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世界史序説 〜歴史を理解したふりをするための文明論略説〜  My


 個々の歴史上の出来事が、全て、何らかの時代的社会的背景の下に起こっている以上、個々の歴史事象の意味を理解しようとする際には、背景となっている歴史の発展過程を知ることが、必須であるといえるでしょう。そして、歴史の発展過程というものは、世界各地の諸文明圏に、ある程度共通しているのであり、その共通要素を理解しておけば、各文明圏の歴史を非常に効率的に理解することができます。そこで、世界各地の文明に共通する一般的な発展の流れを、各地域の実例を引きつつたどってみましょう。
 なお、各文明圏における各時代が西暦の大体どの辺りかを、世紀単位で示しておきましたが、大ざっぱに過ぎるので、細かく知りたい場合は、各自で自分の記憶を引き出すなり調べるなりしてください。



<古代前期>
 青銅器や文字の使用、灌漑農業を身につけた人類は、貴族や王といった政治指導者を一般民衆から分化し、高度な社会組織を発展させ始める。この結果、部族を単位として、都市国家などの政治組織が無数に出現することになった。このような政治組織は相互に争う中で、いつしか近しい者と連携し、やがて一部の有力な部族や都市を中心として、広範囲な同盟を結成するに至る。その後、割拠する同盟間の争いを勝ち抜くため、同盟内の連携・組織が強化され、その中で主導的な地位にある有力部族や都市が、弱小部族や都市を次第に従属させていく。ついには弱小部族や都市は、政治的な独立性を完全に失い、部族や都市の同盟は強大な支配力を持った領域国家へと移行を始める。

 この時代は、西洋で言うならば、紀元前の三千年紀から二千年紀を過ぎた辺りまでの中東諸国であろう(前30〜前10世紀)。インドであればインダスの都市文明からアーリア人のガンジス流域への展開までが該当するだろう(前23〜前7世紀)。中国ならば黄河文明の成立から殷や周、春秋の五覇に率いられた都市同盟の出現までが該当し(前20〜前5世紀)、日本で言うならば、邪馬台国等を中心とした政治連合の形成に帰着する弥生時代(前5〜後3世紀)である。なお、本稿では、中東から地中海およびヨーロッパ大陸部に至る地域は、複数の文明圏に分かれつつも、それぞれ完全な孤立状態に陥ることなく、たがいに一定以上の関係性を保って一つの巨大な上位文明圏を形成していると見ており、その巨大文明圏全体を指して西洋と呼ぶ。


<古代中期1>
 領域国家は、割拠状態を生き抜くため、王権を強化して強大な権力を振るい、大衆を基盤とした富国強兵を推し進める。商工業を育成して鉄器を大量生産し、領内を大規模に開墾する。そしてこのように開発された国力を基に、大量の鉄器で大衆を武装させた巨大な軍隊を創り上げ、他国に対抗するのである。なお商工業の著しい発展の結果、国家間の商業流通も非常に活発となり、国家の枠を超えた巨大な統一経済圏が成立していく。そしてこのような社会情勢下で、従来からの対立関係は激化する。蓄積された莫大な富のはけ口として、あるいは敵の豊かな経済資源を求めて、大規模な征服戦争が行われるようになる。やがてこの中から、国力および軍事力の開発に大きな成功を収めた国が抜けだし、諸国を平定して、大帝国が出現するに至る。なお、こうして成立した最初の大帝国は、帝国内の一体化を完成させるため、強権的な統治を行うが、旧勢力の反発が強く短命に終わる。

