短い物語:16編 05.9-06.1

 

暗部山/恋のゆく方/天の原/川霧/白露

雨の石段/藤袴/松虫/夢路/黒髪

花の色/やわ肌/月影/薄雪/霙(みぞれ)/窓辺で手紙を読む女

 


 

歌物語:暗部山

 

   我が来つる 方も知られず 暗部山

   木々の木の葉の 散るとまがふに

                 敏行朝臣・古今和歌集

 

 恋バナも結局、いい男っていないわよねぇっていうため息になってしまって、沈んだ座を盛り上げるためにホラー話になった。呪いのヴィデオの映画で井戸が怖かった、アメリカでリメイクされた方がもっと怖かったよ、なんてにぎやかになって、ケータイを使ったのもあったね、次はなんだろうってことになった。

 学生時代の友人、麻希とつぐみにひさしぶりに会うことになって、給料日後の金曜日の夜にあたしの部屋で、キムチ鍋を囲んでいるんだから、恋バナなんて元々野暮な話だった。会ったのは二人ともいつ以来なのか思い出せないけれど、そこは同じテニス・クラブ仲間で、クラブって言っても別の大学の男子学生のサークルと一緒に練習するっていう“出会い確実!”みたいなことで入ったわけだけど、卒業して4年経って結婚とかそういうところまで行ったのは同級生で13人中3人だけ、すぐ下は11人中3人だから、成績悪いわねというのが麻希の分析だ。そういう見方はメーカーで資材管理部門にいるってことのせいなのかもしれないけど、自分たちで成績を引き下げているじゃないって、缶チューハイを飲みながら突っ込みを入れてやった。

 つぐみが赤ワインのコルクをぼろぼろにしちゃってるのを麻希は引き取って、器用に栓を開ける。つぐみはおっとりしてるし、家がお金持ちだからその関係で、生命保険会社の重役秘書をしているそうだけれど、スケジュール管理もできないから受付に回されちゃいそう。っておじさんたちの面倒見てるよりチャンスが増えていいじゃないなんて、これまた麻希から突っ込みを入れられてた。

 それで、新しいホラーをあたしたちで考えようなんて話になったわけ。

「そりゃ、今度はインターネットとかメールだよ」とあたしが言う。

「うん、それはもうあるかもね。新しいIT技術が出ればそれを使ったホラーが出るってパターン」

 麻希はワインをタンブラーグラスで飲んでいる。

「呪いのサイトを見ると1週間後に死んじゃうとか?」とつぐみはもう怖そうな顔で言う。

「あはは。それじゃあパクリよ」

「じゃあ、どんなの?」

 もう硬く、小さくなってしまった牡蠣を食べながらあたしが言う。

「そうね。……自殺サイトで出会って、お互いにウェブカメラで練炭自殺する様子を見て、チャットしながら死ぬのってどう?」

「やだあ」

「でも、独りで死ぬのがイヤだなんて、首尾一貫してないじゃない。ネットの中の関係はネットで完結しろって」

「なんか麻希らしいな」

 あたしは、時々、時事批評みたいなことを言うのをちょっとからかいながら言う。

「それって、全然ホラーじゃない。お化けとか幽霊出てこないもん」

「出てこなくても怖いよ」

「自殺する人なんていっぱいいるじゃない。一昨日の朝も中央線遅れて、困っちゃった」

 つぐみって怖がりなくせに少しツボが外れると平気なようだ。

「じゃあさ。チャットで話してる相手が幽霊だったっていうのは?」

「何人もいる中で一人だけ?」と言ってから、麻希は一対一のチャットのことを言ってるって気づいた。麻希も出会い系っぽいのを自分がやってるってあたしが思ったのに言い訳もしにくくて変な表情を浮かべた。そこにつぐみが幽霊って言葉に反応してくれて助かった。

「それで何か起きちゃうの?」

「チャットで言ってるとおりのことが起こるってのは? 時計が止まるとか。物音が聞えるとか」

「だんだんエスカレートしていくと怖そうね。今、後ろにいるよなんて」

「やめてよぉ。本当に怖くなってきた」

 つぐみは自分で自分の肩を抱いてしまった。ホラー話で本気で怖がられたら続かなくなってしまうんだよなって思ってたら、麻希が少し違う方向から分析してみせた。

「でもさ。ああいうのって無差別に恨みを向けてくるのが怖いのかな」

「うん。得体の知れない怖さってことじゃない?」

「身に覚えがないから怖いんだよ」

 誰かが言った言葉がきっかけで、あの小説のあそこが怖かった、あの映画のあの場面で驚いたって、あたしもそうだけど、みんなよく見てるなってくらいいろんな話が出た。その中で、麻希がぽつりと言った。

「でもさ。やっぱり信頼してる人に裏切られたっていうのがいちばん恨みが深いよ」

「そうね。そうだよね」

 

 もうキムチ鍋は冷えきって、ポテチやスルメを齧りながら缶チューハイを飲んでいる。あたしは何気なく聞いていたけど、二人がそう言って一瞬視線を交わしたのは気がついていた。

「彼氏に裏切られたりすると?」と話のつなぎのように訊くと、つぐみが言う。

「男は裏切ることもあるって最初から思ってるからいいの」

「そうだよ。友だち同士で裏切ることもないのに裏切る方がひどいよね」

 何かひっかかるような言い方をする。でも、あたしはこの二人を裏切ったことなんかない。じゃあ、誰のことを言ってるのって思う。

「うん。それにそれを全然覚えてないって最悪じゃない?」

「最悪だよ。平気な顔して自分の部屋に呼んで、仲良く鍋でもしようよなんて」

 あたしのことを言っている。今日のことを言っている。だんだんしゃべり方がゆっくりと、静かになっていく。あたしは二人の顔を見るのが怖くなって、うつむいている。思い出さなくては。でも思い出すともっと怖くなる。それだけはわかる。

「そう、そうやって封じ込めてきたんでしょうね。井戸より深いところに」

「自分がいちばんかわいいのね。昔からそうだった。子どもの時に歪んだのよ」

「あの時もそうだった。寒かった」

「寒かった。でも、もっと悲しかったよ。こんな山の中でどうして?」

 その声を聞いて思い出してしまい、はっとして二人の見たこともないような顔を見ると、何かが視界を横切って部屋の灯りが消えた。風を頬に受けてあたしはあの暗い場所にいることに気づいた。ざわっと周りの樹木が鳴って、思いがけないほどの木の葉が次々と落ちてくる。

 

 

 


 

歌物語:恋のゆく方

 

 やる気がないのはわかってるし、練習するよりゲームやチャットをしてる方が楽しいんだろうけど、レッスン中にメールの着信音が何度も鳴るのは勘弁してほしい。だいいちその着メロのアカペラ・グループって音感悪いじゃない。

 この子を引き受けたとき、音大に進ませたいからって母親は一生懸命だったけれど、習い始めたらすっかり安心してしまったような気がする。あたしはあたしで、音大なんか行ってもお金がかかるばかりで、どっかのマンガじゃないけど、「不良債権」になるのはわかりきってるよなんてことを教えてたから、無気力の原因を作ってしまったのかもしれない。でも、だったらどうするの? ピアノをやめるのは親が許さないからできない? 自分の人生、しかもいちばんいろんなことができる時期じゃない。趣味で弾ければ十分? それならそれで、教えようはいくらでもある。わりと簡単な曲をダイナミックに(デュナミークなんて洒落もんじゃなくて)弾いて上手に聞こえるようにしたり、今流行ってるポップスにニュアンスを込めてカッコ良く決めたり、そんなことを教えるって言うか、一緒にやってた方がよほどこっちも楽だ。薬指と小指のトリルだとか、7拍子の練習なんか確かにおもしろくない。

 

 こんなことを考えるようじゃ、あたしももう若くないなって思う。しかも結局何にも言えないで、ニコニコしながら「また来週がんばってね」って生徒を帰した後、ソファにもたれてピアノから目をそむけたりしてるんじゃね。日本のクラシック界では、女は親の財力と美貌がないとやっていけない。それともちろん才能って言いたいところだけど、早く、正確に弾く技術だけ。それ以上のものは、財力と美貌が続いたときに問題になるだけ。財力が足りないって言うと、お父さん、お母さんごめんなさいだけど、美貌の方も寄る年波ってやつだから。

 あたしだって国内のコンクールならいくつか賞は取りました。はい。でも、1位なしの2位とか、なんかそういう中途半端なものばかりで、新聞に載るような海外のコンクールまではやっぱり届かない。だからってひがんで言うわけじゃないけど、ふつうの人はオリンピックとかワールドカップみたいなものだと思ってて、コンクールが出発点にすぎないって知らない。でも、本当は正しいのかもしれない。いちばん注目を浴びて、お客も来てくれる時期だから。

 あー、いやなこと思い出しちゃった。今度のコンサートのチケットまだごっそり残ってる。自分で自分のコンサートのチケットを引き受けて、売らなきゃいけないなんて絶対にプロじゃない。友だちで日本舞踊の名取の子がいるけど、それとあたしたちの世界があんまり似てるんで笑っちゃったことがあった。あっちの方が堂々としてて、豪勢かも知れないけど。……チケットがなんでこんなに残ってるんだろってずっと考えてたら、彼と切れちゃったせいだってわかって、そんなわかりきったことがなぜすぐに気づかないのか、あははって笑ってたら涙が出てきた。

 さてさて、どうしますか? 50枚引き受けてくれてたスポンサー様がいなくなったのよ? いえいえ、時には最後に残った2、30枚だって、笑顔でお金と交換してくれたんだからそれ以上でしょ? 昔は何にも考えなくてもまとめて買ってくれる男がいっぱいいたのよね。あの人に渡した分、ほとんど空いてるじゃないなんて、いい気になってステージのそでから眺めてた。……思い出にひたっている場合じゃないのに誰かにつてを求めて電話するような勇気一つない。あたしよりちょっとおねえさんの、今度組むヴァイオリニストがもっと生徒取らなきゃダメよって言った意味がようやく身にしみてきた。きれいな音でさらさら器用に弾くだけで、あたしが曲の構造とか、アナリーゼとか教えてあげたくらいなのに、赤字を出さないとまではいかなくても、最小限にしてる分、あっちの方がプロなのかもしれない。ケータイのアドレス帳がいっぱいになりそうだなんて、営業のプロだわ。

 結局あたしは、ピアノに逃げ込んだ。ひさしぶりにプロコフィエフの戦争ソナタをバリバリ弾いて、スカッとしてから、ショスタコーヴィッチの前奏曲とフーガをテンポとか肘や肩の使い方をいろいろに変えながら弾く。心にも体にもいい運動になる。バッハのだと追い詰められそうになってしまうから、こっちの方が弾き疲れしない。

