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   心が貧しいとは何か?

   数学と音楽と国語の三角関係

   小さな人間原理

   不完全性定理とロボットの気色悪さ

   にゃお語とバベルの塔

   ぼくのリヴィングの3枚の絵

   数学と神学の親和性

   09年1月更新時のメモ

   剣岳山頂の錫杖の持ち主はどこへ行ったのか?

 

 


 

  心が貧しいとは何か?

 

 例えば人をうらやんだり、けなしたり、自慢したり、まあ他にもあると思いますが、そういう場合に「心が貧しい」と表現するようです。でも、私はこの言葉の意味がピンと来ません。「心が豊かだ」の反対語と考えるのが常識で、わからない私が非常識で、心が貧しいんでしょう。でも、なんとなくもってまわったような言い方で、キライとかバカとかって言えばいいものをそんな言葉を使うとまずいんで、「あなたは心が貧しいですね」と宣告しちゃってるんじゃないかなって思います。

 そう言われて喜ぶ人はいないわけで、「そんな言い方をするあなたの方が心が貧しいですね」と言い返し、さらに「いやいや、そういうあなたこそずっと……」と返ってくるような気もしますw。そんな子どもでも今どきやらないような口ゲンカはおいといて、この言葉の由来を考えてみましょう。するとたぶん多くの人が聞いたことのある新約聖書の一節が出てきます。

「心の貧しい人たちは、幸いである。天国は彼らのものであるから」(マタイ福音書第5章第3節)

 あらら、さっきの応酬は天国を押し付けあっていたことになっちゃいますねw。どうも「心が貧しい」という言葉を他人に対する非難に使うのは、イエスの考えに背くものだと言えるようです。イエスは良くないとわかっているのに人をうらやんだり、けなしたり、自慢したりしてしまう人、自分で自分の情けなさをわかっている人こそが天国に行けると説いたんでしょうか? まあ、教会ではそんな感じで教えてるみたいですが、なんだか逆説的な感じですね。歎異抄の「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」というこれまた有名な言葉と類似の論理を感じたりしますけど、じゃあ、心が豊かな人は天国に行けないんでしょうか?

 この一節についてはネットでちょっと見ただけでも諸説紛々なんですが、どうも自分の独自の考えを語ってるだけっていうのも多いようなので、テクストに即して考えてみましょう。さっきの言葉の後は次のように続きます。

「悲しんでいる人たちは、幸いである。彼らは慰められるであろう。

 柔和な人たちは、幸いである。彼らは地を受けつぐであろう。

 義に飢え渇いている人たちは、幸いである。彼らは満ち足りるであろう。

 憐れみ深い人たちは、幸いである。彼らは憐れみを受けるであろう。

 心の清い人たちは、幸いである。彼らは神を見るであろう。

 平和をつくり出す人たちは、幸いである。彼らは神の子と呼ばれる。

 義のために迫害されてきた人たちは、幸いである。天国は彼らのものである」(マタイ福音書第5章第4−10節)

 どうですか? 少なくとも逆説的な言い回しはなく、わかりやすいと思いませんか? 柔和な人たち、憐れみ深い人たち、心の清い人たち、平和をつくり出す人たちは常識の世界でも肯定的に評価されるものでしょう。悲しんでいる人たち、義に飢え渇いている人たち、義のために迫害されてきた人たちは、そうした労苦が神によって癒され、報われるということなんでしょう。どうも「心の貧しい人たち」だけが浮き上がって消化不良のままです。

 そこで並行記事を見ることにしましょう。ルカ福音書の第6章第20節以下の記事です。

「貧しい人たちは、幸いである。神の国はあなたがたのものである。

 今飢えている人たちは、幸いである。あなたがたは満たされる。

 今泣いている人たちは、幸いである。あなたがたは笑うようになる。

 人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。

 その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。

 しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である。あなたがたはもう慰めを受けている。

 今満腹している人々、あなたがたは、不幸である。あなたがたは飢えるようになる。

 今笑っている人々は、不幸である。あなたがたは悲しみ泣くようになる。

 すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである」

 かなり違いますね。まず「心の貧しい人たち」が単に「貧しい人たち」になっています。精神的な話じゃなく、経済的な乏しさで、この方が次の「今飢えている人たち」や「今泣いている人たち」につながりやすいでしょう。また、マタイの方が「〜人たちは、幸いである」が8回繰り返されている(このためこの個所を「八福の教え」とかいうそうです)のに対し、ルカの方は「〜人たちは、幸いである」は4回で、「〜のあなたがたは、不幸である」が4回になっていて、語句もマタイほど整然としていません。

 内容としてはルカは金銭的・物質的なことが多く、「幸いである」と「不幸である」が対比され、後者が攻撃されているので社会改革家や革命家の演説のようです。預言者とか偽預言者とかいう言葉は(ちょっと古いですが)プロレタリアートとブルジョワとか、庶民と権力とでも置き換えればいいでしょう。これに対し、マタイは精神的な面に偏っていて、いかにも宗祖のお説教って感じです。ここで注目されるのが「義に飢え渇いている人たち」と「義のために迫害されてきた人たち」で、これは抽象的・一般的な正義ではなく、「正しい教え・信仰」くらいに解するべきで、端的に言えばイエス自身を求め、そのために迫害されることを言っているのでしょう。また、「平和をつくり出す人たち=神の子」も政治的な意味ではなく、宗教的な意味での「平和」でしょう。そう考えるとルカの「人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである」というイエスの受難を暗示した個所とリンクしそうです。

 

 さて、ここまで読んでいただいた方の中には「マタイとルカとどっちが本当のイエスの教えなのか?」という疑問を感じた向きがあるでしょう。正しいキリスト教徒なら「どちらも真実なのです。キリストは心の貧しい人もおカネのない人もどちらにもやさしい眼差しを向けられているのです」とでも言うのでしょう。でも、私はキリスト教徒じゃないし、そんな曖昧な解決は好きではありません。

 ルカの方がイエスの本来の発言に近く、イエスは本当は社会改革を志向していたという見方もあるでしょう。つまりマタイは教典としての体裁をより整え、宗教団体として初期教会を純化していく過程で、「貧しい」に「心の」を付け加えたような気もします。しかし、福音書の中でいちばん古く成立したと言われるマルコ福音書に並行記事がない以上、何も確かなことは言えません。

 今はイエスが何を言ったかを詮索するのはやめて、マタイの編纂者がどういう意図で「心の貧しい」という表現をしたかを考えてみましょう。まずマタイ福音書第5章第3節の原文(古代ギリシア語)と英訳のうち伝統的な訳し方の"New International Version"と親しみやすいとされている"Contemporary English Version"の2種類を掲げます。

 μακαριοι οι πτωχοι τω πνευματι οτι αυτων εστιν η βασιλεια των ουρανων

 Blessed are the poor in spirit, for theirs is the kingdom of heaven.(NIV)

 God blesses those people who depend only on him. They belong to the kingdom of heaven!(CEV)

 

 とりあえず原文は置いておいて、英訳を見ましょう。まず「心の貧しい人たち」がNIVが"the poor in spirit"であるのに対し、CEVは"those people who depend only on him"(神だけを頼る人たち)となっています。しかも神が祝福すると明示されているのでわかりやすいですね。しかし、これはやはり意訳なんでそれでいいのかは後で考えることにして、ルカ福音書の第6章第20節を見ましょう。

 μακαριοι οι πτωχοι οτι υμετερα εστιν η βασιλεια του θεου

 Blessed are you who are poor, for yours is the kingdom of God.(NIV)

 God will bless you people who are poor. His kingdom belongs to you!(CEV)

 

