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『明史』 孫承宗伝(付、孫鉁伝等)  My


孫承宗伝(付、孫鉁伝等)
 孫承宗、字は稚縄、高陽の人である。容貌は優れて立派であり、ひげが激しく突き出していた。人と話すと、声は土塀を震わせるほどであった。初め県の学生となって、辺境の郡で思想を教わった。飛狐と拒馬の間を行き来して、白登を真っ直ぐ走り抜け、紇干、清波から古道を南下した。官吏として勤務して以来、好んで険阻な要塞について老兵を問いつめ、これによって辺境の事態を熟知していた。
 万暦三十二年科挙に合格して第二位であり、国史を編修する地位を与えられ、中允に昇進した。梃撃の変が起こり、大学士の呉道南は承宗に意見を求めた。答えて「事態が皇太子に関するものであれば調査しなければなりませんが、事態が貴妃にかかわるにすぎないならば、詳しく調査する必要はありません。龐保、劉成が命令を受けたのであれば、調査しなければなりませんが、龐保、劉成が命令を下したのであれば詳しく調査する必要はありません」と言った。道南はその言葉に従い具申して、事態は治まることになった。応天の郷試の出典として、その発言がよく問題に出された。党派の人間と関わり合いになるのを嫌って、成績考査の際に外に出ようとしたが、学士の劉一燝が留めて、辞職することができなかった。諭徳、洗馬を歴任した。
 熹宗が即位すると、左庶子として日講官を担当したが、帝は承宗の講義を聴くごとに、「良く理解できた」と言い、そのため特別良く目をかけられた。天啓元年、少詹事に昇進した。この頃、瀋、遼が相次いで失陥し、朝廷を挙げて恐れ騒いでいた。御史の方震孺は兵部尚書の崔景栄を解任し、承宗に交代することを請願した。廷臣も皆、承宗が軍事に通じているとして、兵部添設置侍郎にして東方の事態を指揮させるよう推挙した。帝は承宗を講義の席から離すことを望まず、二度にわたって上奏されたが許さなかった。二年、礼部右侍郎と協理詹事府に抜擢された。
 間もなく、大清国の軍が広寧に迫り、王化貞は城を棄てて逃走し、熊廷弼とともに関に逃げ込んだ。兵部尚書の張鶴鳴は罪に問われるのを恐れて、辺境へと出向いた。帝もまた東方の事態の危急を認識し、承宗に兵部尚書兼東閣大学士の役職を授け、直ちに事態の処理に当たらせた。数日後、命令を出して閣の臣下に部の職務を掌握させた。承宗は上奏して「近年、兵の多くが訓練不足で、軍資金の多くは検査を受けておりません。将に用兵を任せながら、文官を練兵に招いております。将を陣に滞在させながら、文官が指示を発しております。武略で辺境の防備を固めるはずが、陣営に配置する文官を日々増加しております。経、撫に辺境を委ねておきながら、日々防戦について朝廷で議論しています。これは悪弊の極みです。今、天下は将の権限が重んじられるべき時にあります。沈着で武勇に優れ知略と勇気を供えた人物を選び出し、これに軍権を示す節と鉞を与えて、副将以下を自ら任命できるようにするべきで、文官が小賢しい判断でこれを押さえ込むようなことがあってはなりません。辺境で小さな勝ち負けを繰り返すなど、全く問題外であって、関を守って侵略を根絶し、その後に徐々に回復を計るべきです」と言った。順次対策を取り、西部の動揺を鎮め、金品を支給して遼の民衆を救済し、首都の軍を削減して、永平に大将を増設し、蘇鎮の物見台と防壁を修復し、首都の東に幾つか屯田を開くよう、献策した。帝は賞賛して聞き入れた。この頃辺境の警備隊は繰り返し報告し、閣と部の大臣は常に無事を祈っていたが、報告は日増しに騒々しくなっていった。承宗は、廷弼と化貞の罪をただして、適切な臣下達を防衛に用いる命令を下すよう請願した。また給事中の明時挙と御史の李達を逮捕するよう請願し、これによって四川で兵士を召集していた逆臣を処罰した。さらに遼東の巡按の方震孺、登と萊の監軍の梁之垣、蘇州の兵備である邵可立を叱責するよう請願して、高位にある防衛担当者達を戒めた。多くの人々が次々に処罰されることで、朝廷の高官達は恐れ慎んだが、目を背けて怨み嘆く者も多かった。
