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護良親王  NF


1 はじめに

 鎌倉政権打倒に際しての実質上の司令官であり、戦後は尊氏を危険視するも父・後醍醐により排除された悲劇の皇子・護良親王を扱う。

2 誕生

 護良は、延慶三年(1308)に後宇多院の子・尊治親王(後の後醍醐天皇)の皇子として生まれたとされている。母は民部卿三位と呼ばれた女性であるが、その経歴については不詳だ。北畠師親の娘であるとも言われるが、日野経子をさすとも言われる。「太平記」によれば、幼少より聡明で後醍醐は彼を皇太子にしたいと望んでいたというが、実際には後醍醐が後継者として望んだのは護良の異母兄弟である世良・尊良であったようだ。ともあれ護良は、後醍醐天皇が即位した頃には仏門に入り尊雲法親王と名乗っていたようで、正中二年(1325)には梶井門跡に入り承鎮法親王の弟子として天台座主・親源より灌頂を受けている。因みに彼が「大塔宮」と呼ばれるのはこの時に梶井門跡の大塔に入室した事に由来している。また、顕教(経典に記された仏の教え。密教と対比してこう呼ぶ)を仲円から学んだようだ。

3 時代情勢

 12世紀末に鎌倉幕府が成立して以降、主に西を朝廷、東を幕府が支配する体制が成立。13世紀前半における承久の乱の後には調停に対する幕府の優位が確立し、13世紀後半の元寇を契機にして防衛のため西国・非御家人にも幕府は支配を及ぼす必要が生じた事もあって全国的に力を伸ばす。加えてこの頃、朝廷は後深草・亀山兄弟の嫡流争いを基に持明院統・大覚寺統に分裂し、幕府の調停を仰がざるを得なくなる。更に幕府の統制強化の中で国司の権限であった田文作成が守護の手に移るなど土地把握力が低下した。一方で幕府は、朝廷内の争いに巻込まれた上、西国の商業発展やそれに伴う「悪党」即ち非農業民の台頭による社会不安、更には御家人達に生じてきた経済格差による不満に悩まされるようになった。それに対応するため幕府の首班である北条氏は一族の総領・得宗の下で非農業民を支配化に組み込んでの専制体制を志向するようになった。しかしこれは従来幕府の軍事力を支えてきた将軍体制化にある御家人達の反発を買うこととなり、更に朝廷や非農業民の不満も一身に負う様になった。一方で非農業民も日本を背負える程の実力はまだなく、乱世到来の近さを思わせる状態であった。

4 不思議の門主

 北条氏に向けての不満が高まりつつある中、得宗高時や実権を握る内管領長崎高資はそれに対する十分な対策を打ち出しえなかった。一方、両統分裂の中で兄・後二条天皇の子が成長するまでの中継ぎ、すなわち「一世限りの主」として即位した後醍醐天皇は、それに留まる事を良しとせず天皇親政を進めると共に自己の子孫による皇位継承と全国一元支配を目論み倒幕を志向するに至った。後醍醐は北条氏に不満を抱く御家人達に声を掛けると共に、朝廷と繋がりが深い寺社・非農業民らの力を組織して対抗しようと図った。
 そうした情勢下の嘉暦二年(1326)、尊雲は天台座主に任命された。二年後に一旦辞職しているが元徳元年(1329)に再び座主となっている。座主の位に就いている間、尊雲は本業であるはずの仏道を差し置いて武芸鍛錬に余念がなかったため人々は「未(いまだ)斯る(かかる)不思議の門主は御坐さず」と噂し合ったと言う。後醍醐は叡山を倒幕のための武力として期待しており、尊雲の座主就任は叡山を味方に引き寄せる事が期待されての人事であった。尊雲はそれをよく承知しており、挙兵の日に備えて自らを鍛えると共に武力となる僧兵との直接的な繋がりを作ろうとしていたのである。また、後醍醐も自ら叡山や奈良に行幸し多額の寄進を行っており、有力寺社の武力を組み入れる工作を進めていた。

