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児島高徳  NF


1はじめに

 楠木正成・新田義貞ら「南朝の忠臣」達は、戦後になると戦前程の知名度はなくなったとはいえ多くは歴史の教科書に掲載されるなどある程度は現在でも名前は知られている事が多い。しかし、彼ら同様に戦前には代表的な忠臣として喧伝されていたにもかかわらず、戦後になると全くと言ってよいほど一般には名が語られなくなった人物がいる。それが児島高徳である。彼については事跡に不明な点も多い。彼について知られている事を述べつつ、関連する話題について追ってみようと思う。

2児島半島

 備前児島半島は、瀬戸内の海上交通における要地であり海に山岳が浮かんだ形の(古くは島であった)古くからの聖地でもあった。古代においては吉備地方勢力の中心地域に属し、大和政権が全国に勢力を及ぼした際には重要視して直轄地を置いた所である。「日本書紀」によれば6世紀後半には既に吉備児島屯倉(みやけ)が設置されていた事が知られている。この地域に「三宅」姓が多数見られる(今回の主人公である児島高徳も「三宅児島三郎」と称した)のはその名残であり、現地の人々に皇室の直臣としての意識が強く植えつけられたようだ。
 また、航路の海辺標章・霊山として地元民により聖地として古くから信仰を集めた児島半島は、山岳信仰が仏教の影響を受け修験道として発達するとこの地域における修験道の中心地となった。伝承によれば、8世紀に修験道の開祖である役行者が伊豆大島に配流された時に彼の五人の高弟が児島に難を逃れ新熊野三山と称したのに端を発すると言う。これは後世の創作であろうと思われるが、12世紀ごろには中央貴族達から厚い信仰を集めた紀伊熊野三山の末寺として熊野十二所権現を祀り、天台宗本山派に属して京の聖護院による統轄を受けていたのである。そのため、熊野三山や叡山と繋がった全国的な修験道のネットワークを持つ事になる。12世紀の源平争乱では平氏と縁が深かったため、幕府からは一時期冷遇されていた。13世紀になると後鳥羽院の子である覚仁法親王が戦乱を避けて児島に尊滝院を建立して移住し、承久の乱後には同じく後鳥羽の皇子である頼仁親王がこの地に配流されその子・道乗大僧正が法跡を継ぎ代々児島の院主となっていた。その系譜が分かれて「五流」と称されるようになり、周辺に仕える上級修験者は「公卿」十流と呼ばれていたことが知られ、山岳聖地の中でも一目置かれる存在であったようだ。彼らにより一時期没落していた児島は再び隆盛を取り戻し、隠岐に流された後鳥羽院も没後に児島へ分骨している。児島には、幕府により抑圧された朝廷や児島自身の怨念が裏に潜んでいると言えそうである。
 13世紀後半から14世紀前半にかけて産業が発達し大陸との交易もあって貨幣経済が浸透し始めると、海上交易路の要所であったこともあり経済力を高めていったのである。
 児島高徳は、この地域に根付いていた皇室・朝廷への強い帰属意識や幕府への怨念、修験道による広範な情報収集・伝播力、海上交通と関連しての経済力を背景にし、精神形成や行動において強い影響を受けていたのである。

3当時の情勢

 7世紀後半から8世紀初頭にかけて完成した中央集権的な統一政権は、9世紀には早くも崩壊の兆しを見せた。生産力の向上に伴い貧富の差も拡大し、実力を付けつつあった地方豪族により自給体制が各地で形成されていく。中央政府(朝廷)は全国支配の貫徹が難しくなったため豪族達の利権を部分的に黙認しつつも土地を可能な限り把握して税収入を確保する体制に方針転換した。こうして大土地所有する有力貴族・寺社や地方豪族による連合体の盟主として政府(朝廷)が推戴されるいわゆる「王朝国家」が10世紀から11世紀前半にかけて確立された。
 やがて、地方豪族の実力向上に伴って彼らを支配下に組み入れた軍事貴族が台頭。12世紀末には軍事貴族の代表者である源氏・平氏による内乱を経て、勝利した源氏によって東日本に軍事政権である鎌倉幕府が成立した。幕府は従来の政府であった朝廷の宗主権を名目上は認めつつも東日本を中心とした独自の支配体制を確立、朝廷が西日本を支配し幕府が東日本に号令する形が出来上がる。13世紀前半の承久の乱によって軍事力に勝る幕府が朝廷に対し圧倒的な優位に立ち、次第に西日本も含めた広い地域に支配権を広げた。13世紀末のモンゴル帝国(元)の来襲(元寇)を契機として幕府は国防のためもあり全国規模で支配権を強化し、この頃に発達しつつあった商業勢力を支配下に組み込む事で専制化を勧めていた。
 一方で、従来より幕府に従属していた豪族達は分割相続による支配領域の零細化、商業発達に伴う貧富の差の拡大、元寇やその後の海岸警備による経済的負担もあって専制化する幕府に不満を募らせていく。また、経済先進地域であった畿内を中心に、貨幣経済発達に伴い非農業民を支配下に置き新興豪族が台頭、伝統的勢力としばしば衝突し「悪党」と呼ばれ朝廷・幕府も統制しきれず頭を悩ませる社会不安要素とみなされるようになっていた。幕府は彼ら非農業民の組み入れに腐心していたが、西国の非農業民は伝統的に朝廷と深い繋がりがあった関係もあってか、「悪党」らは寧ろ取締りにより自らを制肘する存在として幕府への反感を持つ者も多く見られるようになる。
 また、承久の乱以降は勢力を弱めていた朝廷であるが、皇室や有力貴族が地位をめぐって分裂するようになっていた。皇室は持明院統と大覚寺統に分かれ、摂関家は五摂家に分裂して対立するようになっていたのである。中でも皇位や「治天の君」(皇位を退いた上皇の中でも天皇の保護者として実験を握った者をこう呼ぶ)をめぐっての両統の対立は深刻で、自力での解決が困難となった調停は幕府に調整を依頼する。これが、調整により思い通りに行かなかったものによる幕府への遺恨を生む火種ともなるのである。
 経済発達を背景に専制化を進める幕府であったが、その一方で各階層から反発を買い孤立化も進んでいた。人々の不満や社会不安も高まりつつあり、幕府は火薬を満載した導火線の上に座しているような状況であったのである。

