アクセス解析
カウンター


赤松円心  NF


1はじめに

 楠木正成と同様に「悪党」と呼ばれる新興豪族の出身でありながら、南朝に殉じた楠木氏とは対照的に足利方として活動し侍所長官を務める有力守護にまでのし上がった赤松円心。その生涯を概観する。

2時代背景

 8世紀初頭に確立した中央集権的な統一政権は、9世紀には支配力を弱めた結果として崩壊に向かう。生産力の向上に伴い貧富の差が拡大し、貧困層が没落する一方で実力を付けつつあった地方豪族は彼らを支配下に納め自給体制を各地で形成した。中央政府(朝廷)は豪族達の利権を黙認し、人口を把握・支配するのを断念して土地単位での税徴収体制に転換。こうして大土地所有者、すなわち有力貴族・寺社や地方豪族による連合体の盟主として朝廷が存在する体制が11世紀前半に確立する。
 やがて、地方豪族の実力向上に伴い彼らを支配下に組み入れた軍事貴族が台頭。12世紀末には軍事貴族の代表者である源氏・平氏による内乱を経て、勝利した源氏によって東日本に軍事政権である鎌倉幕府が成立した。幕府は朝廷の宗主権を名目上は認めつつも東日本を中心に独自の支配体制を確立。朝廷が西日本、幕府が東日本を支配する形となった。13世紀前半の承久の乱以降は軍事力に勝る幕府が圧倒的優位に立ち、次第にその支配権を西日本にも広げていく。13世紀末のモンゴル帝国(元)の来襲(元寇)を契機として幕府は国防の必要上から全国規模で支配権を強化、更にこの頃に発達しつつあった商業勢力を把握する事で専制化を志向していた。
 一方で、従来より幕府に従属していた豪族達(御家人)は分割相続による支配領域の零細化、商業発達に伴う貧富の差の拡大、元寇やその後の海岸警備による経済的負担もあって専制化する幕府に不満を募らせていく。また、経済先進地域であった畿内を中心に、貨幣経済発達に伴い非農業民を支配下に置いた新興豪族が台頭、伝統的勢力としばしば衝突し「悪党」と呼ばれた。彼等は朝廷・幕府ですら統制しきれず頭を悩ませる社会不安要素となっていた。幕府は彼ら非農業民の組み入れに腐心していたが、西国の非農業民は伝統的に朝廷と深い繋がりがあった関係もあってか、「悪党」らは寧ろ取締りにより自らを制肘する存在として幕府への反感を持つ者も多く見られるようになる。
 一方、承久の乱以降弱体化していた朝廷は、更に皇室や有力貴族が地位をめぐって分裂。皇室は持明院統と大覚寺統に分かれ、摂関家は五摂家に分裂して対立する。中でも皇位や「治天の君」(皇位を退いた上皇の中でも天皇の保護者として実権を握った者をこう呼ぶ)をめぐっての両統の対立は深刻で、幕府による調整が必要なほどであった。その結果、思い通りに行かなかった陣営による幕府への遺恨を生む事となるのである。
 経済発達を背景に専制化を進める幕府であったが、その一方で各階層から反発を買い孤立化も進んでいた。人々の不満や社会不安も高まりつつあり、幕府は周囲の敵意を受けながら強権体制を建築しつつあったのである。

3赤松氏

 赤松氏の拠点とした播磨は、比較的京に近く播磨平野を擁して農業生産高も高い。更に瀬戸内における海上交通の要地でもあり、西国でも重要性の高い地域の一つであった。
 さて赤松氏は「村上天皇第七皇子具平親王六代の苗裔、従三位季房が末孫」と称していた事が知られる。中央の高官が播磨に配流される際には佐用郡に居住するのが通例とされていたが、季房も佐用郡で現地豪族の娘と契り、その子が現地で土着していったというのである。因みに、この時代には現地の豪族が貴種と娘を娶わせて自らの血統を高めようとするのは珍しくなかった。季房の曾孫である宇野則景が北条義時の時代に佐用荘地頭となり、その子孫で則範の末子である家範が初めて赤松氏を名乗ったようである。以上は文亀二年(1502)の赤松政則七周忌においての文書から参照しておりある程度信が置けるようである。則村、即ち円心は家範からみて四代目の子孫に相当する。
 こうして見ると、赤松氏が村上源氏の末裔と言うのは少なくとも楠木氏が橘諸兄の末裔と言うよりは信憑性がありそうである。しかし、だとしてもその一族は14世紀には播磨の一土豪に過ぎなかった。祖先の信憑性は高くとも、この時点での社会的位置は楠木氏と大差なかったといってよい。そして赤松氏はこの一族の嫡流ですら決してなく分家の一つに過ぎなかったのである。そこから名を挙げて播磨一国の守護、更に全国有数の実力者の地位まで上り詰めた円心やその子・則祐の力量は並々ならぬものであると言えよう。
 さて赤松円心は、没年から逆算すると建治三年(1277)に生まれたようである。若年期の逸話としては、禅僧・雪村友梅と出会い将来出世すると予言されてこれに感謝したというものが伝わる程度である。円心の若年期における雪村の年譜も考慮すると、もし実際に出会っているとすれば京においてであろうとされる。だとすれば大番役のために上洛していたものとも考えられ、御家人であった可能性も浮上する。因みに円心の甥も禅僧であり宗峰妙超と号し、円心は彼のために元応元年(1319)に京の紫野に庵を建立してやっている。これが後世には大徳寺に発展するのであるが、これは別の話である。