5 元弘の変

 元弘元年(1331)、後醍醐天皇の倒幕計画が吉田定房の密告により幕府に漏れ、幕府は日野俊基らを捕らえられた。天皇の倒幕計画が露呈したのは正中元年(1324)に続いて二度目であり、前回とは違い穏便な結末は期待できないと考えられた。実際、幕府方は天皇を捕らえ譲位させようと考えて大軍を上洛させていた。この動きを叡山の尊雲は察知し御所に知らせると共に叡山への行幸を勧める。これを受けて後醍醐は御所を脱出するが叡山へは向かわず、奈良を経て笠置に篭った。後醍醐が叡山に赴かなかった理由として、まず陥落した際の後背地が存在しない事が考えられる。また、南都は摂河泉に近い事から楠木氏を始めとする味方の土豪を頼みとしたものであろう。一方、比叡山には花山院師賢が後醍醐に成りすまして向かい、西塔に奉じられた。
 時の天台座主は尊雲の異母兄弟である尊澄法親王(後の宗良親王)であり、尊雲は彼と協力して叡山大衆の結束に力を注いだ。天皇自身の行幸と聞いた僧兵達は感銘を受けて結束し、ほとんどが味方に付いたという。一方で天皇の御所脱出を知った六波羅探題(京にある西国の幕府出先機関)は、脱出先が叡山との情報を掴み約七千の軍勢を大津・唐崎方面へ差し向けた。迎え撃つ叡山側も六千の兵力を編成する。そのうち数百人が血気に逸って唐崎に出撃し六波羅方と衝突した。叡山方は無勢のため苦戦を強いられるが隘路を利用して粘りを見せ、その間に山上から数千の軍勢が今路越へと殺到し和仁・堅田からは水軍が大津に回り幕府軍の退路を断とうと動いていた。包囲される危険が生じた六波羅方は退却を余儀なくされたが、その際に追撃を受けて大きな犠牲を出すに至った。
 朝廷側としては幸先の良い勝利であったが、叡山に入った「天皇」が偽者である事が直後に露見したため叡山宗徒は欺かれたのを怒って雲散霧消し、尊雲らは下山して落ち延びざるを得なくなった。偽者の天皇で敵味方を最後まで欺き通す事は難しいのは予想されたであろうから、恐らくは当初より後醍醐が南都で体制を整えるまでの時間稼ぎが目的だったと思われる。この間に後醍醐が笠置山に篭って防備を整えると共に河内赤坂では楠木正成が呼応して挙兵しており、その目的は十分に果たされたと言えよう。
 比叡山の動員体制が崩壊した後、尊雲は尊澄と共に笠置山に赴いて後醍醐と合流。「増鏡」によれば尊雲は間もなく金剛山の楠木正成が篭る赤坂へと移ったと言う。やがて笠置・赤坂に鎌倉から派遣された大軍が押し寄せ、両者は落城し後醍醐や尊澄らは捕らえられ流罪となった。幕府は三種の神器を後醍醐から譲り受けて持明院統の光厳天皇を即位させ事態収拾を図る。しかし尊雲や正成は逃げ延びた。尊雲が京に潜伏していると言う噂が流れた事もあり、六波羅は洛中の取締りを強化するなど大きな不安を抱いていた。

