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引きこもりニート列伝その6 劉備・諸葛亮・姜維  NF


 引きこもりニート列伝その6 劉備(161~223)・諸葛亮(181~234)・姜維(202年~264年)

 今回は、三国志から。「三国演義」で主人公とされる蜀を軍事的に引っ張り、物語の華となった三人を扱います。
 
劉備
略歴
 中国、三国時代の蜀の創建者。在位221~223年。字は玄徳、諡は昭烈帝。涿郡涿県(現河北省涿県)の生まれで、前漢景帝の子・中山王劉勝の子孫と称した。
184年に黄巾の乱がおきると、仲間の関羽・張飛らと鎮圧に参加して活躍したが、しばらくは領土をもつことができず、各地を転々とした。やがて曹操のもとで予州牧に任じられたが、後漢朝廷による曹操暗殺計画にかかわって追われ、河北の袁紹・荊州の劉表を頼った。この時に「三顧の礼」により諸葛亮を配下に迎えている。
 劉備は諸葛亮の「天下三分の計」に従い呉の孫権と同盟し、208年に赤壁の戦いで曹操が敗れた後には荊州・益州(四川)を手にいれる。更に曹操配下の名将・夏侯淵を破って漢中を奪い219年に漢中王を名のったが、同年末に荊州を失い関羽を討ち取られる。220年に曹操の子・曹丕が後漢から帝位を譲り受け魏を建国すると、翌年に劉備は成都で即位し、漢の再興を宣言した(蜀または蜀漢)。以後、中国は魏・呉・蜀が分立する三国時代となった。222年、荊州の奪還をめざし呉に出陣したが敗北し(夷陵の戦い)、永安(白帝城)に退いて病没した。

 劉備は、少年時代に家の隅にある大きな桑の木を見て「大きくなったらあれみたいな馬車(皇帝の車)に乗るんだ」と言ったそうですが、子供と言うのは割りとそんなものらしいので(星を取って欲しいとねだったり)これが劉備が大志を持っていた証拠とは一概には言えないでしょう。寧ろ後に大物になったので残った逸話と言えます。
 青年時代には、親戚に学資を出してもらい有名な学者である廬植の下で学びましたが、勉強よりも乗馬・闘犬・音楽を好み、派手な格好をして豪傑と交際していたと言われています。
 要は、将来を期待する親戚に学費を払ってもらって進学しながら、ろくに勉強せずバイクを乗り回しゲームやバンドに入れ込んだあげく服に金をつぎ込んで友人と遊びまわっているようなものですね。絵に描いたような不良学生です。「豪傑」というのはひょっとして侠客の事でしょうか?すると不良とつるんで彼らのリーダーやってたと言うことになります。ヤンキーを取り仕切って派手な格好をし、回りから「総長」とか呼ばれてるようなもんでしょうか?引きこもり気質とは明らかに異なりますが、一昔前のいわゆるヤンキー漫画にでも出てきそうな「大物不良」キャラといったところでしょうか。いずれにせよ堅気ではなかったようですね。…風俗壊乱しない分、まだ引きこもりの方がマシな気もしないではないですが。

 そんな「総長」劉備も、乱世をきっかけに子分どもを引き連れて一旗あげることに。各地で転戦するものの、なかなか成功できず長年の放浪を余儀なくされます。それでも不思議に行く先々で評価されて厚遇されているんですよね。まあ、彼の率いる軍団が戦力として期待できると言うのもあったでしょうが(何しろ元ヤンキー集団なので)、部下たちを惹きつけた親分肌で大らかな人柄が各地の豪族をも魅了したと言うことでしょうか。尊氏にも言えることですが、人柄も大きな武器ですね。
 劉備が安定した拠点を得ることになるのは諸葛亮との出会いがきっかけですが、この諸葛亮も一癖ある人物だったようです。

諸葛亮
略歴
 字は孔明。中国、三国時代の蜀の宰相で劉備・劉禅を補佐し蜀の建設・維持に尽くした。琅耶陽都(現山東省沂水県)の人。
 無名時代は、後漢末の戦乱を避けて荊州に身をよせ湖北の襄陽近くで晴耕雨読の生活をおくっていた。207年、劉表を頼って当地にきた劉備に仕える。この時、劉備は諸葛亮の評判を聞き、自軍に招こうと三度にわたり自ら諸葛亮の草庵を訪れたという(「三顧の礼」)。
 劉備の臣下となった諸葛亮は、「天下三分の計」を説く。これは、華北の曹操・江南の孫権に対抗して荊州・益州を自領とするという計画であった。208年に孫権と同盟し、赤壁の戦いで曹操が敗れると劉備は荊州・益州を自領とし孔明の計画を現実とした。
劉備の死後も、諸葛亮は劉備の子・劉禅を補佐し南方を平定する。更に自ら出兵して魏に戦いを挑んだ。この時の劉禅への上奏文は「出師表」と呼ばれ、名文として名高い。諸葛亮の出撃は数次にわたったが、魏と蜀の国力差は大きく魏の名将・司馬懿らに阻まれいずれも成功せず、234年に五丈原の陣中で病没。乱世にあって忠義を貫いたその生涯は、後世に至るまで賞賛されている。

