々な意味があるといっても、良く考えれば、「あら」はどれも次々に変化するものであり、その根本は一つの意味に収まる。
 さて古い書物で「荒魂」「和魂」とある意味を考えると、「神代紀」での「大穴持命が幸魂奇魂と問答した」件と、「出雲国造神賀詞」で、大三輪を「この神の和魂である」と言う部分とを合わせて考えれば、「幸魂」「奇魂」は共に「和魂」の言い換えである。【「幸魂奇魂」を「荒魂和魂」と同じとするのは、大変な間違いである】さてその問答の内容から見れば、「和魂」の「和(にぎ)」は例の精麁のうち精の意味で、また生熟のうち熟の意味、また疎密のうち密の意味などに相当する。
 また「神功紀」に、「和魂玉身に服(つき)て寿命を守る。荒魂先鉾と為りて師船を導く。(和魂は身に着けて命を守り、荒魂は先鋒として軍船を導く)」と見えており、「出雲風土記」に、「大神之和魂者静而荒魂者皆悉依給云々(大国主大神の和魂は静かであり荒魂はみな悉く依拠しなさる)」とあるのなどを見ると、例の波風が「動(あ)るる」と「静(なぐ)」との意味では、荒魂は「放行(あらひゆく)」の意味、「分散(あらくる)」に相当する。そうであることから上述した、「あら」「にぎ」の様々な意味を、あれこれと通じ合わせて理解する時は、「和魂」「荒魂」の意味も、自然と明らかになる。
 さて神の御霊を「和魂」「荒魂」と二つに分けて対比して言うのは、その同じものを言う時の事である。全体の御霊は、必ずしも二つに限定して分裂するものではない。例えば御霊の全体は火のようなものである。和魂、荒魂はその火を薪と燭の二つに分けて燃やすようなものだ。さて二つに分けて燃やすと言っても、元々の火も元のままで燃えており幾つもの薪や幾つもの燭に移し分けても、同じ事である。必ずしも二つに限ったものではない。したがって一つを荒魂と言う事があるからといって、もう一つを勝手に推定して和魂と決め付けるのは間違いである。
 例えば大和の三輪神社は、大穴持の神(大国主命)の和魂であるので、出雲の杵築(出雲大社)を推定して荒魂であるというのは、合致しない。これは一つの火を見て、他の火は燭の火であると考えるようなものだ。杵築は全体の御霊であり、荒魂というものではない。
 また、伊勢の荒祭宮は、天照大御神の荒魂というけれど、本宮(伊勢内宮の正宮)を和魂と申し上げることはない。これもまた、本宮は全体の御霊であり、元々の火のようなものであるからである。また上述の荒祭宮も、大御神の荒魂であるが、「神功紀」には摂津国の廣田神社をも、天照大御神の荒魂であるという内容が見えている。
 こうしたことから一つが荒魂であるからと言って、それに対応して、もうひとつを推測して和魂とは決め付けられないことが分かるであろう。同じ薪の火も、幾つにも分けられるようなものだ。
 また三輪神社は、大穴持神の和魂であるのに、同郡の狭井神社は、「神祇令」にも「延喜式」にも、大神神社の荒魂とある。自身は和魂である三輪の神にも、また荒魂があるのは、燭の火から分かれて、薪の火となるようなものだ。このように大和国に、和魂も荒魂もおられるけれども、出雲の杵築もまた、同じ神の御霊であるのは、元々の火もやはり、元のように燃えているようなものだ。
 これらから、御霊の全体は、必ずしも二つに分かれて、それに限定するものではない事を、理解するように。

(二十六)ある人が問う。「明衣」というものはどのような衣か。
答え:中国で宗廟の祭祀において、粢を「明粢」と言う。また酒を「明酒」と言う。また葬礼の器を、一般に「明器」と言う。旌を「明旌」と言う。
 したがって「明衣」も元来はその意味である。中国では、祭祀と葬礼を一つにして、区別がないため、両方にかかるのである。「論語」注に、「明衣以布為沐浴衣也(明衣は布を以て沐浴衣と為すなり)」とあり、「唐六典」に、「凡国有大祭祀之礼云々。皆祀前習礼。沐浴並給明衣。(凡そ国に大祭祀の礼有と云々。皆祀の前に礼を習う。沐浴し並びに明衣を給する)」とある。これらを見る限り、祭祀用の衣と沐浴用の衣と二つの意味があるので、沐浴して清浄になって、それを着る意味だと思う人があるが、そうではない。祭祀の明衣と、沐浴の時の衣と、その色も裁縫も同じようなものであるので、もとの祭祀の方から転じて、沐浴衣をも明衣というのであろう。
 さて御国で祭祀に用いる明衣は、例の中国の祭祀の明衣からとったのである。それについてであるが、この衣は、上代からあったのを、後に例の中国の明衣の字を借用して、充てたのか。あるいは上代にはないものであって、元々から中国に倣って、作ったものか。明らかではない。昔からただ「明衣(みょうい)」と音読みで呼び、訓読みが内容に思われるので、元から中国に倣ったものと思われる。
 「神楽歌【弓立】」に「すべ神はよき日まつればあすよりはあけの衣をけごろもにせん」と詠んでいるのは、明衣と思われる。「あけの衣」と読んでいるのは、漢字について読んでいるのである。古くからの名とは思われない。
 さて「和名抄」で、「内衣、和名由加太比良」とある。これは中国の沐浴用の衣について、「ゆかたびら」と言うのである。祭祀用の衣は「ゆかたびら」とは言わない。【「忌帷」の意味とも言うようだがそうではあるまい】「西宮記」に、「明衣、古人沐浴之外不服之(明衣、古人は沐浴の外にこれを服せず)」とあるのも、沐浴用の方の「明衣」だけを(源高明は)お思いになられたのである。