6 逃避行

 尊雲は、その後は潜伏生活を送る事となるが、その時期の消息については「太平記」に記されている。まず奈良に逃れ般若寺に潜伏していたと言われる。後醍醐に近侍し倒幕計画にも加わっていた文観の息がかかった勢力が般若寺には存在しており、それを頼ったものであろう。ある時、幕府方の一条院按察法眼の手勢が襲撃したため仏殿に身を隠した。内部には経典を納める唐櫃が三つ並んでおりそのうち一つの蓋が開いており残り二つは閉まっていた。尊雲はまず開いた櫃に入り経を被って隠れる。隠形の呪を口ずさみ見つかった際にはすぐ自刃できるよう腹に白刃を押し当てて息を殺していると、追手は蓋をした櫃二つを捜索して立ち去っていった。尊雲は用心のために次に蓋をした櫃に移ったところ、果たして先ほどの追手が戻ってきて蓋の開いた櫃を捜索したが見つからない。追手は「大塔宮はおわさず、中に大唐の玄奘三蔵がおわした(玄奘により訳された経典であるため)」と軽口を叩きながら立ち去ったと「太平記」は伝える。余談であるが、「大塔宮」の呼称は「おおとうのみや」と読むのが現在通例とされているが、この事例からは「だいとうのみや」とも言われていた可能性が示唆される。当時の人名の読み方はそう厳格ではなかったのかもしれない。
 危ういところで難を逃れた尊雲は、小寺相模・赤松則祐ら部下を率いて熊野へと向かう事とした。修験者に姿を変えて道中の神社に幣を捧げ勤行も怠らず身元が露見するのを防ぎつつの旅である。「太平記」によれば、途中で熊野は鎌倉方であり危険であると熊野権現から夢で告げられ十津川へと目的地を変更。恐らくは熊野三山での朝廷支持者が一行に知らせたというのが実態であろう。十津川に到着した尊雲らは、まず現地の有力者である戸野兵衛から保護を受けた。戸野の家人が病で悩んでいたのを祈祷で治す事により信頼を得て、兵衛が朝廷に心を寄せているのを確かめた後に身元を明かしたと「太平記」は伝える。兵衛を通じて、その叔父で十津川の元締めである竹原八郎から迎えられ十津川全体が馳せ参じたという。ここで尊雲は還俗して「護良」と名乗り、竹原八郎の娘を娶ったと伝えられる。
 護良が十津川の郷民を味方にした事は、熊野別当にも伝えられた。別当は護良を捕らえた者に六万貫の賞金をかけると共に幕府からも伊勢国串間荘が恩賞として与えられる旨を布告したため、十津川郷民の中からも幕府方に寝返る者が現れるようになった。やがて竹原八郎の子からも寝返る気配があったため護良一行は再び脱出した。
 途中、芋瀬の荘官に行く手を遮られたが、交渉の末に旗を渡した上で通過を認められた。これをもって戦闘した証拠とし荘官が幕府へ顔を立てるためである(尤も、護良配下で遅れて通過した村上義光が奪還している)。更に玉木荘でも遮られ、荘司に交渉しているがこの時は不調で襲撃を受けている。包囲を受け討死を覚悟したところに、紀伊国の土豪である野長瀬氏が数百の兵を率いて救援に駆けつけたため難を逃れた。「太平記」によれば、彼らは護良が守りとして身に着けていた老松明神のお告げで馳せ参じたという。
 「太平記」が描くこの時期の護良の物語には、宗教的・超自然的な影がちらついている。護良がこの時期に滞在した紀伊半島南部は、金剛山地・吉野・熊野・高野と古来より山岳信仰が栄えた聖地が多数存在する地域である。こうした地域は密教と密接に結びついて独自のネットワークを構築していた。修験者は自由に行動が取れるため、広い地域に情報を伝達する能力と人脈を有していたのである。また、沿岸には熊野水軍が勢力を広げており、海上交通においてもこの地域は重要な役割を果たしていた。貨幣経済が発達する中で、彼らは非農業民を支配下に置き侮れない社会的実力を持つようになっていた。護良が嘗て天台座主であった時期に倒幕に備えてこうした勢力とも関係を構築していたであろうことは想像に難くない。無論、幕府方も彼らの取り込みには力を入れていたため必ずしも全てを味方につけることができたわけではないが、決して侮れない支持基盤が形成されていたであろう。「太平記」のエピソードからは修験者が折々で護良のために働き危機を救ってきた事が推測される。また、護良自身が宗教者としての素養を有していた事も伺われ、嘗て僧として体得した力が彼らを味方に引き入れる上で大きく役立ったであろうと思われる。
 さて、野長瀬氏の保護を受けた護良は、槙野城を経て吉野の金峰山蔵王堂に入り、この地で挙兵するに至る。