 この時代は、西洋ではアッシュール・バニパル王による中東の統一に至るアッシリアの盛期(前10〜前7)、インドではマガダ国がしだいに覇権を確立してナンダ朝のマハーパドマ王の大帝国へと結実する十六王国時代(前6〜前4)、中国では秦の始皇帝による統一に至る戦国時代(前5〜前3)がこれに該当する。この時代は、鉄器の使用と大規模な戦争によって特徴づけられるが、ここで挙げた覇権国家の内、アッシリアは当時の中東の唯一の鉄産地であるアルメニア山地の近くに位置を占める国であり、マガダ国はインドの鉄生産の一大中心地であった。そしてこの鉄器入手に有利な立場を活かして、強大な軍事力を養い征服に乗り出したのである。これらの事例に、この時代の特徴が端的に表れていると言えよう。日本であれば大和政権の成立から推古朝に至る時期が、この時代に該当する(4〜7世紀)。日本は金属器の使用に関してやや特殊な発展を遂げた文明であり、大陸の先進地域からの輸入のおかげで、日本はこれに先立つ弥生時代より青銅器とほぼ同時に鉄器の使用を始めていた。そしてその頃からこの時代にまたがって、日本では鉄を確保して流通させるために地域を越えた政治機構が発達するという現象が続いているが、この時代には日本は鉄の入手のために朝鮮半島へ盛んに出兵を行い、それを支えるために軍事的政治的統合が進むという状況にあった。鉄と戦争は日本でもこの時代を特徴づけているのである。なお、鉄の流通の確保が一貫して日本の政治的統合の原動力となったことは、交易の進展が統一経済圏を形成するという事象の、やや奇形的な現れであろう。
 ところでこの時代を制したアッシリアや秦の始皇帝はその暴虐で有名であるが、何もこれらの帝国が史上の他国より頭抜けて非道であったというわけではない。最初の帝国として守旧勢力の排除という使命を課され、それ故社会の強固な反発を一身に受ける結果となり、悪評が残ったと評価すべきであろう。インドのマガダ国は、アーリア人の拡大の最前線の新規開拓地域に誕生したため、他国と比べ旧来の文化的身分的束縛が弱く、これは貴族や宗教指導者を抑圧して王権を強化し、富国強兵するのに有利に働いた。ただその一方で、マガダ国は身分秩序の乱れについて他地域の支配階層から蔑視を受けていたし、その覇業によって他の国家が壊滅したことに対しては嘆きの声が挙がっている。これらからインドでも統一に向かう中で、守旧勢力の根強い抵抗があったことが分かる。日本では、推古朝期に至って王権の強化が目に見える形で現れてくるが、これがここで言う最初の帝国に相当するであろう。当時の中央集権化政策推進の中心人物であった皇族の聖徳太子が厚く崇敬されているのは、世界的に見て特異な例外であろう。ただこの中央集権化は有力貴族の蘇我氏の密接な協力の下に進められたため、王権の強化は同時に貴族である蘇我氏の強大化と並行して進行しており、王権の強化が悪評を生まない程度の不十分な成果しか挙げ得なかったと見ることもできよう。また臣下であった蘇我氏が悪評を引き受けることになったと見ることもできよう。もちろん日本における王権の強化が何の軋轢も生まなかったわけではなく、推古朝の直前に、舶来の先進文化仏教の導入問題を表に立てて、武力衝突が起こったように、王権強化の過程で新旧勢力の対立は生じていた。


<古代中期2>
 最初の帝国の統治は短命に終わるものの、この帝国が復古勢力を弾圧しつつ定めた統一の枠組みは崩壊せず、間もなく後継となる帝国が登場、以後も統一的な支配が続くことになる。この後継帝国は、弾圧を受けて弱体化しつつあった旧勢力を徐々に排除し、統一帝国の絶頂期を実現することになる。これらの統一帝国は、これまで統一を後押ししてきた巨大な経済発展の勢いを受けて、対外的には異民族の征討など積極的な拡大志向を見せ、対内的には活発な国土開発を行う。

 この時代は西洋で言えば、アッシリア滅亡以降、中東から地中海までという広範囲に影響を及ぼす大帝国が興亡した時代で、ペルシア帝国やアレクサンドロス帝国、盛時のローマもここに含まれるであろう(前7〜後2世紀)。インドではマウリヤ朝(前4〜前2世紀)が、中国では前漢(前3〜後1世紀)が、日本では大化の改新以降に発展していく律令国家の盛時(7〜8世紀)が該当する。
 これら諸帝国は、ペルシアは第三代ダレイオス1世、マウリヤ帝国では第三代アショカ王、前漢では第七代武帝の時に、ようやく支配体制の完成期に入る。宰相の蕭何、謀臣の張良、武将の韓信といった史上に轟く文武の名臣を縦横に駆使した前漢の建国者劉邦、四方に遠征と征服を重ねた名将で寛大な理想的君主として後の世の尊崇を集めたペルシアの建国者キュロス大王、自ら勇武を誇るとともにインド史上最高の大宰相カウティリヤを使いこなしたマウリヤ朝の建国者チャンドラグプタ、これらはいずれも当該文明史上の屈指の傑物で模範的な王者とされるであろうが、そのような英傑をもってしても、帝国の領域を軍事的に確立するだけで手一杯で、支配体制の完成に後の数世代を要した点に、なお根強い旧勢力の抵抗を見て取ることができよう。日本でも、王権の脅威となっていた蘇我氏を討って大化の改新を成し遂げた天智帝は、これを補佐した藤原鎌足とともに史上に傑出する大政治家であろうが、一代では、貴族勢力を完全に制圧することはできず、天智の死後その弟の天武帝の代に、ようやく皇帝権の完全な確立を見た。
 この時代の対外積極姿勢の例としては、ペルシア帝国ではギリシアやスキタイとの闘争や、実現に至らなかったもののカルタゴ遠征の計画等が見られる。アレクサンドロス帝国は、インドにまで征服の手を伸ばしたし、アレクサンドロスは死の直前には西地中海の征服を計画していたという。ローマは地中海の覇権国家となった後、なおガリアやゲルマンに軍を送り、中東にも積極的な介入を繰り返している。インドのマウリヤ朝も、インダス流域に入り込んだアレクサンドロス帝国残党を駆逐したほか、カリンガ地方など南インドへの大々的で苛烈な攻勢を見せている。中国では秦の時代で既に積極的な姿勢が現れており匈奴の征討や南越の征服が見られるが、前漢では西域、朝鮮、ベトナムの征服や、匈奴に対する大規模出兵によりさらに帝国の支配領域が広がっているのを見ることができる。日本では、古くより大陸との交流や衝突を繰り返していたが、それは中国の圧倒的権威を認めた上でのことであり、推古朝期の中国に対する対等外交の要求以降、白村江の大敗に終わったとはいえ中国との戦闘さえ辞さない積極姿勢は、それまでの対外姿勢とは一線を画するものであろう。


