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初心者向け南北朝概論の試み  NF


はじめに
 14世紀の日本を混乱に陥れた南北朝時代。日本の歴史の転換点ともなる重要な時代なのですが、全体像が掴みにくい・混乱の終わりが見えず爽快感がない・皇室が絡むので論じるのに微妙な問題があると
いった要因から敬遠される傾向があります。そこで、なるだけ簡略に短く論じてみたいと思います。

南北朝時代の背景
 8世紀初頭に確立した中央集権的な統一政権は、9世紀には崩壊に向かう。生産力の向上に伴い貧富の差が拡大し、貧困層が没落する一方で実力を付けつつあった地方豪族は彼らを支配下に納め自給体制を各地で形成した。中央政府(朝廷)は豪族達の利権を黙認し、人口を把握するのを断念して土地単位での税徴収体制に転換。こうして大土地所有者、すなわち有力貴族・寺社や地方豪族による連合体の盟主として朝廷が存在する体制が11世紀前半に確立する。
 やがて、地方豪族の実力向上に伴い彼らを支配下に組み入れた軍事貴族が台頭。12世紀末には軍事貴族の代表者である源氏・平氏による内乱を経て、勝利した源氏によって東日本に軍事政権である鎌倉幕府が成立した。幕府は朝廷の宗主権を名目上は認めつつも東日本を中心に独自の支配体制を確立。朝廷が西日本、幕府が東日本を支配する形となる。13世紀前半に承久の乱で軍事力に勝る幕府が朝廷を圧倒して大きく優位に立ち、次第に支配権を広げた。13世紀末のモンゴル帝国(元)の来襲(元寇)を契機として幕府は国防の必要上から全国規模で支配権を強化、発達しつつあった商業勢力を把握する事で専制化を志向するようになる。
 一方で、従来より幕府に従属していた豪族達(御家人)は分割相続による支配領域の零細化、商業発達に伴う貧富の差の拡大、元寇やその後の海岸警備による経済的負担もあって専制化する幕府に不満を募らせていく。また、経済先進地域であった畿内を中心に、貨幣経済発達に伴って非農業民を支配下に置いた新興豪族が台頭、「悪党」と呼ばれ朝廷・幕府も統制しきれず頭を悩ませる社会不安要素とみなされるようになっていた。幕府は彼ら非農業民の組み入れに腐心していたが、西国の非農業民は伝統的に朝廷と深い繋がりがあった関係もあってか、「悪党」は寧ろ取締りにより自らを制肘する存在として幕府への反感を持つ者も多く見られるようになる。
 一方、承久の乱以降弱体化していた朝廷は、更に皇室や有力貴族が地位をめぐって分裂。皇室は持明院統と大覚寺統に分かれ、摂関家は五摂家に分裂して対立する。中でも皇位や「治天の君」(皇位を退いた上皇の中でも天皇の保護者として実験を握った者をこう呼ぶ)をめぐっての両統の対立は深刻で、幕府による調整が必要なほどであった。その結果、思い通りに行かなかった陣営による幕府への遺恨を生む事となるのである。
 経済発達を背景に専制化を進める幕府であったが、その一方で各階層から反発を買い孤立化も進んでいたのである。

