常陸と楠木氏  NF


はじめに
 南北朝における南朝方の代表的存在・楠木氏。彼らは河内の新興豪族として一般には認知されていますし、実際に大部分の活動は大阪平野を舞台としています。しかし、遠く離れた北関東の常陸においても楠木氏の活動があったことは余り知られていません。そこで、今回はそれについて述べ、この地と楠木氏の関係について少し見ていきたいと思います。

常陸と楠木氏
 鎌倉幕府打倒に大きな貢献をした楠木正成は、摂津・河内・和泉の守護に任じられ河内守となったほか、恩賞として新たな所領を与えられました。それらの恩賞には、河内国新開荘・土佐国安芸荘・出羽国屋代荘と共に常陸国瓜連荘も含まれていたのです。
 この地に代官として派遣されたとされるのが正成の一族(と思われる)楠木正家です。彼は足利尊氏が後醍醐天皇に反逆した後、延元元年(1336)にこの地で足利方の佐竹氏と戦いましたが結局は関東は足利方が優位を確立することになります。。
 これで楠木氏と常陸の関わりは終わりを告げたかに見えますが、南北朝動乱が終わった直後の時期に楠木正勝(正儀の子、正成の孫)が筑波山の古通寺を開いたという伝承が残っています。また、この地域出身の作詞家・野口有情は、実家が楠木正季(正成の弟)の末裔であると称しており菊水(楠木氏の家紋)を家紋として用いていたそうです。加えて、忍城の武士である吉野氏は楠木氏の流れを汲むと伝えられます。これらの話から考えると、この地域には一過性だけでない楠木氏との関わりがある可能性は否定できません。
 楠木氏は大阪平野で水分川の水利権を握り水上交通を手中にして水銀の交易で財を成したと考えられていますが、常陸北部にも金や辰砂が産出されており現地の非農業民とも楠木氏が関係を結んだのでしょうか。また、「楠木」姓の元となったであろう地名が大阪平野には認められず、楠木氏は元は他地域の豪族だったのが御家人(鎌倉将軍の家臣)または御内人(幕府の実権を握った北条氏の家臣)として大阪平野に所領を与えられ移住した可能性も指摘されています。これに関連して「吾妻鏡」で頼朝に従って上洛した豪族の中に忍三郎・忍五郎と並んで「楠木四郎」の名が見えることが注目されており、この人物と河内の楠木氏との直接の関連は不明なものの楠木氏が元来は北関東に拠点を持っていた可能性も浮かび上がるのでです。ひょっとすると一族が古くから常陸に縁を持っていたかも知れません。明らかな証拠はまったくなく、真相は永遠の謎ですが。

常陸と南朝
 楠木氏だけでなく、常陸は関東の中では南朝と縁の深い地域です。北畠親房が伊勢から関東へ向かい南朝方の拠点扶植を図った際、最初に上陸したのは神宮寺城でしたがこの地は熊野権現と関係の深い場所であったということです。そこから考えると、親房を運んだ船団は熊野水軍であったと考えるのが自然でしょうか。そうすると、楠木氏は紀伊の湯浅氏とも縁が深かったようですから、熊野水軍を通じて大阪平野と常陸の連絡を取っていたのかもしれません。
 それはさておき、関東において親房に味方した城は大宝城・関城・真壁城・中群城であり霞ヶ浦や桜川沿いに集中していることがわかります。この周辺の漁業・水運などは鹿嶋神社の神人(下級神官、多くは非農業民が庇護を求めてこうした肩書きを持った)が権益を掌握しており、霞ヶ浦周辺を拠点として水軍も編成していたと考えられています。楠木氏を始めとして南朝方を構成していたのは非農業民や彼等を束ねる新興豪族であったといわれていますが、ここでも彼等が関東における南朝方の主力となったわけですね。
 しかし関東は依然として農業民を抱える大豪族の力が強く、彼等を編成した足利方によってこうした南朝方の非農業勢力は圧迫され敗北を喫するのです。

おわりに
 楠木氏が活躍した大阪平野と遠く離れて一見何の関係もなさそうな常陸国。しかしそこでも楠木氏の活動の影がチラチラと見えるのは面白いものです。そしてその背景には親房の抗戦をも支えた水上勢力、中でも楠木氏とも縁の深かった熊野水軍の姿が垣間見えるのです。それは楠木氏と常陸の関係だけでなく、この時代における日本列島沿岸の水上勢力の社会的実力をも窺わせる興味深い存在といえます。

参考文献
虚無僧の謎吹禅の心 岡田冨士雄 秋田文化出版(主にこの本の要約)
茨城県の歴史 瀬谷義彦・豊崎卓 山川出版社
異形の王権 網野善彦 平凡社ライブラリー
楠氏研究 藤田精一 廣島積善館
楠木正成 植村清二 中公文庫
帝王後醍醐 村松剛 中公文庫
日本異譚太平記 戸部新十郎 毎日新聞社
太平記の群像 森茂暁 角川選書
日本の歴史9南北朝の動乱 佐藤進一 中公文庫
東国の南北朝動乱 伊藤喜良 吉川弘文館
週刊朝日百科日本の歴史12 後醍醐と尊氏 朝日新聞社


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