 兵部尚書の王在晋は廷弼に代わって遼東の経略となり、総督の王象乾と互いに深く信頼していた。象乾は蘇門に長らくあって、西部の諸族の性質を熟知しており、西部の者たちもまた彼を愛してその支配を受けていた。しかしこれ以外に取り柄はなく、財物を与えられても無駄遣いになるだけなので、老齢を理由に解任されることを願っていた。在晋は謀略によって西部を利用し広寧を襲撃させようとしたが、象乾は彼に教えて「広寧を得ても、守ることは不可能であり、巨大な罪を得ることになる。第二の関を要害に設置して、山海を防衛し、それによって首都の防衛を図るのが一番である」と言った。そこで在晋は山海関の外の八里舗に第二の関を築き、四万人の兵力でこれを守ることを請願した。その補佐役の袁崇煥、沈棨、孫元化たちが強く逆らって言うことを聞かせることができないので、首輔の葉向高に報告した。向高は「どうなっているのか分からない」と言った。承宗は自ら赴いて決断を下すことを請願した。帝は大いに喜んで、太子太保の位を加え、天子の玉飾りと、銀貨を与えた。関に到着して、在晋を詰問し「新城が完成すると、即座に旧城の四万人を移動させて守備するのか」と言った。在晋は「違います、更に軍を設置します」と言った。「そうすると、わずか八里内に守備兵八万人がいることになる。一片石が西北にあるがこれが不適切で軍の設置が必要であるというのか。しかも八里内に関を築いて、新城のすぐ背後に旧城があり、旧城には各種の坑や地雷があるが、これは敵兵に向けて設置しているのか、それとも新軍に向けて設置しているのか。新城を守るべきときに、どうして旧城まで用いるというのか。守備に失敗したような場合は、旧城の前で四万の新兵が敗北していることになるが、関を開いて導き入れれば良いのか、それとも関を閉ざして敵に委ねれば良いのか」と言った。「関外には道が三本あってそこから関に入ることができます」と言った。「そのような場合は、敵が到来して軍が逃走したということであるが、どうして二重の関を活用できるだろうか」と言った。「砦を三つ山上に建築し、潰走した兵卒を待ちます」と言った。「兵が未だ潰走していないのに砦を築いて待っているのは、潰走するよう教えているようなものではないか。しかも潰走した兵も入ることができるが、敵もまたこれを追尾して侵入できる。今、回復を計らずに、関の防衛に徹するならば、国家の防衛線が失われるが、奥地で戦う日には、首都の東に安寧な場所があるだろうか」と言うと、在晋は抵抗しなくなった。そこで承宗は関外の防衛について議論した。監軍の閻鳴泰は覚華島を、袁崇煥は寧遠衛を指揮することになった。在晋はこれには不適任なので、中前所の守備を指揮することになった。以前の監司の邪慎言と張応吾は逃走して関に滞在していたが、ともにこれに賛同した。
 化貞たちが逃走した後は、寧遠より西の五城と七十二の砦は全て哈刺慎の諸部族の占拠するところとなったが、まず辺境防衛の支援を声明した。前哨、遊撃、左輔といった名で中前に駐屯している部隊は、実際には八里舗を越えて出撃しなかった。承宗は、諸部隊は信じるに足りず、寧遠、覚華を防衛拠点とすべきと考えており、戦略を決定して在晋にこれを発令させようとしたが、およそ七昼夜に渡って説得したものの、最後まで応じなかった。朝廷に帰還すると、「敵が未だ鎮武には到達していないのに、我が軍は寧と前を自ら焼き払っており、これは以前の経と撫の罪となりますが、我が軍が寧と前を棄ててから、敵が全く現れていないのに、我が軍が関を一歩も出ようとしないのは、これは今の将と官吏の罪であります。将と官吏が関内に隠れ潜んでいるのに対し、敵を畏怖する心を法への畏怖に変えることができず、保身を図る知恵を敵に向ける知略に変えることができないのは、臣および国家を経営する臣下達の罪であります。ですが本来は、百万の金銭を浪費して無用の建築を行うよりも、寧遠の要害に建築を行いそこで守備を行うべきではないでしょうか。八里舗の四万人を寧遠の要衝に配置し、覚華と連携させて挟撃の態勢としましょう。敵が城を狙えば、島上の兵卒に三岔付近まで出動させ、浮き橋を断って、逃げ道をふさぎ、側面攻撃をしかけます。そうすれば無事を確保できますし、しかも二百里の領土を回収することができます。こうすれば、敵兵の陣屋は絶対に関門に近づくことはできず、杏山の難民が防御の外に放置されることも絶対にありません。凡人の論議を全て否定するのでなければ、遼の事態は対処不可能であります」と言った。この他、軍の設置について十数回の上奏を行った。帝は喜んで聞き入れた。間もなく講義の席において、承宗は面と向かって、在晋が力不足であるから改めて南京を兵部尚書とすること、逃亡した慎言らをすべて排斥すること、さらに八里の築城の議論を終わらせることを奏上した。