4動乱の幕開け

 この頃、大覚寺統から即位した後醍醐天皇は親政を行い京都周辺の商業勢力を保護し支持基盤に取り込もうと図る。そうして、後醍醐はやがて幕府の打倒を目論むようになる。傍流であった己の血統に皇位を受け継がせるためであり、皇位継承に干渉する幕府を倒し天皇による専制政権樹立するためである。時に幕府は北条氏の惣領である高時が病弱のため指導力不足で、東北の反乱や権力争いに悩まされており後醍醐にとって絶好の機会と思われた。後醍醐は、皇子・尊雲法親王を天台座主として叡山に送り込むなど寺社勢力の経済力・軍事力を頼みにして彼らの取り込みを図った上で、元弘元年(1331)に挙兵し笠置山に篭った。しかし幕府の軍事力は未だ圧倒的であり笠置は陥落して捕らわれ、持明院統の量仁親王(光厳天皇)に譲位した上で隠岐に流された。
 しかし、後醍醐の誘いに応じて河内赤坂で挙兵していた楠木正成は、最初の挙兵こそ準備不十分であったものの元弘三年(1333)になると幕府軍を大阪平野各地で翻弄した上で金剛山の千早城に篭る。また、護良親王(尊雲法親王、還俗して護良と名乗る)は各地の豪族に挙兵を煽ると共に自身も吉野に篭った。これにより威信を傷つけられた幕府は大軍を動員し吉野を陥落させるものの、千早城は攻め落とせず苦戦を余儀なくされる状態であった。幕府に反感を持つ人々は、これを見て幕府の軍事的威信の低下を見て取っており、ここに更に幕府方に対し攻勢を取る者が出現した際にはこれに続くものが陸続するであろう状況であった。

5挙兵

 円心の居住する播磨は、前述のような戦略的重大性もあって六波羅探題(京に置かれた幕府の西国における拠点、代々北条氏が歴任)の直轄地であった。この関係から赤松氏は北条氏との関わりも必然的に強くならざるを得なかったと思われるが、それだけに北条氏への反発も高まった可能性はある。円心の三男・則祐は一族の小寺頼季と共に、護良が天台座主であった頃からその側近として仕え護良と共に吉野山中を転戦しており、早い段階で円心が朝廷方に心を寄せていたものと推察できる。更に、「赤松記」によれば同じ時期に長男・範資と次男・貞範を摂津尼崎に派遣し勢力扶植に努めていたという。摂津長洲荘の起請文に「執行範資」「惣追捕使貞範」と記したものが存在する事からもその記事に信憑性はあるといえる。これもまた、朝廷方として活動するための布石であったのかもしれない。
 さて元弘三年二月、則祐は小寺頼季と共に護良の令旨を持参して円心の下に参上した。これに従って円心は佐用荘苔縄に築城して挙兵。更に令旨は播磨国中の寺社・豪族に伝達され、千騎の軍勢が円心の下に集ったのである。令旨には十七ヶ条にわたって恩賞の約束が記されており、人々を駆り立てるには十分な効果があったと思われる。ところで護良の令旨は三月二十一日付で出されていたが、挙兵の日限を二十五日に定めていた。出されてから届けられるまでの時間も考慮すると、既に円心らは蜂起を決意し護良と連絡の上で準備を整えていたと考えるべきであろう。
 さて円心はすぐに杉坂・山の里を軍勢で塞ぎ、山陽・山陰と畿内との交通を遮断した。貞範は船坂山に陣を敷き、中国地方から六波羅に馳せ参じようとする軍勢を撃退、更に伊東惟群を降らせる事に成功。惟群は備前三石で蜂起し、守護・加治氏の軍勢を撃退して円心の背後を固めた。これで円心は安心して京に進出する事が出来るようになったのである。

