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今川了俊  NF


1はじめに

 南北朝動乱の終盤、圧倒的優勢を確立しつつあった足利政権が手を出せずにいた南朝の牙城・九州。それを平定したのが今川了俊である。今回は、彼の九州経略について述べようと思う。

2時代背景

 11世紀頃より、日本は自給自足的に勢力を伸ばした寺社・貴族や各地の地方豪族が連合して形式的に中央政府(朝廷)を奉ずる形をとり始める。そして12世紀末に東西の大勢力による内乱(源平合戦)を経て東国に政権(鎌倉幕府)が成立して以降、東を幕府・西を朝廷が支配する二重政権の体制となり、承久の乱以降は武力で勝る幕府が朝廷に対し大きく優位に立つ。
 更に13世紀後半になると、元寇を契機に幕府は国防のため東のみならず全国に広範で強力な支配を及ぼすようになる。この頃、領地を分割により相続していた地方豪族たちの間で領地の細分化や本家・庶子の分裂傾向が一族争いの火種になりかねなかった。折からの貨幣経済の発展に伴う支出の増大も豪族たちを苦しめており、これも彼らの庇護者たる幕府への不満を募らせていた。さらに、畿内や瀬戸内海を中心に商業・運送業・芸能を生業とする非農耕民が実力を貯えつつあり、その社会的存在感は侮れないものとなっていたのである。彼らは、貨幣経済の発展を背景に畿内周辺の農村にも入込み、幕府の武力をも脅かす存在となりつつあった。幕府を動かしていた北条氏も彼らを取り込むことで自分たちの権力を強化しようとするが、十分な支持が得られないばかりか旧来の豪族たちからの反発も受ける結果となった。更に朝廷では支配力を弱めたのみでなく皇室が持明院統・大覚寺統に分裂、それに合わせて貴族達も争い幕府の仲介が不可欠であった。しかし北条高時を首班とする当時の幕府はこうした事態に有効な対応ができずにいたのである。
 そうした中で14世紀前半に大覚寺統から即位した後醍醐天皇は親政を行い、非農業民や没落豪族を味方につけての鎌倉幕府の打倒を目論むようになる。皇位継承に干渉する幕府を倒し傍流である己の血統に皇位を受け継がせるためであり、さらに全国支配権を朝廷に取戻すためであった。元弘元年(1331)、後醍醐は挙兵したが幕府の大軍により敗北、持明院統の光厳天皇に譲位させられ隠岐に流された。しかし、後醍醐の誘いに応じて河内で挙兵した楠木正成が元弘三年(1333)に幕府軍を大阪平野各地で翻弄し、金剛山の千早城に篭り幕府の大軍相手に奮闘。これを受けて各地で幕府に不満を抱く勢力が蜂起し後醍醐も隠岐から脱出、そうした情勢下で幕府方の有力者である足利高氏(尊氏)も朝廷方に寝返り京の幕府拠点・六波羅探題を攻略。時を同じくして関東の豪族・新田義貞が鎌倉を滅ぼし後醍醐天皇による全国政権が成立した。
 後醍醐天皇は商工業を通じて台頭する非農業民を味方につけることで中央集権的な専制体制を志向したが、急速で強引な改革は混乱と反発を招き、朝廷や当時の非農業民はそれを抑えきるには余りに力不足であった。豪族たちの期待は彼らの中で最大の名門である足利尊氏に集まる。尊氏は北条氏残党による関東での反乱(中先代の乱)鎮圧をきっかけに朝廷に反旗を翻し、一進一退の末に後醍醐政権を打倒し持明院統・光明天皇を擁立した(北朝)上で京に自らの政権(室町幕府)を樹立した。一方で後醍醐天皇は吉野に逃れ自らが正当の朝廷であると主張(南朝)。ここに南北朝の動乱が始まる。
 武力で大きく勝る尊氏は南朝との戦いを優勢に進めつつ、弟・直義とともに政局の安定化を図る。足利政権は後醍醐政権よりもいくらか保守的で、商工業中心の新興勢力を取り込みつつも農業を基礎におく旧来の豪族たちにも配慮した政権運営を行っており、尊氏・直義兄弟の円滑な関係もあって次第に軌道に乗りつつあるように見えていたのである。

