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『明史』 袁崇煥伝  My


袁崇煥伝(付、毛文龍伝)
 袁崇煥、字は元素、東莞の人である。万暦四十七年に科挙に合格した。邵武の知県の地位を与えられた。人となりは激情家で、度胸と知略に秀で、軍事を論ずることを好んだ。老齢の将校が退役する際に、共に要塞付近の問題について論じ、要塞の情勢を悟って、以後、辺境防衛の才があると自負していた。
 天啓二年一月皇帝に拝謁して都に滞在していたが、御史の侯恂は彼に破格の登用を行い、兵部職方主事に抜擢された。間もなくして、広寧の軍が壊滅し、朝廷は山海関の防衛を議論していたが、崇煥は即座に単騎で関の内外の状況の調査に出かけた。部では袁主事の姿を見えないので、彼に迎えを出したが、家人にもその所在を知るものはいなかった。朝廷に帰還して、関の近辺の情勢について意見を具申した。「私に軍と騎馬、資金および糧食を与えて頂ければ、私一人で十分防衛は可能です」と言った。朝廷の人々はますます彼の才能を称賛し、飛び抜けた抜擢で僉事として、関外の軍の監督を委ねるとともに、金庫を開いて金二十万を与え、兵士の募集を行わせた。哈刺慎の力で関外の地域は全て北方の諸部族の制圧するところとなっており、崇煥は関内に駐屯して防衛に当たることになった。幾ばくもない内に、諸部族は和平を受け入れたので、経略の王在晋は、崇煥を移動して中前所に赴任させ、参将の周守廉と遊撃の左輔の軍の監督および、前屯衛の事務処理を、担当させた。ついで前屯に赴いて、遼人の失業者を鎮圧することが命じられた。崇煥は未開の蛮族中を夜間に通過して、すぐさま四の刻の太鼓と共に入城し、将士でその度胸のすばらしさを評価しない者は無かった。在晋は彼を大いに信任し、特別に抜擢して寧前の兵備僉事とした。しかし崇煥は優れた軍略を持たない在晋を軽んじていたため、その命令にはあまり従わなかった。在晋が八里鋪に第二の城を建築するよう提議した時には、崇煥は何も献策しなかった。争いが収まらないので、首輔の葉向高に対して上申が行われた。
 十三山の住民十数万人は、長らく苦難を被り続けていた。大学士の孫承宗が辺境を訪れたところ、崇煥は請願して「今まさに五千人を寧遠に駐屯させようとしていますが、これを十三山の軍勢の支援に使用するとともに、さらに勇将を派遣して救出を行うべきです。寧遠は山から二百里も離れていることから言って、錦州まで拠点を推し進めるのが適切であって、寧遠まで防衛拠点を後退させてはなりません。どうして十万もの人々を無視したままなのですか」と言った。承宗は総督の王象乾に相談した。象乾は関の軍勢は士気喪失しているため、挿にいる関を支援するための部隊三千人を派遣することを提案した。承宗はこれを承認し、在晋に命令した。在晋が救出できなかったため、民衆は力尽き、脱出して来た者は僅かに六千人であった。この結果、承宗は巨大な城の提議を非難し、将校と官吏を集めて防衛の問題を相談した。閻鳴泰は覚華を根拠地とすることを、崇煥は寧遠を根拠地とすることを、在晋および張応吾、邪慎言は防衛は不可能であることを主張したが、承宗は結局、崇煥の主張を最も高く評価した。承宗は、関門を鎮めてからは、ますます崇煥を頼りとするようになった。崇煥は内に対しては兵士と人民を安心させ、外に対しては辺境防備を整え、功績は著しかった。崇煥はかつて弱体な伍を調べ上げて、直ちに一人の将校を斬り殺した。承宗は怒って、「監軍が好き勝手に殺人してよいものだろうか」と言い、崇煥は頭を地につけて謝罪したが、その激しい性格は刑罰に関してはこの様な有様であった。
 三年九月、承宗は寧遠の防衛を決定した。僉事の万有孚と劉詔は激しく抵抗して、命令を聞かないため、満桂と崇煥に命令を与えて派遣した。はじめは、承宗は祖大寿に寧遠城を建築させていたが、大寿は朝廷の中に居て遠方の国境を守ることができず、建築できたのは僅かに十分の一、しかも粗雑で脆弱な造りは規定を満たしていなかった。ここで崇煥は規則を定め、城壁の高さ三丈二尺、城壁上の垣の高さは六尺、城壁の基礎の幅が三丈、城壁上部の幅が二丈四尺とした。大寿と参将の高見、賀謙が作業を分担して監督した。翌年まで工事をつづけて、ようやく関外の重要な鎮が完成した。桂は良将であるし、さらに崇煥も勤務して、城と生死をともにすることを誓っていたため、将士は喜んで任務に尽力した。その結果、商人の行き来は活発となり、流民が多数集い、楽土として周辺一帯から仰ぎ見られることになった。父の喪にあったが、私情を抑えて任務に当たった。四年九月、大将の馬世龍と王世欽が、水陸の軍勢、騎兵歩兵合わせて二万を率いて、広寧において東方への巡行を行ったが、北鎮祠を拝んで、十三山を経由し、右屯から三岔河を通って帰還した。この際五カ所の防御拠点を訪ねて、功労に対する叙任を行ったため、兵備副使への昇進と、さらに右参政への昇進が行われた。
