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足利基氏  NF


1はじめに

 尊氏の子として、そして直義の養子として関東統治を担うことになったのがこの基氏である。彼の子孫が、鎌倉公方として関東で勢力を張り京の将軍と対抗することになる。今回は、南北朝期後半を中心に関東の情勢を見ていくことにする。

2時代背景

 11世紀頃より、日本は自給自足的に勢力を伸ばした寺社・貴族や各地の地方豪族が連合して形式的に中央政府(朝廷)を奉ずる形をとり始める。そして12世紀末に東西の大勢力による内乱(源平合戦)を経て東国に政権(鎌倉幕府)が成立して以降、東を幕府・西を朝廷が支配する二重政権の体制となり、承久の乱以降は武力で勝る幕府が朝廷に対し大きく優位に立つ。
 更に13世紀後半になると、元寇を契機に幕府は国防のため東のみならず全国に広範で強力な支配を及ぼすようになる。この頃、領地を分割により相続していた地方豪族たちの間で領地の細分化や本家・庶子の分裂傾向が一族争いの火種になりかねなかった。折からの貨幣経済の発展に伴う支出の増大も豪族たちを苦しめており、これも彼らの庇護者たる幕府への不満を募らせていた。さらに、畿内や瀬戸内海を中心に商業・運送業・芸能を生業とする非農耕民が実力を貯えつつあり、その社会的存在感は侮れないものとなっていたのである。彼らは、貨幣経済の発展を背景に畿内周辺の農村にも入込み、幕府の武力をも脅かす存在となりつつあった。幕府を動かしていた北条氏も彼らを取り込むことで自分たちの権力を強化しようとするが、十分な支持が得られないばかりか旧来の豪族たちからの反発も受ける結果となった。更に朝廷では支配力を弱めたのみでなく皇室が持明院統・大覚寺統に分裂、それに合わせて貴族達も争い幕府の仲介が不可欠であった。しかし北条高時を首班とする当時の幕府はこうした事態に有効な対応ができずにいたのである。
 そうした中で14世紀前半に大覚寺統から即位した後醍醐天皇は親政を行い、非農業民や没落豪族を味方につけての鎌倉幕府の打倒を目論むようになる。皇位継承に干渉する幕府を倒し傍流である己の血統に皇位を受け継がせるためであり、さらに全国支配権を朝廷に取戻すためであった。元弘元年(1331)、後醍醐は挙兵したが幕府の大軍により敗北、持明院統の光厳天皇に譲位させられ隠岐に流された。しかし、後醍醐の誘いに応じて河内で挙兵した楠木正成が元弘三年(1333)に幕府軍を大阪平野各地で翻弄し、金剛山の千早城に篭り幕府の大軍相手に奮闘。これを受けて各地で幕府に不満を抱く勢力が蜂起し後醍醐も隠岐から脱出、そうした情勢下で幕府方の有力者である足利高氏(尊氏)も朝廷方に寝返り京の幕府拠点・六波羅探題を攻略。時を同じくして関東の豪族・新田義貞が鎌倉を滅ぼし後醍醐天皇による全国政権が成立した。
 後醍醐天皇は商工業を通じて台頭する非農業民を味方につけることで中央集権的な専制体制を志向したが、急速で強引な改革は混乱と反発を招き、朝廷や当時の非農業民はそれを抑えきるには余りに力不足であった。豪族たちの期待は彼らの中で最大の名門である足利尊氏に集まる。尊氏は関東での反乱鎮圧をきっかけに朝廷に反旗を翻し一進一退の末に後醍醐政権を打倒、持明院統・光明天皇を擁立し対抗した(北朝)上で京に自らの政権(室町幕府)を樹立した。一方で後醍醐天皇は吉野に逃れ自らが正当の朝廷であると主張(南朝)。ここに南北朝の動乱が始まる。
 武力で大きく勝る尊氏は南朝との戦いを優勢に進めつつ、弟・直義とともに政局の安定化を図る。足利政権は後醍醐政権よりもいくらか保守的で、商工業中心の新興勢力を取り込みつつも農業を基礎におく旧来の豪族たちにも配慮した政権運営を行っており、尊氏・直義兄弟の円滑な関係もあって次第に軌道に乗りつつあるように見えていた。

