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楠木正儀  NF


1はじめに

 「南風競わず」と言われ圧倒的劣勢に置かれた南朝。南北朝動乱の中後期において、その南朝を軍事的に中枢で支えたのが楠木正成の三男である正儀(まさのり)である。彼の苦闘に満ちた生涯を概観するとともに、南北朝期後半における南朝についても見ていきたいと思う。

2時代背景

  11世紀頃より、日本は自給自足的に勢力を伸ばした寺社・貴族や各地の地方豪族が連合して形式的に中央政府(朝廷)を奉ずる形をとり始める。そして12世紀末に東西の大勢力による内乱(源平合戦)を経て東国に政権(鎌倉幕府)が成立して以降、東を幕府・西を朝廷が支配する二重政権の体制となり、承久の乱以降は武力で勝る幕府が朝廷に対し大きく優位に立つ。
 更に13世紀後半になると、元寇を契機に幕府は国防のため東のみならず全国に広範で強力な支配を及ぼすようになる。この頃、領地を分割により相続していた地方豪族たちの間で領地の細分化や本家・庶子の分裂傾向が一族争いの火種になりかねなかった。折からの貨幣経済の発展に伴う支出の増大も豪族たちを苦しめており、これも彼らの庇護者たる幕府への不満を募らせていた。さらに、畿内や瀬戸内海を中心に商業・運送業・芸能を生業とする非農耕民が実力を貯えつつあり、その社会的存在感は侮れないものとなっていたのである。彼らは、貨幣経済の発展を背景に畿内周辺の農村にも入込み、幕府の武力をも脅かす存在となりつつあった。幕府を動かしていた北条氏も彼らを取り込むことで自分たちの権力を強化しようとするが、十分な支持が得られないばかりか旧来の豪族たちからの反発も受ける結果となった。更に朝廷では支配力を弱めたのみでなく皇室が持明院統・大覚寺統に分裂、それに合わせて貴族達も争い幕府の仲介が不可欠であった。しかし北条高時を首班とする当時の幕府はこうした事態に有効な対応ができずにいたのである。
 そうした中で14世紀前半に大覚寺統から即位した後醍醐天皇は親政を行い、非農業民や没落豪族を味方につけての鎌倉幕府の打倒を目論むようになる。皇位継承に干渉する幕府を倒し傍流である己の血統に皇位を受け継がせるためであり、さらに全国支配権を朝廷に取戻すためであった。元弘元年(1331)、後醍醐は挙兵したが幕府の大軍により敗北、持明院統の光厳天皇に譲位させられ隠岐に流された。しかし、後醍醐の誘いに応じて河内で挙兵した楠木正成が元弘三年(1333)に幕府軍を大阪平野各地で翻弄し、金剛山の千早城に篭り幕府の大軍相手に奮闘。これを受けて各地で幕府に不満を抱く勢力が蜂起し後醍醐も隠岐から脱出、そうした情勢下で幕府方の有力者である足利高氏(尊氏)も朝廷方に寝返り京の幕府拠点・六波羅探題を攻略。時を同じくして関東の豪族・新田義貞が鎌倉を滅ぼし後醍醐天皇による全国政権が成立した。
 後醍醐天皇は商工業を通じて台頭する非農業民を味方につけることで中央集権的な専制体制を志向したが、急速で強引な改革は混乱と反発を招き、朝廷や当時の非農業民はそれを抑えきるには余りに力不足であった。豪族たちの期待は彼らの中で最大の名門である足利尊氏に集まる。尊氏は関東での反乱鎮圧をきっかけに朝廷に反旗を翻す。新田義貞・楠木正成・北畠顕家ら朝廷方はこれに抵抗して一進一退の攻防を繰り広げるが、湊川合戦で正成が討ち死にするなど決定的な敗北を喫する。尊氏は持明院統・光明天皇を擁立し対抗した(北朝)上で京に自らの政権(室町幕府)を樹立し、一方で後醍醐天皇は吉野に逃れ自らが正当の朝廷であると主張(南朝)。ここに南北朝の動乱が始まる。
 南朝は修験道など宗教勢力や水軍・新興豪族を主力としつつも各地に味方勢力の扶植を図るとともに京奪回に全力を注ぐが、既に全国的な信望を失っており圧倒的劣勢で後醍醐は失意のうちに崩御。
 一方、尊氏は弟・直義とともに政権の確立を目指し、商工業中心の新興勢力を取り込みつつも農業を基礎におく旧来の豪族たちにも配慮した政権運営で次第に基盤確立を成し遂げつつあるように見えていた。

3正儀登場まで

 楠木氏の出自については「楠木正成」で詳述したが、簡略に言うと大阪平野、特に河内を中心に勢力を持ち河川交通などの運輸や水源管理、商業流通を担って実力をつけつつあった中小の新興豪族であったと考えられている。正儀の父・正成は後醍醐が挙兵した際に赤坂城で呼応し、更に四天王寺などで幕府軍を翻弄した後に千早城で幕府の大軍を相手に少数の兵で互角に戦って幕府の威信低下を招き、不平分子の蜂起を誘発したことは上述したとおりである。この功績が認められて後醍醐政権では和泉・河内・摂津の権益を認められ栄華を極めたが、尊氏が叛乱した際にこれと戦って奮戦するも湊川合戦で足利の大群を相手に奮闘し落命している。
 その後は正成の長男・正行を中心として畿内における南朝の主力として機能し、吉野の防衛を担う。そして正平二年(1347)には南朝の重臣・北畠親房による戦略指導の下で大阪平野を中心に盛んに軍事的活動を開始し、しばしば足利方の軍勢を撃破している。正儀は「太平記」記述から年齢を逆算すると元徳二年(1330)生まれであると思われるが、この時期には既に兄達の補佐に回っていた可能性が高い。

