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引きこもりニート列伝その4 張良・韓信・陳平  NF


 引きこもりニート列伝4 張良 (?〜前186年)・韓信(?〜前196年)・陳平(?〜前178年)

 今回は、中国古代において前漢・後漢合わせて400年の統一を維持した漢王朝創立期に活躍した功臣三人を取り上げます。彼らの主君である劉邦もニートっぽいんですが、彼については別の機会に扱おうかと思います。

張良
 まずは略歴を述べておきます。

 秦末期・前漢初期の謀将。字は子房。諡は文成。劉邦に仕えて多くの策戦を立案し、劉邦の覇業を大きく助けた。蕭何・韓信と共に劉邦配下の三傑とされる。劉邦より留(江蘇省徐州市沛県の東南)に領地を授かったので留侯とも呼ばれる。
 代々韓の宰相を務めた家系であったが、父が死んでから秦が韓を滅ぼした。張良は復讐を誓い、全財産を売り払って復讐の資金とし始皇帝暗殺を目論んだが、失敗に終わったため逃亡し偽名を使って下邳に隠れた。
 下邳隠遁期に黄石公が張良に太公望の兵法書を授けたという伝説があるが、実際この時期に張良が兵法を学んだという事は考えられる。
 陳勝・呉広の乱が起こると、張良も挙兵し劉邦に合流。劉邦が項梁の傘下に入り一方の軍を任され項梁が旗頭として楚王家の末裔を懐王(後の義帝)として擁立すると、張良は韓の公子・成を韓王に立て申徒となった。そして劉邦の兵力を得て韓を再興した後、張良は劉邦に従って秦へと攻め上り、関中に入り秦王の子嬰の降伏を受けて秦の首都咸陽に入城した。
 東で秦の大軍を打ち破り函谷関に迫っていた項羽は、既に劉邦が関中に入り関中の王のようにしているのを見て激怒し、軍を進め劉邦を攻め殺そうとした。この際、旧友の項伯(項羽の叔父)にとりなさせて項羽と劉邦を会談させ(鴻門の会)、ここで命を狙われた劉邦を機転で救っている。
 その後、劉邦が巴蜀・漢中の王となった後は張良は韓王成の下へ戻るが、項羽が韓王成を殺害したために張良は劉邦に仕えた。その後の項羽との戦いでは、滎陽での包囲戦の途中で酈食其が六国の子孫を諸侯に封じるよう説いた際に反対する、紀元203年に劉邦と項羽が広武山で対陣し和睦した時に退却する項羽軍の後方を襲うように進言する、応援にやって来ない韓信と彭越に多大な恩賞の約束をする事で来援させるなど多くの献策をしている。
 項羽を滅ぼした劉邦が皇帝に即位し論功行賞を行った際には、「謀を帷幄のなかにめぐらし、千里の外に勝利を決した」と言わしめている。この時、3万戸を領地として斉の国内の好きな所に選べといわれたが、張良は辞退して留侯となった。
 その後も、不満を持った家臣たちの謀反を防ぐため功績はあるが劉邦が一番憎んでいることが知られている雍歯に先に恩賞を与えること、長安に遷都する事などを献策し前漢政権の確立に貢献した。
 また、劉邦の愛妾・戚氏がその子・劉如意を皇太子にしようと画策し始めた際には皇太子・劉盈(恵帝)とその母・呂后に劉邦が度々招聘に失敗した高名な学者達を劉盈の師として招くように助言し、皇太子の地位を守っている。
 体制が確立されて以後は家に籠り穀物を絶って、神仙になろうとしたという。紀元前195年に高祖が死去し、その9年後の紀元前186年に死去した。

 始皇帝暗殺失敗後に世間から隠れすごしていたのはお尋ね者として役人の目を逃れる目的があったための一時的なものであったため、これをもってニートとするのは適切ではないかもしれません。しかし同時期に秦から警戒されお尋ね者であった張耳・陳余が村の門番に身をやつしていたことを考えると必ずしも隠遁を選ぶ必要はなかったとも言えます。漢成立後に再び隠遁し仙人になろうと目論んでいることも考えに入れると、少なくとも世間を忌んでの脱俗志向は強く存在したと言えるのでないでしょうか。黄石公から兵法を授かるといった伝説も彼のそうした傾向を反映して生まれたと考えられ、早い段階から神仙への憧れが強かったとも思われます。そう考えると、若き日の隠遁もニート的な側面があった可能性は十分あります。韓滅亡時に20歳を過ぎていたにもかかわらず仕官していなかったと推定される事からも、韓が安泰であれば安逸な生活を選んだ可能性も考えられます。
 韓の宰相の家系に生まれ、整った容貌を持ち、希代の智謀を備えた張良は仇敵・秦の天下が揺らぎさえすれば世に認められるのは困難ではないと言えます。あとは本人が世にでる意欲をもつばかり。
 本来は脱俗志向の張良ですが、祖国韓への愛情が復讐・祖国復興・項羽への敵対へと駆り立て、劉邦との情誼が前漢王朝確立への貢献に導いたと考えられます。逆境の祖国への愛情と上司との運命的な出会い、つまり愛着の心がニート予備軍の青年を世俗へと引っ張り出す原動力になったわけですかね。