 やはり原文でもNIVでもマタイと非常に似かよっています。CEVもこちらでは原文の"πτωχοι"に対応して"poor"という単語を使っていますが、それだけにマタイとの関係は見えなくなっています。わかりやすく噛み砕く訳すってむずかしいものです。ただお蔭でアメリカ人にとってもマタイの"πτωχοι τω πνευματι"を"the poor in spirit"と訳してもわかりにくいということがわかりますね。でも、それが日本人が「心が貧しい」がわかりにくいのと同じかどうかは考える必要があるでしょう。

 

 もう一つ"Worldwide English (New Testament)"という翻訳を見ると"God makes happy those who know that they need him. The kingdom of heaven is for them."としていて、「自分が神を必要としていることを知っている人たち」となっています。これもCEVと同じような感じで、"πνευματι"(英語では"spirit")から神に頼るとか必要とするという発想が生まれてきてるんですね。というのも(古代ギリシア哲学以来いろんな意味あいのある"πνευμα"(プネウマ)について言い出すとややこしいので脇におきますが)"spirit"は漠然とした「心」や「精神」ではなく、宗教的な意味が中心で、心の中でも神様と関係するところだと思われるからです。

 「貧しい」"poor"がおカネがないという客観的な状態じゃなく、おカネが足りないという欠乏感だとすれば、「心が貧しい」"poor in spirit"も神様が足りないという欠乏感だと考えられるかもしれません。そうだとすると「神を頼るほかない人たち」や「神を求めていることを自覚している人たち」という訳し方も理解できるでしょう。冒頭に書いたような「心が豊かだ」の反対語としての「心が貧しい」のようないろんな意味合いが入り込んでくる余地はなく、宗教的な不足として考えられているんですね。

 物質的な不足はピンと来ても宗教的な不足はピンと来ないかもしれません。でも、栄養不足が気づかないうちに体の不調につながるのと同じようなことがあるかもしれません。何か満たされない気持ちになって「心の癒し」や「スピリチュアルな救い」を求めたり、重い病気になって、死にそうになると一体何のために生きてきたのかと悩んで右往左したりする人は少なくないでしょう。そうした人たちの多くが常識的な意味での「心の貧しい人」ではないことは言うまでもないでしょう。「心の豊かさ」なんか求めても生きること自体の悩みや苦しみは消えるとは思えません。マタイの「心の貧しい人たち」はそういう場合のことを言っていると考えるのがよさそうです。

 もうかなり長くなってしまったので、結論を簡単に書きましょう。……貧しい人にはどんな言葉を掛けてあげるのがいいんでしょうか。「マジメに働かないからそうなるんだ。自業自得だ」ですか? そうじゃなく、せめて「きっといいことがありますよ」って言うべきでしょう。それがルカ福音書第6章第20節の意味するところだと思います。同様に病気や死や何より生きることに悩んだり、苦しんだりしている人に「神様をないがしろにするからそうなるんだ。天罰覿面だ」じゃないですね? 「だいじょうぶですよ」って語りかけるべきでしょう。それが私のマタイ福音書第5章第3節の解釈です。

 

 <追記>

 この文章についてはgooとmixiに載せた際にいろいろコメントをいただきました。

 その中には「心が貧しいというのを、あなたは心が狭い(考えが貧弱)、良心が弱いという意味に捉えているけれど、それではあなたの心が貧しいと言わざるをえない」といった趣旨のものもありました。

 書いたことをちゃんと読んでくれというのはネットの世界においては高望みであって、本文と関係のない自分の思い込みのコメントでも気にしていてはやってられないと思っていますが、そこは私も人の子、少し暗澹たる気分になりました。

 と同時にこの「心が貧しい」という言葉は少なからぬ人にとって躓きの石なんだなと思いました。

 この言葉を人に対して使うのは良くないということさえ見失わせるものがこの言葉にはあるんでしょうし、だからこそこの言葉を取り上げて論じる意味もあったのでしょう。

 ただ私の文章にも問題があって、論旨がもってまわっているのに結論としては唐突で、強引だったかなと思います。

 言い訳になりますが、最後のパラグラフは「心が貧しい」の意味の考察という点からは蛇足でしょう。

 しかしながら、論理として十分であっても宗教としては言い足りないということがあります。私の考える宗教においては人の行いや心に対して判決をきっぱりと下して、あとは知らんぷりということからは遠いのです。

 


 

  数学と音楽と国語の三角関係

 

  趣味を訊かれるとクラシック音楽とか読書とかフィットネスとかその時々で適当に答えるんですが、紙に書いて出す時には数学と音楽って書きます。それはいたずら心というかわざと下手の横好きを書いています。小学生の頃から算数ができなくて、大学受験でも数学にはホント痛い思いをさせられました。前に書いた物語で数学のテストに苦しめられる夢が(2回もw)出てきますが、あれは実感です。

『ソファの上でごろ寝したものだから、たいして眠らなかったのにいやな夢を見てしまった。数学の試験ができなくてうんうんうなっている夢だった。最近はあまり見なかったが、時々現れるテーマで、もう……年にもなるのになぜこんな夢で苦しむのかと思う。でも何かつらいことがあるときに数学の試験よりはましだと思って、気持ちを楽にしようと無意識に考えているのかなとも思う。それもいつものことで、夢だけが設定を少しずつ変えて苦しめてくれる。』

  まあ、こんな感じですが、なぜそんなに算数や数学ができないのかっていうと計算を間違えるんですね。これも他の物語でネタにした話ですが、2桁の暗算もできませんから。もちろん足し算のw。……計算能力と数学の能力はほぼ無関係で、数学者でも暗算が出来ない人っているらしいですけど、遺憾なことに計算能力と算数・数学の試験点数はかなり相関関係があると思います。今でも3桁割る2桁の筆算が何回やっても合わないで、泣きそうになってる小学生の自分を思い出します。

  そういう体たらくなのになぜか中学生くらいから数学者の伝記とか読むのが好きでした。中でも決闘の前夜に不朽の論文を書いて20歳で死んだガロアには憧れました。ついこの間もマリオ・リヴィオの「なぜこの方程式は解けないか?」という本を読みました。これは26歳で死んだアーベルとガロアの業績を中心に素粒子から宇宙の構造までありとあらゆるものに見られる『対称性』について書いたものです。

  音楽もできませんでしたが、それは不器用だからです。ハモニカもリコーダーも全然ダメで、吹いているフリをずっとしてました。エア・ギターみたいなものですねw。まだその辺のことは物語のネタにしていないんで、くわしく言うつもりはありませんが、歌はまあまあだったようです。だから高校の音楽の先生があまり器楽をさせなかったのはとても感謝しています。クラシックを聴き始めたのは大学に入ってからで、まあ暇つぶしみたいなことがきっかけです。それがずうっと続いたってことですが、でも楽譜は読めないし、耳で聞いて音程がわかるわけじゃないんで音楽について書いているのもいい加減なものです。

  それに対して国語はなんの苦労もなくできました。国語、特に現国って答が書いてある唯一の科目ですから、あんなものできても自慢にもならないと思ってました。努力が嫌いな怠け者のくせに努力しないでできちゃうとつまんないんですね。物語のネタにもなりません。もうちょっと言うと国語は頼みもしないのにデレデレしてくるさえない女の子で、数学や音楽はツンツンした片想いの対象なんです。……「そんなんじゃ、女の子にモテなかったでしょ?」って思ったあなたは正解ですw。たとえわずかしかなくても自分に与えられたチャンスと能力を大事に活かす人が恋愛においても人生においても実りを刈り取ることができるでしょう。

