アクセス解析
カウンター


光厳天皇  NF


1はじめに<

 鎌倉幕府に擁立され即位し、尊氏に大義名分を与え実質上の北朝初代となった光厳天皇。その苦悩の生涯を概観しながら、北朝の政治的実態について見ていきたいと思う。

2当時の情勢

 8世紀初頭に確立した中央集権的な統一政権は、9世紀には衰退の兆しを見せる。生産力の向上に伴って貧富の差が拡大し、貧困層が没落する一方で実力を付けつつあった地方豪族は彼らを支配下に納め自給体制を各地で形成した。中央政府(朝廷)は豪族達の利権を黙認し、人口を把握するのを断念して土地単位での税徴収体制に転換。こうして大土地所有者たる有力貴族・寺社・地方豪族が連合体の盟主として朝廷を奉ずる体制が11世紀前半に確立した。
 やがて、地方豪族の実力向上に伴い彼らを支配下に組み入れた軍事貴族が台頭。12世紀末には軍事貴族の代表者である源氏・平氏による内乱を経て、勝利した源氏が東日本に軍事政権である鎌倉幕府を樹立した。幕府は朝廷の宗主権を名目上は認めつつも東日本を中心に独自の支配体制を確立。こうして朝廷が西日本、幕府が東日本を支配する形となり、特に13世紀前半の承久の乱以降は軍事力に勝る幕府が圧倒的優位に立ち支配権を広げた。13世紀末のモンゴル帝国(元)来襲(元寇)を契機として幕府首班・北条氏は国防の必要上もあって全国規模で支配権を強化、発達しつつあった商業勢力を把握して専制化を進める。
 一方で、従来より幕府に従属していた豪族達(御家人)は分割相続による支配領域の零細化、商業発達に伴う貧富の差の拡大、元寇やその後の海岸警備による経済的負担もあって専制化する幕府に不満を募らせていく。また、経済先進地域であった畿内を中心に、貨幣経済発達に伴い非農業民を支配下に置く新興豪族が台頭、伝統的勢力としばしば衝突し「悪党」と呼ばれ朝廷・幕府すら統制しきれない存在となっていた。幕府は彼ら非農業民の組み入れに腐心するものの、西国の非農業民は伝統的に朝廷と深い繋がりがあった関係からか、「悪党」らは寧ろ自らを制肘する存在として幕府へ反感を持つ傾向があった。
 北条氏は専制化を進める一方で、各階層から反発を買い孤立化も進んでいた。人々の不満や社会不安が高まりつつあり、それが統治責任者として北条氏に向かっている状況だったのである。
 加えて、承久の乱以降弱体化していた朝廷が更に皇室や有力貴族が地位をめぐって分裂。中でも皇室は皇位や「治天の君」(皇室の家長)をめぐって持明院統・大覚寺統に分裂して激しく対立し、幕府による調整を余儀なくされていた。これもまた北条氏にとって厄介事の種といえたのである。

3持明院統

 持明院統は、後嵯峨天皇の長子・後深草天皇から始まる系統である。後深草は父の命により若くして父が寵愛する弟・亀山天皇への譲位を余儀なくされ、以降も亀山の子・後宇多天皇が即位し亀山が「治天の君」となるなど亀山の系統(大覚寺統)の後塵を仰ぐ状況であった。後深草は失望し出家も口にする程であったが、朝廷内の実力者・西園寺実兼が京極為兼と共に幕府に働きかけた結果として弘安十年(1287)に後深草の子・伏見天皇が帝位を得るに至る。この功を契機として実兼・為兼は更に勢威を強めた。そして更に永仁六年(1398)には伏見の子・後伏見天皇が継承し持明院統に春が訪れた感があった。
 しかし正安三年(1301)に実兼が今度は大覚寺統に与力し、後宇多の子・後二条が即位。これは勢力均衡の観点からであったようで、延慶元年(1308)には伏見の子・花園天皇が位についている。そして為兼が主導して勅撰集「玉葉集」を編纂したのが花園在位中の正和元年(1312)の事であった。為兼による京極派和歌は前衛的な傾向が強く反発も強かった。そして、持明院統に密着して政治的立場を強めた為兼は実兼と対立するようになり、その結果として実兼は大覚寺統寄りの立場を取る。すなわち文保元年(1317)の文保御和談である。この際、大覚寺統の言い分がほぼ通され、皇位は後宇多の次男・尊治親王(後醍醐)に譲り皇太子は後二条の子・邦良親王とされ持明院統は立場を失った。こうして翌年に後醍醐天皇が即位したのである。これが、量仁(光厳天皇)が育った時期の状況である。