4倒幕へ

 さて、14世紀前半に大覚寺統から即位した後醍醐天皇は京周辺を中心とした非農業民を支配下に積極的に組み入れ、貨幣経済を利用して専制的・集権的な政治志向を見せる。また、従来の家格に拘らず有能と認めた人物を積極的に登用して自らの側近とした。当時、幕府を支配する北条氏の当主・北条高時の力量が不安視されていた事もあり、後醍醐の政治手腕は高く評価されたのである。こうした方向へと後醍醐が向かった理由の一つとして、彼が大覚寺統の中でも傍流の出自で仕来たりへの拘りがなかったことが挙げられよう。また、社会不安の高まりや次第に朝廷の支配力が低下していく事への危機感も大胆な政策へと走らせたようだ。
 そうした中で、やがて後醍醐は幕府打倒へ向けて動き出す。朝廷の分裂・支配力低下を打開するには幕府を打倒してその権力と経済基盤を奪い取り唯一の専制的政府として君臨する事と考えたのが一つ目の理由であった。二つ目の理由として、後醍醐が傍流で一代限りの皇位と定められていたことが挙げられる。幕府が皇室間の紛争を避けるため皇位継承の調整を行っていたが、それがある限りは彼の子孫が天皇となることは永久にないのである。
 後醍醐は近臣や不平派豪族と語らって正中元年(1324)に倒幕計画を実行しようとするが失敗、その後も寺社勢力の軍事力・経済力やその影響下にある修験道の情報力を支配下に置いての倒幕を目論んでいた。皇子の尊雲法親王(護良)・尊澄法親王(宗良)を天台座主とした他、尊珍法親王(後醍醐の養子)を聖護院門跡として天台系修験道を支配下に置き、更に醍醐寺三宝院座主に尋尊(大覚寺統系の公家・鷹司基忠の子)を任じると共に随心院の文観を側近に引き入れて真言系修験道の把握に努めた。
 そうした上で元弘元年(1331)に後醍醐は再度倒幕計画を立て、露見すると笠置山に逃れ河内赤坂の豪族・楠木正成と連携して挙兵した。しかしながら幕府の軍事力は圧倒的であり、笠置は落城し後醍醐も捕えられた。後醍醐は幕府により持明院統の皇太子量仁親王(光厳天皇)に譲位させられ、隠岐へと配流されることとなったのである。しかし幕府への反感が高まっているためか、後醍醐に対する同情的な声も多く、護送係もまた後醍醐に対し敬意をもって接していた。そうした空気の中で、後醍醐を奪回しようと目論む不平分子の存在が懸念されていた。そうした不平分子の一人が、児島高徳である。