  ま、でもそんな人生訓をたれるつもりはありません。世の中にはゴミと二酸化炭素と人生訓が多すぎます。……話題を少しずらすとどうも国語が得意な子には女子が多く、数学が得意な子には男子が多いようです。もちろん例外はいくらでもありますし、私自身がそうですが、集団としてはどうもそのようです。その理由は何かなって考えると国語って自分に関心が向いてる子が得意なように思います。小説はもとより論説文も自分の内面を見ていることが必要なような気がします。別の言い方をすると言葉の肌触り、テクスチュアを楽しみ、それに親しんでいるってことです。

  で、数学って世界に関心が向いてる子が得意なんじゃないかなって思います。世界がどういう仕組みや仕掛けになっているのか、あれこれ考えていることが必要な気がします。別の言い方をすると言葉を数式という透明な機械に変えていじくり回すのが好きだってことです。

  もちろんこうした「言葉」を中心に説明する言い方自体が国語的人間のもので、あまり賛同が得られないでしょう。それに内面に関心があるから狭いとか、世界を見ているから広いとかいうことでもありません。「自分自身を知れ」という格言をソクラテスが捉えなおした時から哲学は始まったんですから。

  少し別の角度から数学について書きましょうか。さっき挙げたリヴィオですが、前に彼が書いた「黄金比はすべてを美しくするか」という本がおもしろかったので、「なぜこの方程式は解けないか?」も期待したんですが、不満が残りました。タイトルにあるように5次以上の方程式が一般には代数的に解けないというアーベルの定理が中心的テーマのはずが、その理由がきちんと数学的に説明されていないからです。数式を1つ入れると本の売り上げは幾何級数的に下がるという定理wがあるそうなんで、事情はわからないこともありませんが。

  代数的に解くというのは四則演算と(ルートや3乗根のような)ベキ乗根だけで解くという意味ですが、方程式を解くという実際上の要請からいうとある種のゲームです。楕円関数というものを使えば5次方程式だって解けるのにそれをわざわざルールで縛ってるんですから。こうしたゲームの祖先を古代ギリシアの作図問題、例えば「ある円と同じ面積の正方形を定規とコンパスで作図せよ」に求めることができるでしょう。これも定規とコンパスを無限回使っていいなら簡単にできますが、それはルール違反です。

  で、こうした問題をすっきり解決するのがガロアの考えた群論です。群論って何かを私の言葉で言うと「数を一定のルールでまとめた群(グループ)の特徴を研究するもの」ってところです。例えば3次方程式や4次方程式の解はどんなものも四則演算とベキ乗根のグループ内で表せますが、5次方程式以上の解だとそのグループからはみ出てしまう。また、定規とコンパスで作図するっていうのは、直線と円で描くってことですから、1次方程式と2次方程式の連立方程式の解の問題となって、その解のグループ(これには3乗根は入らないのでより狭いグループです)に入らない数(例えばπ)で表される図形は作図できない、まあそんな論理の運びです。方程式を計算することから、こうした方法でその構造の研究に変えたガロアが現代数学を切り拓いた一人と言われるのもわかる気がします。

  そんなゲームの研究みたいなものが何の役に立つんだって思うでしょうけど、現代物理学にも最適な相手と結婚するwのにも役に立つそうですから、リヴィオの本を読んでみるのがいいでしょう。でも、そんなことは数学が好きな子にはたぶん関係ないんです。数や式がどういう仕組みや仕掛けになっているのか、あれこれ考えながらいじくり回すのが好きなんですから。

  ガロアはその最大の論文でもあり、遺書でもある友人への手紙に「もう時間がないし、ぼくの考えはその領域については十分に展開できていない――なにしろ広大な領域なのだ」と書いたそうです。ため息が出ます。その短すぎる生涯と彼の見ていたものの広さを想像するだけで。

 


 

  小さな人間原理(2008-11-27)

 

「最近の金融危機を見てて、『小さな人間原理』って考えたのよ」
「相変わらずわけわかんないこと言うね。人間原理(Anthropic principle)というと、物理学、特に宇宙論において、宇宙の構造の理由を人間の存在に求める考え方で、"宇宙が人間に適しているのは、そうでなければ人間は宇宙を観測し得ないから"という論理を用いるやつのこと?」
「まあね。でも、それってウィキのコピペじゃないのw」
「バレたかw。でも、そのついでにコピペするとぼく的にはブランドン・カーターが主張した『生命が存在し得ないような宇宙は観測され得ず、よって存在しない。宇宙は生命が存在するような構造をしていなければならない』っていう『強い人間原理』に惹かれるな」
「ああ、見えないものはないのと同じ、認識と存在は同一だって話?」
「そうそう」
「独我論とちょっと似てるわね。コインの表と裏みたいに。でも、そういうのって想像力を否定してるような気もするけどね」
「うーん。そうかもしれない。ぼくがぼくとこの世界が存在してると思っていても、全部ただの夢かもしれなくて、実はなんにもないからっぽな空間で寝てるだけ……」
「ま、どっちがホントかは死ねばわかるかもね。でさ、そういう息苦しくなるような話じゃなくて、連星って知ってるよね?」
知ってるけど、一体いつになったら金融危機につながるのさ?」
「まあ、もうちょっと待ってよ。思いついたのは一瞬なんだけど、説明には手間が掛かるの。連星の周りの重力場を考えると2つのへこみが近接したビリヤード台をイメージすればいいでしょ?」
「うん。そうだね。太陽みたいなふつうの恒星なら1つのへこみ、三重連星なら3つ」
「へこみが1つならその近くをボールを通すのはむずかしくないでしょ?」
「ああ、太陽を観測するロケットの軌道計算の話か。なるほど」
「でも、2つへこみがあってその間をすり抜けさせるのはむずかしいのよ。ちょっとズレただけでどっちかのへこみに落ちちゃうの」
「イメージとしてはわかるけど、それはそれでケプラーの法則だか、ニュートン力学だかで方程式を立てて解けばいいんじゃない?」
「ふふふ。そう思うでしょ?ところが連星がその近くのロケットとか惑星に及ぼす重力の計算ってむずかしいのよ。だって、連星は両方の重心を中心にして回っているから」
「ああ、そうだね。みんな地球の周りを月が回っていると思っているけど、実際は地球もちょっとだけ月の重力に振られているんだよね」
「そこなのよ。ニュートンはリンゴが落ちるのも月が落ちて来ないのも同じ理屈じゃないかって思ったのよね。それがニュートン力学の元でしょ?」
「歴史的事実としてそうなのかは知らないけど、考え方としては合ってそうだね」
「で、そのニュートンの作った方程式を元にして、ロケットやミサイルを思い通りの軌道に乗せて飛ばすことができたわけ」
「うんうん。それを金融の世界に応用したのが金融工学 Financial engineering だそうだね」
「うん。それはそうとして、もしあたしたちが連星の周りを回る惑星に住んでいたら?」
「そりゃ、どっちの太陽が昇った時を日の出にするか迷っちゃうね」
「あはは。自然と時差通勤になるかもね」
「季節だってむちゃくちゃだろうなぁ。2つの太陽の重力が合わさったり、打ち消しあったり」
「それがさっきの2つのへこみのあるビリヤード台の話よ。すごく遠くまで滑らかなスロープのある傾いた台ね」
「そんな連星の周りだと惑星はちゃんと回れない。回れたとしても、生物が知能を持つまで進化できないだろう。そういうこと?」
「そう、それがあたしの発見した小さな人間原理」
「そうか、連星の惑星上ではニュートンも万有引力の法則を見つけることはできない?」
「まあ、そこまで言い切れるかどうかはわかんないけど、すごくむずかしそうだね」
「よくは知らないけど、三重連星以上だといくらコンピュータを使っても方程式は解けないんじゃないかしら」
「つまりロケットも作れないし、もちろん金融工学だのいろんなテクノロジーも生まれない?」