「太平記」のあらすじ
 大覚寺統から即位した後醍醐天皇は、意欲的に貨幣経済を取り入れた改革を行うが力の及ぶ範囲は限られていた。また、彼は大覚寺統でも傍流でありこのままでは子孫に皇位が継承される可能性はなかった。そこで、後醍醐は朝廷に支配権を取り戻し集権的な政権を樹立するため、そして皇位継承への介入(調停)を廃して自らの系統に皇位を継承させるため幕府打倒を志すようになった。まず1324年に後醍醐は不平派を味方に付けて挙兵を目論むが事前に露見。この時は天皇自身に責めは及ばなかったが、その後も新興豪族に加え経済・軍事的に大きな力を持つ宗教勢力を味方に付けて倒幕を行おうとしていた。1331年に再び計画が露見、後醍醐は笠置山に逃れて挙兵するが幕府軍に敗北し捕らえられる。なお、同時に河内の新興豪族・楠木正成も赤坂城で蜂起しているがこれも奮戦の末に落城している。幕府に捕らえられた後醍醐は持明院統の光厳天皇に譲位させられ隠岐に流されたが、その後も後醍醐の皇子・護良親王が各地の豪族たちに挙兵を呼びかけて吉野に篭城した。また1332年末から1333年初頭にかけて正成が赤坂城を奪還すると共に大阪平野各地で幕府軍を破り京を脅かし、千早城に篭城。幕府は関東から大軍を派遣してこれを攻撃するが苦戦を強いられ、幕府の軍事的威信は著しく低下した。この頃には播磨の赤松円心がしばしば京を攻撃し、河野水軍なども挙兵。更に後醍醐が隠岐から脱出して伯耆の名和長年の庇護を受けて船上山に篭った。そして五月には幕府軍として派遣された幕府方の有力者・足利高氏が後醍醐側に寝返って京の幕府拠点であった六波羅探題を攻略、京は後醍醐方の手に落ちた。同時期に関東でも上野の豪族・新田義貞が破竹の進撃により鎌倉を攻め落とし、鎌倉幕府は130年の歴史に幕を下ろした。
 こうして政権樹立に成功した後醍醐は、光厳の即位を否定した上で自らを頂点とする専制政権建設に取り組む。建武の新政である。貨幣経済を重視し、先例や家柄にとらわれない人材起用を行うが、その強引な政策が各方面の反発を買う。更に恩賞における処理が豪族たちの不満を招いた。その中で護良親王と足利尊氏(高氏が改名)が豪族の指示を巡り対立。結局は尊氏が支持を集め護良は失脚する。
 1335年、鎌倉幕府残党が鎌倉を奪回。尊氏はこれを鎮圧に向かったのをきっかけとして現地で独自の論功行賞を行い自らの政権樹立を目指す。後醍醐は当然これを朝廷に対する反逆とみなし、新田義貞を大将とする討伐軍を派遣するが尊氏は竹ノ下でこれを破って上京。1336年初頭には京において足利軍と新田・楠木ら朝廷軍との死闘が繰り広げられるが奥州から駆け付けた北畠顕家の奮戦もあり後醍醐方が足利軍を一旦は追い散らす。尊氏は自らの大義名分を確保するために持明院統の光厳院より院宣(上皇、すなわち退位した天皇による命令書)を得て各地の豪族に呼びかけながら九州に逃れた。なお、その途上で中国・四国の要地に一族・現地豪族を配置して追撃に備えている。そして博多に上陸した足利軍は後醍醐方の菊池氏による大軍を多々良浜で破って九州を制圧、水陸両軍を編成して再び京へ向かう。一方で義貞の率いる朝廷軍は編成に手間取り追撃が遅れ、更に播磨白旗城で尊氏に味方する赤松円心により進軍を阻まれ後手に回る。この際に正成は尊氏との和平を後醍醐に進言するが受け入れられていない。5月末に足利の大軍は兵庫に至り、正成は京を捨てて比叡山に入り大阪平野の楠木軍と共に京の足利軍を包囲する戦略を具申するが却下された。かくして兵庫に迫る足利群を新田・楠木軍は湊川で迎え撃つ。尊氏の戦術により新田・楠木勢は分断され包囲に陥った楠木勢は異例の奮闘を見せるものの衆寡敵せず正成らは落命。こうして尊氏の入京を防ぐものはなくなった(湊川の戦い)。後醍醐は義貞と共に京を逃れ比叡山に篭城するが足利軍によって包囲され、尊氏による和平提案に応じる。
 一方で尊氏は京に入ると持明院統から光明天皇を擁立し、和平成立すると後醍醐から譲位を受ける(北朝)。その上で尊氏は京に自らの政権を樹立する事を宣言した(足利幕府)。一方で後醍醐は京を脱出して吉野に逃れ自らの皇位がまだ正統である事を主張した(南朝)。60年以上にわたる南北朝の動乱はここに始まる。後醍醐は各地の味方に挙兵を呼びかけて京奪回を図った。この時期、北陸に新田義貞、奥州に北畠顕家、伊勢に北畠親房が有力な南朝方として勢力を張っており彼らによる奮起が期待された。顕家は1338年に奥州から出陣して足利軍が押さえていた鎌倉を攻略すると共に、東海道を一気に西上して青野原(関ヶ原)で足利軍を破るものの自身も大きな損害を受け伊勢で軍勢を再編。そして奈良を経て大阪平野に進出すると共に別働隊を八幡に向かわせて京に圧力をかけた。しかし和泉石津で足利軍の主力・高師直の手勢と激戦の末に敗れて討ち死に。こうして奥州の南朝方は大きな打撃を受けた。一方で義貞は拠点の越前金ヶ崎城を落とされるなど苦戦を強いられるが、北陸のかなりの地域を支配化に収める事に成功。しかし情勢が安定せず顕家への援軍を送ることは出来なかった。そして1338年、越前完全平定を目前にした中で流れ矢に当たり戦死するという不運な最期を遂げている。これらは劣勢な戦力で無理な攻勢に出た事による破綻と言えるかもしれない。