5「天莫空勾践 時非無范蠡」

 児島高徳の生年は不詳であるが、「参考太平記」によれば和田備後守範長の子として生まれ三宅児島三郎・今木三郎とも号し、新羅王子天日槍の末裔であったという。一方で宮家氏の子孫とする説もあり、この説に従うなら「宮家」即ち頼仁親王の子孫である事になる。いずれにせよ、「太平記」を見る限りでは上述した児島の性格を反映してか熱烈な朝廷方であったとは言えそうだ。
 後醍醐が隠岐へ流されるのを知った高徳は、同志を糾合して後醍醐を奪還しようと図っていた。彼らは備後と播磨の境である舟坂山で決行する予定であったが、護送側は不穏な空気を察したのか備後に入る以前に山陰へ道を転じていた。そこで高徳らはそれを追って美作の杉坂へ趣いたが、後醍醐らは既にその先の院庄まで達していた。高徳の同志らはこの時点で断念して去っていったが、高徳は諦めきれず単身で院庄まで到達し後醍醐らの宿所に潜伏。しかしながら警護の堅さを目にして本来の目的を果たすことはできないと判断し、せめて後醍醐に自らの志だけは知らせたいと考えた。見回すと桜の大木が聳え立っていたため、高徳はその幹を刀で削り取ってそこに「天莫空勾践 時非無范蠡」(天勾践を空しうする莫れ 時に范蠡無きにしも非ず)と大書して立ち去った。中国の春秋時代、越王勾践が宿敵・呉王夫差に敗れ下僕にされると言う屈辱を味わったが、名臣范蠡の補佐もあって呉を滅ぼし雪辱を果たしたという有名な故事に倣い、今は敗れて囚われの身となった後醍醐にも未だ忠誠を誓う臣がいる事を訴えたのである。
 翌朝、後醍醐と護送者の一行が出立しようとした際に高徳が詩句を書きつけた桜木を見つけた。警護の兵達は書かれている意味が分からず首を傾げるばかりであったが、後醍醐はその意を察して心慰められ微笑んだと「太平記」は伝えている。
 この件は古来より有名で、現地の民謡にも「桜ほろ散る院の庄、遠き昔を偲ぶれば、幹を削りて高徳が、書いた至誠の歌形見」と歌われているし後述するように唱歌の題材にもなっている。満開の桜木の下で赤心を示す忠臣という構図は非常に絵になるものであるためだろう。しかし一地方豪族に過ぎない高徳が中国の故事を踏まえた詩句を書ける程の教養を持っていたとは俄かには信じがたいようにも思われるが、河内の新興豪族である楠木正成が教養を窺わせる筆跡を残していたと伝えられていたり摂津の海運を背景に台頭した薬師寺公義が歌人として知られるようになった事例を考えるとあながちありえなくもないのかもしれない。修験道や朝廷との繋がり、商業を背景にした経済力を考えるとこうした新興豪族が最先端の教養を有しているのも不思議ではない。しかし後醍醐を警護する幕府方が誰一人として例の詩句を理解できなかったとは信じがたい。確かに下級の一般兵は理解できなかったかも知れぬが、警護を担当していた佐々木導誉は奔放な「バサラ大名」として著名であるが古典的教養にも不足していなかったし、小山五郎左衛門は道中で桜花を眼にして後醍醐と和歌の遣り取りをしたと伝えられる。相応の教養を持つ者も多かった筈である。彼らは寧ろ後醍醐へ同情的であったようにも見えるので、見てみぬ振りをして事を荒立てなかったものであろうか。
 ともあれ、高徳の目論みは失敗に終わり後醍醐に精神的支えを与えるに留まった。後醍醐は予定通り隠岐へと配流されていったのである。しかし、倒幕への流れはこれで収まる事はなかった。