<古代後期>
 帝国支配の絶頂期とともに頂点を迎えた、活発な商業流通と積極的な国土開発は、これに参画することで、富裕者にますます一層富み栄える機会を与える。一方、一般庶民は激動する経済環境の中で、没落する者が多く、しだいに帝国内の貧富の差は拡大し、富裕者が貧民を隷属させて地方豪族として、地元に強大な権勢を誇るようになっていく。こうして台頭した豪族は、私兵を養って地元に君臨し、徐々に国家の統制を排除していく。また活発な商業流通は、後進地域に先進技術をもたらし、積極的な国土開発は後進地域を大いに発展させ、各地はしだいに自給自活が可能となって自立の道を歩み始める。これらの結果、帝国の支配は次第に弱体化が進む。そして内面の弱体化が進行した帝国は、積極的な対外政策を採る力を失い、異民族を圧倒することができなくなる。帝国国境は、異民族の侵入、あるいは懐柔されて傭兵となった異民族の駐屯を受けることになり、次第に国境地域は異民族と同化していく。こうして帝国は内外から切り崩され、しだいにその実質を失って分解していく。このような情勢下、時に超人的な精力で社会の再結合を実現する者も見られるが、ことごとく一時の徒花に終わっている。

 この時代には、西洋ならば衰退期のローマ帝国が該当する(2〜7世紀)。インドならばマウリヤ朝末期以降、グプタ朝やヴァルダナ朝がここに含まれ(前2〜後7世紀)、中国では後漢から西晋(1〜3世紀)が該当する。日本では、新羅との断交によって対外積極政策を転換し、軍事大国路線を放棄して以後、承平・天慶の乱までの律令国家の衰退期(7〜10世紀)がここに相当する。
 異民族の浸透の例は、西洋ではゲルマン人の侵入やゲルマン人傭兵の雇用を見ることができる。インドには、様々な異民族が侵入定着しているが、目立ったところでは、インド北部をほぼ完全に制圧下においたクシャーナ朝やインドの都市と交易網に壊滅的な打撃を与えたエフタルが挙げられるであろう。中国では、後漢において対匈奴政策が征討から、分裂につけこんでの懐柔に変更されたが、これは国境防衛を異民族に依存する例と見ることができる。また後漢末からの群雄割拠の中で、群雄達が積極的に異民族騎兵を大規模に活用するのも見られ、その代表は精強でならした曹操の烏丸騎兵であろう。日本では、俘囚と呼ばれる蝦夷の兵の活用が見られる。
 余談ながら、超人的な精力で社会を再結合した巨人としては、西洋では、ベリサリウスやナルセスといった戦史に輝く名将を使役して地中海の再統一を目指したユスティニアヌス大帝、インドではハルシャ・ヴァルダナ王、中国では曹操が挙げられるであろう。


<中世>
 帝国が解体すると、域内に浸透した異民族と結託し混合した武装豪族が、軍事的政治的な特権階級を形成、社会を、無数の自給自足の小領域に分割して支配することになる。もはや高度な組織を持った大規模な政治体は成立し難く、以後、帝国に替わる政治組織としては、地方ごとに豪族の連合した弱小な国家や政治体が形成されるに留まる。なお、彼ら豪族は、この国家衰退の時代にあって、時に召集に応じて国家の軍事力となり、あるいは国家に代わって地元の日常的な防衛を担ったが、こうした社会への貢献の一方で、閉塞的な狭い自給自足領域に暴君として君臨しており、そのためこの時代はどこか陰鬱な雰囲気を漂わせることになっている。ところで、地方ごとに豪族連合が割拠するこのような分裂の時代であっても、時に豪族の連携が拡大して、広大な領域に支配を及ぼす政権が成立することもある。しかしこのような場合も、各地方においては現地の豪族が確固たる権勢をもって君臨しており、国家の統制力は範囲だけを見れば広大であっても質的に見れば脆弱であった。

