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 黄金比とフィボナッチ数列(1)〜(5)

 はじめの1〜ベンフォードの法則

 ラマヌジャン〜孤高の天才

 唯幻論物語

 鏡よ鏡

 聖母マリアは処女だったのか?(1)〜(3)

 

 


 

黄金比とフィボナッチ数列

 

 

1.テレビの画面から黄金比へ

 

 

 

 これまでのテレビは3:4の縦横比(これをアスペクト比って言います)なんですが、だんだん移行してきているワイドテレビは9:16です。なぜそうなんでしょうか? ぐぐってみると「人間の目は左右に並んで付いているので、横に広い画面の方が見やすい」というあ然とするような説明が書いてあったりします。それって全然なぜ9:16なのかって説明になってませんね。

 ハイビジョンに長年執念を燃やしてきたNHKのHPによると開発に当たってアスペクト比は映画との互換性を考えたと書いてあります。これはわかりやすいです。3:4自体が昔の映画の1:1.37っていうスタンダードサイズに近いものですから。で、今の映画でふつうに使われているビスタサイズはヨーロッパでは1:1.66、アメリカでは1:1.85なんだそうです(この辺の数字はサイトによってバラバラだったりして困っちゃうんですが)。9:16は1:1.77…ですから、中間を取ったってところなんでしょうか。
 
 もうちょっとワイドテレビにいちゃもんをつけると、テレビは26型とか32型とか言いますが、あれは対角線の長さをインチ表示したのがもとになってることはご存知でしょう。じゃあ、同じ20型のテレビで、3:4と9:16のどっちが得だと思います?……損か得かを液晶とかプラズマのパネルを作るコストで考えればたぶん画面の面積で比較するのが正解でしょう。対角線の長さが同じであれば正方形がいちばん面積が広くなるのは明らかですから、直感的に3:4の方が得でしょうね。ちゃんと計算するのも簡単です。

 ピタゴラスの定理により3:4は対角線が5になり、9:16は√337(≒18.36)になります。よって対角線の長さをaとすると、

3:4の場合は面積はと表わせます。

同様に9:16の場合は面積はと表わせます。

 12/25=0.48、144/337≒0.43ですから、やっぱり12%ほどお得だという結果ですね。それにしても、337って素数ですから当然、√337は無理数です。ですから、対角線を正確に20インチに合わせると縦横ともに無理数になります。……そんなの工場でできるわけないですね。これが9:16が気に食わないもう一つの理由です。

 ハイビジョンの規格を決めるときには人間の好む縦横比を検討したら3:5や3:6が望ましいことになったとさっきのNHKのサイトに書いてあります。つまり1:1.66…や1:2ってことですね。前者は古代ギリシア以来の伝統をもつ黄金比(1:1.618…)にかなり近いので、思わずほくそえんでしまいました。黄金比という言葉を聞いたことはあるでしょうが、高校までの課程ではあまりちゃんと教えないんでしょうね。尻切れトンボばっかりのことを教えるより黄金比と後で出てくるフィボナッチ数列のことを教えた方がよほどおもしろいと思いますけどね。





 まあ、それはともかく黄金比がパルテノン神殿やミロのヴィーナスを始めとして、いろんな芸術に使われていて、それはこの比率がいちばん美しく見えるからだっていう説明をよく目にします。……そこでホンマかいなと突っ込みを入れた人は正しいですね。絶対音感じゃあるまいし、建築物や彫刻なんかのこことここの比は3:5じゃない、黄金比だなーんてわかる人はいないでしょう(画像では5:8=1:1.6で近似させてるのがおかしいんですけど)。視覚は聴覚なんかよりよほどだまされやすいもんです。

 古代ギリシアの人たちが黄金比を神秘的なものと見ていたのは事実かもしれませんが、それは美しいとか、調和を感じるとかといった感覚的な理由じゃなくて、合理的な理由があったんだと思います。さっき黄金比を1.618…って書きましたが、正確には(1+√5)/2です。複雑な形をしているように見えるでしょうね。でも、これって一辺が1の正五角形の対角線、つまり☆形になるあの長さなんです。正五角形の対角線って中心を通らないし、一筆書きで書けるだけじゃなく、長さにもこういう不思議なところがあるんですね。

 定規とコンパスだけで作図する(つまり直線と円の組合せだけでってことです)って幾何の基本ですが、正五角形の作図は正方形や正六角形に比べて飛び抜けて複雑で、かついろんな方法がありますけど、結局は辺の長さに対して(1+√5)/2倍の長さの線分を作って対角線にすることに帰着しています。





 で、図を見るとわかると思いますが、この長さの線分を作るのはすごく簡単です。一辺が1の正方形を書いて、その一辺の中点(この取り方は覚えてますか?w)から斜め上の頂点にコンパスをあてて、辺の延長上に交点を作ればいいわけです。これから、正五角形を書くには……☆をイメージして、実際にコンパスをあちこちくるくる回せばわかるんじゃないでしょうか。別のやり方として、与えられた円に内接する正五角形の作図方法も挙げておきます。これも(1+√5)/2の関係がいっぱいでてきます。





 そうそう、A4とかB5の紙の縦横の比率は1:√2で、こっちは白銀比って言うそうです。これは半分に折るとA5、B6と相似の形になるから便利なんですね。1:√2=√2/2:1という関係を利用しているわけです。これを黄金比と間違えてる人もいるみたいですが、それを使っているのは新書版とか名刺だそうです。ちょっと縦長でしょ?

 


 

 2.ウサギの出生率から黄金比へ

 

 

 中世のイタリアにフィボナッチ(1170-1250)という数学者がいました。彼はさまざまな業績を残しているんですが、その中で最大のものがウサギの出生率を例にしたもので、次のような問題の形で示しています。
 「1つがいのウサギは、産まれて2か月目から毎月1つがいのウサギを産む。1つがいの兎は1年の間に何つがいのウサギになるか? ただし、どのウサギも死なないものとする」ネズミ算的に増えて2の12乗とか、11乗になるなーんて思っちゃいけません。ウサギ算ですからねw。

 上の図を見ているとわかると思いますが、ある月のウサギのつがいの数(最初は1)と次の月のつがいの数(これも最初は1)を足せばその次のつがいの数になることがわかるでしょうし、なぜそうなるかも直感的にわかるんじゃないかと思います。結果だけを書いていくとこうなります。

 1,1,2,3,5,8,13,21,34,55,89,144,……

 つまり、1年後には144のつがいになるというのが問題の答ですね。別にウサギの繁殖でなくても、例えば次の図のような木の枝分れも同じ数列になります。横に枝の数を数えると同じことになっているのがわかるでしょう。



 



 等差数列とか等比数列って高校で習ったと思いますが、これは全く別のもので、フィボナッチ数列と言います。数式で書くと、
      ……


となるのは当たり前ですね。で、ウサギや木の例からもわかるようにこの数列は自然そのものととても深い関係があって、おもしろい特性があります。フィボナッチ数列を長さとして正方形を作ると次の図のようにきれいに並べていくことができます。


 



 すなわち、

  

   ……


というふうに順にフィボナッチ数列で正方形を作っていくと、その和は最後の正方形の一辺と次のこの数列の数をかけた長方形の面積に等しくなるわけです。

さて、この数列の特別な性格は以下のように順に隣同士の比率を取っていって、ずっと先まで続けていくと次第に見えてきます。

    

 すなわち、次第に前回登場した黄金比(1+√5)/2≒1.6180339887に(上下しながら)近づいていくのです。例えば50番目の項について見ると(この辺が私の持っている電卓の限界なのでw)、

 

と小数点以下十位まで見事に一致します(もちろん黄金比は無理数、フィボナッチ数列の比率は有理数ですから、いくらでも近づいていくけれど、一緒にはならない。つまり漸近するという性質です)。

 なぜそうなるのかの厳密な証明はできますが、ちょっとわかりにくいでしょうから、直感的にわかりやすい大ざっぱな説明をします。

 十分に大きなフィボナッチ数列の隣同士の比が一定(に近い)ということですから、次のような式が成り立ちます。この式は要は十分に大きなフィボナッチ数列は等比数列、例えば1,2,4,8,16,32……と同じようになっているということです。ある決まった数(この場合は2)を掛けると次の項が算出できるってことで、ネズミ算そのものですね。同じ干支仲間だからでしょうかw。

  ……
 ただし、φは正の定数で、メモメモではないw。

 この式を上のフィボナッチ数列を定義した,亮阿紡綟すると、

 

さらに△ら、 でもあるので、

 
よって、
 

  は明らかに0ではありませんから、両辺をで割ると、

  ……

 つまり、2次方程式になって、これを解の公式で答を出すと、
φ=(1±√5)/2 となります。(1−√5)/2は負の数なので捨てます。よって、黄金比(1+√5)/2が出てくるわけです。
黄金比の代数的な意味ってこういうことなんですね。の式の両辺をさらにφで割ると、

  ……

となって、(1+√5)/2は逆数に1を加えた数ということになりますね。逆数は2/(1+√5)ですが、この分母を有理化して整理すると−(1―√5)/2となってさっき捨てた負の方の解の符号を逆にしたものです。つまり逆数と負の方の解の絶対値は、同じ数0.6180339887…で、前回の黄金比の作図の絵の正方形からはみ出た分ってことなんです。

 い留κ佞陸佞房 垢箸海亮阿隆愀犬鯊綟していくと、次のような連分数が出てきます。同様にの式からは連根wの関係が出てきます。これを見ただけでも黄金比の不思議な性質がわかるでしょう。

  
   

   

 




 

 3.葉っぱのつき方から黄金比へ

 

 

  黄金比とフィボナッチ数列のごく簡単な性質を見てきたので、自然と芸術においてこれらがどのように現われているか(あるいは現われていないか)を見たいと思います。


 まず上の図のような葉っぱがらせん状についていく場合を見てみます。もちろん植物によっていろんなタイプがあるんですが、上から見ると例えばウラジロチチコグサでは、このようになっています。





 2番目の葉っぱは7番目の葉っぱに重なって見えなくなっていますから、この場合は5枚の葉っぱが出る間に2回りしたことがわかるでしょう(もちろん1番目のが6番目ので隠れていないとかズレはありますし、その方が後での説明としてはいいんですが)。つまり2/5回転(=144度)ずつずれて葉っぱが出て行くわけです。こうした規則性を葉序と言って、2枚で1回転(180度、この場合は上から見ると十字に見えますね)、3枚で1回転(120度)とか、いろいろありますが、1/2、1/3、2/5、3/8、5/13などが主なものだそうです。これだけじゃなんのことかわからないので、フィボナッチ数列の最初の方を書いてみましょう。最初に1を2つ書いて、その2つを足して次の項を作っていけばいいんで簡単です。


 1, 1, 2, 3, 5, 8, 13 ……

 そうなんです。分母も分子もフィボナッチ数列に出てくる数(フィボナッチ数と言います)で、しかも分母と分子の関係は数列の一つおき(例えば3/8は5をはさんだ両側が分母、分子になっているということ)なんです。偶然でしょうか?