 これを受けて尊氏は同年に正式に征夷大将軍に就任。南朝では北畠親房が伊勢から関東に下り、常陸を中心とした現地の水軍勢力を味方にして勢力拡大と奥州における南朝拠点再建を図る。こうした中で1339年に後醍醐が崩御、子の義良親王が皇位を継ぐ(後村上天皇)。敵ながら後醍醐を敬慕していた尊氏が慰霊のため天竜寺を建立したのはこの時である。さて関東における親房は北関東・奥州白河の結城氏と結んで勢力を広げようとするが結城氏は応じず自身も苦戦を強いられる。この際に味方の士気を高めると共に南朝の正統性を地方豪族たちに訴えようと執筆したのが「神皇正統記」であった。親房はこれに加え、現地の豪族たちに官位の仲介をするなどして味方に付けようと努力するが空しく1343年に関東における拠点を失ってやがて吉野に帰還している。
 この頃、南朝は奥州の北畠顕信、信濃周辺の宗良親王、四国の花園宮、九州の懐良親王・菊池氏など皇子や貴族を派遣して各地に勢力を扶植しようとするものの足利方が圧倒的優位を保っていた。この時期、足利幕府は軍事動員・恩賞授与を受け持つ将軍尊氏と一般政務・所領保証・訴訟を担当する副将軍・直義(尊氏の弟)による二頭体制を取り順調な政権運営がなされていた。しかし、旧来の権威を軽視する新興豪族を中心とした高師直(尊氏の執事)派と有力豪族ら保守派による直義派の対立がこの頃から深まるようになっていた。
 1347年に吉野の南朝方は親房の指導の下で楠木正行(正成の子)を主力として再度活動を開始し足利方に脅威を与えるが、翌年初頭に四条畷で師直の大軍が正行を討ち取る事で南朝の攻勢は潰える。この際に師直は勢いに乗って吉野に攻め入っており、南朝は更に奥地の賀名生に逃れ自力で攻勢に出る力を失った。こうして足利方の安定的優位が確立したかに見えたが、この戦功で師直派が力を持った事が両派閥の対立を一気に表面化させる(観応の擾乱)。直義が尊氏に要求して師直を罷免すると、今度は1349年に師直がクーデターを起こして返り咲き直義やその一党を失脚させた。これに対して1350年、直義は養子・直冬(実父は尊氏)に九州で勢力拡大させると共に自身は南朝と結んで師直・尊氏と戦いこれを破る。1351年、直義は尊氏と和平し師直らを殺害して復権に成功した。しかし両派閥の対立は修復不能であり、今度は尊氏と直義が衝突するに至る。今度は尊氏が南朝に降伏して名分を確保し、関東に逃れた直義を1352年に滅ぼした。
 こうして一時的ながら朝廷は南朝のみに統一され(正平の一統)、三種の神器も南朝に接収された。更に勢いづいた南朝は京都を軍事占領し北朝の上皇・天皇ら主要皇族を捕らえ北朝を崩壊させている。義詮は間もなく京を奪回し北朝を再建したものの、皇位を証明する三種の神器も即位を正統化する「治天の君」(天皇家の家長)も欠いており以後の北朝は正統性に疑問が残る事となる。これは北朝に権限を認められている足利幕府の正統性にも影を落とす事となり、大きな政治課題となった。
 さて旧直義派は直冬を中心に抵抗を続けるが、足利幕府から排除され劣勢に立たされる。彼らは南朝に降り何度か京を奪うも一時的攻勢に過ぎなかった。こうして足利幕府を二分した内乱は一段落する。
 1358年、尊氏が病没し義詮が第二代将軍として幕府指導者の地位を継承。この時期、九州では懐良親王を擁立する菊池武光が勢いを増しており、1359年に筑後川の戦いで少弐氏を破ったのをきっかけに、大宰府を制圧し1362年には九州全土を手中にしていた。一方で足利幕府は有力者間の内紛に悩まされ九州に手が出せない状態が続く。義詮は有力者の統制に苦しみ、仁木義長や細川清氏・斯波高経らの反逆に悩まされるが佐々木導誉・赤松則祐らの協力も得てこれを克服。細川頼之の活躍により旧直義派の大内弘世・山名時氏とも(彼らの既得権益を認めた上で)和平が成立し、足利幕府は安定へと向かう。この時期には南朝とも何度か和平交渉がもたれており、1367年には南朝和平派の楠木正儀との間で和平成立寸前まで至るものの直前に破談。
 義詮の後を継いだ第三代将軍・義満の時代になると幕府の優勢は確立しており、細川頼之の補佐もあり将軍権力の確立や幕府機構の整備が進められ義満は専制君主への方向性を志向するようになる。一方で南朝では内部分裂に直面していた。後村上天皇崩御後に即位した長慶天皇は主戦派であり、和平派の楠木正儀は幕府への降伏を余儀なくされている。また、九州においても1372年に今川了俊が九州探題として派遣されて以降、南朝方は次第に劣勢に追いやられていった。そして軍事的崩壊に直面する南朝では、再び和平派が力を持ち後亀山天皇の下で和平交渉がなされる。幕府にとっても三種の神器を回収し北朝や幕府の正統性を確保する為にも南朝の平和的吸収は必要な課題であった。かくして1392年、持明院統と大覚寺統の交互即位などを条件として両朝は合体し、後亀山(南朝)から後小松(北朝)に三種の神器が譲渡された。しかしこれは実質的な南朝の降伏であり、合体時の約束は守られず以降は専ら北朝系統によって皇位は継承されていく。また、この内乱で朝廷の政治的権限は失われ幕府による専制体制が樹立されるが、幕府の権力も有力者の支持に依拠した不安定なものでありやがて有力者間の争いなどもあって15世紀前半になると政情は再び揺らぎだすのである。