 ローマ帝国の衰退につれ、西洋社会は分裂を生じつつあったが、そこに西と東でゲルマンとイスラームが台頭、ローマ帝国は、支配領域をギリシア文化圏に限定されて、ビザンツ帝国へと変質する。結果、西洋世界がヨーロッパ、ビザンツ、イスラームの三領域に分かれる情勢が確立するが、西洋においてはこれ以降、西欧王権とオスマン・トルコが台頭し始めるまでが、この時代に該当する(7〜13世紀)。インドではヴァルダナ朝滅亡後の覇権国家不在の時期(7〜12世紀)、中国では西晋滅亡後の五胡十六国時代から唐の盛期(4〜8世紀)、日本では承平・天慶の乱後、鎌倉幕府の滅亡まで(10〜14世紀)がこの時代に該当する。なお、西洋について語る際は、ここからは現代の西洋の世界制覇につながる流れを生み出したヨーロッパについて、専ら扱うこととする
 この時代の社会を支配した武装豪族は、ヨーロッパでは騎士、インドではラージプート、日本では武士という。それぞれゲルマン人と豪族、蝦夷と豪族、マウリヤ朝末期以来の諸々の異民族と豪族が混交して誕生した、特権的な軍人階級である。武勇と名誉を重んじる性質でいずれも共通している。
 ところで、この時代の中国は貴族社会とされ、豪族が中央政府の元に組織されて支配階級を構成しており、他の文明圏と比べれば国家の統制力が強かった。だが貴族は、皇帝以上の社会的威信を持っており、皇帝の権威は絶対ではなかった。そしてこの時代の軍制である兵戸制は、豪族の私兵を元に兵戸と呼ばれる特殊な兵士身分を創出して国家の軍事力に供するというものであった。軍制に関してはこの時代の末期の唐代において府兵制という軍制が採用され、一般にはこれを民衆を徴兵するものと捉えているようである。だが成年時に、一度兵士と一般民の分類が為されると、以後老齢で引退するまで兵士の辞職はできず、一方一般民が兵士とされることもなかったため、この点を捉えて府兵制も実際には既存の兵戸制の性格を受け継いでいたと解する研究が存在する。前代から続く異民族兵の大量導入は、五胡十六国の戦乱以降、異民族が政治の支配権を握って、中国全土が異民族と次第に同化していくという状態を引き起こしており、隋と唐もこの系譜を引く鮮卑族の国家であった。以上のように中国においても、豪族の政治支配による社会の分裂、軍人階級の出現、社会への異民族の浸透混合といったこの時代の特徴は、やや特異な形ながら見ることができるのである。
 なおこの時代で広範囲に勢力を伸ばした政権の例を挙げれば、ヨーロッパでは最盛期のフランク王国である。また神聖ローマ帝国は、最初期の全盛時には、他のヨーロッパ諸国を圧倒する力を誇って、ヨーロッパの覇権国家の地位を占めており、ここに含めて良いだろう。インドではプラティーハーラ朝が、最盛期には北インドの大半におよぶ支配を打ち立て、古代の覇権国家に匹敵するほどの広大な国土を領有している。もっとも、東と南に強力な二大敵国を抱えての慢性的な三つ巴の対立の中、敗戦することも多く、特に南からは何度も大規模に攻め込まれて国土を荒らされており、強大な力で南インドへの進出をうかがっていた古代の覇権国家と比べれば、国威の差は歴然であった。中国では隋と唐、日本では平氏政権や鎌倉幕府がある。


<近世>
 分裂の時代にあっても、分裂した領域内で社会は発展を続けていった。社会全体の力を結集することができないため、歴史に輝く壮大な文物を残すという点で、やや見劣りする時代であったことは否定できない。だが、各地方は地道に経済発展を続けており、その生産力が各地方の狭い枠を乗り越え溢れ出ることで、社会は再び統一へ向けて動き出す。富の増加は商業流通の復活を引き起こし、各地は結合を強め始めた。富の増加を越える速さで拡大する人口は、社会秩序の外へと大量の余剰人口を傭兵としてはき出すことになったが、国家は復活した商業を保護育成して財貨を引き出し、傭兵を雇い入れて強大な軍事力を築き、各地に割拠する豪族を弾圧して中央集権化政策を推進していった。こうして国家が、広大な領域を強力に支配する時代が再び訪れたのである。この再統合の時代の国家建設を順調に進め、巨大な覇権国家の建設に成功した文明圏もあれば、地勢上統合が難航した文明圏もある。ただ後者の文明圏であっても、分裂の時代の自給自足領域を遙かに超えた規模を強力に支配する政治体が成立するに至っている。