(二十七)同じく問う。伊勢神宮に大内人・小内人というのがある。内人という名の意味はどのようなものであるのか。
答え:「日本書紀」に鎌足公を内臣となさった事が書かれている。また「続日本紀」【天平勝宝元年、また天平宝字元年の宣命】に、大伴氏を内兵と称したところがある。これは皆、特に親しんでおられるための名称である。そうであるので、内人も、大御神に特に親密にお仕え奉るための名称であるのであろう。

安永八年己亥
(二十八)小篠道冲が問う。「神功紀」に、「橦賢木厳之御魂」とある意味は何か。
答え:「橦」は借字であり、「斎賢木(いつきさかき)」の意味であり、「厳」という言葉の枕詞である。「厳」とは清浄という意味であるから、清浄に斎賢木という言葉をかけるということだ。いわゆる「厳橿(いつかし)」などはこれにあたる。さて「厳之御魂」とは、天照大御神は伊邪那岐大神の檍原での御禊によりお生まれになられたので、清浄な御魂であることによる御名称である。

(二十九)同じく問う。同じく「神功紀」の「あづなひの罪」について。このようなことは、後世にもあるはずなのに、その時に、必ずしも常闇にならないのはなぜか。
答え:これは普通の人ではなく、神社の祝(はふり、神官)であるためである。「二祝者共合葬歟(二人の祝は共に合わせ葬るか)」とある事で分かるであろう。これは、祝であるための罪である。そうであるので後世であっても、神社の祝二人を一ヶ所に葬れば、常闇になることがあるはずがないとはいえない。たとえそのようなことがあって、常闇にならないとしても、この件を疑うべきではない。この件の趣旨も、神社の祝を二人一ヶ所に葬れば、必ず常闇にならないことはないと言っているわけではない。その時の神の御心は推測できないものであるから、断定的なことはいえない。

(三十)荒木田経雅が問う。「神」という名の意味は何か。また御国の「かみ」と中国の鬼神とは全く同じであろうか。違いがあるのであろうか。とにかく、紛らわしい。詳細に示していただきたい。
答え:「かみ」という名の意味は、長年考察してきましたが、まだ解明はしておりません。旧来の説はどれも誤りです。
 さて我が国の「かみ」と中国の「神」とは、大体においては同じであるためこの漢字を充てているのです。しかしながら、「かみ」と中国で言う「神」とは、七八分は同じでも、二三分は違うところがある。そうであるのに、古来より人々はただ「神」という字を充てているままに、全く同じものとばかり理解して、違うところがあることを考えない。今その違うところを述べるならば、「易経」で「陰陽不測之謂神(陰陽は不測の神と謂う)」あるいは「気之伸者為神。屈者為鬼。(気の伸びるは神となる。屈するは鬼となる。)」とある類は、これらは神というものが現実にあるのではなく、人知で測りがたいものを指して言っており、気が屈伸する所を指していっているだけである。だから人を褒めて、神聖などというときの「神」の字も、ただ「神霊不測」だなどというのである。その人を直接に神だと言っているのではない。
 さて皇国で言う「かみ」は、実際のものへの名称に言うばかりであって、実物がないのに、ただその理屈を指して言うことはない。そうであるので中国の易で「神道」というのも、「神霊不測な道」という意味であるのだが、御国で「神道」という神は、実在する物の神を指して言った。また神社に祀る神の御霊などを、「かみ」と言うのは実在する物でないように見えるが、これもその霊を、直接に指して「かみ」というのである。中国のように、その霊妙である所を言うのとは異なる。そのため皇国の「かみ」は体言にのみ用いて、用言として用いる事はない。中国の「神」は体言にも用言にも用いる。したがってその用言にあたる「神」の字を、「あやしき」などと読んでおり「かみ」とは読まず、そしてまた、御国では人だけでなく、龍や雷の類、さらには虎狼などの類でも、一般に神妙で霊妙なもの、畏怖するべきものを、みなその現物を「かみ」という。
 中国でも、上述の類も神妙で霊妙であれば、「神なる」とは言うが、その現物を直接指して「神」というのではなく、神妙で霊妙であるため言うまでである。上述の類で、その現物を直接に神というのは、中国にはない。これが、違うところである。
 上述のほかに、中国であるいは山川の神・何々の神・という類については、皇国の「かみ」と変わるところがない。

(三十一)ある人が問う。「垂仁紀」で、新羅王子天日槍が持って来た宝の中に、「熊神籬一具」とあるのは、どのようなものであるか。
答え:「久麻比母呂紀(くまひもろぎ)」と読むべきである。「久麻」は「隈隠(くまこもり)」などと同じ言葉であり、隠れ篭って明らかでない事である。さてこの「ひもろぎ」は、朝鮮半島で神を祀るのに、その神体を安置する道具であり、仏像を安置する厨子のようなものであろう。その造りとしては扉があり、内部は明らかには見えず、隠れているために「くまひもろぎ」と言うのである。
 さて、このようなものは、皇国にはないものであり、元来は神籬の類ではないけれども、神体を安置するものであるため、「ひもろぎ」の名を借用し、皇国で「くまひもろぎ」と称したのである。

(三十二)小篠道冲が問う。「継体紀」で、「倭彦王云々遁山壑」とあり、この「遁」を「にげほとばしり」と読んでいる。どういう意味であるか。
答え:「ほと」は俗語で「慌てふためく」と言ったのと同じ。ふためいて走る事である。