 いいえ。じゃあ、ふつうの人があまり知らないのに植物がフィボナッチ数列を知ってるんですか? ある意味そうでしょうねw。まさか。……

 まあ、その説明は追々するとして、ちょっとわかりやすくしましょう。まず葉っぱは逆回りで考えているとしてみます。つまり2/5回転(144度)じゃなくて、3/5回転(216度)だと。こうすると、さっきの分数はこうなります。

 1/2、 2/3、 3/5、 5/8、 8/13

どうです? 隣り合う項が分母、分子になったでしょう? なぜそうなるのかは簡単です。

 最初の関係は、 ってことですが、これを1から引いた

フィボナッチ数列の定義式である の関係を使って変形すると、
    となりますね。
 
 で、この分母、分子をひっくり返した逆数は、黄金比φ=(1+√5)/2≒1.6180339887に収束する(だんだん近づいていく)んでしたね。これで植物は本音ではw、360度をφで割った角度約222.5度で葉っぱを出したいんじゃないかという予測ができます。ついでに言うと、φの逆数は前に述べたように0.6180339887…すなわちφから1を引いたもの(小数部分)になっています。
 
 たださっきのように数が少ないんじゃあ心もとないんで、もっといろんな例を挙げましょう。バラの花びらにも次のようにフィボナッチ数5と8が現われています。




 


 それ以上に注目されるのがらせん状になっていることで、次のcone flowerという花を見ると一目瞭然でしょう。



 




 このらせんの数は21、34となっていて、13の次とその次のフィボナッチ数です。有名なのはパイナップルやひまわりの例で、ぐぐれば簡単に出て来ますが、こうしたことをまとめて言うと植物はなぜだか222.5度が、つまりは黄金比がとても好きだということになるでしょう。

 その理由は例えば45度について見るとわかってきます。下の図は45度ずつ回りながら外に向かって点を100個置いていったものです。





 当然、固まってしまいますね。これが葉っぱなら重なってしまって十分な日光が受けられませんし、種ならひしめき合って大きくなれません。じゃあ、222.5度ずつ同じ100個なら? こうなります。





 ね? 見事にバラけるでしょう? 植物の戦略が見えてきますね。……なんでこんなにうまくバラけるのかって? 正確に私も説明できるわけじゃないんですが、前回の最後に挙げた連分数を思い出してください。あれは黄金比の本質を表していて、全部が1だけでできている連分数だということは最も分数で表すことがむずかしい、つまり何回回っても同じところに来にくい数っていうことなんです。じゃあ、無理数の代表の円周率ならどうかって? いい質問です。360度に円周率の小数部分0.14159を掛けた50.97度で回したものが次の図です。





 500個と2,000個のですが、やっぱり222.5度ほどは散らからずに明瞭ならせんパターンを描いたりして固まっていますね。ちなみに円周率の連分数の表現は古来からいろんなものがあるんですが、どれもφほどは単純じゃない、つまり分数で近寄ることが比較的容易なんです。

 


 

 4.黄金比でなくても自然は成長する

 

 

  植物について見てきたので、今度は動物から見ていきます。上の画像は第2回目にも出したもので、フィボナッチ数列を1辺とした正方形がきちんと並べていくことができるのを示しています。また、順にできていく長方形のたて・よこの比率はフィボナッチ数列の隣接項の比率ですから、黄金比φ=(1+√5)/2≒1.6180339887に近づいていき、この図でも既に13/8=1.625になっています。ですので、これを黄金長方形と呼んだりするみたいです。で、この図をもっと続けていってそれぞれの正方形の中に1/4の円を描いていくと次のようになります。




 きれいならせん(スパイラル)が現われましたね。黄金比の連分数や連根を想起させます。これと次のようなオウムガイの断面図を見ると「おおー、同じだ」って思いません?





 ほとんどの書物やサイトでは、これを黄金比が動物に現われた典型例としていますし、常識に近いようになっている気さえします。見た目だとオウムガイの方が広がりがちょっと小さいかもしれないけど、縮尺を変えれば重なるんじゃないかって。……黄金比とフィボナッチ数列について、「黄金比はすべてを美しくするか」という魅力的な本を書いたマリオ・リヴィオですら同じものだと思っているようです。しかし、これはこのとても行き届いたサイトを見るとあまりにもおおざっぱな議論だということがわかります。それを参考にして説明したいと思います。

 まず、黄金長方形のらせんを書こうとすると90度ごとにコンパスの中心を移動し、フィボナッチ数列の次の項の数値に合わせていくことになりますね? ということは、このらせん(カッコよく黄金スパイラルと呼びましょう)は90度回転するたびに(1+√5)/2倍に広がっていくという性質をもっています。最初の方はそうならないじゃないかって? いい質問です(自分で考えたんですからw)。もともと1/4の円を描いていくというのは黄金スパイラルの近似的な書き方なんです。実際には次のような式で定義されるなめらかな曲線の1種です。


    

 これだけでサブイボが出そうな人もいると思いますが、これは通常のx-y座標(直交座標)ではなく、中心からの距離rと角度θで表わされた極座標による表現です。てなことを言うとむずかしそうですけど、50メートル、北東(右斜め45度)に向かって歩けっていうことと同じです。ミサイルなんか発射するときは3次元ですから、仰角を入れた球面座標ってものを使うんだろうと思います。あの国に訊いたわけじゃありませんがw。この極座標は丸っこい図形を式で表現するときに威力を発揮します。中心が原点(0,0)にある円の方程式は、学校では次のようなうんざりするようなものを教えましたね。

     (aは半径)

 ところが極座標では、

    

 これだけです。だって角度θに関係なく、原点から同じ距離の点の集合が円ですから。次に蚊取り線香やロープを巻いたらせんの式と図は次のようになります。

    





 これはアルキメデスのらせんっていうそうですが、名前なんかどうでもいいです。要は間隔が一定で1回転したときに2倍、もう1回転すれば3倍……となるものだってことです(a=1/360とすればわかりやすいかもしれません)。だからこのらせんは拡大・縮小すればすべて重なるわけで、相似、もっと簡単な言葉で言えば同じ形をしています。円や正方形がそうであるように。
 
 さて、さっきのサブイボの方程式ですが、これは対数らせんとか等角らせんっていいます(このらせんを深く愛した数学者の名前をとってベルヌイらせんとも言います)。対数らせんって呼ぶのは、さっきの式を自然対数lnを使ってθについて解くと、
 
   

となるからなんですね。まあ倍々ゲーム、指数関数的に広がっていくらせんをイメージしていただければいいと思います。





 等角らせんって呼ぶのは、この図のように中心から引いた線とそこに接線を書いてできる角度が一定だからです。で、その角度がbでそのコタンジェント、tanの逆数が式に出てきて、このらせんの広がり具合を決定しているんです。でも、なぜcotが出てくるのか、そもそもなぜ角度が一定になるのかについて、サイトはもちろん、いろんな数学の本や辞書を調べましたが、どれもこれも同じような(はっきり言ってしまえば敷き写しの)記述ばかりで何にもわかりませんでした。だいいちcotすら出て来ないものが多いし。……

 私のような素人の素朴な質問に答えてくれたのは結局、この英語のサイトです。もう一般の書店や図書館で数学についてあれこれ調べる気はなくなりました。……まあ、このサイトにたどりつくまでに自然対数の底eについての微分の公式なんかを見ながら自分でやってみて、だいたいは見当がついてたんですが、極座標は初体験wだからどうも自信がなくて。

 それはさておき、対数らせんでは角度bが違えばいくら拡大・縮小しても重なりません。係数aはアルキメデスのらせんと同じく縮尺のようなものですから、どんな数でもいいんですが。……黄金スパイラルとオウムガイではこの角度が違うんですね。では、黄金スパイラルの角度bは何度か? まず、対数らせんの方程式のθによるものを使ってcotbについて解きます(aは本質的な要素ではないので、1とします)。

  

 この式で、θが90度(ラジアンではπ/2)回るごとにφ=(1+√5)/2ずつ拡大するわけですから、

  

 右の数値になるbを求めればいいんで、cotの逆関数(アークコタンジェントと言い、英語のサイトの(4)の式に出てきたはこれのことです)ってことになります。グーグルの電卓機能(グーグルで「 」の部分をそのまま入れれば計算してくれて、すごく便利な機能です。使い方はこのサイトを見てください)を使って値を求めましょう。