 在晋が去った後は、承宗は自分を督帥とするよう請願した。関の防衛について詔勅を与え、元の官職のまま山海関および、薊、遼、天津、登、萊といった地域の軍務を監督し、適切に処置を行い、中央からの制約を受けないことを認めたが、この他に鳴泰を遼東の巡撫とした。承宗は職方主事の鹿善継と王則古を呼び出して賛書とし、金庫の金八十万を持ち出すことを請願した。帝は特別に門まで出向き、天子の剣と天子の敷物を与え、閣の臣下たちは彼を崇文門の外まで見送った。関に到着すると、総兵の江応詔に軍制の定立を、僉事の崇煥に営舎の建築を、廃将の李秉誠に火器の整備を、賛書の善継と則古には軍の蓄えの管理を、沈棨と杜応芳には鎧や刀槍の修繕を、司務の孫元化には砲台の建築を、中書舎人の宋献と羽林経歴の程崙には馬の取引の指揮を、広寧道の僉事である万有孚には樹木の伐採の指揮を命じた。さらに遊撃の祖大寿には覚華において金冠を補佐することを、副将の孫諫には前屯において趙率教を助けることを、遊撃の魯之甲には難民を救助することを、参将の楊応乾には軍のために遼の住人を募兵することを命じた。
 この頃、関の近辺には七万の兵力があったが、規律に意識を向けることはなく、軍資金の多くを無駄にしていた。承宗は大規模な調査を行って、逃亡してきた将校数百人を除去し、疲労した兵一万人あまりを河南、真定に帰還させ、之甲が救助した難民七千人を前屯に送って兵士とした。応乾が募集した遼の兵卒は寧遠の陣営を出て、朝鮮と相談して支援に当たるようにした。毛文龍を東江で労い、四衛の回復を命じた。回状を送って登の司令官である沈有容を広鹿島に進出させた。春の防衛計画において自ら登、萊に赴いて進攻作戦に当たることを望んだが、朝廷は遼の情勢が急を要すると考えたため、許可しなかった。応詔が告発されたので、承宗はこれに代えて馬世龍を用いるよう請願し、尤世禄、王世欽を南北の司令官にして、世龍に軍の引き締めについて意見を求め、世龍に天子の剣を与えるよう請願した。帝は全て許可した。世龍が任務を委ねられると、承宗は祭壇を築いて、鉞を授ける祭礼を執り行った。率教が前屯を守って、哈刺慎の諸部族を全て駆逐したが、撫の居場所は未だに八里舗であった。象乾は水関を開くことと、撫を関内に配置することを議論した。承宗はこれを許可せず、高台堡に配置することを決定した。
 大清国の軍が広寧を放棄して去ると、遼の民の生存者がここに入居した。插漢部が有孚を説得し、有孚はこの隙に乗じて西部を挟撃して殲滅し、回復の事業を敢行しようと計画した。承宗は回文を発して「西部で我が人民を殺した者には、盟約に従い罰を与えよ」と言った。この戦では、生存者は全部で千人あまりであった。帝は良く辺境の状況を察知していたので、この時、東廠に命じて使者を関門に派遣し、詳しく事情を報告させ、優れた判断を下して「見事な業績である」と言った。魏忠賢が政治の実権をかすめ取ると、その一派の劉朝、胡良輔、紀用ら四十五人を派遣して、軍の役に立てるため、朝廷の倉庫から神砲、鎧と刀槍、弓矢の類を数万、関門にもたらすとともに、さらに金十万、大蛇、麒麟、獅子、虎、豹といった諸々の財宝を将兵に分かち与え、承宗にも天子の服と白金を与えて慰労することにしたが、これは実は軍を視察するものであった。承宗はその時、関を出て寧遠へと巡視に赴いていたが、途中でこのことを聞き、上奏して「秘密の勅使を送って軍を検査することは、古来より戒められております」と言った。帝はこれに思いやりのある返答をした。使者が到着したが、茶と酒を用意したのみであった。