(三十三)田中道麻呂が問う。「妹許(いもがり)」「吾許(わがり)」などの「がり」はどういう名称であるのか。
答え:「妹がり」は「妹之(いもが)はかり」を略し、「わがり」は「吾之(わが)はかり」を略したものである。「は」を省き、「がか」を「が」と略して言うのである。さて「はかり」とは、「後撰集」の歌に、「いづこをはかと君が尋ねん(どこへいこうとしているのか、と貴方が尋ねる)」などにある「はか」と同じであり、行くあての場所を言う。「妹がりゆく」は、妹のいる所をあてとして行くのである。「わがりくる」は、自分のいる所を当てにしてくるのである。そのため、この「がり」という言葉は、一般にそのいく先の当てである場所にだけいい、そこから行くことに対しては言わない。例えば、甲の所から乙の所に行くのを、「乙がりゆく」と言うが「甲がりゆく」と言う事はない。また、「落窪物語」に、「妻(め)のがりいく」とある類は、「のがり」と「の」を添えて言うのは、元来は間違いであろう。

(三十四)同じく問う。「春べ」という言葉だけがあり、「夏べ」とも「秋べ」とも「冬べ」とも言わないのはなぜであるか。
答え:太古において「春べ」とは、草木が栄えることにだけ言ったという。したがって「春栄(はるはゆ)」の省略したものであろう。そのため、夏・秋・冬には言わない言葉である。

(三十五)小篠道冲が問う。「僭」の字を、「ひとごろふ」と読むのは、どういう意味か。
答え:「等比(ひところふ)」という意味である。例えば天子を真似て、天子と等しく比べる(ころほふ)事である。「ころほふ」とは、その位と同じ程度であるという意味である。

(三十六)同じく問う。「定」という字や、「决」の字を「日本書紀」などで、「うつなし」と読むのはどういうことであるか。
答え:「うつ」と「うた」とは相互に通じる音であるから、「疑いなし」という意味である。「皇極紀」に「勝定之(かたんことうつなし)(勝利は疑いない)」とある。

(三十七)同じく問う。「をりはへ」という言葉の意味は何か。
答え:「時延」であろう。「延(はへ)」は間断なく長く続く意味である。

(三十八)同じく問う。「神代紀」の一書に「軻過突智娶垣山姫(迦具土神は垣山姫を娶る)」云々と有る。これは同母の兄弟である。これについてはどうか。
答え:同母兄弟の婚姻である。しかしながら、迦具土神(火の神)は悪い神であり、御母神(伊邪那美、イザナミ)を焼き殺し申し上げた。そのため、鎮火祭の祝詞にも、御母神の御言葉として、「心悪子(こころあしきこ)」とのたまっている。そうであるので、この婚姻は、通常の例ではない。悪行とみなすべきである。

(三十九)同じく問う。神代下巻に、鹿葦津姫を「天神娶大山祇神所生児也(天神が大山祇神を娶った所生まれた子である)」とあるのは、諸説と異なる上に、「大山祇神」とのみ言って、それを女と言わないのは、「女」の字が抜け落ちたのか。
答え:鹿葦津姫は、「古事記」にも「日本書紀」の一書にも、みな大山祇神の娘とだけ見えて、異説がないのに、ここに天神の娘とするのは、言い伝えが紛れたものであろう。それは、邇邇芸命(ニニギノミコト)が大山祇神の娘を娶り、火火手見命(ホホデミノミトコ、山彦)を生ませたのを誤って、このように伝えたのであり、天つ神の御母子の系譜が紛れたのであろう。

(四十)ある人が問う。官職名「太宰帥」の「帥」は将帥の意味であるだろうから、「すゐ」の音である筈なのに、昔から「そつ」と読むのは、間違いであろうか。
答え:「帥」の字は、将帥などのときは所律反で「すゐ」である。「そつ」ではない。これは、大抵誰でも良く知っていることなので、昔にこの程度の事をわきまえていないことはありえず、特にこれは官職名であり、公の事であるから、間違う筈はないのに、「すゐ」とは言わず、「そつ」といってきたのは、かりそめにも、理由があるに違いない。安易に間違いだと決め付けてはならない。
 また率いるという意味の時には、所律反で、「しゅつ」の音であり、「そつ」の音ではない。しかし「しゅつ」と言わずに、「そつ」と言う。これも理由があるのであろう。

(四十一)栗田土方侶が問う。俗に疫病神と言うが、「古事記」崇神天皇の御段で、大物主神(大国主命)の御心により、神による病気が起こったことがあるが、これもやはり疫病神であろうか。また、善神も荒々しく暴れて祟りをなすことはあるので、世の中で悪い事は、みな禍津日の神のしわざというのも、どうであろうか。また大物主のような神が、病を起こしなさるのもどういうことか。
答え:一般に神と申すものは、仏教で言う仏、儒教で言う聖人などとは、異なるものでいらっしゃるので、正しい善神といっても、事に触れてお怒りになられる時には、世の中の人を悩ませなさる事も有る。よこしまな悪神といっても、極まれにはよい事もするであろう。とにもかくにも神の御事は、かの仏や菩薩、聖人賢人というものの例で言ってはならない。善神の御仕業には、悪い事はまったくあるはずがないと、理屈で思うのは、儒教・仏教に毒されている。神はただ尋常の人の及ばないものだと理解するように。優れて立派な人でも、時によっては怒ることも有る。怒ると人のためによくないことも、決してないわけではない。また悪い人であっても、まれには良い行いも混じるものであり、一概には決められないようなものだ。したがって崇神天皇の御世に、大穴牟遅神(大国主命)の御心によって、疫病が起こったのも不審に思うべきではない。
 さて一般に、世間で悪い事があるのは、根本的にはみな、禍津日神の神霊によるものであるから、この大物主神の御心から、疫病を起こしなさったのも、根本的には禍津日神の御心である。疫病だけでなく、全ての悪い事は、この例で理解できるのである。
 さて大物主神は、国つ神の長でいらっしゃって、八百万神を率いておられるので、その中の神々に命じて、疫病を起こらせなさってのであろう。そうしてその命令を承って、疫病を起こしたのは、常に疫病を起こすことを仕事とする、一種の邪神であろうか。また、普通の神であっても、時によっては命令を受けて病気を起こしたのかもしれない。また時によっては、他の神が命令を受けたのではなく、自ら病気を起こしたのかもしれない。それはいずれにせよ、その時に疫病を起こす神を、疫病神というべきであろう。