  「arccotangent((2 / π) * ln(phi)) を度で」=72.9676089 度

 一方、最初に紹介したサイトによるとオウムガイにおけるbは80度くらいだそうです。ずいぶん違うでしょ?……え? 7度くらいの差なんて誤差の範囲内じゃないかって? そ、そうかな。でも、90度回転するとこっちは何倍になるかって言うと、サブイボの式を使って、

  「exp(cotangent(80度)*π/2」=1.31913177倍ですよ。

 え? 1.6180339887倍とじゃやっぱりあんまりかわんないって? じゃあ、1周、360度(=2π、円を1周回ったときの距離です。ラジアンって極座標的です)回るとどうなるか。

  「exp(cotangent(80度) * 2π)=3.02797807」ですが、

  「exp(cotangent(72.9676089度) * 2π)=6.85410194」

 で、大違いです。どう縮尺を調整してもぜったいに重ならず、どんどんずれていきます。これが指数関数のこわいところです。ご利用は計画的にw。……まあ、楕円や長方形がいろいろあるのと同じようなもんで、オウムガイに黄金比があると言う人は適当な長方形を見て、縦横が黄金比だと言っているのと変わんないですね。

 そんなことよりも重要なのは、動物の世界で立体に拡大された対数らせんが見られることです。巻貝や羊の角にも……オウムガイの断面図をもう一度見てください。小さな部屋がだんだん大きくなっていくのがわかりますね。体が大きくなったのに合わせて部屋を大きくしていったんでしょう。成長し、膨張するものの例として、台風と星雲(猟犬座M51星雲、子持ち星雲として有名なものです)の写真を掲げます。

 

 




 こういうのを見ると生物ではないのに生命力のようなものを感じるのは私だけでしょうか。ベルヌイは変化しながら変わらない対数らせんに不死を見ていたようです。 

 


 

 5.ダ・ヴィンチ・コードじゃなくても芸術は美しい

 


 黄金比とフィボナッチ数列のシリーズの最後に芸術を取り上げましょう。予め申し上げておくと世の中の「常識」と異なり、黄金比と芸術はほとんど関係がありません。少なくとも厳密な意味では。……こんなことを言うといっぱい反論があるでしょう。パルテノン神殿やミロのヴィーナスを知らないのか? ピラミッドからダ・ヴィンチの作品まで、いやもっと近代の絵画やモーツァルトの音楽にも黄金比が使われているのを知らないなんて哀れなものだと。

 しかし、私はこう考えます。数学の話である限り、どこかとどこかの比率を取って1:1.6に近いと言っても何の意味もない。5/3や8/5のような分数やπ/2のような黄金比とは別の無理数を使っただけじゃないかという疑いは残るのではないかと。歴史上初めて、黄金比について体系的にまとめたユークリッド(エウクレイデス)なら「もちろんそのとおりだ。100万個の実例があったって証明がなければ無意味だ」と言ってくれるでしょう。

 では、どうやって証明しましょうか? 作品を作った人が黄金比φ=(1+√5)/2≒1.6180339887を意識していたということが裏付けられるかどうかというのはどうでしょう。例えば作者の残した手紙の中に黄金比への言及があるとか、正五角形や☆形、フィボナッチ数列との関係が作品上明確になっているかどうかということです。

 このふるいに古いものから(寒いギャグですみませんw)掛けると、まずピラミッドは失格です。マリオ・リヴィオの「黄金比はすべてを美しくするか?」(69ページ以降)によると、「クフ王のピラミッドの側面の長さと底辺の半分の比が黄金比になっている」とヘロドトスが言っていると主張する人がいて、確かに1.62という極めて近い数字が計算できるんですが、ヘロドトスはそんなことは言っていませんし、それ以上に「ピラミッドの底辺の全周と高さの比が2πになっている」という方が6.28でもっと精度がいいそうです。しかも円筒を回転させて底面を測量していたので、πが自然とピラミッドに組み込まれることもありうる。……まあ、詳細はリヴィオの本を見ていただくとして、黄金比がピラミッドに関係しているとは到底言えないようです。でも、ここでおもしろいのは上の二つの主張をピタゴラスの定理を使って書き換えると、

  になって(aは底辺の半分、hはピラミッドの高さです)、これを連立方程式として解くと、

  となることです。

 実際に計算すると左辺は3.14460551で、πと0.1%も違っておらず、上の二つの主張のどちらよりも精度はいいんですね。もちろんπは超限基数なので、有理数と他の無理数をどう組み合わせても(有限の表現では)書くことはできません。……私が言いたいのは、数学の世界では近いからって言っても大した意味がないってことです。

 さて、次は古代ギリシアの作品です。パルテノン神殿についてはこの連載の第1回に画像を載せましたが、今度はもうちょっと手の込んだものを掲げます。

 





 

 見ておわかりのように黄金長方形が秘められているかのように恣意的に寸法を測っているんですね。リヴィオの本の97ページには、この神殿に黄金比が使われているかどうかについて疑念が呈されていますが、サイトをぐぐるとミロのヴィーナスなんかについても同様の「発見」があります。でも、測ってみた以外の証拠がなければ「どの三角形の内角を測って足してみても180度だった。だからそれが真理だ」って言われてるのと同じような戸惑いを感じます。

 さて、ではいよいよダ・ヴィンチ(1452−1519)について採り上げましょう。ダン・ブラウンの「ダ・ヴィンチ・コード」を読まれた方は、この「ウィトルウィウス的人体図」こそが黄金比とフィボナッチ数列に満ちたものだと思いませんでした?

 


 

 



 私は根が粗忽なんで、彼の主張に疑問を持っていながらこの人体図と☆形や黄金比が関連していると書いてあるように思っていました。しかし、そんなことはじぇーんじぇん書いていないんですね。最初にこの図が小説に登場したときの描写はこうです。「この名高いスケッチに描かれているのは、完全な円に内接した男の裸体であり、手脚を大きくひろげている」(上巻86ページ)この個所はショッキングな場面で、☆形(五芒星)も出てくるんで勘違いさせられやすいんですね。次に出てくるのは主人公がハーヴァード大学で授業をしている場面です。

「黄ばんだ羊皮紙に、レオナルド・ダ・ヴィンチによる名高い男性裸体画が描かれている。<ウィトルウィウス的人体図>。題名のもとになった古代ローマの著名な建築家マルクス・ウィトルウィウスは、その著書『建築論』のなかで神聖比率を賛美している。『ダ・ヴィンチは人体の神聖な構造を誰よりもよく理解していた。実際に死体を掘り起こして、骨格を正確に計測したこともある。人体を形作るさまざまな部分の関係が常に黄金比を示すことを、はじめて実証した人間なんだよ』」(上巻174ページ)

 まず、この人体図が黄金比と関係があるとは全く言ってませんね。実際、この図は黄金比やフィボナッチ数列とは無関係でしょう。だって、他の無理やりな主張をいっぱいしているダン・ブラウンでさえそう主張しなかったんですからw。……もうちょっとマジメにマルクス・ウィトルウィウスの言葉を見てみましょう。

「人体の中心となる点は、当然臍である。というのも、人間が仰向けに寝て手足を広げると、コンパスの針を臍に置いて、そこを中心に描いた円に手足の指先が触れることになるからだ。また、人体からは円形の輪郭だけでなく、正方形も見つかる。なぜなら、足の裏から頭のてっぺんまでの高さを測り、左右に伸ばした腕の長さも測ると、真四角の面と同じように幅と高さが等しくなるからだ」(リヴィオ167ページ)

 これを元にダ・ヴィンチの図が描かれたことは明らかで、黄金比が入り込む余地はないでしょう。彼が解剖の結果、人体の中に黄金比を見ていたかどうかは膨大な手稿やスケッチを見てみなければ何とも言えませんし、物好きな人が発見された結果を見ればいいんでしょう。……「モナ・リザ」について、さっきのパルテノン神殿と同じような「発見」をした画像があったので挙げておきます。

 



 

 <追記>

 07年4月にダ・ヴィンチ展を見たので付け加えます。この展覧会では「ウィトルウィウス的人体図」について、ヴィデオを使って黄金比や正七角形の作図方法が隠されているようなことを示しています。私はあの人体図は黄金比とは関係がないって断言しちゃってるんで「まずいじゃん」って思って、何回かヴィデオを見てやっと「なーんだ」ってわかりました。

 ヴィデオはイタリアの科学史研究所・美術館の
「The Mind of Leonard」の中にあるので見ていただければいいんですが、要点はこの人体図の(両手を伸ばした人体が内接する)正方形と(両手両足を斜めに伸ばした人体が内接する)円は黄金比で結びついているということです。具体的には正方形の1辺を1とすると円の半径は0.618だということです。

 ちなみに黄金比は通常1:1.618と理解されていますが、上で述べたように1.618の逆数は0.618、もっと正確には(1+√5)/2の逆数の2/(1+√5)=(1+√5)/2−1ということです(ちょっと計算すればわかります)。

 でも、どうやって正方形と円が結びついたのかって言うと、正方形を半分にしてその中点にコンパスの針を置いて頂点までの幅で辺を延長してるんですね。……わはは、これって黄金比のいちばん簡単な作図方法じゃないですか。つまりダ・ヴィンチは黄金比の関係が出るような図を作り、それに合うような人体を描いたってことになるんじゃないでしょうか。

 次にヴィデオはこの円に内接する正三角形の一辺に円の中心から垂線を下ろし、三角形の頂点からその垂線による辺の中点までコンパスを広げ、それで円弧を分割していくと正七角形が作図できるようなことを示しています。これはもちろん明白な間違いで、定規とコンパスだけでは正七角形は作図できないことが証明されています。ただ計算してみるとおもしろいです。円の半径をrとすると正三角形の一辺の半分はrcosπ/6=r√3/2となって、0.8660です。一方、円に内接する正七角形の一辺の長さは2rsinπ/7で表せ、0.8677です。惜しいなあってところですか。