4幼少期

 量仁親王は正和元年(1312)七月九日に後伏見を父に、広義門院寧子(実兼の孫)を母として生まれた。早くもその翌日に親王宣下を受けた事から分かるように、彼は早くから将来の帝位を期待されており祖母・永福門院(実兼の娘)や父・後伏見、叔父・花園の下で手厚く養育された。そのため「花園院宸記」に彼の幼少期についての記録が豊富に存在する。当時の人物で幼少期が詳細に判明するのは貴重であり、以下は貴人の教育課程を知る上でも参考になると思われるので記していく。
 後伏見院が量仁と栗拾い・独楽遊び・人形遊びなどに付き合う一方、手習に関しては好学な花園院が主に担当した。七歳の元応元年(1319)一月十九日には読書始が行われ、菅原在兼により書物(当時の通例から「孝経」と思われる)、菅原家高により「千字文」の講義が行われた。またこの年の十一月に後伏見が琵琶の手ほどきを始め万歳楽・五常楽を教える。花園により連句の訓練が始められたのもこの頃であろう。連句は複数の人数で漢詩の二句一連ずつを作って一つの詩を作る遊びであり、これを通じて対句や押韻平仄など漢詩の規則、字の意味や発音などを学ぶ事ができるため初学によく用いられた。しかし花園は飽くまで文字を覚えさせるためのものと位置付けており、一定年齢に達すれば儒教を教え帝王の徳を身に付けさせようと考えていた。元亨二年(1322)、仮元服した量仁は初めて詩を作ったという。また永福門院からは和歌教育を施されており、元亨三年(1323)五月には歌会で歌を詠じた。この年十一月十七日、十一歳で着袴の儀が行われ更に二十九日に琵琶始、十二月十九日には笛始とそれぞれ今出河兼季を師として正式に音楽教育が開始された。元亨四年(1324)正月十五日の作文会には後伏見院御製に准じて臣下の名を借りず作品を提出しており持明院統内部では皇太子に擬した扱いである。その後も作文・連句・詠歌の練習は行われ、十三歳になった正中二年(1325)閏二月には量仁のために学問所が置かれ番衆が選ばれた。同月二十日には蹴鞠の後に制限時間内に一題十首の和歌を詠む課題を出され七首まで詠んでいる。二月四日からは練習のための管弦会を月三回催すようになり、七月からは菅原公時らにより文談が行われ、九月には花園院が主催する「尚書」「論語」の談義に出席するなど儒学教育も行われている。また連日、歌合などが学問所で催されたようだ。
 量仁は、将来の帝王として厳格な教育を受けつつも親族の愛情に包まれた幼年期を過ごしたといえる。

5立太子

 さて、後醍醐天皇は、数年で親政を開始し新たな人材を登用すると共に京周辺の商業勢力を保護して高評価を得ていた。しかし後醍醐は皇太子・邦良が即位するまでの中継ぎに過ぎず、自身が「治天の君」となったり子孫が皇位につく事は望めない立場でこれを後醍醐は不満にしていた。また、朝廷の実力が低下し、分裂がこれに輪をかけている状況にも危機感を抱いていた。やがて、後醍醐は自らの系統に皇位を継承させ朝廷の力を取り戻すため、即位順に介入し全国に専制傾向を見せて朝廷を圧迫する幕府を打倒しようと目論むようになる。正中元年(1324)、後醍醐は北野天満宮祭礼による混雑に付け入って挙兵しようと計画したが事前に露見し側近の日野俊基・資朝らが捕らえられた。
 これは後醍醐にとって大きな失点であり、邦良側から早期譲位を求める使者が関東にしばしば出されるようになった。持明院統にとっても邦良即位が実現しなければ順番が回ってくる事はありえず、これと同調した運動を行っていた。これに対し後醍醐も弁明の使者を関東に送っている。世間はこれら盛んな使者の往来を「競馬」と呼んで皮肉ったと言う。しかし後醍醐が譲位に応じないうちに正中三年(1326)三月、邦良が突然に夭折。次の皇太子を巡っての争いが今度は繰り広げられる事となった。後醍醐は自らの子である世良親王の立太子を望み、持明院統は今度こそ自系統から量仁を立太子させようとする。後伏見はこの頃に数多くの神社に願文を奉納し、量仁立太子を祈願した。この頃は幕府内部でも権力闘争がなされており、決定がなされたのは同年七月。「文保御和談」で大覚寺統が二代続いていた以上、次は持明院統という判断から晴れて十四歳の量仁が皇太子とされた。しかしこれは、後醍醐にとっては自らの子孫に皇位を継がせる望みが絶たれた事を意味しており(後二条系統が大覚寺統の嫡流である事に変らないので)、後醍醐は再び倒幕に向けて執念を燃やす事となる。
 さて、嘉暦三年(1328)に後醍醐が在位十年目を迎え、後伏見はこの時も量仁への譲位を望み日吉神社・石清水八幡宮・賀茂神社に願文を納めている。元徳元年(1329)十二月二十八日、量仁は正式に元服。加冠した後に後醍醐天皇と対面し、節会が行われた。更に持明院殿に帰って後伏見院に拝謁し祝宴・御遊が催され量仁は琵琶を初めて公式の場で演奏したのである。

