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引きこもりニート列伝その1 陶淵明(365〜427)  NF


引きこもりニート列伝 陶淵明(365〜427) 
 今回は、中国において代表的な隠遁者にして大詩人と言われる陶淵明を取り上げます。一般的に知られている彼の略歴については以下の通りです。

 中国の東晋・宋時代における田園詩人。淵明は本名とも字ともいうが未詳。一説では名を潜、字を元亮とする説もあり、生年にも異説がある。潯陽柴桑(江西省)の人。何度か仕官を繰り返すが、束縛の多い官僚生活を嫌い彭沢の県令を最後に故郷に隠遁した。その際の「帰去来辞」、菊と酒を愛する悠々自適の生活をよんだ「園田の居に帰る」5首、「飲酒」20首は中国における田園詩の傑作とされる。理想郷を描いた「桃花源記」や自叙伝とも言われる「五柳先生伝」の作者としても有名である。その作品は「陶淵明集」に纏められている。

 清貧な隠者にして偉大な詩人であったとされる彼の先入観を離れた実像について、以下でおいおい検討していくことにします。

 392年、陶淵明は江州の祭酒(教育長官)として仕官しますが、短期間で辞任して郷里に帰ってしまいます。本人によれば、官僚生活が水に合わなかったためであり、そもそも仕官したのも家庭の貧困から気が進まないながら止むを得なかったと言う事です。しかし、当時を省みて彼は「少き時 壮にして且つ蠣(虫冠を除く)」(若いときは意気盛んで、しかも気性も激しかった)と述べており、二度目の仕官の際にも「策を投ててシン(日の下に辰)装を命じ」(田園生活に用いる杖を投げ出して早朝から旅支度をさせ)とあるように、青壮年期には年齢相応に野心的であったらしく必ずしも心ならずの仕官ではなかったようです。また詩文・琴など貴族として必要な教養を身に着けることが可能な家庭であったことや環境が合わないからと辞任帰郷する事が許されたことから家庭の貧困は少なくとも深刻なものでなく、生活するうえでは余裕があったと思われます。数年後に江州主簿の誘いがあった際に断っている事もこれを裏づけており、少なくとも仕事を選べる状況にあったことが分かります。ここから考えれば、人並みの出世欲・栄達心を抱いて出仕したはよいが、一般社会で社会人として生活することの辛さに耐えられず帰郷してしまったという疑惑が生じるのです。
 399年には劉牢之の率いる北府軍団に参軍(参謀)として参加。当時、北府軍団は最大軍閥であり桓温の反乱を鎮圧した直後と言うこともあり東晋朝廷から重用されて飛ぶ鳥を落す勢いでした。高級官僚が華北から逃れてきた名門貴族により占められていたこの時代、現地豪族出身であった陶淵明にとって、軍人は立身出世を図る上で最も確実性の高い道だったのです(彼の曽祖父は数多くの内乱を鎮圧し名将と謳われた陶侃で、外祖父の孟嘉も将軍として成功)。彼の選択は、名を挙げ栄達を果たす上で最も合理的なものであったといえます。前述の詩句での意気揚々とした様子も肯けるというものです。しかし翌年の5月には早くも辞任・帰郷。この当時、首都建康周辺は孫恩の乱に巻き込まれ危機的な状況にありました。前年末には北府軍団の活躍もあり一旦撃退された孫恩が再度反攻にうつり、周辺の州郡が荒らされていました。陶淵明の所属する北府軍団はそれに対処する責任があったのです。そうした国家的危機においての辞任…。反乱軍の強勢により職務も多忙過酷となり、身辺の危険も増大したため敵前逃亡した可能性が浮かび上がります。また、それをこうした情勢で北府軍団もあっさりと認めていることから、参謀・軍人として有用とはいえない存在だったとも推定されるのです。