4多難の船出

 相次ぐ敗戦に事態を重く見た足利政権は執事・高師直に大軍を与えてこれに対処させる。正平三年(1348)一月、四条畷で楠木軍はこの大群と遭遇し戦闘に突入。圧倒的大軍の前に正行・正時(正成の次男)は衆寡敵せず戦死し、これで南朝の畿内における主力は壊滅、以降は主体的な軍事活動を行えるだけの実力を失うことになる。これには強硬な決戦による状況の打開を望んだ親房の構想が背景にあり、それが現実と乖離していた結果、破綻したのである。
 さて兄二人が戦死したことで自動的に正儀が楠木氏の当主となり、この難局に対処することとなる。師直らは勢いに乗って南朝本拠まで攻め寄せており、これに対する軍事的対応を迫られたのである。師直によって吉野の御所は焼き払われ、後村上らは賀名生まで逃れることとなった。一方で河内には一月十四日に東条へ高師泰が攻め寄せており、正儀はこれに対し地形を利用して防御して翌年の七月まで睨み合う。また楠木の軍勢は大阪平野の各地で転戦し、正平三年五月には石川河原で高師義を討ち取っている。こうして最初の危機をどうにか乗り切ったのである。
 また、敗戦に伴う味方勢力の同様も大きな問題であった。親房が大阪平野の豪族・和田助氏に三河釜谷荘兼清名の地頭職を与えたり観心寺に尾張国長岡荘を寄進したのと同時期に、正儀も金剛寺など周辺の寺院に所領安堵を行っている。正儀はこの時期に左衛門尉に任官しており、楠木氏当主として正行時代に引き続いて河内・和泉の守護に相当する権限を有していたようだ。上述の所領安堵もそれにのっとって行われたのである。

5観応の擾乱

 この後も、正儀は畿内南朝軍の主力として大阪平野を中心に転戦した。正平三年に足利方が、直義の養子・足利直冬を紀伊に派遣するのもこうした活動への対応である。
 さて、一見すると一枚岩に見えていた足利政権であるが、平時の政務を担う直義と戦時体制を受け持つ尊氏の執事・高師直の間で対立が顕在化し始めていた。文官派・保守的な大豪族・東国・惣領が直義につく傾向があったのに対して、武断派・新興豪族・畿内や瀬戸内・庶子が師直と結びついてこの対立をより深刻にしていた。さて北朝貞和五年(南朝正平四年、1349)閏六月に直義は尊氏に要求して師直を執事から罷免。一方で師直も同年八月にクーデターを起こして直義を引退させその側近も追放、代わりに尊氏の嫡男・義詮を招いた。
 正平五年十月、これを不満とした直義は京を脱出して大和に入り、十一月に南朝と結んだ上で挙兵。十二月九日には直義方の桃井軍が近江坂本から京に侵入しているが、これに楠木氏の一族である和田氏が加わっている。さらに直義が八幡に進出して京を包囲した際には、正儀率いる楠木軍もこれに参加しているようだ。この直義の勢いに、尊氏・師直は対抗しきれず正平六年(1351)二月に降伏し師直は殺害された。こうして直義優位の体制が樹立されたのである。
 その後も直義と南朝の間で和平条件の交渉は継続されていたが、直義が政権を足利氏に代表される有力豪族に任せるよう求めたのに対して南朝は朝廷による統一政権を強硬に主張し、結局は物別れに終わった。この際、交渉に当たった正儀家臣は直義に「この上は南方討伐の大将を差し向けていただければ、我が主は御案内をするでしょう」と口走ったという。南朝で強硬論を唱えたのは恐らく親房であろうが、こうした意見が戦場で実情を熟知するに至った正儀にとっては耐え難い固陋なものと映ったとしても不思議はない。今後も正儀は足利方との和平交渉において活躍するのであるが、南朝の顔が立つ形での和平希求と強硬派への不信感が長らく正儀の心中を占めることとなったであろう。

6正平一統

 さて足利政権内部では、今度は尊氏が直義主導体制に不満を抱いていた。正平六年(1351)八月には尊氏が南朝に降伏を申し出て、十月にこれが受け入れられる。これを「正平一統」と呼ぶ。これをうけて尊氏は直義を鎌倉まで追撃して滅ぼすに至ったのであるが、同時期に全国の南朝方は勢いづく。この機会を利用して京・鎌倉を奪回しようと親房は目論んでいたのである。
 正平七年(1352)二月二十六日、後村上天皇は賀名生を出て、住吉・四天王寺を経て閏二月十九日には八幡に至った。一方、伏見からは北畠顕能が、丹波からは千種顕経軍が京に接近。正儀も大阪平野から京に向かっている。これに対して京の義詮は不安に思い南朝方と交渉を重ねるがそれ以上の有効な手を打てずにいた。そして閏二月二十九日、これらの軍勢が一斉に洛中に侵入。北畠軍は東寺から、千草軍は西七条から、そして正儀らは桂川から攻撃を開始した。後手に回った足利方は、細川顕氏が防戦するが楠木勢はこれを包囲して撃破。さらに細川頼春も抵抗するが、楠木勢の歩兵が盾を利用して家屋の屋根に上りそこから矢を雨のように射掛けるので近づけない。そこへ楠木軍の騎兵が突入して細川勢を壊乱させ、頼春を討ち取っている。
 こうして南朝は京奪回に成功した。南朝方は北朝の神器を回収しするとともに光厳院・光明院・崇光天皇を捕えて吉野に送り北朝解消を行った。更に敵対する者からは権益を剥奪したが、服従する者には旧来の権益を保証。この時に正儀も大山崎神人に荏胡麻を扱う特権を引き続き認める文書を発行している。こうして一時的にではあるが南朝だけが朝廷である現象が出現したのである。この時を特に「正平一統」と呼ぶのはそのためである。