 崇煥はこの東方への巡行が行われると、錦州と右屯の諸城をすぐさま奪回するよう請願したが、承宗は未だ好機ではないとし、これを制止した。五年夏になって、承宗は崇煥とともに計画を立て、将を派遣して錦州、松山、杏山、右屯および大小の凌河を分担して占拠させるとともに、城郭を修繕してそこに駐屯させた。これ以後、寧遠は内地と化したが、領土を回復して広げること二百里に及んでいた。十月、承宗が退任して、代わりに高第がやって来たが、関外を防衛する必要はないとして、錦、右の諸城の防衛設備をことごとく撤廃し、将士も関内に移動させることを命令した。屯を監督する通判の金啓倧が崇煥に上書して言うには「錦、右、大凌の三城はみな前線の重要拠点です。もし部隊を回収して撤退するならば、これまでここに安住していた民衆はまた移住することになり、ここに得た領土は荒廃してしまい、関の内外は幾度もの防衛戦に耐えねばならないでしょう」とのことであったが、崇煥もまたこれに反対して諫言し、「兵法に乗っ取れば進むべきであって引くべきではありません。せっかく三城を回復したのに、どうして軽々しく撤収などできましょう。錦、右の動揺は、即座に寧、前を驚愕動揺させ、関門もまた無事では無くなるでしょう。今は為すべきことは良将を選びこれを守る以外にはなく、他の方策などあり得ません」と言った。第の意志は堅く、さらには寧、前の二城からの撤兵までも求めた。 崇煥は「我が寧前道よ、私はここを任地に、ここで死に、決して退去はせぬ」と言った。第はこれについて気にすることなど無く、錦州、右屯、大小の凌河および松山、杏山、塔山の防御設備をことごとく撤収し、駐屯兵をことごとく関内に駆り立て、放棄した穀物は十数万に上った。死者が途上に積み重なり、鳴き声は野を震わせ、民衆の怨嗟が募る一方、軍は益々不振に陥った。崇煥は服喪期間が終わるまで故郷に戻ることはなかった。十二月に按察使に昇進したものの、任務に当たる態度は同様であったからである。
 我が大清国は経略が与しやすい相手であることを知り、六年一月、大軍でもって遼河を西へと渡った。二十三日に寧遠に到着した。崇煥はこれを聞いて、すぐさま大将の桂と副将の左輔、朱梅、参将の大寿、守備の何可剛らを集め、将士は死守することを誓った。崇煥は血を採って書を記し、忠義心から奮い立って、それを伏し拝んだが、将士もみな命を捨てることを申し出た。その後、城外の民家を焼き尽くしてから防御設備を携えて入城し、城外を整理した状態で敵軍を待った。同知の程維楧に軍紀違反を取り調べさせ、通判の啓倧に兵士の食料および遠方の街道上の通行人を護衛させた。前屯の守将の趙率教、山海の守将の楊麒に回状を発して、将兵で逃亡した者を全て斬り殺させ、ようやく人心は安定した。翌日、大軍が進攻して、盾を頭上に掲げつつ城に対して坑道を掘り、矢や石では退却させることができなかった。崇煥は閩の兵士である羅立に命じて、西洋の巨砲を発射させ、城外の軍に損害を与えた。翌日、再び攻撃があったが、これも退却させられ、遂に包囲は解けたものの、啓倧もまたこのような中で砲撃で死亡した。
 啓倧は下級官吏として身を起こし、様々な役目に就いて、主に巧妙な事務処理で賞賛され、その仕事ぶりは機転が利くとともに志に大きなものがあった。承宗は彼を重用して通判とし、兵士や軍馬、金銭や食料についての調査、城の工事の監督、軍民の訴訟の裁判を行わせたが、大いに人々の信頼を得た。死に際しては、光禄少卿の位を贈られ、世襲の報酬として錦衣が百戸分与えられた。
 最初、朝廷では非常の知らせを受けて、兵部尚書の王永光が廷臣を大々的に召集し、防衛戦について討議したものの、良い策は存在しなかった。経略の第と総兵の麒はともに兵を関付近に擁していたが、救援を行わなかった。崇煥の戦果が書簡で報告されると、朝廷全体で大いに喜び、崇煥を右僉都御史に抜擢し、詔書を下して誉め励ましたが、これは桂たちの昇進とは差が有った。
 我が大清国は攻囲を解くとまず、数万の兵を分散して覚華島の攻略を行い、参将の金冠たちと軍民数万を殺害した。崇煥はその時城の防衛を達成したばかりで、力尽きており救援することはできなかった。高第は関門に留まって、承宗の政務に大いに反抗し、諸将を辱めたため、諸将はみな団結を失っていた。麒を副将のように扱ったため、麒はその兵卒にまで侮られるようになっていた。ここでさらに無為に過ごして救援に失敗したため、第と麒は共に官位を剥奪され退去し、以後、王之臣が第に、趙率教が麒に取って代わることになった。