3今川氏

 今川氏は、足利長氏(義氏の子)の次男・国氏から始まる足利一族の家柄である。国氏の後は基氏・頼国・範国の順に家督が受け継がれ、関口氏・石川氏・名児耶氏などの分家も生まれていた。頼国は中先代の乱で尊氏に従軍して討ち死にしており、その子・範国は足利政権の下で遠江・駿河守護を務め文和元年(1352)には引付頭人(訴訟審議を行う引付衆の長)となっている。また、範国は和歌を愛好すると共に第二代将軍・義詮に矢口開(初めて矢を射る儀式)を教えるなど武家故実にも詳しい教養人でもあった。足利政権において、今川範国は一族内での家柄や本人の能力・教養から重んじられる存在だったのである。<

4青年時代

 今川貞世(了俊)は、範国の子である。「言塵集」「師説自見集」「了俊歌学書」などに見られる年齢から逆算して嘉暦元年(1326)の生まれであると推定される。十二歳頃から祖母の指導で和歌を学び、十六歳で源経信(十一世紀末の歌人)を夢に見て歌道に執心することを決意したという。当初は京極為基から歌を学び「風雅集」に一首入集したが、二十歳頃には冷泉為秀を師と仰ぎ冷泉派歌人としての道を進む事となる。この時期、「河海抄」(源氏物語研究書)を現した四辻善成や二条良基・松殿忠嗣・卜部兼煕らと和歌の交わりをしていた。こうして歌人として研鑽を深め、最終的に貞世の歌は貞治三年(1364)「新拾遺集」に二首、永徳三年(1383)「新続拾遺集」に一首、永享十一年(1439)「新続古今集」に一首と「風雅集」を含めた四つの勅撰和歌集に計五首入集することとなる。また、かつて和歌四天王と呼ばれた隠遁者・兼好法師とも交わり、その没後には従者・命松丸と共に遺稿を整理し「徒然草」を纏めたという説もあるが審議は不明である。その他、順覚・救済・周阿からは当時流行していた連歌を学び、二条良基からは連歌の理論や精神性について教えを受けていた。貞世は、父・範国と同様に当時一級の教養人として育っていたのである。

5中央政界で

 この頃、軍事を司る尊氏や執事・高師直と一般政務を担う直義の間で摩擦が生じ始めていた。師直の下には実力主義で権威を軽んじる新興豪族が多く集っており、旧来の名門豪族を中心に安定した秩序を志向する直義とは相容れないようになっていたのである。貞和五年(1349)閏六月に直義が尊氏に要求して師直を罷免させ、これに対して同年八月に師直がクーデターを起こして復権し今度は直義が失脚した。更に観応元年(1350)十二月から二年(1351)二月にかけて、直義が南朝と手を結んで尊氏・師直らと戦い、兵庫で師直らを打ち破って尊氏と和睦し師直を殺害。一旦は直義優位の体制が確立されたかに見えたが、尊氏派と直義派の対立は明白となっており今度は尊氏が南朝に形式上の降伏をして名分を獲得し、直義を討伐。翌年二月には直義は戦いに敗れて鎌倉で尊氏に降伏し、間もなく死去した。尊氏による毒殺と伝えられる。
 この時期、範国は師直方・直義方・尊氏方を状況に応じて巧みに渡り歩いており、観応二年(1351)に尊氏が直義と戦った薩多山合戦では貞世を参陣させている。因みにこれが「太平記」における了俊の初出であった。
 その後も貞世は尊氏やその子・義詮の配下として活動し、足利直冬(直義の養子)が南朝と結んで京に入った際には細川清氏と共にこれと戦っており、延文四年(1359)に義詮が南朝に大規模な攻撃をかけた際にも参加している。また、康安元年(1361)に執事を務めていた細川清氏が失脚して反乱した際には貞世は清氏と所領問題で仲違いして駿河に帰っていたが、範国は彼を上洛させて清氏と刺し違えさせようとしていたと伝えられる。足利政権内部では清氏と貞世が親密である事が広く認識されており、清氏と貞世が裏で連携しているという疑いを晴らそうとしたものと考えられる。こうした動きが功を奏したか、清氏が京を奪取した際には貞世がこれに対する反撃の先陣を命じられている。
 また、貞世は軍事活動で功を挙げるのみならず政治面でも活動を見せている。貞治五年(1366)には侍所頭人となり園城寺の関所破却や僧兵の闘乱鎮圧に活躍しており、山城国における使節遵行(判決内容の実行)を受け持っている。この頃から、政権の膝元である山城国の守護を侍所頭人が兼任するのが慣習となっていたのである。貞治六年(1367)には引付頭人として訴訟問題の裁決にも深く関与している。また、父・範国から遠江守護職をこの頃に引き継いでいるようだ。
 貞治六年(1367)に義詮が病没すると、貞世は哀悼を示す意味で出家して法名「了俊」と名乗った。なお、翌年の東寺仏舎利奏請文書が「了俊」の名の文献上における初出とされている。
 このように、家門と巧みな処世、能力の高さから今川氏は足利政権内部で重きを成すようになっていた。そして四十歳を越えて了俊の人生が老境に入り始めようとした時期になって、その見識・力量が強く求められる舞台が現れていた。南朝最後の牙城とも言うべき九州である。

