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引きこもりニート列伝その5・偉大なるダメ人間シリーズその6 足利尊氏  NF


 引きこもりニート列伝その5 偉大なるダメ人間シリーズその6 足利尊氏(1305〜1358)

 今回は、後醍醐天皇と対立して足利政権を樹立し、史上最大の逆賊とも史上屈指の有徳の英雄とも評される足利尊氏について。彼については以前にレジュメを作ったので詳細はそちらを読んでください。前のレジュメにも少し触れた内容ではありますが、彼の性格的な面を中心にこのレジュメでは述べていきます。その前に恒例の略歴から。

略歴
 生没年は1305〜58。足利政権初代将軍。在職1338〜58年。初名は高氏。貞氏の子で、母は上杉清子。足利氏は清和源氏の名門で、幕府では最も有力な御家人の一人であり、当主は代々北条市と婚姻関係を結んでいた。高氏も、妻の赤橋登子は鎌倉幕府執権赤橋守時の妹にあたる。しかし長期にわたり北条氏の下風に立ちその圧迫を感じていたと思われる。そのため、足利氏にはかねてより源氏再興の志があり高氏はそうした中で成長している。
 1331年の元弘の乱では幕府軍の大将のひとりとして上洛したが、1333年には二度目の上洛の際、篠村八幡宮(京都府亀岡市)で鎌倉幕府に反旗を翻し、討幕軍の主力となって六波羅探題を討った。
 後醍醐天皇の建武政権が樹立されると第一の功臣として参議・武蔵守となり、天皇の名の尊治から一字を賜り尊氏と改名したが、建武政権の中枢には参画せず一歩引き「尊氏なし」と畏怖された(ただし高師直ら配下の人間で参画した物は少なからずおり政権内での影響力は侮れないものであった)。また弟の直義が鎌倉将軍府の後見となっており事実上関東を掌握していたのである。
 1335年に直義を救援し中先代の乱を鎮圧するために勅許を待たず鎌倉へ向かい、乱を平定した後も後醍醐天皇の帰京命令を無視して鎌倉に留まり独自に論功行賞を実施。それに対し朝廷は新田義貞を将として尊氏追討軍を送る。これを箱根竹ノ下で破り、翌年には義貞軍を追い入京したが、間もなく北畠顕家らに破れ九州に逃れた。九州では多々良浜にて劣勢ながらも菊池氏の大軍を破り再上洛、湊川で義貞・楠木正成らを破り入京。光明天皇を擁立して(北朝)建武式目を発表し、足利政権樹立を宣言した。この年末には後醍醐天皇は吉野に逃れ(南朝)、以後の戦乱は南北朝の動乱と呼ばれる。
 1338年には義貞の戦死を受け征夷大将軍に任じられ、名実ともに足利政権が整う。この頃、義貞の他に北畠顕家があいついで戦死しており、翌年には後醍醐天皇も没したため、足利政権は順調に進展するかにみえた。尊氏は軍事動員や論功行賞を、直義は一般政務を担当し適材適所で運営されていたようである。しかし、商工業を背景に台頭した新興豪族に支持された執事の高師直と保守的な秩序維持を志向し従来の名門武家に支えられた弟直義の対立が深刻化、1350年に観応の擾乱が勃発した。この内部抗争は、1352年直義を殺しておさまったが、その後も直義養子の直冬(実父は尊氏)や南朝方と結んだ旧直義派武将の反抗が続き、またその中で息を吹き返した南朝との戦いの中で病死。法号は等持院仁山妙義、鎌倉では長寿寺殿という。禅僧の夢窓疎石に帰依し、後醍醐天皇の菩提を弔うため京都に天竜寺を建立、直義とともに戦没者の慰霊のため全国に安国寺・利生塔を建てている。

尊氏の性格
 さて、尊氏の性格については、夢窓疎石の有名な評があります。尊氏には仁徳のほかに、戦場にあって怯まない心の強さ、敵を憎まない慈悲の深さ、物惜しみしない度量の広さ、の3つ大きな徳があったというものです。

 しかし、実際の尊氏の心理と行動はそう単純に美化してしまえるものではないようです。
 建武政権に背く際にも、勝手に東上・論功行賞を行いすでに謀反として後戻りができない段階になったにもかかわらず、天皇に刃向かうことを忌み出家して世を捨てようと試みて寺に篭ってしまい、直義一人で新田軍を迎え撃たざるを得なくなり緒戦で大敗するという事態が起こっています。
 更には、光明天皇を擁立し政権を樹立した直後という得意絶頂と思われる時期でさえ、清水寺に「この世は夢のように儚い。この世の果報は全て弟直義に与えてほしい、自分にはただ来世での安寧を授けてほしい」と願った祈願文を奉納しています。
 同じ時期の話になりますが、尊氏が政務を顧みず田楽に熱中しているのを直義が諫めた際、尊氏は「政務は全てお前達に任せてある。自分は人生半ばを過ぎたのであるから、後は楽しんで過ごしたい」と答えました。それに対し直義は「細事は自分たちがやりますので、将軍は日を決めて田楽を御覧になり、大事については決済していただきたい」と願い出たため尊氏もその通りにしたそうです。
 権力欲に乏しいと言うと良く聞こえますが、優柔不断で覇気に乏しいと見ることも出来そうです。特に、最後の逸話に関しては、まるで「ゲームは一日一時間まで」と約束させられている一昔前の小学生と同レベルにも思える話で、三十路を越えた一人前の男性、それも一国の頂点に立つ人物のそれとは思えません。