(四十二)同じく問う。今の世で、疫病があるときに、その場所で祀るには、「延喜式」の遷却祟神という例に従い、外の疫病を防ぐには、道饗祭の例に従うのであろうか。また、あの崇神天皇の御世の例は、特別に神の御教えによっての事であるから、特例とするのか。
答え:あの祟る神を迂回して逃れる例も、道饗祭も、崇神天皇の御世の故事も、その内容自体は少々異なっているが、どれも同じ意味である。したがって今も疫病を鎮めようと神を祀るには、その根本をもって行えば、禍津日神をも祭祀するべきである。またその時に、何の神であっても、祟りによって起こっているならば、その祟っている神を祭祀してその神の心を鎮めるべきである。また、他の神の命令を受けて疫病を起こしている神をも、祭祀すべきである。またその疫病を防いでお守りになっておられる神をも祭祀せよ。
 その時々の様子に従って、祀る神は定まらないものである。また外の疫病を防ぐのと、内の疫病を逃れて鎮めるのも、ただ祷詞(ねぐことば、祭祀の際の言葉)に区別があってしかるべきである。祀る神には、変わりはないものである。

(四十三)同じく問う。須佐之男の神を牛頭天王と号して、疫病の神として祀るのは、疫病神を防ぎ守る神であるからであろうか。
答え:牛頭天王と申す神号は、例の仏教から出たものであるから、論ずるに足りない。さて須佐之男神を疫病の神として祀るのは、その神が元来は、荒々しく振舞う神でいらっしゃって、天照大御神でさえ、悩ませ申し上げなさった、世の中の禍事の元締めの神であるから、その元締めという事で、祀るのである。その元締めの神を祀り心を和ませれば、下っ端の神を防ぎ鎮めるのは、勿論である。さて、この須佐之男神が荒々しく振舞うのも、元を辿れば、禍津日の神の神霊から出ているのである。

(四十四)同じく問う。世間で侘しく貧しくさせるのを貧乏神と言い、富み栄えさせるのを福の神と言うが、これらも別にそうした神そのものがあるのではなく、そうさせる神霊をいうのであろうか。
答え:その通りである。何の神であれ、そうさせる神を指して言うのである。ただし、人を富ませる神や、貧しくさせることを業とする神も、いないわけではない。

(四十五)同じく問う。疱瘡神は、外国から来た悪神であろう。これも、禍津日神の神霊とするのであろうか。この病気は何かの祟りでなく、一度おさまれば二度とはかからないことなど、他の病とは異なってたいへん不思議であるのはどうか。
答え:この病気は昔にはなかったのでこの神は元来、外国から来た神なのであろう。中国でも、昔はなかったので、中国にも、元来は他国からきたのだろう。
 さて、天地の間の物事はみな神の仕業であり、御国と外国の違いはないので、どの国の神であっても、悪い事をするのは、どれも禍津日神の御心である。
 さて世間でこの疱瘡や疫病、あるいは「わらわやみ」(マラリア)などを、特に神による禍と思うのであるが、これらだけでなく、他の全ての病も、すべて神の御仕業である。その中で、その患う様子が不思議なのとそうでないのとは、神の御仕業であるのが直接に見えるのと、そうでないのとの区別だけであり、どの病気も、神の御仕業でないものはない。
 さて病気である時に、あるいは薬を飲み、あるいは様々な事をして、これを治すのも、またどれも神の御仕業である。この薬で、この病気を癒すように、この事で、この患いを治すように、神が定めておかれ、その神の御霊によって、病は治るのである。

(四十六)同じく問う。世間で大黒を大名持神(大国主命)、恵比須を事代主神(大国主命の子)とする説は、垂加神道などからであろうか、信じがたい。また、恵比須を西宮というのは理由があることであろうか。そして、この二つの神を、すべての家々で祀るのはどういう理由か。
答え:この二つの神を大名持神、事代主神とするのは、近年の牽強付会と思われる。大名持、事代主の二柱の神は、本当に家々で祀るべき神であらせられる。しかしながら大黒や恵比須は、この二つの神ではあるはずがない。大黒は、仏教の大黒天と思われる。恵比寿は西宮の神で、蛭児であろうとするのは、五六百年以上前の書物にも見えるので、どのようであれ然るべき理由があるのであろう。ただし恵比寿を家々に祀る理由は、はっきりしない。しかし天下で皆が祀っているのであり、その家々でも先祖から祀って来た神なのを、その理由がないと言って、これを廃止するべきではなく、従来のまま祀るべきである。というのも、天下に余すところなく祀ることになったのも、神の御心なので背くことはできないのである。

(四十七)同じく問う。「日本書紀」欽明巻十三年、敏達巻十四年などの内容を見ると、国つ神の祟りと他国の仏の祟りと、それぞれ優劣がないようである。しかし最終的には国つ神の御稜威は及ばず、仏は採用されるべきでないのに、そうはならず、仏をも尊重するようになったのは、禍津日神の御仕業であることは言うまでもないことだが、このように仏像の祟りがあることは、理解できない。この点はどうであろうか。
答え:御考えのように、禍津日神の御心である。すでに禍津日神の御心と御覧になる以上は、仏の祟りはどうして疑うに足りようか。一般に仏の道に、様々な霊異があるのも、どれも神の仕業であるから、疑う必要はない。