6九州探題

 九州においては、懐良親王(後醍醐の皇子)が南朝興国三年(1342)に九州に上陸し南朝正平三年(1348)に菊池氏に身を寄せて以来、南朝方が侮れない勢いを示していた。一方で尊氏は建武三年(1336)に多々良浜合戦で九州を制圧した直後は仁木義長・一色範氏を代官として後詰させていたが、やがて義長は上洛して範氏一人が九州を担当する事となる。しかし、現地で守護を務めていた有力豪族の少弐・大友・島津らは中央からの独立志向が強く、範氏は彼らを制御する事ができなかった。そもそも、探題職といっても在所も不定で博多聖福寺に寄宿している有様であり直接の家臣も僅かしか存在しておらず、それで現地の有力者に睨みを効かせるのは無理があった。加えて貞和五年(1349)になると直冬が九州に渡来して拠点建設を図り、少弐氏と結んで九州が尊氏方・南朝方に加えて直冬方の三勢力に分裂する事となった。内紛の最中、直義派が優勢になった時期には直冬が鎮西探題に任じられ範氏の立場は更に弱められる一幕も見られ、範氏の手には九州情勢を収めることは困難となり文和四年(1354)には博多を去って上洛している。
 一方、南朝方はこの内紛に乗じて勢いを強めていた。延文四年(1359)には少弐頼尚が菊池武光に筑後川合戦で大敗し、これを契機として南朝方は大宰府を陥落させ九州全土を支配下に置く事となる。これに対し足利政権は延文五年(1360)に斯波氏経を九州探題に任じて対抗するものの、彼も現地で孤立して貞治二年(1363)には周防に逃れる始末であった。続いて貞治四年(1365)には渋川義行が探題となるが、九州に渡ることすら不可能であったという。
 このように、全国的には足利政権の圧倒的優勢が確立されつつある中で唯一手を出せないのが九州であった。九州は外交・交易において重要な位置を占める場所であり、この地を押さえる事ができて初めて天下統一が現実のものとなるのである。そして、南朝が勢威を誇る九州を経略するには家門・力量・経験とも卓越した人物が望まれていた。そのため、熟練の域に入りつつあった了俊に白羽の矢が立つのは自然な成り行きであったろう。
 了俊は正式に九州探題に任命されたのは応安三年(1370)六月の事で、時に四十六歳。彼は赴任するに先立って九州各地の豪族に通知して助力を依頼しており、その老練さをうかがわせている。同年九月、引付頭人を辞職して遠江に帰り準備を整え、応安四年(1371)二月に九州へ赴任の旅についた。探題職に就くにあたり了俊は安芸守護にも任じられているが、同年五月に毛利氏・熊谷氏といった現地の有力豪族に協力を呼びかけた上で、肥後の阿蘇氏にも連絡を取っている。そして、了俊は沼田・赤間を経て厳島神社で戦勝を祈願し、長門国府から十二月十九日に豊前門司に到達した。因みに彼はこの道中を「道ゆきぶり」という紀行文に纏めている。六十首の和歌を収録し、伊勢物語・源氏物語を偲びつつ各地の歌枕を尋ねた情趣溢れる文章となっており、彼の教養と同時に精神的な余裕も伺われる。
 この一方で、了俊は一族による側面からの手も打っていた。まず子の義範に豊前・豊後の兵と共に七月二日に豊後高崎に上陸させ、大友氏と共に大宰府攻撃の体勢を取らせた。菊池氏もこの動きを警戒しており、八月には高崎城を菊池軍が攻撃をかけている。また、弟・仲秋と周防・長門の有力者・大内氏とを通婚させて後ろ盾を作った上で肥前に上陸させ、松浦党を味方につけさせていた。こうした一族の結束を利用した慎重な手回しが了俊を成功に導いていくことになる。