「もちろんそうなんだけど、問題は金融工学が金融の世界を平らな台とか、せいぜい1つしかへこみのない台だと決めたのは変じゃないのってこと」
「現実の人間の思惑が渦巻くおカネの世界は、ロケットを予め決めたとおりの軌道に投入するのとわけが違う?」
「そうは言わないわ。そう言うと金融工学者は『人間の欲望や思惑もこの変数で表されています』っていうでしょ?」
「そうだろうね。彼らは世の中の事象はすべて関数とみなせて、どれかの変数による偏微分方程式を作って、それが解ければ一丁上がりって思ってるみたいだから」
「ふふ。あたしはそれを偏微分方程式偏重って呼んでるんだけどね。でも、実際にはへこみがいっぱいあって互いに影響し合う重力場にいるのに、わりと単純な曲面だけ選んで理論をこしらえてたんじゃないのってこと」
「まあ、今度の金融危機を見てるとへこみの間をふらふら転がって行くボールのようだね」
「まだへこみだけならいいけどさ」
「と言うと?」
「ゴルフのグリーンみたいにカップが切ってない保証はないわ」
「つまりブラックホール?」
「うん。夢から覚めたらからっぽな空間かもね」

 


 

 不完全性定理とロボットの気色悪さ(2008-11-27,28)

 

「テレビで人間そっくりのロボットが出てくると気色悪いって思わない?」
「うん、目ん玉がきょろきょろ動いたり、滑らかなのかぎくしゃくしてるのかよくわかんない腕の動きとか見てるとそう思うね」
「アイボとかアシモならまだかわいげがあるけど、変に人間っぽくするもんだから……」
「死体みたい?」
「だよねぇ。でさ、なんでそう感じるのかな?」
「えーと……」
「ふふ。いきなり答え言っちゃうとつまんないからわざと回り道するとさ、君、不完全性定理って知ってる?」
「それくらい知ってるよ。『体系が無矛盾である場合、真なる命題が数学体系内で必ずしも証明できるとは限らない』って、ことでしょ?」
「あのさー、いっつもウィキの、しかも日本語のをコピペするのやめなよ」
「うぐぐ。……そう言われるときついなぁ。ま、自分の言葉で言うと『自己言及命題と偽命題を組み合わせて生じる奇妙なこと』ってところかな」
「あはは。正直でよろしい。まあ、あたしもその程度でしか、つまり『<クレタ人は嘘つきだ>とクレタ人は言った』って喩えでしか、理解してないしね」
「うん。それで?」
「それで『ゲーデルは神の不存在を証明した』とか言ってる人がいるよね?」
「うーん。そりゃ正確じゃなくて、『神が存在するかしないか、決定不可能だ』ってところじゃないの?」
「まあ、そっちでもいいんだけど、でもそれってずいぶんな話だと思わない?」
「思うね。人間って自分たちが進歩したと思った途端に傲慢になるのかなって……」
「あはは。そうだよねぇ。で、なんでそう思うの?」
「そりゃあ。偽命題ってところに問題がある、だって神には偽命題なんて関係ない」
「まあ、そっちの方がわかりやすいけど」
「ん?……自己言及命題の方が問題だって言いたいの?」
「そうなるかしらね。まあ、もうちょっと広く言うと、『命題』とか『公理系』とか『数学』とかって誰が作ったの?」
「あは、そりゃ人間でしょ?神はあずかり知らない。人間を作ったかもしんないけど、そんな連中が作ったものなんか知ったこっちゃない」
「じゃあ、被造物がそんなこと言えるすべがあるとでも?」
「……」
「だからぁ、サッカーの試合で、いきなり誰かがボールを抱えて走り出したとして、それでサッカーを考えたやつがおかしいとか、ましてやそんな者はいない!なんて言ってるのと同じじゃないの?」
「よくわかんないな」
「わかんない?まあ、そうかもね。でも、勝手にゲームやそのルールを作っておいて、それを超えた上にある者のことをとやかく言うのはお門違いというか、アホじゃないのって」
「超越者はすべてを超越する?」
「トートロジー、同義反復ね。自己言及命題に近いわね」
「いや、それは違う。なぜなら」
「なぜなら内面があるから?人間には」
「ははん。そういうことか」
「そう。ロボットに内面はないの」
「でも、未来のロボットは内面を持つようになるかもしれない……」
「ふふん。どうせフィードバックシステムを組み込んだプログラムみたいなことを言ってるんでしょ?学習能力を持つコンピュータ」
「まあね。なぜだか日本人はとても好きだね」
「なぜでしょうね。……それはおいといて、そういうプログラムは偽命題を扱えるの?自己言及命題は?鉄腕アトムみたいなロボットに『自己言及命題と偽命題を組み合わせて生じる奇妙なこと』をじっくり考えさせたら?」
「おもしろそうだね」
「まあ、偉そうなことは偽命題だけの公理系を作ってからにしてよって」

「偽命題だけの公理系?それはできないこともないような。別の宇宙ではそうなってるかも」
「ふふ。だんだんおもしろくなって来たわね。……でも、話はもっと自然に即して考えましょ」
「と言うと?」
「人間はウソをつくわね?『あなた、あたしのこと嫌いでしょ?』って訊かれたら半分以上の人はホントのこと言わないでしょ?」
「そうだねぇ」
「じゃあ、チンパンジーは?」
「ぎゅって抱きしめられたら、好きでなくても抱きしめ返すかも」
「じゃあ、イヌは?」
「同じ、かな。イヌは人間に依存しすぎてるから」
「じゃあ、ネコは?」
「びみょーだね」
「そうね。犬猫のストレスってそんなところなのかも。人間に馴らされすぎた動物はおいといて、野生動物はウソつかないって思うでしょ?」
「だね」
「じゃあ、ロボットは?」
「えーと。ある特定のimputが与えられた場合にウソのoutputを吐き出すようにプログラミングすればいい?」
「まあ、そうね。じゃあ、自己言及命題は?」
「outputをimputに与える、I/Oを逆に……いや、違うな」
「うふふ。ブラックボックス内でそんな感じのことをしないとダメだよね」
「そんなことをしたらすぐにフリーズしちゃうんじゃないかな」
「ましてや自己言及命題と偽命題を組み合わせたら?」
「……なるほど。そんなことを考えられるのは人間だけ?」
「そう思うけどね」
「やっぱりゲーデルってすごいね」
「べっつにぃ。だって、クレタ人のパラドックスって古代ギリシア人が考えたんじゃないの?」
「そうだけど」
「現代人はテクノロジーの進化を思考力の進歩と履き違えてるんじゃないの?」
「いや、ただ単に数学とかが進歩したから、かえって本当の意味で考えるのを怠っているだけかも」
「ゼノンの背理も解けてないくせにね」
「あれ?そうなの?」
「解けたって思ってる連中は時間を外側から見てるだけよ。時間を横軸に取ったり、時間で微分したりした瞬間にそうなってるのに」
「時間の外には立てないってこと?」
「当たり前でしょ。生命保険会社が作るライフプランを描いたグラフを見て、自分の一生がグラフに過ぎなくて、それを見てる自分がその線上の蟻よりもちっちゃな存在だと納得する方が変だわよ」
「それってもしかして……」
「そうよ。『人はふだんは時間というものをわかったような気になっている。でも、自己を振り返って誰かに説明しようとするとわかんなくなる』アウグスティヌスの言葉の翻案だけど。時間って客観的な場合と主観的な場合と全然違うの」
「つまり、がん宣告を受けて、『ぼくの一生ってなんだったんですか?神様!』とか?」
「ふふ。そういうのもあるわね。こんなに世界が美しかったなんて知らなかった。こんなに1日、1分、1秒が愛しいものだとは気づかなかったとかね。……ったく、自己反省もなく、ぬるい人生送って来られて、よかったわねとしか思わないけど」
「一期一会なんてある意味異常な精神状態だよね」
「でも、ロボットには味わえないでしょ?」
「Memento moriはロボットにはない。あればあんな目はしていない?」
「その言葉もなんだか手ずれがして、安っぽいけどさ」
「自己の死を知らないロボットはやっぱり死体なのかな」
「死を知っている生き物の目はきれいよ。青空を映したように」