6六波羅との戦い<前半>

 円心はまず兵庫に進出して摩耶山に陣を敷いた。これを知った六波羅は、事態を重視して北条時知・佐々木時信の率いる五千の軍勢を派遣。閏二月十一日、円心は百から二百程度の弓兵を山から降ろして六波羅軍に矢を射掛けさせ、山へ逃げる事で敵を山上へと誘き寄せた。軽装の赤松兵は早くに自陣に合流したが、騎兵を中心とする六波羅軍は険しい山道に難渋。そこへ山中に伏せていた則祐・飽間光泰が矢の雨を浴びせかける。そして敵が混乱したのを見計らって範資・貞範が上月・佐用・小寺・頓宮ら五百を率いて突入した。六波羅勢は突破されて軍の態を為さなくなり、大損害を被って退却したのである。
 この勝利に乗じて赤松軍は摂津の平野部に進撃し久々知に本陣を置き、酒部に先方を配置する。三月十日、雨が降っていたこともあり、円心は油断して自身の周囲に少数の兵しか配置していなかったが、そこへ阿波から上陸した小笠原氏の軍勢が奇襲をかける。円心は目印になるものを捨てて敵軍に紛れ、命からがら脱出すると伊丹方面の自軍に逃げ込んだ。思わぬ敗北を喫した円心であったが、翌日に気を取り直して瀬川(箕面市)に進撃。六波羅は第二陣として一万の大軍を差し向けており、それと決戦するためである。両軍は睨み合うが、数では赤松軍は三千と大きく劣る。そこで円心は貞範に宇野国頼・佐用範家・飽間光泰らと共に少数の兵を授け、敵背後に廻らせる。貞範らは竹やぶに伏せて敵軍に矢を射掛け、敵の動きが乱れた隙を突いて打って出た。六波羅方は貞範らが少数であるとは知らず、挟撃されたと考えて動揺。その機会を逃さず円心は全軍を率いて鬨の声を上げて突撃した。これで六波羅軍は潰走し大きな損害を出したのである。
 ここで則祐の進言に従い、一気に京へ進出する事に決めた円心は十二日には淀・赤井・山崎・西岡といった京郊外地域に野伏を用い火を放って六波羅方を揺さぶる。六波羅は在京の兵を動員して二万の軍勢を編成し防衛体制をとった。さて円心は久我畷・西七条の二方面から突入を図る。まず円心自身の率いる久我畷方面では、桂川を挟んで攻め倦み敵味方とも矢を射掛けあう状況がしばらく続いたが、則祐は飽間九郎・伊東大輔・小寺頼季らと共に渡河を強行して上陸に成功。これを見た赤松軍は勇気付けられて川を渡り、六波羅軍を突破して京に侵入、六波羅に程近い蓮華王院にまで進出した。一方、西七条方面でも突入に成功しており、大宮・猪熊・堀川に火をかける。この時の戦場となった京の混乱は、光厳天皇・後伏見院・花園院が御所から六波羅庁へと避難する程であった。こうした中で六波羅方は隅田・高橋の三千を西七条方面へ、陶山・河野の二千を蓮華王院方面へ差し向けて防戦に当たる。陶山・河野らは奮戦して赤松勢を撃退し、苦戦していた隅田・高橋らを救援して七条方面の赤松軍をも追い散らしたのである。勝利した六波羅軍は翌日に討ち取った赤松軍の首を多数六条河原に晒したが、その中に赤松円心と札を付けられた首が五つあって京童の笑い者となった。円心の顔を知る者が六波羅方に居なかったため生じた喜劇である。
 こうして円心は最初の京攻防戦において大敗し、一時は自刃も考えるほどであったが辛うじて思いとどまった。因みにこの際、男山八幡宮に祈りを捧げたところ神託があり、それに従って以降は家紋である左巻き巴の旗に大龍の姿を描いて大将旗として用いたと言う。さて気を取り直した円心は軍勢を再編成し、貴族である中院貞能を形式上の総大将として擁立して名分を整える。その上で山崎から八幡にかけての地域を占拠し、桂川から木津川に至る水上交通を遮断して京を兵糧攻めにする方策をとったのである。

7六波羅との戦い<後半>

 円心が京を兵糧攻めにしたのを受けて六波羅方は、糧道確保のために五千の軍勢を割いて山崎を攻撃させる。迎え撃つ円心は、手勢を三つに分けて弓兵五百を大原野に配置し、野伏と少数の騎兵からなる千の兵を狐川に待機させ、更に刀・槍で武装した歩兵八百を向日明神広報の松原に伏せさせた。まず大原野の弓隊が高場から六波羅軍に矢を射掛け、これを追撃する六波羅軍の側面を刀・槍隊が伏兵として攻撃。更に騎兵に率いられた野伏らが背後に回りこんで退路を断つ態勢をとった。これで六波羅軍は浮き足立ち潰走したのである。
 この状況を見た叡山は、反幕府派が勢いづいて挙兵。戦闘では六波羅方が優勢であったし、叡山内部も幕府派が残存しており一枚岩ではなかったが、六波羅としては南西と北東における交通の要地を封鎖された形となったのである。
 これに乗じるようにして、円心は四月三日に再度京へ総攻撃を掛けた。殿法印良忠(護良の側近)・中院定平を擁立し伊東・頓宮らや周辺の野伏で編成された三千が伏見・鳥羽方面から侵入。そして円心自身が率いる宇野・佐用ら三千五百が桂方面から西七条へと向かったのである。六波羅は、味方のうち三千を後方の叡山に対して割かなければならない状態で迎撃態勢をとる。前回と同様に六波羅軍は二つに分かれてそれぞれの敵に対処した。赤松軍は歩兵が多いため小路を塞いで射手を前面に出し矢を射掛け、一方の六波羅軍は騎兵が多いため機動力を生かして何とか包囲しようと図る。こうして双方とも死力を尽くして戦っていたが、まず伏見方面では数で勝る六波羅軍が赤松勢を破って宇治へと追い散らし、更に東寺に迫っていた赤松軍をも蹴散らした。そうして一つにまとまった六波羅軍は、西朱雀の円心本陣へと攻め寄せこれも撃退。円心による京攻略作戦はこの時も実を結ばなかった。
 この直後、山陰方面から後醍醐の寵臣である千種忠顕が数万の軍勢を率いて西山に布陣し、四月八日に単独で攻め寄せるがこれも敗退している。
 こうして、京攻略自体は難航していたものの、円心の奮戦により徐々にこの地域の戦況は後醍醐方に傾いていたのである。幕府軍が千早攻めに難航して威信が低下し反幕府派を力づけていた事、千早城に多くの軍勢を裂かざるを得なくなり京が手薄に為っていた事が要因として挙げられる。倒幕への流れは正成が種を蒔き円心が芽を育てたといえよう。しかし花を咲かせ完全に形勢を逆転するには、あと一押しが足りないのも事実であった。

