怪談シリーズ

   階段

   ありふれた平和な町

   トンネルの3人

   薄気味

 

 史織物語

   引越し

   待ちぼうけ

   パジャマ

   猫・雨・洋館

   毛布の中の日曜日

   世界の秘密

   疑心暗鬼   

 


 

  階段


 階段の怪談なんて下手な洒落のようだが、それが案外そうでもない。自分が聞いただけでも階段にまつわる怪異な話は少なくないのだ。
 古い話だと自分の遠縁のじいさんの話がある。自分の故郷は山あいの30戸くらいの集落で、苗字が2種類しかないような田舎だから、みんな親戚のようなもので、ふつうに付き合っている分にはいいのだが、いったんこじれると大変だったようだ。
 結婚か葬式か、土地か水利か、昔のもめごとはだいたいそんなものだが、そのじいさんもそんなことだったのだろう、しかし本人は思い詰めに思い詰めて、鎮守の森に通い詰めるようなことになったらしい。夜中に願掛けに行く、早い話が憎い相手を呪詛しようというのだから、いいことではないし、効果だか霊験だかがあるとは思わないのが常識だろう。
 ところが、年中顔を突き合わせて米櫃の中まで知り合っている間柄というのは感応し合うところがあるのか、相手は次第に具合が悪くなり、寝つくようなことになった。じいさんはますます熱心に神社に参る。百段近い石段を毎夜毎夜、登り降りして、大願成就のその小ぬか雨の降る雨の夜、ぬるぬるする足元を見るとどうしたことかその石段は墓石だった。しかも足で踏みつけた俗名という文字には……
 自分の祖父が我々腕白坊主どもをおびえさせながら語り、「人を呪わば穴二つ」と重々しく言って、にらみつけたのを思い出す。

 従兄から聞いたいわゆる都市伝説的な話を紹介しよう。足の骨を折って古ぼけた病院に友人が入院していた時のことだそうだ。不自由は不自由だが、体はなんともないものだから、夜は眠れない。眠ったとしてもうつらうつらして、冷房の効きもよくないから汗でじっとり湿ったベッドの上に起き上がってしまう。
 変に喉が渇いて缶入りのお茶でも飲もうかと思って、エレヴェータまで杖をついて歩く。空っぽのナースステーションの前を通ってボタンを押すが、いくら待っても1階に表示は止まったままだ。ギブスをつけた足で玄関ホールの自動販売機まで降りて行くこともないが、あのベッドに戻ってもすぐに時間を持て余すに決まっている。

 痛くなったり、嫌になったら戻ればいいだろうと思って、階段に向かう。これが4階だったらやめておくところだが、3階だから微妙なところだなとその友人は思ったそうだ。
 この病院は古いだけあって、204号室とか、304号室はない。それがかえって数字についての迷信を意識させられるところがあって、そう考えたのかもしれない。


 階段は降りるのがこわい。不自由な足で杖と手すりにつかまって、恐る恐る降りるからなおさらだ。
 病院のにおいが好きな人はいないだろう。人間が生きたり、死んだりするときに発するものを無理に消毒液で覆い隠したようなにおいを嗅いでいると、見えないはずのものが見えたり、聞こえない音が聞こえたりする。
 奇怪な幻想にはまり込んでしまいそうなので、気晴らしに段数を数えることにした。3階と2階の間の踊り場から14段、2階から次の踊り場まで12段だった。
 踊り場というものはちょうど真ん中にあるものだと思っていたのにずれている。階段の長さが違うのかなと思って、上を見上げるとジグザグの階段が目に飛び込んで来て、見ない方がいいと思った。
 この病院は4階建てで4階も病室のはずなのにエレヴェータや階段では行けないようになっている。不自然な鉄の扉が階段に取り付けられていて、いつも施錠されている。ナースに訊いても「何でもありませんよ」と硬い表情で答えるだけだった。

 その4階も屋上への階段も隙間からは見える。見えるけれど、ものすごく大きな顔がこっちを見下ろしていたら嫌だなと思ってあわてて目を伏せた。そんなふうに考えるのは滑稽と言えば滑稽だが、神経がピリピリしているから、何でもないものが違って見えたりするんじゃないかという心許なさがある。

 ようやく1階に着いて、玄関ホールでぼんやりと光っている自動販売機で、お茶のボタンを押すといきなり「ありがとうございました」と甲高い機械音声が響いて、びくっとなる。人騒がせな工夫をするものだが、昨日ここで買ったときにはそんなことは言わなかったような気がする。機械が変わったような様子もない。
 そのくせ全然冷えていない缶を持って、エレヴェータのところに行くと今度は4階にいるという表示になっていて、ボタンを押しても降りて来ない。たとえ降りて来ても、ドアが開くのを見たくない気がする。

 仕方なく階段を登り始める。少し嫌な予感があったのだが、数えながら踊り場までたどり着くとあにはからんや13段だった。止まっているエスカレータを登ると最初と最後は平衡感覚が狂ったように感じるが、あれと同じ気分だ。無理に数え間違いだと思うことにして、また2階を目指すが、知らないうちに「1、2、3……」と声に出してしまっていた。

 13まで数えて2階に着いたとたん缶を持った手で手すりに縋っていたせいで、落としてしまった。ごとんごとんと踊り場まで転げ落ちる。「今日も、お疲れ、ですね」さっきの自動販売機の音声が変に途切れながら聞こえる。この病院は、1階は外来だけで、救急もやっていないから夜は誰もいない。階段はこれしかない。あの自動販売機で飲み物を買う人影はいないはずだ。

 こわくてもう我慢できないからお茶なんかほったらかしにして、2階のナースステーションに駆け込もうかと思ったのだけれど、ふと違和感を感じた。階段の縁が光っている。思い当たるものがあって、また降りて行く。
 12段しかない。降りるときは12段と14段、登るときは13段ずつ。踊り場の白い壁に階段が呑み込まれたり、吐き出されたりするのか。そうやって患者を惑わしていつまでも階段を上り下りさせるのか。一体何者が。総毛立つような思いをした時、上の方でガチャガチャと鍵が開くような音がして、鉄の扉が開く。……

 その後、何があったのかその友人は憶えていない。朝、ベッドにいる自分をまるで落し物を見つけたように見出したと言う。見たはずのもの、されたはずのことがちぎり取られたような感じだった。検温に来たナースに階段のところにいなかったかと訊くと「何でもありませんよ」と言う。彼がお茶の缶を握りしめているのに気づくと「退院されるつもりなら」と目だけで笑いながら付け加えたが、その声には別の声が混じっているように聞こえたそうだ。

 


 

 ありふれた平和な町

 

 4人は退屈していた。学校もつまらない。酒やクスリも飽きてきた。だいいちカネがない。カツ上げをやってもここんところ120ドルが最高だ。やらせてくれる女もローラ以外にはいない。襲うにもいい女はダウンタウンを歩いちゃいない。……いいニュースはないか? それが合い言葉のようになっている。ケニーがおやじから古いトーラスをもらった。おやじはぴかぴかのホンダを買ったのだ。おんぼろでもいい。車は車だ。このくそったれの蒸し暑い街から逃げよう。どこがいい? 州はおろかこの街の外にはハイキングくらいしか出たことがない。

「NYがいいな」
「おまえはバカか? 何日かかると思ってるんだ」
 ルロイが何か言うと、ケニーは「おまえはバカか?」と言ってから、何を言うか考える。
「きれいな田舎町がいいんじゃない?」
「目立つだろう」
 コンパクトで鋭いナイフを弄んでいたイアンがつぶやくように言う。そうだ。コトを起こすのに田舎は目立つ。
「いや、そうでもないかもしれんぞ。田舎の警察なんてアホばっかりだ。あまり大きく稼ごうと思わずに、さっさとおさらばすりゃあ」
「町から町へ行くの? ロード・ムーヴィみたいでカッコいいわね」
「それもいいかもしれん。だが、とりあえずどこに行くんだ?」
 しばらく沈黙が降りる。まるで哲学的な命題のようだ。おれたちはどこに行くんだ?

 PCをいじっていたルロイが声を挙げた。
「ね。ここどうかな?」
「おまえはバカか? "take'fuck' me free"なんてポップアップが出てきたのか?」
 ローラが笑いながらPCを覗き込む。
「ん……『カンザス州でいちばん平和な町』か」
「カンザス州ってどこだよ」
「ずっと北だ。ミズーリ川の上流だな」
 PCから音声が流れて来た。赤ら顔のでっぷり太った町長の写真の下の『歓迎メッセージ』をクリックしたら、動画と一緒に出てきたのだ。
『……エニヴィルはカンザス州でいちばん平和な町です。とてものんびりしたフレンドリーな町です。ごらんのとおり花も美人もいっぱいです』
「ババアばっかりじゃねえか!」
「しっ」
 イアンの目が光った。


『……とても治安がよくて、町の人は出かける時も夜寝る前も家のカギなんか掛けません。……最近の重大ニュースは、ブラウナー君が車に轢かれて、天に召されたことです。……ネコのブラウナー君は町のみんなに愛されていました。エニヴィル・クロニクルも追悼記事を掲載したんです』
「こりゃあ、いいな。おれたちのためにあるようなもんだ。ルロイ、たまには冴えてるじゃないか」
 ケニーにほめられてルロイは顔をくしゃくしゃにした。
「ホスト・ファミリーがいっぱいあるみたいだよ。ネットで申し込めるって」
「決まりね」
「ああ、1日ちょっとで行けるだろう」


 トーラスのエアコンが壊れていたり、ローラのナヴィがいい加減だったりしたが、次の日の夜にはどうやら着いた。ヘッドライトに"WELCOME! ANIEVILLE, The Most Friendly Town"と書かれた古ぼけたアーチが浮かび上がる。そっちの方に目をやっていたケニーは道の真ん中にいたネコに気づかなかった。重い音がして黒いネコが飛んでいくのが一瞬見えた。
「あー、やっちまった」
 車から降りたケニーはへこんだり血でもついてないか、バンパーをチェックした。イアンは道端の草むらにひっくり返ったネコの頭を触って、薄笑いを浮かべた。
「いいじゃない。早く行きましょうよ」
 ローラは車の中から言った。
「これも新聞に載るのかな?」
「ネタを提供したんだ。新聞記者に感謝してもらわないとな」
 ルロイの質問にイグニッションを回しながらケニーは答えた。

 
 ステイ先の家は簡単に見つけることができた。町を貫いている通りから1本右折してすぐのところにあった。イヴェットとかいうばあさんが一人で住むには大きすぎるような家だった。夜だというのに呼び鈴を押すとカギを開ける音もなく、ドアがすぐに開いた。
「ようこそ、いらっしゃい。待ってたわ。疲れたでしょう?」
「申し訳ありません。こんなに遅くなって」
 しおらしいフリをしやがってとケニーは思いながら、握手もそこそこに部屋を見回す。地味だがなかなか値段のはりそうな花瓶やエッチングが飾られている。お上品な趣味ってわけだ。
「2階は自由に使ってもらっていいのよ。案内するわね。……あ、そうそう食事はまだなんでしょう? ロースト・ビーフを用意してあるから」
 ケイジャン料理に飽き飽きしていたルロイが目を輝かせた。