6玉座

 元徳二年(1330)二月、花園院は量仁に「誡太子書」を与え将来の天子としての心構えを説いている。曰く、天下大乱の兆しが強く、これに対して徳をもって感化させるほか方法はない。そのため詩・礼楽を極め宗廟の祭祀を絶やさず、学問を修めて徳を高めるように、と。真摯な危機感が込められてはいますが、極めて具体性に乏しい内容である。思うに花園は天下の乱れが近い事を直感で感じ取りながらも、危機感と裏腹に朝廷の無力さから打てる手がない事を露呈したものと言えよう。それにしても、そのわずか一年後に乱世の幕が開くとはさすがの花園も予想しなかったであろう。
 元弘元年(1331)八月、後醍醐は南都を経て笠置山に篭った。倒幕を再度決意してから、後醍醐は慎重に味方勢力の確保に心を配っていた。尊雲法親王・尊澄法親王を天台座主にするなど皇子たちを主要寺社勢力に送り込んでその経済力・軍事力を取り込もうとすると共に、河内の楠木正成など貨幣経済によって力をつけた新興豪族を味方にしようとしていた。それがこの時に再び露見し、後醍醐は今度は逃れられないと考え乾坤一擲の賭けに出たのである。これを受け、後伏見や量仁らは六波羅北方に移って六波羅探題(京における幕府方拠点)の保護を受けた。幕府は持明院統を奉じて後醍醐廃位を進めその正統性を確保しようとしていたのである。当初、後醍醐がいると考えられた叡山に六波羅軍が攻撃をかけるが苦戦を余儀なくされた。これを受けて関東から大軍が派遣され、それが到着した九月二十日に量仁は土御門車洞院殿で践祚。後に光厳天皇と称される。時に十九歳であった。因みにこの時、御所の内侍所(三種の神器のうち、鏡を安置する所)に神鏡はあったものの剣・神璽は見当たらなかったため後鳥羽天皇の先例に従って後伏見院から詔を受けている。こうして十三年ぶりに持明院統は悲願を達成したのである。
 同年十月に笠置山は陥落して後醍醐も捕らえられ、神器が譲渡される。この神器には偽物説もあるが、「竹むきが記」では蔵人(天皇の秘書)が入念に検査して不振はなかったようであり、本物と考えてよいであろう。仮に偽物であったとしても正式な手続きで譲渡されており正統性に問題はなかった。また、後醍醐に呼応して挙兵した楠木正成の河内赤坂城も落城し、一段落ついたと思われた。そうした十月十三日に光厳は富小路内裏に移り、十一月八日には康仁親王(邦良の子)を皇太子とださめ、翌年三月に即位式を挙げる。そして四月二十日には元号を「正慶」と改め(因みに持明院統・幕府は「元弘」元号を認めておらず「元徳」を使用していた)、この都市の十一月十三日には大嘗会が催された。こうして光厳即位の形式が名実共に整ったのである。

7嵐、そして退位

 後醍醐は隠岐に流され、その皇子や廷臣達も処罰が決定し一件落着したかに思われた。ところが正慶元年(1332)末になると、楠木正成が再起し赤坂城を奪回すると共に大阪平野各地で幕府方を翻弄し、更に護良親王が由の周辺の豪族を糾合して蜂起した。十二月十二日には朝廷は天下静謐を祈り十二社奉幣使を送っており、その動揺が知られる。中でも正慶二年(1333)一月に六波羅主力軍が天王寺で楠木勢に大敗した知らせは京を震撼させ、光厳天皇の朝廷が一月二十一日に京を捨てて鎌倉へ落ち延びる決定を一旦した程であった。これに危機感を覚えた幕府は再び大軍を動員し、後醍醐方の鎮圧を図る。そして正成は千早城、護良は吉野に篭城してこれに備えていた。しかし正成はこの大軍相手に互角以上の戦いぶりを見せ、陥落した吉野から逃れた護良も各地の新興豪族に挙兵を促すなど幕府方の苦戦が目立ち、その威信低下がはなはだしくなった。これを受けて播磨の赤松円心が蜂起し、しばしば京へ突入する事態となっている。そこで、三月には光厳らは危険を避けて六波羅に移り、そこを皇居とするのを余儀なくされた。天皇も幕府方の軍事力によって保護される事態となったのである。更に隠岐の後醍醐が脱出し、伯耆の名和長年によって船上山に迎えられた。これが更に各地での反幕府方蜂起を誘発。
 そうした中で、四月末に鎌倉から第二陣として名越高家・足利高氏が派遣された。これを光厳や六波羅らは心強く思ったのは想像に難くなく、後伏見は高氏に院宣を与え期待の程を示している。しかし案に相違して名越は赤松と戦って落命し足利は後醍醐と内通して寝返り。光厳らは一転して絶体絶命の状況に追い込まれた訳であるが、果たして五月七日に足利軍による総攻撃を受けた六波羅は堪えきれず陥落した。六波羅探題・北条仲時と時益は後伏見・花園・光厳を奉じて鎌倉に逃れようと図るものの、野伏による落ち武者狩りから逃れながらの道中となる。時益は途中で落命し、また光厳の肘に矢が当ったともいう。そして五月九日、遂には近江番場で野伏の大軍に囲まれ仲時ら数百人は自害。光厳や後伏見・花園や少数の貴族たちは捕らえられて京に護送され持明院殿に蟄居とされた。そして時を同じくして関東では新田義貞が鎌倉を陥落させ、鎌倉幕府は約百三十年の歴史を閉じる。
 船上山の後醍醐は京に帰る直前に光厳朝廷での人事を無効とし、「正慶」元号も否定され「元弘」に戻された。すなわち光厳の即位・治世そのものが否定され後醍醐時代が継続していたとされたのである。こうして光厳は失意のうちに帝位から追われることとなった。