 あたしは女の子(もうそうでないような人も)が好きなラヴェルとかドビュッシーとか、ましてやショパンなんて嫌いだ。正確には彼らの曲が嫌いって言うよりは、それが自分に合ってるって思って弾く彼女たちが嫌いだ。あたしも以前はこういうコンサートの定番をやらないわけにはいかなかったので弾いてたけど、無自覚に弾いてる女の子よりくやしいけれどうまくなかった。ユニークなドビュッシーだなんて、パイプくわえた髭面おやじが誉めてくれたけど、やりたいことが中途で挫折しただけ。……

 そんなこともあったし、何より独奏だけでやっていく自信もなくなって、最近は歌曲とか室内楽で組むことが多くなった。何にもクラシックのことなんか知らないのに、弱気になっていたあたしを彼は支えてくれた。お金だけじゃなく。伴奏って呼ばれるのを愚痴っていたら、漫才と同じようなものかなんて言ってた。けっこう有名なソプラノ歌手が楽譜を読めないってことをバラしたら、カラオケで歌ってるやつはだいたいそうだろって言ってた。ピアノ四重奏とか五重奏だと気の合った中に入っていくのが大変って言ったら、3人も4人も相手してるのかとまじめな顔で言ってた。……

 

 陽が暮れていく。秋の長雨がようやく上がって、大きな手で引っ掻いたような雲が幾筋も夕陽の方へ向かっている。これからどうしようかな。次に弾く曲のことなのか、もっと大きなことなのかよくわからないまま、小さな声に出してしまう。

 “Je te veux”を弾いてくれないか。彼の声が聞こえたような気がした。大きな窓ガラスに映る光が少し震えたようだ。『おまえがほしい』なんてどうしたの? サティくらいは覚えたのね。心の中で、からかいながら、歌うような、踊るようなシンプルな曲を弾き始めた。目をつぶっていたって弾ける。この曲とともに本当に終わってしまったことを告げる透明な空を見たくないから。

 

    我が恋は むなしき空に 満ちぬらし

    思ひやれども ゆく方もなし

             よみ人しらず・古今和歌集

 

 

 


 

歌物語:天の原

 

 桂子が突然連絡してきて、銀座で会うことになった。高校時代の同級生で、早い話がぼくの片想いの相手だった。ひさしぶりに三越のライオンの前で見る彼女は、昔よりも肉付きがよくなっていたが、きれいだった。彼女が予約したのは地酒のおいしい店ということだったけれど、ぼくは日本酒が飲めないので、麗々しくガラス扉の冷蔵庫の中に鎮座した一升瓶をながめながら、麦焼酎のお湯割で乾杯した。

「日本酒飲めないなんて知らないから、悪いことしちゃったわね」としきりに謝るのだけれど、それはぼくの嗜好を確かめなかったことを詫びると言うよりは、暗に日本酒も飲めないのかと言っているようにも聞こえ、その辺は10年近くの間に変わったのかなと思った。変わったと言えばぼくらが通っていた田舎の公立高校で化粧なんかする女の子はいなかったから、化粧した彼女を見るのは初めてで、ふわりとした水色のワンピースと相まって華やかな雰囲気を漂わせている。ぼくは贈る相手もいないから女性のアクセサリーなんて疎いけれど、ブランド物の高そうなものを耳や首にぶら下げている。シャイニー・ピンクの唇に当たる銘酒のグラスに見とれてしまうと同時に、ふと昼間もこの格好で仕事しているんだろうかという気がした。

 お互い田舎で開かれている同窓会にはほとんど出ていないだけに、クラスのみんなの現状といったことで話がはずんだ。田舎の役場に勤めたやつは、一生結婚しないなんて言っていた女の子と結婚してもう3人も子どもがいるとか、医学部を目指していた秀才は今では小さな業界紙の記者をやっているとか、彼女は同級生の消息をよく知っていて、とてもおもしろかった。上品な店なのか焼き鳥や刺身を頼んでも居酒屋なんかよりずっと盛りが少なくて、濃い目のお湯割のせいもあって変な具合に酔っていきそうだった。もちろん片想いの人とお酒が飲めるということも影響していたと思う。金融関係の営業をやっているという彼女の名刺をしまおうとして下に落としてしまうくらいだった。

 学生時代の友だちに会うと、ものの10分も経たないうちに当時と同じような話し方になるものだけれど、なぜだかそうはならない。そんなことは気にするふうもなく、目を輝かせながら次から次へと話をする彼女の顔を見ながらあいまいにうなずいていた。……

 

 たった一度だけど、彼女とデートしたことがあった。田舎の遊園地だから、すぐに上がって戻ってくる観覧車、ペンキが剥げて涙ぐんだような木馬が回るメリーゴーラウンド、おしゃべりをやめる必要のないジェットコースター……そんなものばかりだった。子ども動物園っていうのがあったが、ヤギやウサギがいるだけだった。前の晩は小学1年生が遠足に行く前よりも興奮して、いくら桂子のことを考えて生々しい想像をしても寝つくことができなかった。だいいちぼくは頭の中ではいつも桂子と呼んでいたけれど、面と向かっては天野さんとしか呼べず、野球部の部室でタバコを吸っているようなやつらが名前を呼び捨てにするのをひそかに憤っていた。

 そんなふうに女の子を好きになったことはそれまでも、その後もなかった。でも、それはデートを成功させるということから言うと、妨げにしかならない。話が途切れないように次から次へと話題を探したり、観覧車から見える海を大げさに驚いて見せたり、ヤギの咀嚼方法について細かい分析をしたり……しかし、実際に考えていたのはゴンドラがてっぺんまで行ったら言おう、ゴトゴトいいながら回るコーヒーカップの中で言おう、あのサルビアのお花畑の前で言おう、そんなことばかりだった。彼女はいつもどおりもの静かで、でもぼくがしゃべっているとじっと目をみつめてきちんと話を聞いていた。

「金木犀の香りがするね」と何回か言って、彼女がその香りが好きなんだということがよくわかった。晴れ上がった秋の空を甘い金木犀の香りが輝かしい色に染め上げているような気がして、ぼくはその度に「そうだね」とだけ言って深呼吸をした。……大学に入って上京して、もう彼女と付き合うこともできないようになってから、彼女はもしかしたらぼくが告白するタイミングを作ってくれていたのかもしれないと思い当たって、ハチ公前の交差点で立ち止まってしまった。

 夕方に音の割れた『蛍の光』が流れるときになって、やっとこさ「ちょっと話があるんだけど」と言うことができた。

 しかし、彼女は「ごめん。ピアノのレッスンに行かないといけないから。バスが出ちゃう」と言って、帰ってしまった。バスが遠ざかって行くのを見送りながら、夕陽に向かって駅までぼくは坂道を下りて行った。今日一日がどんなに大きな一日か自覚もなく、何も変わらなかったのに親しくなれたなんて自己満足さえして。……

 

 彼女の体はきれいだったし、ひさしぶりというだけでなく、とてもいい気持ちになれた。でも、彼女の後にシャワーを浴びて、排水口に引っかかった長い髪の毛を見ているうちにぼくはいろいろとわかってきて、暗い気持ちになった。バスルームを出るとタバコをもみ消すのがシルエットで見えた。

「確実にもうかっちゃうのよ。絶対安全なんだから」

 そういう言葉を聴いただけで、彼女が勧めようとしている商品の性格がわかった。今はいろんな法律があって、まともな商品ならそんなセールスはできないことぐらい知っているよ、そう言ってしまいたかった。だいいちこの部屋に入って、今と同じようにぼくの耳たぶを甘噛みしながら、サインさせたんだから、もうそんな説明をする必要はないだろ?と言いたかった。……そう言わなかったのは、彼女の良心の疼きが言わせるんだと考えたかったのかもしれない。

 ぼくは彼女の髪を撫でながら、ぼんやりと窓に目をやる。下の方に横雲がかかっているが、東京にはもったいないくらいきれいな月が見える。夕陽はとっくに沈んでいる。金木犀の時季もとうにすぎている。そんなところまで戻れはしないけれど、なぜ最初にぼくを訪ねてくれなかったのかと思いをめぐらせていた。

 

     天の原 思へば変はる 色もなし

     秋こそ月の 光なりけれ

               藤原定家・初学百首

 

 

 


 

歌物語:川霧

 

    川霧の ふもとを籠めて 立ちぬれば

    空にぞ秋の 山は見えける

                   深養父・拾遺和歌集

 

 また、同じ夢を見た。深い霧がゆっくりと晴れていくと不思議な形をした山が現われてくる。あたしはそれを奇妙な期待感をもって見ている。そこで何かありえないようなことが起こってびっくりして目が覚める。……子どもの頃から繰り返し見ているけれど、いつも何に驚いたのか憶えていない。すっきりしない頭を熱いシャワーで流しながら、今日の仕事の段取りを考えるよう気持ちを切り替える。

 今日は会議が3つ、クライアントとの打ち合わせが2つ、その間になんのかんのと判断を仰ぎに来るかわいい部下たちが列を作っていた。女性でしかも最年少のリーダー、昔風に言えば課長だけど、権限も大きければ責任も重い、どう考えても本部長の陰謀だ。ようやく終わって、やれやれって、ため息をつきそうになるけれど、隣で飲んでいる部下の手前、そうはいかない。生まれてこの方、医者に診てもらったことがないのがあたしの自慢で、弱いところなんか見せられない。

 この子、と言ってもあたしと2つしか違わない江上君は、仕事は迅速丁寧の逆だけど、なんか憎めなくてよく飲みに連れて行く。おいしくて、安くて、落ち着ける飲み屋を探すのがうまいし、気を使ってないようで気を使ってくれる。一人っ子のあたしだけど、弟を相手にしているような気分だ。仕事の話なんかしたくないくせに「あんたは“ほうれんそう”もできない。新人並みだ」なんて説教をしてしまうと、「ホウレン草のおひたしを頼みましょう」なんて言う。

「あんたはいい子だよ。好きだよ」

 レモンサワーのグラスを傾けながらのいつもの冗談にグレープフルーツをぎゅうぎゅう絞りながら、

「ぼくも梨緒さん、好きですよ。……でも、生絞りサワーって最初はよかったけど、だんだん面倒になってきましたね」とファーストネームで呼ばれるのが実は好きなことを知っている。会社の人間が聞いたら耳を疑うだろう。

「何よ。30過ぎのおばさんのは絞れないって言うの?」

「30になったばっかりでしょ? まだまだ絞れますよ」と大きなグレープフルーツを持ち替えて覆うようにしてひねる。

「あはは。上手だね。じゃあ、結婚する?」

「しましょう。いつがいいですか?」

 

 この辺までは3杯くらい飲んだところで出るお約束だったけれど、考えてみれば女性上司からのセクハラだって言われても仕方ないようなことを言っている。もちろん彼はそんなことは気にしてなくて、調子を合わせてからかっているわけでもないが、本気に取っているわけでもない。……と思っていた。