両陣営の勢力差
 南朝や足利幕府の勢力圏は安定していたとはいえない。というのは、豪族の一族内紛や現地での土地・利権争いなどで各地の豪族たちが自らの都合に応じて両陣営を渡り歩いていたからである。しかし、大体において足利方が圧倒的に優勢であった点は一貫しているといえよう。
 まず、南朝は畿内南部の山間地に拠点を置き関連文書も大和・紀伊・河内・和泉の山間部を中心に極めて限られた地域でしか見られていない。そして本拠地も当初は吉野であったが、軍事的劣勢になってからは賀名生に移り更に金剛寺や観心寺、住吉神社などを転々としている(攻勢に出るための移動もあり一概に劣勢によるとはいえないが)。一方で地方拠点も当初は奥州(北畠顕家)や越前(新田義貞)などが存在したがいずれも足利方の攻勢により早い段階で壊滅の憂き目を見ている。ただ、九州のみは足利幕府より派遣された九州探題と現地有力豪族との対立や幕府内紛に乗じて菊池氏が派遣を樹立する事に成功している。
 足利幕府は全国の豪族に対して所領を保証する事で味方に引き入れる事にかなり成功し圧倒的な戦力を築いた。ただし、足利将軍家の直轄領は少なくしかも直前までは同輩であった有力者も多数存在したため、その結束は極めて不安定なものであった。利益や権力を政権内部で争った一方が対抗上南朝に走る例もしばしば見られ、それが戦乱を長引かせる一因になっている。
 南北朝の動乱は、二つの朝廷が分裂したものには違いないが、それぞれが互角の戦いをするものではなかった。北朝は足利幕府の傀儡と言ってよい存在であった(当初は全くの無力でもなかったようだが)し、南朝に至っては山間部による地の利を生かして辛うじて敵の攻勢を防ぎながら敵の分裂に乗じる事で細々と命脈を保つに過ぎなかった。一方で圧倒的勢力を誇る足利幕府も、その基盤は極めて不安定であり統一を達成するには多くの困難をはらんでいた。これが両勢力の不均衡にもかかわらず戦乱が長らく持続した原因である。

