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南北朝における大阪  NF


 戦後以降、経済・文化における大阪の地位は低下の一途をたどっていると言われます。加えて、大阪で起きた犯罪がしばしば話題に上る関係も有り社会においても大阪を馬鹿にする風潮が時に見られるようです。しかし、そうした大阪もかつては日本最大の経済重要地点でした。さてここで大阪が日本史上屈指の転換点と言われる南北朝においてどのような位置を占めていたのか、それをたどる事でいささかの名誉挽回を図りたいと思います。

南北朝前史
 13世紀後半から14世紀前半には、貨幣経済の発達に伴い商業を背景にした新興豪族が畿内を中心に成長。その中には鎌倉幕府・朝廷といった時の政治権力をも悩ませる「悪党」と呼ばれる勢力も存在した。この頃、幕府において実権を握っていた北条氏は、その惣領(得宗)による専制を志向しておりそのために商業勢力との結びつきを強めようとしていた。例えば、京における北条氏の拠点・六波羅探題はこの頃には播磨・丹波・摂津を直轄としていたのである。のみならず、河内・和泉の守護職も北条一門によって歴任されるようになっていた。河内の観心寺や天河などは得宗領となっており、この地域を北条氏が重視していた事が伺える。北条氏は水軍や水上交易の把握にも力を入れており、畿内への海上交通における玄関口であった大阪平野は押さえる必要があると見做していたであろう。8世紀に淀川と神崎川が連結されて以来、大阪平野は西国荘園からの年貢が京に水陸で運ばれる際に必ず通行する要所であったのである。この頃には大阪湾への入り口である兵庫のみならず大阪平野においても住吉・渡辺・神崎川尻(尼崎)といった港町が発達しつつあったのである。大阪は戦国期の堺や秀吉の大坂城以前は大きな注目を受ける事が少ないが、この時期には既にこれらの港町を複合すれば相当な規模の人口を抱えていたようである(15世紀初頭には天王寺だけで人口一万を越えたとされる)。
 一方で「悪党」が多く発生し幕府を悩ませたのもまた大阪平野であった。河内の「楠入道」なる人物が「峰相記」で「悪党」の一人として挙げられているが、商業・交通の要地であった大阪に新興豪族が多く発達し幕府・朝廷の制御できない「悪党」となるのは自然な事であった。

鎌倉幕府倒幕
 14世紀前半に後醍醐天皇が自身による専制政権樹立を目的として鎌倉幕府打倒のため挙兵したが、その戦いにおいて最も鮮烈な活躍を見せたのは楠木正成である事は多くの人が認めるところであろう。正成の本拠地が河内であり和泉や摂津にも勢力を及ぼしていた事は有名だ。楠木氏は水分川の水利権を握り、水上交通を通じて利益を上げていたと推定されている。彼はまさしく貨幣経済発達を通じて勢力を伸ばした新興豪族の代表であった。瀬戸内海と京・奈良を繋ぐ位置に存在する大阪平野はこうした新興豪族が成長するのに最適の地であったろう。その勢力を最大限に用いて正成は千早城で幕府の大軍を相手に互角以上の戦いを演じ、幕府の威信低下を招いて倒幕への流れを引き寄せたのである。この時、千早城での正成の奮戦は遠く九州にまで伝わったようであるが、大阪平野からの海路による伝達が大きく物を言ったであろう事は想像に難くない。まさに大阪平野から天下が激震を起こした瞬間と言える。

建武政権において
 後醍醐による建武政権では、地方政治において軍事・警察を担う守護と政務を行う国司が併設されたが、摂津・河内・和泉に権限が与えられたのは楠木正成であった。正成はこの三国の守護に任じられたほか、河内国司の職をも与えられている。これがどのような意味を持つかについて、正成の待遇から推測しよう。まず恩賞としては河内国新開荘・土佐国安芸荘・出羽国屋代荘・常陸国瓜連荘を賜り検非違使・左衛門少尉に任じられており、これは足利・新田・名和らに次ぐ厚遇である。また新政府においても記録所・雑訴決断所・恩賞方に席を与えられ相応の権限を与えられていると言ってよかろう。正成は新政府において、討幕での巨大な功績もあり相当の寵愛を受けていたと言える。その正成に大阪平野が委ねられた事は、後醍醐がこの地域を重要視していた現れとして差し支えなかろう。
 他の事実からも考えて見よう。倒幕後間もない元弘三年(1333)七月に交易船を後醍醐は接収しているが、この際に住吉神社造営費用としている。事実、以前より造営のために多額の寄進も行われており、交易の拠点として重視されていた事が推測されるのである。
 商業勢力との結びつきを重視する後醍醐にとって、瀬戸内からの京への入り口に当たる大阪平野は交易・交通面から生命線を握る存在であったと言える。
 また、京の防衛面からも大阪の存在は重要であった。延元元年(1336)、建武政権に反逆した足利尊氏が西国から大軍で上洛してくる際に正成は京を明け渡して叡山と河内の楠木勢で足利軍を包囲し兵糧攻めにするよう進言している。これは受け入れられず正成は兵庫湊川で足利軍を迎え撃ち討ち死にしているが、その後に後醍醐は遅ればせながらも正成の策を受け入れるものの逆に足利軍に叡山を包囲される結果となった。正成の戦死により大阪方面の軍勢が手薄になった事が大きいと思われる。京への厳格口である大阪は、琵琶湖水上交通を睨んだ叡山と共に交通を封鎖して京に圧力をかける上でも重要な土地であったのである。
 大阪を屈指の寵臣である正成に委ねたのも重要性の現れと言えるし、逆にそうした大阪平野一体を与えられた事が正成への信頼を示すものとも言える。