 さらにヴィデオはこうして描いた正七角形の一つおきの頂点を結んだ弦は正方形の一辺にほぼ等しいと言います。ほぼなんて言うところからいい加減ですが、こうした弦の長さは2rsin2π/7で表せるので、r=2/(1+√5)として計算すると0.9664です。うーん、こっちは惜しくもない感じですね。え?わりと近いだろって?なんか違うんですよね。こっちは√10=3.1623がπにほぼ等しいって言ってるような感じがして。……こうやって見ていくとダ・ヴィンチってやっぱり手を動かしていろいろやってみるのが好きな人で、数学者や理論家じゃないなって感じですね。

 まあ、この人体図が黄金比に無関係だって書いたのは私の間違いあるいは言いすぎなんでお詫びさせていただきます。

 

 ここでちょっと脇道にそれて、ハーヴァード大学の場面についてからんでおきます。この場面は、間違いやミスリードがいっぱいあって、なんだか詐欺商法だかマルチ商法のパンフみたいです。ここだけ他から浮き上がっているし。……オウムガイについての間違いはこの連載でも採り上げましたが、興味深いのはミチバチの群れの雄と雌の個体数の比率です。ミツバチの巣の中の雄の数が黄金比どころじゃないくらい雌より少ないのはよく知られた事実ですが、何か科学的な意味合いがあるような気がしたんで調べてみると、ミチバチ愛好家の方のブログでこういう記事を見つけました。ミツバチの雄は単性生殖で、雌は両性生殖で生まれるんで、一匹の雄の系統図を書くとフィボナッチ数列になって増えていきますし、各世代の雄と雌の比率はフィボナッチ数列の隣り合わせの項の比になっているので、つまり次第に黄金比に近づいていきます。これは前に掲げたウサギのつがいの図を逆にしたような感じで、1項ずつずらしたフィボナッチ数列を合成してもやはりフィボナッチ数列ができるのでこうなるんですね。もちろん個体数は全然別で、雄は1割くらいだそうですから、ブラウンはたぶん何かの文献で見たのをうろ覚えで書いたんでしょう。

 さて、芸術の方に話を戻すとブラウンはまだまだいろんな名前を挙げて黄金比に従っていると言いますし、リヴィオは(すべてが重なるわけではありませんが)いろんな作品について検討を加え、おおむね否定的な結論を導き出しています。それらを並べ立てても仕方ないのでやめておきますが、音楽についてだけちょっと触れます。……ネットをさまよっていると奇妙なページに出会うことがあります。ピアノの黒鍵は2つと3つ、合わせて5つ、白鍵は8つ、合わせて13、音楽はフィボナッチ数列!なーんてページです。あまりにも見事すぎて言葉もありません。21、34、55……と永遠に続くフィボナッチ数列についても説明が与えられるならば。

 モーツァルトのピアノ・ソナタの提示部と展開・再現部の比率が黄金比だっていうのもあります。そんなのは絵画と同じで「測り方」でどうとでもなるでしょう。最初に言ったように「親愛なるパパ! ぼくの今度のクラヴィアのためのソナタには、かの神聖なる黄金比をそっと入れておきました。……ロバの耳の大司教にはわかりっこないでしょうけどね」なーんて手紙でも発見されなければ証明にはなりませんw。

 唯一可能性があるのがバルトークのようです。エルネ・レンドヴァイっていう音楽学者が一生懸命作品を分析して、「バルトークの音楽のスタイルを分析した結果、彼が変化音を多用するのは、各楽章で黄金分割の法則を守るためだとの結論に至った」んだそうです(リヴィオ231ページ)。邦訳もあるんですが、この引用を見てバルトークの音楽がわかってない人の本を読んでも仕方ないなって思って買うのをやめました。で、ネットで探しただけですが、「舞踏組曲」の分析を見てもずいぶんつまんないことをやったものだと思いません? 

 






 バルトークが仮に黄金比やフィボナッチ数列を意識して作曲したとしても、それは調性やソナタ形式といった従来の音楽語法を捨てて作曲する上での拠り所がほしかったからじゃないかと思います。だからと言って何より聴くものである音楽作品の理解には関係ないでしょう。そんなものがなくてもバルトークの音楽は美しいし、そういうものがあるから優れた芸術作品になるわけでもないんだろうと思います。自然が美しい理由の一つは法則に従うことだと思いますが、芸術の美しさを法則の有無で律するのは弊害しかないように思います。

 


 

  はじめの1〜ベンフォードの法則

 

 タイトルとボクシング・マンガとは関係ありません。全く関係ないわけでもないんですが。……黄金比とフィボナッチ数列について書いている途中で読んだマリオ・リヴィオの「黄金比はすべてを美しくするか」は、とてもおもしろい本でした。一般的な読み物なんで、数学としての裏づけはやや物足りない面がありますが、著者の博識ぶりは大したもんです。

 その中に出てきたベンフォードの法則というのがびっくりするようなものだったので、紹介しましょう。世の中にはいろんな統計数字があります。農産物の生産量とか、市町村別の人口とか、地震の死者数とか、河川の流域面積とか、株価とか、ボクシング選手の戦績とか、まあなんでもいいんですが、その数字って1から9のどれで始まる(つまりいちばん上の桁の数字ですね)のがいちばん多いと思います?……常識的にはどれも同じ1/9、11.1%だと思いますよね? でも、違うんだそうです。1がいちばん多くて、2がその次で、3がそのまた次とだんだん少なくなって、9はいちばん少ないんだそうです。こういう統計的な数字でなくても、例えば今日の新聞に出ている雑多な数字を全部集めてもそういう傾向があるんだそうです。

 この英語のサイトには例えばアメリカの335の河川の流域面積とか、3259の郡の人口から始まって、いろんな物質の比熱といった自然科学についての数値などなど20種類、2万ほどの数値を調べた結果が出ています。で、その最初の数字には登場頻度までが一定の傾向があって、1は30.1%、2は17.6%……9は4.5%前後になります。混ぜればさらに近づいていきます。……これがベンフォードの法則です。きちんと数式化できるフィボナッチ数も最初から2000個を調べると(ご苦労なことです)同じ傾向があります。ウソー?! どこでどんな相談をしてるんだ?って思いました。

 このサイトには数学的な説明もあるんですが、よくわかんないんで、他のサイトも参考にしながら自分で考えてみました。間違っている可能性は高いんですけど、訂正していただければ幸いです。

 まず、いろんな統計とかの数字には最高値があります。上に挙げた例では2000番目のフィボナッチ数がいちばん大きいはずですが、ともかくそれぞれの最高値からバラバラに数字が並んでいるというイメージができると思います。これを箱の中に1から最高値までの数字を書いたカードを入れて、何回も取り出して(戻します。同じ数値がある場合もあるわけですから)いく場合に近いんじゃないかと。市町村別の人口の例で言えば横浜市の人口360万を上限とした360万枚のカードを今の市町村の数1800回抜いて、戻していくわけです。……もちろんいちばん人口の少ない市町村があるわけで(たぶん東京都の青ヶ島村の197人です)、それより小さい数のカードが出たりしますが、あくまでイメージってことで。で、この場合はなんとなく4から9で始まるのは少ないんじゃないかって気がしますよね? だって「100万」ってカードより大きい数字のカード260万枚はすべて1か2か3で始まってるんですから。

 つまりベンフォードの法則は、一定の数字以下からランダムに数字を拾った場合に先頭の数字の分布はどうなっているかっていうことじゃないかって思うんです。だから、先頭の数字を回る的に矢を放って決めている(でいいのかな?w)宝くじには当てはまりません。残念ながらw。……でも、これだけじゃあ納得できませんよね? 100万人以上の都市は10かそこらしかないし。ということで、実際にもっと小さい数字で様子を見てみましょう。

 1から99までのカードが入った箱で考えます。当然、どの数字も同じ確率で現われます。すると1で始まる数字は、1と10から19で、その確率は11/99ですね。

 次に1から109までの箱だと、1で始まるのは上の数字に100から109までの全部を加えたものですから、21/109です。さらに1から119なら31/119……となって、1から199までの箱の場合まで確率は上がっていって、111/199と半分以上の確率になります。

 他方、2で始まる数字は1から99までの箱でも、1から199の箱でも分子はずっと変わらず、11/99、11/109……と確率は下がって行って、200以降になってやっと増えます。それも1から299までの箱のときに111/299となってようやく1から始まる数字の確率に並ぶわけです。

 この後は、
 3で始まる数字は、1から299までの箱の11/299まで確率が下がり、1から399までの箱になって111/399で1、2と並ぶ。
 4で始まる数字は、1から399までの箱の11/399まで確率が下がり、1から499までの箱になって111/499で1、2、3と並ぶ。
      …………
 9で始まる数字は、1から899までの箱の11/899まで確率が下がり、1から999までの箱になって111/999で1、2……8と並ぶ。

 で、こうしたたくさんの箱の中から次のような9つをピックアップして、1で始まる確率を見ます。

 1から119までの箱:111/199
 1から299までの箱:111/299
 1から399までの箱:111/399
   …………
 1から999までの箱:111/999

 この平均は、0.268(26.8%)になります。以下同様にして、2で始まるのは18.3%、3で始まるのは14.5%で、9で始まるのは3.5%になります。もちろんこれはたった9つの例を取っただけですが、それでもサイトに載っている1で始まる場合の30.1%、2で始まる場合の17.6%、3で始まる場合の12.5%、9で始まる場合の4.6%にわりと近い値になります。

 これらの箱を選ぶのも確率に従うとすると、箱がちょうど1000個あればどの1個も確率は1/1000ですよね。でも、そのうち先頭の数字が1から9まで同じ枚数になっている箱は、9枚入った箱と99枚入った箱と999枚入った箱だけなんです。他はぜんぶ偏りがあるんですね。……こう考えてくると、自然という大きなおもちゃ箱をひっくりかえしてみたくなりません?w