8建武政権下で

 さて、京に戻った後醍醐は、意欲的に自らの新政権建設に取り組んだ。この政権は当時の元号から「建武政権」と呼ばれ、当時台頭しつつあった商業勢力を基盤としつつ専制的な政治志向を示していく事になる。
 まず旧朝廷の処分であるが、光厳朝廷が否定された事は前述したものの光厳を初めとする持明院統皇族の処遇が問題であった。元弘三年(1333)十二月十日、光厳は前皇太子の扱いながらも特例として太政天皇の称号を与えると共に左右近衛将兵十二名を献じている。一旦は正式な手続きで即位した事実を後醍醐も完全には無視できなかったと言う事であろうか。そして、後醍醐と中宮禧子の間に生まれた懽子内親王(宣政門院)を光厳に娶わせている。また、禧子死後には後伏見の皇女・c子内親王(新室町院)を自らの新しい中宮に立てており、持明院統との融和を図ったものと言える。ただし、皇太子には後醍醐自身の子・恒良親王が立てられており皇位継承に関しては譲歩する意思がないことも示したと言えよう。光厳にとっては失意の日々であったが、建武元年(1334)四月には側室の三条秀子(陽禄門院)との間に長男・興仁が生まれている。
 さて、政治的課題で当面最も重要なのが恩賞を始めとする土地問題であったが、それに対する人々の不満と急進的な改革に伴う混乱が人々の反発を招いた。特に恩賞処理に関しては、後醍醐が権力基盤確立のため広大な旧北条氏領を自身や側近の手に収めた事や倒幕戦中に自身や護良が乱発した領地安堵が相互に矛盾する事例が続出した事、恩賞事務の混乱などにより大きな不満を招いた。不平を抱いた各地の豪族達は名門・足利尊氏(高氏、後醍醐より御名「尊治」の一字を賜った)に期待を抱くようになり、新興豪族を糾合しようとしていた護良親王と激しく対立した。この対立は尊氏の勝利に終わり、同じく護良を自らの権威を脅かす危険分子と看做していた後醍醐が尊氏に妥協して護良を捕縛。政権への不平分子の糾合先は尊氏に絞られた。

9院宣

 建武二年(1335)、北条氏残党の反乱軍によって鎌倉が占領されたのに対し、尊氏は鎮圧のため出陣して再占領。そして独自で論功行賞を行い、実質上の東国政権復興へと動き出す。これを後醍醐は謀反と判断し新田義貞を大将とする討伐軍を派遣するが、足利軍はこれを破って上洛。翌年正月には京を占拠した。しかし義貞・正成や奥州の北畠顕家により尊氏は敗れて西国に逃れる事になる。この際、尊氏陣営では天皇を敵に回す「朝敵」という形で大義名分が立たない事を憂慮していた。ここにその対抗馬として持明院統の光厳が浮上する。「梅松論」によれば赤松円心の進言により、尊氏は三宝院賢俊に依頼して光厳から新田討伐の院宣を得るよう工作した。建武政権で針の筵にいた光厳にとっても情勢を挽回する好機であり、すぐに院宣を書いて尊氏に届けさせる。九州に逃れる途上であった尊氏にこれが届いたのが二月中旬。これを受けて尊氏は中国・九州の豪族達に光厳の院宣によって新田討伐すると呼びかけて支持を訴えているが、奇妙な事に院宣の写しは見られていない。おそらく院宣を与える際に原文を発表しない事が条件となっていたのではないか。尊氏との繋がりについて後醍醐方から詰問されたとしても事実無根と主張できるよう証拠を残さないための用心だったと思われる。光厳にとっても、これは大きな賭けだったのである。この年三月、光厳は般若心経を書写し、伊勢神宮・石清水八幡宮・春日社に奉納している。心中期するものがあったであろう。さて、尊氏は九州で菊池氏を破って現地豪族を掌握し、大軍を率いて最上洛し五月二十五日には兵庫湊川で新田・楠木勢を破って正成を討ち取る。ここに後醍醐政権崩壊は決定的となり、後醍醐は抗戦のため京から叡山に逃れた。五月二十七日、光厳もこれに供奉する事となっていたが、病と称して動かず六条院に入った。二十九日には尊氏が東寺に到着し、光厳院を擁立。叡山の後醍醐との戦いが続く八月十五日には光厳の弟・豊仁が光厳の院宣によって践祚。光明天皇である。光厳同様に神器がないままで後鳥羽院の先例によるものであった。こうして光厳は尊氏の庇護によって「治天の君」の座を勝ち取り、足利政権の保護の下で朝廷に君臨する事となったのである。