3基氏登場前の関東

 後醍醐政権において、すでに足利氏は鎌倉を押さえ関東支配体制を作り上げていた。政所・侍所に加え合議機関である関東廂番を備え鎌倉幕府と類似した体制であったとされる。足利政権成立後も、鎌倉に足利義詮(尊氏の長男)をおいて斯波家長を執事として補佐させていた。この時期は、関東の守護には鎌倉府の直接的な支配は及んでおらず、守護以外の豪族に動員をかけて軍勢を催していた。家長が北畠顕家との戦いでは敗死した後には、高師冬が関東における戦いの指揮をとっていたがこの時には守護クラスの有力豪族にも動員をかける例が見られており、鎌倉府というより中央の軍勢に準じたものと考えるべきであろう。
 南朝方との関東での戦いが山場を越えると、平時の体制として政務に長じた上杉憲顕が執事となり直義の影響力が再び強くなる。これを高師直ら尊氏に属する武断派は面白くは思っておらず、師冬らが再び関東で執事となり二人執事制がとられたのは師直による巻き返しであろう。しかしこの二人の執事のうちで圧倒的に権限が強かったのは日常政務を司る憲顕であったようだ。足利政権やその下での鎌倉府が形成されつつある中で、微妙な不協和音が聞こえつつあったのである。

4基氏、鎌倉へ

 中央でも、直義と師直の対立が徐々に顕著になりつつあった。文官派と武断派、伝統的な大豪族と新興豪族、惣領と庶子といった対立軸がそれぞれの陣営に重なって事態を複雑で深刻なものにしていたのである。貞和五年(1349)閏六月十五日、直義は尊氏に要求して師直を執事から罷免し、甥の師世に交替させた。一方で師直も反撃し同年八月九日に大軍を集めて直義邸を包囲し、尊氏の調停の下で直義を隠居させその側近を流罪にするとともに、直義に代えて義詮を鎌倉から呼び寄せることを定めた。
 この際、問題になるのが鎌倉における義詮の後釜である。そこで、義詮の弟・光王(後の基氏)が「関東管領左馬頭義詮朝臣の替」(「園太暦」)として送られることとなった。時に10歳。光王は暦応三年(1340)の生まれで、義詮と同じく尊氏と正室・赤橋登子との間に儲けられた子である。この際、直義の顔を立てるために光王は直義の養子とされたのである。そして観応二年(1351)一月には早くも判始(初めて文書に署名する儀式)を行っており、関東の最高権力者として位置づけられた。これ以降、「坊門殿(義詮)の御代々の守りたれ」という実父尊氏の言葉と、「鎌倉を別に取立申」という養父直義の教えの間で揺れる生涯が始まることになる。

5観応の擾乱

 さて、一旦は収まったかに見える足利政権の内紛であるが、陥れられた形の直義派は憤懣やるかたなく、直義は観応元年(1350)に南朝と結んで尊氏・師直らに戦いを挑む。翌年二月にこの争いは直義の勝利で終わり、降伏した師直一族を殺害している。この戦乱は関東にも及んでおり、観応元年末に師冬(師直方)が光王を奉じて上野の上杉憲顕を討伐しようとしたが、鎌倉を出て間もない湯山(厚木市)で光王の側近が憲顕に降ったため、逆に憲顕が光王の身柄を押さえる形となり形勢は逆転。師冬は甲斐須沢(韮崎市)に篭るが翌年一月十七日に自害に追い込まれている。これが畿内での戦局に与えた影響は小さくなかったのは言うまでもない。
 こうして直義主導の体制が作られたのであるが、今度はこれに不満を持った尊氏が南朝と結んで直義と対立。直義は鎌倉に逃れたが、尊氏はこれを追って南朝正平七年(1352)二月に直義を毒殺した。なお、この間の光王は尊氏・直義双方から「息子」として庇護されていたようである。特に尊氏は光王を自分の分身として関東を把握する切り札と考えており、「鎌倉大日記」この年の二月二十五日に13歳で光王を元服させ「園太暦」によれば八月二十九日に左馬頭・従五位下となっている。本文では、以降より「基氏」と呼称することとする。
 この頃、尊氏が和睦したことで南朝方が勢いづき、畿内では義詮が南朝の攻撃を受けて京を放棄する事態に陥っている。時を同じくして関東でも新田義宗・義興、脇屋義治が蜂起。尊氏はこれを討つために出撃し一進一退を繰り返したが、義興・義治がこの隙をついて手薄な鎌倉を占領。基氏は辛うじて逃れた。二月二十八日に碓氷峠で尊氏が宗良親王率いる南朝方の主力軍を破ったために鎌倉を占領していた新田軍も撤退したが、尊氏は関東の情勢を落ち着かせるために文和二年(1353)七月まで関東に滞在せざるを得なかったのである。この時期には関東の豪族に尊氏が直接命令を発していたが、尊氏が帰京した後もそうした指示体系を確立する必要があった。そのため、尊氏の近臣・畠山国清が関東の執事に任命されたのである。基氏は国清の妹を娶ることとなり、国清は鎌倉の主の義兄として権勢を振るう。