 で、この法則は最初の数字だけじゃなくて、先頭から何桁でも当てはまります。

 つまり、 という式のDは何桁の数字でもいいんです。

 例えば100で始まる数字が現われる確率は、グーグルの電卓機能を使うと log(1.01)ですから、0.43%ですが、198という並びはlog(1.005)なので0.22%です。

 で、逆に言うとこの法則に従わないのは何か人為的な操作といったものが考えられます。実際に不正な経理操作を発見するのに使われたことがあるそうです。株式市場が健全に機能しているかといったことをこの法則でチェックしている人もいるみたいです。

 家電量販店の価格だと198という数字の並びの出現率はめちゃくちゃ多いでしょうけどw。

 


 

  ラマヌジャン〜孤高の天才

 

 

 私のように数学がわからない人間からすると、数学史に登場する人たちはたいていが天才に思えるんですが、その中でもどんな頭の仕掛けになっているのかさっぱりわからないのがインド生まれのシュリニヴァーサ・ラマヌジャン(1887−1920)です。この人がすごいなって思うのは歴史的必然がないところです。例えばニュートンやアインシュタインの業績は何世紀に1回の偉大なものですが、彼らが発見しなくても誰かが万有引力の法則とか、相対性理論を発見していたでしょう。それも何年か何十年くらいの違いで。いろんな観察結果や理論的な枠組みが科学の歴史の中で成熟してきていて、ニュートンやアインシュタインがそれを明確な形にするのを待っていたようにさえ思えます。生まれるべくして生まれたものだということで、それぞれの時代の最先端の科学者たちはすばらしいと称えながらも、「そこに気づけばおれだって」という悔しい気持ちを持った人もいたと思います。

 「そこ」っていうのは、ニュートンの場合だと『リンゴが落ちるのも、月が落っこちないのも同じ法則に基づいているんだ』でしょうし、アインシュタインの場合だと『光の速度が変わらないとしたら、時間も空間も変えて理論を作れるんじゃないか』ってことじゃないかと思います。もちろん「そこ」に気づき、それを徹底的に考えるところが偉大なんですが、その気づいた時の感覚はアルキメデスが風呂に入ると水面が上がるのを見て、『エウレイカ!……ひらめいた!』と叫んだとかいうエピソードと同じで、一瞬にしてシンプルで美しい世界の秩序が見えてしまうような体験なんだろうと思います。

 先日、マーカス・デュ・ソートイの「素数の音楽」という主に素数の法則性に関するリーマン予想の歴史を描いた本を読みました。この本は、私でもわかるような数学的な誤りがいくつもありますし、数式がほとんど出て来ないんで内容自体もあいまいなところが多いんですが、リーマンを始めとした天才たちの列伝としてはとてもおもしろいものでした。で、その中に前から気になっていたラマヌジャンの生涯についてもかなりくわしく載っていたんですが、彼の場合は上に述べたような歴史的必然性も「エウレイカ!」という気持ちを分かち合うこともできないなと思いました。例を挙げましょう。5つの豆を山に分けるやり方としては、次のように7とおりあります。

 ○|○|○|○|○
 ○○|○|○|○
 ○○|○○|○
 ○○○|○|○
 ○○○|○○
 ○○○○|○
 ○○○○○

 同じように4つの豆なら5とおり、6つの豆なら11とおりになります。こういうのを分割数といって、次のような数列ができます。

 1、2、3、5、7、11、15、22、30、42……

 つまり10個の豆があれば山の作り方は42とおりあるということです。100個の豆だと……190,569,292と、2億とおり近くあるんですね。別にこの数字自体は大きいというほどのことでもなく、2の28乗よりも小さい(つまり2、4、8、16、32……という数列の28番目よりも小さい数字だということです)んですが、問題は分割数の数列を予測することが全くできなかった(つまり一般式が見つけられなかった)んです。上の5つの豆のように山の分け方のルールはなんとなく見えても、一般式となると多くの偉大な数学者たちもお手上げだったようです。……で、ラマヌジャンは次のような式を考えました。

  



 ほとんどの人がほとんど意味がわからないと思いますが、私も同じです。こんな式を考え出す頭脳は想像を絶しています。おそらくラマヌジャンがこの式を発見しなければ分割数の一般式は今でもわからないままだったでしょうし、これを初めて見て「なるほど!」と思う数学者もいないような気がします。

 こういうふうに言っても、数式がややこしいのはどれもこれも同じだって言う人もいるでしょう。じゃあ、もっとすごい例をお見せしましょう。

  



 バカなことをって思うでしょうね。1から3まで足したって6になるし、10まで足せば55になるのは常識、それを無限に続けたらマイナスになるなんて、ちょっとどうかしてるんじゃないの?って。この式をインドからの手紙で見せられたイギリスの大学教授たちもそう思いました。ところがリーマン予想と密接な関係をなしているゼータ関数の表現としてはこれは十分意味のある、いやもしかすると∞無限大なんてものよりこちらの方が自然に根ざした解答なのかもしれないんです。しかし、これまた独力でそんなことを発見する頭脳って。……孤高の天才ってよく使われる言葉ですが、実際にその名前に値する人はあまりいないと思います。

 


 

 唯幻論物語

 

 この岸田秀の本は新書版のもので内容的にもむずかしいことはないんですが、読むのはちょっとしんどいところがあります。それは彼の母親に対する憎悪と言ってもいいような感情がこと細かに語られているからです。そこまで繰り返し悪口雑言を言うこともないだろうというくらい、いかに母親の歪んだ愛情(彼によれば術策)によって自分が神経症に追い込まれたが語られます。もちろん彼に言わせればそこを描くことがこの本の目的であり、そういうことを抜きにした客観的な科学としての精神分析などないと考えているのでしょう。

 「フロイドだって神経症に罹っていて、自分の神経症の自己分析から出発し、理論をつくったのである。精神分析に興味をもち、精神分析者になるような人はみんな多かれ少なかれ神経症だったに違いなく、その自己分析から出発した点はフロイドと変わらない。それぞれみんな、違ったふうにおかしな親のもとで育ち、さまざまに異なった症状のある神経症になり、自分の洞察力の限界内で自己分析し、自分のところにたまたま現れた特定の患者たちを分析して理論をつくったのだから、それぞれの理論が違っているのは当然である」(15ページ)と言います。こうした精神分析学を主観的なものと見る見方からすると「精神分析を何か特別な難しい専門的、神秘的技術を用いて縺れた無意識的心理を謎解きのように回りくどく解明するかのように思っている人、あるいは、精神分析の技術に熟達すれば、黙って座ればピタリと当たる占い師か読心術者のように、人の心を見通すことができると思っている人がいるらしいが、魔法使いじゃあるまいし、そのようなことができるわけはない」(163ページ)のであり、「会ったこともない犯人の心理などを解説したりする者がいるが、その種の者たちは途方もない己惚れ屋かインチキ野郎であって、まともに相手にすることはない。精神分析とか深層心理学とか精神医学とかを用いて、恋人を獲得する方法とか部下を統率する方法とか顧客に商品を買わせる方法とかを教えてくれる者も跡を絶たないが、そして、そういう者が書いた本はわりと売れるらしいが、精神分析とか深層心理学とか精神医学がそのようなことに役立つわけもない」(164ページ)ということになります。

 この辺の俗流精神分析学や心理学に対する批判の的確さは鮮やかなもので、岸田のつかんだモノの確かさをうかがわせます。同様にマルクス主義やソシュール言語学の用語を用いて、何か新しい学説を生み出したつもりになっている人たちへの批判も痛快で、ラカンなどは自分を高く売り込むためにすぐにセックスを許さない女と同じように自説を高く評価させるために、わざわざ難しくわかりにくくしているか、あるいは「赤ちゃんの喃語は何を言っているのかさっぱり誰にも理解できないが、母親にはわかる。そういう著者たちは赤ちゃんのように、読者を、他の人たちにはわけがわからない言葉でもわかってくれる母親のように見なして甘ったれているのであろうか」(26ページ)と言います。私もラカンは、チンプンカンプンで自分の頭の悪いのを嘆いた覚えがあるので、とてもうれしかったですねw。

 さて、唯幻論ですが、「人間は本能が壊れて現実を見失い、幻想の世界に迷い込んでいる動物である」これだけのあっさりとしたもので、性欲や愛情も(最も強いと思われている母性愛ももちろん)本能ではなく、幻想だというわけです。で、もちろんこの「人間」とは「実は、わたしのことなのである」、唯幻論とは「わたしが生きてゆくためのわたしの理論」(112ページ)であり、「言わば、身体障害者の杖のようなものなのである」(90ページ)と言います。それだけにこの理論が役立つ(自分の抱える神経症やトラウマなどの治癒を促す)と思う人だけにしか十分には理解できないのかもしれません。しかしながら、「人間にとって現実とは自分のやりたいことを妨げる憎たらしい障壁なのである。人間は、思いのままになる空想を妨害する障壁として現実を発見する」(91ページ)という指摘はよくわかるような気がします。