7八幡の攻防

 さて義詮は近江に逃れて軍勢を再編し、三月に入ると反攻体制に入る。大軍を率いて義詮が再び京に入ると、洛中の北畠勢は情勢不利と見て撤退し淀を経て八幡の本軍と合流した。足利軍は八幡の包囲にかかり、これを迎え撃つべく正儀は佐羅科に布陣し「南狩遺文」によれば北畠顕能は大渡に軍勢を展開している。さて足利軍は山崎から仁木義長が、宇治から細川顕氏が八幡攻撃を開始。正儀はこれに対して濠を掘って細川軍と睨み合い、しばしば夜襲をかけて動揺を誘った。八幡の守備は堅固で容易には陥落しない勢いであったが、足利軍は大軍に物を言わせて兵糧攻めを行う。これに対して楠木軍は洞ヶ峠に進出して河内と連絡が取れる体勢を布くと共に神崎方面にも睨みを利かしたのである。そして正儀はこれに加えて拠点の河内で援軍を編成しようと図ったが、現地豪族との争いがあり果たせなかったのである。
 こうしている間に八幡の南朝軍は兵糧が不足し始めた。五月十日になると湯川荘司が足利方に降伏、これを契機に南朝は篭城を断念して撤退戦に入った。足利軍は直ちに追撃し、楠木軍は南朝主力としてこれを懸命に防いでいたが乱戦の中で四条隆資が討ち死にしている。後村上天皇自身も鎧を身につけ馬に乗って辛くも逃げ延びる有様であり、数多くの犠牲を出したのは無理もないことであった。同時期に関東で挙兵した南朝軍も同様に敗退しており、親房主導による乾坤一擲の反攻作戦は失敗に終わった。自前の戦力が不足している以上、無理のある計画であり必然の結果とも言える。こうして南朝は再び吉野山中で逼塞するのを余儀なくされたのである。

8第二次・第三次京攻防戦

 正平一統が破綻して京を放棄した後も、正儀は足利軍との小競り合いを続けていた。正平七年十月に赤松光範を石塔頼房・吉良満貞と共に破っているのはその一例である。
 さて、南朝にとって再度の好機は意外に早く訪れた。足利政権内での内紛はまだ収まっていなかったのである。佐々木導誉と山名時氏が出雲守護職を巡って対立し、時氏が南朝に降伏。これを受けて正平八年(1353)一月、正儀は佐々木秀綱を破って進撃し、伊勢の北畠顕能も奈良に進出した。そして五月に入ると楠木軍は天王寺を経て八幡に布陣し、六月に入ると山名軍が山陰諸国の兵を率いて上洛、奈良からは四条隆俊も派兵した。
 これに対して義詮は三千の軍勢を集めて鹿ケ谷で布陣して迎え撃つ。六月九日、楠木・吉良・石塔の三千は南の八条から京に侵入し、山名軍五千は仁和寺・西七条から進撃して両軍は四条で合流し鹿ケ谷の足利軍に攻めかかった。まず楠木軍と足利方の六角勢が交戦状態に入って相互に矢を射掛けあい、機を見て山名軍が六角勢を突破。続いて山名師氏が土岐勢を、楠木・石塔勢が細川清氏を撃破した。これを見て不利を悟った義詮は京を捨てて近江坂本へ逃れ、更に叡山の動向が明らかでないのを不安視して美濃に撤退している。
 こうして南朝は山名軍と協力することで再び京を手中にしたが、主導権をめぐり山名と不協和音が絶えなかった。更に義詮が美濃で再び体勢を立て直して反攻に出る気配であったため、すぐに京を放棄せざるを得なかった。
 正平九年(1354)四月、南朝の指導的地位にいた北畠親房が没した。以降、南朝の軍事は正儀の双肩にかかることになる。柱石を失っての士気低下を憂慮し、同年十月に後村上は賀名生から金剛寺に行宮を移転させ前進への意志を示した。金剛寺は南朝の最大荘園である八条院領の一部であると共に、和田氏の拠点でもあり南朝にとっては軍事的・経済的に重要地点だったのである。無論、楠木氏の勢力圏でもあった。更に南朝は味方の士気を挙げるべく攻勢をとる。山名時氏が直義の養子・足利直冬を擁立して再び南朝に近づいており、直冬と結んで再び京を窺う事としたのである。同年九月に直冬は南朝から総追捕使に任命され、武家の棟梁として作戦の指揮を執ることとなった。
 十二月に入ると、直冬・山名時氏は七千の兵で但馬を経て、そして旧直義派の桃井直常・斯波高経は三千の軍勢を率いて北陸から京へ向かった。これを見た尊氏は京を守りきれないと判断し近江へ逃れる。正平十年(1355)一月十六日、桃井勢が京に入り、二十六日には正儀が四条隆俊・吉良満貞・石塔頼房と共に三千の兵で八幡に到着した。こうして南朝は三度目の京奪回を果たした。二月六日、山名軍と楠木軍は三島の山上に布陣する義詮軍に奇襲をかける。前衛の細川頼之率いる二千は足元から急襲を受けて潰走、勇猛な山名勢と山岳戦に長じた楠木勢は勢いに乗って義詮本陣を脅かす。しかし佐々木導誉・赤松則祐の手勢が雨のように矢を射掛けて奮戦しその間に他の軍勢が援軍に駆けつけたため、南朝方は惜しくも敗北した。更に尊氏が自ら東山に進出して兵糧攻めの体制を取り桃井・斯波軍と激戦を繰り広げている。尊氏らは京を包囲して兵糧攻めの体勢をとったため直冬・正儀らは三月にやむなく撤退。
 この数年で三度にわたり京奪回に成功したが、いずれも短期間で撤退を余儀なくされている。元来、京は防衛戦に向いておらず守り抜くことは難しい。戦略として京に拘る事自体に無理があると言えよう。また、二度目・三度目についていえば主導権を握っていたのは山名氏であり直冬であって、南朝軍は飽くまで付随的なものであった。南朝は足利政権の不平分子に大義名分を与えて情勢に付け入ることはできても自力で打開する力は最早なかったのである。前線で戦い続けた正儀はそれを痛感することとなった。正儀は「太平記」でしばしば「心少し延たる者」「親に替り、兄に是まで劣らん」「急に敵に当る機少し」と批判されているが、こうした事情を勘案した上で戦場では決定的敗北を避ける慎重・守勢的な戦いを見せると共に和平を追求するようになったのであろう。