「あ、そうだ。その前に梨緒さんのご両親にご挨拶にいかないと」

「うんうん。そうしてくれたまえ」

「それからぼくの田舎にも行ってくれますか」

「いいよぉ。……あんたの田舎ってどこだっけ?」

「ちょっと遠いんですよ」

「北海道とか?」

「もうちょっと遠いですね」

「沖縄?」

「もうちょっと」

「外国なの?」

「うーん。もうちょっと遠いですね」

「ん? そっか。M78星雲か?」

 そこでこの冗談も終わりで、3分しかもたないんだろなんてまた下品な突込みを考えていたのだった。

「もうちょっと遠いですね。だいいちあんなとこ住めませんよ」

「え?……どこ?」

「マイトレーヤ星雲です。56億7千万光年離れてます」

「聞いたことないよ」

「ええ。たぶん。今の観測技術だと見えないかも知れません」

 ああ、そうか。これは新手のジョークなんだと思った。じゃあ、SFマンガとか好きなわたしとしては、とことん付き合ってやるか。4杯目のサワーを飲み干して次を頼む。

「どうやって来たの? ワープ航法?」

「そんなエネルギー使う方法はやりませんよ。複素空間を利用するんです」

「はあ」

「簡単に言えばブラックホールを通ってくるんですよ」

「そんなのに入ったら、身がもたないじゃない」

「だいじょうぶですよ。次元数がπのフラクタル面をたどれば……」

 いきなり背広のポケットから手帳を取り出して、わけわかんない偏微分方程式みたいなものを書き出した。エクセルも満足に使えないくせに手が込んでるなぁって思いながら、次々と数式を書いているのを見ているうちに眠ってしまった。……

 

 気がつくと川べりに仲良く並んで、あたしは江上君の肩に頭を載せていた。背広がやさしくかけられている。後ろのビルの灯りが水面に映っている。飲みすぎたわりには頭も痛くないし、喉もからからってほどでもない。

「おはようございます」

「って、まだ暗いじゃない」

「もうすぐですよ。夜が明けるのも」

 確かに向こうの方が深い青に染まり始めている。あたしがとても好きな時間だ。

「そっか。じゃあ、帰らないと」

「ぼくの田舎に今から行きませんか?」

「ああ、何とか星雲? いいけど、タクシー代足りるかなぁ」

「だいじょうぶですよ。フィアンセだから」

 ちょっとドキってする。江上君は冗談で言ってないってわかる。でも……

「そろそろ、本当にびっくりさせちゃいますね」

 そう言って川の向こう側に目をやると、川霧が急に立ち込めて、あたしたちをすっぽりと包む。もうそれが夢と同じ風景だと気づいていたので、そんな気分じゃなかったけれど、最後の冗談を言った。

「これって、ドライアイス?」

「そんなようなもんです。演歌歌手が出て来たりしませんけど」

 辺りが見る見る明るくなって、深い霧がゆっくりと晴れていくと不思議な形をした山が現われてくる。いや、それは空中に浮いていて、底面にはたくさんのライトがちかちかしている。

「思い出しました?」

 江上君の声は倍音が増えたような感じで、奇妙な響き方をする。体全体がほのかに光っている。ふと見るとあたしの手も同じように光っている。

「そうか。やっとわかったよ。……長いことありがと」

 失われた記憶が流れ込んで来る。彼は、あの星であたしの恋人だった。要人誘拐事件の巻き添えで地球に連れて来られて、記憶を消去されてからずっと地球人として育ったのだった。あたしが一度も医者にかかったこともなく、レントゲン一つ受けたこともない理由がわかった。ずっと大切に見守られていたんだ。この時が来るまで。でも……

「あっちに戻っても、あたしが上司だからね」

「その方が慣れちゃったから、いいですよ」

 静かに抱き合いながら、そうささやき合って、あたしたちは浮かび上がった。

 

  


 

歌物語:白露

 

 目が覚めたときに何か夢を見たけれど、なんだったか思い出せなかった。そんなことを考えられるのも一週間でいちばんのんびりできる土曜日だからこそだけど、最近は彼の夢を見ないなって思った。冷蔵庫の中を見てもミルク以外には何もないので、トーストを焼きながらコーヒーを淹れて、ミルクを半分くらいとぽとぽと混ぜる。独り暮らしを始める時にお母さんが朝ごはんだけは食べなさいって言ったので、パン一枚とかシリアルだけでも食べる。

 あっという間にすんでしまって、顔を洗って歯を磨いていると、高校の古文の授業で、平安時代の人は恋人が夢に現れなくなるのは、相手が思ってくれなくなったからって考えてたんだって習ったのを思い出した。今のあたしたちが夢を自分の潜在的な欲求の現われと思うのと逆で、ロマンティックだったんだなぁって思った。

 でも、鏡の中の自分を見ながら、昔の人の考えの方が正しいような気がしてきた。最近は、眠ってるとき以外はだいたい彼のことをいつも考えてて、仕事に追われたり、友だちと飲みに行ったりして頭から去っていてくれるとかえってほっとするくらいだから。でも、その考えてなかった分は後からまとめてやってくるみたい。……目をそむけて、このデンタル・ペーストはちょっとからすぎるって、吐き出した。

 

 表参道のみんな楽しそうに歩いてる中で、涙がこぼれてしまうなんて冗談じゃないって思う。みっともないって思いながら、泣いているって自分で意識してしまうと、感情がよけいに乱れてどうしようもなくなる。そんなのはわかっていた。冷静な自分がいる。でも、それはあたしから離れて傍観しているだけ。何の手助けもしてくれそうにない。彼は困ったような顔をして表情を引き締めていたけれど、それは薄笑いの表情にならないよう気をつけているから。悪気じゃない、わかってる。でも、なぜこうしたときに照れ笑いなんかするんだろう。目をそむけると放置されたバイクのサイドミラーにあたしの泣き顔が見える。

「スタバでも行こうか?」

 仕事の打ち合わせじゃあるまいしって気はしたけれど、かすかにうなずく。風が頬を撫でる。涙が冷たくて、秋ももうすぐ終わりだって教えてくれる。

 スタバの中は混み合っていて、彼が周りを気にして、言いにくそうに言う話は二重否定が多くてよくわからない。浮気じゃないって言いたいんだろうけど、それが浮気よって思ってた。……悪い予感は当たるもの。いい予感なんてあったことがない。それがいつも明るいねって言われるあたしの実体。最近どうもまずいなあって思っていたとおりだった。

 ぐずぐずした人は嫌いなの。だって、あたしがいちばんそうなんだから。そんなことを考えながら、うつむいて彼の話を聴いているふりをしていると時間の歩みがとても遅い。でも、「わかったわ。じゃあね」って言えない。涙がこぼれて、まだ外に出るような顔になっていないから。

 

 歩いてきた後を振り返る。家に向かう坂道を登りつめたこの辺りで、日が暮れてきて、だんだんに点る家々の灯りを見るのがくせになっている。みんな精一杯生きてるんだよねって気がして、暖かいような切ないような気持ちになるのが好きだった。

 でも、今日みたいな日は自分一人が除け者になっているって感じてしまう。空き家には灯りは点らない。楽しい会話も、口ゲンカだってないような家庭、そんなあたし。

 さっきから友だちからメールが来ている。“元気?”“今日は寒いね”“おつかれー”そんな日常のあいさつみたいなものにも返事することができない。ふだん心を被っている皮膚がはがれてしまったような感じ。何気ない言葉にひりひりと反応してしまう。

 こんな経験がなかったわけじゃない。この痛みを癒すのは結局は時間しかない。わかっている。でも、なんのあてもなく、この冷たい風の中でただ時間が経つのを待っていられるの?

 

    秋風は 吹きむすべども 白露の

    みだれて置かぬ 草の葉ぞなき

               大弐三位・新古今和歌集

 

 


 

歌物語:雨の石段

 

 あれはいつのことだったろう。まだ携帯電話でさえ持っている人が少なかった古い話だ。まだ東京に出てきてまもなくで、東池袋に6畳間と小さなキッチンだけの部屋を借りていた。その頃、会社の合コンで知り合った彼と半分同棲のような状態になった。まだ早すぎるって思っていたけれど、それは独り暮らしだからって軽く見られるのがイヤで、でもその寂しさが加速させたんだろうって思う。それは彼も同じで、「3年も独り暮らししてると日が短くなるこの季節はたまらない」って、西の方の出身らしい実感を込めて言っていた。

 2階のあたしの部屋から平屋の家越しに石の階段が見えた。大通りから銭湯のある通りに向かってこの辺りはゆるやかな下りになっていて、そのため車が入りにくいのだけれど、石段があったりするのだった。銭湯の通りは、昔は川だったのかも知れない。その石段を少し猫背の彼がまっすぐ前を向いて歩いて来るのが見えると、窓際から離れて本でも読んでいるふりをして訪れを待った。

 彼の部屋には最初の頃、何回か行ったことがあるけれど、その度に隣の細い目が吊り上がったような30過ぎの女が咳払いを立て続けにしたり、家具を動かしたりするような音を立てたりするので、行かなくなった。彼の部屋もあたしの部屋も壁の薄い安アパートだったから、夜にあたしが声を上げそうになると口を押さえてもらうことにしていた。お互い言わなかったけれど、それは感覚をより高め、深くて鋭い反応をお互いから引き出していた。

 二人ともおカネがなかったから、休みの日もずっとあたしの部屋にいて、テレビを見たりしていた。真夏なのにお昼にカップラーメンを大汗をかいて食べた後、時々テレビを消す。アパートがしんとなっているのを確かめると彼が立ち上がって、ズボンを脱ぐ。膝立ちになって下半身に顔をうずめながら、あたしはクーラーなんかないので開け放った窓の外に目をやる。時季遅れで色あせて形も崩れた紫陽花が見えた。飢えた者には、時間は残酷なほどたっぷりと与えられるのだろう。生臭い味とともに蝉時雨が再び聞こえてきた。

 

 妊娠しては困るとは思っていたけれど、1年以上付き合ってだんだん将来のことを言わなくなった彼を見て、きっかけをつかむような気持ちもあって、「だいじょうぶ」と言う日が増えた。しかし、3年経ってもそんな不都合だか好都合だかは生じず、口を押さえることも、テレビを消すこともないような、彼の言葉で言うと「お勤め」になっていた。何も考えてくれない惰性の塊のような彼に不満がいっぱいだったけど、それは意図的にそういう面しか見せないようにしていただけだった。用を済ませたら言葉尻を捉えたようなことを言って不機嫌になったり、深夜でも自分の部屋に帰ったり、半年もかけて徐々に「もうおれたちも終わりだな」って言えるような状況を作り上げていた。その一方で、お見合い相手とのお付き合いを続けていたと、後からわかったときはびっくりもし、悲しくもなったが、なかなかしっかりしてるじゃないのって姉のような気分もあった。