10治天の君

 十月、尊氏と後醍醐が和睦し後醍醐は京に入る。恐らくは後醍醐の譲位と両統迭立が条件であったろう。そして十一月二日に神器が光明譲渡される。十一月十四日、後醍醐の皇子・成良親王が皇太子として立てられた。尊氏は両統迭立の条件を守る方針だったのである。しかし後醍醐は二十一日に脱出して吉野に逃れ、先の譲位を無効として自らの帝位を主張。ここに、足利政権によって庇護された京の光明天皇による朝廷(北朝)と吉野の後醍醐による朝廷(南朝)とが並立する体制が成立した。六十余年にわたる南北朝の動乱がここに始まる。ここに至って成良親王も皇太子を廃され、建武四年(1337)に越前金ヶ崎城が陥落し恒良が捕らえられると共に幽閉された。
 南朝と足利政権の軍事的対立は長期化したが、足利方の圧倒的優勢もあって十数年は足利政権の庇護・介入を受けながらも比較的安定した情勢が続いた。建武五年(1338)、秀子との間に弥仁(後の後光厳天皇)が誕生。またこの年七月には新田義貞が越前で討ち取られ、これを受けて八月十二日に尊氏が朝敵を討ち果たしたとして征夷大将軍となった。そして翌日には興仁が皇太子となっている。暦応元年(1338)十一月に光明天皇の下で大嘗会が催されたが、この際に必要とする米の徴収を朝廷独力では行う事ができず足利政権に依頼せざるを得ない状況であった。暦応二年(1339)、光厳は藤原孝重から琵琶の最秘曲・啄木の伝授を受け、琵琶演奏に関しては極めた形になる。この年の八月、後醍醐が吉野で崩御。この時、敵ながら彼を敬愛していた尊氏が喪に服すのに倣って、北朝も廃朝の礼を取っている。そして尊氏の願い出によって後醍醐を供養するため天竜寺を建立するに至ったのは有名だ。貞和三年(1347)、勅撰集「風雅集」が完成。この当時、持明院統と関係の深い和歌宗匠・京極家は断絶状態であったため花園院の監修を受けながら光厳院が自ら編纂したものである。貞和四年(1348)、興仁が践祚。崇光天皇である。皇太子には直仁親王が立てられた。なお、この直仁は花園の皇子と公式にはされているが光厳の願文によれば実は光厳の子であったようで、自らの系統と叔父・花園の系統の双方を合一させようとしたものであろうか。同年末には花園が崩御し、光厳は通常三ヶ月の服喪期間であったにもかかわらず五ヶ月間服喪し恩愛深い叔父の死を悼んだ。この期間は、比較的安定した状況で光厳も院政を行う事ができたといえる。しかし、保護者である足利政権に内部分裂の兆しが生じており、それが北朝朝廷にも波紋を及ぼすのである。

11北朝朝廷の政治

 南朝では天皇自らが陣営の主導権を握っていたのに対し、北朝は足利政権により擁立されていただけの印象が強い。当時からそうした見方は強かったようで、「太平記」によれば光厳は「将軍に王位を貰った果報者」と揶揄されていたと伝えられるし、康永元年(1342)には有力武将・土岐頼遠と光厳院の一行が争った際に頼遠から「院か犬か、犬ならば射てくれよう」と矢を射掛けられ車から放り出された話は有名である。また、尊氏の執事として権力を振るった高師直は、「王などいなくてよい、金か木で作ったもので代用すればよかろう」と放言したとされる。このように足利政権内部に北朝朝廷を軽視する向きがあったのは否定できないし、前述したように独力で儀式に必要な費用を徴収するだけの社会的実力を失っていたのも事実である。しかし、だからといって北朝朝廷が完全に政治的に無力であったわけではない。光厳院政期には、朝廷にも一定の政治的権限は保持されていたのである。以下ではそれについて述べる。
 まず鎌倉期における朝廷について。承久の乱以降で既に朝廷は鎌倉幕府に従属的な立場を余儀なくされていたが、御家人(幕府家臣)の置かれていない地域における所領関係・人事・神事などの権限は依然として朝廷の手中にあった。幕府は狼藉など刑事事件のみを担当し、所領関係の争いは朝廷が受け持つと言う一定の分担基準が存在したのである。とはいえ、外交・寺社問題などについては幕府と相談して方針が決められていたが。
 そして、その状況における朝廷の制度が整えられたのが13世紀後半の後嵯峨・亀山院政の時期であった。土地問題の訴訟に関しては、蔵人・弁官が受理し院評定で審議し伝奏が院と貴族との間を取り持ち問題が処理されていた。そして、実務に長じた下級官人により文殿が形成され該当する問題に関して評定などに先例を注進する役割を果たす。この際、律令よりもむしろ関連文書を資料として重んじ、過去の先例と実情とを照らし合わせて当事者達を納得させる方式が取られた。朝廷の社会的実力・判決強制力低下に対応した妥協的な方法と言える。
 そして光厳院政期も、基本的に同様の権限を引き継いでいた。院政が行われた時期には院文殿が、天皇親政の時期には記録書が朝廷政務の中心として機能した。この時期は当然、文殿が中心である。地方豪族や守護に侵食されていない貴族の所領や寺社問題に関しては、依然として朝廷が担当しており(ただし、現地豪族による侵食は戦乱を通じて進行しておりその範囲は年毎に縮小していたといえる)足利政権にとっても実務レベルで無視できない影響力は保持していたと言える。実際、現存する光厳による院宣は院政を行った天皇の中でも最多レベルだとされている。
 さて、光厳院時代の朝廷における訴訟処理について述べる。まず訴状が受理されると、文殿廻文で訴訟人を召喚し陳述を行わせた。そしてそれを受けて文殿衆が勘奏を経て院評定を行い、その結果が院宣として発布される。評定は執権・伝奏らと七〜十人の文殿衆・寄人によって行われていた。なお、この時期に実務についての規定が改定されており、暦応雑訴法と呼ばれる。そこでは、庭中(手続き上の過誤救済)の日は毎月四日・九日・十九日・二十四日、越訴(過誤判決救済)の日は毎月十四日・二十九日、雑訴の日が毎月七日・十七日・二十七日と定められこれらの日には文殿衆と御前評定が開かれる事とされた。また、文殿への陳述は三十日以内、文書廻覧・対決から五日以内に勘奏を行うようにも定められており光厳の政務への真摯な取り組みが伺える。しかし院の裁定に当事者が不満を持った場合は、足利政権に改めて訴え出る事例がしばしば見られた。この際、足利政権側が審理して院から権限を譲り受け、引付で改めて審議し、朝廷に執奏された上で改めて院宣を出し直すのが通例であった。
 このように、足利政権側から介入を受けることもあったが貴族が把握している土地に関しては原則として朝廷が管轄していたといってよい。また、この頃は京の治安警察もまだ検非違使庁が把握しており、寺社問題についても朝廷に決定権があった。国衙領支配も豪族の侵食を受けているとはいえある程度実態が存在していたのである。
 しかし以下で述べる足利政権内紛(「観応擾乱」)は、これに保護される朝廷の実力を著しく崩壊させることになるのである。