 次の朝、と言っても10時近くになって起きたのだが、4人が小さなトーストにスクランブルド・エッグ、カリカリに焼いたベーコンといったイギリスふうの朝食を摂っていた頃、町の社交場とも言うべき「エニヴィル・デリ」で、新聞を読み終えた老人が傍らの友人に話しかけた。
「イヴェットのところに若者が来たそうだな」
「4人らしい。いい子だってもっぱらの噂だ」
 折り畳まれた新聞の黒ネコシュワルツの追悼記事にちらっと視線を投げながら返事した。
「それはよかった。長くいてくれればいいな」
 二人の老人は遠くを見るような目をした。


 4人は朝食を終えると町を歩き回ってみた。人通りは少なく、たまに会うのは老人ばかりだ。ニコニコと微笑みかけてくる。なんて退屈な町だ。あっという間に商店街を通り抜け、町の外に出てしまう。沼があった。まるでガキのようだと思いながら、ケニーは淀んだ緑色の水面に石を投げる。
「ありふれた、くだらない町だ」
「獲物は眠っていてくれた方がいいさ」
 指の腹でナイフの切れ味を確かめるようにして、イアンが答えた。


 夜になった。イヴェットばあさんが眠った後、外に出る。なまぬるい空気の中に涼しい風の筋が混じる。昼間に見当をつけておいた白い家に向かう。杖をついていた老婆が入って行くのを見かけたのだ。ぶらぶらと歩く。誰も歩いていないし、車も通らない。まだ9時過ぎだというのに家々の灯りも少ない。その家もポーチ以外は暗い。
 玄関から入る。カギが開いているのに裏から入ることもない。もし誰かに見られても言い訳がしやすい。この町で最初の『仕事』だけにいつになく慎重になっている。ルロイを見張りに立てる。……


「持ちきれないくらいだな。今度は車で来ようぜ」
「ホントよ。いい感じのレトロなドレスがもっとあったのに」
 両手に大きなバッグを持って帰路につく4人はご機嫌だった。
「しかし、ベッドルームに入られても眠ったままなんてな」
「あのババア、棺桶に入るのも近いぜ」
「何言ってんの。ばあさんが寝てるの見て、固まってたじゃない」
「うるせえ。死体に見えたんだ」
「食べ物は盗まなかったの?」
「おまえはホントに食い意地が張ってるな。……でかいミートローフがこのバッグに入ってる。フランスのヴィンテージ・ワインと一緒にな」


 それらを飲み食いしながら、いちばん広いベッドルームで獲物を確かめる。
「723ドルあるな。その銀食器はどうだ?」
「かなりいいものだな。オークションに出せば500ドルくらいになるかもしれない」
「手始めとしてはいい方だな。まったくいい町だぜ。……おい、ローラ。着てみないのか? ファッション・ショーをするんだって言ってたじゃないか」
「なんか疲れちゃって、だるいんだ。明日にするよ」
「ババアの服なんか盗むからだ。それとも最近やってないからか?」
 拍子抜けするくらい簡単に『仕事』ができてはしゃいでいた男たちは陽気に笑った。


 

 いつもと同じような田舎町の朝だった。二人の老人は「エニヴィル・デリ」で、コーヒーを飲みながら、途切れ途切れの会話をしていた。店の名前をユーゲント・シュティールの文字で書いた、茶色がかった大きな窓から、通りの向こうを老婆がすたすた歩いているのが見える。新聞から顔を上げた老人は、友人が鳶色の目で自分を見つめているのに気づいた。
「始まったな」
「ああ、白い家は目立つからな」
「我々も今夜は早く眠らないと」
「クリスマス・イヴのような気分だ」
 含み笑いをしながら言った。


 その夜もその次の夜も4人は「商売」に精を出した。家に侵入し、金目のものを手当たり次第に車に運んでいく。まるで子どもの頃に池で蛙の群れを捕まえたときのようだ。なんの造作もない。3つのベッドルームは物であふれかえった。ローラが言う前にイヴェットは「2階の掃除は任せるわ。勝手に入られるのって、若い人は嫌でしょ?」と言った。故郷の街では幸運の神から邪険にされっぱなしだった4人に運が回ってきた。……ただみんな疲れやすくなっている。足取りが重い。目もしょぼしょぼする。
「なんか風土病にでも罹ったのか?」
「風土病って?」
「マラリアとか。……しかし、カンザスにそんな病気はないはずだし」
 イアンが考え込む。
「暑さのせいだよ。きっと」
「おまえはバカか? こんな暑さくらいでバテルわけがないだろ。……あんまりラッキーだから体がびっくりしているのさ。まるで女が大股広げてるようなもんだからな」
 ケニーが笑い飛ばした。


 朝食の時間にイヴェットが言った。
「今夜、パーティをしたいんだけど、参加してくれる? 何人もの人からみなさんを歓迎したいって言われてて」
 ローラがイアンの目を見てから答えた。
「あら、それはどうもありがとう。……でも、あたし、ドレスとか持って来てないんですけど」
 ケニーがシリアルを危うく吹き出しそうになった。
「わたしが若いときに着たのでよかったら着てくれる? プレスリーに夢中だった頃のだから、けっこう……」
「クールね!」
 うれしそうにローラは叫んだ。


 夕方、何台もの車がイヴェットの家の前に停まった。杖をついて歩いてくる老人もいた。みんな夏だというのに盛装をしてきていた。ばあさんたちは指という指にダイヤモンドやサファイアの指輪をし、ネックレスを皺だらけの首にいくつもつけている者もいた。じいさんたちは金の鎖をヴェストのポケットからのぞかせ、フィドルやバンジョーを持って来た者もいた。
「まるで歩く骨董品屋だ」
 その不自然なほど着飾っている老人たちを見て、イアンはケニーにささやいた。
「Sitting ducks.カモネギさ」
 舌なめずりしそうな顔で応えた。


 七面鳥のロースト、ミートパイ、ミネストローネ、サンドウィッチ、フライド・ポテト、ブラックベリーのプディング、ハチミツたっぷりのスコーン……大量の食べ物が持ち込まれた。にぎやかなC&Wをバックに年寄りたちが踊り出し、ケニーやルロイも引っ張り込まれた。ジャケットを脱ぎ捨てたじいさんが周りに冷やかされながら、ローラをうやうやしく誘う。
 
 カクテルから始まって、ワインやらバーボンやらいろんな酒を勧められ、したたか酔った4人はベッドに倒れ込むようにして眠った。ダンスの邪魔だとばかりに先を争うようにジュエリーを洗面所に置きっぱなしにしたのをごっそり盗んだ満足感も手伝っていた。……

 喉の渇きに目が覚めたルロイは、床に転がっているケニーの顔を見て驚いた。
「ケニー、起きてよ。大変だよ」
「おまえはバカか。頭が痛いんだ……ん? あはは、おまえその頭どうしたんだ?」
 ルロイは頭を触ってみた。ふだんからちょっと薄いのを気にしていた毛の感触はなかった。
「あっ、あー!……で、でも、ケニーだって」
 ルロイが壁の鏡を指差すのを体を起こして覗き込もうとする。体の中に鉛でも入れられたように重い。鏡の中にはいちばん嫌なやつがこっちを見ていた。おれとおふくろを殴るしか能のなかった飲んだくれおやじの顔だ。ベッドの端に横たわっていたローラも椅子に座ったまま眠っていたイアンも、顔には深い皺が刻まれ、白髪が混じっている。
「いやー! 助けて!」
「あの年寄りども! 一体おれたちに何をしたんだ!」


 イヴェットのベッドルームを蹴るように開ける。フロアランプに照らし出されたイヴェットは皺が少なくなり、髪もつやがあるように見えた。何より毛布をかき寄せる仕草が老婆のものではない。
「おい! どういうことなんだ? これは」
 ケニーがキッチンから持ち出した肉切り包丁を首に当てる。
「……ここで仲良く暮らしましょう。ね? それがいいわ」
「ふざけるな! おれたちを元に戻すんだ! 殺されたいのか?」
「殺人なんてしちゃいけないわ。……あなたたちのためよ」
「きいたふうなことを言うな!」
 逆上したケニーがイヴェットの首を突き刺した。血が勢いよく吹き出し、ごぼごぼという音がする。……苦しみながらイヴェットが死んでいくのを見ながら、イアンが言った。
「だめじゃないか」
「なんだよ! この薄気味悪いババアを殺しちゃいけないって言うのか?」
「そうじゃない。この部屋でやってしまっては証拠が残りすぎる。殺すんならもっとひと気のないところに連れて行くか、自殺に見えるようにすべきだった。……まあ、やっちまったものは仕方ない。おい、ルロイ、ガレージから綿布を持って来い。これを包むんだ」
 ローラは爪を噛んだまま震えていた。……


 車は沼に向かった。イヴェットの家からショットガンと護身用の小さなピストルを持ち出し、イアンが運転した。ケニーは寒気がすると言って、後部座席にうずくまっている。イヴェットはトランクに入れる時には息を引き取っていたようだった。……自分たちが老いてしまった理由が老人たちからものを盗んだことにあるんじゃないかとみんな考えていた。そんなバカなことが。しかし、もしそうだとしたら? 『とても治安がよくて、町の人は出かける時も夜寝る前も家のカギなんか掛けません』あれはおれたちを招き寄せるための罠だったのか? 最初から?……言葉にするのが恐ろしくて、誰もが口を閉ざしていた。

 ヘッドライトが沼を照らす。平穏でありふれた沼だ。イアンとルロイが綿布を持って入って行く。膝までつかったところで2、3回振り子のように振って放り投げる。しばらく浮いていたが、やがてあぶくとともに沈んでいった。振り返ると車の前でひざまづいたままケニーが死んでいた。皺だらけになってまるでミイラのようになっていた。
「ケニー! そんな」
 ローラの肩をイアンがつかんで言う。
「そんなどころじゃない。見ろ……」
 フラッシュライトの明かりがいくつも見える。だんだん近づいて来る。老人たちがカネや宝石を持って彼らの方へやって来る。


「なんでもやるぞ。ほら」
「まだまだ欲しいだろ? こっちにおいで」
 口々にそう言いながら、迫って来る。イアンはショットガンで手近の老人を吹っ飛ばしてから、ローラにピストルを渡して言った。
「分かれて逃げるんだ!」

 見捨てられたルロイは何人もの年寄りに囲まれ、沼の方に追い詰められていく。
「来ないで。全部返すから許して」
「返す必要はないよ。もっともらっておくれ」
「仲良くしようじゃないか。エニヴィルにようこそ」
 足をすべらせて急に深くなっているところに沈んでいく。ぼくは泳げないんだ。何かつかまるもの……ざらっとしたものが手に触れた。あわててつかむと綿布がほどけ、マグライトが中から現われるものを照らした。50年代の映画に出てくるような金髪の少女が微笑むのを見たルロイの肺には大量の水が入っていった。

 イアンは森の中を逃げながら、年寄りの群れに向かって何回もショットガンを放った。仲間がくの字になって倒されても老人たちは振り向きもしなかった。撃つたびに体が地面に沈みこむような重さを感じる。まるでビーフジャーキーだ。自分の手のひらを見ながら思った。弾丸はもうない。あってもショットガンを持つ力は残っていないだろう。
「いい子だ。まだ立っていられるなんて」
「死ぬ前にわしも殺しておくれ」
 その声もイアンには届いていなかった。愛用のナイフで胸を突こうとポケットに手を伸ばしたところで、彼の意識は途絶えていった。