6神霊矢口渡

 尊氏が京に戻った後も、新田一族の蠢動は止まず基氏は引き続き入間川に出陣せざるを得なかった。中でも新田義興は、義貞の側室の子であったため当初は重んじられなかったが武勇に優れ用兵が巧みであったために次第に新田一族の中心人物として重きをなすようになっていた。前述したように少数の兵で隙を突き一時的ながら鎌倉を奪取したのもその一例であり、その後も武蔵を中心に新田氏と縁のある豪族や国清らに反感を持つ豪族を糾合して侮れない勢力を築きつつあったのである。そして国清が討伐軍を派遣しても、義興は神出鬼没な振る舞いを見せて巧みに逃れていたのである。
 そこで、国清は一計を案じて義興を討ち取ろうと考えた。まず嘗て義興に仕えた事のある竹沢右京亮と示し合わせ、竹沢が国清から不興を買ったと見せかけて義興に接近させた。接触を繰り返すうちに竹沢は義興からの信頼を得てその側近のような形となったため、謀殺の機会を窺っていたが義興は用心深く果たせなかったようだ。そこで竹沢は鎌倉に手引きさせるといって、一族の江戸遠江守を義興に引き合わせた。義興が乗り気であるのを見て取ると、江戸遠江守は彼らを矢口渡に案内。目立たぬよう少数でやってきた義興主従を小船に乗せ、川の中に漕ぎ出すと急に船頭は水中に飛び込んだ。実はその船にはそこに穴が開いており、水が浸入して沈み始める。義興らが慌てて岸に戻ろうとすると、両岸に伏せていた兵士達が一斉に鬨の声を挙げた。謀られたことを知った義興らは、恨みの形相を残し船中で自刃。こうして国清は当面の脅威を取り除いたのである。以上が「太平記」の伝える顛末であり、時は延文三年(1358)十月のことであった。
 その後、「太平記」によれば江戸遠江守は義興の怨霊に取り殺され、国清も夢で怨霊に苦しめられたと言う。また、矢口渡では夜に人魂が現れるなどの怪現象が見られ、現地の人々が義興の霊を鎮めるため「新田大明神」としてこれを祀ったと伝えられる。因みに後世に平賀源内がこの話を題材にして「神霊矢口渡」を書いたことは知られている。この話の真偽はともかく、人々の間で欺かれて命を落とした義興への同情があったことは想像に難くない。そしてこれは、国清が反感を買い信望を失うことにも繋がったのである。