 我が大清国は挙兵以来、向かうところ粉砕できない者はなく、諸将は憂える余り防衛戦を議論しようとしなかった。防衛戦の議論は、崇煥によって始まった。三月、再び遼東に巡撫を設置し、崇煥をこれに任命した。魏忠賢は自分の党派の劉応坤や紀用たちを派遣して、鎮から出撃させた。崇煥は抗議の上奏を行って諫言を呈したが、これは聞き入れられなかった。功績に対して官位を授け、兵部右侍郎の地位が加えられ、銀貨と世襲の報酬の錦衣が百戸分与えられた。
 崇煥は攻囲を解くことに成功すると、心映えが次第に驕慢となり、桂と不仲になり、彼を他の鎮へと移動させるよう請願し、そのせいで桂は召還された。崇煥は之臣が桂を留任するよう奏上したことで、今度は彼とも不仲となった。朝廷は事態が破局することを恐れ、之臣に専ら関内を監督するよう命じ、関外を崇煥の担当として関の防御と区別することにした。崇煥は廷臣達が自分を忌み嫌っていることを恐れ、上奏して言うには「陛下は関の内外の責任を二人の臣下に分属させ、遼の住人を遼の土地の防衛に用いるに際して、一方で守勢を取り他方で攻勢を取り、また一方で築城を行って進出し他方で駐屯地で待機させておられます。ところでここにおいては、待機部隊の駐屯地に対しては、海上支援を徐々に減らしていく必要があります。そもそも大要塞や堅固な城壁、整理された城外の土地は防衛戦の本体であり、隙に乗じ過失を衝くのはその作用ということとなります。すなわち戦力というものは、攻勢に不足する場合でも、守勢には余裕があるものなのですが、守勢にはとうの昔に余裕が生じているのであって、攻勢にも不足が無いようにできるはずです。敵の勇猛な攻囲を考慮しますと、彼らは必ず再戦に出てきますが、ここで奮闘して功を立てれば、必ず人々の忌避を招くものでありましょう。ですが罪を負ってはじめて功績を立てることができるのです。怨恨が深く無いということは、功労も大したこと無いのであって、罪が小さい者に功を成すことはできません。箱を満たすほどの誹謗の書があろうと、天に届くほどの誹謗の言があろうと、それは古来よりの習いであって、ただ聖明なる知恵と徳を持つ陛下のみは廷臣が終始かかる功業に邁進するのを許してくださるでしょう」とのことであった。帝は優れた考えであるとして、賞賛の言葉を返答した。
 その冬、崇煥は応坤、用、率教とともに錦州を巡歴し、屯田を大規模に興すことを議論し、しばらくして第が放棄した旧領土を回復した。忠賢と応坤たちは、これにより、そろって世襲の報酬として錦衣を与えられ、崇煥も世襲の報酬を加増されるとともに指揮僉事となった。崇煥はすぐさま「遼左の壊滅的な状況の中で、人心は不安定になっておりますが、地形上の要害を失うようなことは、人心の安定さえ確保できれば、あり得ません。戦いは野戦が不利であるので、堅城に拠って大砲の作戦を用いるよう求めます。今、山海の四城は既に改良が済んでいますが、さらに松山の諸城を補修するに当たっては、四万人の軍が全て、一人の不足もなく必要です」と言った。帝はこれに従う旨返答した。
 これより以前、八月中に、我が清国の太祖高皇帝が崩御し、崇煥は使者を派遣して弔問し、その真偽を観察した。我が清国の太宗文皇帝がこれに返礼の使者を派遣したところ、崇煥は講話を求め、使者に書簡を持たせて帰還させた。我が大清国の軍はちょうど朝鮮を討伐しようとしており、彼の軍の動きを封じることを望んでいたところ、南下に専念することができた。七年一月、再び使者の派遣と返答が為され、すぐさま大挙して軍は鴨緑江渡河し南方を征討した。朝廷の会議は崇煥に之臣を補佐させるのは不可能と判断して、之臣を召還、経略を免職して設置しないこととし、以後、関の内外ともに崇煥に担当させ、鎮守中官の応坤と用の両者に、現場の判断によって事態の処理に当たらせた。崇煥は鋭意恢復し、大軍が出征している間に、将を派遣して錦州、中左、大凌の三城を修繕するとともに、再度使者に書簡を持たせて講話を提案した。朝鮮と毛文龍がともに危機を報告したのを受けて、朝廷は崇煥に出兵して救援するよう命じた。そこで崇煥は水軍で毛文龍を支援すると共に、左輔、趙率教、朱梅など九人の将に精兵九千を率いさせ、順次、三岔河に向かわせ、敵勢を牽制させたが、朝鮮は大清国の屈服することになり、諸将は帰還した。