 車をようやく発進させたローラはめちゃくちゃに蛇行しながら、逃げようともしない老人たちをなぎ倒していた。タイヤハウスに何か絡まったのか、アクセルを踏んでもスピードが出ずにスピンする。嫌な音がする。サイドウィンドウに老人たちが顔をくっつけてくる。中には血まみれになった者もいる。しゃがれ声でローラは意味のないことを叫んでいた。……ボンネットにとんという音を立てて何かが降りた。
「ギャアアアア!」
 あのネコ、シュワルツがローラの顔を正面から緑色の目で見つめていた。ピストルで撃とうとしたとたんにはさまっていたものがはずれたのか、ガクンと車は走り出し、何人もの年寄りをぶら下げたまま大きなぶなの木に激突した。
「タッチダウンできなかったな」
「ああ、ノーサイドだ」
 トーラスが燃え上がり始めたのを見ながら、二人の老人は言葉を交わした。

 


 

 トンネルの3人

 

<OL悠香の話>
 あたしがあんなこと言わなければよかったんです。……営業の人たちと飲んだときに最近転勤して来たそこのチーム・リーダーが女の子たちを怖がらせようとあちこちの心霊スポットの話をして。それをレイちゃんとシンちゃんとで飲んだときに言ったら、「そのトンネルなら知ってるよ。おれのパジェロで行こう」ってシンちゃんが。けっこうお酒飲んでたから二人で止めたんですけど、「だいじょうぶだよ」って。レイちゃんもなんとなく行きたそうにしてて。彼女ってわりとそういうの好きなんです。それにシンちゃんのことも。……ええ、心配だからあたしもついて行くことにしたんです。

 それで高速に乗って、けっこうわいわい騒ぎながら行きました。高校野球の話とかドラマの話とか。そっち系の話はしなかったですね。みんなどこか怖いって気持ちがあったんじゃないでしょうか。シンちゃんの運転はいつもよりずっと慎重でした。あたしたちが「乱暴な運転したら、即帰るからね」って言ってたこともあると思いますけど、しょっちゅう笑ってるのにじぃっと前を見つめてて脇見とか全然しないのがなんか変と言えば変でした。そう、なんだか首にギブスでもしてるような感じで。

 高速道路ができてからほとんど通る車がなくなった旧道があるんです。高速のトンネルを通る間、その道もナビに映るんですけど、すごくジグザグですごい道なんだろうなって思いました。11時は回ってたと思うんですが、旧道の山道を登って行きました。カーヴは多いんですけど、そんなひどい道じゃなくて、「いろは坂ほどじゃないな」ってシンちゃんも言ってました。対向車は全然来なくて、それは運転しやすいんでしょうけど、なんか変なんです。山道ってあちこちの木とかガードレールにヘッドライトに照らされるじゃないですか。対向車があると遠くからでもわかりますよね。そんなふうにライトがちらちらするんですけど、来ないんですよ。何回も。シンちゃんはずっと前から気がついていたんだろうと思うんですが、助手席のレイちゃんもあたしも、後部座席にいたんですけど、途中で気がついて、それでみんな黙りこくっちゃって。……

 トンネルに着きました。そこだけ黄色い街灯があるんです。シンちゃんが「なんだ。なんにもねえな」って言って、車を停めたら、二人が異口同音って言うんですか、「やだ。もう帰ろうよ」って言いました。後から考えたらそういうことって言っちゃいけないんですよね。自分だって怖いくせに「平気、平気」って車から降りちゃったんです。エンジンも止めちゃって。「おーい、来いよ。記念写真撮ろうぜ」ってケータイ振ってるんです。あたしたちはもう首をぷるぷる振るしかなくて、レイちゃんなんか顔つきが……あんなの初めて見ました。お化粧が全部浮き上がったような。「見えてるんだ。きっと」って思いました。彼女は霊感が強い方だから。子どものときから時々見えるんだそうです。

 ええ、それで怖くて、手で顔を覆っていました。そしたら「ひっ」って声となんか変な感じがして、外を見たらカーブミラーに映ったパジェロがゆっくりと動いていくんです。エンジンはかかってないし、下り坂でもないのに……なんて言うか、ほら、雪道で滑り始めるとすーって行っちゃうじゃないですか。あんな感じで、すーってシンちゃんの方に向かって行くんです。「わー、わー」って叫んで、ああいうときって言葉にならないんですね。シンちゃんも気がついて、逃げようとするんですけど、道路脇に逃げればいいのにトンネルの中に走っていくんです。「レイちゃん! ブレーキ、ブレーキ!」ってあたし言ったんですよ。あわててるせいだと思うんですけど、前のシンちゃんは気になるし、なかなかシートベルトがはずれないしで助手席で焦ってました。

 車は速くなかったと思います。シンちゃんが逃げるのよりちょっとだけ早いみたいな感じで、「これって残酷だわ」って思いました。バーンってはねられるんじゃなくて、じりじり追い詰められるのって映画みたいって。……あのこと自体ショックですけど、そんなふうに考える自分が怖いなって思うんですよ。どっちかって言うとそっちの方が尾を引いてますね。警察の人が「交通事故の現場としてはもっとすごいのもあるよ」って言ってくれたら、思わず「へー、そうなんですか」って言っちゃいましたね。


<フリーター信司の話>
 まったくなんなんだって感じですよ。ふざけんなって。だってそうでしょ? おれが一体何をしたって言うんですか?……そりゃおれがちょーしこいたのが悪かったとは思いますよ。女の子二人相手にいきがっちゃって、あんなところに行って。酒? 飲んでないですって。どうしてそんな話になってんのよ、もお。乾杯って口つけただけで、ふだんからおれ酒は飲まないですから。誰に訊いてもらってもいいですよ。……そう。ユウのやつがおれを煽るように言うんすよ。「男のくせに怖いの?」って。レイもくすって笑いやがるし。まったく女ってのは怖いですね。この世で怖いのは女だけだって今度のことで思い知らされましたよ。つくづく。
 
 妙な感じがしたのは山道に入ってからかな。いや、高速でもなんかいつもと違う感じだったかも。ステアリングを切り過ぎたり、切り足りなかったりなんか変だったかもしれない。そういうのって運転してる人間しかわかんないんですよね。助手席とかだと絶対にわかんないし、見えないものも運転してると見えちゃうってあるんですよ。でも、ありえないものが見えたとしてもそれをずっと追いかけて見るわけにいかないでしょ? やばいなって思っても。……はっきりしたのはやっぱり山道に入ってからですね。最初に1台すれ違ったときにはまあそういうこともあるかなって思いましたけど、何台も来るんじゃふつうじゃない。夜中にそれもあんな旧道に霊柩車が通るなんて。見間違い? 見間違いや勘違いならいいと思いましたよ。レイやユウは気づいてないみたいだったから、おれの目か頭がおかしいんだってことにしとこうって。でも、あの運転席に誰もいない車ってやばいですよ。あれは見ない方がいい。

 トンネルに着いたらふっと気分が楽になったんです。あー、おれすごくプレッシャー感じてたんだってそこではっきりわかりました。「なんてことないな」ってちょっと違うんですけど、そう思わず言っちゃいました。それで息抜きでもしようって車を降りて。ドライバーってそうやって体動かしたりしないとダメなんですよ。安全運転のためにはね。それでぶらぶらその辺を散歩して。……え? おれがはしゃいでたって? そんなことないですよ。「降りて来いよ」って声はかけましたけど。あいつらは降りようとしなかったです。やっぱり怖いのかなって思いました。そのときは。

 車が動き出して、おれが逃げる後から追いかけて来たっていうのはいいですよね? あれは偶然とか事故とかそういうんじゃない。おれはトンネルの中に追い込まれたんだし、おれのパジェロはあいつに操られたんです。あいつの意図がのり移っていたと思います。だってあいつは、レイはものすごい顔をして笑ってたんです。きれいな女がどぎつい笑い方をするとあんなに怖いもんだって初めてわかりました。おれは見ちゃいけない、なんであいつがおれに怨みを持っているのか思い出しちゃいけないって、そればっかり考えて必死に逃げました。今だったら言ってもいいだろうって? もういいじゃないですか。あいつはあんなふうになっちゃったし、おれもこのとおり二度と自分の足で歩けない体になったんですから。……ユウはどうしてたですか? 目に入らなかったです。レイのあのぎらぎらする目が強烈すぎて。もういいでしょ?


<ナース怜子の話>
 あの夜のことは話したくないんです。思い出したくもないし。警察も事故だって言うんでしょ? だったらそれでいいじゃないですか。シンちゃんやユウちゃんがいろんなことを言ってるのも聞いてます。あの人たちはそういう無責任な噂をまき散らすのが好きなんです。シンちゃんって懲りないんだって、なつかしいような気さえします。もうあたしには関係ない。すんだんです、なにもかも。……あたしの気持ち? むずかしいですね。説明できるようなことじゃないし。

 あたしはそんなひどい女じゃないです。こんな目にあったのにそういうことを言う人の方がひどいじゃないですか。ただ自分ではどうしようもないんです。いろんなものが見えちゃうのは。……高速に乗ってしばらくしてから、屋根の上に誰か乗ってるのが見えたのが最初です。ええ、シンちゃんの上の天井の向こうが見えるんです。はっきりと。白いふわふわしたものって言えばわかりやすいんですけど、そういう見かけだけじゃなくて、よくないことを考えてるっていう意図みたいなものも見えるんです。駅とかホールとか人がいっぱいいるところで、誰か悪いことを考えてるって感じたことないですか? ああいう感じです。あれがこの車に乗ってるとよくないことが起こるってわかるんですけど、だからと言って何かできるわけじゃないんです。

 山道に入ってそれはどんどん大きくなって、車をすっぽり包んでしまいました。雲の中を運転してるような感じなのにシンちゃんが運転できてるのがぞっとしました。一体どこに向かってるんだろうって思いました。その白くて気味の悪いものが引っ張ってるんだってことなんですけど。トンネルもこの世のものじゃなかったです。あんなものはあっちゃいけないんだって、そう思うと胸がむかむかしてきて。……これまで霊感が強いとか言われて、実際田舎のおばあちゃんの家とかうちの病院とかでいろいろ見えちゃったり、声が聞こえたりしましたけど、あのトンネルほどはっきりとした、でも決してあるはずがないものっていうのは初めてです。あいつら、いえシンちゃんとユウちゃんがすっかりだまされて、トンネルの意志のままに動くあやつり人形になっていたのは、だから仕方がないと思います。……二人はそういうことが見えているあたしをこんなふうにするのに結果的にせよ手を貸してしまったんです。いえ、二人して最初からあそこにあたしを連れて行こうとしてたんだと思います。こんな言い方はよくないってわかってるんですけど。

 車が動き出したのも、シンちゃんが追い掛け回されたのも、あたしは「逃げて! どうにかして助かって!」って思いながら、どこかで「あ、こういうの見たことある」って気がしていました。吐き気が止まらなくて無理に息をするような感じで、ユウちゃんが何か言ってるのも耳に入らなかったです。するすると得体の知れないものに導かれているんです。それが残忍な気持ちだって言う人もいるかもしれません。……もうちょっとでトンネルが終わろうとしてるのにシンちゃんがほっとしそうになった時を狙って、車が襲い掛かりました。ゆっくりとシンちゃんの体に乗って行って。ゴキッて音がして怖いくらい車が傾きました。そこまではあたしは夢とか幻ですむんじゃないかって、どこかで思ってたんです。でも、フロントグラスに、その中のあたしの顔に向かって真っ黒な大きな木が突き刺さって来るのを見て、これは間違いなく本当の、現実の世界から来たってわかりました。ほんの一瞬のことなのにまるでそこだけ黒く縁取りしたみたいにくっきりとした記憶なんです。それがあたしの見た最後のものでした。……こういうことになっちゃうと今までのことをいろいろ思い出してしまいます。考える時間はいくらでもあるんです。