 彼がその時期を選んだのは考えてみれば当然なんだけれど、クリスマスのひと月くらい前に関係が終わったのはつらかった。それまではお揃いのダウンジャケットを着て、池袋のサンシャイン通りをあっちのカップルは不釣合いだとか、こっちの男は10年経っても独りのクリスマスだろうとか、散々悪口を言いながら歩いていたのが自分に降りかかってきたように思え、にぎやかなところへは行きたくなくなった。9月に東急ハンズの前であきらめきれずに2時間、待ちぼうけをくって以来、池袋には行っていなかった。

 まだ11月の終わり、仕事で遅くなった夜に冷たい雨が降った。飲み会に誘われたが、六本木なんてとても行く気がしないので、断って残業したのだった。地下鉄の駅を出ても傘もない。まつ毛にかかる雨は氷混じりだった。どうしても合わない伝票の整理と身を切るような木枯らしが頭も体もこわばらせていた。古ぼけたパン屋さんの灯りがあたたかに見えるけれど、ここで小さなケーキとシャンメリーを買って、あたしの部屋で一緒にクリスマスを迎えたことを思い出してしまう。あちこちに彼との思い出があって、冷たい手であたしの心に触れてくる。

 そんなことばかり考えているから、よけい運の悪いことになってしまう。ぼんやり歩いていたら、あの石段のところですべってころんでしまった。膝小僧を擦りむくなんて小学生のとき以来のような気がする。破れたストッキングから黒い土が混じった血が見え、涙でにじんでいく。いつまでも雨に濡れているわけにもいかない。立ち上がろうとして、自分の部屋の窓に目をやるとあたしの姿が映っていた。……

 

 今は会社の2年先輩と結婚し、子どもも二人でき、幸せと言っていいような平凡な生活をあざみ野で送っている。目が吊り上がったようにならなかっただけいいのだろう。今日、子どもたちと一緒にクリスマス・ツリーを飾った。「クリスマス楽しみだね」と下の子が言うのに、「サンタさんには何をお願いしたの?」と去年と同じように尋ねながら、あたしはこの間、東池袋に行ったことを思い出していた。近くに用事があっただけだからと自分に言い訳しながら、引っ越してから初めて行ってみると辺りは瓦礫の山で、ベニヤ板で入り口が閉ざされた銭湯まで見渡せた。高層マンションでも建つのだろう、アパートも何もかもうずもれてしまった中で、石段の上の方だけが見えた。なぜここに来たのだろう。振り仰ぐと広くなった空に次第に雨雲が広がっていき、早く多摩川の向こうに帰れと言われているような気がした。

 

     ひとり聞く むなしき階(はし)に 雨落ちて

     わが来し道を うづむ木枯らし

                           藤原定家

 

 


 

歌物語:藤袴

 

 赤い光が明滅するような夢を見たような気がするけれど、「藤原君はどう?」って言われて目が覚めた。にやにや笑っている新任の課長の視線を無視して、まず質問を一つ。やっぱりそこまでしか考えていなかったのねと確認させてくれる答が一つ。座りなおして、2つまですぐに思い浮かんだから、「問題点が3つあります」と言って短すぎず、長すぎもしないように考えながら、撃破していく。

 しゃべっているうちに3つ目どころか、4つ目も思いついたけれどそんなのは、誰かが言えばいい。眠りに落ちる前に資料をパラパラっとめくって、こんなクソみたいな企画のパワーポイント見せられちゃたまったもんじゃないって思ったから寝たのよ。って言うのはちょっとウソで、昨日よく眠れなかったからだけ。悪いね木村君、いくらあんたが徹夜して、一生懸命考えても会社としてダメなものはダメなのよ。飲み会でからんだ腹いせじゃないんだからね。泣き言なら彼女にでも聞いてもらいなさい。

 社食のサラダをつついていたら、前の席に2期下の成瀬君が座りながら、「お蔭で会議が早く終わりましたね」と言う。「あんなので集める方が悪いのよ」ともうちょっと新鮮なレタスを使ってほしいなって思いながら言う。「課長、あっけにとられてましたよ」と媚びるように言う。あんたが女性社員、特におばさま方に人気があるのはよくわかるわっていう目つきで黙っていると、

「藤原さんが本当に寝てるのか、みんな不思議に思ってますよ」と言う。

「寝てるに決まってるでしょ。この間、常務が『君は会議の時に時々寝てるな』って言うから『時々じゃないですよ』って答えたら笑ってたよ」

「あはは。常務のとこの会議は退屈だからな。でも、すごいなぁ。ぼくなんか言われるとなるほどって思っちゃうけど、データをあれだけ積み重ねられたら反論しにくいですよ」

「データでものが売れたら苦労しないわ。なんでもそうだけど」

「恋愛も……ですか?」

「昼間っから、そういうよけいなことを考えているのねぇ」

「藤原さんも、じゃないですか?」

「そうありたいものだわ。ごちそうさま」

 トレイを持って立ち上がった。

 

 部屋のドアを開けると化粧を落とすより早くただのあたしに帰っていく。会社ではあたしはきちんとフレームに納まっていられる。仕事の目標も採れる手段も、どこにどういう人間がいるかもわかっている。今度の課長も二言、三言話しただけで、能力も性格もはっきり見えてしまった。おかしいくらいに。みんなは上司や先輩がどう考えるだろうかとか、こういう説明なら通るだろうかなんてくだらないことばかり気にしてるけど、自分のこともわからないのに人の頭の中を想像するなんてことはあたしはしない。自分の目と頭で見えたとおり、考えたとおりにやるだけのこと。

 でも、小さなマンションに帰ったただのあたしにはなんのフレームもなくて、ぐずぐず、ずるずると想いに耽るだけ。最近少しお酒の量が増えたような気がする。そう、彼がこの部屋に来なくなってから、あたしはあたしがよくわからなくなってしまった。さっき洗濯物をバスルームに持っていくときに、置きっぱなしになっている彼のチノパンのにおいがしたような気がした。一時期はそれこそ歯ブラシから下着までいろんなものがあったけれど、少しずつ彼は持ってかえってしまっていた。チノパンだけが忘れられたように残っていて、洗濯して返そうと思いながら、なぜかそのまま洗濯籠とは別に洗濯もせずに置いてある。そう、こういうことが自分がわからなくなっているということなんだねって思う。

 2杯目の缶ビールを開けながら、窓からの風が冷たいくらいに感じた。陽も短くなったし、すっかり秋なんだってしみじみしていたら、ふと秋の七草ってなんだっけって思った。春の七草は子どもの頃、七草粥を必ず食べながら覚えさせられたから、今でもすらすら言えるけれど、秋の七草は出てこない。だいたいあたしは花の名前はよく知らない。バラ、チューリップ、蘭、百合……10か20くらいしか言えないような気がする。女らしくないのよねと柿ピーを齧る。風に揺れる野の草花に目を留めるような自分でいたいって思うけれど、そんなことになりそうもない。

 また、彼のにおいがここまでするような気がした。高校生のときに田山花袋っていう人の『蒲団』って小説の終わり方を先生が紹介した。去っていった女弟子の使っていた蒲団のにおいを嗅ぐなんて、そのおもしろがったような解説を聞いた時は女々しいって言うか、いやらしいような気がしたけれど、今はちょっと違うかもしれない。もう切れてしまった繋がりをどこかで認めたくない自分が洗面所の方から歩いてくるような気がする。秋は音にも敏感になる季節なんだ。……

 

    宿りせし 人のかたみか 藤袴

    忘られがたき 香ににほひつつ

                     紀貫之・古今和歌集

 

 


 

歌物語:松虫

 

    秋の野に 道もまどひぬ 松虫の

    声する方に 宿やからまし     

              よみ人しらず・古今和歌集

 

 タクシーから降りて、一体ここはどこなんだろうと思った。ぼくの家はわりとややこしいところにあるから、いつもは自宅の場所を言ってからも、間違えられないように要所要所で、そこを曲がってとか、その細い方の道に入ってとか指示することにしているんだけど、四谷の交差点に佇んでいる女が裸足なのに気を取られているうちに眠ってしまっていた。

 飲みすぎたことは自分でもわかっていた。「お客さん。着きましたよ」と2、3回目なんだろう、ちょっといらいらしたような口調で言われたのに、慌てて料金を払って、忘れ物だけはしないようにと思って降りたら、全く見覚えのない薄暗い住宅街だった。乗っていたタクシーのテールランプが登り坂の角を曲がっていく。住居表示を探したけれど、そういうのって知りたいときには見つからないことになっているような気がする。電柱にも家の壁にも「4-12」とか番地表示はあってもなんていう町なのか、杉並区なのかどうなのかもわからない。

 デザインや屋根や壁の色はさまざまだけど、元々は広い土地を2つか、3つに区切って羊羹を切ったような3階の一戸建てを並べて、冴えない色の街灯で照らしている。こんなところにいても右も左もわからない。もう少し広い道路に出て、コンビニでも探せば場所も訊けるだろう。

 でたらめに方向を決めて歩き出す。行き止まりで曲がると道が狭くなる。こんなところは車じゃ来れないなと思っていると、車庫にセルシオが停めてある。大した腕前だけれど、この家は1階は玄関と車庫だけで、世帯主はこの車なのかもしれない。そんなことより、いくら歩いても大きな道には出ない。同じような住宅地の中を元々は農道だったのだろう、くねくねと見通しのきかない細い道が続く。背広のジャケットが重い。ワイシャツの襟がべたべたする。10月だというのに真夏並みの暑さになったり、急に涼しくなったり、おかしな天気が続いている。暗いところから虫の声は聞こえてくるけれど。……

 

 急に小さなマンションというよりアパートといった方が近いような建物の前で、ここに来たことがあるのを思い出した。周りを見回す。来たことがあるどころじゃない。2階の窓を見上げる。2、3年前に別れた彼女の部屋で、何度も泊まったことがある。時計を見る。1時20分。タクシーを降りてからどれくらい歩いたか、見ていなかったのでわからないけれど、30分は歩いているような気がする。携帯の住所録を探してみると彼女の番号があった。どうせ番号も変わっているだろうと思いながら、戯れのような感じで掛けてみた。すぐに出て、懐かしいと思うような声が聞こえる。思い出しかけていたことを忘れてしまうような声だ。

「ぼくだよ。ひさしぶり」

「ひさしぶりね。どうしたの?」

「たまたまこの辺に来てさ。今、君んちの前にいるんだ」

 カーテンが少しゆれる。軽く手を挙げる。じゃあ、おいでよということになって、部屋へ上がり、いつも座っていた場所に座ると、缶ビールとコップが目の前に出てくる。

「悪いね。急に来ちゃって」なんてことを言いながら、こんなにするするとことが運んでいいのかなと思う。

「だいじょうぶよ。今、ちょっとおつまみでも作るから待ってて」とキッチンに立ったまま言う。

 