 この時代は西洋ではフランス革命とナポレオン戦争の頃までの王権の拡大発展期(14〜19世紀)に当たる。インドではゴール朝以降のイスラーム巨大帝国が興亡した時期(12〜19世紀)がこれに該当し、デリー・スルタン朝やムガル帝国がここに含まれる。中国では安史の乱以降の軍閥割拠と宋や明清の大帝国(8〜19世紀)がここに含まれる。日本では南北朝から戦国大名を経て江戸幕府まで(14〜19世紀)がこの時代に当たる。
 この時代は、商業流通を基盤とした傭兵軍による征服の時代である。インドではイスラーム勢力との衝突以降、イスラーム商人が入り込んで商業が活性を呈していたが、そこにトルコ人傭兵団が作ったゴール朝が侵入、以後ムガル帝国に至るまで中央アジア由来の騎馬民族傭兵国家が、代替わりしつつ圧倒的な力で覇権を握り、商業流通を促進して財政基盤を整え、大征服を繰り返す。中国では、安史の乱以後、募兵制という傭兵制度によって支えられた軍閥が割拠し、商業勢力と結んで富国強兵に励み、その中から宋の巨大な専制国家が生まれ、以後大帝国が続くことになる。
 なおこの時期の前半のインドについての理解には少し注意を要する。インドを征服したトルコ人傭兵は中世イスラーム世界から流入したものであり、インドに侵入した後も当時のイスラーム圏で行われていた中世的な軍制、兵士の給与に土地を与えて農村に君臨させるイクター制を、採用していた。そしてそのために、表面上は、この頃のインドは未だ中世に留まっている様に見えなくもないのである。ただ同時期のイスラーム圏でイクター制が未だ積極的に導入され拡大の途上にあったのに対し、この時期のインドでは給与の現金化によるイクター制克服の努力がそれなりの成果を挙げている。表面的には類似しているものの、この頃のインドと同時期のイスラーム圏が異なる時代の中を歩んでいたことは明らかであろう。
 ヨーロッパでは商業勢力と結んで財政基盤を強化した君主が傭兵団を雇い入れ、衝突と淘汰を繰り返しながら、一部では強力な中央集権国家を創り上げていった。各国の君主達は、無数に割拠していた豪族達を圧迫し、彼らを中央政府に従属する議会の構成員という身分に、押し込んでいったのである。ただ、これら諸国の中からヨーロッパ全体の覇権を握る勢力が登場することはなく、勢力の均衡した強国の抗争が打ち続き、長らく秩序が定まらなかった。日本では、後醍醐帝などが、新興商業勢力にして傭兵団である悪党を勢力基盤に、中央集権統一国家を目指したがこの理想は達成できず、やがて長い混乱を経て、戦国大名の元に、地域単位で強力な中央集権国家が成立することになる。そして戦国大名が御用商人を通じて積極的に自国産品の流通を図ったために、商業流通がさらなる活性を得て全国的な統合への流れがある程度発生、織田、豊臣、徳川三氏の一応の覇業によって、統一国家と地域単位の強国並立体制の合いの子とでもいうべき体制が成立することになった。ところでこれらの地域では、本来単なる食い詰め者の頭目や武装商人に過ぎない傭兵隊長が、天下も取らず単なる商売人兼傭兵隊長のままで、奇妙な英雄性を帯びて圧倒的な存在感を示す例がある。オーストリア皇帝の下で、不遇にもかかわらず不可解なまでの忠勤を示し、ドイツの統一を目指していたとも言われる、大企業家にして大傭兵隊長ヴァレンシュタイン、そして後醍醐帝の元に参じて、稀代の忠義と知勇を謳われた商人にして傭兵隊長の楠木正成である。本来ならば、この様な人物は、統一を導いた偉大な国王や政治家の陰に隠れるべき存在であるが、これら両文明圏は統合の不完全な状態が続いたために、覇者や大政治家の出現を許さず、彼ら手駒に過ぎない傭兵隊長の存在感が不自然なまでに増すことになったのであろう。このような人物が時代の顔となっている点に、これらの両文明が近世の再統合期において経験した苦悩を読みとっても良いのではないだろうか。
 ところでこの時代の特徴を傭兵としたが、西洋のプロイセンのカントン制度や中国の明の里甲制、あるいは日本の戦国大名による農村住民の軍事利用のように、一般民衆を徴兵する形態の軍制が時に見られることがある。だがそのような軍制も、特殊な軍人身分に頼らず、広く一般民衆から兵士を採用し、強力な国家が鍛え上げる制度という点で、傭兵と共通している。傭兵も徴兵もともに広域の経済圏と強力な国家の登場に対応する近世的軍制であるといえる。


<近代(19〜20世紀)>
 西洋では、社会の再統合が進んでも覇権勢力が成立するには至らず、強力な国家が多数並立して富国強兵を競い続けることとなったが、その結果、西洋諸国では、他の文明圏を遙かに超える圧倒的水準まで、国力開発が進む。緻密な統治で個々人に至るまで住民を強力に把握し、国力を限界まで政府の手元に結集する国民国家が発達し、徴兵制が一般化、各国で巨大な軍事力が出現することになった。同時に産業革命が進行し、高度な兵器を続々と大量に生産し、巨大な軍事力の威力を留まることなく高めていき、また輸送通信設備といった巨大な軍事力の運用を支える社会基盤をも生み出していった。こうして姿を現した軍事力は、その凄まじい力で、全世界を西洋諸国の支配下に押さえ込んでいった。西洋文明の世界的な拡大の中で、これに素早く適応同化し西洋の強国と互角に戦うことのできた非西洋の国は、唯一日本があるだけであるが、日本が、社会の再統合において相当に難渋しており、西洋諸国の圧倒的な脅威という未曾有の国難に直面して、ようやく地方国家の並立体制を完全に克服し全土を結束させることになったことから言って、日本では西洋同様、不完全な統合が、地域発展の競争を生んで社会の進化を促し、それ故に西洋文明に適応するだけの国力開発が達成されていたと見て良いだろう。やがて全世界を支配した西洋諸国の軍事力は、全世界を巻き込んで史上空前の大戦争を二度にわたって戦うことになる。