7大宰府奪回

 豊前に上陸した了俊は、応安五年(1372)二月に筑前麻生山の多良倉・鷹見嶽を陥落させた。一方で仲秋は肥前から筑前に侵入して了俊と共同作戦を取る。憮然の義範は、三月に菊池武光自らが松本城に進出して義範と了俊らを遮断したため動きが取れなかったが、今川軍の優勢は動かなかった。寧ろ義範が菊池軍の主力を引き付ける形を作り出し大宰府攻略へ有利となったと見る事もできる。そうした中で十月十日に天拝山が陥落、そして十二日には大宰府が了俊の手に落ちた。懐良親王・武光は高良山に逃れて大宰府奪回を狙う体勢に出る。了俊は肥前城山に陣を布いて高良山攻めを行うが、高良山は要害で攻めあぐね応安六年(1373)は筑後川を挟んでの睨み合いに終始した。
 この間も了俊は手を拱いていた訳でなく、応安六年には仲秋や子の満範に命じて肥前制圧を行わせ、翌七年には豊前で大友一族の内紛を抑えるのに力を注いでいた。こうした中で応安六年に菊池武光が死去し、翌七年には後継者である武政も後を追った。一族内の動揺を抑えるため菊池軍は応安七年八月に福童(小郡市)へ進出したが今川軍がこれを撃退、これで勢いに乗ったのか同年十月には高良山を陥落させ菊池勢を肥後菊池まで追い落とした。

8水島の陣

 永和元年(1375)、了俊は菊池氏の息の根を止めるべく肥後国内に軍を進めた。菊池は迫間川を中にして菊池川・木野川が東西に流れ、隈部城を中心に外城と連絡して守りを固めている要害の地である。了俊は菊池攻略のため本陣を水島に置き、有力豪族達に召集をかけた。大友親世・島津氏久は参陣したが、少弐冬資は動かなかった。そこで島津氏久が説得し冬資を招く事に成功したものの、八月二十六日、了俊は宴の最中に冬資を謀殺してしまう。氏久は面目を失ったとして領地に引き上げて了俊に反逆。大友氏に対して恩賞を約束し何とか味方に留められたのがせめてもの幸いであった。この騒ぎに乗じて南朝方が勢いづいて蜂起したため、今川軍は長井貞広らの部将を失うなど大打撃を受け一旦は肥後から撤退せざるを得なくなった。冬資暗殺は有力者の離反を招き、あと一歩まで迫った菊池氏討伐を大きく後退させることとなった。老練で慎重な了俊らしからぬ失敗であったが、彼が少弐冬資を誅殺した理由は何だったのであろうか。
 これを知るには、鎌倉幕府時代からの少弐氏と中央政権との関係を見る必要がある。少弐氏は、元来は武藤氏を名乗っていたが鎌倉期には大宰少弐として大宰府の実験を握るとともに、筑前・豊前・肥前・対馬・壱岐の守護を歴任し九州における豪族達の訴訟準備手続きを扱う権限も認められていた。また、大宰府を通じて海外交易からも大きな利益を得るなど、九州における有力者の中でも頭一つ抜けた特権的存在だったのである。しかし、元寇後には国防上の必要性からも北条氏が九州の把握を目指すようになり、永仁元年(1293)に鎮西探題が設置されて九州を総括し更に筑後・豊前・肥前・肥後・日向・大隈の守護を北条一族が占めるようになった。これには特権を失った少弐だけでなく守護職を奪われることとなった大友・島津も強く反発する事となる。鎌倉幕府滅亡時に少弐・大友・島津が鎮西探題を攻撃したのにはそうした理由も存在したのである。その後も少弐氏は旧領回復を目指して活動しており、建武政権期には尊氏と結び足利政権成立後は九州探題と主導権を巡り対立して時には直冬や南朝と結んで利権拡大を図っていた。了俊が九州経略を安定させるためには、少弐氏の力を抑える必要があったのである。
 冬資殺害後、筑前で闕所地(没収された土地)の処分が行われ探題の権限が拡充された。また、永和二年(1376)一月には南朝側についていた少弐頼隆を大友・大内らと共に破っており、これ以降において少弐一族は了俊の支配下に置かれる事となったのである。ここにおいて北九州経略は軌道に乗ったといってよい。冬資謀殺は、短期的には南朝方制圧を遅らせる失策ではあったものの、北九州支配を確立させ九州探題の実力基盤を形成する結果となったのである。