 どうしてこんな時間に来たのかとか、今までどうしていたのかとか、ふつうなら訊きそうな気がするが、まるで付き合っていた当時のように振舞う。あの頃は前触れもなくもっと遅い時間にも訪れたりしたもので、だのに彼女はいつも起きていて、ラフな格好でもコンビニに行くくらいは恥ずかしくない格好をしていた。今日も薄手のトレーナーに細身のジーンズを身に付けている。ビールを二口ほど飲んで、何か料理をしている彼女の後ろ姿をちらちら見る。

 その時、ふと今年の夏に職場で、ディナークルーズに行ったときにふざけていて携帯を海に落としてしまったことを思い出した。だから今の携帯には1件ずつ新たに登録したわけで、この彼女のような以前の知り合いで、付き合いがなくなっている人たちの番号はないはずなのだった。じゃあ、さっきどうして番号があったのか、携帯を見てもあったはずの番号が登録されていない。発信履歴を見ても最新は昨日の7時47分、飲み会の場所を訊いた時のものだった。

 そんなホラーじゃあるまいしと思ってビールに口をつけて、また思い当たった。彼女はビールを飲まなかったから、なぜあるのだろう。ぼくがしょっちゅう来ていた時も一緒にコンビニに買い出しに行っていたはずだ。

「あのコンビニつぶれたのよ」と後ろ向きのまま突然、彼女が言った。

「表通りからちょっと入ったところだったでしょ? だからお客さん来なくて。あの愛想のいいおじさん、首吊ったのよ。お店で」

 何だか逃げ場がないような気がしてきた。海に沈んでいく携帯を思い出しながら、薄ら寒く感じる。どうしてこの女はいつまでも料理を作っているのだろう。フライパンを動かしているみたいだけれど、まるで何かを煮込んでいるくらい時間がかかっている。その時、あっと思った。別れる時に決して許さないと言って……。

「さあ、できたわ。お待ちどおさま」

 女が振り返った途端、ものすごい臭いがキッチンから流れてきた。

 

 

 

 


 

歌物語:夢路

 

 「こんばんは」

「……こんばんは」

「お一人ですか?」

「そうなりそうですね」

 腕時計をちらっと見るような仕草をする。渋谷の駅の近くのシティホテルのラウンジで、ゆっくりとカクテルを飲んでいると一つ席を隔てた男が声をかけてきた。フォアローゼスのソーダ割を半分くらい飲んだところだった。待ちぼうけを食ったってわかるとわずかだけれど、体を向ける。身を乗り出してなんてふうに見られないようにしているところが取りあえずOK。

 お天気の話や世間話の中に少しずつ自分の仕事や地位の話を混ぜてくる。コンピュータのシステム・エンジニアだけれど、今は証券会社でインデックス・トレードの統括をしているということらしい。要はちゃんとした教育を受けていい給料をもらっているってことなんだろう。あたしもその部分にはちょっとおおげさに反応しながら、自分のこともぼやかしながら紹介する。まるっきりのウソなんかは言わない。言ったことを覚えておかなければいけないから面倒だもの。たぶん広告代理店のクリエイティヴだと思っただろう。

 

「同じものを」

 少し離れたところにはずしていたバーテンに言う。

「ぼくは、どうしようかな。……きれいな色ですね。なんていうんですか?」

「……Kiss in the Dark」

 バーテンが表情を変えないようにしているのがわかる。そう、いつものゲームの開始。

「セクシーな名前だなぁ。……どんなの?」

 ちょっとあわてたような感じでつぶやいて、バーテンに訊く。

「ドライジンとドライベルモットにチェリーブランディで色を」

 ボンベイ・サファイアをカウンターに置きながら低い声が答える。

「じゃあ、ぼくはギムレットを」

 ひゅー、いいじゃない。錐ってことね。ベースも同じだし。二つのグラスが並んで、彼は席を詰めて乾杯をして、お互いの夢を語り合った。株でもうけるのは飽きちゃった、システム・インテグレートの会社を作りたいな。あたしは手作りクッキーのお店をしてみたいの。事業の統合はむずかしいですね。システム化しちゃハンドメイドじゃないものね。声を出して笑い合ったけれど、あたしはクッキーなんて焼いたこともない。夢はそう思われたいあたしを演出するもので、現実と無関係な方がいいから。……

 

 あたしは自分を“定義”されるのが嫌いだ。中学生の頃、「不純異性交遊」なんて笑っちゃうほど古い言葉で、あたしのしたことを“定義”されて、動機を「父母の愛情の欠損」なんて“定義”されたのが始まりだと思う。あたしより漢字を知らないバカな教師が汚い字で書類に書き込むのが見えて、これが罰というものだと悟った。

 暗闇でそんなことを思い出しながら、隣の彼の寝息を聞く。悪くはなかった。彼の仕方も終わってから抱きしめてくれた感じも。深いところで感じたのは夏より前かな。何よりこれからのことを言ったりしなかった。この間はとても慣れた感じの男で、いい気分でいたら済んだと思ったらいきなり『セフレにならないか?』――自分の見る目の未熟さに涙が出てしまった。

 セフレでも愛人でもなんでもいいんだけど、そういうことを口にする無神経さ、“定義”しようとする態度に我慢ならなかったんだ。あたしは捕らえどころがないってよく言われる。そうじゃなきゃ男漁りをしてるだけになってしまうじゃない。服もメイクもパルファムもつけないで、裸で街を歩けって言うの? ありのままの自分でいればいいなんてそれよりひどいことだと思わない?

 

 ベッドからすり抜け、窓の方へ行く。カーテンを開けるときれいな夜景に何もつけていないあたしが重なって映る。……一人の男と長く付き合うのはもっと嫌だ。ちょうどいいくらいにメールをくれて、ちょうどいいくらいに会って、ちょうどいいくらいに寝てくれる男っていないから。しつこいか、ほったらかされるか、どっちかになってしまう。自分勝手? もちろん。だからあたしは孤独でいる。ひとりぼっちが怖くてプライドを引き換えにする女なら、ここから見える街に何千人と眠りこけている。

「おはよう」

「……おはよう」

 抱きしめて耳元でささやいてくれる。胸元に毛布をかき寄せる。さりげなく脚が出るくらいに。

「よく眠れた?」

「うん。あなたは?」

 キスが返事ね。ぐっすり寝てたなんて言うより、いいじゃない。唇から耳を甘噛みしてくる。手が密やかに伸びてくる。昨日褒めてくれた指をからめる。抵抗するように、誘うように。今日は土曜日、だからチェックアウト・タイムまでだいじょうぶよね。……

 

 少し眠ってしまったような気がする。なんだか変な夢を見た。別のあたしが別の男と同じことをしていた。最初から最後まで会話も何もかもそっくり同じ。でも、それはあたしじゃない。その“あたし”はやっぱり夢を見ていて、また別の“あたし”が同じことをしている。それがまた……。合わせ鏡のように続く夢に追いかけられ、ずっと忘れていた恐怖感を感じて目が覚めた。

 彼があたしを見ている。その表情はあたしが全然別の女に見えてしまったと語っている。お互い言葉を見つけられず、鈍いエアコンの音だけが聞える。

 

     うつつにて 誰契りけん 定めなき

     夢路に惑ふ 我は我かは

                   よみ人しらず・後撰和歌集

 

 

 

 


 

歌物語:黒髪

 

   黒髪の 乱れも知らず 打ち臥せば

   先づかきやりし 人ぞ恋しき

                和泉式部・後撰和歌集

 

 どうしてこうなってしまったんだろう。どこでどう間違ったのか、どこでどう道を迷ってしまったのか。足元に広がっていくなまぬるい海を感じながら、あたしは繰り返しつぶやいていた。……

 彼と話をしたかっただけなのに。それでやり直せるなんて思っていなかったし、親切に忠告してくれた友だちにもピリオドを打ちに行くだけだからって笑って言ってたのに。そう、もうダメなんだろうなって、20歳前の子どもじゃあるまいし、そんなことわからないようじゃ東京に住んでいる資格だってない。もう会わない方がいいのもわかっていた。だのに仕事がいそがしいからって言い方が気に食わなかった。男はすぐに仕事を盾にする。女にとってカタキみたいなものだ。ムキになったあたしはしつこく予定を訊き、会う約束を取り付けたのは2か月も経っていた。あたし以上に彼がじりじりと怒りを募らせているのが電話の口調やメールの文面で見て取れた。それを自虐的におもしろがってさえいた。

 

 最初はよかったんだ。チャットで知り合ったというお互いのひけ目が遠慮っていうか、いい間合いになっていたと思う。付き合い始めてしばらくして、彼の高校時代からの親友に引き合わせてくれるようになって、有楽町のパブで気を使いながらしゃべっていたら、彼がトイレに行った時に友人は話の接ぎ穂に困ったのか、

「どんなきっかけで交際を始めたんですか?」と何の他意もなく訊かれた。一瞬、言葉に詰まったけれど、控え目な女ってイメージでいたから、

「彼に訊いてください」と、彼の方からナンパでもしたみたいに響くよう、照れくさそうに言った。あとでそのことを彼に言うと、

「こんなかわいい子を彼女にできたのが不思議だったんだよ」とやさしく髪をかき上げて、上に乗ったあたしの顔が赤らむまでじっと見詰めた。……本当に幸せな日々だった。そう思ってしまうのが悲しい。

 

 会った結果は最悪だった。彼がお気に入りの西麻布のイタリアン・レストランで、ちょっとした拍子に泣き出してしまった。『人前で泣くって反則だよね』って別れた彼女のことを引き合いに出して、何気に言われたことがあった。もちろん気質的に我慢できないって彼が宣言したことを忘れるはずもないし、彼の視線がすうっと冷たくなったこともわかっていた。でも、いったん涙があふれ出したらどうしようもなかった。大きめのバッグの中を覗いてひやりとしながら、ハンカチを出して涙を拭いた。これまでなら、バッグを手に取る前にあたし用のが少し武骨な左手に乗って出てきたのに。

 とどめは赤ワインだった。テイスティングの時から、

「これはよく空気に曝すとやわらかくなっていいね」と言って、デキャンタに開けさせた。しばらくするとふうわりといい香りがして、

「うん。スペインのワインらしい土の香りが背景に退いてるよ」とご機嫌だったのに、泣いた後も喉が詰まったようになったあたしはほとんど飲めなかった。赤みの強いルージュの唇跡だけが水晶玉を思わせるようなグラスに汚らしく着いている。デザート・コースになる時に気遣わしげにウェイターが下げてくれようとするのを助けしようと手を出して、倒してしまった。冴えた音とともにワインの海が白いテーブルクロスに広がる。