 


 

 薄気味

 

 ホラー映画が典型的だと思うが、これでもかこれでもかと人を怖がらせ、驚かせようとすると、もちろんそうなってくれる人は多いのだろうし、そうでなければ見る人はいないのだが、感覚には個人差があるからかえって笑い出してしまうような人もいる。怖い映画がおかしい映画になったりして、それに味わいがあるのだと凝った鑑賞の仕方を考え出す。こんなふうに細かく言うと複雑そうだが、まだB級ホラーの楽しみ方の入り口にたどりついたのにすぎないのだろう。

 しかし、そんな方に話を進めるつもりはない。言いたいのは怖いという感覚は強ければいいというものではないということである。食欲や性欲に伴う快感は度が過ぎれば苦痛になるが、恐怖という警戒信号のような意味合いの感覚は刺激が過ぎると警戒の弛緩、つまりバカバカしくなって笑ってしまうという結果になるのだろう。とするならば怪談も強烈さをねらうばかりではあまり能がなく、薄気味悪いくらいの方がいいのかもしれない。程度において過ぎることなく、内容においてはっきりとしない方が怖いのではないか。……いずれにしても人それぞれであろうが。

 夜中に独りでいる時にいろんな物音がするのは薄気味悪いものだ。何か考えつめていると、ピシッと木材がはじけるような音がする。自分の住んでいるところは鉄筋コンクリートに安っぽいベニヤ板をはりめぐらせたようなものだから、そんな音がするのは解せない。怖いなと思うとピシッとまた鳴る。いやなことをしやがると思うと静かにしていて、こちらの注意が逸れたのを見計らったようにピシ、ピシっと音が連続する。……まるで「さとるの化け物」のようだと思う。人が考えていることを先回りして当てていくやつだが、あれも怖いと思う人とピンと来ない人があろう。隠しておきたいことを横でぺちゃくちゃしゃべられたら愉快ではないけれど、自分で言うのもなんだが、くだらないことしか考えていないのにわざわざご苦労なことだと哀れむような気もしないではない。

 化け物の側から言えば次々と当てられた者の息が上がったところでとり殺すしかなく、長期戦になるとダメなんだろうと思う。夜中の不審な音も冷静に考えれば鳴ったからといってどうということもないが、よからぬことが起こるのではないかという不安がある。ポルターガイストの方を先に持ち出すべきだったかもしれないが、そんな洒落たものを気にしているわけではなく、例えば身内が死んだという電話が入ったりすれば虫の知らせだったかと思うだろうし、そういうときに電話が鳴っただけで情けないくらいびくっとするだろう。

 なんでもつなげて考えるのは人間の習性のようなもので、心霊写真なんかもそういうのが多いのではないか。見ようによっては人の顔に見えるものはいくらでもあって、点が3つ逆三角形に配置されていれば十分である。あるはずのない手が写っていたり、あるはずの足が写っていなかったりするのもあるが、意図的に作ろうと思えば簡単なものばかりのような気がする。ましてや今はほとんどがデジカメになっているから、その気になればまあなんでも作れるわけで、それだけに薄気味悪さを出すのはむずかしいような気がする。よくテレビで霊能者を名乗る人が「この写真には怨念がこもっています」と重々しく判断してくれたものだが、ひねくれ者の自分は何十枚と焼き増しして並べてもそうなのかなと考えたものだ。今ならパソコンの画面に向かってそんなふうに言ったりするのだろうか。自分としては「さとるの化け物」がチャットルームにいたら怖いような気がするけれど。

 昔から言われていることだが、幽霊は人につき、妖怪は場所につくそうだ。確かに自分を殺した相手に「うらめしや」と言って出て来るのは幽霊なんだろうという気はする。しかし、妖怪はマンガやアニメではいろんな場所に行って活躍しているようだから、昔はそうだったというくらいに思っていた方がいいのかもしれない。それよりは妖怪は人間とは違う外見をしているが、幽霊は足がないくらいの違いしかないと言った方がいいように思う。こう言うとすぐにあれは円山応挙が怖くしようとして幽霊の足を描かなかったからだと言う人があろうが、それは水木しげるが描いた妖怪を全く無視して妖怪談義ができないのと同じで、幽霊や妖怪のことがわかっていない者の言うことだろう。もっと簡単に自分は足のない幽霊しか見たことがないと言ってしまえば議論は終わる。

 最近はこの世に怨みを残して死んだ霊でも場所につくことが多いように思う。「心霊スポット」とかで検索すれば廃病院だのトンネルだの薄気味悪い話を大量に読むことができる。これは幽霊が妖怪化したわけではなく、要は相手は誰でもいいという無差別殺人や貞操観念のない女と同じような具合で、世相の荒廃が幽界にまで持ち込まれていると社会批評してみるのもおもしろいかもしれない。恐怖は人の心を映し出す鏡だと言えば感心してくれる人もいるだろう。そういうところに出るものを除霊してくれる者もやはりテレビで見かけたりするが、彼らの霊験の根拠となるのが仏教なのか新興宗教なのかそれすらよくわからない。ああいうのを見ると平安時代の物語なんかに出てくる病気平癒のための加持祈祷を行う僧侶や陰陽師を思い出されるわけで、人間の心の弱さはそうそう変わるものではないとまたわかったようなことを言ってみたくなる。しかし、偉そうなことを言っても昼間だってそんなところにわざわざ行くような勇気や好奇心を自分は持ち合わせていない。

 物の怪というものもある。と言うよりは「源氏物語」などにも出てくる、幽霊や妖怪なんかよりずっと歴史のある由緒正しいものだ。死んだ者に由来する死霊だけでなく、生きている者からも生霊として出てくるのは広く知られているだろう。怨みを持った者が祟りをなすときに物の怪になると考えてもいい。「怪」は気であり、気配という意味に近いが、もやもやした漂うものといったところで、それを怪異に感じる場合に怪の字を使ったのだろう。「物」はもちろん物質に限らず、人を表わす「者」も同じ語源だから「もの」と書く方がいいだろう。では、ものとは何か。非常に広い意味を昔も今も持っているから、一言で言えるものではなく、目に見える対象も見えない対象もすべて含みうる。およそ名詞である限り「もの」で代替できない「もの」はないように思う。

 ただ今の話の流れで言えば「もの」は物質とは正反対の霊というか魂というか、もう少し広く目に見えないけれど、人に作用するものが問題になるだろう。もののけ以外の例を挙げると昔はもの忌みという言葉があり、祟りを避けるために外出を控えたりした。迷信であるが、それを笑う資格のあるのは親の葬式を友引に行い、年賀状を平気で出す人だけであろう。忌中、喪中というのは死者の祟りを恐れているので、本来の仏教とは無関係である。ついでに言うと日本の仏教は葬式仏教などと言われるが、実際ふつうの人が仏教と関わりを持つのは葬式や法事といった死亡関係だけだろう。ところがそこで行われている儀式はすべて本来の仏教とは関係がない。これは何もお釈迦様まで遡って言っているのではなく、空海や道元や親鸞や日蓮といった日本での宗祖の教えから見てもそうだろうと思う。こう書いて誰か反論できるだろうか。

 もの忌みから話が横道に逸れてしまった。今でも使われている言葉をもうちょっと見ると、もの憂いやもの悲しい、もの足りないは「なんとなく」という意味を付加しているように見えるだろう。また、ものの数、ものわかり、もの心などでは世間とか自分が住んでいる世界全般を指していると理解できそうだ。ものぐさもこれに近いかもしれない。しかし、そんなことを言わないでも「もの」を霊魂と置き換えればすんなり意味が理解できるのではないか。もの憂さやものわかりを意識し、担っている自分ではなく、霊や魂がこの世に満ち満ちていて、それが心も体も動かしていると考えてはどうか。そうでなければ「ものすごい」の場合にはなぜ「すごい」を強めるのかわからないだろう。ものもらいという目の病気があるが、あれは誰からもらったのか。ものものしいとはどういう状態なのか。自分には霊や魂がひしめき合っているように思えるのだが。……こう考えていけばないはずの顔や手や足といった「もの」が見えても気にする必要はなく、その元になった「もの」自体の方がよほど薄気味悪いと言うべきではないか。もちろんこれはドイツ哲学に出てくる「物自体Ding an sich」のような面倒な議論とは無関係である。

 余談であるが、自分が書くものを物語と呼んでいるのも「もの」についてのこうした考えによるのである。中国で歴史書を上位において、フィクションは小人の行う説だということから小説という言葉が生まれたとか聞いたことがあるが、そんなへりくだったような言い方は好きではないし、物語の方がよほど由緒正しく、霊や魂からの助けも期待できるということである。

 


 

 史織物語

  

 1.引越し

 

  引越しは何度やっても好きになれない。部屋の片付けや模様替えは嫌いじゃないのにどうしてなんだろうと史織は思う。子どもの頃、両親が念願のマイホームを買うために、あちこちの一戸建てやマンションの分譲物件を見るのに一緒に連れて行かれた。ニコニコ顔で応対する住宅販売会社の社員の話はどれもよく似ていた。父も母もそれに飽きることもなくしきりにうなずき、いつも同じような笑顔を向けて自分たちの夢を語っていた。繰り返された会話が少しずつずれているのを小学4年生だった史織は感じていたけれど、明るい目をした大人たちは何も気にしていないみたいだった。

「かわいいお嬢さんですね」

「家で本を読んでいる方がいいって言うんですよ。自分の部屋がほしくないんでしょうか」

「このプランならお嬢ちゃんの部屋はここかな?」

 自分に話を振らないでほしいと思った。退屈そうにしているからだろうか、ただ単にお愛想を言うのが物を売る側に身についた習性だからだろうか、自分でも大人びた考え方だと意識しながらそう思った。内向的という言葉を早くも覚えて、そんな自分にはこういう場はそぐわないのだと理解していた。……

 

 親たちは20件以上の物件を見て回り、たくさん見すぎてどこがいいのかわからなくなったのか、議論と言うか、散々言い争いをしたあげくようやく決めた分譲住宅に20年経った今も住んでいる。引越しが嫌いな自分は東京に住みたいわけでもなかったのに、大学に入学して以来、もう3回も引越しをしている。進路指導で東京の大学を勧められたのを断るような積極的な志望があるわけでもなく、同級生も何人か受けるので受験してみたら自分だけが合格した。地元の大学も受かったので友人たちに訊いてみたら、ほとんどが偏差値が上の都内の大学を勧めた。親は「おまえの学費と家賃くらいは何とかする」と史織が上京したがっているものだと先決めしたように言った。

 

 考えがしっかりしていると子どもの頃からよく言われる。日常のささいなことはそうなんだろうと思う。でも、進学とか就職とかの「人生の岐路」みたいなことになると自分で考えるなんてできない。大学は3つ合格しました。就職の内定は4つ取れました。だけど、どれにしたらいいか全然わかんないんです。誰か決めてくれませんか?……そんなことを言ったら大変だ。贅沢を言ってるか、下手をすれば自慢しているように思われてしまう。でも、結局その時々の友人たちに訊いて、それで決めてきた。まるで人気投票のように。今では年賀状のやり取りくらいしか付き合いのない友人たちに頼って自分の岐路を決めてきたんだと思う。……彼氏のこともそうだった。