 401年、今度は西府軍団の桓玄の幕下として仕官。西府軍団は北府軍団と並び証される東晋の大軍閥で、桓玄は前述した帝位簒奪を目論み劉牢之に鎮圧された桓温の子でした。帰順し罪を許されていました(要は西府軍団を完全に倒す力が東晋政府になかった)が孫恩の乱に乗じて東晋支配領域の三分の二を支配下に置き父以来の悲願である簒奪を目指し虎視眈々と中央進出を狙っていたのです。いわば北府軍団・劉牢之にとっては仇敵で朝廷にとっては謀反予備軍といえる存在でした。当時の陶淵明の出処進退はその時々の最有力者に仕えるというもので、道義とは無関係のドライなものといえます。沈約が「宋書」隠逸伝で陶淵明を「弱年のころは薄き官にして、去就の迹を潔くせず」と評していますが、的確な視点と言わねばならないでしょう。間もなく、陶淵明は母の死により帰郷し三年の喪に服していますが、その間に桓玄は挙兵し都に入り劉牢之を殺害。皇帝を僭称しますが、劉牢之の部下であった劉裕により敗北し命を落としています。
 この戦乱には巻き込まれなかった陶淵明ですが、中央の軍事・政治に参与する怖さが身に染みたのか、その後は郷里付近の現地に密着した地方官に絞って仕官することになります。例えば404年には江州刺史・劉敬宜(劉牢之の子)の下で参謀を務めています。繰り返すまでもありませんが、劉敬宜にとっては桓玄は父の仇であり、父の下から桓玄配下に転身した陶淵明は、見方によっては裏切者であり仇の片割れといえます。そうした人物に何食わぬ顔で仕える陶淵明の厚顔さを見ることも出来ますが、また劉敬宜がそれを特に問題にせず受け入れた事も注目されます。その理由は彼が地元の名士であるためだけでなく仇敵としては取るに足りない存在でしかなかったためとも解釈できるのです。
 翌405年8月には彭沢県令に任官。本人の回想に寄れば、任地が郷里から近く公田からの収入で酒を作ることも出来るためこの職に就いたということです。同年11月には早くも辞任して帰郷、それ以降は二度と仕官することはありませんでした。
 辞任の理由として、妹が亡くなったため喪に服す目的であったと陶淵明は「帰去来辞」序文で述べています。しかし「帰去来辞」などの当時の詩文からは嫌な宮仕えから解放された喜びが溢れているか、志破れ郷里に帰る無念を述べたものばかりで近親者の死の悲しみをうかがわせるものはありません。この時点での自然な感情であるのみならず、詩文の題材としても格好であるにもかかわらずです。こうしたことから妹への服喪を肌に合わない公務から退く口実として利用したと見ることも出来ます。
 なお、「宋書」隠逸伝には辞任への経過として異説を掲載しています。州からの監察官が巡察にやってくる際、陶淵明は「我、五斗米の為に、腰を折りて郷里の小人に向かうこと能はず」(俺は、わずかばかりの給料の為に、プライドを捨てて同郷のつまらない奴に頭を下げることなど出来ない)と言い捨て辞任したと言います。一見、小気味のよい逸話ですが、事実ならば社会人としては失格と言わざるを得ません。またこうした振る舞いをすれば懲戒され庶民に落とされ一切の特権を失うことになる。そうした危険な行動を好んでするとも思えず、後世の詩文でも旧官僚に与えられる「門人」が依然としていたことが伺えることからも、この話のすべてが真実とは思われません。ただ、当時は不穏な政情から地方の人士を積極的に取り立てる方針が採られており身分の低い豪族出身の軍人が多数台頭するなど実力主義の傾向が見られた時代でした。陶淵明が登用されたのもそうした潮流の中で現地の名士と評価されたためだったのですが、実力主義の中で「成り上がり者」に頭を下げる屈辱を数多く味わうことに耐えられなくなったのではないでしょうか。
 それにしても時は収穫を終えた11月。わずか3ヶ月の勤務で給与をちゃっかりと手に入れた上での辞任でした。これに関して言えば、「宋書」隠逸伝によれば県令になった際に公田に酒を作るための米だけを当初植えたが、妻子の抗議を受け一部を食用にまわしたといいます。任官したのが8月なので事実とは考えられませんが、給与の使い道に関して妻子と同様な意見の対立があった可能性はあります。こうして陶淵明の出仕・辞任を繰り返す時代は終わりを告げました。彼自身も「少きより俗に適の韻なく 性本よりキュウ(おおざとに丘)山を愛せり」と述べていますが、社会への適合を欠いていたのは否めない事実だったのではないでしょうか。
 