9南九州経略へ

 北九州を安定させた了俊は、南九州すなわち南朝方と了俊に背いた島津への対策に力を注ぐ。永和二年(1376)、満範を日向に派遣して大隈の禰寝氏など現地豪族を味方に引き入れて島津氏に対抗させている。またこの年に了俊は大隈・薩摩守護職に任じられており、その名分を利用して渋谷・和泉・牛屎といった豪族を配下に組み入れる事に成功した。また弟・氏兼に肝付氏を中心として日向の現地豪族を纏め上げさせている。薩摩・大隈周辺では最大勢力・島津氏が守護職を利用してこの地域の領国化を図っていたのに対してその他の中小豪族が反発し両者は長らく対立関係にあった。特に中小豪族達は自らの権益を保護するものとして同盟を組み直冬や南朝を支持することで島津への対抗を測ってきた経緯が存在する。この時は了俊が彼らの保護者として期待されたのである。事実、了俊によって彼らに半済(貴族や寺社が所有する荘園の半分を守護・現地豪族が手中にする)や兵糧料所が認可されており、これが豪族達を了俊陣営に走らせたのである。こうして永和三年(1376)十月には南九州の国人一揆(現地豪族による連合体)が了俊を支持すべく成立、島津氏への包囲網が形成されていく。
 この一方で南朝への攻勢も再開されていた。永和三年五月には再び了俊が肥後に入り菊池を攻撃。この時には薩摩の島津伊久が了俊に帰服し、国人一揆の間に不安・不満が沸き起こっている。了俊はこれに対して豪族達の負担を減らすための処置であり心配せず将軍に忠誠を尽くすようにと説得しているものの言い分に無理があるのは否めない。さて氏久に対抗する目的で了俊についた伊久であるが、結局は康暦二年(1380)七月に再び反旗を翻している。そうした事はあったものの、この時の菊池氏攻めは功を奏し永徳元年(1381)六月に隈部・染土城を攻略。良成親王(懐良を継いで征西将軍となった)や菊池武朝は宇土・河尻に逃れるがここも明徳元年(1390)に落とされ、翌年には八代城も失い矢部に逼塞する事となる。
 これと平行して島津攻めも行われており、康暦元年(1379)十一月には禰寝氏に氏久の支城を攻撃させている。永徳二年(1382)閏三月には島津氏久・伊久が一応は服従の姿勢を示したものの反覆常ない状況は続いており、了俊は義満に島津討伐の御内書を求めているがこれは果たせなかった。また、中小豪族の結束にも乱れが生じており、至徳二年(1385)には相良氏が島津と和睦して了俊に背き禰寝氏も南朝方に走るという事態になっている。しかし嘉慶四年(1387)に氏久がん没すると南九州の情勢も改善に向かい、肥後は義範・日向は今川貞満がほぼ制圧する事となる。しかし薩摩・大隈を了俊が屈服させる事はついになかったのである。