12再び虜囚の身に

 順調に運営されていたかに見えた足利政権であるが、軍事的権限を把握する高師直(尊氏の執事)と行政的権限を担当する足利直義(尊氏の弟)の両派閥の対立が目立ち始めた。師直の下には実力主義で権威を軽んじる新興豪族が、直義には旧来の名門豪族を中心に安定した秩序を志向する勢力が集まり両者の衝突は避けられない情勢となる。貞和五年(1349)閏六月、直義の要求で師直は罷免され、これに対し同年八月に今度は師直がクーデターで復権し直義を失脚させた。すると観応元年(1350)十月、直義は南朝と和睦して師直討伐を図り翌年二月にこれを殺害。一旦は対立が収まったかに見えたが今度は尊氏と直義の対立が表面化した。観応二年八月、既に越前に脱出していた直義は光厳らの身を案じて叡山に逃れるよう勧めているが、争いに主体的に巻き込まれるのを避けるためか受け入れられていない。同年十月、尊氏が南朝に降伏を申し出たため朝廷は南朝に一本化されることとなった。その表れとして、十一月七日には崇光天皇・皇太子直仁が廃されている。そして年が明けた南朝正平七年(1352)閏二月十九日、南朝軍が京に侵入して足利軍を追い散らし、光厳・光明・崇光の三上皇と直仁は捕えられて三月に楠木氏の拠点・東条に送られる。十九年前と同じように、再び敵の手に落ちる屈辱を味わうことになるとは思いも寄らなかったであろう。なお、光厳は捕らえられた直後に諸々の御領文書や歌書などを北朝重臣の一人である洞院公賢に預けており、持明院統の伝統死守への執念が読み取れる。その後、一行は六月三日には南朝行宮のある賀名生に送られ数年にわたる幽閉生活を余儀なくされた。
 一方、足利方はすぐに京を奪回したものの、南朝と再び敵対関係となり奉ずるべき朝廷を失い政権の正統性を保証する存在がない状態であった。北朝を復興させようにも神器もなく、皇位を保証する「治天の君」もいない。やむを得ず、足利義詮(尊氏の子)は広義門院(光厳の母)を「治天の君」と見做して弥仁親王を擁立し践祚させた。後光厳天皇である。しかしこうして一応の形は整えたものの、以降の北朝はその正統性に疑問が付きまとうこととなる。そしてそれは足利政権の正統性をも疑わしくするものであった。足利政権が平和裏に南朝を吸収しようと工作するようになる所以である。
 ところで、後光厳践祚を知って自らが無用とされた事に失意を感じたか、あるいは世の無常が身に染みたのか光厳は同年八月八日に西大寺元耀を師として出家を遂げた。法名は勝光智、無範和尚である。