9義詮の南朝大攻撃

 正平十三年(1358)四月三十日、足利尊氏が没し義詮が足利政権第二代将軍となった。翌正平十四年(1359)十一月、義詮は自らの権威を確立するために大軍を編成して南朝に大規模な攻撃を企図する。関東からは畠山国清が数万の大軍を率いてこれに参加。この知らせは南朝の君臣に動揺を与えたが、正儀は暦の吉凶・険阻な地形・敵の不和を引き合いに出し天の時・地の利・人の和が全て味方に有利であり必ず勝利できると述べて後村上を安心させた。その上で後方の観心寺に行宮を移し紀伊龍門の砦と金剛山を防衛線とする方針を立てる。更に紀ノ川には野伏を配置し、平石・八尾・龍泉にも城塞を設置して防御力を強める手を打ったのである。
 当初は地の利を生かして足利の大軍を翻弄していたが、次第に兵力の差を覆いきれなくなっていく。龍門は仁木義長に落とされ、龍泉も細川清氏・赤松の軍によって陥落。更に平石城も失った楠木勢は赤坂・千早を頼みとしての籠城戦を余儀なくされつつあった。和田正武はこの情勢を打開しようと少数の兵で足利方に夜襲をかけるが、大勢を変えるには至らない。因みに「太平記」によればこの際、敵兵が正武を暗殺しようとこの一団に紛れ込んでいたのであるが、合言葉をいきなり発して動作の遅れた者を討つという「立勝り居勝り」により露見して失敗に終わったと言う。正儀は千早城で敵を引き付け長期戦に持ち込んで情勢の変化を待つほかなかった。
 これに加えて護良の皇子・興良親王が南朝に反旗を翻したのも同じ時期であり、南朝の命運もあと僅かと思われた。しかし、正平十五年(1360)五月に国清と仁木義長が対立して義長が反乱。足利方は南朝討伐どころではなくなり急遽軍勢を引き上げる。義長は敗れて伊勢に戻って南朝に降り、国清も人望を失って失脚した。南朝は危機を脱すると共に再び攻勢の準備に入ったのである。

10最後の京攻略

 正平十六年(1361)、足利政権では再び内紛が起こっていた。執事・細川清氏が強権を振るって佐々木導誉ら有力者の反感を買い、謀反の疑いをかけられたのである。清氏は九月に南朝に降り、京攻撃を進言。これについて正儀も意見を求められたが、京を落とすだけなら自身のみでも可能であるが守ることは清氏の力があっても難しいと述べて反対している。しかし結局、「一夜だけでも御所で過ごし、後はその夜の夢を偲びたい」という後村上や貴族たちの強い希望により京攻撃が決定した。これまでは南朝の軍勢が京を占拠したことはあっても、後村上自身が入洛した事はなかったのである。天皇として即位していながら都を追われる年月が長く、情勢は次第に不利となり南朝による統一の望みが少なくなっている以上、京に入れる機会があれば縋りたくなるのは無理からぬところであったかもしれない。
 さて十二月に清氏・正儀らは住吉・天王寺を経て数千の兵で京へ進撃。更に赤松範実も摂津から山崎へ進んでいた。これを受けて義詮は佐々木高秀五百を摂津茨木に、今川了俊の七百を山崎に、吉良満貞・宇都宮を大渡に派遣して防衛体制を築いた。しかし細川・楠木軍の勢いに押されてこれらの軍勢は戦わずして撤退し、義詮は不利を悟って京を捨てて近江に逃れた。十二月八日、南朝方は四度目の京奪回を果たした。
 この時、佐々木導誉は退去するに当たり邸宅を飾り立てている。まず美しく清掃し、六間の客殿に紋付の大畳を並べて中央と両脇に掛軸・花瓶・香炉・茶釜・盆を整えた。更に書院には王羲之筆の草書の偈・韓愈の掛軸を、寝所には沈香の枕・緞子地の夜具を飾り、加えて十二間の夜警室には鳥・兎・雉・白鳥の肉を3本の棹に懸け並べ3石の大筒に酒を満たし、その上に時宗僧二人を留め置いてもてなす様命じる徹底振りであった。導誉の屋敷を占拠したのは正儀であったが、これを知って感嘆し導誉に私怨を持つ清氏が焼き払うよう求めたのを拒んで自らの宿所としている。
 さて京を占領したものの全国における南朝方は振るわぬ状態であった。唯一九州のみが菊池氏により隆盛を誇っていたが、京を救援できる距離ではない。やがて義詮は軍勢を再編し、佐々木・赤松を中心として京を挟撃する体勢をとり始めたため十二月二十六日に南朝は再び撤退。この際、正儀は佐々木邸を前以上に飾り立てた上で返礼として鎧・太刀を置いて立ち去った。「太平記」は古狸に騙されて鎧・太刀を取られたと笑いものにしているが、明日知れぬ戦乱で粋な振る舞いを見せた敵に粋で返した小気味良い逸話であると言えよう。
 その後、清氏は四国に渡り拠点を築こうとするが細川頼之に敗れて討ち取られる。正平十七年(1362)には正儀が和田正武と共に反攻を試み、摂津渡辺橋で佐々木軍と戦っている。この時、佐々木軍が橋を守って渡河を防ごうとするのに対し、正儀らは野伏を入れた数千の軍勢を率いて密かに上流で渡河して佐々木軍の背後に回って急襲をかけて破り、続いて兵庫に進出して赤松軍と対峙しているが一時的な成果に終わった。これ以降、南朝が京を奪回する機会は訪れることはなかったのである。