6倒幕と建武政権

 後醍醐が捕えられ配流される事で消えると思われた倒幕の動きは、元弘三年(1333)に楠木正成が再起し、護良親王(後醍醐の皇子)が吉野周辺の豪族を糾合して挙兵するのを切っ掛けに再燃した。正成は幕府の手に落ちていた赤坂城を奪回し、河内・和泉・摂津地域で幕府方を撹乱。四天王寺で幕府軍を撃破して京の光厳天皇方や幕府方を恐怖に陥れると、千早城に篭城した。これに呼応するように護良は吉野で挙兵し、事態を重く見た幕府は再び大軍を畿内に派遣。吉野は間もなく陥落したが正成の千早城は幕府の大軍を引き付けてこれを翻弄、幕府軍が小城一つを落せない様を全国に示した。これにより幕府の軍事的威信は低下し、挙兵を促す護良の令旨が全国に飛んでいた事もあって各地の不平派が蜂起するに至った。まず播磨の赤松円心が挙兵し軍勢を率いて京をしばしば攻撃し、更に四国の河野氏らも蜂起するに至る。加えて後醍醐が隠岐を脱出し伯耆の名和長年の庇護を受けて船上山に篭った。これにより倒幕への流れが更に加速し、数多くの豪族達が後醍醐方として蜂起した。この船上山やこの頃に後醍醐が連絡を取っていた出雲鰐淵寺は修験道の要地であり、味方を集めるに当たっては名和氏の海上交易路だけでなく山伏のネットワークが大きな役割を果たしたであろうことは想像に難くない。
 この潮流に乗るべく、後醍醐は寵臣の千種忠顕を大将として伯耆から京へと攻め上らせた。道中で多数の豪族が参加し軍勢は数万にまで膨れ上がったと言う。その中に高徳も加わっていたようだ。忠顕は京郊外の西山峯堂に本陣を置き、赤松軍と共同で京を攻撃する手はずを立てた。しかし、功を焦ったか忠顕は赤松を待たず単独で京へ侵入。迎え撃つ幕府方は射手を前面に並べ矢の雨を降らせ、対して数で勝る千種軍は波状攻撃をかける。激戦の最中、洛中に潜伏させていた千種方の工作員が後方で放火。これを見た幕府軍は動揺するが、呼び兵力五千が投入された事もありすぐに勢いを取り戻す。結局、千種軍は犠牲の大きさに攻略を断念して峯堂の本陣まで撤退した。忠顕は意気消沈し高徳に後方への退却を持ちかけるが、高徳は本陣の地の利を説いてここで守りを固める事を進言し少し離れた地点に自らの部隊を率いて幕府方による夜襲に備えた。しかし結局、忠顕はその夜のうちに手勢を連れて後方へ逃亡。翌朝にこれを知った高徳は本陣に武具や旗が散乱しているのを目に忠顕を罵ったが、如何ともし難く自らも撤退した。
 後醍醐方による京攻撃は中々上手く行かなかったが、情勢は徐々に後醍醐方に傾きつつあり、千早城を包囲する軍勢の中にも自分の領地を案じて帰国する者が続出する有様である。そうした中で鎌倉から第二陣として足利高氏・名越高家が上洛。しかし足利高氏は道中で密かに後醍醐と内通しており、名越高家が赤松勢に討ち取られたのを契機に丹波で挙兵し、赤松軍・千種軍と共に京に攻め込んだ。京における幕府方の拠点・六波羅探題は陥落し、この知らせを受けた千早攻囲軍も崩壊。畿内は後醍醐方の手に落ちたのである。時を同じくして関東では上野の新田義貞が挙兵して鎌倉を陥落させ、北条一門は自害。鎌倉幕府は130年余の歴史に幕を下ろした。
 後醍醐は京に戻り、自らの政権を樹立した。この時期の元号から「建武政権」と呼ばれる。当時台頭しつつあった商業勢力を基盤としつつ専制的な政治志向を示していく事になるが、恩賞処理への人々の不満と急進的な改革に伴う混乱が人々の反発を招いた。特に恩賞処理に関しては、後醍醐が権力基盤確立のため広大な旧北条氏領を自身や側近の手に収めた事や倒幕戦中に自身や護良が乱発した領地安堵が相互に矛盾する事例が続出した事、恩賞事務の混乱などにより大きな不満を招いた。不平を抱いた各地の豪族達は名門・足利尊氏(高氏。後醍醐より御名「尊治」の一字を賜った)に期待を抱くようになり、新興豪族を糾合しようとしていた護良親王と激しく対立した。この対立は尊氏の勝利に終わり、同じく護良を自らの権威を脅かす危険分子と看做していた後醍醐が尊氏に妥協する形で護良を捕縛。建武政権への不平分子の糾合先は尊氏に絞られる事となった。なお、この時期の児島高徳については詳細不明である。近江野洲郡の小島が高徳の領地であったと言う伝承が存在するため、この地を恩賞として与えられていたのかもしれない。