7 吉野山

 元弘三年(1333)、潜伏していた楠木正成が再び姿を現し、大阪平野の各地で幕府方を撹乱する。更に六波羅の軍勢を摂津渡辺で撃破し、京を恐怖に陥れた。幕府はこれを鎮圧し事態を収拾するために再び大軍を派遣する必要が生じたのである。時期を同じくして、播磨では赤松円心が、大和では高間行秀が、さらに伊予では土居・得能・忽那氏が護良の令旨に応じて挙兵したのである。後醍醐はこの時期は隠岐に流罪となっており、動きが取れない状態であった。護良は水軍を味方につけて後醍醐と連絡を取りながら、実質上の総司令官として諸勢力に反幕府の挙兵を呼びかけていたのである。そして自身は吉野山に入り篭城した。同時期に正成は金剛山の千早城に篭って幕府の大軍を迎え撃つ体制を整えていたのである。この両者は連携し、畿内を中心に新興豪族の糾合を図っていた。
 幕府方は戦いを始めるにあたり正成を捕らえた者に丹後国船井荘、護良を捕らえた者に近江国麻生荘を恩賞として与えると布告しており、総司令と前線での第一人者として二人を認識していた事が知られる。そして吉野には二階堂貞藤が数万の軍勢を率いて殺到し攻囲戦を開始。守る護良方は三千程度であったが、地の利を生かして難所・隘路を利用しつつ翻弄していた。幕府方に参戦していた吉野の執行・岩菊丸は地理を熟知していたため少数の供を連れて裏から蔵王堂に突入、護良方が混乱したのを受けて正面の幕府軍も突撃した。護良は討死を覚悟し部下達と酒宴を開いていたが、村上義光に諌められて脱出。義光は護良の身代わりとして幕府軍をひきつけて時間を稼いだ上で自刃した。この時に義光の子・義隆も護良を守って討死を遂げている。
 どうにか難を逃れた護良は高野山に逃れた。二階堂貞藤は追っ手を差し向けて高野を捜索させるが、衆徒が護良を匿いぬいたためついに発見される事はなかったのである。

8 大日本国皇太子

 一方、千早城の正成は幕府の大軍を相手に一歩も引かず翻弄していた。そして護良も、再び潜伏生活をしながら吉野・十津川・宇陀の野伏を組織して幕府軍の糧道を襲撃する事でこれを援護した。こうした地の利を生かしての神出鬼没なゲリラ戦の他、全国各地へ令旨を飛ばして幕府に不満を持つ豪族達に挙兵を呼びかけていたのである。正成の戦いぶりが九州など遠隔地にまで伝わる事で、全国的な幕府の威信低下が見られるようになった。こうした中で、護良の令旨は越後の三浦和田氏、薩摩の牛屎氏、筑後の三原氏にまで及んでいた。この時期、九州では菊池武時が挙兵して大宰府を攻撃しているが、これも護良の令旨による行動ではないかと推測されている。幕府軍の一員として千早城包囲戦に参加していた豪族達の中にも自分の領地が心配だったり幕府を見限ったりと言う理由で引き上げるものが見られるようになった。上野の新田義貞もその一人であったが、護良がその際に義貞に与えた文書は綸旨(天皇の命令書)の形式をとっていたと「太平記」は伝える。その逸話の真偽はともかく、後醍醐が不在の中で天皇代理というべき役割を果たし朝廷軍の第一人者として大きな役割を果たしていたのは疑いない。護良を「大日本国皇太子」と記す文書も存在しており、一般からもそうした目で見られていた事が伺える。
 やがて、後醍醐も水軍の手引きで隠岐から脱出し伯耆の名和長年に迎えられ、千種忠顕を大将として京奪回のため軍勢を派遣する。忠顕は播磨の赤松氏と共に京攻撃を繰り返すものの苦戦。こうした中で鎌倉から幕府軍第二陣として上洛した足利高氏が後醍醐と内通して寝返り、5月7日に六波羅探題を攻略して京を手中にした。六波羅探題であった北条仲時らは近江番場で自刃。この知らせを受けた千早を包囲していた幕府軍は崩壊し、畿内の幕府方勢力は駆逐される事になる。時を同じくして上野で新田義貞が挙兵し鎌倉を攻略、5月22日に北条高時らは一族と共に自決し鎌倉幕府はその歴史を閉じた。この際に畿内から三木氏が新田軍に参加しており、護良の手によるものであると言われている。