韓信
 まずは、略歴です。

 中国秦末から前漢初期にかけての武将。劉邦の元で数々の戦いに勝利し、劉邦の覇権を決定付けた。張良・蕭何と共に劉邦配下三傑とされる。中国のみならず世界史上の名将として名高い。
 淮陰の出身。貧乏で品行も悪かったために職に着けず、商売も出来なかったので人に食わせてもらう毎日を過ごしていた。町の野犬狩に「お前はいつも剣を帯びているが、実際には臆病者に違いない。その剣で俺を刺してみろ。出来ないならば俺の股をくぐれ」と挑発された際に股をくぐり周囲に笑われたのはこの時期の逸話である。
 秦の始皇帝の没後、陳勝・呉広の挙兵を機に各地で反乱が起こると韓信は項梁・項羽に仕え、度々進言するも用いられることはなかった。秦の滅亡後、韓信は項羽の下から離れ漢王劉邦の元へと移るが重用されず、劉邦の重臣の夏侯嬰・蕭何に売り込み彼らも韓信を何度も推薦するが劉邦は受け付けなかった。やがて韓信が見切りをつけて逃亡し、蕭何は無断でこれを追いかけて留め改めて韓信を国士無双として強く劉邦に推薦。これに対して劉邦も韓信を大将軍に抜擢した。
 韓信はこの待遇に応え、項羽は情があり勇敢だが部下を重んじず恩賞を与えない、関中の王は20万の兵士を見殺しにした秦の元将軍達であり人心はついておらず関中はたやすく落ちると見通しを語った上で、厳しい軍律で信賞必罰の体勢を作り、訓練を重ね精兵を育てた。
 劉邦の関中攻略においては韓信はその兵を率い、あっという間に平定し劉邦を関中に迎えた。
 その後劉邦は、各地で斉を始め項羽に反発する諸侯の反乱が相次ぎ項羽自身が対応に手を焼いていた隙を突いて、諸侯と連合し自ら大軍で項羽の本拠地・彭城を陥落させるが、引き返して来た項羽に大敗し、榮陽に逃走。この時、韓信は兵をまとめて追撃してきた楚軍を迎撃し劉邦の撤退を助けた。
 以降、韓信は劉邦と別働軍を率い、魏・代・趙を平定。「背水の陣」で趙の大軍を打ち破った(井陘の戦い)のはこの時である。続いて、燕に対して使者を送って降伏させた。
 次に劉邦の命令により斉を平定する準備をしていた際、劉邦が酈食其を派遣して斉と和議を結んだ。韓信はこれを聞き軍を止めようとしたが、弁士・蒯通から未だ中止命令は出ていない事、このままでは弁舌で斉を降した酈食其より功績が劣る事を説かれそのまま斉に侵攻。怒った斉王の田広は酈食其を煮殺して逃亡した。楚からの援軍・竜且を撃破し斉を平定。劉邦に対して斉の仮王となりたいと申請、劉邦は苦々しく思いながらも斉王となる事を許可した。
 この時、項羽も韓信を恐れ武渉を派遣し同盟を申し込んだが断っている。また蒯通から漢・楚と天下を三分して天下を狙う事を進言されたがこれも断っている。
 その後、韓信は項羽との決戦に参戦、漢軍の指揮を執り垓下に楚軍を追い詰め項羽を滅ぼし楚漢戦争は終結した(垓下の戦い)。
 その後、劉邦は韓信を警戒して斉王から楚王へと移し、韓信が項羽の将軍・鐘離昧を匿ったことや謀反の疑いを讒言するものがいたのをきっかけに韓信を捕縛、韓信を淮陰侯に格下げした。韓信はそれ以降、長安の屋敷で鬱屈し、韓信崇拝者であった陳豨に任地の鉅鹿で挙兵するよう煽り、劉邦が鎮圧に向かった隙に長安を掌握する計画を立てた。だが、密告により発覚、捕えられ処刑された。