11南朝における政治機構

 正儀が軍事的主力として活動した時期の南朝における情勢・政治機構についてみておきたい。
 正儀が兄達の戦死に伴って家督を継ぐ直前において、既に南朝は各地で旗色が悪く支配領域もかなり限られたものとなっていた。早くも興国四年(1343)には北畠氏は伊勢玉丸城を失陥して多気城に撤退、更に伊賀における味方勢力も縮小していた。また奥州でも正平二年(1347)に北畠顕信が霊山・宇津峰など拠点となる城を失って逼塞を余儀なくされた。前述の観応の擾乱に乗じて一時は宇津峰城を奪回しているが正平八年(1353)には早くも再び落とされて以降は顕信の活動も見られなくなる。こうした状況において、南朝の支配領域は極めて限られたものとなり中でも大和・紀伊・河内・和泉に重点が置かれるようになる。しかしそうした中でも、曲がりなりにも天下を二分する勢力として、政権としての形式が整えられていたようである。
 まず経済基盤であるが、支配下の荘園に「朝用分」と呼ばれる支出が課されていたようである。この「朝用分」は、南朝に属する寺社領を「一時的に」召し上げてそこから朝廷の収入を得ると言うもので、正平年間から最末期の元中年間(1380年代後半から1392)に至るまですなわち南朝中後期全体において認められている。打ち続く戦乱の中で、現地において軍費を調達する必要からこうした制度が生まれてきたものであろう。正儀も河内・和泉の寺社に「朝用分」を命じたり祈祷など協力を条件に免除したりする文書を残している。おそらくはこの地域の守護として徴収に携わったものであろう。戦乱において「一時的に」行うという名目で実質的に永続化したであろうことも想像に難くない。そう考えると、この「朝用分」は足利政権における「半済」(荘園の半分を軍費として守護が手に入れることができる制度)と極めて類似した性格を持つと言える。
 そして一般政務の中心を占める土地問題を扱っていたのが、「武者所」である。後醍醐天皇の統一政権期には御所警備を担うとされた「武者所」であるが、この時期は四条隆資らにより所領宛行を行う南朝の中心機関となっていたようだ。そして聴断制により南朝の中心人物が参加しての評定が行われた。因みに「聴断」とは天皇の意志が強く作用する事を意味しており、貴族たちの合議制をっ中心としていた持明院統とは異なる大覚寺統の伝統にのっとったものと言える。鎌倉幕府で言えば合議を重んじる評定衆・引付衆というよりは得宗(北条氏惣領)臨席の寄合に近い性格の最高意思決定機関であったといえるかもしれない。
 さてその決議を執行するのが現地の国司・守護であった。河内・和泉においては「宮将軍」が綸旨を確認する調査のため在庁官人(国府に勤務する官吏)を指揮しており、正儀が綸旨の内容を実行に移すよう命じている。これは「宮将軍」が国司として、正儀が守護としてその職分を果たしたと考えてよいであろう。因みに正平十年(1355)頃から正儀は河内守に任じられており、守護・国司を兼任したと見てよい。
 そして中央の官職は、従来の朝廷に準じると考えてよいであろう。「新葉和歌集」から伺える南朝宮廷の構成員は、摂関家に始まり北畠・勧修寺流藤原氏など中流貴族まで一応の人材は揃っていた様であるから宮廷の形式を小規模ながらも整えることはできたと見られる。
 宗教的にも、荘厳浄土寺で御八講(法華経の講話)が行われ如意輪寺に南朝皇族の墓所が置かれたほか、四天王寺も南朝の支配下にあった。更に観心寺・金剛寺・住吉神社が一時は南朝行宮とされていたことも考えに入れると、ある程度の規模で慣例の宗教儀式は行われていたと言えよう。そして天皇の身体を呪術的に守る護持僧も文観・仁誉など密教僧が勤めていたのである。
 更に中央政府としての威信を保つために文化事業も盛んに行われた。しばしば歌合が行われ宗良親王により「新葉和歌集」に纏められたのは有名であるが、有識故実や宮廷文化の研究も行われ長慶天皇の源氏物語研究「仙秘抄」などに結実している。
 以上のように、南朝は小規模ながらも中央政府としての形式を備え、朝廷としての伝統的な形式を重んじながらも実務的な面では足利政権とも共通した性格を多く持つ政権であったと言える。