 諸葛亮については、「偉大なるダメ人間シリーズ」で扱っているのでここでは細かいことは述べませんが、劉備から招きを受けるまでは自分を管仲・楽毅といった古代の大人物になぞらえる一方で周囲を小馬鹿にしつつ引きこもっていました。当然、世間一般からは評価されず物好き数人と交友する程度。もし劉備が人材不足でなかったら、もし知人が劉備に孔明を推薦しなかったら、もし劉備が訪れる途中でキレていたら…。一体どうなっていたことやら。「三国演義」では劉備を待たせて昼寝をしている孔明に怒った張飛がその草庵に火をつけてやると息巻くエピソードがありますが、やろうとしていることは過激で同意できませんが心情は理解できる気がします。
 そんな幸運でニート脱出した孔明、それ以後は人格力量とも優れた人材として活躍します。…人間、化ける時は化けるもんですね。

姜維
略歴
 中国の三国時代の蜀の武将。字は伯約。天水郡冀県の人。
 幼少時に父が異民族の反乱鎮圧に従軍して戦死したため、母の手で育てられた。かつての父の功績が評価され、召し出されて天水郡の軍事に参与する。蜀の諸葛亮が北伐した際に、天水太守から諸葛亮との内通を疑われ、行き場を失い蜀に降伏。その際に諸葛亮から才を賞賛されている。
 その後、諸葛亮の北伐に従軍して功績を挙げ昇進を続け、諸葛亮の死後には蜀の軍事の中枢を担うよう。やがて姜維は諸葛亮の遺志を継ぐべく再び北伐。この時は西方の異民族・羌族と協力して侵攻する計画であったが、大将軍・費禕は情勢の不利を理由に出兵の自重を求めていた。
 費禕が暗殺された後には唯一の軍指導者となりしばしば北伐を敢行。254年には魏の三県を制圧し翌年には洮水で数万の敵兵を討ち取る大戦果を挙げ大将軍に任じられた。しかし256年に魏の名将・鄧艾に大敗。その後も鄧艾と繰り返し戦う。
 263年、魏が鄧艾と鍾会を大将として蜀に攻め入ると剣閣に篭って抵抗したが、鄧艾の成都攻略で劉禅が降伏したのを受けて鍾会に降伏。この時、姜維は鄧艾の功績を妬む鍾会をそそのかし鄧艾と争わせる。その間隙を突いて劉禅を奉じて蜀を復興させる計画であったが、鄧艾の部下が反乱を起こしたため失敗し殺された。

 姜維は、若い時には大きな功績を挙げる事を望んで侠客の面倒を見ており、正業には就かなかったといわれています。今の感覚で言えば、「いずれでっかいことをする」とかいいつつ不良たちとつるんでグループを作りブラブラしていたということでしょうか。漢末の大学者・鄭玄の学問を好んでいたと言いますから、教養はあったのでしょうが。
 蜀に仕えるようになってからも自分の才を強く恃んでいたようですし、周囲の人物を歯に衣着せず批判を繰り返し諸葛亮に庶民に落とされた廖立を訪ねた際にはその気質・発言が変わっていない事を賞賛し、学識に優れていたが問題発言や奇行の多い来敏を高く評価したともいいますから、自分の才能に自信を持ち侠気に溢れ反権威的な性格が強かったのは事実のようです。
 その姿は、若い頃の劉備を彷彿とさせます。やっぱりヤンキーの親玉ですね。現代的に考えれば、「喧嘩上等」「夜露死苦」といった類の文言を背に書いた長い上着を身にまとい、子分から「総長」とか呼ばれている姿が眼に浮かびます(漫画的で古いイメージですが)。

 そんな姜維も父親の功績が考慮されて出仕し、降伏した敵国の大将に気に入られて活躍の場を得ることになります。そういえば諸葛亮も若い頃は「俺はビッグになる」と嘯きつつ引きこもるという胡散臭さ満点の困った人でした。類は友を呼ぶということでしょうか。要するに、彼の場合はコネで出仕し更に転職先の上司と馬が合ったという事ですな。…成功するにはコネは不可欠のようですね。逆に言えば、コネと才能があれば元ヤンキーだって出世は可能なわけです。

まとめ
 それにしても、建国者の劉備に始まって、引き継いで国家を指導した諸葛亮、更には彼らの漢復興の夢を追った姜維に至るまで、蜀は元ニートやら元ヤンキーやらに引っ張られた国家だったんですね。何だかなあ。

参考文献
正史三国志5蜀書 陳寿 井波律子訳 ちくま学芸文庫


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