南朝・北朝両陣営の内情
・北朝
 北朝は、代々持明院統の皇室から天皇を輩出した。当初はある程度の所領に対して裁判権を有し京市内の行政権も保有していたが、自身の武力を形成する事は出来ず足利幕府による保護が不可欠であった。そのため早くから幕府による政治介入を許しており、中期以降は所領が地方豪族によって多くは侵食され経済基盤を失ったためもあり政治的権限を足利幕府に奪われ形骸的な存在となる。軍事的には完全に足利幕府に依存しており、内乱における当事者では実質的にありえなかった。
・足利幕府
 足利氏は鎌倉幕府の下でも有数の名門として遇されていたが、首長の座にあった北条氏からは警戒されてもいた。それによる圧迫を払いのけ更に自らの政権を樹立するため、後醍醐の蜂起に乗じて北条氏打倒に加わる。建武政権においてもその功績が重んじられると共に勢力を警戒され「敬して遠ざけられる」状況であった。しかしその中で戦いで得た関東における既得権益を「鎌倉将軍府」(後醍醐の皇子・成良親王を首長に迎えた)として認められ自らの政治的基盤を獲得。更に建武政権に不満を持つ各地の豪族と連絡し味方を増やしていた。後醍醐に背いた当初は一進一退の戦いであったが持明院統と結んで大義名分を手に入れてからは大きな勢力を築き京に自らの政権を樹立した。
 政権樹立後は軍事的権限を尊氏、内政を直義が担当したがこれが文治派・武断派や保守派・革新派などの対立を招き内乱に至る原因となっている。その後もしばしば政権内の内紛に苦しめられるが、時には武力で打倒し時には利を食わせて帰順させるなど硬軟両面で対応し優位を確立していった。
 配下の有力豪族たちは戦乱における兵糧確保を名目に貴族の荘園の半分を手中に収めるのを認められており(半済令)、これを通じて有力者たちはその所領における支配を確立させようとした。
 尊氏は降伏する者に寛大で所領に関しても気前良かったとされており、これが多くの豪族を味方として引き寄せたと言われる。ただし、これは足利将軍家の直轄領が少ないのに拍車をかける側面が存在したのも否めない。またかつて同輩であった豪族も配下には多く、反逆もしばしばであった。中期以降は擁立する北朝の正統性に疑問符がつく状況であったため幕府自身の正統性にも問題があり、将軍の権威確立に苦慮する事となる。そのため、北朝の政治的正統性確立を目的として南朝の平和的吸収および北朝天皇への譲位に強く執着した。
 義満の時代に両朝合体による政治的統一と一応の政治的安定を実現するが、完全に有力者を押さえ込めたわけではなく彼の死後には再び有力者への対応に苦慮する事となる。そして15世紀前半には将軍が有力豪族に暗殺される事態となり、それを契機に将軍の権威は低下し1467年より11年持続した応仁の乱によってその無力化することとなる。
・南朝
 大覚寺統の後醍醐系統により皇位が継承された。後醍醐は商業発達に伴い台頭した非農業民を味方に組み入れる事で鎌倉幕府を打倒し政権樹立に成功するが、朝廷の社会的実力は低下しており商業勢力も日本全体を抑え込むには発達が不十分であった。そのため、専制を志向するものの安定した政治権力を築く事が出来ず、尊氏を中心とする反対勢力の前に敗れて吉野に逃れる。以降も非農業民を中心として味方を組織し、足利幕府に対して抵抗を続けるものの農業勢力の力がいまだ強く圧倒的な劣勢に終始した。しかししばしば足利幕府が内紛に陥ったためその一方と手を結んで一時的な優勢を現出したこともあった。中期以降の南朝は足利幕府内の不平分子が大義名分として擁立する存在となる。
 足利幕府の傀儡であった北朝と異なり、南朝では天皇自身が政権の主導権を握り国家戦略策定をも行っていた。また、将軍が配下の反乱に悩まされた足利幕府と異なり天皇の権威を脅かす臣下は出現していない。支配領域の荘園から米の上納を求める事で収入源としており、これは足利幕府における半済令と共通すると言える。
 皇位の象徴である「三種の神器」を保有し続けていると主張し、事実中期以降は北朝の「三種の神器」も回収して唯一神器をもつ存在であった。そのため軍事的に圧倒的劣勢でありながらも平和的和平にこぎつける事が可能となった。しかし両朝合体後は講和時の条件も反故にされ、残党による抵抗をしばらく続けた(後南朝)後に歴史の表舞台から消えていった。