7国清の失脚

 延文三年(1358)四月に尊氏が病没し、義詮が第二代将軍となった。それから間もない延文四年(1359)秋、義詮は南朝への大規模な攻撃を計画。これに畠山国清も関東から大軍を率いて参加した。この出兵は代替わりして間もない義詮が権威を確立するのが目的であったが、「太平記」によれば基氏と義詮の不仲が噂されたため、基氏の執事・国清が積極的に参加することでその噂を打ち消す事も狙っていたとされる。つまりは足利政権内の不安定要素を克服するための出兵であったのだ。しかし逆にこの不安要素が露見する結果に終わる。
 当初は、義詮の執事・細川清氏が奮戦したこともあり相応の戦果が挙げられていたが、国清・清氏が仁木義長と対立して義長が反乱したため南朝攻撃は中断せざるを得なくなった。義長を追放することには成功したものの、京の人々は「御敵の種を蒔置畠山打返すべき世とは知ずや」「何程の豆を蒔てか畠山に本国をば味噌になすらん」(「畠」と「種・豆を蒔く」とをかける、また「豆(味噌の原料)」と「味噌になす(滅茶苦茶にする)」とが絡む)と落書し、湯屋でも笑い者とした。こうして国清は面目を失ったばかりでなく、長期の遠征に疲れた将兵が勝手に関東の領地に帰りだしたのである。
 そして関東に帰った豪族達は、国清を糾弾して基氏に追放を求めた。「太平記」によれば基氏は下克上の極みとして心中では苦々しく思ったものの受け入れざるを得なかったと記している。こうして国清は失脚し康安元年(1361)十一月に伊豆に篭って抵抗するが、貞治元年(1361)九月に落城。国清は時宗僧達の保護を受けながら南朝に降伏して捲土重来を図ったが受け入れられず没落した。「太平記」によれば義興謀殺が憎まれたためであるというが、悪評高く全てを失った国清に利用価値を認めなかったと言うのが真相であろう。
 これは一つの出兵が失敗した結果と言うよりもこれまでの国清による路線が反発を受けたためである。国清は集権的な体制を目指して関東の豪族達に強権的な支配を行っており、畿内への大規模な出兵で負担がかかったのをきっかけに不満が爆発したものであろう。基氏は、この一件で現地豪族達の実力を思い知り彼らを無視しては政治運営が難しいことが身に染みたであろう。これが基氏の姿勢に大きな影響を与えるのである。

8上杉氏の復権

 国清が追放された後も、基氏は精力的に文書を発布して関東豪族達を掌握しようとしていた。そして、その中で問題となったのが関東で根強く勢力を張っている上杉氏との関係であった。尊氏に敗れて一度は関東から逃れた憲顕であるが、延文三年(1358)には関東の領国に帰り再び勢いを振るうようになっていた。そこで貞治二年(1363)三月、基氏は憲顕を高師秋から替えて再び執事として復帰させた。これ以降、上杉氏が代々執事(後の関東管領)を継承していくことになるのである。そうして、上杉氏が鎌倉府の中枢に入り込んでいくのであるが、単純にすぐ鎌倉府が上杉氏一色に染まったわけではなかった。
 基氏は憲顕を執事とする一方で、これを抑えられる基氏自身の基盤として高坂氏・河越氏といった平氏系の関東豪族を組織して配下に組み入れていたのである(すなわち「平一揆」)。基氏は単純に上杉氏と和解したのでなく、この後も両者をめぐる駆け引きは繰り返されたのである。
 とはいえ、両者の基本的な政治思想は共通していたようだ。基氏は学問を好む一方で田楽などの遊興は遠ざけたが、これは養父直義を見習ったものであると言う。恐らくは政治への姿勢も同様に直義を模範として関東豪族の自立性をある程度容認する方向を見せていたであろう。これは国清追放を巡っての態度からも伺える。そして言うまでもなく上杉氏は直義派の有力者として長年にわたり政治的にも活躍していた存在なのである。そうしたこともあってか、両者の関係はある程度の緊張を孕みながらも割合に安定していたと言える。