8幕府滅亡へのうねり

 円心の奮戦を受けて、各地で幕府に対し挙兵する豪族が続出した。四国では元弘三年二月に、赤松軍の挙兵に合わせるようにして土居通増・得能通綱・忽那重清が挙兵。同年閏二月には長門探題・北条時直を石井湊で破り、続いて伊予守護・宇都宮貞宗も撃退し備後に進出して鞆津を占拠している。同じ頃に大和の高間行秀・快全、紀州粉河寺が蜂起。また関東でも小山氏が挙兵し、九州でも失敗に終わっているが菊池氏が鎮西探題を攻撃している。こうした中で隠岐に流されていた後醍醐が脱出して伯耆の名和長年に迎えられる。これによって反幕府方は更に勢いづき、前述した千種忠顕が軍勢を率いて六波羅攻撃に加わったのである。
 赤松氏と千種忠顕により攻撃を繰り返し受け圧迫されていた六波羅探題は、鎌倉に更なる援軍を依頼。これを受けて、幕府は名越時家と足利高氏を援軍として上洛させる方針とした。足利氏は情勢を見て今こそ北条氏を倒し天下を狙う好機であると睨んでいたので、途中の三河で後醍醐に連絡を取り綸旨を手に入れていた。高氏はそれを隠しながら京に到着。六波羅は四月二十七日に大手軍の名越勢七千を伏見方面から、搦手軍の足利勢五千を向日方面から進軍させる事とした。さて名越勢を迎え撃ったのは赤松軍であった。円心は三千の兵を淀・古河・久我畷に布陣させ、遠巻きにして名越勢に矢を射掛ける。名越勢は数の優位と騎兵の攻撃力を生かして戦いを進めようとしていたが、佐用範家が大将・時家を射落としたのを切っ掛けにして名越勢は潰走。赤松勢はこれを追撃して大いに戦果を挙げた。
 一方で足利軍は途中で行軍を止めて情勢を観察していたが、名越勢の壊滅を見て高氏は時期到ると判断し丹波にて倒幕の挙兵をした。五月八日、足利勢は赤松軍・千種軍と協力して六波羅探題を攻撃、六波羅方も勇戦したものの衆寡敵せずついに敗退。同時に赤松勢も東寺方面から足利軍を援護していた。六波羅方は羅生門から八条河原に及ぶ堀・塀・逆茂木・櫓といった仮設城郭というべき防衛線を設置してこれを防いでいたが、勢いに勝る赤松軍は貞範の手勢がこれを突破したのを切っ掛けにして七条河原方面へ乱入した。六波羅探題の北条仲時・時益は防衛を断念し、光厳天皇・後伏見院・花園院を供奉して東国に落ち延びようとしたが道中の近江番場で野伏に包囲され自決。光厳らは捕らえられ京に護送された。
 こうして六波羅探題は滅亡して畿内は後醍醐方の手に落ち、形勢は一気に後醍醐方に傾いた。これに続くようにして新田義貞により鎌倉が陥落、さらに大友氏・少弐氏により鎮西探題も陥落した。ここに鎌倉幕府は130年の歴史を閉じたのである。正成・円心により育てられた倒幕への流れという苗は、高氏により花開き義貞により実を付けたと言える。後に万里小路藤房が倒幕への功績が特に大きかった人物として高氏・義貞・正成・円心・長年の五人を挙げており、世間一般の目にも彼等の貢献が際立って見えたと言えよう。

9建武政権下の円心

 京が味方により解放されたという知らせを受け、後醍醐は伯耆から上洛の途につく。その道中の五月三十日、円心らは兵庫福厳寺で後醍醐に初めて拝謁した。後醍醐は上機嫌であり、「天下草創の功、ひとえに汝ら贔屓の忠戦によれり。恩賞は各々の望みに任すべし。」と円心に声を掛け供奉を命じたと「太平記」は伝える。このときの感激を後醍醐自身が忘れなければ、歴史の流れは少し違ったものとなったかもしれない。ともあれ、後醍醐は京に入ると自身の親政による統一政権(元号から「建武政権」と呼ばれる)の建設に着手しようとしていた。しかしながら、倒幕に大きな功績のあった護良親王は足利氏と早くも対立し、信貴山に篭って動かなかった。後醍醐は新たな争いを避けるべく、護良を征夷大将軍に任命して懐柔。この際、入京する護良の軍勢の先陣を勤めたのが赤松円心の手勢であった。倒幕に大きな功を立てたと自負する円心にとっては得意の瞬間であったろう。
 親政を再開し全国の支配権を手に入れた後醍醐天皇の最初にすべき事は倒幕に協力した人々への恩賞であった。全国から無数の武士・寺社が功績を具申し恩賞を求めており、限られた領地で充分それに応え切れるか疑問な状態であった。しかも天皇は己の実力基盤を確立する為に自身や近臣らに多くの旧北条氏領を付帯させていた。これが恩賞の公平性への不満を大きくしていた。しかし足利尊氏(高氏、後醍醐の名「尊治」から一文字賜って改名)や新田義貞ら倒幕に大きく貢献した人々は多大な恩賞を与えられていることが多かったようだ。特に楠木正成・名和長年・結城親光・千種忠顕は破格の出世とみなされ「三木一草」と呼ばれていた。そして円心も播磨守護に任命された。上述の面々と比べると少ないとはいえるが、それでも元来は佐用荘周辺のみに勢力を張り、しかも一族の惣領ですらなかった事を考えると破格の出世ではあった。早くもこの年の九月に、円心は国内の地頭に宛てて内裏拡張工事のため木材の供出を求めた文書を発布している。もっとも、同年十月には新田義貞が播磨守に任命され、両者が播磨における現地支配を争う形勢になるのであるが。
 さて後醍醐は弱体化した王朝の危機的状況を認識し、権力強化を目指して新たな政治体制を構想していた。中央では経済・警察など主要官職は近臣が就き天皇に全権力が直結する様に図り、地方では公領の徴税を司る国司と軍事・警察を担う守護の併置により分権・牽制をさせる。こうして農業と非農業の均衡を取る中央集権的な専制政治を目論み、勃興しつつある商業などを軍事・経済基盤にして政権を支えさせようとしていたのである。
 しかしそれを貫徹するには実力が未だ不足しており、急激な改革に反発する勢力は数多く存在していた。その中でも、豪族達から名門として信望を集める足利氏は最大の危険分子であった。尊氏は京に奉行所を設置して豪族達と主従関係を結ぼうとしていたほか、また新田義貞の鎌倉攻めに長男・千寿王(義詮)を参加させて足利を盟主として鎌倉を落としたという形を作り関東に勢力を張りつつあったのである。これと激しく対立していたのが護良親王であった。彼は尊氏が新たに幕府を作ることを警戒し、また自らが有力豪族達による軍事力を束ねようとしていた。後醍醐にとっては、尊氏はもちろん、護良も脅威と言うべき存在であった。倒幕戦においては隠岐に流された後醍醐の変わりに総司令官役を勤めており、それが現在となっては後醍醐の権威を脅かすようになっていた。また、味方を増やす必要性から戦中に恩賞を約束する令旨を多発していたのであるが、それが本領安堵などの混乱を招いていたのである。後醍醐は護良に尊氏排除の了解を与えたと「梅松論」は記しているが、あわよくば両者の共倒れを望んでいた可能性はある。
 さて尊氏と護良の対立は、豪族達の信望に勝る尊氏が護良を圧倒する形成となっていった。また、護良は自らの皇子を皇位に就けようと望んでいる阿野廉子(後醍醐の愛妾)とも対立しており、次第に孤立して言った。こうした中で護良派の勢力は次第に削られていったようで、護良は建武元年(1334)の後半になると奥州から北畠氏より送られてきた兵達に戦力を依存する有様であった。そして同年十二月、護良は後醍醐によって捕らえられ足利氏の勢力範囲である鎌倉へと護送されたのである。
 さて、この同じ時期に円心は播磨守護を罷免されて佐用荘地頭職のみとされたようである。この時期に特に円心に失態があったわけではなく、不可解な大左遷である。しかし前述の護良失墜と結び付けて考えれば答えは見えてくる。言うまでもなく円心は、護良の令旨によって挙兵し、一族も護良の側近として仕え、護良入京の際には先陣を勤めた筋金入りの護良派である。護良の勢力削減がなされる一環として、円心も「人員整理」に巻き込まれたのであろう。
 こうして、建武政権は有力者同士の対立を調整できず、また危険分子の芽を摘むという流れの中で、倒幕に大きな功績を挙げた護良を切り捨てる事となった。そしてそれは同じく著しい勲功のある円心をも切り捨てる事に繋がった。後醍醐の側近である万里小路藤房が前述のように倒幕に特に功績があった五人に円心の名を挙げて後醍醐を非難したのはこの時であるという。建武政権が円心を切り捨てたと同様、円心も政権に見切りをつけたようである。これが政権の崩壊に少なからぬ影響を及ぼすのである。