 崇煥は最初、朝廷が知らない間に、講話を交渉していた。その後奏上と返答が行われ、良い意見であるとして許可するとともに、以後は相談無しに事を進めぬよう、何度も戒め諭された。崇煥はこれによって、戦力を回復し、かつての領土を再建しようと考えていた。ところが朝鮮と文龍が攻撃を受けたため、当局に報告し、講話交渉を行っていたこと知らせることになったのである。四月、崇煥が上奏して言うには「関外の四城の展開する地域は二百里もの距離に及んでいますが、北は山を負い、南は海に阻まれ、幅は四十里にすぎません。今、駐屯兵六万人、商人や民衆は数十万人、土地は狭く人口は多く、どうして食料を得ることができるでしょうか。錦州、中左、大凌の三城の修復を止めてはなりません。すでに商人や民衆は移住させ、駐屯部隊は広く展開しております。もし城が万全でない状態で敵が襲来すれば、軍勢は撤退することになり、これではこれまでの成功を放棄することになります。そこで敵が江の東に有るのを利用し、当面の間、和平によって敵の進攻を抑えましょう。敵は、その間に三城が万全になり、防衛戦が関門より四百里も離れた、堅固な城で行われるようになったことを、知ることになるでしょう」とのことであった。帝は優れた趣旨であるとして、受諾を返答した。
 率教は錦州に滞在していた時、城壁の建築を護衛していた。朝廷は尤世禄に交代して赴任するよう命じ、また輔を前鋒の総兵官とし、大凌河に赴任させた。世禄が未だ到着せず、輔も未だ大凌に到着していない、五月十一日、大清国の軍は素早く錦州に現れて、四方から包囲を行った。率教と中官の用は城周囲に防備を整える一方、使者を派遣して和平を交渉し、敵の攻撃を遅らせて救援がくるのを待とうとした。使者を三度遣り取りしたが決着せず、攻囲は益々厳しくなった。崇煥は寧遠の軍を動かすことができないので、精鋭騎兵四千を選抜して、世禄、大寿に率いさせ、大軍が整ってのち決戦するよう命じた。この他、水軍を東進させ、相互に連携させた。さらに薊鎮、宣、大の軍が東進して関門を防護するよう申請した。朝廷はそのときまでに山海の満桂に前屯へ、三屯の孫祖寿を山海へ、宣府の黒雲龍を一片石へ、薊遼の総督である閻鳴泰を関の城内へと移動させており、また昌平、天津、保定の軍に関の付近に赴くよう指令を発し、さらに山西、河南、山東を守る臣下たちに軍備を整え調査を待つよう回状を出した。世禄ら武将達は進軍したところ、大清国は二十八日には軍を寧遠へと赴かせていた。崇煥と中官の応坤、副使の畢自粛は将士が城壁上に上って垣を守るのを督戦し、濠の内側に陣地を連ね、大砲の射撃を使用した。一方、桂、世禄、大寿は城外で大決戦を行い、多くの兵士が死ぬとともに、桂自身も多くの矢を受けた。大軍は撤退して去り、錦州への攻囲はその力を増した。湿度と熱気を克服できず、士卒の多数を損耗し、六月五日再び撤退することになったが、その際、大小凌河の二城を破壊した。この時、錦、寧における大勝利において、桂、率教の功績が大きいと賞賛された。忠賢がその一味に、崇煥が気後れして錦州を救援しなかったと主張させたので、崇煥は退職を願い出た。朝廷の内外は競って忠賢を賞賛し、崇煥もまたやむを得ず祠の建立を申請したが、終始喜びを示さなかった。七月、彼の帰郷を許し、代わって王之臣が督帥と遼東の巡撫を兼ね、寧遠に滞在した。功績に対する叙任が行われ、文武官で俸給の加増を受けあるいは世襲の俸給を賜った者は数百人に上り、忠賢の孫まで伯に封ぜられたが、崇煥は俸給を一段増加したに留まった。尚書の霍維華は納得せず、上奏して世襲の俸給を譲渡することを願ったが、忠賢は許可しなかった。
 幾ばくもしない内に、熹宗が崩御した。荘烈帝が即位し、忠賢は誅殺され、不当に認められた功績は削除された。廷臣は競って崇煥を召し出すよう申請し、その年の十一月右都御史に抜擢され、兵部を指揮し、左待郎の事務も担当することになった。崇禎元年四月兵部尚書と右副都御史、薊遼の督帥を兼ね、登、萊、天津の軍務を監督し、首都へ続く街道の交通に対する取り締まりと促進を司ることになった。七月、崇煥は都に上り、まず軍事について奏上した。帝は台座に召して、大いに慰労し、戦略について尋ねた。答えて言うに、「戦略は上奏した中にございます。臣は陛下の特別の恩顧によって、適切に処置を取ること許していただければ、五年の内に遼の全土を回復いたします」とのことであった。帝は「遼を回復したあかつきには、朕も報償を惜しまず諸侯に封じよう。卿が国家転覆の恐れを取り除けば、卿の子孫もまたその報償を得るであろう。」と言った。崇煥は地に頭を着けて感謝した。帝がしばらく休憩に退出している時、給事中の許誉卿は五年の戦略について問いただした。」崇煥は「陛下の御心はお疲れであり、これによって少しばかりお耳を慰めて差し上げた」と言った。誉卿は「お上は英明であらせられるのに、どうしていい加減な対応をして良いことがあろうか。他日、期日を問いただし結果を求められば、どうするつもりか」と言った。崇煥は失意の余り呆然としていた。ここで帝が現れたので、すぐさま奏上し、「東方の事態はもとより容易に成し遂げられることではありません。陛下が既に臣にお任せくださいました以上、難局に当たるのを辞退するようなことはございません。しかし五年内というのは、戸部が軍の糧食を運び込み、工部が器械を供給し、兵部が兵員を調達し武将を選び抜き、朝廷の内外のあらゆる事業を相応しい態勢に整えて、ようやく達成可能となるものであります」と言った。帝は四部の臣下達を、この進言のようにするよう、戒めた。