13一僧侶として

 文和二年(1353)頃には南朝による監視も緩和され、光厳らと再建された北朝との連絡も可能となっていたようだ。同年十一月の花園院七回忌に催された歌会に、光厳の歌も届けられている。そして文和三年三月には金剛寺に移され、延文元年(1356)十月には金剛寺で崇光に琵琶秘曲「啄木」を伝授、十一月には孤峯覚明に参禅し「光智」と号した。光厳が帰京を許されたのは翌延文二年。当初は金剛寿院に入っていたが、やがて嵯峨小倉に庵を結んで仏道修行に励む。それでも朝廷と完全に縁が切れたわけでなく、延文三年(1358)八月には崇光院に正親町忠重へと秘曲啄木を伝授させ琵琶の極意を受け継がせてはいる。
 また、持明院統の嫡流を崇光系統に継がせようとしていたようだ。例えば、持明院統の所領についてはこの頃に崇光が相続したらしい。応安六年(1376)には伊勢神宮造営のため後円融天皇が長講堂領に課税した際に崇光が抗議した事実からそれが知られる。長講堂領が北朝天皇の手に入ったのは崇光院が没した後であり後小松天皇の時代であった。そして室町院領に関してはその後も崇光系統(伏見宮家)が相続している。また、持明院統伝来の琵琶も崇光系統に受け継がれていた。以上から光厳が後光厳を中継ぎとのみ見做していたと推測され、これに対し後光厳が反発したであろう事は想像に難くない。こうした事も再建された北朝と光厳を疎遠にしたと思われる。それもあってか、後光厳以降の北朝は文化的にも従来とは異なった特徴を見せている。琵琶を伝統的に重んじてきた持明院統であるが、琵琶を伝えられなかった後光厳は新たに笙を自らの楽器として選んだ。また、京極派の歌風を選んできた従来とは異なり、南朝と同様に二条派が重んじられるようになる。
 貞治元年(1362)、光厳は僧・順覚一人を供として旅に出た。法隆寺・難波を経て高野山を目指す。道中の金剛山では千早城攻防戦で多くの死者が出た事を偲び、自らの罪業を悔いたと伝えられる。紀ノ川の橋を渡る際には通りがかった武士らに水中に突き落とされる羽目に陥ったものの、無事に高野山に到着し奥の院で「高野山迷の夢も覚むるやとその暁を待たぬ夜ぞなき(高野山に来れば夢のような迷いも晴れるかと、夢の覚める暁を待ち遠しく思うようにここにくることを望まなかった夜はないことよ)」と詠んで感激を露にしている。高野山を去る際には先に光厳を橋から突き落とした武士二人が先非を悔いて出家し供をする事を懇願するが、光厳は気に病むことはないと告げその発心を誉めるものの供をする事は自らの修行の妨げとなるからとこれを認めなかった。
 高野山を出た光厳は、南朝の行宮に立ち寄る。南朝・後村上天皇はこれを出迎え、恩讐を越えて二人は涙ながらに今の心境を語り明かしたという。そして光厳が立ち去る際には、後村上や南朝廷臣は自らこれを見送っている。このかつて敵味方であった両者の交歓は、この乱世において心洗われる美しい場面であるといえよう。
 貞治二年(1363)、光厳は丹波成就寺を「常照寺」と改めてそこで隠棲生活に入る。そして清渓通徹から「碧巌録」を学んだ。
 貞治三年(1364)七月七日、光厳は常照寺で静かに崩御した。享年五十二歳。遺偈は「謝有為報 披無相衣 行往座臥 千仏威儀」という。また、遺言には、「自分の供養は一定忌日の読経のみでよく、人手を煩わせないよう法事や特別な仏事は無用であり、それよりも多くの人が仏道修行に励むことが望ましい。仏道修行や仏戒堅守は誰が行うものであれ、自分の供養となる。」とあった。時代の波に翻弄された生涯であったが、最終的には一仏僧として心静かな終焉を迎えることができたといえよう。