まとめ
 要約すると、@社会の発展に伴い、社会の傍流である筈の人々の役割が増大し社会的影響力を増加させ、それが政権の腐敗もあいまって不安定要因となる。A彼らを利用して専制政治を目論む後醍醐天皇が武家政権に戦いを挑むも挫折B勝利した筈の武家政権も革新派・保守派の対立から内戦に突入、敗れた朝廷の残党がそれに乗じて再び勢力を伸ばすも結局は敗北、という流れになるのがお分かりになると思います。また、南北朝は非農業民が農業社会に対抗するだけの実力をつけつつある変革期であるだけでなく、軍事的にも特権階層である騎馬戦士の個人的武勇によるところが大きい戦いから歩兵の集団の占める役割が増大する時代です。
 また、この時代は商業の発達により貨幣経済が本格化、それに伴い庶民の社会的実力が向上して文化的な役割も大きくなりました。茶の湯、立花、俳諧、能・狂言など一般に日本文化として連想されるものの起源がこの時期に見られると言えます。まさしく日本史上屈指の転換点であったと言えるのです。

参考文献
帝王後醍醐 村松剛 中央公論社 
南北朝時代史 田中義成 講談社学術文庫
吉野朝史 中村直勝 星野書店 
ピクトリアル足利尊氏南北朝の動乱 学研 
南北朝動乱と王権 伊藤喜良著 東京堂出版
楠木正成 植村清二 中公文庫
建武政権 森茂暁著 教育社歴史新書 
皇子たちの南北朝 森茂暁著 中公新書 
太平記の群像 森茂暁 角川選書
後醍醐天皇 森茂暁著 中公新書 
異形の王権 網野善彦 平凡社 
増補無縁・公界・楽 網野善彦 平凡社
馬・船・常民 網野善彦・森浩一 講談社学術文庫
日本の歴史8蒙古襲来 黒田俊雄 中公文庫 
日本の歴史9南北朝の動乱 佐藤進一 中公文庫
東国の南北朝動乱 伊藤喜良 吉川弘文館
足利尊氏 高柳光寿著 春秋社 
足利尊氏 山路愛山著 岩波文庫 
日本古典文学大系太平記一〜三 岩波書店
「日本中世の国家と宗教 黒田俊雄編 岩波書店」より「中世の国家と天皇」
「中世社会の研究 松本新八郎著 東京大学出版会」より「南北朝内乱の諸前提」「南北朝の内乱」
悪党と海賊日本中世の社会と政治 網野善彦 法政大学出版局
日本中世史を見直す 佐藤進一・網野善彦・笠松宏至 平凡社 
中世を考えるいくさ 福田豊彦編 吉川弘文館

おまけ:主要人物の略歴
 時代背景だけでなく、その時代を生きた人物にも個性的な群像が多く並んでいます。主な人物について述べていきます。

・後醍醐天皇
 皇室が持明院統・大覚寺統に別れて争っていた時代に大覚寺統・後宇多天皇の子として生まれる。名は尊治。天皇に即位すると卓抜した政治手腕で朝廷の支配が及ぶ京都周辺で政治改革を行い高い評価を得た。朝廷による全国的な専制政権を樹立し自らが支配者として君臨する事を目論み鎌倉幕府を倒すため戦いを仕掛ける。緒戦は敗れ隠岐に流されるものの最終的に倒幕に成功し朝廷による統一政権を実現するが、その強引な政治方針は各方面から反発を買い足利尊氏の反逆により政権は瓦解。吉野に逃れ尊氏が擁立する持明院統の朝廷と対立。足利政権との戦いが不利になりつつある中で病没。

・足利尊氏
 鎌倉幕府配下の中で有数の名門に生まれる。当初は幕府方であったが、鎌倉幕府を支配する北条氏に取って代わり天下を取ることが足利氏の宿望であった関係もあり後醍醐天皇方に寝返り京都を占領。これで畿内が後醍醐方の手に落ち、尊氏の功績は大きいと評価された。後醍醐政権の下で当初は雌伏していたが、政権への不満が高まる中で後醍醐に反旗を翻し戦いの末に京を占領し自らの政権を樹立。戦力的優位を活かし南朝との戦いを有利に進めるが、弟・直義らとの内紛に悩まされる中で病没。

・足利直義
 尊氏の弟。尊氏の戦いにおいて忠実に尊氏を補佐し、時には戦意を喪失した尊氏を叱咤激励した。尊氏と異なり軍事的才能には恵まれなかったが政治的手腕を発揮し政権運営に大きく貢献。保守派の旗頭として担ぎ出され、尊氏やその執事・高師直らを擁立する新興勢力と対立し、戦いの末に敗れる。

・桃井直常
 直義派の武将。尊氏・高師直と激しく対立。直義没後はその養子・直冬の配下となる。
 保守派の有力者として強硬に、好戦的に戦いを進める。

・足利直冬
 足利直義の養子(実父は尊氏)。実際には尊氏の長男であるが、母の身分が低い事もあり冷遇される(一方、義詮は正室の子であった)。中国探題に任じられるが、観応の擾乱において養父・直義と行動を共にする。直義没後は直義派を率いて南朝と結び京を一時占領するがやがて劣勢となる。自らの障壁となる尊氏・義詮との戦いに過ごし、その愛憎を戦う原動力とするも報われなかった生涯であった。

・高師直
 足利氏の執事。尊氏に従って軍事面で手腕を発揮し、南朝方の主力である北畠顕家や楠木正行(正成の子)を討ち取るなどの戦功を挙げている。新興豪族を家臣として編成し軍事力として動員している事から、彼らの利益を代表する存在として直義らの保守派と激しく対立。内乱の末に直義派に破れて殺害される。既成秩序破壊者としての性格が強かったのは知られる。