 崇煥はまた「遼の全土の制圧は、臣の手には余るほどの大事業であり、徴兵すべき人口も足りてはおりません。しかも、ひとたび国都の門を出てしまえば、便りを為すにも万里の道を越えねばなりません。そこにつけ込む、有能を忌避し功績を嫉妬する輩が、いないはずがありません。もし権力で臣下を押さえ込まねば、不忠の臣下達の謀議した意見を通してしまうでしょう」と言った。帝は立ち上がって聴いていたが、彼に諭して「卿は、朕が支持していることを、疑う必要はない」と言った。大学士の劉鴻訓らは之臣と桂を召還し、天子の剣を貸し与えて、崇煥に適当な処置をとる権限を委ねることを請願した。帝はこれを完全に聞き入れると、崇煥に酒食を与えて退出した。崇煥はこれ以前、熊廷弼および孫承宗に、人となりが、構えて他人とうち解けないとされていたが、ここで納得せず、さらに上奏し「国土回復の方策とは、臣がかつて唱えた、遼の住民によって遼の土地を守り、遼の土地によって遼の住民を養い、正々堂々たる守備を固め、機略による攻撃を駆使し、広く和平を模索することに他なりません。急がず徐々に、虚勢を張らず実力を蓄えることこそ、大原則です。これは臣とそのほかの辺境の臣下達が良く行ってきたことであります。そして、人が人を使いこなすことと、人が人の役に立つことは、全てその要となる最重要事項です。ここで、いかなる者が、任せて期待に背かず、信じて裏切らないのでしょうか。思うに、辺境の臣下を使いこなすことと宮廷の臣下を使いこなすことは異なり、軍中では、疑わねばならない者が驚くほど多いのですが、その一方で、正しい判断とは大局的な処分を下すことであって、一言一句の些細な過ちを一々取りあげるような必要はありません。重大な事業を委ねた後は、それに対する怨念も実に多くなります。国境におけるあらゆる有利な戦果ですら、この身にとっては不利となるものです。まして敵の引き起こした危難や、敵が服従しつつ隙を窺うような事態は、辺境の臣下にとって甚だしい不利となります。もちろん陛下が臣を愛顧され、また臣をよくご存じである以上、臣が疑いや恐れを過剰に抱く必要など、どこにもございませんが、ただ危険が潜んでいることを、告げずに放置するわけにはいかなかったまでです」と言った。帝は気遣って彼に詔書で返答し、天子の宝玉と、銀貨を与えたが、宝玉は辞退の旨上奏し受け取らなかった。
 この月に、川、湖の兵で寧遠の守備についている者は、食糧不足から大騒動を起こし、十三の営がこれに呼応して決起、巡撫の畢自粛、総兵官の朱梅、通判の張世栄、推官の蘇涵淳を、城門の上の物見櫓に捕縛してしまった。自粛は重傷であったが、兵備副使の郭広は到着すると、身をもって自粛をかばい、鎮圧と懐柔に当たっては、珍宝や二万金を消費し、さらに商人その他の住民から借りた五万を加えて、ようやく事態は解決に向かった。自粛は罪を引き受ける旨を上奏し、中左所に赴いて、自ら首をくくって死んだ。崇煥は八月初めに関に到着したところで、事変を聞いて急行し、広と計略を立てて、首謀者の楊正朝と張思順を許し、十五人を捕らえさせ、その者達を市において死刑に処し、謀略を知っていた中軍の呉国琦を斬り殺し、参将の彭簪古を叱責し、都司の左良玉ら四名を罷免した。 さらに命令して正朝と思順には前鋒において功を立てさせることとし、世栄と涵淳は、貪欲で残酷な性格が事変を引き起こしたとして、これを排斥した。都司の程大楽は営の中でただ一人事変に参加しなかったので、特別に誉めて励ました。こうして万事落ち着いた。
 関の外では大将が四、五人もいたので、足を引っ張り合うことが多かった。後に二人と定めて、梅に寧遠を守らせ、大寿を錦州に配置していた。ところがここで梅が解任されたので、崇煥は寧と錦を合わせて一つの鎮し、中軍副将の何可剛に都督僉事の職務を加えて、梅に代わって寧遠に赴任させるとともに、関門にいる率教を薊鎮へと移動させ、関の内外を二大将が担当する体制を、廃止するよう申請した。三人の才能を極めて高く評価していたため、「臣は五年前より、専らこの三人に頼っており、彼らは臣と全てを共にする関係です。功業を立て損なう時が来れば、臣自ら三人を死刑に処し、臣自身も敗北の責任を負って死にましょう」と言った。帝はこれを許可し、崇煥も寧遠の守備に留まった。自粛が死んだので、崇煥は巡撫を定めるよう申請した。登と萊の巡撫の孫国楨が罷免された時には、崇煥はこれを空席のまま放置しないよう申請した。帝はまた許可する旨を返答した。哈刺慎三十六家はかつては懐柔を受け入れていたものの、その後、挿漢を脅かすようになり、この時は不作のために、侵略しようとしていた。崇煥は辺境に招いて、親しくいたわり、これによって皆服従することになった。二年閏四月春と秋の防衛の功績に対する叙任が行われ、太子太保の地位を加えるとともに、天子の衣服と銀貨、世襲の俸給として錦衣千戸分を賜った。