<現代(20世紀以降)>
 相対立する中で西洋諸国は、生き残りをかけて同盟国を求め、結果西洋諸国の衝突は、ついには、対立する有力国家群が従属国を巻き込んで世界規模の二大同盟に分かれて激突するという境地に至る。そしてこの世界大戦の後にも、国家を越えた連携は、一層統制力を強めた形で残存することになった。そこでは米ソ両国が突出した軍事超大国として君臨し、それぞれ巨大な同盟を率いて世界を二分して争うことになった。これら二大国は、世界大戦の末期に登場した核兵器を並べ、文明を崩壊させるほどの軍事力を積み上げて、対立を続けたが、核兵器の異常な威力は両勢力が全面衝突することを許さず、経済的な地力に圧倒的に劣るソ連が力尽きる形で、大規模な戦闘を経ることなく、対立は収束、アメリカが唯一の超大国として世界に君臨するに至る。



補論
 本稿では西洋文明を非常に広く捉えている。これは中東からヨーロッパにかけては複数の文明圏が並立しつつも、互いにかなりの干渉を繰り返しており、それぞれ完全に独立の文明圏と扱うのが困難だからである。本論ではその複雑な姿をあえて単純化して、現在に連なる一本の道筋を描いたが、そのために切り捨てられた重要事項も少なくない。それについて補論としてまとめておく。


<古代>
 西洋において、地中海西部および北部は中東よりも文明形成に遅れており、中東がすでに巨大帝国を形成する段階に入った後でも、都市国家や領域国家を構築する段階に留まっていた。これら地域はその後、帝国へと発展し勢力が巨大化するなかで、東方との交流・衝突を生じ、その過程で中東を起源とする発展の歴史の中にとけ込んでいく。以下では、それまでの地中海地域が独自の発展過程にあった時期について、いかなる事象が本論における各時代に該当するか、記しておく。なおこれらの地域ではその最初期より鉄器が使用されている


<古代前期>
 ギリシアでポリスと呼ばれる都市国家が成立発展し、やがてマケドニアに征服されるまで(前8〜前4世紀)がこの時代に該当する。この時代の末期には、デロス同盟を率いたアテナイや、ペロポネソス同盟を率いたスパルタ、ボイオティア同盟を率いたテバイなどが、相次いでギリシア全土におよぶ指導的な地位を確立した。西地中海ではローマがイタリア半島を制覇した頃まで(前8〜前3世紀)がこの時代に相当するだろう。


<古代中期1>
 ギリシアにおいては、アレクサンドロス大王の東征に結実するマケドニアの台頭(前4世紀)が、この時代に相当するであろう。マケドニア王国の台頭でギリシアは統一され領域国家化。まもなくアレクサンドロスに率いられて、マケドニアはペルシアを征服、ペルシア帝国を乗っ取り、そこに融合していく形で大帝国を形成する。これは地中海東北部の後進地域での最初の帝国形成としての性質と同時に、古代中東由来の帝国政治の継承としての性格も併有する。なおアレクサンドロスは、大いに部下の親愛を受ける一方で、ペルシアとの融合を図る政策に関してはマケドニアの伝統を軽視するものとして反発を受け、帝国を揺るがす大事には至らないものの、粛正や、彼を暴君扱いする反乱騒ぎ、兵士達の反抗も相次ぐ。そしてアレクサンドロスが若くして病死すると、彼の個人的器量がかろうじて押さえ込んでいた、反動勢力の不満が噴出、帝国は分裂することになる。
 イタリア半島を統一したローマが、周囲との戦争を繰り返しつつ地中海全域を征服、それとともに中東をも影響下に置いて、西洋の混乱を制し、覇者となる過程(前3〜前1世紀)もこの時代に相当するだろう。この過程においては、ローマ内部では大規模遠征を通じて軍人政治家が台頭、彼らは大衆を傘下に収めて軍閥化し、相争うとともに、貴族集団である元老院が政治を主導する都市国家時代の遺制を次第に圧迫していった。やがて軍閥対立を制したカエサルによって、広大な領域を統治するにふさわしい強権を備えた専制体制樹立に至るが、ローマにおいては、これが最初の帝国の成立に当たるであろう。王のいなかったローマでは、この時代の発展過程は、王権の強化にともなう争乱征服という他の文明圏で一般的な形態を取ってはいないが、大衆を基盤とする政治権力強化と大帝国の形成が起こっている点では、他の文明圏と本質的には共通していると言えよう。なお、このローマの発展は、西地中海の後進地域における最初の帝国形成としての性質と、ペルシア=アレクサンドロス帝国において地中海にまでおよび始めた中東起源の帝国支配を継承し、さらに拡大発展させたという性質を併せ持つ。ところでカエサルは、死後に神君と呼ばれることになるほど国民の敬愛を受けていたが、この時点では専制に対して反発も強く、反動的な貴族の一党によって暗殺される。そしてその後は再び軍閥の争いが巻き起こる。