南北朝の動乱
 建武政権が崩壊して後醍醐が吉野に逃れると、京における足利政権が擁立する朝廷(北朝)と吉野の朝廷(南朝)に分かれて争う形成が固まる。後醍醐やその後継者たちは京を足利政権から奪回するため長い戦いをする事となるのである。
 さて後醍醐が拠点に選んだ吉野は山に囲まれた要害であるだけでなく、西の大阪平野、東の伊勢と繋がり海上交通と結びついた利便性のある地でもあった。この二つは南朝にとって西国・東国へ通じる文字通りの生命線と言える。大阪を楠木氏、伊勢を北畠氏とそれぞれ南朝が最も信頼する一族に委ねて最末期まで保持する事に意を注いだのが両地域の重要性を現している。
 大阪において南朝と関係の深かった地域を挙げていこう。まずは後醍醐以来結びついていた住吉である。そして堺も吉野との距離の近さから深く関係を持つようになったようで、堺の魚商人が南朝との通謀を疑われ京での商売を足利政権に禁じられた例が知られる。ともあれこの南朝との関係を通じて堺は成長し、足利方もそれを恐れて進駐したため更に町は大きくなったようである。そして四天王寺もまた南朝と関係が深く、正平二十年(1365)に行われた金堂上棟式には後村上天皇が列席したと伝えられる。
また、戦乱の中途からは南朝は足利軍により吉野から追われ賀名生を始め各地を転々とするが、その際に行宮として選ばれた一つに大阪山間部の金剛寺・観心寺がある。この二つの寺院は後醍醐の信任厚い文観とつながっており、更に楠木氏とも深く関わっていた。また前述の住吉にも長く行宮が置かれ、後村上(後醍醐の子)はここで崩御し長慶天皇(後村上の子)が位についている。
 無論、足利方も大阪平野を重視しており前述したように堺に進駐したほか、摂津・河内・和泉の守護職を足利一族の重鎮である細川氏に委ねている。大阪を制する事がこの戦乱において重要と考えられた事が分かろう。
 そして、京周辺におけるそれぞれの戦いでも大阪平野を押さえる事が戦略的に重要視されていた。例えば延元三年(1338)に北畠顕家が奥州から西上して京に迫った際、青野原から伊勢・奈良を経て弟・顕信を京の入口である八幡に進出させ自身は和泉に軍を展開している。結局はそこで高師直の大軍と戦い落命したわけであるが、和泉に迂回した理由は大阪平野を確保して八幡の顕信の足元を安全にすると共に水上交通路を封鎖し京を兵糧攻めにするという観点もあったと想像される。そして足利方もそれを危惧したからこそ師直という大幹部を送り込んだわけである。
 正平二年(1347)における楠木正行を主力とした攻勢もまた大阪平野を舞台として行われている。楠木氏がその地域の豪族であるため一見当然に思われるが、これに対して足利方が大きな警戒を抱いた理由を考慮する必要が有ろう。まず細川顕氏・山名時氏といった幹部級が相次いで敗れたため、大阪平野の失陥を恐れた足利方は再び師直・佐々木導誉らを出陣させているのである。これが正平三年正月の四条畷合戦であり、これにより南朝の主力は壊滅することになるが、この一連の動きで細川・山名ら足利直義(尊氏の弟)派が面目を失い師直派が幅を利かせるようになる。師直は大阪平野を巡る争いで武名を上げ、それにより結果として足利政権が二つに割れる事となった。
 さて正平七年(1352)には尊氏と直義が対立し、尊氏が南朝に名目上の降伏をした上で直義を討つために関東に出陣していた。南朝方はこの隙を衝いて京奪回を狙う。その際に、賀名生の行宮を出発した後村上天皇はまず東条(楠木氏の拠点)を経て住吉に移り、その上で八幡へと至っている。京に入るとしては随分迂回した印象があるのは否めない。京を軍事攻略するに当たっては、大阪平野を押さえた上で入り口の八幡を取って封鎖するのが常道であったと言える(ただし、もう一つの攻撃路である近江については足利方が確保していた)。この京占領は短期間に終わったが、その後も南北朝期を通じて大阪平野は両勢力の衝突が激しく行われた地域であり続けたのである。
 そして戦乱が足利方の勝利となった頃、将軍足利義満にとって危険な存在は南朝より寧ろ配下の有力者であった。中でも西国に大きな勢力を持つ山名氏・大内氏は警戒されそれぞれ明徳の乱・応永の乱で軍事的に屈服させられる事となる。彼らがいずれも和泉を守護国として保有していた事は注目に値するであろう。瀬戸内の交易路を確保しようとする義満にとって、その入り口である大阪平野(そして出口である周防周辺)を押さえる事は必須事項であったのは想像に難くない。