 鳴泰が巡撫となったのは、承宗の推薦によるものであった。後に実力が無いことを知ったため、軍事を共に論じることは余り無かった。鳴泰は不満に思って辞職を望んでいたが、承宗は病であった。言官たちは承宗を留任して、鳴泰を批判し、巡関御史の潘雲翼もまた彼を告発した。帝は鳴泰を解任し、張鳳翼をこれに代えた。鳳翼は怯えて、関の防御に専念するという議論を蒸し返した。承宗はこれを不快に思い、また関まで巡視に出向いた。寧遠に到着すると、将と官吏を集め防衛拠点について議論した。多くの者が鳳翼のように考えており、世龍は中後所を守ることを求めていたが、崇煥、善継と副将の茅元儀は寧遠を守ることを強く求め、承宗もこれを良しとし、議論の決定を下した。大寿に工事を行わせ、崇煥と満桂が防衛に当たった。これより前、虎部が侵略して掠奪を行ったのを、率教が捕獲して四人を斬殺していた。象乾は率教を斬って虎部に謝罪することを望んだが、承宗これを許可しなかった。承宗が王楹を中右の守備に派遣し、兵士が樹木を伐採するのを護衛させていたところ、西部の郎素によって殺されてしまった。承宗は怒って、世龍を派遣してこれを滅ぼすことにした。象乾は安定していた状況が破局に至るのを恐れ、郎素に楹を殺して逃亡した者を捕縛して提出するよう命じ、一方で交易での下賜金に千金を増額した。承宗は戦争を上奏し、象乾は憂いの余り辞職した。
 承宗は自分の同僚によって権限が混乱することを心配して、督帥、総督を併設しないよう進言し、さもなくば自分を解任するよう願ったが、これは許可されなかったので、総督を推挙しなかった。これとともに遼の撫を寧遠へと移すことを請願した。帝は総督の推挙を止めるよう命じた。鳳翼は自分は死地に追いやられたといって、大いに恨んだ。彼の同郷人である雲翼、有孚らは世龍を誹謗することで、承宗を陥れようとした。間もなく、有孚は薊の撫である岳和声によって告発されたが、今度は世龍と崇煥が虚言によって陥れたと疑って、関外に出る戦略を妨害した。給事中の解学龍は世龍の罪を力の限り論じ立てた。承宗は憤慨して、抗議の上奏を行い防衛策について述べ、「敵を関門の間近で阻止する場合と、関門から離れて阻止する場合の形勢については既に明らかになっております。我が軍が敵を二百里外へ攻め立てる場合と、敵が我が軍を二百里内へと攻め立てる場合の形勢についてもまた明らかであります。そもそも広寧は我が軍の本拠からは遠く敵の本拠に近く、寧遠は我が軍の本拠に近く敵の本拠からは遠いのです。我が軍が侵攻して敵に迫らなければ、敵が侵攻して我が軍に迫ってくるでしょう。今、速やかに遼左を回復することができないのであれば、寧遠、覚華を放棄してはなりません。廷臣の雑多な議論を戒めていただけるよう請願いたします。彼我の軍の戦いの勝敗は防戦を続けることに、今支出した軍資金の効果は長期の支出の継続に、土地人民の安否は撤退しないことに、築城防戦の正否は挙国態勢にかかっておりますので、敵の情勢を良く理解すれば、坐してその消滅を待つようなことをしてはならないのです。臣は敢えて百年の大計を立てず、五年間の便宜を図っておりますが、いかがでしょうか。もし臣の発言が不適切であるならば、直ちに臣を排斥し大計を定めるべきであって、不決断を繰り返してはならず、妻子の保身ばかりを考える臣下たちに大挙発言する機会を与え、臣一人を殺して満足するようなことになればそれは天下の処置を誤るものであります」と言った。また世龍を弁護し、有孚らに敵対的な書状を送った。
 有孚は、かつ侍郎であった世徳の子であって、広寧の理餉同知となった。城が陥落して逃げ帰ったところ、象乾によって広寧道の僉事に専任され、もっぱら插漢の懐柔に当たって、多くの利益をかすめ取っていた。ここで承宗の発言により排斥された。鳳翼もまた憂いの余り辞職し、喩安性が後任となった。ここで廷臣たちは、総督に独裁させるべきではないとして、呉用先に、象乾に代わって薊、遼を監督するよう命じた。承宗は本兵の趙彦によってしばしば中央から統制されることを嫌っており、病と称して解任を求めるとともに、彦を自分の代役に推挙して困惑させることになったが、朝廷の会議はこれを許可せず押しとどめた。
 寧遠城の工事が完成して、関外の防衛体制は整った。承宗は大攻勢を企画し、上奏して「前哨は既に連山と大凌河に置いておりますが、直ちに臣に軍資金二十四万を与えてくだされば、成功を収めることができます」と言った。帝は所司にこれを支給するよう命じた。兵と工の二部は互いに相談して「軍資金は足りており、彼は虚言を為しているから、与えずに許可するのが最上であり、文書を往復させて停滞させよう」と言った。承宗は再度上奏して催促し、詳しく状況を訴えた。帝は役人達を戒めたが、ついに出兵は行われなかった。