<古代中期2>
 帝制確立以降、衰退期に入るまでのローマ(前1〜2世紀)は、西地中海起源の帝国の完成期という意味と、中東に始まる大帝国興亡の歴史の継承者という意味の、二重の意味でこの時代に相当する。ここでは前者の側面について扱う。
 カエサル死後もローマにおける帝国確立への流れは変わらなかった。彼の死後の軍閥対立を、勇将アグリッパと謀臣マエケナスの補佐を受けて勝ち抜いた、カエサルの養子アウグストゥスは、皇帝政治を確立した。ただ史上に卓越する彼の英明さをもってなお、帝国の支配体制は完成にはほど遠く、実質帝政でありながら、形式上は貴族中心の旧来の政治を装わねばならなかったし、軍閥が争闘した前時代の遺風も完全には払拭できなかった。特に後者は大きな問題で、ローマでは帝位が軍隊の親愛の情に強く依存しており、帝位をめぐって軍人や軍隊が不穏な動きを見せることが、歴史を通じて多かったのである。それでも盛時にあっては、社会はほぼ平和と繁栄を維持しており、帝国はハドリアヌス帝の時に最盛期を迎える。


<中世>
 この時代は、ヨーロッパ、ビザンツ、イスラームの三領域が互いに無関係ではないものの、それぞれ独自性を持って歩んでいく時代であるが、このうちヨーロッパについては本論で触れたので、ここでは残る二領域について記述する。
 ビザンツ帝国は全期間(7〜15世紀)が、この時代に相当し、イスラームでは、オスマン・トルコの台頭以前の諸国(7〜16世紀)が、この時代に該当するだろう。
 ビザンツは、兵士に土地を与えることで、一種の小領主として地方に土着させ、これを特権的な軍人階級として地元の防衛に当たらせるという兵士保有地制を採用、国家は土着兵士の形成する地方軍団の連合体として構成されることになった。やがて貴族が地方で大領主へと成長し、没落した兵士達を従属させて私兵を抱え、割拠するようになったため、ビザンツは貴族の連合政治体制に移行する。このように途中で体制変化があったにせよ、特別な階級が軍事力と地方支配の担い手となり、社会が割拠状態に陥るという時代の特徴を有している点については前後で変わりはない。その後西のヨーロッパ世界が商業発展とともに勢力を強め、しだいにビザンツ帝国を圧迫、ビザンツは急速に力を失い解体していく。そのためビザンツ帝国が次の時代を切り開くことはできなかった。そして形骸化したビザンツに、東から台頭したオスマン・トルコが、とどめを刺すことになる。
 イスラームを掲げるアラブ人の征服は、各地に軍営都市を築いて、全国的な連絡網をつくる形で展開したが、軍営都市に移住した兵士一家の消費が、商業流通に対する大きな刺激となった。そのためイスラーム世界は、商業流通の衰退と社会の分裂へと向かう時代の流れを押しとどめ、広大な領域全土に渡り、古代以来の活発な商業流通を維持することに成功する。この結果アラブ人社会は、その初期において、古代の大帝国に準ずる発展経過をたどることになり、イスラーム世界は強力な大帝国の下、統一的に支配されることになる(7〜9世紀)。まずウマイヤ朝の支配者アブド・アルマリクが、イスラーム世界の内紛を克服するとともに、大領域を統一支配するにふさわしい組織形成を推進、イスラームによる統一帝国の基礎を固める。だがアラブ人が特権を享受するウマイヤ朝に対しては、被征服民の不満も強かった。そこに名門アッバース家に使える謀将アブー・ムスリムが革命運動を組織、反政府勢力を束ねて、ウマイヤ朝を打倒する。そして主家からアブー・アルアッバースを立て、アッバース朝が成立、その後、第五代ハールーン・アッラシードの時にアッバース朝は最盛期を迎える。
 このようにイスラーム世界は、その初期において古代帝国に準ずる国家発展を見せるが、長く時代の流れに逆らい続けることは難しく、イスラーム世界の統一的支配は一時的な現象に終わった。商業流通も、おそらく勢いを失いつつあり、統一国家を支えるほどの力を長く維持することはできなかった。この後のイスラーム史を見渡すと、諸国の対立や民衆からの攻撃、あるいは政策的な不遇によって、容易く当該地域の商業路が衰退したり商人勢力が没落するのが見られる。また、商業が盛んとされる地域ですら商業収入で軍事費を賄う体制を放棄するに至っている。これらは名高いイスラームの商業が、一時の活性化に成功した最初期を除いては、一見活発ではあっても実は底力を欠いており、やはり商業の衰退という時代の特徴の例外ではなかったということを、示していると言えないだろうか。イスラーム圏の商業活動は、一度活性化した余波の分、そして東西交通の結節点にあるおかげで奢侈品の中継貿易が活発な分、さらに乾燥した気候のために遊牧民が多く暮らし日用品を都市に頼っている分、他の文明圏よりは活発であったろうが、それでも時代の趨勢として衰退傾向にはあり、結果、イスラーム圏内を統合しておく程の力までは残らなかったのであろう。そして征服地に広まったアラブ人は現地に根ざして、急速に統一意識を喪失、政府の統制を離脱していった。こうしてイスラーム帝国は急速に分裂状態へと向かい出し、最盛期に達してからほとんど時を置かず、各地の有力者が独立を始めた。そしてこれ以後、社会が幾つもの国家に分裂して抗争混乱する中で、マムルークという主にトルコ人からなる異民族傭兵が台頭、軍事面で政権を支えたが、しだいに政治の主導権をも握るようになっていく。ただ、マムルーク達は各国内で軍閥を形成し相争うことも多く、彼らが政治指導者になったことは、社会の混乱をさらに深刻化させる方向に作用したと言える。そのため、比較的広大な領域の制圧に成功したセルジュク・トルコでさえ、その支配力は脆弱で、たちまち解体していくことになった。
 ところで、統一が失われて以降、社会混乱の影響で益々勢いを失った商業からは、割拠状態を生き抜くに足る軍事力を養うほどには、収入が得られず、結果、兵士の俸給として土地の徴税権を与えるというイクター制が採用され、しだいにこれが諸国へと普及していく。これ以降のイスラーム社会では、この制度を通じて、兵士達が農村に強欲な暴君として君臨し、富や土地を収奪するようになっていった。この後、イスラーム世界は、王朝の興亡にかかわらず、ほぼ一貫して、土着した兵士を通じて軍隊編成と地方支配を維持する体制を、続けていくことになる。
 以上のように、古代に準ずる状態にあった初頭の統一期という例外を除けば、イスラーム世界にも、商業活動の衰退、異民族の浸透と社会の分裂、特権的な軍人階級といったこの時代の特徴が現れているのである。