 隠遁した当初は郷里で先祖伝来の農園を経営していました。残された詩文でからは自ら小作人たちを監督したり時には自身も耕作に従事した事が知られ比較的小規模な農園であったと思われます。数年はこうして比較的安定した隠遁生活をしていましたが、数年後には火災で住居が焼けたのをきっかけに潯陽近郊の文化人たちが多く居住する地域に居を移す事になります。当時は、江州刺史の王弘に代表されるように数多くの高級官僚と詩の贈答を行っています。王弘は陶淵明の隠者・文人としての名が高いことを聞き交際を求め、陶淵明の友人の仲介を経て親交を結ぶようになったといいます。中国には古来より世俗を否定し無為自然を尊ぶ思想の影響もあり、隠者が社会的に敬意をもたれていましたが、当時は老荘思想・西域から伝来した仏教が盛んなこともありそうした傾向が特に顕著でした。陶淵明が転居した理由は不明ですが、こうした知識人との交流を通じて田園生活では得られなかった都会的・知的な刺激を求めた、隠者・文人としての名声を求めたと見ることも出来ます。
 都市部へ移住した頃より、農園経営時代の曲がりなりにも安定した生活とは変わって徐々に経済的困窮が忍び寄るようになりました。隠遁直後には詩文からも物質的に比較的余裕がある様子が伺われましたが、飢えや寒さなど深刻な困窮を詠み込む作品が増えるようになります。陶淵明はある時には清廉な志を歌う一方で、別の詩では少々の辱めにも構わず施しを受け命を繋ぐことの大事さを述べています。餓死をも辞さない清貧を志向すると思えば、貧窮の中で何とか餓死を避けようと施しを乞う。清貧・隠遁に関しての見通しや覚悟が甘いのは否めないと言えましょう。隠遁者の中には施し・援助を受けることを潔しとせず餓死を選んだものも少なからず知られており、陶淵明自身もその詩で彼らを称え自らをなぞらえていることを考えれば尚更です。また、「怨詩 楚調」で高官にあてて自分の貧窮を訴え鍾子期と伯牙の友情を引き合いに出し、生活物資の援助を求めています。そして「胡西曹に和し顧賊曹に示す」では酒がなく季節の興趣を楽しめない悲しみを詠み暗に酒をねだっています。
陶淵明は文人との交際を通じて、生活のためのパトロンを求めるようになっていたのです。前述の王弘は彼との親交の中できめ細かくその生活の面倒を見たといわれます。こうして陶淵明は知識人官僚との交際を通じ物質的援助と後世への名声の両方を確保したのです。
 陶淵明の死生観・名利観も時によって揺れ動いたようです。ある時には達観した死生観や名利に拘る事の愚かさを詠んだかと思えば、別の時には迫り来る死の恐怖に慄き死後の名声を気にかける。脱俗を志向しながらも、世俗の価値観に縛られていた姿が見て取れます。
 陶淵明は427年に死去しましたが、生前から「自ら祭る文」や自らのための「挽歌」3首を用意しており、これは少なくも当時では異例な事でした。また、無欲恬淡な隠者の姿を描いた自叙伝「五柳先生伝」を著しており、これらは死後の名声のための配慮と見ることが自然でしょう。

まとめ
 陶淵明は清廉な隠者として同時代・後世から高く評価されています。しかし、実際には青年期は立身出世を夢み、仕官しては身勝手・無節操ともいえる態度で辞任・再仕官を繰り返していました。また隠遁後も有力者に保護を求めたり隠者・文人といて名声を上げることを望んでいました。平静には世俗の名利からの開放や達観した死生観、清貧の志を高く謳い上げていますが、実際問題として困窮した際には何とか餓死を免れようと名士たちに助けを請い、老いては死を恐れ後世の名声を気にする詩を残しており、人生観の振幅が激しい人物でした。

結論。陶淵明は官人として無能、自己中で御都合主義な俗物。社会不適応者で引きこもりニート。

※「ニート」とは、定義としては学生でも働いてもいない比較的若年の人間を指します(英国では16〜18歳、日本では16〜34歳)。その定義からすれば厳密には陶淵明は「ニート」と呼ぶのは不適切ということになりますが、まあ厳密なことは勘弁してください。

おわりに
 別に陶淵明に含むところがあるわけじゃないんだけどね…。しかし、森鴎外といい、石川啄木といい、文学作品の質と本人の人間としての質との差を考えさせられる例が多いこと。まあ、文学者てのはそうした手合いが多いと言うことかねえ。…文学者や芸術家をこのシリーズでどう扱うかも考えさせられますね。

参考文献
陶淵明 世俗と超俗 岡村繁 NHKブックス
酒池肉林 江波律子 講談社現代新書
マイペディア 日立デジタル新潮社
エンカルタ 百科事典 マイクロソフト
新修国語総覧 京都書房
「ニート」って言うな! 本田由紀 内藤朝雄 後藤和智 光文社新書


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