 何もかも幻想だと言われてしまうと、岸田自らが述べているように感情的に反発(学生に「すべてが幻想なら、これも幻想で痛くないだろう」と殴られたことがあるそうです)されたり、逆に(何をしてもいいんだという)変な独我論や(何をしても無駄なんだという)ニヒリズムになったり、誤解されそうな気がします。そういう意味では、この本の最後に述べられている史的唯幻論がかえって唯幻論を理解するのにわかりやすいように思うので、紹介しましょう。史的唯幻論と言っても個人と同様で、人類の祖先は本能が壊れたため、現実を見失ったんだそうです。その代わりに「幻想を材料として擬似現実(文化)を構築し、この擬似現実のなかに生きることによって辛うじて滅亡を免れた。ここに人類の歴史が始まる。したがって、おのれの歴史を語るのは、おのれの歴史を必要とするのは、本能が壊れた人類だけである」(194ページ)歴史だけでなく、神話や道徳や制度もこうした本能の壊れた人類に必要とされた幻想(観念)だと言います。さらに、幻想が歴史を決定するのであって、経済的条件などの物質的要因が歴史を決定するのではない。「歴史に『もし』はない」というのは馬鹿げた考えで、例えばフランス革命が歴史的事件であるのは、もしフランス革命が起こらなかったとした場合との比較においてでしかないと言いますが、これは正しいだろうと思います。つまり彼の言う幻想を「価値観」というふうに置き換えればかなり常識的な理解が可能でしょう。国家や社会といった集団の価値観が歴史を歴史たらしめ、歴史自体を動かすと。……しかし、こういう理解を岸田が受け入れるとは思えません。彼は自らも、個人も、社会や国家もどこか壊れたモノ、病んだモノと見たがっていて、そう自覚することで「健全」でいられるように考えていると思えます。逆説的ですが、どこか納得できるような気もします。

 


 

 鏡よ鏡

 

  マーティン・ガードナーの「自然界における左と右」を読み終わって、おもしろい本なので、内容を紹介しようかなって思ったんですが、タイトルのとおり内容が多岐にわたっていて、意味のある(単なる知識のひけらかしじゃないっていうことですが)要約ができそうな自信がありません。例えば最後に出てくる、名前だけは有名な超ひも(スーパーストリング)理論はそれをどうやって検証したらいいか見当もつかないし、今のところ具体的な予測すらされない神学のようなものだという批判があるそうで、こういうのを紹介しても仕方ないでしょう。

 で、いちばん最初に出てくる「鏡はなぜ左右を入れ替えるのに、上下は入れ替えないのか」という問題が私がこの本を読んだきっかけなんで、これについてだけ内容をかなり自由にアレンジして紹介します。……まず、鏡は左右を入れ替えないこともありますし、上下を入れ替えることもあります。ウソだと思ったらスプーンを持ってきてご自分の顔を映して見てください。凹んだ方で見ると上下反転していますね。それでウィンクするなり、手を挙げるなりすれば左右が入れ替わっていないことがわかるでしょう。もちろん鏡文字にもなりません。反対の膨らんだ方はふつうの鏡のように(顔が膨らんでしまうのは女性の場合、ご容赦をw)映るのでしばらく遊べるんじゃないでしょうか。でも、この凹面鏡の話は最後にして、ふつうの平たい鏡の話からしましょう。できれば鏡を持ってきて読んでいただければ話がわかりやすいと思います。

 鏡は左右を反転しているって言いますが、本当にそうでしょうか? 鏡に手を近づけていくとぴったり重なるわけで、何も入れ替わっていないような気もします。もちろん右手の手のひらを映しながら左手の手のひらを見ると、同じような指の並びになっているので、左右が反転していると思うわけです。鏡じゃなくてこれがガラスで、向こう側に誰かいれば左手を出してもらわないといけないということだと言ってもいいでしょう。……そうなんです。私たちは鏡の中にもう一つの世界があって、そっちの方にも自分がいると思っているんです。だって毎日、鏡を見てて、そのたびに映っている像が自分ではない、別のモノ=鏡像だと思う方がちょっと変でしょう? だから、自分の意識を(変な言い方ですが)無意識に鏡のこっち側から向こう側に入れ替えているんです。それを行ったり来たりさせるから不思議な気がするんじゃないでしょうか。

 こうした事情をもうちょっと分析的に説明しましょう。できれば簡単な図を書いていただいた方がいいかもしれません。広い部屋の真ん中辺りに立っているとします。床はチェス盤のような市松模様のウッドタイルなんてどうでしょう。あなたは北に向かって両手を顔の横に挙げています。左手を(0,0)、右手はそれから30センチ離れているので(30,0)で表わします。つまりx軸が東西方向、y軸が南北方向ですね。

 ここで大きな姿見を持ってきます。1メートル離して置きます。y=100の線上に置いたということです。左の手の鏡像はどう表わしたらいいですか? (0,100)じゃあないですね。実際には鏡は平面なんですが、見えているものには奥行きがありますから2メートル離れて(0,200)です。これはさっきのように鏡じゃなくて、ガラスの向こうにあなたとそっくりな人がいたとしたら、どこにいてもらえば鏡と同じに見えるかって考えればわかりやすいでしょう。右手は? (30,200)ですね。つまりこういうことです。

 左手(0,0)→鏡像(0,200)
 右手(30,0)→鏡像(30,200)

 入れ替わっているのは左右のx成分ではなく、前後のy成分で、鏡のあるy=100を軸に折り返していたんです。……手を動かしてみましょう。左手を左に(西に)20センチ動かす(-20,0)、鏡像も西に移動して(-20,200)、右手を前に(北に)10センチ突き出すと実物は(30,10)で、鏡像はこっちに(南に)近づいて(30,190)です。y=100からの距離が常にいっしょと考えればいいわけですね。

 左右や前後だけじゃなく上下にも動かしたくなりますが、そのためには、z軸(z成分)を導入しなくてはいけません。最初の左手の位置を床から170センチとして(0,0,170)としましょう。左手を右に(西に)10センチ、後ろに(南に)15センチ、上に40センチだけ動かします。(10,-15,210)で、鏡像は(10,215,210)です。こうしたことを左右の指や文字のそれぞれの部分について数値を当てはめていっても同じです。……こういうのは言われてみれば当たり前で、つまり鏡は奥行き(南北方向)をひっくリ返しているだけなんです。決して左右(東西方向)をひっくリ返していません。

 でも、なんかすっきりしないって言う人も多いでしょう。……じゃあ、今度は床を鏡にしてみましょう。するとあなたが逆立ちした像が足元に映りませんか? これは上下をひっくり返したって言わないんですか? 例えば左手の鏡像は東西南北の横の広がりとしては位置を変えずに上下方向だけ位置を変えた(0,0,-170)にありますね。逆さ富士ってこういうことですが、この場合ももちろん鏡は鏡にとっての奥行き方向(鏡面と垂直方向)に反転させてるんですね。……このことも言われてみれば誰でも知っているはずなのになぜ左右の反転ばかりが問題になるんでしょう。マーティン・ガードナーは、人間の身体がだいたいは左右対称になっていることが原因だと言います。つまり頭から脚の先を通る線で折り返したような格好になっているということです。その線に鏡を置いてもふつうに見えるということです。ところが、上下には全然対称じゃない。だから逆さまの像を見てもそれをそのまま受け取ったりしない。

 彼のこうした説明で、「鏡はなぜ左右を入れ替えるのに、上下は入れ替えないのか」という問題は理屈としては解決できていると思いますが、私は左右の問題はやはり人間のものの見方(認識)に深く関係しているように思います。それは例えば鏡は左右を変えずに映しているのになぜ鏡文字を読むことができないのかといったことです。……この問題についての説明として、こういうのはどうでしょうか? 透明な板に字を書いて鏡に映すと裏から見える文字はもちろん「鏡文字」で、それがそのまま鏡に映ってるじゃないですか。すると私たちの顔も……このルネ・マグリットの絵が深い意味を持つように思えてきます。



 最初のスプーンの種明かしをしましょう。……2枚の鏡を本を開いたように直角に置くと、左右反転しない他人が見ているあなたの顔を見ることができます。2回鏡に映せば元に戻るわけで、三面鏡で遊んだことのある人はすぐわかるでしょう。で、この2枚の鏡をくるっと90度回すと……あなたの顔は上下逆さまになります。ここでびっくりしてはいけません。だってそれは鏡像の世界の床に鏡を置いたようなものですから。左右も反転していません。この2枚の鏡の代わりに円筒形の内側のような湾曲した鏡でも同じように2回反射させた像を見ることができます。これが球面の内部に近いスプーンでも同じことが起こるんですね。

 さて、三面鏡の無限に続くような鏡像や球面鏡の不思議な性質のことを考えていたら、江戸川乱歩の「鏡地獄」という短編を思い出しました。鏡の魅力にとりつかれた主人公が最後に周り全部が球面鏡そのものの中に入って、発狂してしまうという話です。……サイトでその像を見つけたので、よかったら見てください。

 


 

 聖母マリアは処女だったのか?

 

 なんだかセンセーショナルな感じのタイトルですが、事の発端は、以前にかなり評判になったリチャード・ドーキンスの「利己的な遺伝子」を今頃になって読み始めていたときです。「私は、ギリシヤ語訳旧約聖書をつくった学者たちが『若い女』というヘブライ語を『処女』というギリシヤ語に誤訳し、『見よ、処女ははらみ男児を産まん……』という予言をつけ加えたとき、彼らはあるたいへんなことをスタートさせたといえると思う」(37ページ)という箇所に驚いたからです。実際、ここは初版の読者にもショックを与えたようで、補注が加えられています。それを要約しましょう。上の『見よ……』はイザヤ書第7章第14節に出てくるのですが、ここで「処女」となっているヘブライ語のalmahは「若い女」を意味し、処女性という含意を全く持たず、「処女」を意味するならbethulahという語を代わりに使うことができたはずだ。ところが70人訳聖書と呼ばれるキリスト以前のギリシア語訳でalmahをparthenosというまさに「処女」を意味する語になってしまった。それを新約聖書の福音書家のマタイはこれを引用しつつイエスの誕生の物語を挿入した。これらのことはキリスト教学者の間では広く認められている。……

 まず言っておきたいのはドーキンスの本の訳者は、聖書についてほとんど何も知らないだろうということです。だって何度も出てくる「イザヤ書Isaiah」がすべて「イザイア」という訳者自身がわかっていない言葉になっているからです。このため無理な訳をしていて意味が通じない箇所があるので要約にしました。まあ、科学書だから仕方ないような気がしますが、英語を翻訳する以上、聖書の知識は必須でしょうし、わからなければ辞書をちゃんと引けばいいだけです。誤訳の話で誤訳があるのはギャグにしかなりません。