7熊山での挙兵

 建武二年(1335)、京で北条氏残党による後醍醐暗殺未遂が露見し、時を同じくして信濃で北条時行(高時の子)が挙兵して鎌倉に侵入、鎌倉を守っていた足利直義(尊氏の弟)は破れて三河に逃れた。尊氏はこれを受けて直義救援のため独断で出陣、北条軍を撃破して鎌倉に入り独自の論功行賞を行った。尊氏自身にはこの時点で後醍醐に反旗を翻す意図はなかったようであるが、客観的にはこれは明らかな建武政権からの離反であった。そこで後醍醐は新田義貞を大将として足利追討軍を関東に派遣する。当初は尊氏が朝廷軍と矛を交えるのを忌避して出撃しなかったこともあり新田軍が優勢に戦いを進めたが、尊氏自身が出陣すると戦局は逆転して新田軍は敗走、足利軍が追撃して京へ上った。建武四年(1336)正月に入京した足利軍であったが、新田軍に加え楠木軍や奥州から上洛した北畠顕家軍が総攻撃し足利方は敗走して西国に逃れた。この際に、尊氏は瀬戸内の重要地点に部下を配置して追撃に備えた上で九州に逃れている。一方で新田軍は軍の再編成などで時間を費やし追撃が遅れた。3月に入り西国へ出陣したが、尊氏に味方する播磨の赤松円心が篭る白旗城を相手に苦戦を強いられる。そこで、弟・脇屋義助の別働隊を西国へ派遣して中国地方を可能な限り押さえて尊氏の再上洛に備えようとしていた。
 この時期、高徳は備前・備中で四国から上陸した足利方の細川定禅を相手に戦っていたが力及ばず、山中に潜伏して新田軍の遠征を待ち望んでいる状態であった。義助が西国へ向けて発向した知らせを受け、高徳はすぐに義貞に連絡。自身が備前熊山(和気郡)で挙兵して足利方を引き付け、その間に手薄になった船坂を新田軍が襲い、更に別働隊を三石の間道から西に抜けさせて船坂を挟撃する作戦を提案した。義貞の了承を得た高徳は今木・大宮・和田・射越・原・松崎ら親族による200の兵を集めて熊山で蜂起し、地の利を活用して足利方を翻弄する。しかし、やはり現地民である石戸彦三郎が間道から本陣に乱入しこれと戦った高徳が兜の内側を斬られて落馬し胸を踏まれて失神した。あわや討死と思われたが甥の松崎範家・和田四郎が救出し、更に父・範長の叱咤により気がついた高徳は奮起して石戸らを追い散らしたという。こうした危うい一幕もあったものの熊山を死守し作戦を成功させていた高徳らであるが、足利軍が九州を制圧して再び上洛するとの報に接し、旭川(岡山市)に移動して布陣した。しかし福山城が足利軍の手に落ちたと聞き、三石まで撤退するがこの時にはこの地の新田軍は播磨まで逃れていたため更にそれを追って坂越(赤穂市)に至った。高徳が負傷しておりこれ以上の進軍が望めない状態であったため、範長は知人の寺に高徳を預けた上で新田軍と合流しようとしたが、高徳を預けた帰途で赤松勢300と遭遇し戦闘で包囲され自刃した。尚、この時に一族の和田範家は近づいた敵と刺し違えようと死んだふりをしていたが、やってきた敵の部将が旧知であったため救出されている。こうして、熊山での挙兵は一時的な効果は挙げたものの情勢の悪化により失敗に終わり、高徳と挙兵した一族は壊滅状態に陥ったのである。