12和平交渉

 この時期、南朝と足利方の間にしばしば和平の話が持ち上がっている。最初は正平三年(1348)における四条畷での敗北直後であるが、「園太暦」によれば師直が夢窓疎石や西大寺長老(「西大寺代々長老名」によれば信昭)を仲介させてこれを機会に南朝との和平を進めようとしたという。しかしこの時には交渉が余り進捗した様子がない。
 次は正平五年(1350)、観応の擾乱において直義が南朝と結んだ際のこと。直義が師直を粛清した後も南朝との和平交渉を進め、南朝側の代表を正儀が務めたことは前述した。この際には直義がともかく朝廷を統一し持明院統・大覚寺統が交代で皇位につくことを主張したのに対し、南朝が後醍醐系統による皇位継承や朝廷による統一政治を主張し物別れに終わっている。足利方はこの後も、南朝を平和裏に吸収して統一に持ち込む事を基本条件とすることになる。
 翌年の正平六年には尊氏が直義と対抗するために南朝に降伏、一時的に北朝が廃され南朝が京を奪回することとなった。上述の正平一統である。南朝は北朝の天皇や院を連れ去り三種の神器を回収したため、それ以降の北朝天皇はその正統性を保証する存在を欠いているといえる。基本的に北朝の貴族たちは足利政権と南朝との和平に不快を示すことが多いが、この時のように北朝が見捨てられる形になるのを恐れるためである。
 その次に和平の話が持ち上がったのは正平十五年(1360)、「愚管記」によれば義詮が南朝に大規模な攻撃をかける一方で和平を呼びかけていたとされる。その後の正平二十年(1365)に四天王寺金堂上棟式が後村上列席の下で行われた際、足利方から馬が献上されたと「師守記」は伝えており、この時期には足利政権と南朝はある程度の歩み寄りを見せていたようだ。後村上も長い戦いで南朝にとっての厳しい現実を認識し、徐々に和平へと傾いていたのかもしれない。
 そうした中で正平二十一年(1366)から二十二年(1367)にかけておこなわれた和平交渉は、それまでになく進展したものとなった。足利方の担当は佐々木導誉であり、南朝方は正儀である。「師守記」によれば両陣営が条件面で大凡の同意に達し、北朝天皇の同意も得た上で関東の基氏に意思を確認し最終決定をするという段階にまで至ったようだ。その状況で正平二十二年四月二十九日に南朝から葉室光資が使者として義詮に謁見しているが、ここで急に和平交渉は破談に終わった。「後愚管記」は、南朝方の文書に(義詮が)「降参」と書かれていたため義詮が気分を害したのが原因と記している。その後も同年八月まで一応の交渉は続けられたようだが、ついに和平には至らなかった。ほとんど話が纏まっていながら急に破談となった裏に何があったかは明らかでないが、翌正平二十三年(1368)に後村上が崩御していることを考えると、交渉中に後村上が病などにより影響力を低下させ主戦派が台頭した可能性が指摘される。この時期は懐良親王を擁する菊池氏が九州を統一支配し東上する気配も見せていたが、こうした事が彼らを強気にしたのは想像に難くない。
 正儀はこれら和平交渉の少なくとも二度にわたって南朝代表を務めており、その他の時期も前線にいて交渉に関与した可能性は高い。厳しい戦況を熟知しているだけに、無謀な戦いで破滅するよりも面目の立つ形での和平の方が現実的であると考えるようになったとしても不思議はない。しかし、こうした実績が正儀を南朝内部で微妙な立場に追い込むこととなる。

13和平派の敗北

 後村上の晩年には、正儀は後村上と極めて密接な関係を持つようになる。正平十六年(1361)頃には左馬頭に任命され、正平二十年(1365)頃には左兵衛督の官職を授けられている。左兵衛督は従四位下相当で、参議でない人が任じられるのはまれ(鎌倉幕府第二代将軍源頼家が例外として存在)であった。正儀は特例で任じられた訳であり、直義が最後に任じられた官職であることや頼家の例も考慮すると武家の棟梁扱いに等しいと言えよう。更に正平二十年(1365)には正儀が後村上の綸旨奏者を務めており、蔵人(天皇の秘書)の役割も果たしていたのである。しかし正平二十三年(1368)三月に後村上が崩御し寛成親王が即位する(長慶天皇)と状況は一変する事になる。
さて、この時期の南朝は史料が乏しく長慶即位の有無に関しては定説のない状況であったが、大正期に八代国治が史料を整理して長慶が実際に在位した事を論じて以降はそれが定説となっている。そこで述べられている論拠についてここで紹介しよう。まず後柏原天皇時代の「帝王御系図」に「吉野帝 法皇寛成」と記されており寛成の即位を示唆している。そして応永二十二年(1415)に後小松天皇の命で編纂された「本朝皇胤紹運録」で寛成の下に「於南自立 号長慶院」、弟・煕成の下に「自吉野降参、蒙太政天皇尊号、号後亀山院」と記されており北朝もその即位を認めたと考えることができる。更に、富岡家所蔵の「新葉集」における応永三十二年(1425)奥書に「慶寿院法皇御在位の時」編纂されたとあり、応永三十三年(1426)奥書で挙げられた「新葉集」歌人の生存者に「慶寿院法皇」の名は入っていない。この時点で後亀山は存命であるから、「慶寿院法皇」が後亀山でないことは言えそうである。加えて「建内記」に海門和尚を「後村上御孫、慶寿院御子」と記した記事があり、また観心寺に海門が所領を長慶院の遺命により処分した文書が残されていることからも「慶寿院」は長慶の事であり彼は南朝で即位したと考えてよい。更に言うと、天授三年(1377)に編纂された「嘉喜門院集」では「内の御方」(天皇)に「長慶院」と端書されており、「畊雲百首」で「天授二年仙洞並当今」の「仙洞」(上皇)に「長慶院」、「当今」に「大覚寺殿」と端書されていることもこれを裏付けると言える。
 次にその在位期間であるが、弘和元年(1381)に編纂された「新葉集」に「三代の御門に仕え」とある事からこの時期にはまだ在位していたと考えてよい。一方で「花営三代記」には文中元年(1372)に南朝天皇が譲位したという噂を記しているが信憑性では「新葉集」に劣るといえよう。元中元年(1384)に長慶の院宣が認められていることから、弘和三年(1383)前後に弟・煕成に譲位したと見てよいであろう。
 この長慶が在位したと思われる期間において、和平交渉は一度も行われていない。史料が少ないため断定するのは危険であるが、この点からも長慶や彼を擁立した人々は主戦派であった可能性が強い。大和・紀伊・河内・和泉の山間部にしか綸旨が及ばないような弱体勢力において強硬な主戦論を唱える事は、現実が見えていないと言われても仕方ないかもしれない。しかし、極めて弱体化しているからこそ強硬な原理的主張を唱えて鼓舞しなければ空中分解の危険があったとも見ることもできる。彼らは九州の味方が来援する事に一縷の望みをかけていたであろう。ともあれ、こうした情勢下では和平を唱え続けていたであろう正儀の立場は難しいものとなる。彼が長慶や強硬派貴族から遠ざけられるようになったであろうことは想像に難くない。

