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南北朝時代の時宗  NF


はじめに
 今でこそ念仏を唱える宗派といえば浄土宗・浄土真宗が思い浮かぶでしょうが、南北朝前後においては念仏踊りなどで知られる時宗が盛んでした。彼らの存在は宗教面のみにとどまらず、社会や文化において強いインパクトを残したのです。今回は当時の時宗の様子について概略を述べたいと思います。

一遍
 一遍は、伊予における水軍の名門・河野氏一族の一つである越智氏に生まれた。しかし承久の乱などで実家が没落していたこともあってか、早い年齢で出家し聖達の元に入門して念仏の教えを学んだ。その後は信濃善光寺・菅生岩屋・四天王寺・高野山など諸国を旅し、その中で念仏の札を人々に配るようになる。
 熊野三山に参詣した際にある僧に受け取りを拒否されて悩み、本宮で熊野権現から「人々を救うため相手の信心不信心に関わらずとにかく札を配るべし」と夢告を受けて迷いが消えたという。この頃から札は「南無阿弥陀仏 決定往生六十万人」と記したものとなり、極楽往生を願う祈りでなく既に往生が約束された感謝の祈りに質が変わっていくのである。
 更に一遍は、信濃で空也に倣って念仏踊りを開始。その後も厳島・鎌倉など全国各地を旅するのであるが、この時期には多くの人々が一遍に従って遊行の旅に出るようになっていた。一遍は寺院に寄らない「一生不住」を原則とし、「十二道具」<引入(椀鉢)・箸筒・阿弥衣・袈裟・帷・手巾・帯・紙衣・念珠・衣・足駄・頭巾>を持って旅に一生を過ごした。その旅は、ひとえに苦しむ人々に救済を与えるためのものであった。一遍に従う人々は、そうした彼を救世主と見て奇跡・奇随を期待する。一遍自身はそのようなものは信じていなかったが、人々のそうした思いを無碍に否定はしなかったようである。
 一遍は自分の始めた念仏踊りやその集団を「一期ばかり」と考えており新たな教団創始の意図はなかったようで、没する際には「一代聖教皆尽きて南無阿弥陀仏に成り果てぬ」と全ての著作を燃やしている。しかし既に彼を慕って集まった人々にとっては自分達を受け入れる場として教団・集団が必要なものとなっていた。一遍死後には弟子の他阿が彼らを率いて教団を形成するのである。
 一遍の教えは、単純な念仏専従ではなく様々な信仰から影響を受けたものであった。一遍自身が禅僧・覚心に参禅した事からも分かるように禅・天台から影響を受けているし、念仏札の配布は高野聖に倣っているように真言の流れも受けている。更に各地の寺社を参詣して様々な在地自然信仰も否定することなく受け入れているのである。
「十劫に正覚したまえるは、衆生界のためなし
 一念をもって往生す、弥陀の国
 十と一と不二にして無住を証し
 国と界とは平等にして大念に坐す」
 一遍は上述のような和讃を作って難解な理論よりも念仏を唱える実践を重んじた教えを分かりやすく説き、人々と共に各地で集っていたのであるが、次第にその集まりは説法・念仏に加えて風流踊りや管弦といった芸能の催される場ともなっていく。これが後世には文芸に大きな影響を与えるようになるのである。
 
時宗一派
 前述したように、一遍の死後に信者達を率いたのが他阿であった。他阿は一遍を引き継いで遊行の旅を続けるのであるが、人数が増えた関係もあって各地に道場、すなわち定住的な拠点を設ける必要性が生じてきた。例えば総本山とされる藤沢の清浄光寺がこれにあたる。もっとも他阿は「心は遊行にて候」と述べており、本心では望ましい選択ではなかったようである。
 なお、他阿の率いる一派以外にも集団で念仏踊りを行い「時宗」と称された集団は存在した。海阿・仙阿もそれぞれ別派を率いていたようであるし、一遍と直接関係のない一向も同様な集団を率いていたのである(この時期に時宗が「一向宗」と呼ばれたのはそうした理由である)。この頃は、類似した小集団が数多く存在したものと考えられる。
 さて、この時宗集団が外部からどのように見られていたかを見ることにしよう。「天狗草子」と呼ばれる絵巻物には、一部に一遍ら時宗の姿も描かれている。その詞書には「さはがしき事、山猿にことならず」「男女根をかくす事なく、食物をつかみくひ」など批判的な評価がなされ一遍も「天狗の長老」と呼ばれているのである。そして画像には無作法に施行された食物をむさぼる時宗信者や肩を組み合う尼僧の姿が描かれている(詞書で性的な面を含め振る舞いの乱れを非難されていることを考慮するとこれは同性愛を示唆するものであろうと推測されている)。更に「天狗草子」異本である「魔仏一如絵」では尼僧が人目を憚らず大小便をするところが描かれているのである。これらからは、時宗集団が性的なものも含めて社会的な風紀を乱す存在として見られていることが分かる。
 他にも「天狗草子」には踊念仏にしばしば奇跡(紫雲、瑞花)が伴ったことを挙げて邪道の教えであると非難しており、踊りによるエクスタシーに伴うエネルギーが外部世界の恐怖感を招いていた事が窺われる。更に一遍が請われて自身の尿を薬として与えている場面が知られているが、「春日権現記絵」で神懸りとなった人の手足を舐る場面があったり能登に本願寺法主の入った風呂水を飲んだという伝承があることから考えて、実際にあったとしても不思議ではない話である。時宗には多くの土俗的信仰も混じりこんでおり、一遍も人々の奇跡を求める心情を一概に否定はしなかったことも考慮すると尚更であろう。土俗的習俗も交えた宗教的熱情を持つ集団は、世俗的生活を送る人々にとっては、猥雑な振る舞いもあって、理解できない不気味な集まりに見えたのは無理もないところである。それにしても真言宗でも性的な性格を強く持つ立川流が流行した時代でもあり、こうした猥雑さと熱狂的信仰とが交じり合った混沌と膨大なエネルギーとが民間信仰にはしばしば見られたと言えそうである。