9 将軍宮

 幕府滅亡の直後から、「将軍宮の仰せにより」(勝尾寺文書)のように護良を「将軍」と記す書物が散見される。この頃、京を占領した足利高氏が六波羅探題の実務官僚を吸収して奉行所を開き軍政を布いており、護良はこれを朝廷への新たな脅威と認識してこれに対抗しようとしていたのである。「太平記」は配下である良忠の部下を高氏に処刑された恨みから対立が始まったと記しているが、事実としても切っ掛けに過ぎないであろう。武家の名門として北条氏に代わって武家を束ねようとする足利氏と、朝廷の下に武家を服従させようとする護良の路線とは相容れる筈はなかった。
 後醍醐は伯耆から京へ凱旋するが、護良はこれを出迎えることなく信貴山に篭って動かなかった。後醍醐は護良を再び仏門に戻らせようと考えていたが、護良はこれを拒み朝廷にとって新たな強敵である足利を討伐する事を主張した。しかし後醍醐にとってようやく長い戦いから解放されたばかりの段階で、新たな戦いを始めるのは難しかった。また、最後は勢いに乗ったとはいえ薄氷を踏んでの勝利であったことや味方の疲弊を考えると足利勢との争いは大きな危険であると言えた。そして、形勢を決定付ける大きな功績こそあれ明らかな罪状のない高氏を討伐する事は名分も立たず人々に大きな不安を与える事が予想されたのである。後醍醐にとって、少なくとも現時点では高氏との正面対立は得策ではなかったため、護良を何とか宥めざるを得なかった。そこで、6月3日に護良を征夷大将軍に任じることで妥結するに至った。
 護良は、これに加えて和泉・紀伊を知行国として与えられた。また、丹後にも配下を国司として派遣した形跡があり恩賞として権限を認められたようだ。そうした地域を拠点として、湯浅氏・伊東氏など畿内の豪族を部下として編成した。また、この時期に奥州支配を確立するために義良親王を奉じて北畠顕家が奥州将軍府を設立しているが、「保暦間記」によればこれは護良が北畠親房と図って後醍醐に勧めたものであると言う。護良は、畿内・奥州を味方として固める事で来るべき足利氏との対決に備えていた。しかし、その時は遂に訪れる事はなかったのである。