 


 

  にゃお語とバベルの塔(2008-12-22)

 

ふだん一人でものを考えるときに黙って考える人とぶつぶつ呟きながら考える人がいる。もちろん誰でも場合によって、両方を適宜使い分けるてるんだろうけど、ぼくはあまりぶつぶつ言わないタイプのように思う。

そんなことを言うとぼくの周りの人は「いや、おまえはけっこうぶつぶつ言ってるぞ」と言われるかもしれないが、それは違う。その証拠にこれを書いている間、ぼくはほとんど黙っているから。でも、頭の中では何か言っているし、だからこそこうやって文章にできるわけだ。これを内語というらしいけど、ぼくはにゃお語と名づけている。だって、それは発声される言語、書かれる言語の順で発展してきた言語とはちょっと違うもののように思うからだ。

脇道にそれると、エスペラント語やコンピュータのプログラミングのような人工言語は、この発展を経ていないから天然物とは似て非なるものだ。さらに言うと、ここで言っていることをシニフィエだのシニフィアンだのといった文脈で捕らえるのは大間違いだ。大正解だと思うのは勝手だけどw

さて、呟きは「口偏に玄人の玄」と書くように玄妙なる言葉だと思われてきたのだろう。神秘的な黒の声ってところか。自分を含めて、聴くともなく聞く人に意識とその下にあるものの隙間に忍び込ませるような効果があるのを会得している人はわりと多い。言い間違いやテレビでよく言う「かむ」というのも同じようなものだ。意識しているか、意図していないか、そんなことは隙間に入るものと吐き出されるくらいの異同だ。

とは言え、呟きはやはり特定の言語に依存する。自分の知らない言語の呟きは隙間に入りようがないと思う。日本語なら(平板な調子で)悪口を呟かれてもなんらかの反応をするだろうけど、エスペラント語では反応しないだろう。

(この辺から最近のぼくの変な思考が走り始めるが)だって、旧約聖書によればバベルの塔を築こうとして人類はいろんな言葉に分断されてしまったんだからと思ってしまう。古代ユダヤ民族は人類は元々は同じ言語をしゃべっていたと考えていたわけだ。

じゃあ、神様は何語を理解されているんだろうか?すべての言語を理解している。ううん、かつて語られたものの、文字などの痕跡を全く残さずに消えた言語や将来生まれるだろう言語もぜーんぶ含まれるというのが常識的な回答だが、なんだか心許ない感じもする。

そこで、内語は実は日本語などの特定の言語ではないと考えたらどうだろうか?語られた瞬間に日本語なり、英語になるが、それとは違ったちょっとぼんやりした、なつかしいような言語。そう考えても否定のしようも(し甲斐も)ないだろう。「語る」には今、ぼくがやっているように「文字化」することももちろん含む。もちろん。こう考えても何も矛盾しないような気がするし、なんにも問題はないだろう。

そして、神様は内語だけを聴いている。いや、内語しか聞こえない。これをいいことだと考える人もいるだろうし、おそろしいことだと考える人もいるだろう。あるいは恐山のイタコがどの国の人間でもあの辺りの方言で口寄せすることを思い出す人もいたかもしれない。……

で、ぼくは内語は言語自身を否定する面を有するから「ナイ語」で、かつ人間の独占物でもないようような気がするから「にゃお語」と呼んでいる。形をなすともなさないともつかない言葉が(言葉に限らず音楽やアートでの「表現されたもの」でもいいんだが)意識の海でぷかぷか浮いているようなものか。これまた昨日、行った東京国立近代美術館の「沖縄・プリズム 1872-2008」で見た怖いような、気持ちいいような(書くのをとりあえず忌み憚るような)イメージそのものなのだが。

余計なことを言うと、この特別展の最終日だからでもなーんでもなく、「ぐるっとパス」の使用期限で、お天気もよく、自転車で行くのにちょうどいい距離だった(他にもあの辺にある施設は見たし)からだが、まあ多くの女性とぼくに閉館間際までいさせる重力場はあったと言ってもいいかにゃw

こう考えるといろんなことがわかってくるような気がする。神様はイメージしか見たり、聴いたりしないとか(じゃあ、そのイメージは誰のものなのかとか)。もうちょっと具体的になぜ生まれながらに障害者や差別される人たちがいるのか。あるいはどうして悲惨な事件や戦争ってなくならないんでしょうかといったマスコミがなんとかの一つ覚えのように毎日がなり立てるニュースの存在意義だとか。……まあ、あっさり言ってしまうと後の方のは弁神論的話題だにゃw

こういうことはわかった方がいいのか、わからない方がいいのか、まあどうせほとんどの人はいくら言葉を費やしてもホントのところはわからないんだろうし、それが日常生活を送るための安全装置なのかもしれないが。だから、だいぶ長くなったんで、(最近、「眠い」ばかり呟いている)ぼくもこれでとりあえずやめよう。VICE VERSA。

 


   

  ぼくのリヴィングの3枚の絵(2008-12-28)

 

ぼくのリヴィングには油絵とエッチングとポスターが1枚ずつ飾ってある。

油絵は胡蝶蘭を自分で描いたものだ。ずっと昔、いろんな趣味に手を出していた頃、登山の帰途に背骨を骨折して3か月療養していたときに、姉からお見舞いでもらった胡蝶蘭を毎日眺めていてホントにきれいな白さだなと思って、その輝きを出すために何度も重ね塗りをした。その途中を見た見舞客は真っ赤や真っ黄色に塗った花を見て、頭がおかしくなったのかと心配されたのには苦笑するしかなかった。それだけ手間を掛けた甲斐があったのか、画家だった姉の舅からもほめられたのはうれしかった。ただバックを青空にしてはあまりにも濃い青で描いたのは、彼にとってさえ違和感があったようだ。額はムラのある鬱金色といったところで、住んでいたウィーンのアパルトメントのケラー(英語でいうセラー、地下貯蔵室)にあったものを拝借したものだ。

エッチングはウィーンのシュターツ・オーパー(国立歌劇場)を描いたもので、ウィーンを案内したお礼に親戚からもらったものだ。冬枯れた並木の向こうにオーパーがあって、群雲の中に少しだけ薄い青空が見える。ぼくにとってウィーンでの生活はとても楽しい想い出で、あそこのオペルンガッセ(オペラ小路)を曲がるといい感じの骨董屋があって、といった具合にいつでも想像することができる。装丁はぼくが誂えたもので、くすんだ茜色のマットで大きく縁どられ、金の細いフレームに納まっている。

ポスターはオーパーでの演目を示したもので、文字しかなく絵ではないが、これまた懐かしいものだ。ウィーンの紳士淑女は、大晦日をふだんはオペレッタをやらないオーパーの「Die Fledermaus こうもり」で大笑いし、明けて元日はお屠蘇気分で、「Neujahrskonzert ニューイヤーコンサート」へ行き、あまり上等とは言えないシュトラウス一族のワルツなどを楽しむ。日本でも同時中継をやっているが、高い席でしゃちほこばって見物している日本人が映るとかえって貧乏臭く感じてしまう。あんなのは季節外れだけれど、バル(舞踏会)とともに盆踊りのようなものだから。