 

 ピーピーとトラックがバックする音が聞こえる。運送屋さんが来たのだろう。ドアを開け放っておく。これまでの引越しでは友人やその時に付き合っていた男に手伝ってもらった。今度は誰にも声を掛けなかった。本や服や食器を段ボール箱に詰めたり、電気製品のコードをまとめたりといった作業を3日くらい前から一人でやってきた。家具や冷蔵庫のような重くて大きいものは運送屋さんが運んでくれる。

 

 ほこりで荒れたようになっている手を見つめる。これも引越しが嫌いな理由の一つだ。手を洗いたいけれど、ハンドソープも梱包してしまった。段ボールの山を目を細めて眺めながら、手のひらをジーンズの横で擦る。

「こんちは。……えっと、荷物はこれだけですか?」

「あ、はい。……あ、こんにちは。よろしくお願いします」

 日焼けしているけれど、白髪が多く皺も深い小柄なおじさんで、父親と同じかひょっとするとそれ以上かもしれない。小さな運送屋さんに頼んだから、一人なんだろうか。おじさんは段ボール箱をいくつも重ねて運び出す。自分も手伝わなくてはと思うが、本が入ったものだと一つ持つのもやっとだ。狭いアパートの階段ですれ違うのをかえってむずかしくしているだけのような気がする。肩や胸の筋肉は彼氏とは比べものにならない。

 

 小型の冷蔵庫やそれなりの大きさのあるタンスや食器棚も一人でどんどん運んでいくのにはちょっと驚いた。通販で買ったような安い家具なのに角にきちんとクッションを当てる。テキパキとした仕事に感心しているうちに、今までの引越しよりよほど早く、部屋はがらんとしてしまった。

「あ、このソファはいいんです」

 背中のところに貼った粗大ゴミのシールが見えなかったのだろう。トラックに積まれていた。

「おっと、そうだった」

 おじさんはまだ使えるのにという目の色をしていたような気がするが、視線を避けるように3年間で少し汚れてしまったベージュのソファの端を持って、電柱の横に運ぶのを手伝う。

 

「さて、これで終わりだ。よかったら乗っていくかい?」

 助手席を顎で示す。

「あ、はい。……そうさせてください。でも、10分だけ待ってていただけますか?」

 部屋に戻って床を拭く。朝のうちにだいたいは掃除してあったからもういいのかもしれないけれど、区切りをつけたくて、使っていたタオルを下ろしたのだった。……鍵を閉め、合鍵と一緒にして階下の大家のドアの新聞受けに入れる。今日は外出していて、もう昨日のうちに挨拶はすませてあった。

 

 助手席に乗り込むとおじさんはすぐにエンジンを掛ける。もう一度毎日いろんな想いで見上げた窓に目をやり、史織は何か言葉にしようと口を開きかけたけれど、それは見つからなかった。

 

 

    引越し

 

 ほこりで荒れた指で

 ティカップを一つずつくるんでいく

 何も考えずに

 そう言いきかせながら

 

 道端に引きずり出されたソファに

 陽が当たって古ぼけて見える

 あのしみはわがままなあたし

 このほつれはそそっかしいあなた

 むき出しになって目を背ける

 

 夜明けの青さを教えたカーテンがないと

 部屋は裸になったみたい

 あたたかく包んでくれたあなた

 恥じらっていたあたし

 よそよそしい顔に変わってしまった

 

 ダンスが踊れそうだね

 がらんとしたこの部屋で

 隅にまだうずくまっている

 想い出につまずかなければ

 


 

 2.待ちぼうけ

 

 

    待ちぼうけ

 

 あたしはけっこうクールで

 ヴァレンタイン・デイにデートするのは

 好きじゃない

 カップルがいっぱい

 だからサーヴィスがよくないものね

 

 だのにハチ公前で

 孤独な女を演じさせるの?

 こんな日に残業させる会社なんて

 やめちまえ!

 ってメール打ったのに

 返事もくれないの?

 

 あーあ、最低だね

 涙が出てくるなんて

 帰ろうかな

 あなたの胸に

 顔をうずめて

 

 

 春日通りを右折したトラックは護国寺の前を通っていた。歩いて来たことがあるのはこの辺りまでだった。今日のようにやわらかくなった陽を浴びながら、ぶらぶらと散歩したことを思い出す。次に来た時に入ってみようと思ったレトロな感じの喫茶店が後ろに遠ざかる。できなかったこと、しなかったことも想い出になるのだろうか。香りだけで花の姿をめったに見たことがない金木犀のように。……史織は窓の方に少し首を傾けながらそんなことを考えた。

 

 おじさんは黙っている。土曜日の午後の道だからすいすいとはいかないが、渋滞しているというほどではない。AMラジオが控えめな音で掛かっている。

「……それで景気がやっと回復してきたのはいいんですが、残業もまた増えているんですね」

「過労死の問題とかありますから深刻ですね」

 かなりの年だろうと思われるパーソナリティに子か、下手をすると孫のようなアシスタントがあまり深刻ではないような声で相槌を打つ。AMラジオを昼間から聞くなんてすごく久しぶりだなと思った。場末のラーメン屋か海の家で聞いたのか。しかし、そうしたところに行った記憶もすぐには見当たらない。

 

「サービス残業と言うと働く人が自分で望んでやっているような響きがありますが、実際には残業代を払ってもらえないという現状があるわけです」

「政府の取り組みが待たれるわけですね」

 その言い方がこれさえ言っておけばちゃんとしたコメントだよと教えられたような浮いた台詞だったので、思わず笑みがこぼれてしまった。

「そうですね。……でも、デートと残業とどっちを取るかって訊かれたらどう答えます?」

「えー?!……どっちでしょう。やっぱりデートかなあ」

 政府の取り組みはどこかに行ってしまったような声だった。

「はは。……ところが残業が圧倒的に多いんですよ。これは社会経済生産性本部の意識調査なんですが、今年の新入社員の8割が『デートより残業を優先する』と答えているんですね」

 

 この話題になってから何か思い出せそうで、思い出せないことがあるなと思っていたが、ふいに渋谷の大型ディスプレイが目に浮かんできた。ハチ公前に3つも並んだ画面をぼんやりと見ている自分。ヴァレンタイン・ディの雑踏の中で一人で孤独な女を演じている自分。だから別の日にしようよって言ったのにと何十回とため息をついている自分。本当は前の彼氏と2月14日に大ゲンカしたから嫌なんだと言えなかった自分。……もうラジオの音は耳に入らなかった。

 

 そいつはちょっと嫌味なやつで、そこが魅力と言えば魅力で、自分でもそうしたこと全部を承知しているふうがあった。最初のデートでワインをテイスティングして取り返させたのはびっくりしたし、どこが悪いのか滔々とソムリエに述べている間、周りのテーブルからの視線が痛かった。それは1万円以上するワインだから理解できないこともないけれど、クリスマスやヴァレンタイン・ディのように決まったメニューだけにして、できる限りお客を回転させようと店側がしている日に、料理が出てくるペースが早いとか肉が焼けすぎているとか言うのはちょっとどうかと思った。自分は時々目線がきついと言われるから目で笑うよう努力して、手の甲にやさしく手をかぶせて言った。

「仕方ないわ。今日はこんなに混んでるから」

「いくらたくさんお客が来ても、店として崩しちゃいけない線ってものがある」

「でも、あたしには十分おいしいわ」

 

 一般論でいくら言っても議論は向こうの方が得意だし(前の彼氏は信託銀行のファンド・マネージャーだった)、勝とうとも思っていないので、そういう言い方をしたのだが、それを鼻で笑われてカチンとなった。もう少し我慢と思って、メダイヨンを切るような素振りでうつむいたのをどう理解したのか、追い討ちを掛けるようにそいつは言った。

「居酒屋の方がよかったか。……君には」

 自分の顔が青ざめて、手が震えているなとは思ったが、そんなことはいい。しっかりと言いたいことだけは言おうと思った。

「そのとおりよ。あたしはその場、その場、その時、その時に合わせて楽しむのがいちばんだと思っているから。楽しみ方を一通りしか知らずにそれを押し付けるなんて、迷惑なだけだわ。あなた料理評論家なの? ソムリエなの? 批評するために食事してるの? だったら一人で食べてればいいのよ。さようなら」

 さっと立ち上がって、出口に向かった。客もウェイターも拍手でも送りたそうな顔をして道を開け、コートを素早く着せ掛けてくれた。ベッドの中のことも当てこすったのが恥ずかしくなって、小さな声で「すみません」と言って外に出た。冷たい風が頬をなでるのを感じてから『その場、その場、その時、その時』という言い方が父親の口癖だと気づいて、やだなと思った。……

 

 待ちぼうけしてるとつまんないことばかり想い出すと史織は思った。あの時はあたしも無理やりテーブルを詰め込む店の対応にちょっとイライラしてたのかなと思う。2時間以上待って冷えきった頬に手袋を当てる。「おそーい」なんて彼氏を迎える甲高い声ばかり聞かされたから弱気になっているのかもしれない。今度の彼氏の一哉はSEで流行りの仕事のようだが、「工場で働いているのと変わらないよ」と本人が言うとおりで、納期に追われて徹夜続きのこともめずらしくないようだった。

 

 勘のいい友だちが「最近、彼氏ができた?」とカマを掛けてきた。隠せばよけいに詮索されるだけだから、訊かれるままに彼のことを言った。前の彼氏と会ったこともあり、別れたことも知っているだけに興味津々なんだろう。

「どんな感じの人?」

「ちょっとぼんやりした人かな」

「え?……そうなの?」

「うん。そこがいいかなって」

 話が長くなるのを避けたいのもあったが、実際にそう思っていた。変にピリピリして考えていることを追いかけるのに疲れてしまうような人よりも、ちょっとぼんやりしてて何も考えていないような人の方がいい。頭の回転やセンスの良さは友だちには自慢できても、自分の満足にはならない。居酒屋のような人がよくなったというのは、あたしもちょっと年取ったのかなと苦笑まじりに思った。

 

 ただ、12月になってから付き合い始めたというのに遠慮のないような関係になっているのは意外だった。これまでは「史織はなかなか打ち解けてくれない」という男たちの不満を直接、間接に聞いたし、ベッドをともにしながら気持ちに一線を引いていた相手もあったのに、一哉の場合はその反対だった。それは彼の方が踏み込んでくるというよりは、自分の方が隣り合って敷いたお布団をゴロゴロと転がっていくような、そんな気分だったからだ。……今までだったら使わないような言葉遣いで話したり、歌わないような歌をカラオケで歌ったり、掛けないような時間に長電話をしたり、彼とだとなぜかそうしてしまうのだった。

 

「ふうん。見てみたいな。史織がそういう人選ぶなんて」

「見るほどのもんじゃないって」

 笑ってごまかしたけれど、もしそうなったらと想像すると恥ずかしくて仕方がない。彼ではなく、彼の前の自分が。……でも、その今までにない自分を引き出してくれる人は来ない。爪先立ちするように交差点の向こうを見やる元気も、ケータイを開けたり、閉めたりする元気もなくなってしまった。かと言って、帰ってしまう勇気もない。こんなのっておかしいと思う。こんなにたくさんの人がいて、こんなに時間が経っているのに彼だけがいないなんて。別の星に別のハチ公前があって、そこで彼はあたしと同じように汚れた点字ブロックを見つめながら待っているような気がする。何かそんな間違いが生じたのに違いない。……