10尊氏の挙兵

 建武二年(1335)六月、信濃で鎌倉幕府残党による一大反乱が勃発した。北条高時の子・時行が諏訪氏に擁立されて挙兵し、関東に侵入。鎌倉を守る足利直義(尊氏の弟)はこれに敗れて三河まで逃れた。因みにこの際に護良は、彼が時行に利用されるのを恐れた直義によって殺害されている。これを受けて尊氏は、直義を救援し関東を奪回するために後醍醐の許可を待たず東下。この際、円心は貞範を従軍させており、尊氏に接近を図っていたことが分かる。既に建武政権に失望していた円心は、幕府再興を志す足利氏に希望を託したのであろう。さて、関東を奪回した尊氏は鎌倉に入り独自の論功行賞を行う。建武政権はこれを謀反であるとして新田義貞に尊氏・直義の討伐を命じた。当初は後醍醐に弓を引くのを拒んで出陣しなかった尊氏であったが、直義が義貞に敗れ危地に陥るとこれを救援すべく出陣し新田郡を撃破した。この際、貞範は箱根竹ノ下合戦で脇屋義助(義貞の弟)軍に突撃して勝利に貢献しており、その功績で丹波春日部荘を尊氏から与えられている。
 新田軍を破った尊氏は勢いに乗って上洛、円心はこれに応じて挙兵し尊氏が男山に到着した際には範資が参陣している。そして足利軍は大軍で京を包囲、赤松軍は山崎の脇屋義助軍を突破して京に乱入し攻略の足掛かりを作った。後醍醐は叡山に逃れ、足利と新田・北畠顕家・正成との間で京争奪戦が行われるが、結局は足利方は敗れて西国に逃れている。この際、円心は尊氏・直義に摩耶山の城に篭城するよう進言するが、味方の士気が落ちることを恐れて反対する者があり円心もこれに従った。続いて円心は、「梅松論」によれば西国の要所に味方を配置して勢力を整える事と持明院統の光厳院から院宣を受けて大義名分を立てることを勧めた。円心は、自分達が「朝敵」すなわち天皇に弓を引いていることが後ろめたさに繋がり士気が上らなかったのが今回の敗因の一つではないかと踏んでいたのだ。尊氏らもそれは感じており、その信玄は受け入れられた。尊氏は光厳院に密使を送ると同時に、瀬戸内の要所に現地豪族と足利一族を配置して守りを固めさせてから九州に向かった。四国に細川和氏・頼春・師氏・顕氏・定禅、播磨に赤松円心、備前三石に石橋和義・松田盛朝、備中鞆尾に今川俊氏・政氏、安芸に桃井氏・小早川氏、周防に大嶋義政・大内弘世、長門に斯波高経・厚東武実という配置である。特に播磨は朝廷軍が討伐に向かった際に最初にこれを迎え撃つ位置にあり、円心はその重責を引き受けたのである。嘗て後醍醐方として奮戦した赤松氏は、今は反後醍醐の急先鋒として再び表舞台に立とうとしていた。