オペラやWiener Philharmonikerのコンサートは社交場であって、開始前や幕間にゼクト(スパークリングワイン)やワインを片手にドレスアップしたマダムなどとおしゃべりするのがいちばんだろう。そんな真似ができない人たちは学生のように天井桟敷で音楽を楽しめばよろしい。いちいちドイツ語を書くのも嫌味だし、オペラ劇場の構造がわからない人に言っても仕方ないので簡単に書くと、平土間はお芝居を見るもの、周りのボックス席は「お、あの人が来てる」と思わせるための自己顕示の場所、天井桟敷は音楽を楽しむ席だというのが通い詰めたぼくの観察結果だ。

脇道にそれてしまったけれど、土色のポスターはその「こうもり」のちらしで、最近、家の中を片づけていてひょっこりモーツァルト関係のポスターと一緒に出てきたものだ。あの大晦日にゼクトの酔いの勢いで終演後、入口に貼ってあるのを剥がしたのだ。「そんなことしていいのかい?」と一緒に行った人は心配してくれたけれど、「だって、もう終わっちゃたんだからいいんでしょ」と応えたのを少し前のことのように思い出す。折角久方ぶりに出てきてくれたポスターだから、東急ハンズで出来合いのフレームに明るい桃色の画用紙を入れて、装丁してもらった。紙くずになりかけてたものだから、ご大層に扱うのもおかしいだろう。画用紙も金のフレームも感覚で選んだが、エッチングといい対比になっているのは偶然ではないのかもしれない。

で、その2枚を睥睨しているのが、ぼくの青味の強い油絵である。胡蝶蘭はその名のとおりちょうちょが群れ集っているようなあやしさがある。「胡蝶の夢」は荘周の説話の中でもとりわけ有名だが、一応原文を示そう。

昔者 荘周夢為胡蝶
栩栩然胡蝶也
自喩適志与
不知周也
俄然覚 則遽遽然周也
不知周之夢為胡蝶与 胡蝶之夢為周与
周与胡蝶 則必有分矣
此之謂物化

これはある意味で、哲学、特に存在論や認識論の根本的なところに触れている。わかりやすいところから言えば「不知周之夢為胡蝶与 胡蝶之夢為周与」自分が蝶になった夢を見ていたのか、蝶が自分になった夢を見ているのかわからない。……自分がなんなのかわからない、だから自分にひきこもる。何かにすがる、恋をする、物を買い漁る、宗教に走る。他人がなんなのかもわからない、だから特定の人でなく、不特定の人を(誰でもいいから)殺したくなる。凡庸なふつうの人間が考えそうなことはそんなところだろう。しょうもない独我論的発想だし、コンピュータと高齢者が増えるとそうなるのもわかりやすい話だ。データとゴミは今の日本を読み解くキイワードかもしれない。

しかし、荘周は天才だから、そんなぐじゅぐじゅしたところに留まってはいない。「周与胡蝶、則必有分矣。此之謂物化」自分と蝶には必ず区別がある。ここのところが物へと化すということなのだ。独我論ではモノ(物質)も者(人間)もすべて感覚的表象、単なるデータのような実体のない「ものand/orこと」になる。それでいいじゃないかと思う者はなまぬるい思考と行動しかできない。平凡な日常の延長に薄っすらと暗い人真似の死がある。

面倒だが、もうちょっと言おうか。独我論を突き詰めると自分だけでなく、世界も気色悪く溶け始める。感覚がすべてだと思うと感覚が狂い出す。いろんなものが見えてきたり、聞こえたりする。幻覚・幻聴・自分勝手な妄想と記憶。そういう人は昔も今もいっぱいいる。別に精神病院の中だけでなく、シャバの方が多いし、そうした人たちのための商品もいっぱいある。若者には麻薬類似のデータを、年寄りには健康維持のためのゴミを。

だからこそ(荘周もここは強い語調で述べている)、自と他の区別、すなわち客観的立場を認めなければならない。認識論は存在論、すなわち「物化」とつながっている。自分があれば蝶はある、蘭もある。何より人と語り、触れることが必要なのだ。逆に言えば(本来は表裏一体だが)モノを作ったり、食べたり、何より体を使うことで、自分も徐々にわかるし、そうすることで「すべてを支えているもの(ここでは一応「自然」としておこうか)」も次第に見えてくる。これがきちんとできなければやはり実体のないデータか、無用のゴミになるだけだ。何があなたにとっていちばん大事なのか?やたら情報を集めること?人真似をすること?

そう考えるとぼくが次に描くか、求める絵もなんとなくわかってくる。あの美しいギザギザした八ヶ岳だろうか。物語としてはもう2回書いた。1つはすぐにわかるだろうが、出来の悪い未完成のままのものだ。もう一つはいちばん長い想い出話で、「支えてくれるもの」を希求したものだ。「日本人にとってお正月は特別な意味のある時期だからこそ、親戚がもめたりする」といったことも書いた。

でも、自分としてはもし機会か恩寵があればヨーロッパの絵画の王道である人物画を描きたい。別の部屋には(オーパーのポスターのちょうど裏側にある)これまた天才のマティスのブルーヌード(ニースのマティス美術館で買った複製だが)のようなシンプルなものがいいかもしれない。

ぼくはこれまでマジメで律儀過ぎたのかもしれない。先日、旧友に「昔からなんでもむずかしく考える人だなって思ってた」と言われて気づいた。で、もうちょっと趣味も仕事も遊び半分でやろうと思う。その方が他人とうまくやっていけそうな気がする。素直でウソの吐けない性格だと思うけど、それもほどほどがいいのかもしれないw

 


 

  数学と神学の親和性(2009-01-08)

 

数学は学問の中でも最も厳密な学問、いわばそのお手本のように考えられている。他方、神学(ここでは一応キリスト教神学を念頭に置いている)は「神学論争」といった言葉遣いからもわかるように一般の日本人にとって不毛で、無意味な(日常用語としての)観念論の代表のように思われているだろう。例えば中世の神学では「天使は男か女か」などといった馬鹿げた議論が行われていたといった具合に。

今、「厳密な学問」という言葉を使ったけれど、それを論理的な一貫性とか、時間や場所、(その学問の)話者と聴き手などの属性に依拠しないことという意味での普遍性のことだとしよう。もちろん数学はこれらを満たしているだろう。

だとすると、法学、経済学、文学、社会学といったいわゆる文系の学問はおよそ厳密な学問たりえない。法的正義や経済活動をおきざりにしてまで論理的一貫性を追求するはずもないし、文芸作品のテクストや社会の実相から独立(非依拠)したものなどその存在理由を疑われても仕方がない。つまり文系の学問は「厳密な学問」を志向してはいけないし、それを賞賛の言葉と思ったら大間違いなのだ。

では、理系の学問を見てみようか。物理学、化学、生物学といった高校でも習ういわゆる自然科学(地学は地球物理学と天文学という物理学の一分野に再編される)と工学、農学、医学といった応用科学に大別できるだろうか。まず、医学は全く「厳密な学問」ではない。ヒトの命を救い、健康にする手助けをするのが使命であって、論理性や普遍性なんかにかまけてもらっては困るだろう。応用科学は要は実用科学であって、広い意味でヒトのためにならなければならない。ヒトや動物が繁殖し、ビルや鉄道やシステムがちゃんと機能してくれればいいのだ。数学は使われるけれど(医学にも?w)、それはあくまで「ツール=道具」としてである。

自然科学だって程度問題といえば程度問題である。化学や生物学はもとより物理学の中で最も数学に近い素粒子論・宇宙物理学にしてもphysicalなモノを相手にしている点で、つまりこの世界にあるモノやその振る舞いを研究している以上、「厳密な学問」にはなりきれない。なんのことはない「厳密な学問」とは数学との距離・格差を言っているだけのことである(ちなみにphysic-で始まる英単語を調べてみるとおもしろいだろう)。

では、本当に数学は「厳密な学問」なのか?公理系数学が典型的だけど、なんらかの前提(つまり「疑う者は去れ」という意味での教義)なしでは数学は成り立たないのではないか?応用数学で頻用・濫用される偏微分方程式は、何かを定数とするという意味で普遍性を意図的に放棄しているからこそ威力を発揮しているのではないか?偏微分方程式と行列(まあデータを表にしたものだ)を取り上げたら数学を応用した学問はすべて崩壊すると思わないか?