 

 ふと気づくと目の前に手が広げられていた。少し丸っこい指とやわらかい手のひらの感触を思い出しながら、顔を挙げる。

「チョコなんかないよ」

 涙がにじんできそうなのが悔しくてそう言ったけれど、この人はなんて自然に笑うんだろうと思うともうこらえきれなかった。コートの胸に頭がことんと落ちる。一哉は何も言わずに肩を抱いている。

「なんか言ってよ」

「ごめんね」

「うん」

 それだけでとても幸せな気分になった。二つの星が出会ったように。……トラックと並ぶようにして走る都電を見つめながら、史織はそう思った。

 


 

  3.パジャマ

 

 新宿が近づくにつれて道が混んできた。史織はふだん車やバスには乗らないからわからないけれど、信号が変わってもさばききれない車が残ると渋滞だと聞いたことがある。大きな交差点を横切るたびに停まっている時間の方が進んでいる時間より長い。おじさんは慣れているのか、穏やかな性格なのかイライラするわけでもなく、ハンドルを握っている。いつの間にかタバコを取り出して窓を開けて吸っている。別に史織に吸っていいかと訊いた訳でもないが、やめてくれなんて言わないから訊く必要もないと思う。最近の若い男はなんて史織が思うのも変だが、なぜ最近の若い男は吸うに決まっているのに訊くのだろう。自分は言ったことがないが、友だちで「においがつくから嫌だ」と言ったのがいた。半分冗談だったのに相手の男が気分を害したのがはっきりとわかり、気まずい雰囲気になった。やっぱりそういうものかなと思った。

 

 新宿は大きすぎる街だ。なつかしい想い出がいっぱいあるけれど、全部飲み込んでしまって知らんぷりをしている。高層ビルは巨大でよそよそしい顔で自分たちを見下ろしている。彼は学生時代以来、あの街でよく飲んでいたから史織とのデートでも「じゃあ、新宿で」と言うことが多かった。それは嫌ではなかったが、何回かするうちに飲みながらしゃべるだけで彼が満足しているんじゃないかって思った。……それがそうでもなかったことは、あの日ようやくわかったのだけれど。

 

 

    パジャマ

 

 くんくん、これちゃんと洗ってる?

 あは、怒らない、怒らない

 貸してもらわないと困るし

 べつに嫌がってるわけじゃないから

 

 こんなことになるって思わなかったの

 盛り上がりすぎちゃったね

 終電に間に合わないなんて

 全然気づかなかったの

 あなたもそうだったかは訊かないけど

 

 じゃあ、おやすみなさい

 こっちに来ちゃダメだからね

 これを着てるだけで

 あなたに抱かれてるような気分なんだから

 

 

 部屋の灯りを彼が消そうとして、声を上げそうになった。寝るんだからそうするのは当然だし、彼の部屋だから彼がスイッチを持つのは当然なんだけど、変に意識してしまっているのかなと思う。まだ酔っているのか、もう酔いが醒めてしまったのか、脳みそがまだらになっているような気がする。まずいなあ、やばいなあと思っているのがそのままつぶやきになりかけて、あわてて口を押さえる。でも、それ自体がちょっと変だ。……きっとこいつのせいだ。この変なやつがすぐそばで寝てるせいだ。早く寝てよ。おとなしく。何事もなく朝を迎えようよ。それが……なんて言うか、うん、健全だよ。酔って悪態をついていた史織は、くるっと壁の方を向いて何回かうなずいた。

 

 でも、眠れない。背中がなんだか寒いような気がして、毛布を肩まで引き寄せる。外を通る車の音の下に寝息のような音がかすかに混じるような気がする。眠っちゃったのかな? ゆっくりとしたリズムに自分の呼吸を合わせたり、はずしたりする。こんないい女がいるのに寝るなよ。体を丸める。さっきまで、もしこっちに来たらどうやって撃退しようかと勇んで考えていたくせにしょうがないなと自分に言う。

 

「喉渇かない?」

 いきなり訊かれてびくっとなってしまった。オレンジ色のなつめ球が点いているから寝たふりをすることもできない。

「う、うん。ちょっとね」

 彼はそのまま身を起こして、冷蔵庫を開ける。横顔が浮かび上がる。コップを2つ出してペットボトルから液体を注ぐ。そっちに持っていこうか?というような表情で振り向く。灯りを点けないでそれだけのことができるのに少し驚く。ベッドから降りて、聞こえないくらいの声で「ありがと」と言ってコップを取る。水じゃない、それはこの暗がりでもわかる。ウーロン茶ともちょっと違う。苦味を感じる。暗闇で感覚が敏感になっている。

「麦茶だよ。自分で作って冷やしておくんだ」

「マメなのね」

「冬でも麦茶なんだ」

 

 暗いと声が低めになる。まだ少し早すぎると思うのに近づいてきた顔を避けなかった。顎にひげが伸びかかっているなとか、この部屋の天井って田舎のあたしの部屋のと似てるなとか、よけいなことばかりキスされながら考えていたけれど、じろじろ見回しているのはおかしいと気づいて、目を閉じる。お酒くさいかもと思い、そっと胸を手で押しやって顔を伏せると背中から抱きしめられた。びくんと体が震える。いよいよまずいかもしれない。

 

「本当に肩が小さいね。いつも思ってたけど」

 でも、彼が指で探っていたのはもっと前の方だった。さっきパジャマに着替えたとき、ボタンがゆるいなと思ったのに意外と健闘してるじゃないのって思う。この人のことだから焦らしてるんじゃない、もたついているだけ。それも悪くないけど。そう考えるあたしはとても意外だけど。

 

「電気消して」

 もう十分見られてしまってから言う。前の彼がそう言うといつも含み笑いをしながら耳を噛んで、エロイことをささやくのが影響して、言いにくかったのだ。そのときの言葉が次から次へと蘇ってくる。首を振っていやいやをしても、そんなふうに見えないだろうと思う。首筋に唇の感触を感じる。ベッドに逃げるように、誘うように上がる。……

 

「いいにおいだ」

 くすっと笑いながら、シャワーを浴びたときにコロンを要所要所につけておいてよかったと思う。カラオケボックスは髪の毛ににおいがつくから嫌いだ。かと言って、初めて行った彼の部屋でシャンプーするわけにもいかない。トリートメントもないし、ドライヤーで乾かすなんて間の抜けた話だ。絶対にそういう気がないならくつろぐのもいいのかもしれないけれど。……腕を背中に回して抱きついていく。自分の気持ちに素直になろうと思いながら。そんなことは今までなかったし、それがどういうことになるのかわからなかったが。

 

 彼が入って来たとき、ベッドがきしむ音が自分の体の奥から出てくるように感じた。強引なわけでも、痛みがあったわけでもなく、重い扉が開いていくのを見ているような気がした。狭い運河に向かって開かれた扉からゴンドラが現れる。静かに揺れながら海からの風を切って水面を進んで行く。夜のまたその奥の方へ。……

 

 彼が意図的に動かしたり、触れたりするだけじゃなく、偶然に息がかかったり、足の指が滑っていったりするだけで史織は切なそうな声を上げた。そのことに彼が驚き、喜んでいることは動きが一瞬止まり、一層熱を帯びるから史織にもわかった。自分の体に起きていることは恥ずかしくてたまらないが、そのことで彼とじかに会話しているのを楽しんでいるような気がする。「えっちはコミュニケーションよ」男をとっかえひっかえする同僚が飲み会でそんなことを言っていた。「してみなきゃいい男かどうかわかんないわ」他のみんなは目配せしながら聞かないフリをしていた。「今のうちよ。おばさんになってからじゃ遅いわ」彼女は会社を辞めてしまったけれど、もし会ったらあたしはなんて言うのだろう。彼女は今のあたしを見たらなんて言うだろう。「これからね。うぶな史織ちゃん」そうかもしれない。

 

 ……きっとそうだったのだろう。相変わらず渋滞は続いている。

 


 

  4.猫・雨・洋館

 

 秋の終わりの冷たい雨が降っていた。さらさらと細かい雨が二人の傘を濡らしていた。風はほとんどなかったけれど、まだお昼過ぎなのに深い森にいるように暗かった。でも、史織はいつになくはしゃいだ気分で、彼もそれに合わせてくれていたようだった。

 

「どこへ行くの?」

「さあ、なんとなく」

「公園通りとか、表参道の方がいいんじゃない?」

「ブランド・ショップとか見てると手を引っ張るくせに」

 彼が返事の代わりにくすくす笑うのがどこかを暖めてくれるような気がする。ハーフコートの下は薄いニットのワンピースだけだったのに寒く感じたりしなかった。あたしの傘は小さな傘、あなたの傘は大きな傘。あたしの傘は花柄ピンク、あなたの傘はなんにもないグレイ。そんな歌にもならないようなことを頭の中でつぶやきながら、ちょっとうつむきがちに歩いて行く。歩道の所々に水がたまっていて、雨粒が小さな波紋を広げる。雨のスカート。子どもの頃にそんなふうに呼んで、飽きずに眺めていたのを思い出す。シンデレラの物語に出てきた舞踏会を想像していたのだろうか。あちこちでドレスの輪が広がり消える。幻のお城。バルコニーに流れるシャンデリアの輝き。幻の舞踏会。真夜中を過ぎても終わらない音楽。……

 

 彼が少し離れて歩いているのに気づく。いつの間にか傘をくるくると回していたのをしずくを避けようとしたようだ。

「あ、ごめんね」

「……プロヴァンスの野原から戻って来た?」

「うん」

 そう言って照れ隠しのように腕にからみつく。この間、史織がフランスに行きたいと騒いでいたのを彼が覚えていて、そう言ったのだろう。でも、彼はちょっと記憶違いをしている。史織は春だったらプロヴァンスの野原に寝転びたいって言ったのだ。フランスの蝶はどんなふうに飛ぶのかなって。秋の終わりならモンマルトルを歩いてみたい。ユトリロの絵の中の人物のように枯葉を踏みながら。……後で画集を見ても自分が想ったような絵はなかったのだけれど。

 

「やっぱりフランスに行ってみたいな」

「行けばいいじゃない」

「観光旅行じゃなくてさ。何年も」

「ふうん。フランス語できるの?」

「ううん。全然」

 ますますぎゅっとしがみつく。傘が揺れる。

 

「歩きにくいんですけど」

「そういうことじゃなくて。……行くなよとか言わないの?」

「だって、現実味ないんですけど」

「現実味あったら止める?」

「そう言われると止めないと悪いね」

「でも、あたしって本当に決心すると意志が強いんだよ」

「なるほど」

「なるほどじゃないでしょ」

 史織は『ずっといっしょにいてほしい』と言ってもらいたい。それは彼もわかっていて、とぼけたようなことを言っている。そのことも史織はわかっていて、しかもそんなふうに言われたらうれしい以上にとまどってしまう自分を自覚している。だのにわざとそういう方に話を持っていこうとしている。会話のゲーム。軽やかに近づいて瞳の奥の言葉を探す。感情のゲーム。ほがらかな笑みの底に眠れない夜が沈んでいる。

 