「申し訳ありません」

 そう言って、無表情にウェイターは厨房に下がっていった。あたしがハンカチで拭おうとすると、

「そんな必要はない」と目を逸らしながら低くたしなめた。それは子どもの頃に読んだお話にあった、貴族の家に来た場違いな田舎娘に言うような調子だった。……

 ティールームの方に移動して、エスプレッソを飲みながらあたしは静かに言った。

「ごめんなさい」

「いや。いいんだ。失敗は誰にでもある」

 言葉面とは違い、失敗という言葉を聞かせたかったことが伝わってくる。あたしの迷いが消え始めていた。

「でも。……まだちゃんと話できてないし」

「そう? ぼくはできたと思ってるけど」

「ごめんなさい。……あたしが物分かり悪くて」

「もういいんじゃないか?」

「きちんと……けじめをつけておきたいの。あたしの気持ちの問題にすぎないんだけど」

「うん」

 そう、あなたは下手に出られると弱い。強きを挫き、弱きを助ける。そういうふうに自分のことを思っている。それに潔癖症。きちんとって言葉に弱いはず。

「さっきみたいなことで迷惑かけたくないから、行きたいな」

「ぼくの部屋に?」

「ええ。……あ、誰かいるとかだったらいいの。鍵も返したいし」

 鍵を返しに部屋に行くなんて、なんの理屈にもなっていないけれど、誰かいるって疑われて心外なあなたはそれに気づかない。

 

 その後も渋りながらもあたしを連れて行ってくれた。彼の守護天使は眠っていたか、酔っていたのだろう。部屋に入るとあたしはどうせお茶も出してくれないってわかっていたから、すぐに言いたいことを言い始めた。いつもより強めの声で、あたしを止めようとするものを押しやるような気持ちで。

「ちょっと待ってくれよ。そんな話をするなんて……」

「逃げるつもり? ひどいじゃないの」

 あたしは彼が反論しようとしても、ほとんどその二つしか言わなかった。逃げるつもり? ひどい。とても便利な言葉だ。相手の言うことを聞く必要もない。ただあたしをだんだん激しい気持ちに高ぶらせていくように作用する。

 彼があたしの様子に気味悪くなった頃に電話が鳴った。仕事の関係のようだ。子機を持ってベッドルームの方に行くのを見て、盾を突き破る武器をバッグから出した。……

「悪いね。どうしても現場に今すぐ来てくれって……」

 思ったとおりの言い訳をぶら下げて、人の良さそうな笑みを浮かべて戻ってきた彼は、あたしの手の出刃包丁を見て、絶句し、視線を泳がせた。あたしはもうしゃべらない。口を開けば勇気と決心が出て行ってしまう。

「おい。落ち着けよ。物騒だね」

 青くなった顔をにらみつけていると、声は遠くから聞えてくるような気がする。鼻で呼吸しながらタイミングと距離を測りながら、少し近づく。まず腹を刺して、運動能力を削ぐ。……人の殺し方なんてネットで検索すればいくらでも見つかる。今は彼氏も彼氏の殺し方もパソコンから取り出せる時代なの。彼が逃げ出そうとする寸前に小走りにぶつかって、横腹を刺した。浅い。かすめただけのようだ。

「この野郎! おまえなんかに」

 急激に赤くなった顔で、あたしの髪をつかんで引き離そうとする。ばさっとあたしの髪がウッドフロアに広がる。鼻を打ったような気がする。どろっと鼻血が滴り落ちる。しかし、痛みを感じるような日常的な感覚はあたしにはもうない。身体が震えるだけだ。すさまじい叫び声を挙げる彼に向かって、包丁をあたりかまわず突き出す。手のひら、肩、頬、首……舌と唇で愛撫した場所を傷つけていく。まるでベッドインの時のように彼は言葉を失っていく。広く温かだった胸を3回目に突き刺した時に血が噴き出した。それでも恋人を殺し慣れていないあたしは野獣のように、ううん、とても人間らしく、しばらく包丁を振り上げるのを止められなかった。

 ……ストッキングが血の海でにちゃにちゃする。切り傷がひりひりする指で血が固まってくっついた髪の毛をぶつぶつつぶやきながらいじる。今度茶色に染めようかなとふと思った。

 

 

 


 

歌物語:花の色

 

    花の色は うつりにけりな いたづらに

    わが身世にふる ながめせしまに

                小野小町・古今和歌集

 

「この間読んだ甲斐の国の民話なんだけど、山の奥に一匹の鬼が棲んでいて麓の村の田畑を荒らすので、村人達は困り果てて、鬼に難題を出したっていう話なんだ。一晩のうちに百の石段を鬼は作る。それができれば毎年村から娘を人身御供を出す。できなければ今後村へ鬼は出て来ないという約束をしたんだな。鬼は承諾して、石段を築き出した。見る見る石段ができていくけれど、あと一段というところになって、一番鶏が鳴いて夜が明けた。鬼は朝日に驚いて姿を晦ましてしまう。その後、鬼は約束を守って田畑を荒らすことはなくなり、豊作が続いたんだって。村人達は鬼に感謝してその99段の石段のある山の上に鬼を祀った祠を立てた。……まあ、あちこちにある民話だと思うんだけどね」

 久しぶりに会った高校時代の同級生の雨宮君と六本木の小料理屋さんで、ぶり大根やえびしんじょをつまみに飲んでいる。交差点から溜池の方に下りていった静かなところだ。彼は医師免許は持っているが、臨床は一回もやったことがなく、心筋梗塞のメカニズムだかなんだかラットやマウスを相手に研究をやっている。この“ネズミのお医者さん”は研究室に何日も泊り込んだりもしているわりに話題が豊富なので、時々飲むのにいい。あたしは熱燗を傾けながら聴いている。

「こうしたもう一息で事が成就しない、99とか999で終わってしまうことをモチーフにした民話や伝説は広く世界中にあるんだよ。そういう話が昔の人は好きだったんだろうね。ああよかったとか、ああ残念だとか、そういう気持ちが好まれたのかな」

「そうね、深草の少将が百夜通えば小野小町に思いが通じると、通いつめたのに最後の夜に行けなくなった話とかね」

「ああ、その伝説も同じだ。ぼくも毎晩通ってみるかな」

「誰のところに?」

「もちろん、真弓のところにね」

 もちろんお約束のお世辞だ。卒業以来15年、そんな気が少しでもあればとっくに友だち以上になっている。

「来て、来て。いっぱい着込んでおいでよ。でないと外は寒いよ」

「えー、あったかくしてくんないの?……でもさ、99とか一つ足りない数字には何か魅力があるよね。達成できなかったもの、完全にはなれなかったものには」

「その方がいいのよ……百物語の最後には本当の幽霊が出るって言うじゃない」

 

 あたしは大学時代は国文学科だった。面倒なテキスト・クリティークが嫌で、比較文学のゼミに入ったんだけど、指導教授から五山文学と宋代の詩文っておそろしく厄介なテーマを与えられてギヴアップ。萩原朔太郎とサンボリスムって安易なテーマで卒論はお茶を濁した。まあ、あたしの指導教授に限らず、4、5か国語がすらすら読めないと専門家になろうなんて思わない方がいいっていう世界だから、辞書がないと日本語の古文だって満足に読めないあたしにはどだい無理な話だった。飽きっぽい性格で、あちこち読み散らかしたいっていうあたしは、研究者にも教師にもなれず、就職できないで秋田に帰るの嫌さで広告代理店に何とか就職した。様々な業種、商品の広告やCMのプランやコピーを考えたりするのは飽きないし、何よりクライアント、マスコミ、印刷屋、ディレクター、カメラマンなどなどいろんな職業のいろんなタイプの人と話できるだけでおもしろかった。

 

 3年前に前の上司から誘われて、彼が独立して作った今の会社に移った。会社の内外かまわず、仕事で付き合った女性と片っぱしからっていう噂のある人で、あたしはそういうことになるのは嫌ですからねと釘を刺すと、『そうならないだろうというのも君にお願いする理由の一つだよ』と言われて決めたんだけど、ちょっとへこんだ。今の会社では営業もプランニングもあたしがいないと成り立たない。それは自信過剰じゃなくて、クライアントとのミーティングに遅れていくと社長や他のスタッフが揃っていても何にも話が進んでいない。だから、仕事はきついけれど、やりがいはある。問題は……男がいないことだ!

 社長は確かに約束を守っている。当たり前だ。あたしと男女の関係になれば会社がもたない。さっきタクシーに乗り込んで「バイバイ。またね。チュッ」なんて言って、別れた雨宮君は彼女いない歴10年って言ってるくせに、肉食動物が牧草を見るような目であたしを見ている。男の欲望は目に現われる。この業界はかなりの部分がコネと言うか人と人の関係で成り立っていて、それだけでやっている人も多い。そういうあたしからするとどうしようもないのに限って、そういう目をしている。想う人には想われず、想わない人から想われるって、あたしがため息をつきながら行きつけのバーで独りの二次会をやってしまう原因の一つだ。

 

 ドライマティニをすすりながら、小野小町のことを考える。秋田の生まれだという伝説があって、おコメや新幹線の名前にもなっているし、美人の里って言われる由縁だけど、彼女は中世以降ずいぶん悪く言われた。さっきの深草の少将を始めとして、多くの男を袖にし続けたって言われたせいで、年取ってから乞食になったなんて謡曲を作られたり、小町針なんて下品な想像をされるようになった。紫式部なんかの伝説と同じで、女の美貌や才能へのゆがんだ嫉妬としかあたしには思えない。古今集なんかを見ると才能もなかなかのものだから、男から和歌を送られても下手くそじゃ、返歌をする気にもなれなかっただろう。才能のある女は選択肢が狭い。それを自分にあてはめちゃうのは、同郷のよしみと2杯目のマティニのせいにしておいて。

 

「雨が降ってきたようですね。……これで今年の紅葉も終わりかな」

 いつものように無口なバーテンがいいタイミングで、天気の話を独り言のようにしてくれる。

「雨か。嫌だなぁ」

 傘は貸してくれるだろうし、タクシーで帰るから困るわけではない。本当は雨が降ってくれた方がここんところのかさかさお肌にはありがたい。小野小町は桜の季節のけぶるような長雨を眺めながら何を想っていたのだろう。年齢化粧品がほしいなんてことじゃないだろう。なぜか一緒になれなかった恋人のことだろうか、それとも何一つ不足のない自分に何が足りなかったのだろうと考えていたのか。……あたたかい雨に湿った地面に惜しげもなく散り落ちる花びらをあたしは目に浮かべていた。

 

 


 

歌物語:やわ肌

 

   やわ肌の あつき血汐に ふれも見で

   さみしからずや 道を説く君

                  与謝野晶子・みだれ髪

 