 後醍醐が足利軍の監視下から吉野へと脱出した事が判明した際も、血相を変える直義らを余所に、尊氏は「正直、今後後醍醐院の待遇について思い悩んでいたところであった。島流しにするわけに行かず、玉体に何かあれば有らぬ疑いをも掛けられる。自らの御意志で脱出されたのなら我らに責任はない。最終的には落ち着くところに落ち着くであろう」と落ち着き払って述べたといいます。武将達は尊氏の度量に感銘を受けたといいますが、これも、後醍醐の脱出が60年近くにわたる内乱という結果となる事を考えれば、見ようによっては他人事で投げ遣りな態度と言えます。

 また、多々良浜など大軍を目の前にした際の戦いの直前や敗北した直後、時には合戦最中の一時的劣勢に置いてさえ意気消沈して切腹を図り直義や側近らにとどめられることが再三ならず記録されています。前述の夢窓国師が述べた姿とは大きく異なっており、佐藤進一氏のように尊氏が躁鬱気質である可能性を指摘する学者も存在します。その説の当否はともかく、この逸話からも尊氏の粘りのなさ・覇気の欠如を読み取ることが出来るかと思います。

 ここの逸話だけでなく尊氏の人生全体を概観して考慮しても、人生の岐路となる場合にはいつも弟の直義に諫められ決心しています。また、後年の師直と直義との争いの際にも、尊氏はそれを処断したり仲介したりするより、傍観者として局外中立であろうとした節があります(一方、上手く利用して自分の子・義詮を後継者にしたとの見方もありますが)。政治指導者として見ても、尊氏自身が積極的に決断し構想を描いたことはほとんど無く、基本的にその時々の状況に対応していた感があります。

 夢窓疎石の評価や後世の逆賊としての指弾などから得られる先入観を除外して尊氏を見ると、温順・善良だが優柔不断で覇気に乏しい、ともすれば意志薄弱気味の人物像が浮かび上がってきます(一方で内弁慶でもあったようですが)。もし現代に生まれていたら、引きこもりになっていたんじゃないかと思わされますね。事実、尊氏自身も何度か世の中に背を向けて自分の世界に篭ろうとしています。

 しかし、尊氏の生まれついた場所は、日本有数の名門の当主。すなわち多くの家臣を養わねばならず、乱世においては事あれば上からは警戒され下からは担ぎ出される位置。自身や家臣が生き残るためは戦いに勝ち残らざるを得ず、引きこもることなどとても許されませんでした。なので、直義や側近たちも必死で尊氏を引っ張り出さねばなりませんでした。直義は兄とは異なり軍事的才能は乏しかったので尚更です。かくして、引きこもり予備軍であった尊氏も、引くに引けない環境にあった事と、周囲が見捨てず(見捨てられず)上手く宥めすかして引っ張り出した事で、その才能が引き出される結果になったと言えるでしょう。家臣たちにとっては頭痛の種だったに違いありませんが。

 そんな尊氏ですが、同時代の武将たちに対しては不思議なカリスマ性があり、物欲の乏しさに伴う気前のよさや一旦敵に回ったものも許す寛容さもあって人気は高かったと言えます。乱世にあって、自分の権益を守ろうとする者や勢力を拡大しようとする者が数多く、誰もが欲望をギラギラさせている感がある時代。高貴な家に生まれ、人々に担がれ天下人を目指す身で、当代屈指の名将でありながら、執着なく淡白でどこか浮世離れした雰囲気を漂わせていたであろう尊氏は、当時の人々にとって新鮮で魅力的に映ったのかもしれません。

まとめ
 足利尊氏は軍事的才能は豊かで大局観にも優れ性質も善良であるが、内弁慶・優柔不断・意志薄弱気味で覇気に乏しいヘタレ男。一つ間違えば引きこもり・ニートの道を歩んだ可能性も強い引きこもり予備軍。にもかかわらず多くの同時代人を魅了し不思議な人気があった点は、中国三国時代の劉備や「水滸伝」の宋江、更にはラブコメの主人公をも彷彿とさせるものがあります。

参考文献
拙稿「足利尊氏」(http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2001/010511.html)
足利尊氏 高柳光寿著 春秋社
足利尊氏 山路愛山著 岩波文庫
足利ノ尊氏 中村直勝 アテネ新書
南北朝時代史 田中義成 講談社学術文庫
日本古典文学大系太平記 一〜三 岩波書店   
http://homepage1.nifty.com/sira/より「梅松論」
日本の歴史9南北朝の動乱 佐藤進一著 中公文庫  
帝王後醍醐 村松剛 中央公論社
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