(四十八)同じく問う。以前に他国では、全ては神の御仕業であることを知らないので、中国では天地陰陽の霊といい、天竺では仏と名をつけ、どれもそうしたものがすると考えることというのは、大体の御説の内容である。そうであるのに、無理に名付けた仏の像が、国つ神と同様に祟りをなすのはどういうことであろうか。
答え:無理に名付けたものであれ、何であれ、仮にであれ、一般に世間でそのような禍々しいものがあるのは、みな禍津日神の御心であるから、これもまた疑うべきではない。
 そして仏法が始まって二千余年、皇国に伝来してからも千余年、今でも栄えているのはどういうことかというと、これもまた禍津日神の御心であるから、疑ってはならない。あの「くず花」で言ったように、千年二千年というのは長いようであるが、天地が極まりないのと比べると、ただ少しの間であるので、長いと言うことはできない。今は仏教が盛んであると言っても、だんだんと衰えていく兆しは、既に多く見られる。そうであるからこれも後世には次第に滅んでいくであろう。
 そしてその後にも、またどのような禍々しい教えが始まるかと言うのも、予想できない。たとえ後世にまた、そうしたことがあっても、天照大御神の正しい道は、盛衰こそあっても、永遠に存在して滅びることはない。遥拝すべし、遥拝すべし。

(四十九)同じく問う。蘇我大臣が「奉詔礼拝石像。乞延寿命。(詔を奉じて石像に礼拝す。寿命の延びるを乞う。)」とあるように、旱魃には雨を祈り、また病気快癒を祈り、安産を祈り、恋愛成就を祈り、また祈願所といって専ら朝廷でも用いなさり、内裏でも僧を招いて祈祷がある。祈祷僧が禄を賜ることは、珍しくないことになった。しかしこれは、あの「鉗狂人」の例えで、仏道に迷った愚人は、富士山の峰で日が昇るのを見ると、三尊弥陀の形に見えるといっているように、代々仏教に欺かれた禍の心には効果があると思うだろうが、実際には効果も何もないのかと思うが、仏像の祟りがあったように、効果はあったようだ。今でも石地蔵に疣治癒の立願をし、太郎坊にたむし・なまづ快癒の願を立てると、目の前で効果もあるのはどういうことか。
答え:仏法も何も、すべて神の御仕業であるから、祈ってその効果があるのは、これはどうして疑いがあろうか。

(五十)同じく問う。それにしても効果があるとすると納得できない。その理由は全てが、神の御仕業であることを知って、その神に祈ればこそ効果があるのであろう。小賢しく仏や鬼神などと、無理に名をあてたものに祈っては、どうして効果があるはずがあろうか。そしてまた祈る方法も、小賢しく定めた方法で行うことを、どうして神がお受けになろうか。そしてこの効果の有る無しは、御国でのことだけでなく、中国でも、例の富士山で三尊を見るようなものであろうことは、一般に人が信ずるべきことだとも思えない。その点はどうであろうか。
答え:効果があるかないかについては、前に述べたとおりである。そして中国でも天竺でも、どこであっても、善い事は善神の御仕業で、悪い事は悪神の御仕業なので、どの国も同じことである。その中で、皇統が動揺なさらないのを根本として、その他にも他国に勝っていることが多いのが、我が国が天照大御神の御本国である証拠であり、他とは異なっている点である。小賢しく作っていることも、基本はみな、禍津日神の御心であるから同じことである。

(五十一)同じく問う。「きりしたん」などと言うものは、また狐神を使い、また今の世間で魔法という類の、忽ち奇妙な方法を使うけれど、国の用に立つことなく、ただ人の目を惑わし、怪しい事をするばかりなので、八十禍津日神の類であることは知られている。【その「切支丹」などは、御国に来ると、国を乱すものであるが、その切支丹の国では、どのようにあるのであろうか。その悪いのもその国の古くからの習慣であって、そうあるはずのものであろうか。】しかしながらその禍津日神も、御国でお生まれになったのに、それを使う方法は、御国ではなく、他国にあるのは、御国は天照大御神の御国であるため、そのような拙劣で悪い事は伝わらず、大御神の御国でない悪い国は、その禍神が手に入れた国であるから、そのような悪い方法がかえって伝わったのであろうか。【狐神であれ、狗神であれ、神を使う方法は、小賢しく作った方法ではない。】従って思うのであるが、あの仏に祈って効果があるのも、実際には役に立たないことであるが、しばらく目の前に効果があるように見えるのは、「きりしたん」の魔法で急に不思議な事が起こる類かと思うが、そうではないだろうか。
答え:「きりしたん」の国では、その方法でその国を統治するという事は、中国で、中国の道により統治するのと同じ事である。神を使って不思議な事をする方法も、様々に種類は変わるが、どれも禍津日神の御仕業と見れば、全く疑いはないのである。そのような方法の、多くは異国に伝わっているのは、御考えの通りであろうか。それは詳しい事は分からない。とにかく、善悪正邪の様々な違いはあり、一々その詳細は人が推測できないものであるが、これはみな、善悪の神の御仕業と考える以上は、全く疑いはないものである。

(五十二)同じく問う。釈迦をも神というのなら、聖人も神というべきである。【凡人と比べて優れているのを神というならば、実際の神ではないか。】もしそうであるならば、昔と後世、尊いものと賎しいものの区別はあるものの、どれも神の始めた道であり、一概に人が作為した道ともいえなくなるのでないだろうか。
答え:中国で言うところの聖人も神である。そうであるのでこの道も、神の始めた道である。しかしながらこれを人の作為した道というのは、顕露事(あらはにこと)と幽事(かみこと)の区別を知ると、よく分かるのである。顕露事と幽事については、「神代紀」に見える。そして顕露事というのは、現在の人間世界のことである。したがって中国に聖人という神が出て、その道を作ったのは、人間世界の事であるから、人の作為した道と言うのである。聖人のようなものは神ではあるが人である。したがって聖人が作ったのは人が作為したものである。
 真実の道は、イザナギ・イザナミの神がお始めになられた道であり、皇国に伝わっている。この二神の類は、同じように神という名称は一つであるが、あの聖人の類ではなく、神というのは大変に意味の広い名称であり、その中には様々な神があるのである。
 あの聖人のような類は、神という中でも一通りの正しい神ではなく、人である神である。したがってその道もあの二神の御作りになった道の類ではないので、人の作為した道というのである。
 そして顕露事は人間世界の事で、人の作為するものであるが、それも根本を探求すれば、どれも神の御心から出たものであるから、結局は顕露事とはいってもどれも、神の仕業である。したがってあの聖人が作った道も、元を言えば、禍津日神の心から出たのである。
 そうであるので根本はどれも神の仕業であるが、その中で明らかに人が行うのを顕露事といい、目に見えないものを幽事というのである。