<近世>
 ビザンツ帝国の没落の陰で、ヨーロッパとイスラームは成長を遂げ、新たな時代を切り開いていった。この時代はヨーロッパについては本論で触れたので、ここではイスラームについて記述する。
 イスラームでこの時代に相当するのは、略奪を生業とする戦士団を脱して国家組織を形成して以降、盛衰を経て近代化に取り組む以前のオスマン・トルコであろう(14〜19世紀)。オスマン・トルコでは、イスラームやビザンツの長年の慣習の影響を受け、土着戦士を通じて軍事力と地方統治を支える制度が広く採用されていた。だがその一方で、イスラーム社会にしがらみのないバルカン半島のキリスト教徒を雇い、これを君主に忠実な常備軍や官僚とすることで、国家の中核に、旧来の制度と大きく異なる強固な軍事組織と政治組織が形成されていた。これによってオスマン・トルコは、小アジアとバルカンを基盤に強力な中央集権国家を確立する。こうしてオスマン・トルコは、国家組織の発展の点で立ち後れた他のイスラーム地域に勝る強大な力を手にし、やがてメソポタミアやアラビア半島、北アフリカをも緩やかながら服属させ、イスラーム世界の覇権を握る巨大な帝国へと成長することになる。このようなオスマン・トルコの発展は、傭兵軍を駆使する中央集権国家が征服を行うという時代の特徴と一致するものと言える。
 ところでオスマン・トルコの中央集権化は中継貿易による収入を財源に行われたとされる。確かに、オスマン・トルコの台頭した時期のイスラーム圏における社会内部の経済発展の状況が、それ以前と比べて優っていて、新たな財源を生んだのだとは考えられない。そもそも乾燥のせいで砂漠等の不毛な土地が多く、農耕の適地が一部に限られたイスラーム圏においては、古代において既に生産力の拡大は限界に達しており、以後、前近代の技術によって、それ以上の経済発展をする余地はほぼ無く、常備軍を養い中央集権国家を支えるほどの経済力と強力な商業流通が、内部から自生的に発達する可能性は低いと見るべきなのである。だが、東西の中継貿易の利益であれば、オスマン・トルコ以外の同時期の、そしてオスマン・トルコ以前のイスラーム諸国も享受している。にもかかわらずなぜ、オスマン・トルコだけが、部分的なものとはいえ、素早く中央集権化政策を実施し覇権を握ることができたのだろうか。この理由について、本稿では、東西の経済発展の波及と、オスマン・トルコが新興国であったことに求めたい。オスマン・トルコ建国の頃までに、西と東でヨーロッパとインドが経済的・商業的に勢いを強めており、この波及効果が狭間にあるイスラーム圏に及んで、中継貿易の利益による国庫収入を押し上げ、これがそれ以前の支配体制と異なる中央集権体制を支える豊かな財政基盤を生み出した。そして新興国であったオスマン・トルコは、建国初期のしがらみの少ない時期に、旧時代の思考的束縛や旧勢力の抵抗を受けることなく、強力な国家組織を速やかに他国に先駆け形成することができた。このように考えるのである。この頃、ヨーロッパが経済的に大いに発展して、イタリア商人が地中海に活発な交易活動を展開したことは有名であるし、インドについては、少し後の話ではあるが、オスマン・トルコと争ったイランのサファヴィー朝の首都が、インド商人無しには成り立たないほどであったことが、中東にまで影響を及ぼす強い経済力の証拠となるであろう。なお、中央集権化が部分的なものに留まり、旧来の制度の影響が広範囲で強く残っているのは、国家発展に国内の地道な経済発展が伴っておらず、常備軍や官僚制の拡大が一定以上続けられなかったためであろう。



おわりに
 かなり無茶な論を積み重ねてしまった気もしますが、強引なくらいに知識を整理してしまった方が、記憶や理解には有益だと思いますし、そもそも概説や比較とは強引なものですので、色々問題もあるでしょうが、割り切って見逃してもらえると嬉しいです。


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