10 没落

 討幕戦において、護良が天皇代理を務めていた事は前述した。その際に、護良は数多くの令旨を発布し恩賞の約束や所領安堵を行っていた訳であるが、戦中に味方に付くよう呼びかけるものであるから景気の良い空手形を乱発する事になるのは致し方ない。戦後になって新たな秩序を形成するに当たりこれらを全て実行するのは不可能であったが、豪族達や寺社がこれら令旨内容の実行を求めるのは彼ら自身の生活を守るため当然であった。更に後醍醐自身も同様な綸旨を数多く出しており、後醍醐の綸旨と護良の令旨に内容の食い違いがしばしば見られていた(そして恐らく綸旨同士・令旨同士でも食い違いがあったであろう)。建武政権成立直後に所領安堵に綸旨が必要であると定めたのは、令旨の効力を法的に制限してこうした事態に対処する意図であった。ただし実務上の混乱を招いたため7月には諸国平均安堵法が出され各国国司の認定にゆだねる事としているが。そしてこの年の8月末には護良の征夷大将軍が取り消され、令旨の無効が宣言された。護良は明らかに後醍醐から冷遇され、見放され始めていた。「太平記」などでは自分の子を皇太子にしようと目論む後醍醐の愛妾・阿野廉子の讒言によるとしているが、単にそれだけでなく後醍醐自身が護良を危険視し警戒するようになったためではなかろうか。
 護良は、朝廷による統一政権を確立させるために最大の危険分子である尊氏(高氏は後醍醐から名「尊治」の一字を賜り改名)幕府の支配下にあった武力を吸収しようと図っていたのであり、父後醍醐の理想のため邁進していたのであるが、護良自身の意図とは関わりなく後醍醐にとって護良は脅威であり尊氏と同じく「獅子身中の虫」となっていたのである。
 護良が執拗に敵視した尊氏は、後醍醐から見ても無論危険分子であった。前述のように自らの名の一字を与え、頼朝の例に倣い武蔵・相模・伊豆を与え、鎮守府将軍に任じながらも力を付けすぎないように気を配っていた。苦心して面目が立つように計らいながら懐柔しようと目論んでいたようだ。その一方で、「梅松論」によれば護良に密かに内諾を与えて尊氏を討伐させようとしたようである。これには正成や義貞、名和長年らも一枚噛んでいたようであるが、後醍醐としては危険分子二人を噛み合わせて片方を倒し残りも弱体化させようとしていたのではあるまいか。
 後醍醐は、寵臣たちを登用し商工業の直接支配を試みたり広大な旧北条得宗(本家当主)領を自ら独占することで経済基盤の確立を図る一方、紛糾する土地問題に対しては寵臣や旧幕府官僚からなる雑訴決断所を設けることで法的解決を目指した。また、寺社に関しても自らの支配下に組み入れようとして中央集権的な専制体制構築を進めていた。こうした中で、護良は非農業民や寺社・修験道との繋がりを断たれ力を削がれていったであろう事は想像に難くない。着実に豪族達の信望を集めつつあった尊氏との戦力差は絶望的なまでに開き始めており、護良に残された対抗手段はテロリズムのみであった。護良が無頼漢を配下に組み入れ、彼らが京で辻斬りを行っていたという逸話が残っているが、恐らくはこの時期の話であろう。建武元年六月には尊氏の屋敷を襲撃する計画がなされたが、失敗に終わっている。しかしこうした中でも護良は覇気を失っていなかったようで、明極楚俊に参禅し兵仏一致の教えを聞いており「深く教理に通じ、武略人に過ぐ」と高く評価されている。彼の悲しいまでの孤高な意地が垣間見える。
 そしてついに破局が訪れる。建武元年(1334)11月、護良は参内したところを名和長年・結城親光によって捕縛された。天皇に対する謀反の疑いと言う罪状であった。生涯をかけて献身してきた父に捕えられた事が信じられなかったのか、自らの至誠を訴えた書状を後醍醐に宛てて記して温情を求めるものの字体は覆らなかった。尊氏が阿野廉子と結んで後醍醐に護良を讒訴したのが原因と「太平記」は伝える。しかし命を狙われた尊氏が後醍醐に抗議し、後醍醐が火の粉が自らに及ぶのを避けて劣勢覆いがたい護良を切り捨てたというのが真相であろう。護良にとって後醍醐は敬愛する父であり献身の対象であったが、後醍醐にとっては自らの権威に拮抗する脅威であり除かれるべきものでしかなかった。護良は鎌倉にいる直義(尊氏の弟)の元に護送される事となった。これは後醍醐が飽くまでこれを尊氏と護良の私闘であるとしたのを意味しており、獅子身中の虫である護良と心中する訳にはいかなかったという事であろう。道中で「武家よりも君のうらめしく渡らせたまふ」と護良は述懐しているが、当然の心情であろう。これに続いて、護良の部下達も謀反人として処刑されているが、ここでは南部・工藤といった奥州出身と思われる人物の名が目に付く。後醍醐により嘗ての人脈を起たれつつあった護良にとって、奥州将軍府の北畠氏から送られた人々が最後の頼みであったことが察せられる。
 建武二年(1335)、信濃で北条高時の子・時行が蜂起し鎌倉に攻め寄せた。鎌倉を守っていた足利直義はこれを防ぐ事ができず7月22日に一旦関東から撤退する事になるが、この際に淵辺義博に命じて幽閉していた護良を殺害させている。敗走に伴う混乱に紛れて厄介な敵を処分したとも、混乱に紛れて護良が救出され放たれた虎となるのを恐れたためとも言われる。「太平記」によれば、この時に護良は激しく抵抗して歯で刀を噛み折り、首をはねられた後も目を見開いて折れた刃を噛み締めたままであったという。到底事実とは思われない逸話ではあるが、護良の無念を表して余りある。なお、一説では淵辺義博が密かに護良を救出し逃れさせたという話もあるが、護良のような人物がこの動乱の時代に大人しく姿を消すとは思われない。いずれにせよ護良はこのときを限りに歴史から姿を消し二度と現れることはなかったのである。