おわりに
 「吉野朝史」で著者・中村直勝氏による当時における大阪の重要性を説いた口演があったので、それを元に話を膨らませてみました。南北朝の動乱において大阪平野が重要な戦略的意味を持っていたのは以上よりお分かりいただけたかと思います。
 京への海の玄関口、それが大阪が発展した理由なのは明らかです。現在の大阪が経済的地位を奪われてしまったのも、首都移転による畿内の地位低下や自動車社会に伴う海上交通の衰退があった所に政治権力による東京一極集中が止めを刺したという事でしょうかね。
 しかし考えて見れば、近代まで日本史の転換期には大阪が常に大きな役割を果たし続けてきました。古代集権国家成立の際には難波から入る大陸の文物が大きな役割を果たしましたし対外関係の上でも重要な地点であったのは四天王寺や難波宮からも知る事が出来ます。農業社会が商業を基盤にした貨幣経済へと移行する南北朝については御覧いただいたとおりです。そして各地方に割拠した群雄が統一され強力な統一国家が建設された際には石山本願寺が頑強に信長に抵抗し、秀吉はこの地に拠点を建設したのです。そして維新期においては、正成ら南朝忠臣たちが志士達の精神的模範とされると共に大坂商人が経済的支援をしていました。そして大日本帝国が敗戦により没落すると時を同じくして大阪も最大工業都市の地位を失いました(なお、この時期には大阪の兵は弱いとして「またも敗けたか八連隊」などと言われ馬鹿にされる風潮があり大阪蔑視の端緒が見られます)。しかし、その後も高度成長において主要工業地帯の一つとして重要な役割を果たし、1970年の大阪万国博覧会は「経済大国日本」を象徴するものとなりました。このように、大阪が歴史の節目節目で示した経済的・精神的存在感は大きなものであったと言えます。昨今は新たな転換期が訪れると言われて久しいのですが、大阪の現状は寂しいものだといわざるを得ません。大戦期に顕著になった東京一極集中化は戦後も一貫して続き、政治的規制・圧力により大阪の経済力・文化力が東京に吸収されて大阪は活力を奪われているのが現状です。今後、大阪を中心とする畿内地域の奮起・再興に期待したいものです。さて、最後に前述した中村直勝氏による口演の末尾をもってこの短文の結びに代えたいと思います(皇国史観時代の文句ですから違和感を覚える点もあるでしょうが)。「建武中興に当りて大阪が働いた地位。大阪が示した力。大阪が受持つた役割。それを、極言すれば後醍醐天皇の建武中興は、大阪を御支配の下に置き給ふたから成功したのです。大阪に要約された忠と信。それは実に偉大なものでした。輝いたものでした。其所に流れるのは赤き日の本の心臓です。昔も今も。」(「吉野朝史」P235)

参考文献
吉野朝史 中村直勝 星野書店
南朝の研究 中村直勝 星野書店
日本古典文学大系太平記 一〜三 岩波書店
日本の中世国家 佐藤進一 岩波書店
日本の歴史8蒙古襲来 黒田俊雄 中公文庫
日本の歴史9南北朝の動乱 佐藤進一 中公文庫
楠木正成 植村清二 中公文庫
建武政権 森茂暁 教育社歴史新書
「太平記第一巻 岡見正雄校注 角川ソフィア文庫」より「楠木合戦注文」「博多日記」
日本中世史を見直す 佐藤進一・網野善彦・笠松宏至 平凡社
馬・船・常民 網野善彦・森浩一 講談社学術文庫
京阪神史話 武藤誠・木村武夫・横田健一編 魚澄先生古稀記念会
風雲戦国史(http://www2.harimaya.com/sengoku/index.html)
あの大阪は死んだのか 皆川豪志 産経新聞社
「民都」大阪対「帝都」東京 原武史 講談社選書メチエ
手掘り日本史 司馬遼太郎 文春文庫


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