で、ここまで書くとぼくの手筋が読めた人も多いだろうから、気楽に行こう。つまり孤独な数学のお友だちは学問の世界では実は神学なんだよ。「イエスは神の子だ」という超越的な前提を置けばとてもきれいに論理は構成できるんだ。世俗的な効用はよくわからないけど。

なぜ孤独なのかは実用性がそれ自体としてはないということなんだ。実用的な神って初詣や葬式のことかもしれないけど、じゃあご利益がない神を法廷に引きずり出してごらん?「あたしにとって神様は現実的な存在です」って人は現実的な生活が送れると思う?w

学者やその弟子みたいな人と議論してて、「そんなの神学じゃないですか?」って、ぼくは(皮肉でもなく)よく訊くんだけど、みんな嫌そうな顔をしながらも否定できないでいる。ぼくなら自分が仕事として一生懸命やってることで、そう言われたら少なくともトマス・アクィナスでも読んで神学を勉強するだろう。実際、仕事でもないけど、メシアンの作品を理解する必要上、「スンマ・テオロギア」を英訳を頼りにちょびっとだけ読んだらすごくおもしろかった。

でも、数学も神学も公理や教義なんていかめしい顔をしてるからちょっとやだ。これらと縁戚関係にある音楽や哲学の方が自由で、いい加減で、遊びがあるから好きだ。現代の哲学や音楽は人気がないか、ポップになるために娼婦のような努力をしているところもかわいい。Philharmony ハーモニーを愛し、Philosophy ソフィアを愛するからいいんだ。そんなのはピュタゴラス教団が(たぶんソクラテスより前に)言っている。ヘビメタはまだ我慢できるけど、メタフィジックスなんてよしとくれ。神話性より親和性ってオチだね♪

 


  

   09年1月更新時のメモ(2009-01-31)

 

今日はphilosophyと分類されている文章をサイトに載せました。追加したのはたった5編だけで、しかも書かれたのが11月の終わりから1月にかけての時期に集中しています(日付を掲げてあるもの)。その理由は個人的なものなんで具体的に書くつもりはありませんが、まあ音楽のときに書いたのと同じ事情、つまり強いストレスを感じていたからでしょう。ぼくはどうも追い込まれると哲学的になる、というとカッコよさそうですけど、常識はずれの極端なこと、究極の問題を考えてしまうタチなんですね。

哲学って確か西周が作った訳語ですが、あまり好きじゃないですね。もったいぶってて、硬そうな感じ、鉄学(って鉄道マニアが極めようとしてることみたいw)って響きです。それよりは直訳で「知を愛する、愛知学」の方がいいんじゃないか。それじゃあ、尾張と三河の違いの考察とか、なぜ名古屋人はなんでも味噌味にするのかとかになりそうですけどw

内容的には広い意味での独我論をめぐる問題を扱ったものが多いようです。それが今の日本において重要な意味を持っていることは、社会的な事件や質のよいマンガや映画を見ていても、三島由紀夫その他の優れた知性がこれまで投げかけてきた問いからも明らかでしょう。ただ、それだけでなくぼくの子どもの頃の経験も大きな影響を与えていると思います。おそらく小学校に入るか入らないかくらいの頃ですが、家でお留守番している時のことです。自分はいつかは必ず死ぬんだ、死んだらどうなるんだろうという、いつもの不安に捕らわれていました。世界は自分の死後も何事もなかったかのように続いていく、でも、ずっとずっと先の未来にはこの世界もなくなってしまう、これまたいつものように考えていました。宇宙の果てはぼくにとっては時間の終わりの問題だったんです。

ここまでは幼少期の想い出としてよく聞く話です。ただそのときにぼくはふと今、外出している両親や姉は存在するんだろうかという不安を覚えました。ぼくにはそれを知るすべはありません。知覚出来ないものは存在しないのも同じではないか? デカルトを読んでなくてもそれくらいのことは考えます。知覚主体としての「ぼく」と知覚の対象・客体としての両親やいろんな人たちや周りのすべて、つまり「世界」は実はぼくが知覚する限りにおいて存在する、これはその時にいわば発見したことです。

その感覚をもっと経験に即して言うと、両親たちは今はどこかで灰色っぽい泥になっているというイメージでした。窓から見える近所の家もその向こうの二上山やその上の澄んだ青空も窓枠の少し先は泥になって崩れている。ぼくが窓に近づいていくと空や山や家はさあっと形をなし、色づく。もうすぐ姉が小学校から帰って来るけど、それはウソで泥が人間になって戻ってくるだけ。同じように夕方になるとやっぱり泥から人間に戻った両親が泥だった豚まんをおみやげだよと言って、渡しながら家に入って来る。…ぼくが見渡せる世界以外は泥の中で適当に辻褄が合わせてあるだけ。彼らは彼らでいろいろと考えているかもしれないけど、ぼくに言わないこと、ぼくが感じないことは見えない世界が存在しないのと同じで、つまるところぼくにとって他人の内心は存在しない。この感覚はとても怖いものでしたし、ぼくが(決して人間嫌いではないのに)人見知りで、人付き合いが下手なのもその辺に原因があるのかもしれません。

ぼくが死ねば世界はただの泥、何の変化も区別もない混沌に変わる。時間もぬかるみに足を取られてしまいだんだん止まっていく。そういうイメージはずっとぼくの心の片隅にありました。…つまりぼくにとって独我論は幼なじみなんです。「ぼくのリヴィングの3枚の絵」という個人的な内容の文章が独我論との関係が深いのも当然です。

数学と神学って似てると書いたら批判のコメントが来ました。引用するほどのものではないんですけど、その人が気分を害していることはよくわかります。だって、ソクラテスがそうであるように哲学って、人を怒らせるものだから。特にソフィストと呼ばれた知識人、自分が頭がいいって思っている人を激怒させることにこそ哲学の本領があるといってもいいくらいです。読んで納得、いいお話ですね、なーんてのは水増しした薄味のものでしかありません。でも、薄められた哲学らしきものほど本当の意味でものを考えることの妨げになるものはないでしょう。

ついでに言うと、その人は自称クリスチャンだそうですが、特定の宗教の信仰は神学を理解する上では躓きの石でしかないでしょう。だって、クリスチャンがイスラーム神学を客観的に理解できますか? 通勤電車の中でリチャード・ベルの500ページ弱の「コーラン入門」を今読んでて、200ページほど読んだところですが、イスラーム神学ってすごく深遠で、おもしろいなって思っています。ぼくは「数学と神学の親和性」で、キリスト教神学だけしか扱えなかったことをちょっと恥ずかしく思っています。