  仕事中に涙を流すなんて、屈辱だ。若い女の子や、ううん男の子だってあたしに詰めの甘さを指摘されて、泣き出したことは何度もあるけど、そんなの自分の怠慢を棚に上げて逃げを打ってるだけじゃないのって思っていた。仕事はそんなもんじゃない。あたしだってバカげた言われ方をすると感情的になることはあるけど、そういうときほど冷静になろうと声を低くして、ゆっくりと体勢を立て直す。……だのに今度のプロジェクトでクライアントが理不尽な要求をし、『社長を出せ』の一点張りで仕方なく社長に行ってもらったら、あっさり解決。もちろんそういう交渉をしてもらうために社長はいるんだし、手打ちのためのお膳立てをすることだってある。でも、今度のはそういうんじゃない。向こうは初めからあたしを相手にしていなかったし、社長もそれをフォローしようとしなかった。

 声こそ出さないけど、あたしの頬が光っているのに気づくと、狭いオフィスの中はしんと静まり返って、異様な緊張感に包まれた。クライアント側との話し合いの内容を教えてほしいとあたしが迫ったときからみんな耳をそばだてていた。こういうときには電話一つかかってきやしない。

「すみません……」

 ハンカチも出さずにうるんだ目で社長をにらみつけようとする。彼は視線を逸らすわけでもなく、合わせるでもなく、何かあたしの眉間の辺りをぼんやり見ている気がする。

「うん。まあ……」

 そう言ったまま言葉が出てこない。どうしたのかと訊いてくれない。疲れてるのか、休めよ。泣くなんて君らしくもない。……なんでもいい。ありきたりの言葉でもいいから何か言ってほしかった。

 

 鳩は歩くたびに首を振る。よくまあむち打ち症にならないものだと思いながら、ポップコーンを撒く。ばさばさと飛んできたカラスも混じってくる。もう11月も終わりだというのに日比谷公園は気持ち悪いくらいあたたかい。『外回りして来ます』なんて見え見えのウソをついて、ベンチでさぼるのはいい気持ちだ。就職して2か月くらいしてお手本のような五月病になって、よくここで鳩を相手にした。はた目にはのん気そうに見えたかもしれないが、無力感と出口のない焦燥感でどうしようもなかった。自分と自分の置かれた状況に満足していなかったから、あんなに行き詰ったのだろう。いつの間にか自己満足していた今になってわかる。それがあっけなく崩されてしまった。泣き虫の真弓は何も変わっていなかったのよ。

 ……さっきから携帯がうるさいくらい鳴る。あたしがいなければ何もできないの? 会社や同僚の携帯からだということをディスプレイが示す。真弓さんがいないとダメなんですよ。着信音が甘えた声のように聞こえる。でも、あたしが聞きたいのはそれじゃない。いじわるだなぁって思いながら、雨宮君に『慰めてほしいな』って今まででいちばんしおらしいメールを送る。すぐに返事が来て、『ちゃんとネズミさんの許しを得たの?』って返信してやろうかなって思って見たら、違った。『日が沈んだら日向ぼっこはできんだろ? 日比谷でイタ飯を食おう』社長からだ。お見通しだから昔からの上司はイヤなんだ。もう5分早くくれればいいのにって思いながら、フラップを閉じようとしたら携帯が震えて、びっくりした。もちろん雨宮君からで『何時にどこがいい?』あちゃー。

 

 社長には訊きたいこと、言いたいことがある。雨宮君にはこっちから誘った義理がある。仕事と友情どっちが大事なの? ウソつきなさいよ。どっちが好きなの? えー? 二人から選ばなきゃいけないの?……ロッカーに置いてある身体にぴったりしたウェアに着替えながら、そんなことを考えた。4時近くなって寒くなってきたので、会員になっているフィットネス・クラブで、トレーニングをして時間をつぶすことにしたのだ。最初に参加した格闘技のプログラム、って言ってもパンチやキックの型をするだけだけど、なんだか攻撃的な気分になって、汗がひかないうちに二人にメールした。同じ7時に同じ日比谷で晩ご飯食べようって、店は違うけど。『あたしもオニだなぁ』ってつぶやいて、にんまりしちゃった。

 さあ、これならどっちかを選んで、どっちかを切り捨てなきゃいけない。選ぶためのスプリング・ボード。……だいたい何さ、全然気がないならもっと冷たくしてくれたっていいじゃない。それを仕事や友情を守りたいもんだからやさしくするくせに、手を出さないんでしょ? こっちから決めてあげるわよ。それでも四の五の理屈を言うなら、あたしに見る目がなかったと思ってあきらめるから。いつもより負荷を上げたウェイト・トレーニングをしながら、そんなことを考えた。

 ヨガは格闘技みたいに息が上がるほど激しく動くわけじゃないけど、身体の中からじんわりと熱くなってくる。合掌し、息を吸いながら手を天から引っ張られるように上げていく。上達していくと天からの糸が見えるそうだけど、その感じはわかる。スワン・ダイヴ、チャカランダ、コブラ、ドッグ……第3の目で床を見て。静かに動きながらあたしはいろいろな動物に変身する。雨宮君が言っていた鬼の話を思い出す。鬼は異界の者、外の人間。村の中に入れてほしくて石段を作り、村人の下手な鶏の真似にも逃げ出してあげたんだ。だから、村人は神として祀った。あたしも誰かの腕の中に抱かれたくなったの。足の親指をつかんで脚を広げるポーズ。身体がやわらかくて手足が長くないと脚をぴんと張れないけれど、今日のあたしには楽にできる。……

 

 シャワーを浴びて、ドリンクを飲みながらドライヤーで髪を乾かすうちにあたしの心は決まっていった。少し濃いめにルージュを引きながら、こんばんはって言ってみる。そして、すっぽかした方には、心の中でごめんなさい。そう、心からの。

 

 

 

 


 

歌物語:月影

 

  大空の 月の光し 清ければ

  かげ見し水ぞ 先づこほりける

            よみ人しらず・古今和歌集

 

 もしあなたが人生を放り出してしまいたいなら、ウィーンに行けばいいだろう。例えば5月のいちばん美しい季節に来て、さわやかな夏にシェーンブルン宮殿を始めとしたあちこちの名所・旧跡を見て歩き、とても短い秋にプラーター公園の長い並木道を散策し、長くて暗い冬をローデンの重くてあたたかいコートで迎える頃には、この街は観光客に決して見せない顔を現わし始める。どこを見ても石造りの歴史的建造物と言っていいグラーベンから岸辺のマリア教会の方に歩いているだけで、あなたは何の感情も寄せつけない古代ローマ帝国以来の歴史のあるこの街にひょっとすると押しつぶされてしまいそうになるかもしれない。あるいは気取った尖塔の市庁舎前に出ているクリスマス向けの露店で、キャンディやおもちゃや焼き栗やBONSAIが売られているのを冷やかしながら見ていると一時は気がまぎれて、普段は地位やおカネを意識しなくていい日本にいるような気分になるかもしれない。でも、そんなものはどこにもなく、何もできない人間には何も与えられないという、まるでラテン語の格言のようなこの街のルールが徐々にわかってくるだろう。……そうやって3年も経つとすっかり心のやわらかい部分が磨り減らされた自分を見つけるだろう。

 この街にはウィーン生まれとそれ以外のドイツ語圏生まれと東欧から中東にかけてのドイツ語以外を母国語とする3種類の人間がいる。お金の面から言えば金持ちと貧乏人の二通りに分かれる。これらは住む地域や言葉の使い方できっぱりと区分されている。また、プライドの面からは自分のアイデンティティに自信のある人と、自信を持っているように見せようという人と、プライドの持ちようのない人がいる。

 我々がこれから紹介しようとしている女性は、一応はドイツ語の通訳くらいはできる日本人留学生で、お金はないけれど、自信を持っているように見せている。こんなふうに分類できる人間の場合、住むところは中心部から南西に伸びた、くすんだようなデパートのある大通り、マリアヒルファー・シュトラーセのアパルトマンの5階であり、そこには古い手で柵を開けるエレヴェータで上がるのである。そのフロアに止まった時に大きく揺れても怯えてはいけない。

「それで仕事見つかった?」

「見つかった。でも、それはぼくのバックグラウンドを発揮できるようなものじゃない」

 日本の男なら『いい仕事がないんだ』とか自嘲気味に言うところだが、ゾルはそういう言い方はしない。それは彼だけじゃなくこの街で生きている者はみんなそうで、虚勢を張っているというより、ほとんど思考形態の違いである。

「涼子の方は?」

「バイトだけね。今はオフ・シーズンだから」

 日本で言うカフェオレのようなメランジュに目を落としながら言う。彼らは分離派美術館のそばのカフェ・ムゼウムのほこりっぽい壁の近くで、話し込んでいる。もう信じてはいない夢を語り合う他の多くの若者と同じように。

「19区の仕事くらいってことか。……ピアノは毎日さわっているかい?」

「うん。まあね」

「ピアノはイヌといっしょだよ。毎日さわってあげないとひねくれて言うことをきかなくなるよ」

 あたしがあまり最近、練習をしていないこととなぜそうなのかもたぶん知っていると彼女は思う。

「そうね。でも……」と言いかけて苦笑してしまう。ゾルは指で脅かすように、“Ja! Aber…”って構文をまた使ってしまったことをからかう。ここに住んで長いのに“Nein”って言うのはむずかしい。だからこそ、日本女性は人気があるのだろう。留学生仲間のお相手の男はやさしい、この街に痛めつけられそうなタイプが多い。

「まだ色は使わないの?」

「まだまだだよ。まだ2千枚しか描いていない」

「すごく上手なのに」

「ありがとう。君の言葉はうれしいけれど、まだ全然、線が生きていないんだ」

 彼は市立公園で似顔絵を描くときは別として、自分の作品としては1万枚のデッサンを描いてから、油か水彩を使うと決めている。少なくともそう宣言している。

 

こっちに来た早々に涼子は、大学の教授にモーツァルトのソナタを弾いてみろと言われた。1楽章も終わらないうちに、肉というものがついてないような痩せて薄い唇の教授は、冷たく言った。

「技術的には楽譜の読みも肩の使い方も全くなってない。一からやり直しだ。表現上の諸問題のうち一つだけ挙げるとすれば、君はモーツァルトを誰だと思っているんだ?」

それから毎日、毎日モーツァルトのソナタやファンタジーを弾いた。弾けば弾くほどむずかしくなって、彼女は叱られれば叱られるほどわからなくなって、音は大理石の床に落ちたグラスのようにばらばらになってしまった。……

『あの先生はやめたほうがいいわよ。最近じゃモノになった生徒がいないらしいから』そういう噂を言い訳にして、今の『いいですね。涼子。とてもすばらしい!』と言ってくれる教授に指導教官を変えた。日本人留学生に人気があって、いつも白い髭をいじりながらニコニコしているけれど、決して音を聴こうとはしていなかった。涼子が指導先を変更する挨拶に行った時に、痩せた厳しい教授が少しだけ目を細めて『なるほど』とだけ言った意味がわかったような気がした。

 

 結局、他の多くの仲間がそうであるように、彼女も日本に帰るつもりもなく、この街で音楽家としてやっていけるわけでもない万年留学生になってしまった。観光ガイドやベビーシッターなんかをやりながら、三十路を前に仕送りを断ることもできずに。