南北朝期の時宗
 14世紀の南北朝期に入ると、時宗は全盛を極めており社会的にもある程度の地位を築きつつあったようである。いつでもどこでも命を落とす覚悟をしていることもあってか、戦場に従軍僧として出入りしており「太平記」でもしばしば時宗僧の姿が描かれている。彼らは死に瀕した兵士達が心安らかに死につけるよう極楽往生のための最後の十念を授けたり、死者を供養したりするのが主な役目であった。また、負傷兵を治療する金創医術の心得がある者も多かったようだ。時には戦況を他の軍勢に伝える諜報員としての役割も果たす事があった。
 上述の例を挙げるならば、近江番場で包囲された六波羅探題・北条仲時らが切腹したのは時宗の堂であり彼らの名を過去帳に記したのは時宗僧であったと考えられる。また、新田義貞が越前で戦死した際には、敵将・斯波高経の命によって時宗僧らが義貞の亡骸を葬った事が「太平記」に記されている。因みに楠木正行が四条畷出陣直前に討死を覚悟して寺の扉に名を書き残したという逸話も「太平記」記されているが、これは時宗における死者の名を記す通例に倣ったものと考えられている。更に「太平記」における戦場の時宗僧について言うと、尊氏・高師直が直義と争っていた際に関東において師直派が敗れた事を伝えたのも彼らであった。
 また、困窮した人を世話するのも彼ら時宗僧の役割であった。やはり「太平記」から例を引くと、足利政権内部の権力争いで敗れて失脚した畠山国清が南朝に降ろうとした際に、時宗僧が道場で金銭や物資などを含めて何くれとなく世話をし、吉野まで送り届けるに到るまで面倒を見ている(ただし、国清の降伏は南朝から受け入れられなかったようだ)。
 このように戦場に付き従う時宗僧は戦況を良く知る立場におり、これが「太平記」編集にも大きな力となったことは想像に難くない。例えば上述の仲時らや湊川における楠木正成らのように全滅した人々の最期の様子を見届け世間や遺族に伝えたのは彼らであったろう。「太平記」は主に備前児玉などの修験道の人々により編纂されたと考えられているが、これらを考慮すると時宗僧たちも大きく関わっていた可能性が強い。時宗僧らはこうした文芸にも少なからぬ影響を与えていたのである。
 芸能と言えば、前述のように念仏踊りの集まりは管弦など様々な芸能が催される場であったこともあり、時宗僧にも多種多様な芸能を修めた人物が存在した。その分野は茶・花・香・和歌・連歌・書画・作庭にまで至っており、彼らは後に職人として足利政権などに仕える事となる。能楽を大成させた観阿弥・世阿弥を始めとして「阿弥」の名を持つ例が当時の芸能で世に知られた人物に多いのはそうした理由である。

おわりに
 南北朝の動乱が一段落した後は、時宗僧には芸能・文化人として足利政権に吸収される例が多く見られるようになる。また遊行を本来の有り様とする時宗は組織化という面では弱点を抱えており、次第に浄土真宗など他宗派に座を脅かされていく。15世紀後半・16世紀になると蓮如による浄土真宗本願寺派が教団を組織化して巨大勢力となり、その一方で時宗は歴史の表舞台から見られなくなり細々と命脈を繋ぐ存在となるのである。

参考文献
日本の歴史8蒙古襲来 黒田俊雄 中公文庫
寺社勢力 黒田俊雄 岩波新書
異形の王権 網野善彦 平凡社
馬・船・常民 網野善彦・森浩一 講談社学術文庫
日本異譚太平記 戸部新十郎 毎日新聞社
増補姿としぐさの中世史 黒田日出男 平凡社ライブラリー
日本古典文学大系太平記 一〜三 岩波書店
邪教・立川流 真鍋俊照 ちくま学芸文庫
修験道史研究 和歌森太郎 平凡社東洋文庫


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