11白旗城

 円心は、播磨防衛の要として苔縄北方の険しい山の頂点に新たな城郭を建設した。その際に源氏の白旗が降ってきたと称し白旗城と名付けている。更に源氏の氏神で武神である八幡を祀り、以前から現地の神であった春日神社も併せて祭祀して赤松の氏神とした。自らが(村上)源氏であることを称揚すると共に、源氏の棟梁である足利氏に天が味方していることを示して見方の士気を挙げようとしたものであろう。
 さて、足利方への追撃に対する朝廷の対応は迅速とはいえなかった。新たに降伏者の組み入れ・軍の再編成・凶作の中での兵糧集め・東国への調略・北畠顕家らを帰還させての奥州確保に力を注いでおり、足元を固める事に精一杯であった。尊氏を追撃できず、その勢力挽回を傍観するしかない状況に対して多くの朝廷方の武将は焦りを感じていたと思われる。例えば、楠木正成が天下の人心は尊氏に傾いているため新田を切り捨ててでも尊氏と講和するべきだと献策したと「梅松論」は伝えており、これもそうした風潮の一端を現すものであろう。「太平記」によれば義貞は朝廷から賜った美女・勾当内侍への愛に溺れていたとされる、これも情勢への焦りを紛らわせていたものかも知れぬ。
 また義貞自身が病気となり出陣できず、三月に江田行義・大館氏明に数千を与えて先行させていた。彼等は「太平記」によれば三月六日に書写山に到着。円心はこれを蹴散らそうと出陣し、室山(揖保郡)で衝突したが敗北している。緒戦において先遣隊が勝利したことで新田軍は意気挙がり、やがて義貞自身も数万の兵力を率いて播磨に到着した。義貞は弘山に本陣を置き、まず城攻めを避けようと円心に対し播磨守護職を条件として降伏するよう交渉したが、それが結果として円心に篭城戦の準備期間を与えることとなった。交渉が不調に終わって義貞は白旗城を包囲する。しかし険阻な地形に阻まれ、更に円心は兵糧・水の備蓄も十分行っており弓の名手を数多く備えて抗戦したため、新田軍は一ヶ月以上にわたって攻め寄せるものの犠牲ばかりを増やし戦果を挙げる事はできなかった。義貞は播磨守であり、この地を制圧する事は威信を保つ上で不可欠であったばかりでなく、交通の便や兵糧確保の点からも重要であった。それもあって時間を空費する結果となったのである。義貞はそれを取り戻すべく弟・義助らを別働隊として中国地方に派遣し福山城を落とすなどの戦果を挙げたものの時は既に遅く、尊氏は多々良浜で菊池氏を破って九州を掌握して再上洛の準備にかかっていた。円心はさすがに兵糧不足などで苦しくなってきたこともあり、則祐を使者として尊氏に早期の上洛を促す。これを受けて尊氏は四月二十六日に九州を発ち、直義に陸軍を率いさせ自身は水軍を率いて進撃した。併せて五万近い大軍であったと言う。五月十八日に尊氏は室津に到着。義貞は逆に包囲される事を恐れ、白旗城の包みを解いて全軍を兵庫まで引き上げさせた。解放された円心は翌日に尊氏の下に挨拶に趣いている。この際に円心は敵方が置き去っていった旗印を多数持参して尊氏に披露したが、尊氏はこれを見て「この中には以前に味方だった者も多いが、一時の難を逃れるためやむなく義貞に属したのであり、真に不憫である。いずれは見方に参るであろうからとがめる必要はない。」と述懐したと言う。尊氏の度量が知られる逸話である。足利軍は更に前進し五月二十五日には兵庫の湊川で新田・楠木軍を大群に物を言わせて撃破し楠木正成を討死させた。こうして大勢は定まり、尊氏は再び京に入って自らの政権樹立にかかる。嘗て正成が千早城で幕府の大軍を翻弄して流れを引き寄せたのと同様、円心も白旗城で尊氏側に時代を呼び込んだのである。

12播磨守護・赤松円心

 後醍醐は新田軍と共に叡山に逃れ、しばらく抵抗するが兵糧が乏しくなった事もあり尊氏の和平工作に応じて下山、義貞は北陸に逃れた。尊氏は皇位の印である三種の神器を譲り受けて持明院統の光明天皇を擁立(北朝)。尊氏による天下が定まったように見えたが、後醍醐は再び脱走して吉野に逃れ、自らが正統な天皇であることを宣言(南朝)。ここに、京と吉野に二人の天皇が存在する南北朝動乱が幕を開けたのである。尊氏が円心の助言により取ってきた戦略が大義名分を手に入れるために持明院統と大覚寺統の争い、即ち「君と君との御争い」を前面に出す事だったのを考えれば必然の帰結であったともいえる。この情勢下で、尊氏は京を拠点として幕府樹立を進めていた。
 これまでの功績を評価され、足利政権において円心は播磨守護、範資は摂津守護・美作権守に任命された。円心はこれを受けて播磨国内の掌握に努めたが、播磨の国境周辺では新田一族である金谷経氏が丹生山に篭って明石の近江寺と結びこれに抵抗していた。円心はこれらとの戦いに忙殺され、建武五年(1338)には数回にわたって南朝方の丹生山城や香下寺城を攻撃している。その一方で、苔縄に菩提寺である法雲寺を建立。その開山として招かれたのが、円心の青年期に出世を予言した雪村友梅であったという。
 さて足利政権は南朝との戦いを圧倒的優勢に進め、政権運営も軍事・恩賞を司る尊氏と本領安堵・裁判・一般政務を受け持つ直義の二頭体制で順調であった。しかし、次第に尊氏の執事として権勢を振るう高師直と直義の間で主導権を巡る争いが見られるようになった。師直の下には実力主義で権威を軽んじる新興豪族が多く集っており、旧来の名門豪族を中心に安定した秩序を志向する直義とは相容れないようになっていたのである。貞和五年(1349)閏六月に直義が尊氏に要求して師直を罷免させ、これに対して同年八月に師直がクーデターを起こして復権し今度は直義が失脚した。こうした中で、円心は師直派に味方して船坂峠の守りを固め、また貞範が姫路城を建設している。中国地方で足利直冬(直義の養子)が直義派の勢力扶植に努めており、これに対して京との連絡を絶つのが目的であった。こうして幕府が深刻な内紛に陥ろうとしていた中、貞和六年(1350)一月十一日に赤松円心は京七条の邸で急死した。七十四歳であった。