 ゆるやかな坂の途中におしゃれなパン屋があった。チェーン店ではなく、手作りで焼いているようだった。ワイン瓶の底のようなガラスのはまったドアを開けると甘く香ばしい香りが漂っていた。パンの焼けるにおいは人を家庭的にする。人間関係だとか将来への不安だとかそういったものをふんわりとくるんでしまって、ずっとこのまままどろんでいたいと思わせる。……トングをカチカチさせるのは子どもっぽいと思うけれど、とてもていねいに作られたパンを見ているうちに鳴らしてしまう。

 

「そんなに買ってどうするの?」

「だって、これは焼き立てだから後で食べようよ。こっちは明日の朝ごはん。……これは持って帰って」

 彼の目をうかがうようにしながら言う。にんじん入りのだけだと嫌がりそうだから、レーズンとアップルが入ったのも選んである。それがあれば文句は言えないなという顔をしている。財布を出そうとするのを手で押さえる。

「ま、いいから、いいから」

「でも、ぼくの分まで悪いよ」

「いいから、いいから」

 

 あまり気の利いたことを言おうとすると何だか所帯じみた言葉になりそうな気がして、同じ言葉を繰り返す。外に出る。冷たさと湿気が心地よく感じる。厚い雲と傾いた陽のせいだろうか、あたりが琥珀色の光に包まれる。代官山の近くには洋館ふうの建物が並んでいた。風雨にさらされて時代がかった壁に目立たないような細工がしてあるのがとてもいい感じだと思う。絵葉書で見た朝靄に沈むプチ・トリアノンよりももっと小さなお城。彼の皮のブルゾンに頬を埋める。本当の石畳でもなく、電柱が目障りだけれど、まだ行ったことのないヨーロッパの街並みを(こういう言葉がふさわしいのなら)思い出す。雨はもうやむのだろうか。ふと足元を見ると子猫が座って史織を見上げていた。しずくが光って貴婦人が身につける黒い毛皮のようだ。

 

「あれ?……こんなところに」

 彼が先に遠くから響くような声を挙げた。

「おなかすいたの?」

 史織がしゃがむと紙袋を見るようにして小さく鳴く。思わず笑みが浮かぶ。クロワッサンをちぎって手のひらに載せる。史織の目を茶色の目でちらっとのぞき込んでから、甘えるような仕草でくわえる。ほんの一瞬だけ、しかしいつまでも目に残るようなピンクの舌が見えた。今度はもう少し大きくちぎるのを首をかしげながら待っている。傍にしゃがんだ彼が袋に手を入れるのを横目で見る。

「この子よりお行儀が悪いわ」

「だってくれないからさ」

 その温かみのある言い方がいつか聞いたような気がする、いつのことだったのかと考えているうちに目が覚めていった。……

 

 史織はのろのろと進む車の中でいつの間にか眠ってしまっていたのだった。もう新宿は通り過ぎたようだ。明るさに目を細める。雨の中を彼と渋谷から歩いたり、猫にパンをあげたりしたことはなかった。でも、体の中には雨が降っていて、不思議な光の中で濡れた子猫がまだしょんぼりしているように思える。……短い夢のように人生が始まって、終わるのも悪くないなとトラックの窓に頬杖を突きながら思った。

 

 

   猫・雨・洋館

 

 渋谷から代官山まで

 傘をさして歩くなんて

 物好きな二人だね

 

 でも、ほらあの家の辺りって

 モンマルトルみたいだよ

 ユトリロの絵でしか知らないけど

 

 さっき買ったクロワッサン

 この子にあげようよ

 miauってフランス語で鳴いてくれたしね

 まだあったかいからさ

 


  

  5.毛布の中の日曜日

 

    毛布の中の日曜日

 

 あったかいTシャツのにおいと

 ほっぺたに当たる感触

 くすぐったいよ

 まだセピア色の映画を見ていたいのに

 

 部屋の外は雪混じりの雨

 うるんで見えるツタの壁

 ミルクティがおいしい一日

 何もしてないね

 ずっといっしょにいるだけ

 

 あ、目が合ったね

 寒いよね

 入っておいで

 お風呂とミルクをあげるよ

 だいじょうぶ

 またネコが増えたなんて

 笑ってるけど、やさしいから

  

 

 夢は別の夢を呼び起こすのか、夢のように満ち足りた何もすることのない一日を史織は想い出していた。前の晩から彼の部屋で飲んでいて、そのまま泊まってしまった。もうお昼近いというのに部屋が寒いと言って、毛布にくるまったまま史織は猫になってじゃれついていた。……他愛もないことだけれど、それを想い出すだけで少し幸せな気分になる。やっぱりあれが初めての恋だったんだと思う。

 

 テレビがついていた。とても古い映画をやっていて途中から見るようになったから題名もわからない。史織はあまり映画を見ない。映画館は苦手で、空気が悪いせいなのか頭が痛くなってしまう。友だちとしゃべっていても話題に全然ついていけない。ヴィデオを借りてくるのもほとんどしない。見ること自体は嫌いではないが、本屋に行くのと同じような意味での習慣というものがないせいだろう。会社からの帰りに何か買いたい本がなくても、お気に入りの本屋に立ち寄って例えば美術書のコーナーにいるだけで、気持ちがなごんでくる。レンタル・ヴィデオ屋ではそうはいかない。目当てのDVDをできるだけ早く見つけて、早く出たい。いつも追い立てられるような気分だ。

 

 彼は映画をよく見ていたようだった。しかし、史織といっしょに見ようとすることはあまりなかった。映画館が苦手なのを知っていたせいかもしれない。ただどうも自分が好きな映画が史織向きではないと決めて掛かっていたようなところがあった。アクション物やSFといったジャンルだが、史織にしてみればラヴ・ストーリーより見やすいように思ってはいたのだが、それをわざわざ自分から言ったりはしなかった。

 

 古い映画と言うと「ローマの休日」しか見たことがないような気がする。もちろんおもしろかったし、ヘプバーンはきれいだったし、最後にはホロリとしてしまったけれど、友だちが言うように「あれ以上の映画はない」とまでは思わなかった。なんだか変な言い方になるが、自分は恋愛が好きではないのかもしれないと思った。恋をすれば幸せだし、恋をしていなければしたいなと思うけれど、それを映画やドラマや小説で味わうような(なんと言うか)傾向がない。そう言えばテレビのドラマもほとんど見ない。恋愛小説に限らず小説はほとんど読まない。そんな話を友だちとしていたら、絶句されてしまった。

 

「女の子らしくないのよ」

「そんなこともないけど。……勉強不足じゃない?」

「勉強?」

「映画とかドラマって恋愛参考書じゃない? ある意味」

「ああ」

「ああって」

「……駆け引きとか、仕草とか?」

「そうそう」

「不器用ですから。自分」

 つまらないギャグを飛ばしてますます呆れられてしまった。

 

 その映画はラヴ・ストーリーではなく、貧しい家の父親と息子の話のようだった。話の筋よりも家の中の様子や登場人物の着ている服がとてもなつかしいように思えた。ぬかるんだ田舎道を親子が自転車を押しながら歩いて行く。その向こうに抜けるような青空が見える。モノクロ映画なのに、それだけにこの青空を見ていたいと思う。……

 

「こら、やめなさい」

 彼が後ろから耳たぶを噛む。さっき胸の上に頭を乗せてわき腹をくすぐったときは嫌がったくせに。

「わん」

「ふぎゃ」

 舌を入れてくるのは反則だと思う。体を丸めて逃げるしかない。rain cats and dogs というのは土砂降りのことだと高校の英語の授業で習ったけれど、なんだかわかるような気がする。ひっくり返って見た掃き出しの窓にはさっき見たときと違って、シャーベットのような雨の筋が見えた。

「あ、雪だよ。ほら、窓」

「わん?」

「ね?……初雪だよ」

 鉛色の空を見上げる。彼も体を離して雨混じりの雪を数えるような目をする。四国出身の彼にはこの時期の雪はめずらしいのかもしれない。もっとされたい気持ちがないわけじゃないけれど、照れずに抱かれていくにはやっぱり勉強不足だったのだろう。

 

「お茶でもいれようか?」

「あたしがいれるよ」

「いいって」

 キッチンにすたすた歩いて行く。のんびりした性格のわりには台所仕事はマメにする。母親が料理が得意な父親のことを「作ってくれるのもいいけど、片付けしてくれる方がいいのよね」とよく言っていた。確かに一人暮らししてみると作る方が片付けるよりも何倍も面倒に感じる。彼がちょっとした合間に食器を洗ってしまうのには感心する。

「コーヒー? 紅茶?」

「紅茶がいいな」

 

 キッチンとの間で言葉のやり取りをする。電子レンジの音がする。ミルクを温めてくれているのだろう。史織が必ずミルクティで飲むのもわかっている。マグカップを二つ持って現れる。

「ありがと」

「なんかあった方がいい?」

「ケーキとかあるの?」

 ないのはわかっていて訊く。

「それはないけど……塩辛とか」

 

 相変わらず冷蔵庫は空っぽらしい。昨日の夜に食べた寄せ鍋も豆腐くらいしか残っていない。

「これ飲んだら、なんか食べに行く?」

「お腹空いた?」

「ちょっとね」

 彼がちょっとねと言う時はかなり空いていると思った方がよくて、史織の倍近く食べてしまう。その手前に「ふつう」というのがあって、それだと史織が腹ペコの時とちょうどペースが合う。落ち着かない気持ちになって言う。

「じゃあ、出掛けようか」

 

 何気なく窓の外を見ると黒い猫がしょんぼり座っていた。まだ子猫なのか、骨張った小さい体を震わせている。雨のしずくが揺れる。思わず窓を開けて抱き上げる。

「かわいそう。冷えてる」

「いつからいるんだろう」

「シャワー借りるね」

「うん。ミルクあっためようか?」

「お願い」

 

 野良猫を拾ったりして面倒だというふうは全くなかった。袖をまくって逃げようとする猫を抑えながら彼のやさしさを感じた。拾った後のことまで気が回らないだけなのかもしれないけれど、それもやさしさという言葉に含めてしまっていいように思える。なんだかせつないような気分になって、「寒かったでしょう? もうだいじょうぶだから」としきりに子猫に語りかけた。

 


 

  6.世界の秘密

 

 猫はせっかく洗ってあげたのに窓に爪を立てて外に出たがっていたけれど、それにも飽きたのか、ミルクを飲んで安心したのか、いつのまにか部屋の隅で眠っていた。結局、ランチは彼がコンビニでいろいろ買ってきたもので済ませた。史織はまだ一歩も外に出ていない。自堕落な休日も彼といっしょなら悪くない。

 

「もう食べないの?」

「もうお腹いっぱい。だって、明太子おにぎりでしょ、おでんでしょ、それにサラダまで食べたよ」

「まだいろいろあるよ」

「いろいろあるって……夜か明日の朝に食べるんじゃないの?」

「このカップラーメン食べようかなって」

 ポッキーの箱を開けながらそう言う。

「あたしはいいから」

「そう? カレーパンとあんドーナッツは朝食用だよ。朝から重いものはちょっとね」

「はあ」

 

 聞いてるこっちが胃もたれしそうになる。いちいちチェックしているわけではないが、おにぎり2個とフライドチキン、カットピザ、カップにいっぱい入ったおでんのほとんどがするすると消えていった。手巻き寿司も見かけた気がする。……それだけ食べても一向に太らないんだからうらやましい限りで、職場の女性にもそう言われるらしい。お湯が沸くのを待っている間、キャットフードの缶を熱心に読んでいる。

「それっておいしいらしいよ」

「うん。最近のはホントよくできてるよね」

 二の句がつげなかった。こいつ食べてやがる。

 