(五十三)同じく問う。空海を世間では尊んで、今でも【四国では特に】様々な不思議な事があるという。これも、あの禍津日神に惑わされた心であろうか。もし少しでも実際の内容があるのであれば、これもまた神の御仕業とまぎらわしい。
答え:空海のような者も神である。不思議なことがあるのも、どうして疑わしい事があろう。これもまた根本は、禍津日神の御仕業である。空海のような神が、世に出て、不思議な事をして、人が尊ぶのも、どれも、禍津日神の仕業でないことがあろうか。

(五十四)同じく問う。欽明巻二十七に「十四年(中略)夏五月壬戌朔戌辰。河内国言。泉郡茅渟海中有梵音。震響若雷声。光彩晃曜如日色。天皇心異之。遣溝辺直。入海求訪。是日溝辺直入海。果見樟木浮海玲瓏。遂取而獻。天皇命画工。造仏像二躯。今吉野寺放光樟像也。(十四年夏五月壬戌朔戌辰、河内国から泉郡茅渟の海中で梵語が聞え、雷鳴のように響き渡っており、太陽のように光り輝いていると奏上があった。天皇はこれを奇妙に思い、溝辺直に、海に入り捜索させた。その日に溝辺直は海に入ると、果たして楠の木が海に玲瓏として浮いていた。そこでこれを取ってきて天皇に献じた。天皇は画工に命じて、仏像二体を作らせた。今、吉野寺で光を放つ樟の像である。)」
この樟の木も、神木であるように思われるのに、仏として作ったのは、梵音によるのであろう。しかし国つ神の祟りもないのだが、そうしたことはあるのであろうか。
答え:禍神が荒々しく振舞うのが甚だしい時には、天照大御神の御力でさえも及ばない事がある。国つ
神の祟りがないことは、どうして疑わしい事があろうか。

(五十五)在京の、渡辺造酒藤原竪石が問う。「平家物語」殿下乗合の段で、「御車副には、因幡のざいつがひ、鳥羽の国久丸といふをのこ云々」とあるが、「ざいつがひ」とは何であるかと、江戸から京へ問うてきた。江戸でも色々考えたようですが、とにかくわからないということだ。そのため京へ質問したのであるが、京都でも、貴紳や有職者の考えでも分からないということである。大人のお考えを仰ぎたいと思う。
答え:「ざいつがひ」とは「在番」である。因幡国から上京して、在番の者をいうのであろう。その事は「賦役令」などで分かる。それによって二通りに聞いている。一つは「宮衛令」などで、兵衛や衛士で、本国から京に上るのも「上番」といったので、在京することをも「在番」と言ったのであろう。さて「ざいばん」と言わずに、「ざいつがひ」と言うのは、「番」を「つがひ」と読みなれておりそのままに言ったのであろう。「在鎌倉」「在江戸」などという類である。もう一つ、「つがひ」とは「番長(つがひのをさ)」である。「番長」は、令には左右兵衛府の官員であるが、後には左右近衛府に属しており、「職原抄」に「近衛舎人中撰用之。上皇執政。若給兵杖。大臣及左右大将。必召仕之。(近衛府の舎人の中からこれを選び出す。上皇や摂関が、兵杖を与え、大臣や左右近衛大将が、必ずこれを召し出して使う。)」とあり、騎馬や徒歩で供奉する者である。そうであるのに今、「つがひのをさ」と言わずに「つがひ」とだけ言い、また「在」と言うのは、京の人であれば「番長(つがひのをさ)」というのが常であるが、諸国の人が在京してこの職を勤めるのを、某国の在番長(ざいつがひのをさ)と言うのを略して、「在番(ざいつがひ)」と言い習わしたのであろう。「在」とは上京してその職務・役目にあるのを言う。右の二つの説のうち、時代の様子から考えると、後者であろう。鳥羽は姓である。