14その後の北朝

 後光厳以降の北朝は、正統性に問題があるためか威信低下が著しいものであった。また、武力を保有する地方豪族たちが貴族の荘園や国衙領を侵食するため朝廷の経済的基盤が崩壊した事もその実力低下に拍車をかけたといえる。後光厳もそれに対して手を拱いていた訳ではなく、威信回復のため努力を惜しんでいない。例えば朝廷儀式復興に積極的に取り組んでおり、また貞治六年(1367)には職員の風紀粛正を促し応安四年(1371)には暦応雑訴法に追加規定を設けて訴訟処理の再建を図っているものの大勢に抗する事はできなかった。この頃から次第に朝廷の権限は足利政権によって吸収されることとなる。
 例えば政務の主眼であった訴訟処理であるが、後光厳時代になると足利幕府に再審理した上で改めて院宣が出される例が急増するようになった。後円融院政期(後光厳の子)の永徳年間(1380年代前半)になると初めて院評定始・文殿始が行われたのが院政開始十ヶ月後であり形式化が進んでいることが伺える。また、この頃から貴族の日記から朝廷における裁判の記録が見られなくなる事からも、既にその実態が失われていたと見てよいだろう。これ以降は専ら裁判の処理は御判御教書(将軍による)や管領奉書によって行われるようになった。同じく、貴族や寺社の所領安堵や相続認可も1350年代から足利政権の承諾によって行われるようになっている。
 次に、財政・徴税に関して概観する。京市内における段銭徴収は鎌倉末期から幕府が関与していたが足利政権樹立後は基本的に足利幕府が徴税し免除権のみ朝廷が保有していた。そして伊勢神宮造営費を賄う役夫工米に関しては徴収・免除とも朝廷が権限保持していた。しかしいずれも1350年代以降には足利政権による施行・免除が優先されるようになった。朝廷・寺社が保有していた京周辺の商工業者への支配を足利政権が軍事力を背景に吸収した事が伺える。
 そして京の治安・警察権に関しても幕府に吸収されつつあった。従来は検非違使庁が把握していた関所統制権も貞治二年(1362)頃には侍所の手に移っていることが判明している。そして応安年間(1370年前後)に市中警察権、至徳元年(1382)までには土地禁制、そして明徳四年(1993)には市内課税権が完全に侍所が把握するに至った。こうして検非違使庁が空洞化するのみならず、その別当職も応安年間までには幕府推挙により定められるようになっている。こうして京の市中行政を侍所が担当する体制が14世紀末までに完成した。
 寺社問題についても同様である。例えば南都諸寺の訴状は南曹弁が受理していたのであるが、康暦年間(1380年頃)に南都伝奏が新設され将軍の意向を奉じて政策決定され伝奏奉書により伝達されるようになった。叡山に関してもほぼ同様であったと考えられる。
 また国衙領支配も14世紀末には各国守護に侵食され、大田文作成(土地調査)権限も守護の手に移っているのである。
 そして外交権に関してであるが、貞治六年(1366)に高麗から倭寇禁圧要求が来た際には一応朝廷に相談する形式が取られたものの最終的には幕府が独断で返書を送っており、事実上は足利政権が把握していたといえる。そして15世紀に入ると中国(明)との外交が名実共に義満の手で行われており対外的にも日本の国主の座が足利政権に移ったといえる。
 このように朝廷の実力低下が顕著となったのはその正統性に問題が生じた後光厳期以降であるが、これは飽くまで契機に過ぎず土地支配が現地豪族に奪われて経済的基盤が弱まったことや民衆の実力向上により権威の効果が低下したことが背景にあるのは言うまでもない。権威を裏付ける実力が失われた事が露呈した時、その存在感も低下したのである。そしてそうした朝廷の威信低下は義満が自らの権威を上昇させ朝廷のそれを超越しようとした際に頂点に達した。
 しかし義満死後には、後継将軍が政策運営上で有力豪族たちと妥協する必要が生じた関係もあり専制路線が弱まる。また第六代将軍義教時代には対立関係にあった関東を制圧するために朝廷の威信を借りる事態が生じており、こうした事が皇室の権威を回復させることとなった。そして義教が暗殺された直後には、寺社問題に関しての決定権を朝廷が奪回する一幕も存在したようだ。
 その後、足利政権が実力を失い日本が地方豪族による割拠状態に陥った際も朝廷は政治的権限を有しないものの権威的存在としては小さからぬ価値を有しながら統一政権時代に至るのである。

15おわりに

 将来の帝位継承者として生まれ、玉座を手にしながらも二度にわたって戦乱で苦汁をなめた光厳。歴代天皇(現在は南朝を正統として扱っているため厳密には歴代代数には入れられていないが)の中でも辛酸をなめた一人であろう。苦難の中で徳のある帝王たらんと心がけ、無力な状況の中でも持明院統の家長や朝廷の主として最善を尽くそうとした。後醍醐のような行動力や執念、活力は持たず良くも悪くも「凡人」であったといえるが、その中で乱世において真摯に与えられた役割を生きようとしていた。それだけに晩年に仏道修行で精神的安寧を得た事実は、筆者にも安堵の思いをもたらすものであった。
 一方、光厳らの努力にもかかわらず朝廷の実力低下は歴史の流れとして留める事はできなかった。しかしながら宗教的権威として生きながらえ現在に至っているあたりに皇室に代表される伝統のしたたかさを見る思いがする。

参考文献
光厳院御集全釈 岩佐美代子著 風間書房
地獄を二度も見た天皇光厳院 飯倉晴武 吉川弘文館
日本中世史論集 佐藤進一 岩波書店
日本中世の王権と権威 伊藤喜良著 思文閣史学叢書
日本の歴史9南北朝の動乱 佐藤進一著 中公文庫
南北朝公武関係史の研究 森茂暁 文献出版
足利尊氏 高柳光寿著 春秋社
足利尊氏 山路愛山著 岩波文庫
南北朝時代史 田中義成 講談社学術文庫
日本古典文学大系太平記 一〜三 岩波書店
「芝蘭堂」(http://homepage1.nifty.com/sira/)より「梅松論」
京大本梅松論 京都大学国文学会
帝王後醍醐 村松剛 中公文庫
太平記の群像 森茂暁 角川選書
中世の王朝社会と院政 白根靖夫著 吉川弘文館
日本中世国家史論考 上横手雅敬著 塙書房
中世朝廷訴訟の研究 本郷和人著 東京大学出版会
室町時代政治史論 今谷明著 塙書房
室町の王権 今谷明 中公新書
戦国大名と天皇 今谷明 講談社学術文庫
戦争の日本史8南北朝の動乱 森茂暁 吉川弘文館
日本中世史を見直す 佐藤進一・網野善彦・笠松宏至 平凡社
吉野朝史 中村直勝 星野書店
内乱の中の貴族 林屋辰三郎 角川選書
新北朝の人と文学 伊藤敬著 三弥生選書


発表一覧に戻る