10成功の秘訣

 ここで、了俊を成功に導いた背景について考えて見る。これまでの探題たちと了俊の違いは何であったのか。
 まず、中央での経歴が異なっており探題に就任した時点で了俊は中央における重鎮の一人であった。それが人脈や際立った老練さとして発揮される事となる。赴任以前において現地豪族に手回しをすると共に、大内氏など後背地域の有力者と結んで後ろ盾とするなど九州上陸以前に周到さが散見される。特に中国地方の有力者・大内氏の後援が大きかったのは、大内義弘が後に九州平定において大きな功をなしたと自任している事からも伺えよう。
 加えて、一族の結束が堅固であった事も挙げられる。一族を「将軍への忠誠」「公のため」という名目の下に厳しく統轄し、その下に現地豪族の一揆を配置して掌握する体制をとった。これにより上陸時に三ヶ所からの多面作戦が可能となり、その後の展開を円滑なものとしたのである。これも中央における要人としての実績により可能となったといえる。
 そして、その柱となったのが「天下のため」という思想性であろう。上述した一族の束ねのみならず、守護クラスの有力者や中小豪族一揆を説得する際に了俊はしばしば「将軍への忠誠」に言及している。これは関東経略において「天皇への忠義」を説いた北畠親房と類似しているといえるが、親房が失敗し了俊が成功したのは両者の置かれた戦況による違いといえよう。厳しい劣勢におかれていた親房と異なり、了俊は圧倒的優勢の中で最後の仕上げとして九州に臨んでいた。了俊が背負った将軍の権威は巨大なものとして映った事は想像に難くなく、有力者にとっては圧迫を伴うものであったし中小豪族にとっては有力者に対抗して自らの利益を保護するに足る存在と見えたであろう。強大な勢力に裏打ちされた権威を背景にしていればこそ、了俊も少弐氏処分など大胆な行動に出る事ができたのである。了俊もそれはよく理解しており、ある時期には義満の弟・満詮の下向を求めた事もある。また、逆に義満が西国に権威を示すため康応元年(1389)に厳島参詣をした際には、後年に了俊が「鹿苑院殿厳島詣記」で詳細に述べたようにこれに馳せ参じて花を添えているのである。
 これらを纏めると、然るべき時期に老練な人材が時宜を得て然るべく動いた結果であるといえよう。

11対外交渉

 九州は大陸への玄関口である。九州経略の間に、大陸との交渉を担う機会が訪れるのはごく自然な事であった。当時、九州沿岸を拠点とする水軍が朝鮮半島や中国沿岸で海賊行為を働いており、現地では「倭寇」と呼ばれ脅威となっていた。そうしたことから中国や朝鮮から倭寇禁圧を要求する使者が九州にしばしば訪れていたのである。例えば懐良親王が大宰府時代に中国(明)から「日本国王」の称号を受けた事は知られており、劣勢を大陸の後援を得て挽回しようと図っていた可能性が推測される。また、倭寇の活動が盛んな時期が懐良最盛期とほぼ一致しており彼らが南朝方と密接な関係にあった可能性も指摘されている。
 さて永和三年(1377)に高麗から使者が到来、肥後に出陣していた了俊は博多に戻ってこれと応対し、詩の遣り取りも行っている。この時、倭寇の取締りを約束し翌年には兵を高麗に派遣して現地の倭寇討滅に協力したようだ。このように積極的に協力体制をとった背景には、大陸と友好関係を樹立する事で南朝との戦いを有利に運ぼうとしたほか、倭寇の主力であった松浦水軍を押さえることが九州制圧に不可欠であると判断したためである。事実、水軍の掌握が戦いにおいて大きな役割を果たしている。永和四年(1378)にも高麗使が訪れており、その際に捕虜の送還も行われている。その後もしばしば捕虜送還が行われ、嘉暦二年(1388)にはそれと引き換えに大蔵経を要求している事から交易も行われたと思われる。こうした関係は朝鮮の王朝が高麗から李朝に変った後も継続し、応永元年(1394)にも大蔵経を求め翌年には捕虜送還の際に大蔵経への感謝を述べている。交易や水軍把握のほかにも、当代一流の文化人であった彼個人としては使者との詩文の交わりも大きな意義を持っていたであろう。こうした事実からは了俊がこの時期に対外交渉権を事実上把握していた事が読み取れ、これが後に義満から危険視される事となるのである。