・新田義貞
 源氏の血を引く関東の豪族。尊氏が後醍醐方に寝返り京を占拠したと同時期に挙兵し鎌倉を占領、幕府を滅亡させる。尊氏が後醍醐天皇に反逆した際には後醍醐方の総指揮官として軍勢を率い転戦するも苦戦を強いられる。後醍醐が吉野に逃れる前後に後醍醐の皇子・恒良親王を伴い北陸に降る。一時はその軍事手腕で北陸に勢力を広げるが、黒丸城攻めの最中、督戦のため少数の兵で前線に向かう最中に敵の大軍に遭遇し戦死。軍人としては優秀であるが、政治的な力量はない。実直で部下思いでもあったが、あっけなく討ち死にを遂げたのが惜しまれる。

・脇屋義助
 新田義貞の弟。義貞に従い、各地で転戦する。義貞の副将として別働隊を率いる事も多かった。義貞死後も北陸で奮戦するが及ばず、四国で南朝方の糾合を図るが間もなく病没した。勇戦ぶりも描かれ決して無能ではないが、しばしば文弱な貴族や練度の低い烏合の衆を率いる事になったためか、敗北のきっかけを作り義貞の足を引っ張る結果となる事も多く割の合わない役どころである。

・楠木正成
 商業の発達により台頭した河内の土豪出身。後醍醐天皇が鎌倉幕府に対し挙兵した際に召しだされ、赤坂城・千早城での篭城戦で幕府軍を翻弄する。その健闘ぶりが鎌倉軍の威信低下・各地での倒幕勢力蜂起に繋がったといえその功績は大きい。尊氏が反逆した後も後醍醐のため奮戦する。情勢が有利な間に尊氏と和解する、京を一旦明け渡して包囲するといった献策をしたが受け入れられず、不利な戦いを強いられた湊川合戦で足利の大軍の前に力尽きる。後世に至るまで忠臣として称えられた。
 少数の戦力でゲリラ戦術などを用い敵を翻弄し、部下たちと固い結束を誇った。また、人物としても実直で包容力のある申し分ない人物とされることが多い。

・護良親王
 後醍醐天皇の第一皇子(異説あり)。後醍醐天皇が挙兵した際には比叡山・吉野などで僧兵や豪族たちに蜂起を呼びかけ倒幕勢力を組織化、後醍醐が隠岐に流された期間には実質上の総司令官として活動。後醍醐政権下では尊氏と対立するが、尊氏の計略によりその勢威を脅威とした後醍醐によって捕縛され、やがて直義によって殺害される。
 後醍醐方として手腕を振るい大きな貢献をするも、(本人の意図とは関係なく)後醍醐にとって「獅子身中の虫」という側面があった。保身に長けているとは言えずあっさりと没落し姿を消したのは惜しまれる。

・恒良親王
 後醍醐天皇の皇子。寵妃・阿野廉子との間に生まれた関係もあり皇太子に立てられる。尊氏との戦いの中で後醍醐より帝位を譲られ(ただし、後になり後醍醐はそれを撤回し自分が天皇と主張)新田義貞と共に北陸へ下り越前金ヶ崎城に篭るが落城の際に捕えられ後に処刑される。
 
・赤松円心、則祐
 播磨の新興豪族。則祐は円心の三男。後醍醐天皇が鎌倉幕府に対し挙兵した際、則祐は護良親王に付き従い行動。円心も護良親王の令旨を受けて播磨で挙兵し、幕府方が占拠する京都を繰り返し攻撃する。建武政権においては、後醍醐が護良親王を警戒していたため護良派の赤松氏は冷遇される。そのため、護良没落後は足利尊氏に接近し尊氏が反旗を翻した後には足利方として活躍。尊氏が義貞に敗れ西国に落ち延びた際には、持明院統の天皇を擁立して朝敵の汚名を防ぐ事を進言したり、播磨白旗城で新田軍を食い止めるなど大きな功績を挙げている。その後も足利政権の下で有力者として活躍、観応の擾乱でも尊氏方として活動した。後を継いだ則祐も足利政権で有力者として巧みに遊泳した。将軍義詮が細川清氏ら南朝軍により京を失った際は幼い義満を播磨で保護している。赤松氏は侍所別当を務める家柄として定着する。

・北畠顕家
 北畠親房の子。後醍醐政権では東北地方を統括する奥州将軍府に赴任。尊氏が反旗を翻した際には上洛し尊氏軍を新田義貞・楠木正成らと共に西国に追い落とす。尊氏が再び京を占領し政権樹立した後、再度上洛を試みしばらくは破竹の進撃を続けるが、石津の戦いで高師直に敗れ討ち取られる。