9鎌倉府体制の構築

 この時期になると、南朝との戦いも関東においては下火になったためか基氏を頂点とした鎌倉府の政治体制が整い始めていた。ここでは、鎌倉府における政治機構の概要について述べたい。
 当時の政務における最重要課題は、豪族間の土地を巡る争いの裁定であった。それに対処していたのが評定衆であり、鎌倉府幹部により月三回開かれ土地問題の裁決を行っていた。そしてその訴訟を受理し奉行人を選定していたのが関東管領(執事)であり、時には基氏の側近も受理することがあったようだ。
 そして基氏の軍事的基盤を成したのが直属の奉公衆である。「鎌倉大草子」などからはその数は五百人程度と推定される。初期は吉良・渋川・一色・今川・畠山などの足利一門や上杉・高ら足利譜代、そして二階堂・長井といった旧鎌倉幕府官僚から構成されていたが、次第に関東の地方豪族も組み込まれ次の氏満時代から徐々にその割合を増やしていく。そして第四代・持氏時代には彼らが奉公衆の中心をなすに至るのである。
 それに加えて基氏は経済基盤を確立するために直轄領確保にも力を注いだ。鎌倉期の北条氏領を引き継いで手中にしたのであるが、北関東の領地は現地豪族を味方とするため彼らに分け与えねばならなかった。そのため南関東の相模中部・東部や武蔵南部、旧利根川流域一帯を中心に直轄化し、奉公衆に管理を行わせて地盤を固めたのである。
 次に、鎌倉府が中央との関係でどの程度までの権限を持っていたかについても述べよう。基氏が関東に来る以前には、鎌倉府は現地豪族の所領安堵について中央に推挙する程度の権限しかなく、それも最終決定権は京の直義が握っていた。しかし直義が没落し、基氏が鎌倉の主として本格的に活動するようになってからは徐々に権限が拡大されていく。文和年間には所領宛行権を負かされるようになり、更に棟別銭徴収やそのための大田文(諸国の土地調査文書)作成に関しての権限も鎌倉府が握ったようで、「当国大田文」でなく「常陸国大田文」とこの時期の文書に記されている事からそれが知られる。また土地問題の裁許権については観応年間に既に認められていたようだが、貞和年間になるとそれに応じた上述のような裁判機構が整備されるようになる。
 このように鎌倉府が関東における独自の権限を獲得できた背景には、九州で南朝方が勢力を伸ばしており京の足利政権には関東に従来のような力を振るう余地が少なくなった事が関連していると思われる。ある程度を現地に任せることで政情の安定を図ったものであろう。それが次第に鎌倉府の自立化に繋がってゆくのである。

10その後の鎌倉府

 貞治六年(1367)四月二十六日、基氏は二十八歳の若さで急逝した。子の氏満が後を継いでいる。因みに同年十二月には京の第二代将軍・義詮が三十八歳で没し子の義満が継承しており、東西で同時に世代交代が行われた事になる。
 基氏が没すると上杉氏と基氏直属であった平一揆との対立が表面化するようになり、応安元年(1368)には平一揆が反乱を起こすに至る。憲顕は京への工作をして関東への権限を認可された上でこれを鎮圧し鎌倉府における主導権を確立させたのである。
 基氏は実父・尊氏の言葉を重んじて京の義詮と協調する態度をとっていたが、氏満以降の鎌倉府は京の将軍家に対抗する傾向を強めていく。「殿中以下年中行事」からは鎌倉府が「天子の御代官」と認識されていた事が分かり、関東独立志向ではなく朝廷の宗主権は認めていたものの将軍家に対しては対等の関係として自立を目指していたことが読み取れる。
 氏満時代になっても、関東の主導権を巡って上杉氏との暗闘が見られていた。また、氏満は小山氏・小田氏といった北関東に圧迫を加え更には奥州へも力を伸ばそうと図ったが、北関東や奥州の豪族は将軍家と結びつく事でこれに対抗した。更に京の義満と関東管領・上杉憲方とが結びつくことによって氏満は勢力膨張の断念を余儀なくされ、関東内部での権力確立に専念するようになる。その一方で関東諸国の守護は次第に鎌倉府の支配下に組み込まれていく。関東における守護は、他の地域と異なり鎌倉府侍所や関東管領から制約を受ける立場となったのである。もっとも、こうした関東自立化が進められてはいたものの鎌倉公方(鎌倉府の主)自身は京に上り将軍として足利氏の惣領となることを志向しており関東政権を意識していたかは疑わしい面がある。
 その後も鎌倉府が将軍家と対抗しようとする傾向は変わらず、応永六年(1399)に西国で有力守護・大内義弘が義満に叛旗を翻した際にも満兼がこれに呼応したことは知られている。次の持氏も将軍・義持に対抗的であったが上杉禅秀の反乱で将軍家の助けを借りる羽目になると共に自らの地盤の脆さを知ることになる。持氏は御料所(直轄領)を増やし中でも武蔵・相模・上総・安房の御料国化を目指すとともに、奉公衆を増員して権力強化を図った。更に上杉氏傍流を重用して関東管領を牽制しようとするが将軍家からの圧力により屈服を余儀なくされた。その後、持氏は第六代将軍・義教とも激しく対立し永享十年(1438)には関東管領・上杉憲実と手を結んだ義教によって滅ぼされたのである。
 こうして鎌倉公方は一旦滅亡し将軍家が関東を手中にしたのであるが、今度は将軍家と結んだ上杉氏の専権に反発し、結城氏を中心とする北関東の豪族が持氏の遺児を擁立して挙兵。関東の豪族達も一族争いと関連して両陣営に分かれて争うに至ったのである。
 宝徳元年(1449)には持氏の子・成氏が許されて鎌倉公方となるが、上杉氏と対立して下総国古河に移り北関東の豪族からの支持を背景に独自の政権を樹立した(古河公方)。これまで北関東から反発されていた鎌倉公方家であるが、関東での実権を振るう上杉氏との対立関係から手を結ぶに至ったのは歴史の皮肉といえる。これに対して第八代将軍・義政は弟・政知を新たな鎌倉公方として派遣するが、十分な支持を得られず鎌倉でなく伊豆国堀越に拠点を定めた(堀越公方)。こうして関東は分裂し政治的混乱が続いた。
 15世紀後半の応仁の乱を契機にして京の足利政権が無力化した後、堀越公方は後継をめぐり更に混乱する。これを衝いたのが駿河守護・今川氏の下で力をつけていた伊勢長氏(北条早雲)であった。長氏は、堀越公方を滅亡させてそれを足がかりに関東に勢力を伸ばしていく。これが後北条氏である。後北条氏は上杉氏の内紛による政治的空白に付け入ってこれを破り南関東を支配し、更に氏康時代に古学帽も滅亡させ北関東にも支配を及ぼし秀吉による統一まで関東において覇を唱えるのである。