 はじめ方震孺、游士任、李達、明時挙の罪について、承宗は厳しく告発したが、後には全て許すことを求めた。楊鎬、熊廷弼、王化貞の功労を何度も賞賛し、死を免除して守備に当たらせることを請求した。朝廷は初め騒然とした。給事中の顧其仁、許誉卿、御史の袁化中は文章を書いて反論したが、帝は全く顧みずに放置した。承宗に防衛の功績に対して五の位を授けた際、臣下達は病を理由に解任するよう願ったが、中官の劉応坤たちを派遣して金庫から金十万を与えて将士を労うとともに、承宗には天子の敷物と、膝まである着物を与え、これに金貨を添えた。
 この当時、忠賢はますます権力を強めていた。承宗の功績が大きいので、これと親しくなることを望み、応坤たちにその意志を伝えさせた。承宗は一言も交わさず、忠賢はこのことを大いにうらみに思った。忠賢が趙南星、高攀龍たちを追い払った時、承宗はちょうど薊、昌に巡視に出ていた。抗議の上奏を帝が自ら御覧にならないことを警戒し、講義の席に出向いて、全ての奏上をすぐに聞いてもらう事を考え、帝の長寿の祝いの際に朝廷に入って直接奏上する機会を与えてくれるよう請願し、これによって罪を告発しようとした。魏広微はこれを聞くと、忠賢のところへ走って、「承宗は兵数万を擁して君側を清めようとしており、兵部侍郎の李邦華を内主として、あなたを直ちに粉砕してしまうでしょう」と密告した。忠賢は皇帝の寝床のまとわりついて泣き叫んだ。帝も心を動かされ、内閣に処置を考案させた。次輔の顧秉謙は筆を振るい「命令もなく任地を離れることは、祖先から受け継いだ法にはなく、違反は許さない」と言った。夜、金門を開いて兵部尚書を招き入れ、三道から伝令の騎馬を飛ばして阻止させた。また九門の門番を戒め諭して、もし承宗が斉化門にやって来て、侵入した場合は反徒として接することとした。承宗は通州に到着したところで、命令を聞いて引き返した。忠賢は、鹿善継のみが御者を務める車中に一人で居たが、人を遣わしてこれを偵察し、少し警戒を解いた。その一派の李蕃、崔呈秀、徐大化は続けざまに上奏してこの件をそしり、彼を王敦、李懐光になぞらえた。承宗は門を閉ざして外出を止め解任を求めた。
 五年四月、給事中の郭興治は廷臣に人員整理を議論させ、軍資金を横領する者の罪を重ね重ね裁いて、廷臣の諸々の議論を押さえ込むことに成功した。吏部尚書の崔景栄はこれを支持して、継続するよう詔勅を発し、将の削減、兵の淘汰、予算の整理の三事を行い承宗の奏上を非難した。承宗は諸将を分遣して錦州、大小凌河、松、杏、右屯の諸要害を防衛しようとしていたところ、大将の世欽と世禄、副将の李秉誠と孫諫を解任され、兵士一万七千人を削減され、予算六十八万を削られた。言官は世龍の罪のみは裁かなかった。九月になって、柳河の敗北があり、死者は四百人余りであったが、このことは世龍伝で詳しく語った。ここにおいて台省は世龍と承宗をともに告発し、数十の上奏文を提出した。承宗は一層強く辞職を求め、十月初め請願は認められた。これまでに繰り返し官位を加えられ、左柱国、少師、太子太師、中極殿大学士の位を得ていたが、特別に昇進して光禄大夫の地位を加え、中書舎人の地位の世襲を認められ、天子の服、銀貨を賜り、護衛付きで帰還した。兵部尚書は高第を後任の経略とした。間もなく、安性もまた辞任したので巡撫を廃止し設置しないことになった。
 初め、第は承宗を抑えようと努め、関外から撤退して関内で守ることを請願した。承宗はこれに反論し、第は深く恨んだ。翌年、寧遠が包囲されると、関門の兵力が五万に止まっていることが奏上され、奏者は承宗の罪であるとした。承宗は戸部に「第が初め関に赴任したとき、十一万七千人分の軍資金を支給されていたのに、今は五万人分の軍資金が支給されるのみです」と告げた。第は虚言を為したとして罪を負った。その後、忠賢はその一派の梁夢環を関の巡視に派遣し、承宗を罪に落とす証拠を探求したが、得るところ無く終わった。承宗は関に滞在すること四年、この間に、大城を修復すること九、砦を修復すること四十五、十一万人を練兵し、十二の車営、五の水営、二の火営、八の前鋒後勁営を設立し、甲冑、器械、弓矢、砲弾、濠、楯を製造準備すること数百万、四百里を開拓して、五千頃の屯田を開き、歳入は十五万に登った。後に寧遠の功績に対して、世襲の俸給として錦衣を千戸分与えられた。