 次にドーキンスの記述ですが、かなりミスリーディングです。たぶん上の引用を読んだ人の多くは、「マリアさんは処女じゃなかったんだ、それを学者は知ってたのに一般の人には隠してたんだ」って思うんじゃないでしょうか。これは簡単にも、ややこしくも答えることができると思いますが、まず簡単な方から。ドーキンスの言うようにマタイが誤訳された旧約聖書を下敷きにしたとしても「子どもが生まれるまで(ヨセフは)彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた」(マタイ福音書第1章第25節)と書いてあるので、処女懐胎は間違いない。それを信じるかどうかは信仰の問題で、疑えばイエスの復活やら何やら信じられない奇跡だらけなのが聖書でしょ。はい、おしまい。

 まあ、これをもうちょっとカッコよく書いたのがWikipediaの「処女懐胎」の項目です。この誤訳の議論にも触れていて、いかにも不愉快そうな感じが出ていておもしろいです。しかし、いろいろ見ていくと聖母マリアの処女性の問題はかなり微妙な感じです。で、ややこしくなっちゃうのを覚悟で書いてみます。ただもちろん歴史的に聖母マリアが処女だというのは欧米で堅く信じられてきて、それをモチーフに膨大な音楽や絵画が作られ、言わば社会の前提のようなものですから、私が聖書をちょっと拾い読みしただけで論じるのはハチャメチャだろうと思いますし、もっといろいろ考えたり、調べてみたいこともあるんで、ノートみたいなものです。

 まず聖母マリアはイエスを産んだ後も処女だったのかというところから考えてみましょう。「聖母マリアの謎」(石井美樹子著)という本には1854年に教皇ピウス9世が「無原罪の御みごもり」について出した特別の勅書が紹介されています。「聖母マリアは、生涯をとおして、絶対的にあらゆる罪や汚れから自由である。彼女は、美しく完璧である。マリアの生き方は、無垢と神聖さをその極限まで示している」……ふーん。これだと聖母マリアはずっと処女だったような感じですね。しかし、聖書にはこういう記述があります。「イエスがまだ群集に話しておられるときに、イエスの母と兄弟たちが、イエスに何か話そうとして、外に立っていた」(マタイ福音書第12章第46節)なんとイエスには兄弟がいたんですね。これと同様の記述は最も早く成立したマルコ福音書にも、ルカ福音書にもあるので疑問の余地はないと思います。ただイエスは母と兄弟を否認して、弟子たちこそが本当の母や兄弟だと言っています。こういう家族や故郷を否定する傾向はあちこちに見られ、いかにも新興宗教の教祖って感じです。まあ、それはともかくイエスの兄弟は聖霊によることなく通常の方法wでヨセフとマリアの間に生まれたんでしょう。だから、マリアはイエスを産んだ後は少なくともヨセフと通常の意味での夫婦だったと考えるべきで、ラファエロの聖母子像なんかのイメージとは違います。ああいうのって後のカトリック教会が作り出したものなんですね。

 

 


 では、肝心の処女懐胎ですが、4つある福音書の中でこれに触れているのはさっき見たマタイ福音書の他にはルカ福音書だけです。その第1章第26節から第38節にあるのがいわゆる受胎告知(画像はフラ・アンジェリコの作品です)で、天使ガブリエルがマリアのもとに現れて「あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい」などと言うと、とまどったマリアは「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに」と答えます。他の2つの福音書にはありません。っていうか、そもそもマルコ福音書もヨハネ福音書もイエスの出生から少年期のことは全く書かれていません。どちらもヨハネ(いわゆる洗礼者ヨハネ)からイエスがバプティスマを受けるところから始まります。つまり宗教者としての出発点から描いているわけです。

 そうすると処女懐胎を始めとしたイエスの誕生にまつわるお話は後世に付け加えられたものなんでしょうか? だとするとクリスマスにまつわるお話は全部そうだということになって、商業的にも大変な問題でしょう。そうでもないかな?w……これは4福音書の関係をどう見るかという大きな問題につながっていますが、極端な立場としてはマルコ福音書の記事(とそれよりも古い文書)だけを歴史的なイエスの軌跡を描いたものとし、それ以外を後世の伝説とすることが考えられます。しかし、そうしてしまうと聖書の中の魅力的なエピソードは大幅に減少してしまいます。

 


 

 前回、イエスの誕生と少年期についてはマタイ福音書とルカ福音書にしか記述がないと言いましたが、その内容はこの2つの間でもかなり違っています。これを見ていきましょう。まずマタイ福音書ですが、冒頭に長いイエスの系図が文章で書かれています。アブラハムからダビデが14代、ダビデからバビロン移住までも14代、バビロン移住からイエスまでがやはり14代となっていて、旧約聖書によるユダヤ教の正統の後継者がイエスであることが強調されていて、なんでもかんでも旧約の記事とリンクするこの福音書の性格が顕著です。しかし、この系図は「ヤコブにマリアの夫ヨセフが生まれた。キリストと呼ばれるイエスはこのマリアからお生まれになった」で結ばれていて、聖霊によって生まれたイエスとは何ら血縁関係のない養父ヨセフのものです。つまり父系制のユダヤ社会の系図に「(ヨセフとマリアの)二人がまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になった」(第1章第18節)という宗教的奇跡を接木しています。そして、前回見たようにその奇跡がイザヤ書を元にしていることはマタイ福音書において次のようにイザヤ書第7章第14節の引用があるので反論の余地はないでしょう。「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマニエル(神は私たちとともにおられるという意味)と呼ばれる」そして、イザヤ書をヘブライ語で書いた人物はこの箇所でalmahという語で「処女」ではなく、「若い女」を意味していたのがマタイ福音書をギリシア語で書いた人物に至るまでの間に違ってしまっていたことも明らかでしょう。

 これはまとめて言ってしまうと、旧約聖書を足がかりにしながら、一つは王朝のように血脈によって正統性を主張しつつ、もう片方で神から直接言葉を伝えられた預言者の言葉に依拠して正統性を主張しています。これをマックス・ヴェーバーになぞらえて言えば伝統的支配とカリスマ的支配の二股膏薬です。「処女が妊娠するなんて信じられない?じゃあ、それでもいい。それならイエスはヨセフの血のつながった息子だ。そのヨセフは神と契約したアブラハムの直系なんだ」あんまり純粋じゃない感じですが、前者はユダヤ教徒向けの、後者はそれ以外の異教徒向けのものだと考えることもできるでしょう。そして、キリスト教が世界中に広まる上で後者はとても強力だったと思います。実際、キリスト教徒じゃない人に「キリストがなぜ神の子って言われるか知ってますか?」って訊いたら、ほぼすべての人が「マリアさんが処女だったから」って答えるでしょう。もちろんマトモな答のうちでって意味ですがw。

 話をマタイ福音書に戻しましょう。こっちでは主の使いは身重になったマリアを内密に去らせようとしていたヨセフの夢に現れます。天使ガブリエルがマリアのもとに現れるルカ福音書と違っていて、ロマンティックじゃないですね。こっちのエピソードを描いた絵画って知りません。主の使いは、恐れないでマリアを妻として迎えること、聖霊によってマリアのお腹に子が宿ったこと、男の子が生まれるからイエスと名づけることを告げます。たぶんなぜインマニエルって名前じゃないんだ?っていう突っ込みをかわしているんでしょう。

 その後で、東方の博士たちがベツレヘムに来るエピソードになります。ただし、3人といった人数も、ましてやメルキオール、バルタザール、カスパールといった名前も記されていません。これらは黄金、乳香、没薬(どちらもお香にも薬にもなる樹脂)の3つを贈り物にしたという記述から作り出された後世の創作でしょう。博士たちがエルサレムでヘロデ王に「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか」(第2章第2節)と訊いたため、王は自らの地位が脅かされるのを恐れ、ベツレヘムとその近辺の2歳以下の男の子を一人残らず殺させます。でも、ヨセフの夢に主の使いが現れてエジプトに逃げなさいと告げたのでイエスは無事でした。しかし、これらのエピソードはルカ福音書にすらありません。つまりクリスマスでよく演じられる東方の三博士の話も、カトリック教会が最初の聖人としている「幼子殉教者」もマタイ福音書の記事だけに依拠したものです。それ以上にちょっとびっくりなのがイエスが馬小屋で生まれたという記述はどの福音書にもないことです。これじゃあ、クリスマスにする話がなくなってしまいますが、ただ取っ掛かりはルカ福音書にあります。それで、これを見ていくことにしますが、それはまた次回に。

 


 

ルカ福音書の冒頭部分を読むと、イエス死後のペテロやパウロらの言動を書いた使徒行伝と同じく、テオピロという人物に宛てた手紙というスタイルを取っていて、しかも「初めからの目撃者で、みことばに仕える者となった人々が、私たちに伝えたそのとおりを、多くの人が記事にまとめて書き上げようと、すでに試みておりますので」(第1章第1節)と書いてあります。これは、他の福音書などの編纂の動きを意識しながら、自らの客観性を強調しているのだろうと思えます。

 ところが、その後の第1章の大部分がバプティスマのヨハネの誕生物語になっていて、受胎告知とマリアがヨハネを身ごもっていたエリザベトを訪れるエピソードだけがイエスの誕生に関係する記述で、全80節のうち30節ほどに過ぎません。つまり第1章ではマリアは脇役に過ぎず、主役はエリザベトで、これはヨハネの弟子たちが伝承していた彼の誕生物語を転用したんだろうと思います。その内容はイエスの場合と似ていて、天使ガブリエルが不妊の高齢の女エリザベトの夫で祭司のザカリアの元に現れ、「こわがることはない。ザカリア。あなたの願いが聞かれたのです。あなたの妻エリザベトは男の子を産みます。名をヨハネとつけなさい」などと告げるのです。……それまで子どもを産んだことがなく、高齢(年齢は書かれていません)でも子を産むことはありえることなので、これならブログを書くほどのこともないでしょうw。