11 その後

 この北条氏残党蜂起をきっかけにして尊氏は鎮圧を名目に関東へ向かい、鎌倉を奪回した後に朝廷に反旗を翻す。後醍醐は護良に代わる対抗馬として新田義貞を選び尊氏と戦わせるが、最終的に戦局は朝廷に利あらず建武政権は3年で崩壊し尊氏が京に政権を樹立。後醍醐は吉野に逃れ不利な状況下で抵抗する事となる。南北朝動乱の幕開けである。
 もし護良が十分に権限を与えられて尊氏と対抗していたら、という仮定は興味をそそられるが、その際の結末は神のみぞ知るであろう。ただ、そうなったとしても護良が武家に対し尊氏程のカリスマたりえたかは疑問である。護良が(皇子としての威光はあったものの)自らの力で寺社・新興豪族を味方に組み入れたのと比べて、足利氏は歴代の名門で古くから有力者を含めた豪族達の人望を集めていた。加えて尊氏も人気を集めやすい人柄であり、護良としては分が悪かったと思われる。実際に尊氏と対抗したのは護良でなく義貞であったわけだが、今度はその義貞と護良を比べてみよう。護良は権威や全国的信望では義貞を上回っているし個人的武勇・戦略眼においては劣らないと思われる。が、戦闘指揮官としての経験では及ばず戦力として頼みにできる一族の存在もない。また、義貞と違い後醍醐から警戒され十分な援護を得られない可能性が強い。義貞と比較するとやや有利であるが、そう大きな差はなさそうだ。義貞が尊氏に相当の差をつけられていたことも考えると、護良が十分な条件下で尊氏と戦っていたとしても苦戦は免れなかったであろうと思われる。

12読み方の問題

 余談になるが、「大塔宮護良」の読み方について一言述べておこう。戦前においては「だいとうのみやもりなが」と読む事が一般であった。皇室において「良」の字に「なが」の読みを当てる事はしばしば見られたためである。しかし80年代に「おおとうのみやもりよし」と読む事が上横手雅敬氏により提唱され、大河ドラマ「太平記」を契機に世間にも定着した。その論拠としては以下の通りである。@「毛利家文書」における正平六年(1351)常陸親王御使交名に「おおたをのみや」とある事、A那比新宮神社の正平二年(1347)「大般若経」奥書に「応答宮」とある事、B「太平記」古写本である西源院本で「大塔二品護良」に「タウ」と振り仮名があった事から「おおとうのみや」と読んだ事が知られる。「護良」については、兄弟達について以下のことが知られている事から「もりよし」であると類推された。@応安四年(1371)「帝系図」では後村上(義良)を「義儀」(本来「儀義」と書こうとしたと思われ、「のりよし」と読むのであろう)と記している事、A応永十五年(1408)「人王百代具名記」が後村上を「儀良」と書き「ヨシ」と振り仮名している事、B「増鏡」に「タカヨシ」「ヨヨシ」と振り仮名したものが見られる事から後醍醐の皇子達は「〜ヨシ」と呼ばれていた事が知られたのである。南北朝における学説・人物評価は戦前戦後で激変する例も少なくないが、護良の読みもその一つであり戦前世代には新しい読みを耳にしてショックを受けたという話も聞かれる。「教訓物語」としての性格が強かった戦前国史教育と実証を重んじる戦後教育の差異を象徴する話と言えるかもしれない。