 荘烈帝が即位し、在晋が兵部尚書となったが、承宗を恨んで許さず、世龍と元儀が関の情勢を混乱させて枢輔を惑わせたと主張し、また台省を唆して代わる代わる承宗をそしり、出世を妨害した。二年十月、大清国の軍が大安口に侵入し、遵化を奪取、都城に迫りつつあったが、廷臣は競って承宗を召し出すよう請願した。元の官職で、兵部尚書を兼ね通州を守備し、入朝して陛下に謁見するよう詔勅を下した。承宗が到着すると、台座に召し寄せて対面した。帝は慰労を終えると、戦略を問うた。承宗は「臣は袁崇煥が薊州に、満桂が順義に配置されていると聞いていますが、侯世禄を三河に配置することが、得策です。尤世威が昌平を巡回し、世禄が通州に配置されているとも聞いていますが、未だ合流していないようで結構なことです」と上奏した。帝は「卿は三河を守ることを求めるが、どういう意図か」と問うた。答えて「三河を守れば西への進攻を阻み、南下を止めることができます」と言った。帝は良い答えであると賞賛し、「朕が首都を守るにはどうすればよいのか」と言った。承宗は「危急の時には、城壁上で垣を守るだけでは、人々が餓えと寒さで苦しむことになり、万全の策ではありません。器械を整備し、厚く労を労い、人心を安定させねばなりません」と言った。箇条書きにして全て命令とした。帝は「卿は断じて通に赴くことなく、朕のために首都の内外の守備の事務の総督となって、本陣で勤務せよ」と言った。首輔の韓爌を促して、勅書を起草し、所司に下して関を防衛する人間を選ばせた。承宗は退出すると、水時計が二十目盛り動いた時には、既に都城の周囲を検査し終わり、五の刻の太鼓が終わると、二重の城の検査に出て行った。翌日の夜半、突然に通州を守備する旨を伝えた。この時烽火が近郊各所で急を告げており、承宗は二十七騎を従えて東便門を出て、道中で三名を脱落させながら、疾駆して、門番が知らせを受けない内に通に到着した。入城すると保定と巡撫の解経伝、御史の方大任、総兵の楊国棟は城壁上の垣に登って固守に当たっていた。ところが大清国の軍は既に都城に迫っており、急いで遊撃の尤岱を騎兵三千で救援に派遣した。また副将の劉国柱に二千の軍を監督させて岱と合流させ、さらに密雲を兵三千の営とともに東直門へ、保定を兵五千の営とともに広寧門へと出発させた。そしてこの間に将を派遣して、馬蘭、三屯の二城を回復した。
 十二月四日になって、祖大寿の変が起こった。大寿は、遼東の前鋒の総兵官であり、崇煥とともに入衛していた。崇煥が獄吏に渡されるのを見て、誅殺を恐れ、副将の何可剛らとともに統率下にあった部下一万五千とともに東へと逃走したが、あちこちで大いに動揺した。承宗はこれを聞き、急いで都司の賈登科を派遣し手紙を渡して大寿をなだめ諭し、遊撃の石柱国に命じて諸軍の懐柔に奔走させた。大寿は登科を見て「麾下の兵士達は救援に赴いて、連戦して全勝し、厚く報償を得ることをこいねがっていた。だが城内の人々は大勢で罵って、投石に撃たれ死ぬ者も数人出ることになった。兵卒を見回りに出せば、これを間諜呼ばわりして殺した。苦労しながら罪を受けたことが、脱走して帰還していく理由である。朶顔に脱出し、その後に我が身を縛って帰順する」と言った。柱国は諸軍を追求したが、その将士は弓や刀を持っ立ち向かい、皆涙を流して、「督帥は既に殺され、大砲の攻撃まで我が軍に向けられ、結果ここに至ったのだ」と言った。柱国はその後も追撃を続けたが、大寿は既に遠く去っていたので、戻ってきた。承宗は奏上し「大寿は身の危険を疑うこと甚だしく、また満桂の統制を受けることを拒んでいるため、流言で兵士達を煽って東へと逃走しましたが、部下の全てが反乱を望んでいるわけではありません。救済の道を開いてやれば、兵士達の心を収拾することができるでしょう。遼には馬世龍のかつての部下達が多く、臣が適切な策として、世龍を急遽派遣すれば、必ずその将士の武装を解き帰順させることができるのであって、大寿は思慮が足りません」と言った。帝は喜んでこれに従った。承宗は密かに手紙で大寿を諭し、急いで上奏文を自ら書き連ねるとともに、功を立てて督帥の罪を贖い、自らの潔白を証明するように言った。大寿はこれを受け入れ、詳しく東へ逃亡した理由を連ね、将士が言ったのと全く同じ事を述べた。帝はこれに思いやりある返答の詔勅を出し、承宗に移動して関門を鎮めるよう命じた。諸将は承宗と世龍が到着したと聞き、多くは自ら脱落して帰順した。大寿の妻の左氏もまた大義によって夫を責め、大寿は兵を収めて命令を待った。