 しかし、受胎告知を受けて「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに」ととまどうマリアに天使ガブリエルが「ご覧なさい。あなたの親類のエリザベトも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう6か月です。神にとって不可能なことは一つもありません」(第1章第36-37節)と言っているのは重要な点のような気がします。つまり、イザヤ書に言及していないルカ福音書においては、ヨハネの母が不妊で高齢だったという伝承が処女懐胎のエピソードのヒントになった可能性がありそうです。……まあ、枯れ木に実がなったって、花も咲いたことのない若木に実がなるわけじゃないって言われるとそれまでですがw。

 さて、マタイ福音書の冒頭に執拗なくらい書かれていたイエスの(実は養父ヨセフの)系図がルカ福音書にないかと言うと、これは第3章の終わり、バプティスマのヨハネのエピソードと荒野で悪魔がイエスを試す話の間にあります。このときイエスはおよそ30歳くらいと述べられていますから、いかにも無理に挿入されたような感じで、素っ気なく人名を挙げるだけです。その内容はヨセフから遡る形で、ダビデやアブラハムを経て、人類の祖のアダムまで挙げられています。マタイ福音書と比べるとアブラハムからダビデの間はほぼ同じなのですが、それ以降のヨセフに至るところは共通しているところが少なく、戦国大名がみんな源氏か平家の末裔だったという話を想起させます。

 マタイ福音書は、ヘロデ王の虐殺を避けるためにヨセフとマリアと生まれたばかりのイエスがベツレヘムからエジプトに行き、王が死んだのでイスラエルの地に戻ったけれど、王の子のアケラオが治めていて夢で戒めを受けたので、ガリラヤ地方のナザレに移り住んだ、それでイエスはナザレ人と呼ばれるのだそうです。

 ところが、ルカ福音書では元々マリアはナザレに住んでいてそこで受胎告知を受けます。ちょうどローマ皇帝による住民登録(これはCensusでしょう)の勅令が出たので、ダビデの家系であったヨセフは身重のマリアを連れてその地のベツレヘムに行き、そこでイエスが生まれます。「布にくるんで、飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである」(ルカ福音書第2章第7節)これがイエスが馬小屋で生まれた伝承の元ですが、どうも馬小屋ではなく、牛やロバがいた方がイザヤ書第1章などと対応関係がいいようです。たぶん飼葉桶から連想するものが時代や場所で変わって来たんでしょう。

 洞窟で生まれたという伝承も新約外典の「ヤコブ原福音書」にあるそうですが、これはイエスが復活する場所と照応させたような気がします。最近は「ダ・ヴィンチ・コード」なんかの影響で外典・偽典の方が真実を明らかにしているように考える向きがあるようですし、おもしろいものも多いようですが、少数派の唱える説というだけで、正典も外典も事実からの距離がそれだけで変わるものではないでしょう。

 それよりは.ぅ┘垢魯瀬咼任療效蓮Ε戰張譽悒爐農犬泙譴拭↓他方、彼はナザレ人と呼ばれたという事実なり伝承があったのでしょう。そこから構成されたお話がマタイ福音書とルカ福音書とで大きく異なったのでしょう。前者ではナザレはヨセフにもマリアにも元は無関係な土地ですが、後者では親たちが住んでいた故郷と言うべき土地です。……4福音書がいろんな内容を持っているのはかまわないと思いますし、それらが相補って全体としてイエスの生涯を現しているってことだろうと思います。例えば天使がマリアにもヨセフにも現れたとしても矛盾とまではいかないですから(くどい天使だなとは思いますがw)。しかし、ここに関しては真っ向から対立しています。大した話ではないだろうって?そんなことはないと思います。今でも親の代から東京に住んでいたというのと幼い頃に移って来たのでは違うでしょう。江戸っ子っていうには三代は住んでいないととか言いますね。ましてや2千年前ですから。

 わかりやすく言うとマタイ福音書によればイエスはベツレヘムっ子で、ルカ福音書ではナザレっ子でしょう。専門的な分析はできませんが、どちらの福音書もイエスを旧約の予言(預言でもいいですが)した救世主であることを強調するために系図とともに,療曽気鯢娉辰靴燭鵑世蹐Δ隼廚い泙后でも、△箸寮姐臉をつける必要があったので、マタイ福音書はヘロデ王の虐殺を、ルカ福音書はCensusを持ってきた。そう考えるとすっきりします。

 どこで生まれたってそんなの信仰や正義とは関係ないって思いますか?ところが大人になったイエスがナザレに行ったときの話がルカ福音書にあります。そこでのイエスはさんざんです。自分が「キリスト(=香油を注がれた人=救世主)」であるかのような演説をすると、「この人はヨセフの子ではないか」とあきれられ、それに対して「預言者は誰でも自分の郷里では歓迎されません」とか言って、まるでナザレだけに神の恩寵がないような嫌味な話をして、怒りをかってあやうく殺されそうになります(ルカ福音書第4章第16-30節)。……子どもの頃からのことを知られてる故郷では教祖様もうまくいかないっていうのはよくわかります。いい大人になっても田舎に帰ると「あんたのおむつを替えてやったんだよ」なんていうおじさんやおばさんがいて格好がつかないなんてことってありますね。これと同じような話はマタイ福音書にもあります(第13章第54-58節)。そこでは地名は挙げられていないですが、ナザレでしょう。マタイ福音書の方がベツレヘム=旧約との関係を強めている分だけ事実より遠い感じがします。

 さて、ルカ福音書には東方の博士の代わりに羊飼いのエピソードがあります。ベツレヘムの近くで野宿で夜番をしていた羊飼いたちのところに主の使いがやって来て、主の栄光が回りを照らし、キリストの誕生を告げます。さらに天の軍勢が現れ、神を賛美します。「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に平和が、御心にかなう人々にあるように」ここは例えばイザヤ書第6章などが意識されていて、いかにも旧約的な箇所です。羊飼いは星に導かれるわけではなく、自分たちで飼葉桶に寝ているイエスを探し当て、それを人々に知らせてから神をあがめ、賛美しながら帰っていきます(ルカ福音書第2章第8-20節)。

 さらに、続けてヨセフとマリアはイエスを主に捧げるためにエルサレムに連れて行きます。そこにシメオンという正しく、敬虔な人がいて、聖霊が彼の上に留まっていたそうです。シメオンはイエスを抱いて「御救いはあなたが万民の前にそなえられたもので、異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です」などと言います。イスラエルを治める支配者としか言っていなかった東方の博士と違って、ユダヤ民族以外にも布教しようという意図がルカ福音書のこの箇所にはあるようです。女預言者のアンナという人物もそこにいて、神に感謝を捧げ、人々にイエスのことを語ったと書かれています。

 エルサレムの関係ではもう一つ、ルカ福音書だけが伝える少年時代のイエスに関するエピソードがあります。イエスが12歳の時、過ぎ越しの祭に一家でエルサレムに行った帰り、イエスだけ置いてきたことに気づき、探すこと3日の後に神殿で教師たちの真ん中に座って、話を聞いたり質問したりしているのを見つけます。マリアが驚いて言います。

「まあ、あなたはなぜ私たちにこんなことをしたのです。見なさい。父上も私も、心配してあなたを探し回っていたのです」

 するとイエスは両親にこう言います。

「どうして私をお探しになったのですか。私が必ず自分の父の家にいることをご存じなかったのですか」

 しかし、両親にはイエスの話された言葉の意味がわからなかったのですが、マリアはこれらのことをすべて心に留めておいたということです(ルカ福音書第2章第41-52節)。……この話からは(ほんの少し前の箇所における)受胎告知を受けた時の知恵と霊感に満たされたマリアの姿はなく、その後の他の福音書と同じく、平凡な母親像です。

 ようやくこの長い記事の終わりに来たようです。処女懐胎だけが常識に照らして異常なのではなく、マタイ福音書とルカ福音書が伝えるイエスの誕生時のマリアが異常なのです。異常と言って悪ければ「聖なる存在」すなわち聖母です。しかし、その後のマリア(ほとんど具体的な記述はありませんが)に神がかったような超越性はありません。あるように思うのはすべて後世の伝承や多くの美術作品の影響だと言っていいでしょう。そして、おそらくイエスの誕生のエピソード全体がイエスが神の子であり、キリスト(救世主)だという考えを補強しようとした人々による創作でしょう。憶測ですが、イエスが処刑されてからかなりの年月が経ってから、生前のイエスに会ったことのない人々によるものだという気がします。

 イエスがもし救世主だとしても、それは(マルコ福音書とヨハネ福音書の冒頭である)バプティスマのヨハネの弟子になってからだろうと思いますが、それでは満足しないのが人の常なんでしょう。えらい人は氏素性も正しく、凡人とは違った生まれをしているものだという思い込みは今だって何にも変わっていません。それが処女懐胎を始めとした物語を作り出したんでしょう。それとは違う子ども時代のイエスを知っていた故郷の人たちはいくらありがたい説教を聞かされても反発するだけだっただろうと思います。

 もちろん創作だったとしてもイエスの誕生物語自体が2千年間信じられてきたわけですから、今さらそれを否定しても始まらないだろうと思います。聖母マリアが処女だったかどうかなんてくだらない疑問だという気もします。でも、そういう疑問を元に聖書のあちこちを読んでみるといろんなことがわかります。それ以上に4つの福音書を書いていた人々がそれぞれどんなことを考えていたか想像するのはなかなか楽しいものです。