14北へ走る

 正平二十四年(1369)一月、正儀は突如として足利方に降伏する。これを受け入れたのが足利政権において第三代将軍義満を補佐する管領・細川頼之であり、同年二月に正儀は和泉・河内の守護職を保証されており四月には上洛して頼之や義満に対面している。また、南朝時代の官職・左兵衛督は武家の棟梁に相当するものであるので、北朝降伏後は中務大輔に変更となっている。正五位相当であるから格下げではあるが、慣例から言って実質的にほぼ同格と言ってよい官職であり、足利方が正儀にかなりの配慮をしていることが伺える。南朝の武力を担っていた正儀が降伏した事実は、大きな宣伝効果を持つと考えられるためこれを天下に知らしめるためもあっての厚遇であろう。
 正儀がここで北朝に降った真意を知ることは難しい。南朝強硬派の台頭が契機であることはほぼ間違いないが、その目的には諸説あるようだ。南朝の主力である自分が抜ける事で和平止むなしという方向に導くつもりだった、南朝で和平を策すのが難しい以上は身を移して頼之と和平条件を詰めるつもりだった、などと色々言われていた。しかし後述するように積極的に南朝攻撃に参加している点も考えると、現実に即しない強硬な貴族たちの主張に反発した結果ではないかと推測されている。考えれば、こうした主張によって父や兄が死に追いやられており自身も無理な戦いに従事させられた。そしてこの時も長年の功労にもかかわらず評価されず微妙な立場に立たされたであろう。あるいは内通の疑いをかけられたかも知れぬ。そうした長年の怒りと不満が、この時に臨界点を突破したのではないか。この正儀の振る舞いは、大坂の陣において片桐且元が豊臣家存続のため尽力したにもかかわらず内通を疑われて徳川方に移り、戦いでは大坂城に大砲を打ち込んだ事実を想起させるものがある。
 さて正儀が足利方に陣営を変えた事実は、楠木一族の強い反発によって応じられることとなった。北朝応安三年(1370、南朝建徳元年)には和田正武と正儀の軍勢が衝突しており、これに対して頼之は養子・細川頼基を援軍に差し向けている。しかし足利方の有力者には頼之に反発するものも多く、援軍の将たちも積極的に正儀・頼基を援助しようとしない。そのため頼之が出家を仄めかし義満が宥めることでようやく援軍が動き出す騒ぎになっている。正儀は足利政権内部で孤立傾向にあり頼之のみが頼りであったことが伺える。
 北朝応安六年(1373、南朝文中二年)八月、正儀は足利軍を案内して南朝行宮である金剛寺を攻撃した。この時に南朝強硬派である四条隆俊が戦死し、長慶は天野に逃れている。更に土丸城の橋本正督が正儀の誘いにより足利方に降伏、九月には紀伊有田も足利軍に降った。この時期には今川了俊による九州経略も軌道に乗り始めており、南朝方の勢力は日毎に縮小していたのである。
 さて北朝康暦元年(1379、南朝天授五年)に管領・細川頼之は反対派の有力者達に押されて地位を追われ、斯波義将が管領となる。正儀はここに庇護者を失った。また和泉守護職も台頭しつつあった山名氏清によって永和四年(1378、南朝天授四年)に既に奪われていた。足利政権には正儀の居場所は最早なくなっていたのである。

15南に帰る

 弘和二年(1382)には正儀は再び南朝に帰参していたようである。足利方への降伏により一族の離反を招いた事や足利政権内部で孤立した事が大きな打撃であったろう。そして省みて、自分はやはり南朝方の人間であると思い定めたものであろう。南朝としても圧倒的劣勢の中では長らく武力を担ってきた正儀の存在は貴重であったため迎え入れるに吝かでなかったろうし、主戦派の発言力が弱まったことも正儀にとって帰参への抵抗を少なくしたであろう。彼の死に場所は他の一族と同じで結局は南朝であった。この年の閏一月、正儀は平尾で山名氏清の軍勢と戦って、一族数人・士卒百四十人を失う大敗を喫している。最早、南朝の頽勢を留めることは誰にもできなかった。
 さて南朝は帰参した正儀に対して以前と同じ左兵衛督として待遇、更に翌弘和三年(1383)には参議に昇進させて貴族待遇としている。同じころ、長慶天皇が退位して煕成親王(後亀山天皇)が即位した。この天皇の下で再び和平派が力を強めたようで、正儀は彼らからの期待を受けたものであろう。その後も正儀は河内・和泉で元中三年(1386)まで文書を発行しているのが知られているが、それ以降の事跡については不明である。