13赤松則祐

 円心死後に赤松氏を継承したのは長男・範資であった。既に範資はで摂津守護あったが、「広峰神社文書」に残る御教書から範資が播磨守護をも兼ねていた事が分かるのである。しかし範資も観応二年(1351)に急死し、則祐が後を継いだ。則祐は円心の三男であったが、歴戦の勇士として実績や力量を広く認められていたのである。因みに範資の長男・光範が摂津守護を受け継いでいる。
 さて、赤松氏で立て続けに惣領の交代が起こっている間、足利政権は泥沼の内乱に陥っていた。観応元年(1350)十二月から二年(1351)二月にかけて、直義が南朝と手を結んで尊氏・師直らと戦い、兵庫で師直らを打ち破って尊氏と和睦し師直を殺害。直義優位の体制が確立されたかに見えたが、尊氏派と直義派の対立は明白となっており、今度は尊氏が南朝に形式上の降伏をして名分を獲得し、直義を討伐しようとしていた。
 観応二年(1351)七月、尊氏は近江の佐々木導誉が背いたので討伐すると称して近江に向かい、義詮(尊氏の嫡男)も赤松則祐を討つためといって京から西に向かった。これは、導誉・則祐と共謀して京の直義を東西から挟撃する体勢を作ったものである。直義はすぐに越前に脱出し、尊氏と決戦する態勢を作った。この際、則祐は護良親王の子・陸良親王を奉じており、南朝との和睦を勧める布石を打っていた。尤も、この時期に導誉に南朝から尊氏・直義らを討つよう綸旨が出ていたことを考慮に入れると、状況によっては実際に南朝方に寝返る事も視野に入れたものであったかも知れぬ。ともあれ、則祐らの交渉により尊氏方と南朝の和睦が成立(正平一統)。尊氏はこれを受けて関東に出陣し、直義を追って鎌倉まで至り南朝正平七年(1352)二月には毒殺している。
 一方、この頃に南朝は京を攻め落とし、ここに尊氏方と南朝の和議は破れた。義詮は間もなく京を奪回するが、尊氏方と直義の後を継いだ直冬・南朝との三つ巴の形勢は続いたのである。この期間、則祐は一貫して尊氏方として行動し、南朝や直冬軍と戦っている。
 尊氏が没して義詮が第二代将軍となった後も、則祐は有力守護として重きをなしていた。康安元年(1361)、強権をふるった執事・細川清氏が佐々木導誉らと対立して失脚し、南朝と結んで京に攻め入った。この時、則祐は山名時氏が備前守護・松田氏を破って美作に侵入した際、これと戦って撃退する功を挙げている。また、清氏により京が落とされた際には義詮の嫡男・春王丸(義満)を播磨白旗城に迎えて保護している。因みにこの時、退屈する春王に対して現地の田楽を催して慰めたといわれ、義満時代には将軍が赤松邸を訪問してこの「赤松囃子」を見物するのが通例となった。これらの功があって、則祐は播磨に加えて備前の守護職を与えられている。更に貞治四年(1365)、則祐が上洛した際には春王丸が赤松邸を訪れ則祐の養君と称されたのである。
 晩年の応安二年(1369)、光範が南朝方に通じて挙兵したためこれを討伐して摂津守護も兼任。翌年には禅律方頭人に任じられ、幕府の宗教政策に関与することとなった。翌応安四年(1371)十一月、則祐は病没。享年六十一であった。
 則祐は、巧みに立ち回りながらも尊氏方として活躍して勢力を伸ばし、将軍家の信任も獲得した。更に一族内部の争いも利用して自身の力を伸ばす強かさも目立つ。また、宝林寺を建立するなど禅を篤く信仰し、延文四年(1359)の「新千載和歌集」には二首の和歌が入集するなど当時としては教養人でもあった。これも彼の立ち回りを有利にする役に立ったであろうことは想像に難くない。最初には護良の側近として登場し、最後には足利政権有力者として乱世を泳ぎぬいた古強者・則祐。その姿は同時期に「ばさら大名」と呼ばれ鮮やかな存在感を示した佐々木導誉とも重なるものがある。