 崇煥は任務を受けるとまず、毛文龍を処刑することを望んだ。文龍は仁和の人である。都司として朝鮮を救援し、そのまま遼東に留まっていた。遼東が失陥したので、海路脱出し、大清国が鎮江に置いた守将を虚をついて殺して、巡撫の王化貞に報告したが、経略の熊廷弼には報告に及ばなかったので、この両人に不和が生じていた。彼を登用した主人は化貞で、皮島を国内と同様に安定させるため軍を設置すると、文龍に、総兵の地位を授け、さらに左都督の地位を加え、将軍の印と、天子の剣を与えることにした。皮島はまた東江とも言って、登、萊の大海中、八十里の距離にあり、草木は生えず、北岸が近く、南岸が遠く、北岸から海路八十里で大清国の国境に至り、その東北海上すぐのところにあるのが朝鮮である。島に配置された兵は河東の民であるが、天啓元年に河東が失われて以来、民の多くが島中に逃れていたのである。文龍はその民を言いくるめて兵とし、哨戒の船舶を派遣して、登州と連携して、前後からの挟撃態勢をとった。中国はこのようにして、以後、島を支配することになった。
 四年五月、文龍は将を鴨緑江沿いに長白山を越えて派遣、大清国の東の辺境を侵略して、守将を撃破し、民衆を皆殺しにした。八月、軍を派遣し、義州城より西で渡江させ、島の中の屯田に進入した。大清国の守将の覚は、身を潜めて襲撃し、五百余りの首級を斬り、島中の食料をことごとく焼き尽くした。五年六月、軍を派遣して耀州の官屯寨を襲ったが、敗北して帰還した。六年五月、軍を派遣して鞍山駅を襲い、千余りの兵卒を喪失した。数日後また軍を派遣して撤爾河を襲い、南進して攻城し、大清国の守将は撤退することになった。七年一月、大清国の軍は朝鮮へ遠征し、それとともに文龍を滅ぼそうとした。三月、大清国の軍は義州を破ると、軍を分けて文龍を鉄山で夜襲した。文龍は敗北し、島中へと逃げ帰った。大清国は文龍を憎んでいたので追撃し、文龍に助成して戦争を仕掛けたという理由で、朝鮮を討伐した。
 文龍が東江に滞在している効果を計算すると、形勢は牽制として十分なものだが、人物を見ればそもそも優れた知略など無く、そのため遠征しても敗北し、一方で毎年軍資金を数え切れないほど横領し、その上広く商人を招いて、禁制物の取引にはげみ、朝鮮を救援するという名目で、勝手に要塞から出兵し、何事もなければ商売に励み、実際に事ある時にはほとんど役に立たなかった。工科給事中の潘士聞は文龍が軍資金を横領し降参した者を殺害していると告発し、宝卿の董茂忠は文龍を撤退させ、兵を関と寧に収めることを請願した。兵部の決定ではこれを認めなかったが、崇煥はこれを好ましくないと考え、上奏し、部の役人を派遣させて軍資金を検査させようとした。文龍は文官による監察と抑制を受けることを好まず、対抗して上奏し、これに反論、崇煥は不快に感じていた。その上、文龍が面会に現れ、賓客待遇で接したにもかかわらずへりくだらなかったので、崇煥はいよいよ処分を考えるようになった。
 この頃、さらに閲兵の名目で、海路で双島へと出かけ、文龍も到来して合流した。崇煥は彼と共に、酒盛りを行い、夜中まで大いに飲んだところ、文龍は酔いつぶれてしまった。崇煥は営の体制について議論し、監司を設置することにしたが、文龍は心中怒りを覚えた。崇煥が帰郷して去ると、文龍は「以前から、自分だけで東方を指揮することになれば、東方の事態に決着をつけ、朝鮮の衰弱を好機として攻め込もうと思っていた」と言った。崇煥ますます不快に感じた。六月五日、文龍に将士の射撃訓練を観覧するよう回状を出し、前もって山上に陣屋を設置し、参将の謝尚政に武装した兵士を陣屋の外に潜ませるよう命じた。文龍が到着したが、その部下の兵卒は立ち入りができなかった。崇煥は「私は朝に行動を起こして出動してきただけなのに、公は海の向こうより苦労してやって来ているのだから、私の拝礼を受けて下さい」と言った。拝礼を交わし終わって、山に登った。崇煥は従ってきた官吏たちに姓名を尋ねたところ、毛姓が多かった。文龍は「これは皆、私の孫です」と言った。崇煥は笑って「諸君は海の向こうに苦労を重ねながら、月の俸給は米一石に留まっており、これに対しては心が痛むので、もう一度私の拝礼を受け、国家に尽力を続けて下さい」と言った。皆、地に頭を着けて感謝した。