16その後

 元中九年(1392、北朝明徳三年)閏十月、後亀山は北朝・後小松天皇に三種の神器を譲渡。ここに六十余年に及んだ南北朝の争いはいったん幕を閉じた。しかし、その後の展開は旧南朝側に大きな不満をもたらすこととなった。両朝合体時の約束では皇位を両系統が交互に継承することとなっていたが、実際には守られることはなく北朝系統が受け継いでいった。また、南朝が支配することとなっていた国衙領(公領)も豪族達に侵食され実質が失われており経済的にも苦境にさらされる。
 こうした中で旧南朝勢力がしばしば不平分子と結びついたりして挙兵しているが、その中に楠木氏の姿も認められている。早くも合体間もない応永六年(1399)における大内義弘の反乱に楠木一族が参加している(正儀の子・正勝とされる)のが「応永記」から知られる。それ以降も主なものだけを挙げると、正長二年(1429)に楠木光正が第六代将軍・義教を奈良で暗殺しようと謀って捕らえられ処刑されている。永享九年(1437)には河内で楠木一族が挙兵しており、嘉吉三年(1343)に南朝残党により神璽が内裏から奪われた際も楠木次郎が関与している。そして文和四年(1447)には楠木雅楽助が紀伊で挙兵して宇都宮・畠山に討伐された。寛正元年(1460)には楠木某が挙兵に失敗して処刑されている。そして応仁の乱の最中である文明二年(1470)、天皇・将軍を要した東軍・細川勝元に対抗するため西軍・山名宗全が旧南朝皇族を擁立した際に楠木氏も加わっていることが知られている。
 これ以降は、足利政権が実力を失ったこともあってその不平分子が擁立する旧南朝勢力も姿を現さなくなる。無論、楠木氏も表舞台には見られなくなるのであるが、永禄二年(1559)には楠木氏子孫と称する正虎が正成の朝敵赦免を要求して容れられている。後に正虎は織田信長の祐筆として活動。また、北畠親房と共に関東で活動していた楠木一族の子孫が数原氏と名乗り徳川期に水戸徳川家・徳川将軍家に侍医として使えたことが知られる。旧南朝として抑圧を受けていた楠木氏も、ここで社会的に地位をある程度回復したと言えるのである(実際に子孫であったかは確かめるすべはないが)。そして水戸徳川氏の「大日本史」などにより、楠木氏は「忠臣」として称揚されるようになり近代に至る。

17おわりに

 正儀は元来性格的に温和であったようで、「吉野拾遺」には正儀を仇として狙う能王という人物もその温情にほだされて帰服した逸話が記されているし、「太平記」にも正儀が溺れた敵兵を救出して衣類・医薬を施した話が残っている。後者に関しては父・正成や兄・正行にも同様の逸話が存在し、楠木氏代々の家風であったと言えるかもしれない。こうした人柄に加えて苦しい戦況への洞察が、正儀を慎重な守勢派・和平派へと育てたものであろう。一時期に北朝へ降ったために毀誉褒貶のある人物であるが、総体的に見れば南朝の柱石として楠木氏惣領の名を汚さなかったといえるし貢献度・力量においては父や兄にも決して劣るものではないと言える。圧倒的劣勢におかれた南朝後期においては第一の人物であろう。

参考文献
日本古典文学大系太平記一〜三 岩波書店
日本の歴史9南北朝の動乱 佐藤進一 中公文庫
太平記の群像 森茂暁 角川選書
楠氏研究 藤田精一 廣島積善館
南朝の研究 中村直勝 星野書店
南朝全史 森茂暁 講談社選書メチエ
皇子たちの南北朝 森茂暁著 中公新書
戦争の日本史8南北朝の動乱 森茂暁 吉川弘文館
新編日本合戦全集2鎌倉南北朝編 桑田忠親 秋田書店
南北朝時代史 田中義成 講談社学術文庫
南北朝 林屋辰三郎 朝日文庫
内乱の中の貴族 南北朝と「園太暦」の世界 林屋辰三郎 角川選書
闇の歴史、後南朝 森茂暁 角川選書
異形の王権 網野善彦 平凡社
建武政権 森茂暁著 教育社歴史新書
足利尊氏 高柳光寿著 春秋社
足利尊氏 山路愛山著 岩波文庫
ピクトリアル足利尊氏南北朝の動乱 学研
南北朝動乱と王権 伊藤喜良著 東京堂出版
歴史群像シリーズ戦乱南北朝 学研
日本の中世国家 佐藤進一 岩波書店
「日本中世の国家と宗教 黒田俊雄編 岩波書店」より「中世の国家と天皇」
「中世社会の研究 松本新八郎著 東京大学出版会」より「南北朝内乱の諸前提」「南北朝の内乱」
悪党と海賊日本中世の社会と政治 網野善彦 法政大学出版局
南北朝動乱と王権 伊藤喜良著 東京堂出版
日本異譚太平記 戸部新十郎 毎日新聞社
山河太平記 陳舜臣 ちくま文庫


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