8南北朝対立の中で

 延元元年(1336)5月25日、義貞と楠木正成は兵庫の湊川で水陸両路から東上する足利の大軍を迎え撃った。港湾を防衛して水軍の上陸を防ぐ間に湿地帯の隘路という大軍の通行に向かない地形を利用して陸軍を破り、返す刀で水軍を撃破するという方策に望みを託しての戦いであったが、水軍上陸阻止に失敗し圧倒的大軍の前に後醍醐方は敗北。正成は激闘の末に討死し義貞は辛うじて逃れた。これで大勢は決して足利軍は入京、後醍醐は義貞とともに叡山に逃れて抗戦を続けるが次第に劣勢に追い込まれ足利方と和睦せざるを得なかった。後醍醐は京へ戻り尊氏が擁立する持明院統の光明天皇に譲位し、義貞は後醍醐の皇子を伴って北陸に逃れる。こうして和平がなったかに見えたが、後醍醐は足利方の監視下から脱走して吉野に入り、自らが正当な天皇であることを主張して吉野に朝廷を開いて(南朝)足利氏が擁立する京の朝廷(北朝)に対抗した。後醍醐は京都の回復を目指して各地の味方に連絡。これに応じて奥州の北畠顕家が南下西上したが美濃青野原で打撃を受けて伊勢に迂回、和泉石津で高師直に敗れ討死した。一方、北陸の新田義貞は越前に勢力を扶植しようと図るが失敗に終わり、越後の一族の助けを受けて再起し北陸に一大勢力を構築しつつあった。そこで、時を同じくして畿内に進出していた顕家と歩調をあわせて京を攻撃すべく後醍醐から義貞に指令が出されたのである。これに備えて、通路に当たる比叡山に義貞に協力すべく工作が行われた。その交渉に当たったのが児島高徳である。前述したように、児島半島は天台宗と深い関係がありその縁で高徳が使者として選ばれたのであろう。高徳の働きにより比叡山は南朝方に味方するという確約が取り付けられ義貞上洛に道が開かれたかに見えたが、比叡山と利害対立していた越前平泉寺がこれを受けて義貞に敵対し越前における覇権が動揺し上洛どころではなくなってしまった。結局、義貞は越前の足利方を攻める最中で討死し、南朝方の大攻勢は頓挫したのである。
 こうした挫折感の中で後醍醐天皇は延元四年(1339)に病没、子の後村上天皇が即位した。圧倒的劣勢にある南朝の挽回が図られており、北畠親房が関東で孤軍奮闘したのはこの一例である。この頃、義貞の弟・義助は北陸経略が失敗に終わったため今度は四国に南朝の一大拠点を建設しようとしていた。高徳もこれに協力して伊予に渡っていたが、程なくして義助が病没し軸を失った南朝方は弱体化。高徳もやむなく児島に帰り再び雌伏の時を過ごす事となった。
 その後も足利方の優勢は動かず、高徳は情勢を打開すべく義助の子・脇屋義治擁立を図ると同時に尊氏に不平を抱く丹波の荻野朝忠を誘い蜂起させる計画を立てた。しかし事前に露見し、荻野は山名氏により討伐され児島にも軍勢が差し向けられ打撃を受けることとなる。挙兵するだけの力を失った高徳であるが、諦めきれず千人の味方を糾合して京に潜伏し尊氏を襲撃しようと計画した。義治ら200を坂本に、300を宇治・醍醐から葛葉に、300を洛中に隠して機を窺っていたが、これも露見して侍所の兵に捜索を受け、味方は散り散りになったため高徳は義治と共に信濃へと逃れた。高徳に残された唯一の手段と言える乾坤一擲のテロ活動もこうして失敗に終わったのである。
 さて、軍事的には優勢を保持して政権を確立したかに見えた足利方であったが、名門豪族を中心に秩序重視・保守的な政治志向を持つ直義と新興豪族を支持基盤として伝統打破・革新的な性格の強い執事・高師直が対立し内紛状態に陥る。直義が師直を殺害して内紛は収まったかに見えたが、今度は尊氏と直義の対立に性格を変えて争いは再燃した。初期の足利政権は軍事動員・論功行賞を司る将軍尊氏と政治運営を受け持つ副将軍直義の二頭体制であり、これが内紛に繋がったのである。正平六年(1351)に尊氏は南朝に降伏して敵を直義に絞る事で事態を打開しようと図り、南朝はこの幸運に上手く付け入る形で事態を有利に運ぼうとしていた。尊氏が直義を討つため関東に下り畿内の兵力が手薄になった隙を狙い、南朝方は蜂起し正平七年(1352)2月に京を陥落させた。この時、高徳(この時期は出家していた様で児島三郎入道志純と呼ばれた)は後村上の命を受けて小山氏・宇都宮氏ら関東の豪族達を説得して味方につけることに成功した。彼の誘引工作者としての老練さが伺えるが、児島と全国規模でつながる修験道ネットワークが大きな助けとなったであろう。ともあれ、高徳は新田一族を関東に向けると同時に彼らを上洛させ、入京した南朝軍の助けとしようと図ったが、畿内では義詮(尊氏の子)を中心に戦力を再建した足利軍により京を奪回されており関東では尊氏により南朝方が撃破され目的は遂に果たせなかった。
 これ以降、高徳の消息は知られていない。墓所と伝えられる場所が十数ヶ所に及んでおり、没年や終焉の地も不明である。