12九州での文化活動

 九州探題としての活動中も、歌人としての活動は盛んであった。当時、こうした文化は畿内周辺に集中しており地方への文化拡散はまだ不十分であったのだが、「真実すき人などは、いくさの中、歎の中にも、よむげに候」(「了俊一子伝」)と唱えだけあって現地でも研鑽を怠る事はなかったのである。九州各地を移動する中で、現地の名所・歌枕を実見し検討するなど歌の研究にも励んでいた。例えば、歌枕が民間で伝説となり新たに名所が作られる現象を指摘しているのはその一例であろう。また大宰府天満宮を保護して連歌会を催しているし、更に現地の人々に連歌の指導を行っていた事が「連理秘抄」から知られている。和歌の指導も行っていたようで、万葉集の秘伝なども公開し「三十六人歌集」「源氏物語」「伊勢物語」「枕草子」を読んで歌心を身につけると共に「俊頼抄」で歌論を学ぶよう説いている。また、京の二条良基と遣り取りして自らも連歌について教えを請うており、それが「九州問答」「下草」として纏められている。良基は「九州問答」で「幽玄にやさしく、しかもはなばなと」すなわち優美で儚くそれでいて軽やかな境地を理想としているが、了俊はそれに満足できず「下草」で「ちと物さびしくも、ゆるゆるとも物すべく」と寂しさを含んだ境地をよしとしている。また明徳二年(1392)には「懐紙式」を著して歌会における故実や懐紙書式の解説を行っている。
 九州経略で多忙な中にも、了俊は現地で文化交流を行い研究を怠らず文化的な遺産をも生み出していたのである。

13解任と失墜

 九州の南朝方も力を失い明徳二年(1392)に南北朝が合一すると、九州探題のあり方も軍事より行政に重点が置かれるようになった。応永二年(1395)に出された法令には所領安堵・恩賞授与の権限が探題にあることが明記される一方、感状は将軍から直接出すものとするとされている。了俊が九州で現地豪族と主従関係を構築するのを警戒していた事が読み取れる。この頃には、九州の豪族からも奉公衆(将軍直臣、徳川政権の旗本・御家人に相当)に組み入れられる者がおり足利方による九州支配が安定に向かっていた事と中央による直接支配を目指す方向となっていた事が分かる。そうした同年閏七月、突然了俊は探題を解任され京に召還された。了俊は島津氏の平定が完了していない事から再度探題に任じられる事を望んでいたが、それは認められず遠江・駿河半国の守護職を与えられたのみであった。後任の探題は渋川満頼。了俊の前に探題に任じられるも九州に入れずに終わった義行の息子である。了俊の屈辱感が大きかったであろう事は想像に難くない。
 この突然の解任劇を、了俊自身は探題職を望んだ大内義弘の暗躍によると考えていたようであるが話はそう単純ではない。まず、自立傾向の強い現地の有力豪族にとって強権を振るい巧みに九州経略を確立させた了俊は煙たい存在であった。彼らから中央への働きかけがあったのは疑いないところである。また、中央から見ても了俊がいる限りは島津氏の帰順が難しいと判断された。そして、了俊が現地で将軍代理として振舞う状況は、一種の独立王国にも似ており義満にとっては新たな脅威であった。特に一国の代表者である事を象徴する外交や巨大な利益をもたらす交易の権限を了俊が握っているのは認められない事であったろう。
 こうして二十五年ぶりに遠江に帰った了俊であるが、報われる事なく職を解かれた不満は大きかったようである。また、駿河を分け合う事となった甥の泰範とも対立関係にあった。そうした中で応永六年(1399)、中国地方に大きな勢力を持つ事から義満に警戒され圧迫を受けた大内義弘が挙兵。この時にかねてより義満に不満を抱いていた鎌倉府の足利満兼もこれに呼応して出兵したが、義弘が堺で義満の軍勢に敗れ戦死したため引き上げている。応永の乱である。「鎌倉大草子」によればこの時に義弘と満兼を仲介したのが了俊であるという。義満がこの直後に関東の上杉憲定に了俊討伐を命じている事から、おそらくは事実であったろうし彼の心情を考えると不思議ではない。義満に対しては嘗て「相手が強いと見れば罪があっても許すが弱ければ罪がなくとも咎める」と大内義弘と共に語っているように大きな不満がある一方で、鎌倉府に対しては始祖・基氏の質実な政治姿勢を評価するなど親近感を持っていた事も関係したであろう。義満は了俊を単身九州に流罪にする事も考えたといわれるが、憲定や泰範らの命乞いによって許され、応永八年(1401)に上洛して政治に関与しない事を条件に赦免された。ここに了俊の政治的活動は終わりを告げたのである。