 韓信は若い頃は貧乏で素行が悪く、また働いて身を立てることも出来なませんでした。この頃の韓信はその日の食事にも事欠いていたようで、淮陰郡南昌の亭長の家に食事の厄介になっていたがそのうちに嫌がられ亭長夫婦は韓信の目に付かないよう早い時間に飯を炊き寝室で食事するようになったとか、腹をすかした韓信を見かねて綿打ちの老婆が自分の昼食を恵んだとか、聞いているだけでこちらが泣けてくる逸話が残っています。
 この老婆に韓信が感謝していつかお礼をするといった時も「一人前の男の癖に自分の口すぎもできないで。わたしはにいさんがきのどくだから、食事をあげたのさ。お礼なんぞあてにするものかね」と逆に怒られる始末です。しかしながら剣は手放さず下げている。
 周囲から見れば、大きな図体をしているくせに働きもせずあちこちから食事をたかってるダメ男、そのくせ変に気位が高い、その割に脅されるとあっさり屈する根性なし、といった所でしょうか。無名時代の韓信には同時代から見ると弁護の余地なしです。これでは軽蔑するなという方が難しいのかもしれません。まあ韓信の才能は軍事に特化していると言えるので、平和な時代に庶民として暮らしていては発揮する機会がそもそもありません。秦の天下が仮に長く続いていたら、そのまま野垂れ死にしたのではないでしょうか。
 そんな韓信が名を上げ成功できたのは乱世の到来という時期を得た事、人材不足に悩む所に行き幹部に売り込んだ事、その幹部に見る眼があった事という条件が重なったといえます。幸運とそれを捉えてのアピール、要約するとそういう事でしょう。
 韓信は最期は警戒され悲劇でしたが、下手すればダメ男と嘲笑されたまま野垂れ死にの可能性も強かったことを考えれば十分幸せな生涯だったといえるかもしれませんね。

陳平
 こちらも、略歴から述べます。

 中国秦末から前漢初期にかけての政治家・軍師。陽武戸版(現在の河南省原陽県)の人。字は仲。当初は魏咎・項羽などに仕官するものの最終的には劉邦に仕え、項羽との戦い(楚漢戦争)の中で危機に陥る劉邦を、さまざまな献策で救った。その後、丞相となり呂氏一族を滅ぼして劉氏の政権を守った。
 陽武の貧しい農家に生まれ、若いときは兄・陳伯の元で勉学に励んでいた。
 地元の有力者・張氏の孫娘が結婚した相手が全員早死にし誰も嫁にしたがらなかったのを利用し葬儀屋の仕事を手伝い、その勤勉さが張氏の耳に触れるようにして張氏の興味を引き、孫娘を嫁とした。陳平はその持参金を元手に知人を増やし交際を広めた。
 陳勝・呉広の乱が勃発すると、魏咎に仕えるようになるが、進言を聞いてもらえず次に項羽に仕える。謀反を起こした殷王・司馬卬を降伏させた功績で都尉となったが、司馬卬が劉邦に降ったため、項羽の怒りを恐れて再び出奔し劉邦に降った。劉邦も同じく都尉に任じ諸将の抗議にかかわらず重用した。
 劉邦が項羽に追われ滎陽城に籠城した際、陳平は、項羽が疑り深い性格であるため部下との離間が可能と進言し、大金を投じて范増ら項羽の重臣たちが謀反を企てているとの噂を項羽軍に流し込み項羽は疑心暗鬼となった。結果、范増は項羽に亜父と称され厚く信頼されていたにも係わらず失脚し憤死。
その後も韓信が斉王を名乗ろうと願い出た際に劉邦を説得、項羽と和議を結んだ際に和議を破り項羽軍に攻め込む事を進言し、漢の勝利に貢献した。
 前漢成立後も、劉邦が匈奴討伐で冒頓単于により白登山で包囲された時に冒頓単于の閼氏(皇后)に漢の美女が単于に献上され地位が危なくなると吹き込んで和睦を成功させたりしている。
 劉邦死後の呂后専権時代には左丞相、後に右丞相となった。この間は酒と女に溺れ骨抜きになったふりをして警戒を避け、呂后の死去を機として周勃と結び呂氏から軍権を奪い呂氏のクーデターを鎮圧、呂氏を皆殺しにして文帝を立てた。その後まもなく引退したが、周勃と文帝に乞われて再び右丞相となった。紀元前179年、死去した。

 陳平は、若い頃は学問をしていたといえば聞こえはいいですが、要するに貧しい農家だというのに家の手伝いをするでもなく小役人などの手近な仕事に就くでもなく、兄を働かせて無為徒食していた訳です。兄は陳平の才能に期待してそれに甘んじていたそうですが、一説ではその兄嫁とも密通していたという話もあり事実なら何とも恩知らずな話です。大志を抱いて安売りはしないといえば立派に聞こえますが、「俺はビッグになるぜ」とか世迷言を言って正業に就かず当てもなく夢を追っているのとどう違うというのでしょうか。
 しかし、上手く有力者とコネを作り、それをきっかけに更にコネを広げた手腕はなかなか見事です。
そして乱世になると水を得た魚のように「勝ち組」まっしぐら。コネと機会、更にこの二つを得るための運と見逃さない眼力。人生、タイミングとコネと眼力ってことですかね、結局。


おわりに
 漢帝国創業時の幹部の面子は劉邦の同郷者や元盗賊からなっていた事は有名ですが、これにもう一つ(劉邦本人を筆頭に)元ニートも一大勢力だったわけですね。…蕭何・曹参といった常識人・官僚の苦労が忍ばれますな。

参考文献
史記世家(下) 小川環樹・今鷹真・福島吉彦訳 岩波文庫
史記列伝(三) 小川環樹・今鷹真・福島吉彦訳 岩波文庫


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