14その後

 則祐の後は、その子・義則が継ぎ康暦元年(1379)に侍所別当となり明徳三年(1392)に美作守護に任じられるなど赤松氏の地位を有力守護として安定させた。義満時代以降、赤松氏は京極・一色・山名などと共に侍所別当を歴任する「四職」の家柄とみなされるようになる。一方、嫡流の他にも様々な庶流が存在感を示すようになっていた。例えば、則祐の子・満則の系統である大河内家、則祐の子・義祐の系統である有馬家、そして貞範の系統である春日部流などが挙げられる。
 さて義則の後を継いだ満祐は、気性の荒さもあり足利政権第四代将軍・義持と折り合いが上手く行かなかった。その一方、上述の庶流が実務能力もあって重んじられ、中でも春日部流の持貞が近侍衆として義持の寵愛を受けていたのである。そのため、満祐はしばしば義持から迫害を受け、一時的には本国である播磨を召し上げられたこともあったのである。第六代将軍・義教の時代になると、正長二年(1429)に「赤松囃子」を再興するなど当初は満祐と将軍家の関係は良好であった。しかし義教が将軍権力の確立のために有力者を圧迫し、更に赤松貞村が義教に寵愛を受けるようになると両者の間に緊張が走る。嘉吉元年(1441)六月二十四日、満祐は義教を自邸に招いて暗殺。嘉吉の乱である。満祐は当初、将軍を討ち取りその場で討死するつもりであったが、動揺した幕閣が誰も追討の兵を差し向けなかったため拍子抜けし、国許での決戦を決意。旗印として旧南朝系の小倉宮を擁立しようとしたが果たせず、直冬の子孫である義尊を立てて挙兵した。これに対して幕府は義教の子・義勝を後継者に定めて山名持豊を大将として軍勢を差し向け、満祐らは抵抗するものの遂に敗れて討死。こうして赤松氏嫡流は一旦滅亡した。
 その後、嘉吉三年(1443)に南朝残党が御所に乱入して三種の神器を奪い、幕府軍がこれを討ち取るものの神璽は奪われるという事件が起こった。これに対し、第八代将軍・義政の時代に赤松氏残党が主家再興を条件に神璽奪回に当たり、長禄二年(1458)にこれを成功させる。こうして、赤松政則が取り立てられて加賀半国を宛がわれ一応の赤松氏再興がなった。これに対し、赤松討伐で勢力を拡大した山名氏が反発。政則は山名宗全の敵手・細川勝元と接近し、応仁元年(1467)に勃発した応仁の乱では細川方について戦った。その中で播磨・備前・美作を平定すると共に義政から侍所別当に任じられ、赤松氏の栄光を取り戻す事に成功しているのである。
 しかし、応仁の乱以降は、足利政権の実力が失墜したこともあって守護の各国での権威も低下。在地豪族達が実力で勢力を伸ばすようになっていた。赤松氏も一族内部の争いもあって力を失い、浦上氏や宇喜多氏により取って代わられるようになった。16世紀の全国統一にあたって赤松氏は信長・秀吉に臣従して命脈を保つが、関ヶ原の戦いで宇喜多秀家に従って西軍についたため所領を没収され、その家名は歴史から姿を消したのである。

15おわりに

 赤松氏は、その出自において楠木氏と共通点が多い。どちらも元来は低い家柄ながらも商業発達により台頭した新興豪族であり、従来の政治権力からは「悪党」と呼ばれた。また、歩兵・散兵を活用した戦術や城塞戦での活躍なども共通している。従来の価値観では収まりきらない面を持った変革期を象徴する存在であった。それが、片方は南朝に殉じて一瞬の光芒を放つものの没落し、もう一方は後醍醐を見限って足利方の有力者として栄光をつかむ。正成は後醍醐自身から信任を受け建武政権でも篤く報いられたため、その恩に報じて身を滅ぼした。円心は、護良親王の令旨で挙兵したのが禍して後醍醐から冷遇され、これに反発して足利方につき成功に至った。両者の運命を分かったものは、後醍醐に優遇されたか否かのみであり、しかも冷遇された側が生き残ったのである。なんともいえぬ歴史の皮肉であろう。
 家門の危機に当たっては将軍を暗殺し、取り潰し後も機会を掴んで再興を果たす辺りは、祖先の実力主義や強かさが未だ血脈に残っていたということであろうか。しかしながら、百年近く守護として中央政権の権力に依存して存在した事は、豪族としての現地性や逞しさを弱めたかもしれない。それが最終的には戦国期における没落・滅亡を招いたのであろう。

参考文献
人物叢書赤松円心・満祐 高坂好 吉川弘文館
日本の歴史8蒙古襲来 黒田俊雄著 中公文庫
日本の歴史9南北朝の動乱 佐藤進一著 中公文庫
日本の歴史10下剋上の時代 永原慶二 中公文庫
足利尊氏 高柳光寿著 春秋社
足利尊氏 山路愛山著 岩波文庫
南北朝時代史 田中義成 講談社学術文庫
足利時代史 田中義成 講談社学術文庫
日本古典文学大系太平記 一〜三 岩波書店
「芝蘭堂」(http://homepage1.nifty.com/sira/)より「梅松論」
京大本梅松論 京都大学国文学会
南北朝時代史 久米邦武 早稲田大学出版部
帝王後醍醐 村松剛 中公文庫
日本中世史を見直す 佐藤進一・網野善彦・笠松宏至 平凡社 
闇の歴史、後南朝 森茂暁 角川選書
後南朝史論集 後南朝史編纂会編 瀧川政次郎監修 原書房
中世を考えるいくさ 福田豊彦編 吉川弘文館
ピクトリアル足利尊氏南北朝の争乱 学研
太平記の群像 森茂暁 角川選書 
異形の王権 網野善彦 平凡社
馬・船・常民 網野善彦・森浩一 講談社学術文庫
「中世社会の研究 松本新八郎著 東京大学出版会」より「南北朝内乱の諸前提」「南北朝の内乱」
悪党と海賊日本中世の社会と政治 網野善彦 法政大学出版局
南北朝動乱と王権 伊藤喜良著 東京堂出版
後醍醐天皇と建武政権 伊藤喜良著 新日本新書
日本異譚太平記 戸部新十郎 毎日新聞社
山河太平記 陳舜臣 ちくま文庫


発表一覧に戻る