14晩年

 政治から身を引いた了俊は、余生を文化的な著作活動に注ぐ事となる。冷泉為邦と共に東山・黒谷を訪れたり、正徹と清水寺を参拝したりしたのは上洛後間もない時期であろう。正徹は15世紀前半の代表的歌人であるが、了俊は若き日の彼に多くの教えを与えたといわれる。また、応永九年(1402)には「難太平記」を著わし、今川氏の功績が「太平記」に正しく記載されていない事を嘆き一族の働きを子孫に書き残している。なお、この書には「太平記」が玄恵により直義の閲覧を経て多くの誤りを指摘されたと述べているなど、「太平記」成立過程について多くの手がかりを与えている事でも有名である。応永十年(1403)には「二言抄」を現して冷泉派を擁護すると共に歌において新たな言葉を用いる際においての選別について論じた。また応永十三年(1406)には歌集「言塵集」を著し、応永十六年(1409)の「了俊一子伝」でも形式主義を排して心情・風情を詠む事を重視している。そして応永十七年(1410)「了俊歌学書」では和歌・連歌における心得を説き、翌年の「歌林」でも同様に作歌の手引きを記す。またこの頃に「源氏六帖抄」で「源氏物語」宇治十帖の注釈を行い、後人が歌心を得るための参考としている。また詠歌についての実践的指導書「落葉露顕」もこの頃に成ったようだ。
 和歌関連のみならず、故実について「了俊大草子」で述べ、九州での戦いについても「九州御合戦記」に纏めている。そして応永十九年(1412)に「了俊日記」が成った。この頃に遠江における仲秋の政治を憂慮して諌めた「今川状」を著したとされ、徳川期には寺子屋などで広く読み次がれたのであるが史実としては怪しいようだ。また「明題和歌全集」や「今川大双子」も了俊の手になるといわれるが後世の偽作であると考えられている。
 了俊の没年は明らかでない。いずれにせよ九十歳を越える長寿であったと考えられている。今川氏の嫡流は駿河守護を勤める甥・泰範の系統によって受け継がれ戦国期に至る。了俊の系統は分家として存続したようである。

 了俊は、南北朝動乱が終結に向かう中でそれを固めるのに大きな役割を果たし、更に伝統的文化を継承すると共に新興文化を深めるのにも貢献を果たした。そして「難太平記」など彼の残した多くの書はこの時代を知る上で貴重な史料として重んじられている。その知名度が今一つであるのに反して、歴史的役割はなかなかに大きなものであったといえる。

参考文献
人物叢書今川了俊 川添昭二 吉川弘文館
人物叢書菊池氏三代 杉本尚雄 吉川弘文館
日本の歴史9 南北朝の動乱 佐藤進一 中公文庫
南北朝時代史 田中義成 講談社学術文庫
南北朝 林屋辰三郎 朝日文庫
皇子たちの南北朝 森茂暁著 中公新書
戦争の日本史8南北朝の動乱 森茂暁 吉川弘文館
日本古典文学大系太平記一〜三 岩波書店
足利義満 佐藤進一 平凡社ライブラリー
新編日本合戦全集2鎌倉南北朝編 桑田忠親 秋田書店
太平記の群像 森茂暁 角川選書
倭寇 田中健夫 教育社
足利尊氏 高柳光寿著 春秋社
足利尊氏 山路愛山著 岩波文庫
ピクトリアル足利尊氏南北朝の動乱 学研
歴史群像シリーズ戦乱南北朝 学研
「群書類従第二十一号合戦部 続群書類従完成会」より「難太平記」「菊地武朝申状」「阿蘇大宮司惟澄申状」
帝王後醍醐 村松剛 中公文庫
芝蘭堂(http://homepage1.nifty.com/sira/)


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