 崇煥は文龍に数度の命令違反について詰問したが、文龍は反論した。崇煥は冠と衣服を取り上げ捕縛するよう命じたが、文龍はそれでも強情に抵抗を続けた。崇煥は「お前は斬刑に値する十二の罪があるが、このことを知っているか。祖国の法では、大将が外にある時は、必ず文官による監督が定められている。お前は専制を行って、兵馬や資金糧食について取り調べを受けておらず、これは斬刑に値する第一の罪である。人臣の罪で君主を欺くより大きなものは無いが、お前はことごとく虚偽の上奏を為し、降参した者や難民を殺したことを偽って功績に数えており、これは斬刑に値する第二の罪である。人臣に軍隊を自由にする権限はなく、軍隊を自由にすれば必ず誅殺される。お前は登州で馬を養うことを上奏しているが、これは南京を攻め取ろうとしているかのごとき職掌に反する発言で、道にもとる反逆行為であり、これこそ斬刑に値する第三の罪である。毎年の軍資金数十万を、兵士に支給せず、月に配布する米を三斗半あまりに留めて、軍の糧食を盗み取っているが、これは斬刑に値する第四の罪である。勝手に馬市を開催して、個人的に蛮族と通交しているが、これは斬刑に値する第五の罪である。部下の将校数千人をことごとく自分の一族で占有し、副将以下公文書を濫用する者は千に登り、兵卒や庶民を走り使いさせ、金や絹などの物資を使い尽くしているが、これは斬刑に値する第六の罪である。寧遠から帰還してからは、商船を掠奪して、自ら盗賊となっているが、これは斬刑に値する第七の罪である。民間の子女を強奪し、法を無視すること甚だしく、部下もまたこれをまね、人々は安心して家にいることもできないが、これは斬刑に値する第八の罪である。難民を遠くに駆り立て、盗賊を導き入れ、従わない者を餓死させて、島上が白骨で覆われるかのような有様であるが、これは斬刑に値する第九の罪である。都に金を運び込み、魏忠賢の機嫌をうかがって父として敬い、貴人の冠を着用した姿の像を島中に建立しているが、これは斬刑に値する第十の罪である。鉄山の敗北によって、数え切れないほどの軍勢を失いながら、敗北を隠蔽して功績を装っているが、これは斬刑に値する第十一の罪である。鎮を開設して八年、僅かな領土すら回復できず、敵が成長するのを傍観していたが、これは斬刑に値する第十二の罪である」と言った。数え終わると、文龍は意気消沈して物を言うこともできず、ただ頭を地にすりつけて、許しを乞うた。文龍は数年来の功労者であると言った者もいたが、崇煥はこれを叱って「文龍は一庶民でありながら、官位の階級を上り詰め、家は世襲の俸給で満ちあふれ、功労は十分に報いられているのに、どうしてこの様に道理にもとることが許されようか」と言った。そして地面まで頭を下げる礼を行いながら、請願し「臣は今、文龍を誅殺することで粛軍します。諸将の中にもし文龍のような者があれば、ことごとく誅殺します。臣が成功しなければ、天子様もまた文龍のような者を誅殺し、臣をも誅殺してください」と言った。こうして天子の剣を手に取って陣屋の前で彼を斬刑に処した。それから外に出てその将士に諭して「誅殺されるべきは文龍のみであり、残りの者は無罪である」と言った。
 この当時、文龍麾下の勇猛な将校と兵卒は数万人に登っていたが、崇煥の威信を恐れて、誰も動こうとしなかったので、文龍を棺に収めるよう命じた。翌日、生け贄を供えて礼拝し祭礼を行って、「昨日お前を斬ったのは、朝廷の尊い法によるもので、今お前を祭るのは、僚友としての私情である」と言い、涙を流した。彼の兵卒二万八千を四協に分け、文龍の子である承祚、副将の陳継盛、参将の徐敷奏、遊撃の劉興祚にこれを統率させた。文龍に与えられた天子の印と、天子の剣を回収すると、崇煥が代理として職務を掌握するよう命じられた。軍兵をねぎらうとともに、回状を送って諸島を安んじ、文龍の悪政をことごとく除去した。鎮に帰還して、現状を上奏し、その最後で「文龍は大将であって、臣が好き勝手に誅殺できるものではなく、刑場の藁の上で罪を受けるのを謹んでお待ちしております」と言った。時に崇禎二年五月のことであった。帝はこれを聞くや、大いに驚き、既に死んでいるのではないかと心配し、また崇煥を頼りにしていたため、気づかってお褒めの言葉を返された。急いで文龍の罪が明らかになった旨を伝えて諭し、崇煥を安心させた。彼の手先で都に潜伏していた者については、所司に捕縛を命じた。崇煥は上奏して「文龍は凡夫ですが、その不法をここで処置したことで、海外交易が混乱しています。その兵力は老幼合わせれば四万七千に登り、誇張して十万と称しており、また支配下の民も多く、兵力二万では対抗できませんし、無闇に設置された将校も一千人に登っています。今はここに指揮官を派遣するのではなく、継盛に代行させるのが、便宜となるでしょう」と言った。帝は許可すると知らせた。