 脱走兵たちが関に赴いた際、関の城は掠奪され、家々の門は閉じ市場は開かれなくなった。承宗が到着して、ようやく人心は安定した。関の城壁はかつて十六里に及んでいたが、衛の城壁はわずかに二里であった。今敵が内地側にあって、関の城壁を守り得なくなったので、衛の城をつなぎ合わせて、間に守備兵の詰め所を置くべきであった。そこで新たに土塀を築いて、関の城に並行して互いを連結し、そこに穴を開けて砲口をはめ込んだ。城中は水が不足しているので、一昼夜で百の井戸を掘った。かつての汰牙門には仮住まいの者が千人いて、窮乏のため乱を企てていたが、これに対して役所から食料を与え、市街の巡視や、見張り台の守備、倉庫の護衛に使役し、情勢を落ち着けた。内部への謀略は不可能となり、外から到来する者は見回りの騎兵に捕獲され、関の守備は完全になった。そして世龍に歩兵騎兵一万五千を監督させて派遣し、遊撃の祖可法には騎兵四営を率いて西進し撫寧を守るよう命じた。三年一月、大寿は関に入って、承宗に目通りしたが、護衛兵五百は門の所に止まった。承宗は許して真心をもって語りかけ、その統率する歩騎三万を、即日、練兵場に整列させたが、一行は軍の掟に服することを誓い、恐れつつ頭を地に着けて釈明した。
 この頃、大清国は既に遵化を攻略して拠点としていた。この月の四日には永平を攻略した。八日に遷安を攻略し、ついに灤州を降伏させた。軍を分けて撫寧を攻撃したが、可法たちは堅守して降伏しなかった。大清国の軍は山海関に向かい、三十里の距離をとって陣営を置いた。副将の官惟賢たちは力戦した。攻囲を受けた撫寧と昌黎はともに降伏しなかった。この時、首都への街道がふさがっており、承宗、大寿の軍は東にあり、世龍や四方からの援軍は西にあった。承宗は決死隊を沿海地方で募集し首都に到達したが、ここで未だ関の城が無事であることを知った。関の西南の三県、すなわち撫寧、昌黎、楽亭、西北の三城、すなわち石門、台頭、燕河、関門の東を守護する六城、東に接する永平は、全て関付近の要地であった。承宗は諸城に厳重に守備するよう戒め、将を派遣して開平を守り、建昌を回復すると、救援を開始した。
 首都は厳戒態勢にあり、天下の勤王の兵は二十万人が集まっており、皆、薊門と首都近郊で城塞に立てこもっており、進撃しようとする者はなかった。詔書で繰り返し進撃を命じたため、諸将は時折攻撃を行ったが、回復を成し遂げた者はなかった。世龍はまず遵化を回復することを請願したが、承宗は「それは好ましくない。遵は北にあって、取りやすく守り難いので、それはしばらく思いとどまって、軍勢を分け、まず灤を攻囲すべきだ。今多くの者が援軍を率いて、遵の攻囲を望んでいるようだ。だが各地の鎮の兵を豊潤、開平へと送り、連合した関の兵で灤を攻囲するべきである。灤を奪取して開平の兵でこれを守り、騎兵決戦をおこなって永の攻囲へとつなげる。灤を得れば、永も開城するし、永を併合してからなら遵を取ることは一層容易い」と言った。会議で決定して、東西の諸営に並進するよう命じるとともに、撫寧にむけてこれを監督するよう親しく言い送った。五月十日、大寿と張春、丘禾嘉の諸軍がまず灤の城下に到着し、世龍と尤世禄、呉自勉、楊麒、王承恩がこれに続き、二日たって勝利した。一方、副将の王維城らは遷安に入った。我が大清国の兵で永平を守る者は、すべて撤退して北へと帰還し、承宗は永平に入った。 さらに十六日、謝尚政らの諸将は遵化に入った。四城全てが回復された。帝は郊外の廟に感謝を告げ、大いに恩賞を与えたが、承宗には太傅の位を加えるとともに、天子の服と白金を与え、錦衣と衛指揮僉事の地位を世襲させることになった。太傅の地位は固辞して受けず、さらに繰り返し上奏して病と称して解任を乞うたが、思いやりある詔勅を下してこれを許さなかった。