「ウソだよ。史織が呆れてるのがおもしろいから」

 やわらかく押し倒しながら、猫のように顔をなめてくる。甘いチョコレートのにおいがする。首をすくめる。

「猫に顔をなめられるのはいいけど、キャットフード食べた男になめられるのはやだな」

 くすくす笑いながら言うとキスされる。やっぱり甘い味だ。舌も。……本当はやかんが気になるし、手も洗ってほしいけれど、それじゃあ誘っているようだ。彼の手を握る。暖かい。思わず体をすり寄せていく。なぜ舌が絡み合うと粘るのだろう。

 

 ピイッとやかんが鳴る。体がびくっとなる。

「止めないと」

 彼の胸を押してキッチンに急ぐ。彼が横に来て流しで手を洗う。動きがぎこちなくなる。

「なぜおまえだけいいにおいがするんだろう。ずっと一緒にいるのに」

 手を拭きながら首筋にキスをしてくる。おまえって呼ぶのはベッドの中くらいしかないが、そう呼ばれると反応するところがある。そうするつもりはないと思うのだけれど、腰の辺りに当たるものがある。

 

「ノワノワが見てるよ」

 さっき二人で相談してその名前にした子猫があどけない目をこちらに向けている。史織の体の中に動き出すものがある。

「起こしちゃったね」

 そう言いながらスイッチを消すと暗闇が広がり、緑色の目が浮かぶ。秋の終わりの雨の日は暮れるのが早い。人間が抱き合うのは興味がないらしく、自分の体をなめて毛づくろいをしているのがシルエットで見える。

「ラーメンはいいの?」

「こっちの方があったまりそうだ」

 

 一体どうしたのだろう。いつもよりずっと感じやすくなっている。昨日の夜も、それから何日か前もしたのに。頭の中で指折り数えるようなことをしてみるが、震えるように反応するのを止めることができない。彼の指の動きで彼もいつもの史織と違うことが気づいている。「何も言わないで」思わずそう祈る。ベッドまで膝が折れそうになるのを我慢しながら連れて行かれる。足をぎゅっと閉じているからよけいに歩きにくいが、そうしないとますます恥ずかしいことになりそうな気がする。下着がとても頼りなく感じる。

 

 押し倒される。強い力で服を剥ぎ取られていく。これまでだったら「痛いじゃない」と言うところだけど、そう望んでいたような気さえする。この感じは何かに似ている。……ああ、そうだ。ジェットコースターだ。肩から大きなアームが降りてくる。ベルが鳴る。また震える。ガタガタと大げさな音がして動き出す。

 

 首から胸、反対側、ゆっくりとした舌の動きが史織に初めて声を挙げさせた。行為の最中にため息や吐息を漏らすことはあっても声を挙げたりしたことはなかった。10代の頃の痛みも歯をくいしばっていれば耐えることができた。しかし、この快感は歯をくいしばることも許さない。腹、背中……気づかないうちに体のあちこちに彼の舌が現れる。肩甲骨と背骨に軽く歯が当たる。こんなことをされたことはなかった。カタンカタン、青空を目指して上っていく。

 

 彼が指を少し曲げると光がはじけ、痙攣したように体が跳ねる。あの音は流しから聞こえるんじゃない。

「だめ……」

 口元に指を持って行こうとするのをかすれ声で制止する。微笑まないで、耳をすまさないで、こんなあたしを見ないで、すべて忘れて。きっともっと思い出したくないようになるから。史織はもっとすり寄っていく以外のことは思いつかなかったが、全く違う自分が立ち現れてくるのを意識せざるをえなかった。

 

 膝をぐいとつかまれる。左右に広げられたと思ったらやさしく、恥ずかしいくらいすんなり入ってきた。ノワノワが見ている。目をぎゅっとつぶっていても猫の目に映る自分が見える。上って下りる、それと同じような単純なことだけれど、とても複雑な感覚を引きずり出す。

 

 駆け下りていくジェットコースターは壁に当たっても、いやそれがそのまま新鮮な刺激になって別の世界を見せる。ただただ声を挙げる。深いところも浅いところも、ほんのわずかな接触面の変化が全く違った意味を持って体の奥に響いてくる。緑色の目が砂丘が生き物のように動いていくのを照らす。自分の中で砂が崩れていくのをなぜか痛快に感じる。なんてことだ。むずかしい理屈や繊細な言葉は次々とベッドの外にこぼれ、床にしたたり落ちる。……しかし、ポケットの中の小銭を探すように結節点の少し上を彼が探った瞬間に自分を見ていた自分は砕け散ってしまい、雨上がりの空が濃い青に染まる頃になってようやくそのかけらを探すことができるようになったのだった。 

 

 

    世界の秘密

 

 指がふれる

 耳に息がかかる

 言葉の意味が剥がれ落ちて

 喉いっぱいに叫ぶ

 あなたのすべてが流れ込んでくる

 

 二十歳を過ぎれば

 この世に新しいことなんか何もない

 未来は過去の繰り返しで

 退屈な感覚と感情だけがいる

 病院の待合室のようなあたしの心

 

 でも、これは違う

 今は今じゃない別の生き物

 あたしはあたしと違う名前を持つ

 何も見えずにすべてがわかる

 この世界はきっとそうなってるんだ

 


 

  7.疑心暗鬼

 

   疑心暗鬼

 

 見ちゃいけなかった

 見なければよかった

 あなたのケータイのメール

 ただのあいさつじゃない

 

 小さな池に

 墨汁を一滴

 見る見る真っ黒になる

 あたしの心

 

 訊くに訊けない

 消すに消せない

 あなたの笑顔も

 やさしいキスも

 あたしだけなの?

 

 

 記憶を蘇らせるだけで体が反応してしまうのは成熟したということなのだろうか。自分の中で戸惑うほどせり上がってきたものをこんな真昼間から一つ、一つ指でなぞるように思い出すのを止めることができなかった。道路の両側がいつのまにか開けて来て、白っぽい東京の空が広がっている。

 

「もうすぐ着くよ」

 一時間以上、しゃべらなかったおじさんがわりとはっきりした太い声で言った時、体がびくりと動いた。おかしく思われはしないかとひやりとしたけれど、史織の変化に気づいてはいないようだ。環八を横切る信号待ちでまたタバコをくわえて窓を開ける。落ち着こうと用心しいしい深く呼吸する。首が硬直したようになって運転席を見ることができない。もうすぐと言われるとまだ着かないのかという気持ちになる。……

 

 歩いて部屋を探しに来た時とはトラックだと目線の高さが違うせいなのか、速度があるせいなのか、印象が異なって見えてしまうけれど、隣の家の柿の木に見覚えがある。トラックを降りて階段を駆け上がる。そうは思っていなかったのだが、今見ると何もない部屋は彼の部屋とどこか似ている。そういう部屋だから無意識に選んだのか。でも、もう思い出したくない。

 

 相変わらずおじさんはてきぱきと荷物を運び込む。また腕や胸に視線が吸い寄せられる。手伝わないといけないという口実を自分につくりながら、階段ですれ違う。胸がこすれる。わざとじゃないと思うのだけれど、踊り場でかえって邪魔になるような体勢で待ってしまう。視線が合いそうになる。ついとはずして、階段を少し急ぎながら上がる。自分のお尻がどう見えるか意識してしまう。ジーンズはそうした気持ちを隠すのに十分な厚みを持っているだろうか。部屋に置いてすぐに降りる。

 

「ベッドはこの向き?」

「あ、はい。……また自分で直しますから」

 周りを確かめるようなフリをして視線を避ける。ごわごわとした指をのぞくようにして見る。

「一人じゃ大変だから、いくらでも動かすよ」

「いえ、だいじょうぶです」

 家具が次々と置かれていく。部屋らしくなっていく。段ボールがその隙間を埋める。……たくさんの荷物を運んで階段の上り下りをしているうちにおかしくなってしまったのかと冷静に考える自分がいる。トラックの中でこの人のそばでおかしなことを考えていたせいだと冷静さを失わせるような考えに導く自分がいる。なんだか怒ったような顔になって、いつの間にか唇を噛んでずっと狭くなった部屋で肩をすくめていた。

 

「さてと。これでいいかな?」

「はい……あの、お茶でも」

「いいよ、いいよ。大変だから」

「いえ、ペットボトル買ってきますから」

 振り切るようにして外に出て、自動販売機を探す。角まで走って行く。千円札が約束事のように1回吐き出され、2回めは受け入れられる。もどかしく思いながら緑茶を2本買う。もったいをつけるようにつり銭が落ちてくる。

 

 おじさんがトラックの荷台を整理しているのが見えて、歩みが遅くなってしまう。

「ああ、悪いね。じゃあ、もらっていくよ」

「いえ」

 若い女の部屋に長居するわけにはいかないといったことなんだろう。それが良識というものだ。……何回も頭を下げて、トラックを見送る。段ボールを抱えていたときより重い足を運びながら階段を上がる。部屋に入る。ため息が出る前にジーンズの後ろのポケットのケータイが振動する。

 

『新居はどう? 手伝えなくてごめんね』

 会社の友人からのメールだった。返信は後にしようと思って畳もうとした時に、ふと不在着信と留守録があるのに気づいた。見覚えのない番号だったが、再生してみるとあのおじさんの声だった。

 

『えー、ちょっと早く着きそうなんで。あ、信号変わるから』

 交差点待ちをしている間に電話したのだろう。いつもマナーモードにしているから、体から離していると気づかないことが多い。その番号をしばらく見つめる。……もしここで自分が電話して、とんでもないことを申し出たらどうなるだろうか。戻って来てくれるだろうか。おじさんは電話したなんて一言も言わなかった。だから黙って応じてくれるかもしれない。そんなのは論理の飛躍で、勝手な妄想にすぎないけれど、鼓動が早くなるのを抑えきれない。何回も声を聞く。

 

「満たされていないのかな?」

「うん……」

「それだけじゃない?」

「とても嫌なことを思い出したの」

「どんな?」

「知らなくていいことを知ってしまったの」

「どういう?」

「見てしまったの」

「よくわからないね」

「信用できなかったあたしが悪いの」

「裏切られたと思った?」

「そう」

「だから裏切られない関係がいい?」

「……」

 

 胸に頭をあずけてやさしく髪をなでられているのに、いじわるな質問をされる。逃げようとしても先回りされる。隠しておきたいことを容赦なくあばかれる。想像の中のおじさんは今まで付き合った男たちの誰とも違って、自分の痛いところをあの指で小気味よく触れてくる。……

 

 段ボールの山の間に横たわって、ジーンズを膝まで下ろす。細くてやわらかい指で触れていく。まだカーテンをつけていない窓はむき出しの裸のようだ。だいじょうぶ。広い空と電線しか見えないもの。だいじょうぶ。ここはあたしの部屋だから。自分の中を確かめるように横を向く。段ボールで視野が遮られ、目をつぶる。だいじょうぶ。鍵を掛ければ嫌な想い出は入って来ないから。

 

 もどかしくて指の位置を変える。ぶどうの種のようだといつも思う。体をくの字に曲げ、脊柱が震えるまで親指の腹で探る。自分がなんだかけだものになったような気がする。そう、まるで新しい棲みかに移った動物がごろごろ転がって自分の匂いをつけているみたい。つるべ落としの夕暮れの中で史織は怯えたような吐息を時折挙げて、快感と惨めさを味わっていた。