9小島法師

 高徳が活動していた時代から時は流れた応安二年(1369)、「洞院公定日次記」5月3日に以下の文章が記された。曰く、「伝聞、去廿八・九日之間小島法師円寂云々。是近日翫天下太平記作者也。凡雖為卑賤之器、有名匠之聞可謂無念」(伝え聞く、去る廿八・九日の間、小島法師円寂すと云々。是れ近日天下を翫ぶ太平記作者也。凡そ卑賤の器為りと雖も、名匠の聞こえ有り、無念と謂う可し)。これによれば、「太平記」の作者は小島法師と呼ばれる人物で、身分の低い出自であること、「太平記」により名を挙げていたこと、応安二年に没したことが分かる(尤も、「天下太平記」の作者と読む説もある)。しかし、今川了俊「難太平記」によれば「太平記」は直義在世中より恵観・玄恵らが関与して原本が作られており、直義に誤謬を多数指摘され帝政を命じられている。また、数多くの異本が存在している事も考慮すると一人の手により成ったのではなく多人数により編纂を重ねながら製作されたものであろう。そうした作者群の代表的存在に「小島法師」と呼ばれる人物がいた、ということはありえる話である。
 それでは、小島法師とはどのような人物だったのか。それに関する手がかりは多くない。その限られた手がかりを辿った限りでは、以下のようなことが推測されている。まず、「法師」という呼称は、仏僧を意味するが普通の僧ではなく「山法師」や「山伏」、物語僧などのように俗的な性格の強い僧に用いられることが多い。また身分の低い階層出身である事を考えると、「小島」というのは姓よりも地名に由来するものであろう。「法師」と縁の深そうな「小島」としてまず連想されるのが修験道の中心地の一つである備前児島である。以上から、小島法師は児島半島修験道の関係者ではないか、という説が有力なものとして唱えられている。
 更に一歩進んだ説として、小島法師とは児島高徳の晩年の姿ではないかとする話も存在する。足利時代後期の軍学書「太平記理尽抄」に児島高徳が「太平記」作者の一人として挙げられている事と「小島」と「児島」の音が通じる事が根拠である。因みに「興福寺年代記」では「太平記」の作者が「外嶋」なる人物で近江国住人とされている。「外嶋」は「小島」と音が近く(当時の文書では音の通じる別の字で表記される事は珍しくない)、近江国小島は高徳の領地と伝えられる事を考慮すると太平記と高徳に何らかの関連があっても不思議ではないようにも思われる。
 そもそも、「太平記」以外には記述がなく大局に影響を与えたことがない一土豪を繰り返し登場させ詳細に描写する事自体が不可解である。高徳本人ではないにしろ、縁者が太平記制作に絡んでいる可能性は相当高いのではあるまいか。考えてみれば、高徳以外にも「太平記」では中国地方の豪族や情勢について詳しく描写されており、これも児島の人間が主に関与したとすれば矛盾しない。
 「太平記」作者についての他の主要な説としては、物語僧説や修験道に詳しい事から山伏説、山門の動向に詳しい事から天台宗関係者説などがある。児島半島は冒頭で述べたように修験道の中心地であると共に天台宗の支配下にある地域である。また、山伏は山岳修行者であると共に芸能者としての性格もあり天下の情報に通じた存在である事から、物語僧という側面を持っていたとしても不思議ではない。児島半島の修験道関係者が作者であると考えればいずれの観点からも矛盾なく読み解けるのである。
 因みに、「太平記」は今川了俊から「宮方深長の者」により書かれたと言われるように同時期の「梅松論」と比較して南朝方に同情的な視点をとっていることが多いようである(ただし、作成・編纂に当たって足利政権による関与が相当なされている事や、足利方武将の功績が数多く記され彼らの間で祖先の功を比べる上での指標とされている事、南朝方に批判的な描写も少なからずある事などから分かるように必ずしも南朝一辺倒ではないが)。児島半島は飽浦信胤が南朝方として参戦して敗れ、高師直に所領を没収されて以降衰退したという経緯がある。児島地域には他に余り軍事活動で目立った事跡はないが、情報・経済活動で主に南朝を支援していたと思われる。感情面で南朝寄りであるのは自然な事であろう。時に批判的で距離を置いた視点を取っていることも、全国規模で情報に通じ俯瞰的な視点を持ちうる存在として不思議ではないのである。
 結論として、「太平記」作者の主要作者として、児島高徳本人であるかどうかは兎も角、その縁者である児島半島の修験道関係者が絡んでいる可能性は濃厚であると言えそうである。

10近代における児玉高徳

 近代の教育において、児島高徳は代表的忠臣として持て囃された。歴史や終身の教科書に登場するだけでなく、音楽においても「児島高徳」という文部省唱歌が採用されている。以下にその歌詞を引用する。

一.船坂山や 杉坂と
  御あと慕いて 院の庄
  御衷をいかで 聞えんと
  桜の幹に 十字の詩
  「天勾践を空しゅうする莫れ 
   時范蠡無きにしも非ず」
二.御心ならぬ いでましの
  御袖露けき 朝と出に
  誦じて笑ます かしこさよ
  桜の幹の 十字の詩
  「天勾践を空しゅうする莫れ 
   時范蠡無きにしも非ず」

 また、同じく文部省唱歌「南朝五忠臣」では、楠木正成・正行父子や名和長年、新田義貞と並んで「春の弥生に夜をこめて、君に告げんと益荒男が、大和心を桜木に、残せしあとこそ匂いけれ。」と歌われている。南朝のために大局的に目覚しい貢献をした菊池氏・北畠氏を差し置いての大抜擢である。
 そして、楠木正成の湊川神社や新田義貞の藤島神社に代表されるように「南朝忠臣」達は神として祀られたのは有名であるが、高徳も例に漏れず嘗ての院庄跡が作楽神社とされ後醍醐と共に祭神となっている。
 近代において「南朝忠臣」達が持て囃された理由はよく理解できる。国家間の生存競争が激しい当時において、国力を向上させるためにも国民を国家、そしてそのシンボルとしての天皇の支配下に置く必要性があると考えられたためである。そのためには、天皇に献身的に忠義を捧げたとされる南朝の将士を称揚する事が好都合であった事は想像に難くない。しかし、歴史上に何らかの足跡を残した人物は兎も角、なぜ大局に影響を与ええなかった高徳がここまで「優遇」されているのであろうか?
 その理由は明らかではないが、いくつか考えられる要因はある。まず、高徳が「太平記」においてしばしば登場している事。そして前述したように最大の見せ場である院庄の場面が、満開の桜の下で忠臣が至誠の志を示すという印象的で絵になるものである事。そうした理由から子供達にも親しまれていると考えられ、愛国的な「臣民」を教育する上で好都合であると判断されたのであろうと思われる。
 しかしながら、歴史の流れという面では重要性のない人物と言って差し支えない。既に明治期に重野安繹がその実在を否定する説を述べているが、戦後になり皇国史観が否定されて実証主義が主流となると歴史学ではほとんど扱われる事がないといってよい。わずかに児島半島における修験道や「太平記」作者の問題において言及されることがある程度であろう。