11おわりに

 鎌倉府は、直義の影響が強い基氏や上杉氏により確立された。そのため、鎌倉幕府・北条氏の政治を理想とする関東の伝統に忠実な政治体制となったと言える。しかしながら時代の波はやはり東国にも押し寄せており、鎌倉府も商業発達を利用しての専制的志向を関東支配においても見せているし、豪族の一族間での争いに悩まされてもいるのである。
 また鎌倉府は様々な対立軸を内部に孕む存在でもあった。当初は対南朝が主であったのは言うまでもないが、更に鎌倉府対現地豪族(特に守護)や鎌倉公方対上杉氏、鎌倉対北関東、そして鎌倉公方対将軍家といった争いが常に見られていたのである。特に将軍家との暗闘は熾烈を極めており、尊氏系と直義系の対立のほかに西国と東国の対立をも背後に控えていたのである。鎌倉府は、こうした様々な対立を背景に妥協として生まれ妥協として運営されたものであった。鎌倉府がそれを調整する力を失った時、関東は政治的混乱に陥り鎌倉府は失墜したのである。そしてその基盤を利用した後北条氏により安定した支配が確立され統一政権へと繋がったといえる。

参考文献:
日本の歴史9 南北朝の動乱 佐藤進一 中公文庫
日本の歴史10 下剋上の時代 永原慶二 中公文庫
日本の歴史11 戦国大名 杉山博 中公文庫
新編日本合戦全集2鎌倉南北朝編 桑田忠親 秋田書店
南北朝時代史 田中義成 講談社学術文庫
足利時代史 田中義成 講談社学術文庫
内乱の中の貴族 南北朝と「園太暦」の世界 林屋辰三郎 角川選書
太平記の群像 森茂暁 角川選書
室町の王権 今谷明 中公新書
日本古典文学大系太平記一〜三  岩波書店
足利尊氏 高柳光寿著 春秋社
足利尊氏 山路愛山著 岩波文庫
日本中世史を見直す 佐藤進一・網野善彦・笠松宏至 平凡社 
ピクトリアル足利尊氏南北朝の争乱 学研
異形の王権 網野善彦 平凡社
馬・船・常民 網野善彦・森浩一 講談社学術文庫
「中世社会の研究 松本新八郎著 東京大学出版会」より「南北朝内乱の諸前提」「南北朝の内乱」
建武政権期の国司と守護 吉井功兒 近代文藝社
鎌倉府体制と東国 小国浩寿著 吉川弘文館
中世国家と東国 伊藤喜良著 校倉書房
鎌倉府と関東 山田邦明著 校倉書房
東国守護の歴史的特質 松本一夫著 岩田書院
歴史群像シリーズ戦乱南北朝 学研
芝蘭堂(http://homepage1.nifty.com/sira/)
日本異譚太平記 戸部新十郎 毎日新聞社
山河太平記 陳舜臣 ちくま文庫


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