さらについでに言うとぼくは特定の宗教への信仰心を持っていませんが、それを恥じてもいませんし、自慢にも思っていません。で、おそらく死ぬまでこのままでしょう。信仰心って親の信仰(家の宗教・宗派でもいいですが)を受け継ぐ伝統的な形か、肉親の病気や死とか個人的な悩みで入信するのがほとんどだと思いますが、それって要は前例踏襲か弱みにつけ込まれたってことなんで、そういう人たちといっしょになるのがイヤなんですね。何より信者はもとよりなまじいの僧侶や牧師・神父なんかより宗教のことはわかってるつもりですから。いや、そう言っちゃうと傲慢ですから、誰が本物の宗教家か否かはすぐにわかると言いましょう。それはもちろん知識だけの問題ではなく、信仰というものの中核的部分である魂の問題として。だって、それがわからなくてはバッハやジォットを理解するなんて到底不可能ですから。…やっぱりその辺につながっているわけですw

 


 

  剣岳山頂の錫杖の持ち主はどこへ行ったのか?(2009-02-04)

 

剣岳はその名のとおり、現在でも登頂が極めて困難な山として知られており、古くから立山と合わせて信仰の対象となっていたにもかかわらず、初登頂は1907年(明治40年)の陸軍参謀本部陸地測量部の柴崎芳太郎らによるものだから、まだ100年ちょっとしか経っていない。また、1907年といえば日露戦争直後の旧陸軍が最も輝かしい時代で、だからこそ未踏の剣岳を制覇することは陸地測量部の威信を掛けた一大事業であったと想像することは許されるだろう。

ところが、彼らがその山頂に立った時に意外なものを発見した。古い時代の錫杖と鉄剣の先らしいものである。柴崎らより千年以上前の8世紀頃に既にこの山に登った者がいたということだ。ぼくはたぶん深田久弥の「日本百名山」でこの話を読んで、強い印象を受けた。それを最近、ふと思い出して(というかその錫杖がイメージとして浮かんできて)、山岳信仰やその対象となった山について、例によってウィキをあちこち見ているうちにこのエピソードの異常さに改めて驚いた。

例えば立山に初登頂したという佐伯有頼(676年頃〜759年?)には立山の神の化身の白鷹と阿弥陀如来の化身の熊に導かれたという伝説がある。白山に717年に初登頂したと言われる泰澄には妙理大菩薩を感得したという伝承がある。これらが事実かどうかといったことはどうでもいい。ぼくが問題にしているのは次のようなことだ。

。掘腺言さ頃に都から北陸へ至る道から見える荘厳な山に登ることで、宗教的権威を獲得する動きがあった(それは佐伯有頼が越中の国司の一族とされていることから推測されるのだが、俗世的な権力・権威とも密接な関係があっただろう)。
⊇蘚伉困垢覆錣然山した者は特別の宗教的権威を得るに至った。
それらの山は東海道の富士山、中山道の御岳などとともに長く信仰の対象となったため、山や開山者に関連する神社仏閣も宗教的利益を得た。

これが本当かどうかの論証は面倒なんでやらない。ぼくが問題にしているのは、剣岳の初登頂が,瞭阿の中で行われたらしいのに、しかも白山はおろか立山だって問題にならないくらい困難な登山であったのに、それが歴史にも伝承としても全く残っていないことだ。

ぼくは昔ちょっとだけ登山をやっていたことがあって、立山は黒部ダムから標高差1500メートルを2日かけて登った。立山黒部アルペンルートを使えばサンダルでも山頂に立てるのに反発したわけだが、途中で会った人たちには感心されているのか、あきれられているのか、ともかく物好きだと思われたのは間違いない。そのわずかな経験から言っても、現代において登山はどの山に登った(例えば中高年を中心として「日本百名山」制覇とかがブームになっている)なんてのはどうでもいいことだと思う。どれだけの標高差をどんなルートで登るかが問題で、その意味では立山は(北アルプスの槍ヶ岳や穂高岳に比べれば)そんなにむずかしい山ではない。もちろん北陸側から登ったわけではないから迂闊なことは言えないけれど。

それはともかく、そうした経験があるから古代において人里からどう考えても最低2500メートルはある標高差を大した装備もなく、登った古代の人たちの体力と精神力には素直に感動する。夏だって3千メートルの高地では陽が沈めばあっという間に気温は下がり、稜線は常に強風が吹き、体感温度は軽く氷点下だろう。月の明かりがどんなに明るいか、月のない夜に星明りでどれだけ物が見えるか。ほとんど想像もできない人が少なくないだろう。

だから、そうした人たちのリーダーが△里茲Δ文威を持つに至ったのは当然だと思う。現代でも比叡山の千日回峰行(ウィキの記事では下の方にある)の行者を信者たちは拝んでいる。生き仏だと言う人もいるし、それは実感に即した言葉だと思う。

人間の体力と精神力の限界まで引きずり出すのが修行だと思うが、比叡山延暦寺のそれはとてもシステマティックで、京の鬼門を守護してきたあそこにふさわしいものだ。で、その内実は仏とか如来とかの光とか声とかを見聞きしたということだろう。それを宗教的体験と呼ぶか、幻覚・幻聴つまりは精神異常の一種と取るかはその人次第である。

修行の中身がわりと開示されているから延暦寺を例に引いたわけで、別に古代に初登頂した人たちとどっちがすごいとか比べる気はないけれど、あえて言えば先人がいる方が楽に決まっている。とすればその宗教的体験の深さ(精神医学的異常さと言ってもいいけど)は現代人にはもはや到達できないレヴェルなのかもしれない。

こう考えてくるとかえって剣岳の山頂の錫杖の持ち主が何の記録も言い伝えも残さずに、登頂した後、かき消えてしまったのは当然のような気がしてくる。彼は上人と呼ばれる人たちをも超越した境地、本当の意味での解脱を達成したのではないか。だとすればそうした者にはもうこの世にはどこにも行く場所はないし、行く必要もない。解脱が現在という時間からの脱出であるとするならば過去とか未来とかの区別もないだろう。

これはあまりにも唐突な結論かもしれないが、わからない人にはいくら論理立てて説明してもわからないだろう。山頂か下山途中に体力の消耗か事故で死んでしまい、次第に腐って骸骨は強い風に吹き飛ばされたとか、無事下山して名もない僧侶として里の小さな村で生涯を終えたとか言ってもらった方がいいのだろう。だって、それが自分たちの凡庸な一生の延長上のお話であり、「昔話」の枠組みに都合よく納まるものだから。

でも、子どもっぽいぼくはそんなことは信じない。そんなことは裏山、里山でもありそうな話で、そんな生ぬるい話は剣岳に似つかわしくない。3000メートル以上の山は富士山以外はだいたい登ったけど、森林限界を突破していくとそこには全く違う世界が広がっている。下界の人間に何がわかるものか。そして、剣岳は2998.6メートルだそうだ。つまりそこに立てばあなたの頭は三千メートルを超えるのだ。

精神の高みにおいても森林限界はあるだろう。彼は今ふうに言えばパラレルワールドに行ったのかもしれない。あるいは(独我論的には同じことだが)自分が存在しない世界にこの世界をちょっとだけ編集し直したのかもしれない。ぼくはお釈迦様の入寂をそう理解している。

でも、それは超自然的現象とか、宇宙論的・超越論的問題というふうには別に思わない。「あの山に登れば自分も世界も変わるかもしれない」そういうふつうの人間が抱く日常的な想いの先にあるものを語っているだけだから。で、錫杖は彼の子どもっぽいいたずらじゃないかとぼくは想像している。名前も何も残す気はないけれど、自分の次に登って来る人間をちょっとびっくりさせるために。