11おわりに

 児島高徳については、やはり不明な点が多い。何しろ「太平記」以外にその存在について言及した主要な史料が存在しないのである。前述したように、重野安繹のようにその実在を否定する学者すら存在する程なのだ。この問題に関しては田中義成らが存在の可能性に含みを残し、藤井駿が備前の荘園関係古文書を検討し実在した可能性に言及しているが、どちらにしても決め手を欠くといってよい。大局への影響が皆無なのであるから、どちらとしても問題はないというべきであろうか。ただ、どちらでも問題がないのであれば、物語としても「太平記」に親しんできた筆者としては「恐らく実在したのではないか」と思いたいところである。
 それにしても、「太平記」における高徳の活動を辿ってみると、誘拐未遂・後方撹乱・誘引・反乱教唆・内部潜伏・テロリズムといった内容になる。こうしてみれば武将と言うよりも工作員と呼ぶ方が相応しい活動であろう。高徳に限らず、修験者いわゆる「山伏」の当時における活動はこうしたものだったと思われる。活動範囲も中国・四国から東国に及んでおり、修験道のネットワークの広大さが偲ばれる。この頃、山伏はその情報能力の高さなどからか、不可思議な能力を持ち(山伏の中には、旅において人々の敬意を得て宿を求めるなどの目的から奇術を心得た者も存在した様で、これもそうした印象を強めたであろう)不吉をもたらすと考えられ「天狗」と呼ばれ畏怖されたというが、なるほどと思わされるものがある。そして彼らが寺社や朝廷との伝統的な関係から南朝方につくものが多かった事が、圧倒的劣勢でありながらも南朝が修験道の中心地・吉野を拠点として曲がりなりに60余年の歴史的生命を保ちえた主要な要因であると言えるだろう。
 戦後の歴史学が明らかにした「南朝忠臣」達の姿は、道徳的な見本である「忠君愛国」の権化とは異なった一種の不気味さを伴う異形の存在であった。それは、足利方において伝統的価値観を軽視した「ばさら」達と一脈通じる伝統破壊的な性格を持つと言えるだろう。彼らにより旧来の社会が壊され新たな価値観が創造される過程における、混沌とした生みの苦しみの時代。それが南北朝であり、それゆえに「日本史上屈指の転換期」と評される所以であると言える。

参考文献
日本古典文学大系太平記一〜三 岩波書店
修験道史研究 和歌森太郎 平凡社東洋文庫
山伏 和歌森太郎著 中公新書
太平記 松尾剛次著 中公新書
日本の聖地 久保田展弘 講談社学術文庫
山岳霊場御利益旅 久保田展弘 小学館
山の霊力 町田宗鳳 講談社選書メチエ
山河太平記 陳舜臣 ちくま文庫
日本異譚太平記 戸部新十郎 毎日新聞社
帝王後醍醐 村松剛 中公文庫
楠木正成と悪党 海津一朗 ちくま新書
南北朝時代史 田中義成 講談社学術文庫
吉野朝史 中村直勝 星野書店
太平記の群像 森茂暁 角川選書
異形の王権 網野善彦 平凡社
増補無縁・公界・楽 網野善彦 平凡社
馬・船・常民 網野善彦・森浩一 講談社学術文庫
日本の歴史8蒙古襲来 黒田俊雄 中公文庫
日本の歴史9南北朝の動乱 佐藤進一 中公文庫
足利尊氏 高柳光寿著 春秋社
足利尊氏 山路愛山著 岩波文庫
「中世社会の研究 松本新八郎著 東京大学出版会」より「南北朝内乱の諸前提」「南北朝の内乱」
悪党と海賊 日本中世の社会と政治 網野善彦 法政大学出版局
ピクトリアル足利尊氏南北朝の動乱 学研
南北朝動乱と王権 伊藤喜良著 東京堂出版
歴史群像シリーズ10戦乱南北朝 学研
別冊歴史読本 1990年10月号 ばさらの帝王後醍醐天皇 新人物往来社
日本の歴史11太平記の時代 新田一郎 講談社
日本唱歌集 堀内敬三・井上武士編 岩波文庫
日本古典文学大系日本書紀上・下 岩波書店
「群書類従 第二十一号 合戦部」より「難太平記」 続群書類従完成会
京大本梅松論 京都大学国文学会
「芝蘭堂」(http://homepage1.nifty.com/sira/)より「梅松論」「難太平記」


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