 崇煥は文龍を誅殺したが、その部下が反乱するのを恐れて、軍資金を増額すること銀十八万に登った。ところが島では主将を失ったことを知って、しだいに心が離れていき、益々扱いにくくなっていったが、その後、反乱したり脱走する者が出るに至った。崇煥は「東江の鎮は、牽制のために必要です。今は、二つの協を、それぞれ騎兵軍十営、歩兵軍五とし、年間の軍需物資として銀四十二万、米十三万六千を支給すべきです」と言った。帝は兵を減らして軍需物資を増加するのを非常に怪しんだが、崇煥の請願であるので、特別にその通りにした。
 崇煥は遼において、率教、大寿、可剛とともに兵制を定め、しだいに登、萊、天津へと及ぼすとともに、東江の兵制も定めて、四鎮合わせて歩兵十五万三千余り、騎兵八万一千余り、年間の予算は四百八十数万とし、以前より百二十数万を減額した。帝はこれを喜び誉めた。
 文龍が死んでから、ようやく三ヶ月が経ったころ、我が大清国の軍数十万が別々の道から龍井関、大安口へと進入した。崇煥は報告を受けると、即座に大寿、可剛らが配置に付くよう促した。十一月十日になって薊州に到着し、撫寧、永平、遷安、豊潤、玉田の諸城は全て、兵を留めて防御する態勢をとった。帝はこのような状況を聞いて、非常に喜び、温情をもって誉め励まし、金庫の金を出して将士をねぎらい、諸道からの援軍の全てを統率するよう命じた。しばらくして率教が戦死し、遵化、三屯営ともに撃破され、総兵の朱国彦が自殺して、大清国の軍が薊州を西へと越えていったことを聞いた。崇煥は恐れおののき、急いで兵を率いて首都の防衛に向かい、広渠門の外側に布陣した。帝は立ったまま招いて会見し、深く慰労して、防衛策を諮問し、天子の食事と貂の皮衣を与えた。崇煥は兵馬が疲弊していることを理由に、城中に入って休むことを請願したが、許されなかった。城外の軍は大軍を相手に激戦し、互いに殺傷し合った。
 隘路を通って薊遼の総理である劉策の管轄区域へと侵入があった時、崇煥はこれを聞くとすぐさま千里を駆けて救援に赴き、自ら功績はあるが罪はないと言った。しかし都の人々が突然敵兵を目の当たりにしたことで、怨みや誹謗が巻き起こり、崇煥を兵を擁しながら敵を逃がしたと批判した。朝廷の役人達は、以前和議を取り結んだことを理由に、敵を引き入れ平和を脅かし、城下の盟を為すことになったと非難した。帝はこのようなことばかり聞かされては、迷わずにいることはできなかった。その上、我が大清国は謀略を用いて、崇煥が密約を為していると言い、捕獲されていた宦官に教え込んで、密かにこの者を解放し退去させた。この者は慌てて帝に告げ、帝はこれを信じて疑わなかった。十二月一日、再び召し出して面会し、捕縛して取り調べるよう命じた。大寿は傍らにあって、恐れおののきながらも捕獲を逃れ、脱出するとすぐさま兵を率いて反乱し戻ってきた。大寿はかつて有罪とされたが、孫承宗がこれを殺すことを望まず、その才を愛して、密かに崇煥に救出させたことがあった。大寿は崇煥に恩を感じているせいで、同時に誅殺されることを恐れ、反乱したのである。帝は崇煥の獄中での手紙を受け取ると、大寿の所へ赴いて面会し、帰順させた。
 かつて崇煥が朝廷にあった時、大学士の銭龍錫と語らって、ひそかに毛文龍を殺害するに及んだ。かつて崇煥が和議を成立させるよう望んだ時は、龍錫はこれを阻止する上書を移し替えてしまった。龍錫が反対ばかりしてきたので、魏忠賢の残党の王永光、高捷、袁弘勲、史范土(范の下に土)と言った輩は大規模な捕縛を行って、反対勢力に報復することを謀議し、そのため崇煥と面会した下役人は、勝手に和議を結んだこと、大将を勝手に殺したことについて両人を有罪とした。まず捷が上奏して激しく批判を行い、范土(范の下に土)と弘勲がこれに続き、龍錫を同時に誅殺することを望んだ。法司は崇煥を謀叛の罪に触れたとし、龍錫もまた死罪の判決を下された。三年八月に崇煥は市において磔にされた。兄弟妻子は三千里の流刑に処され、その屋敷は帳簿に記して没収された。崇煥に子はなく、家には余計な財産も無かったが、天下はこれを冤罪とした。
 崇煥が捕縛され、大寿が混乱して逃走した後のことである。勇敢な経略の満桂が戦況が急を告げたため、大清国の軍と戦って、戦死したのは、崇煥が捕縛されてからようやく半月を経た頃であった。初めに崇煥は勝手に文龍を殺したが、ここに至って帝は崇煥を誤って殺した。崇煥が死んでからは、辺境の事態に対処できる人材は無く、明は亡国の運命に決まったのである。


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