(五十六)土佐家中、刈谷予三郎搏風の、質問数条の中から、神道ということを質問した一条。徂徠の言うには、神道というのは、卜部家に始まるものであり、「日本書紀」から始まり、六国史や律令格式にも神道を学べということは書いていないので、神道という道はないものである、と。
 今思うに、元来より神道という、特別な教えを説いた書物はないけれど、そもそも家を興して一つの家を立ち上げるのも、元は、それが興隆した理由によらないものはない。突き詰めて言えば、あるいは国持大名になったり、天下を治めるのも、どれもその興隆した根本の理由がないはずはない。その根本を見失わなければ、いつまでも乱れず、堅固であるのは当然の理屈である。日本は元来神明がお開きになった御国であり、その神道は万世無窮の基盤をお立てになった御事跡であるということであるので、自然と、莫大な教えが篭もっている事は、書物を味わえば分かる事である。二尊が三綱を正しなさってから、二尊や日神は、神の功績による天地に満ち渡っている事を、徂徠は知らないのであろうか。
 それをいうなら神道という神の字をつけるのは、儒道・仏道などというのがあって、後にそれに対して付けた神の字である。その付けるのに、神の字になぜしたのかというと、まず理屈で一通り言うと、小治田朝(推古天皇)が、隋の天子に書を送って、「日出処天皇云々」といった。「唐書」には「自以其国近日所出。故日本為号。 (その国の近くから日が出るので、日本の国号とした)」とある。「漢書」郊祀志には、「東北神明之舎云々」とある。張晏注には「神明は日である。」「日出東北舎」ということであるとある。以上の諸説を合わせて、日本の道を神道という理屈を申し上げる。
 さて孝徳紀には、「惟神者。謂随神道。亦自有神道也。(『惟神』とは、神に従う道をいい、自然と神道という。)」とあり、桓武紀には、「神道難誣」とも書いてある。また日の神の道であるので、日本の道はどの理屈から言っても、神道というべきである。
 そうであるのにある人がいて、道は天の道であるので、日本の道、西洋の道という別々の道はないと考えるであろうが、そうではない。そもそも人を統治する道というものは、何処でも天に則って立てるのであるから、どれも同じである筈なのに、日本は日本の道、西洋は西洋の道、天竺は天竺の道、ロシアはロシアの道、どれも別々に立っているものであるから、根本的にはどこに持ち込んでも通用しない道ではなく、大体は同じようなものであるが、その志向する方向は変わらない訳には行かない詳細は、例えるなら人間の顔は、目や鼻・口のつき方は誰も違う事はなく、同じようなものである。そうであれば少しも違わないかと言えば、何百人並べても同じ顔はないようなものだ。
 したがってその国にいると、その国の道を行うのは、例えば畑の作物だけが出来る国では、その作物を神にも供え、それで体を養い、米が出来る国では、米を食べるようなものだ。そしてそれぞれの国の道は、どれもみな天に則って立てたものであり、根本はどれも神道でないものはない。儒道といっても、太古には神道である。いわんや日本は神聖のお開きになった御国であり、その道であるから道を神道というべきなのは、勿論である。一日であっても神道でなければ立ち行くはずがない。御意見はいかがであろうか。
答え:まず後世に神道だと言って、その神道の流派が説く内容は、どれも儒教と仏教に依拠して作為したものであり、ただ国常立尊だ、高天原だというように名称が変わっただけであり、その説いている内容は、儒教や仏教のそれと変わるところがなく、それらと別に神道として立てた意味はないので、荻生徂徠などが、神道という道はないと言っているのは、至極その通りである。これは神道の流派が愚かで、神道の真髄を知らず、ただ儒教・仏教の説に頼って説いているので、このように儒者に非難されるのである。
 そしてまた徂徠、太宰春台などは、このように後世の神道流派の説について論じている内容はよく当てはまっているけれども、その神道流派の述べるほかに、真実の神道があって、たいへんそれが明らかであることを、まだ知ることができていないのである。その上、かれらの学徒は、ひたすら中国のみを尊く、何事も優れているように言って、皇国を、殊更になるべく賤しめ貶めて、無理に夷とするのを、卓見のように思っている。そのように中国の他に良い国はないものだと考えて、他を知らないのは、かえって見識も狭く、卑劣なことである。彼等も幸いにして皇国に生まれて、神典をも見ていながら、自分の国が万国に優れて尊い事を考え知ることができず、この神道が外国の道よりも勝っており、真実の正しく大いなる道であることも、考え知ることができず、あまつさえこれを貶めて非難するのはどのような心がけであるか。
 そしてまた神道に教えを述べた書物がないのは、これこそ真実の道である証である。そもそも人を教えてその方向に趣かせるのは、元来は正しい常道ではない。そうであるのにその教えがないからといって、その道がないと思うのは、外国の小さい道にばかり倣って、真実の道を知らないための誤謬である。教えがないことこそ尊いのである。教えを重要視するのは、人為の小さな道である。その理由は別のところで詳細に言ったので、ここでは言わない。
 そしてまた日本は、元来は神明がお開きになった御国で云々とあるのは、これには大いに心得があるのである。そこについてはどのように理解してこう仰るのか。そう仰った心は分からないが、その理解が一旦違うならば、大いに道の根本を見失うのである。ではその意味を言おう。まず天地は一枚であるから、皇国も、中国も、天竺も、そのほかの国々も、みな同一の天地の中であり、皇国の天地、中国の天地、天竺の天地と別々にあるものではない。そうであるのでその天地の始まりは、万国の天地の始まりである。そうであるから、「古事記」「日本書紀」に記された天地の始まりの様子は、万国の天地の始まりの様子ではないか。そうであればその時に成立なさった天之御中主神以下の神々は、これ即ち万国の天地の始まりの神々であり、日神はこれ即ち、万国を照らしなさる太陽神ではないか。そうであるのにもしこの神々を、ただ日本だけの神々とするならば、天地の始まりもまた、日本だけの天地の始まりで、日神も日本だけの日神であって、異国の天地や日月は、別にあるかのようである。そうであるのに天地の始まりを説くのに、中国には中国の説があり、天竺には天竺の説があって、各国の説は同じではない。今どれを正しいものとして信じたらよいであろう。もし中国の説が正しいとするならば、その他の国々の説はどれも誤りであるので、信じてはならない。もしまた、天竺の説が正しいとするなら、やはりまたその他の国々の説はどれも間違いであるので、信じてはならない。天地はただ一つであり、その始まりもただ一つであって、二つとはないのだから、その説もまた正しい説は、必ず一つに決まっているのである。