13王権と皇子

 ところで、王権においては有能な皇子は頼もしい支えになりうると同時に、王者の権威を脅かす者として疎外される傾向もあるようである。そして、そうした場合において同情・人気は皇子に集まる事が一般のようだ(無論、王者と皇子のどちらが正しいと言うのではなく王者には王者の、皇子には皇子の事情があるわけであるが)。そうした例としては天武天皇の子で皇后(後の持統天皇)に謀反の罪を着せられた大津皇子が知られるし、頼朝に警戒され粛清された源義経もその系統に分類しうるであろう。そして、そうした源流は我が国においては日本武尊に求められるようだ。護良もその例に漏れず、前述のような生存説も見られることからも分かるように民衆の同情を呼んでいたのである。
 近代に入ると、皇室への忠義を鼓吹するために南朝の功臣達を顕彰する目的もあって、護良が幽閉されたという伝承のある(史実とは異なる)洞窟が神社として祀られるようになった。護良を祭神とする鎌倉宮である。日本武尊ら「悲劇の皇子」や正成ら「南朝の忠臣」などと同様に、その悲劇や同情をも忠君愛国の偶像として利用されるにいたったといえる。

14おわりに

 護良は、討幕においては事実上の総司令官であった。朝廷の皇子としては異例にも自ら先頭に立って戦場に身を置き、各地を放浪して豪族と交わり配下に組織した。後醍醐の数多い皇子達の中でも傑出した存在と言えるし、皇室の歴史の中でもかなり際立った存在である。しかしながらそれが災いして父・後醍醐の権威を脅かす存在と認識され悲劇に繋がった。護良は余りにも後醍醐に似すぎており、立ち位置が近すぎたのかもしれない。

参考文献
皇子たちの南北朝 森茂暁著 中公新書
日本の歴史8蒙古襲来 黒田俊雄 中公文庫
日本の歴史9南北朝の動乱 佐藤進一 中公文庫
足利尊氏 高柳光寿著 春秋社
足利尊氏 山路愛山著 岩波文庫
増鏡 和田英松校訂 岩波文庫
神皇正統記 岩佐正校注 岩波文庫
帝王後醍醐 村松剛 中央公論社
南北朝時代史 田中義成 講談社学術文庫
楠木正成 植村清二 中公文庫
建武政権 森茂暁著 教育社歴史新書
図説太平記の時代 佐藤和彦 河出書房新社
日本異譚太平記 戸部新十郎 毎日新聞社
太平記の群像 森茂暁 角川選書
後醍醐天皇 森茂暁著 中公新書
増補無縁・公界・楽 網野善彦 平凡社
馬・船・常民 網野善彦・森浩一 講談社学術文庫
日本の聖地 久保田展弘 講談社学術文庫
山岳霊場御利益旅 久保田展弘 小学館
東洋文庫 修験道史研究 和歌森太郎 平凡社
日本古典文学大系太平記一〜三 岩波書店
「日本中世の国家と宗教 黒田俊雄編 岩波書店」より「中世の国家と天皇」
「中世社会の研究 松本新八郎著 東京大学出版会」より「南北朝内乱の諸前提」「南北朝の内乱」
悪党と海賊日本中世の社会と政治 網野善彦 法政大学出版局
日本中世史を見直す 佐藤進一・網野善彦・笠松宏至 平凡社 
中世を考えるいくさ 福田豊彦編 吉川弘文館
週刊朝日百科日本の歴史12後醍醐と尊氏 朝日新聞社
歴史群像シリーズ10戦乱南北朝 学研
「太平記第一巻 岡見正雄校注 角川ソフィア文庫」より「楠木合戦注文」「博多日記」
日本の歴史11太平記の時代 新田一郎 講談社
「中世悪党の研究 新井孝重 吉川弘文館」より「南北朝内乱期の戦力」
京大本梅松論 京都大学国文学会
南北朝異聞 護良親王と淵辺義博 中丸祐昌 東京経済出版
芝蘭堂」より「梅松論」
週刊朝日百科日本の歴史49記紀の世界 朝日新聞社
日本史の快楽 中世に遊び現代を眺める 上横手雅敬 角川ソフィア文庫


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