・千種忠顕・名和長年・結城親光
 鎌倉幕府倒幕の際に功績を上げ後醍醐天皇より寵愛を受ける。楠木正成と共に「三木一草」と呼ばれた。尊氏との戦いの中で戦死。

・北畠親房
 後醍醐天皇の寵臣の一人。尊氏が反逆し後醍醐が吉野に逃れた際、伊勢に南朝が他の勢力を築く。後醍醐死後、関東に入り南朝方の勢力扶植に腐心するが果たせず。その後、吉野で南朝方の指揮を取り足利幕府の内紛に乗じて京都奪回を成功させる。
 関東経略時代は貴族的・大時代的趣味を持ち陰謀をめぐらすが裏目に出る傾向があったが、その後は吉野で南朝全体の指揮を取り、敵の内紛の間隙を巧みに利用した。

・足利義詮
 尊氏の子。尊氏の死後に後継者として足利幕府第二代将軍となる。幕府内の内紛や南朝との戦いに苦闘する。結果として幕府の優位確立に成功しており無能ではないと思われるが、京から逃れる際に天皇らを同行させるのを忘れるなど重大な失態が目立つ。

・佐々木道誉
 近江に拠点を持つ有力豪族。尊氏が鎌倉幕府に反旗を翻した際に尊氏に従い、以降も尊氏と行動を共にする。幕府内部での内紛を強かに泳ぎ抜き有力者としての地位を確立。晩年は若い世代の後見役的な存在であった。陰謀家として知られ時には寝返りも辞さなかったが、尊氏には基本的に忠実であった。既存の価値観に捉われない派手な装束・振る舞いから婆沙羅大名と言われた。
 多彩な才能に恵まれ、革新的な時代の子である。強かで保身の術にも長けていた。

・細川清氏
 足利一門の一人。観応の擾乱で尊氏方として奮戦し武名を馳せる。義詮が将軍になった際には執事として補佐するが、強引な手法や傲慢さから反発を買う。佐々木道誉の陰謀もあり義詮から謀反人として討伐を受け、南朝に降る。一時は京を占領するも次第に劣勢となり最後は細川頼之に討ち取られる。
 その勇猛さから重んじられ新世代の期待の星であったが、激昂しやすさが仇となり破滅の道を歩む。

・山名時氏
 新田一族の土豪。足利方として奮戦。観応の擾乱では直義派の有力者として力を振るい、その軍事手腕と強かさで勢力を拡大。一時期は京都を占領もしている。最終的には義詮に形式的な降伏をするが自分の勢力圏を追認させている。粗野で強かな直義方の兵(つわもの)である。

・大内弘世
 一説では百済王家の末裔とされる。大陸との貿易により利益を上げている。南北朝の間を渡り歩き、観応の擾乱では直義方として活動。その手腕で勢力を拡大。最終的には義詮に形式的な降伏をするが自分の勢力圏を追認させている。保守派に相当する直義方の有力者であるが、本人は革新的な時代の子である。

・後村上天皇
 後醍醐天皇の皇子。後醍醐崩御を受け、南朝第二代の天皇となる。若年期は北畠親房の補佐を受けるが、親房死後は南朝の総帥として圧倒的不利な状況下で戦いを進めると共に幕府との和睦も模索。

・四条隆俊
 南朝方の公家。南朝の正統性に疑いを持たない強硬派。忠誠心に問題はなく勇敢ではあるが、情勢の実態をどの程度認識できているかには疑問がある。

・楠木正儀
 楠木正成の三男。兄・正行が戦死した後は楠木氏当主として軍事的に南朝を支える。南朝首脳・公家の強硬な主張と圧倒的不利な現実の板ばさみとなり苦悩、幕府との和平を模索。一時期は北朝に投降している。

・新田義興
 新田義貞の子。観応の擾乱の際には幕府内紛に乗じて関東で新田氏の残党を率いて挙兵。一時期は鎌倉を占拠するが尊氏に敗れる。その後、幕府方の土豪に謀殺される。

・長慶天皇
 後村上天皇の皇子。第三代南朝天皇。強硬な主戦派として和平派と対立。戦況の悪化と共に和平派の後亀山に譲位を余儀なくされるがその後も主戦派の領袖であり続けたようだ。自らの野望・その強硬さにより結果として南朝の分裂を招く結果となる。

・細川頼之
 足利の一門。細川清氏の従兄弟。観応の擾乱で尊氏方として戦い、中国の敵勢力を懐柔。清氏が謀反を起こした際には彼を討ち取っている。その後、義詮病没時に管領となり第三代将軍義満を補佐。幕府の体制を整えると共に情勢の安定化に努める。清氏と共に新世代の期待の星。勇猛だがキレやすい清氏と違い、安定した性格の持ち主で強かな智将として活躍。最終的に事態の安定化に一応は成功。


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