 そうであるので今、貴殿が日本は神明が開きなさった御国であると仰るのは、皇国の古典にのっとってのことであるから、恐らく皇国の古典を信じなさっているに違いない。もし皇国の古典を信じているのであれば、天地開闢の説も、恐らく皇国の古典を信じなさっているのであろう。そうであるならばこの天之御中主神以下の神々は、万国同一の神々で、日神は万国を照らしなさる太陽神であるはずであるのに、日本に限定して、神明がお開きになった御国であるとはどういうことであるか。
 貴殿の心を推測すると、日本の人は、日本の伝説を神事採用するべきである。他国の人は、またそれぞれその国の伝説を信じて採用すべきであるとお思いになっているのであろうが、それでは、信用するというものが虚構であり、真実ではない。必ずただ一つでなければならない事であるのに、各国がそれぞれの伝説を信じろと言うのは、真偽を問題にせず、ただ自分の国の伝説と言うのだけを用いるのであるから、これは虚構でなくて何か。もし実際に皇国の説を信用するというのならば、他国の説は論ずるに足らず、どれも違うのであるから、少しもこれに心を懸けてはならない。万国ことごとく、皇国の説を信用すべきものと、言ってしかるべきである。ここの所の御理解はどうであるのか。お伺いしたい。もしまた、万国共に、皇国の古典に伝えられた神々によって開かれた国であるが、その中でも日本は、特に天照大御神の御本国で、その皇統の御国であるから、特に神がお開きになった国であるという意味ならば、上述した内容の意味にも反しないであろう。その点はどうお考えなのか。
 そしてまた、神道という「神」の字は、儒教・仏教の道などがあって後に、それに対して言うという議論はその通りである。ただ「神」という詞すら、後世のものであるから、ましてや「神道」という名称は尚更の事である。またどの論拠から言っても、「神道」というべきであるというのも、その通りである。ただし、「漢書」「唐書」などを引用なさるのはいかがなものか。これらの書は、「日本」という国号についての議論には引用して問題ないけれども、「神道」という名称の議論には該当しないものである。もし理屈の上で言っているというのなら、皇国の古典に、その理屈はあくまでも見られるというのを差し置いて、外国の書物を借用して、その理屈を言うべきではない。そもそもこの道を「神道」と言って、当たっている事は、まず外国の道はどれもみな、神代の伝説を見失って、真実の道を知らないので、正しく神代から伝わっており、その根本が、高御産巣日神・神産巣日神の産霊により、伊邪那岐・伊邪那美の二柱の神がお始めになり、天照大御神が受け継ぎ行ってお伝えになった道であるので、神の道と言うべきであることは、論を待たない。また皇国は他国と比べて神国と称しているので、その神国に伝わっている道という意味にとっても間違いでなく、どの方向から行っても神道と言うのが合っていると、貴殿が仰るのを正しいと言ったのは、ここの点である。
 そしてまた、貴殿の言葉にそもそも人を治める道と言うのは、どこでも天にのっとって立てるものであるからとあるのは、大変な漢意であり、大いに間違っている。中国などの道こそ真実の道が伝わっていないために、天にのっとると言って、人為で立てた道である。その他では、仏道なども、天にのっとった道ではない。いわんや神道は、上述したように、産巣日神の産霊によって、神がお立てになった道であるので、どうして天にのっとると言えようか。一般に天理・天道・天命などと言って、天を畏怖すべき尊いもののように言うのは、神がある事を知らず、何事も天が行うのだと言っている、中国人の作り事であるのに、それをなお悟らず、道を天にのっとるなどと仰るのは、これはまだ漢意が去っていないと言う事である。
 そしてまた、各国の道は、少しずつは異なっており、同じでないのは、これは、人の顔が千人万人とも同じ顔はないようなものだという議論は、一応はもっともであるが、やはり詳細は違う。たしかに各国の道は、この例えのように、人の顔が一人一人違っているのと、同じようなものであるけれども、人の顔の中には、美醜の区別がなくてはおられないように、各国の道にも、優劣真偽の違いがあるのに、貴殿の議論のようでは、その真偽も優劣も選ばず、ただ自分の国の道を用いようとか。これは例えば、自分の顔は美しいか醜いか知らず、鏡も見ないで、妄想して自分は美しい顔だと思っているようなものだ。自分は美しい顔だと思うと言うのは、自分の国の道を用いることの例えである。自分の国の道が優れていると思うことの例えではない。
 それで、それぞれその国の道を用いるべきであるとおっしゃるのは、これもやはり、漢意が去っておらず、あの中国の道を全く捨て去る事ができていないのである。また、神道を本当に信じる事ができないために出た議論である。なぜかというと、天地は一枚であり、道も真実の道は、天地の間にただ一筋でなければならないのであって、その他の道は、どれも正しい道ではない。この正しい道を捉えて、これを正しい道と認識した以上は、その他の道には、少しも心を残してはならないのに、やはり他国の道に心が惹かれるために、これをきっぱりと捨てることが出来ず、その他国の道の内容にも背かないようにと、お思いになるから、それぞれその国の道を用いるべきであると言って、紛らわせているように聞えたのである。
 上述のように、そのようでは、皇国の道を伝えるのもただ虚構であり、真実ではない。これは、貴殿だけでなく、世間の物知り顔な人々も、みな同じ事であり、やはり中国の道に惑わされているから、これを間違いとして、さっぱりと捨てることが出来ない。その中国の道の内容にも違わないよう、説こうと思うから、神典を私的に様々に、本来とは違う方向に捻じ曲げ、天地の始まりの神々や、日神をも、日本だけの神のように説いて、自ら道を卑小にするのは、どのような心がけであるか。だから私はいつも、神道者の天地日月は、日本だけの天地日月であり、他国の天地日月とは別であると言って、笑っているのである。私はこうも言っているのだが、神道者は、他国の説によって、我が国の古典を取り扱っている。私は我が国の古典によって、他国の説を取り扱うのだ、と。


参考文献
うひ山ふみ・鈴屋答問録 本居宣長著 村岡典嗣校訂 岩波文庫
本居宣長全集第一巻 筑摩書房


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