 朶顔と束不的が裏切ったので、承宗は大将の王威に攻撃を命じてこれを打ち破り、また褒美を与えられ銀貨を得た。以前、皇太子を定めた際には、太保を加えた。神宗実録が完成すると、また同じように加官した。辞退すると共に、解任を願って止まなかった。帝は閣の臣下達に人員整理の議論を命じたが、決断することはできなかった。特別に中書を派遣して帝が手ずから記した詔書をもたらして慰問し、起用し事態を指導させた。四年八月、関を出て東へ巡行し、松山、錦州に至ってから、関へと帰還、さらに西へと巡行し、三協十二路の全てを視察して戻った。東西辺境の政治に関する八事項を箇条書きにして上奏し、帝は全て採用した。五月、熟考の結果、詔勅で太傅の位を加えるとともに尚書の俸給を受け取るようにし、尚宝司丞の地位を世襲させ、天子の服、銀貨、美酒を与えたが、今度も太傅は辞退して受けなかった。
 最初、承宗は右屯、大凌河の二城に兵を設置して防衛した。その後、高第が後任となって、これを全て撤廃し、二城は破壊されてしまった。今、禾嘉は遼東の巡撫であったが、広寧、義州、右屯の三城を回復することを提議した。承宗は広寧は道のりが遠いので、まず右屯を占拠し、大凌河に築城し、徐々に進攻すべきであると言った。兵部尚書の梁廷陳が指導に当たり、七月に工事が開始された。ようやく工事が終わった頃、我が大清国の軍は大挙して到来し、何重にも包囲した。承宗はこれを聞くと、錦州に駆けつけ、呉襄、宋偉を救援に赴かせた。禾嘉は何度も出撃の時機を先送りし、偉と襄もまた成功せず、ついには長山において大敗することになった。十月になって、城中の食料が絶え、守将の祖大寿は力尽きて投降し、城はまた破壊された。廷臣は築城は愚策だったと非難し、禾嘉と承宗の罪を追求する文章を出した。承宗はまた病を得た旨、上奏を繰り返した。十一月請願が聞き入れられ、銀貨を与えられるとともに、駅伝の馬に乗って帰還した。追求者たちは軍を失い国を辱めたとして、官位を奪って謹慎させるとともに、寧遠の世襲の領地を剥奪することを主張した。承宗はまた辺境の作戦十六事項を列挙上奏し、さらに禾嘉の軍が命令違反による作戦失敗を図ったと、全力で主張した。帝は聞き入れた旨返答した。家にいること七年、国中から召し出し用いるよう請願したが、知らせはなかった。
 十一年、我が大清国の軍が内地深くへ侵入した。十一月九日に高陽を攻め、承宗は家人を率いて防御に当たった。大軍を引き揚げながら、攻囲軍が三度叫びを挙げると、守備軍もこれに三度応じた。「この城は笑っているが、兵法に従えば敗れつつある」といったが、攻囲軍は再び集まってきた。その翌日、城は陥落し、捕らえられた。関のほうを見やりつつ頭を地に着けて詫び、首をつって死んだが、年は七十六であった。
 子で科挙に合格していた鉁、尚宝丞となっていた鑰、科挙受験資格を得た学生であった鈰と鎬および兄弟の子の鍊、孫の之沆、之澋、之洁、之瀗、兄弟の孫の之澈、之渼、之沢、之渙、之瀚は、皆戦死した。督帥中官の高起潜はこれを奏上した。帝は嘆き悼んで、所司に命じて情けをかけて金品を与えることにした。国事に当たった楊嗣昌、薛国観といった輩は密かにこれを妨害し、ただかつての官位に復帰させ、葬祭を行ったのみであった。福王の時に、まず太師の位を贈り、諡を文忠とした。

 賛に言う。承宗は宰相としてたびたび軍を指導し、ほぼ成功を収めたが、たちまち小人物達は、始終攻撃するようになり、田野の防衛を成し遂げ、関門を訪れれば、処刑の準備をととのえるのみで、労いの報償を与えることはなかった。国家の方針がこのようであっては、安全を求めたところで、どうして得られるであろうか。攻めるに足りない者でも守るには余力がある。彼の才覚を考えれば、確かに恢復は容易でないものの、彼を専任すれば、慎重に守備を固めて敵を封じ込むには十分だったのであって、それにもかかわらず朝廷はやかましく議論して、急いで除去することばかり考えていた。情け深さの徳は天を覆うほどであり、意気盛んなことはそれ以上であったが、彼を除こうとする者がいて、その手にかかってしまった。


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