さっきゾルが言っていた『19区の仕事』というのは、ウィーンの北の森、カーレンベルクの麓に広がる高級住宅地に住む大使館員や大企業の社員のベビーシッターや家事手伝いのことだ。彼らは2年から5年くらいの言わば長いヴァカンスを過ごして帰っていく、けっこうなご身分な方たちで、日本人会の「上流階級」を形作っているというわけである。

 

 この間、ベビーシッターで行ったのは、新聞社の特派員のお宅で、夫婦そろってシュターツオーパー(国立オペラ劇場)に「くるみ割り人形」を見に行くために彼女を頼んだ。涼子は預かった子どもにハンバーグを作ってやりながら、ウィーンのバレエなんか見たって仕方ないし、お子様向けのクリスマスの演目を3歳の子を置いて出かける感覚がよくわからないと思った。先月の「トリスタン」を退屈で寝ちゃったって言ってたくらいだから、行くこと自体に意味があるのだろう。

「クリスマスはどうするんだい?」

 このゾルの質問は教会に行くのかなんて意味では全くない。そんな若者は都会にはあまりいない。クリスマス休暇をどうするのかということだ。

「地中海に行くお金もないし、高いでしょ」

「じゃあ、一緒にノイジードラーゼーに行かないか? 友だちがキャンピングカーを持ってるんだ」

 ヨーロッパの人間は休暇をたっぷり取る代わりにおカネを使わない。夏休みには何週間もキャンピングカーで出かけ、湖畔で釣りをしたり、自転車に乗ったり、日光浴をして過ごす。2泊3日でハワイなんかに行くよりよほど安上がりだろう。

「ありがとう。それもいいかもしれない。ええ、本当に。……考えておくわ」

涼子とゾルの関係をもう少し立ち入って説明する前に、彼女がウィーンに来たきっかけをご紹介しよう。

 

 音大を卒業して、故郷の富山に帰って教師になることが決まっていたのに、どんよりとした冬の日本海とまた付き合うのが嫌で、彼女は東京に残ることにしたのだった。かと言ってシティホテルのロビーで軽いクラシックとイージーリスニングを弾くくらいしか職がない。何とか在京のオーケストラに入団できた2年先輩のクラリネット奏者のところに同居したのも、理由は愛情と経済と半々くらいだった。それは別に彼女だけのことではなく、目を凝らして見てみれば同棲にせよ結婚にせよ経済的理由抜きのものは、東京の夜空に見える星のように少ないものである。

ところが、彼女が正月休みの帰郷を1日早めて日暮里のマンションに戻った時に見たのは、同棲相手の透が他の女と二つ並んだベッドで戯れる姿だった。見てしまった側の涼子の方が逃げ出したくなったのに対し、彼の方は神経質そうに苛立っていた。

「どういうこと?」

「早くなるならメールでもくれればいいのに」

 その言葉でもうおしまいなんだと彼女は思ったが、実はもっと先があった。透がかばうように抱き寄せていたなめらかな肌の持ち主は男だった。いや、股間以外は並みの女、すなわち自分など問題にならないほど美しいと彼女に思わせた。

 透がいたわりながら本当の恋人を帰した後、吐き気を覚えながら詰問する涼子に対し、ソロを吹くときのような顔で、少年のときから自分が同性愛者であること、彼女とセックスし、同棲したのは同情と社会への偽装のためであると理路整然と説明した。……

 親には故郷に帰る前に本場の音楽を勉強したいとか、親しい友人にはウィーンでキャリアアップするんだとか、相手によっていろいろな説明をしたけれど、結局、彼女が無理にウィーンに来た本当の理由は、ブラームスのヘ短調のクラリネット・ソナタを一緒に演奏した彼に同情されるような人間でいたくなかったからだった。

 

 節約のため、ハンバーガーとコーラの昼食を市立公園で毎日食べているうちにゾルと親しくなったのだが、それ以上の関係もこれからはあるのだろうかと彼女が考えた頃、彼もまた同性愛者であることを告げた。激しい嫌悪感を感じる一方で、自分の内心を悟られたくないため、涼子はこう言ってしまった。

「じゃあ、本当にいい友だちでいられるってことね」

「うん。ぼくもそういうふうに涼子が言ってくれればいいなってずっと思っていたんだ」

その屈託のない笑顔には嘘はなかった。それからも古くからの女友だちのようにゾルにはなんでも相談できたし、彼も同居している恋人の愚痴を言ったりするのだった。会ったことのないゾルの恋人を涼子は女性だと仮想していて、いつも“sie”(彼女)と呼んで話題にしていた。……

 

 ハンガリーとの国境に横たわる湖、ノイジードラーゼーには教授を変えた後、ゾルに出会う前にやはり冬に一回だけ行ったことがあった。こうのとりが巣を作ることで有名なのだが、大きな鳥の姿は見当たらず、湖畔の小さな町からは浅い水の広がりが白く光っていた。耳が千切れそうになっているのに湖の周りを独りで歩いていて、森の中に小さな池があった。

 『あ、見つけた』思わずそうつぶやいてしまったが、それが湖からつながる水脈を見つけたからなのか、深い水の色が自分の心をのぞき込むような気がしたからなのか、今ではないにしてもいつか死んでしまうならここだと感じたからなのかわからない。ただそのとき彼女は次のように思ったし、それは今再びゾルの口から湖の名前を聞いてはっきりと思い出したのだった。

 ――男もピアノもあたしが愛したものは、あたしを不幸にしただけ。いくら受け入れようとあがいても決してあたしの中には入って来ない。ただ滑稽でみじめな気持ちにさせる。まるで月の光が温かさどころか、精一杯その姿を映した小さな池を明け方までに白く凍らせてしまうようなもの。そんなことなら光を宿さなければよかった。たとえそうなると知っていても水面にはあらがうすべもないのだけれど。

 

 

 

 


 

歌物語:薄雪

 

   ひととせを ながめつくせる 朝戸出でに

   薄雪こほる さびしさのはて

                  藤原定家・六百番歌合



 結局、涼子はノイジードラーゼーには行かなかった。ゾルの恋人と顔を合わせるのが嫌だったからだ。会えば嫉妬の感情は否応なく噴き出す。女の自分がなぜ男に負けるのかという思いは避けられない。どこがいいのだと探る目になる。そういう自分にゾルが気づかないはずはない。……あれこれ考えた末、急に知り合いが来るからという口実を作って電話したのだった。

「そう。それは残念だ」
「ごめんね。昔からの友人だから」
「そうだね。……じゃあ、よいお年を」
「よいお年を」

 誰も日本から来たりはしない。最初の頃は二組も狭い涼子のアパルトマンをホテル代わりに滞在し、市内を案内するのも大変だったが、一巡すると『ぜひまた行きたいですね』といったクリスマス・カードが来るだけだった。うんざりするほどあった手土産の日本茶や梅干もなくなってしまった。そうしたものはウィーンでもほしければ日本人向け食料品店で買えるものだが、高くて賞味期限が切れたものをわざわざ買う気にはならなかった。

 クリスマスが過ぎればイルミネーションはなくなり、街は平常を取り戻す。大晦日の「こうもり」も元日のニューイヤーコンサートも一回行けば十分だ。テレビはチロルっぽい衣装を着たおじさん、おばさんが能天気な音楽に乗って踊るような、まあNHKの歌謡ショーみたいなものばかりで、およそ若者が見るようなものではない。……何もすることがない。何もない。そんな年末年始も自分にはふさわしいように思える。そんなことを考えながら大学の近くのケラーでターフェルシュピッツを食べていると、1、2回顔を会わせたことのある日本人留学生から、同席していいかと声を掛けられた。

「それおいしいですよね」
「うん。ヴィナーシュニツェルはカロリーオーヴァーだし、グーラーシュはしょっぱすぎるし」
「そうそう、こっち来た頃にすごく太っちゃって」
「あたしもそう。半分でやめる勇気が必要だよね」
「でも、豚肉にリンゴのソースって合うからターフェルシュピッツは平らげちゃう」
「うんうん。危険だよね。リンゴの誘惑。……アプフェルシュトゥルーデルも好きなんだ」
「あ、一緒ですよ。日本のアップルパイより好き」

 それから、あそこのザッハートルテはそんなに重くないとか、ザルツブルガーノッケルンをもう一度食べたいといった話になった。若い女同士というのは、食事を摂りながらデザートの話ができるものである。

「大晦日ってなんか予定あります?」と麻梨絵というこっちでもそのまま通用する名前の子が訊いた。
「ううん。なーんにも」
「あたしたち、ケルントナーでパーティやるんですけど、涼子さんも来ません?」
「うん。いいよ」

 ふだんなら誰がメンバーなのかとか、いつ始まっていつ終わるのかといったことを訊いてから返事をするのだが、あっさりと応諾した。その原因がアプフェルシュトゥルーデルの生クリームとシナモンの具合がよかったからなのか、がらんとした部屋で独り過ごす年末年始が嫌だったからなのか、はたまたひさしぶりに日本語で会話してみたかったからなのか、我々には判断しかねるものがある。

 シュターツオーパーからウィーン市の中心と言うべきザンクト・シュテファン教会に向かって伸びる目抜き通りがケルントナーである。最近でこそガラス張りの10階建のビルが出来たりもしているが、ヘレンドやアウガルテンといった陶磁器店や高級ブティックのきらびやかなショウウィンドウと土産物屋やファストフードといったにぎやかな店が雑然と混じりながら、同様の石造りの建物に入居している。そこから脇へ入ったレストランの一角に音楽や医学の留学生、ウィーンに本部のあるIAEAで働く職員らが5、6人集っていた。涼子には麻梨絵以外は初対面の者ばかりだった。一通り自己紹介をした後は、こちらの生活に慣れないという愚痴をこぼす。

「市電で座ってたらおばあさんが立てって言うのよ。他に空いてる席もあるのに」

 麻梨絵が言うと、IAEAに勤める正純が応える。

「ぼくなんか、立ってたらひと月のかな、日付と時間を入れる乗車券を渡されて、チンって刻印して来いって言われましたよ」
「こっちの年寄りって威張ってるのよね」

 人に慣れない、食べ物に慣れない、気候に慣れない……要はこちらの生活に慣れなくて緊張して、体のどこかに疲れがたまっていく、そういう感じは涼子にはよくわかる。でも、ずっとここにいればあたしも緑のコートと帽子で、若者に命令するのだろうと思う。まるで自分がこの街の伝統を作ってきたような顔をして。
 話は女性を中心とした恋愛話になっていた。琴美というヴァイオリニストが同じアパルトマンで時々食事を一緒にしたスロヴェニア人の学生に告白されたという話をした。

「……それで、彼に『あなたは大好きよ。でも、日本に婚約者がいるの。2番目に好き』って言ったの」

 ワインのジョッキを傾けながら言う。

「それは男にとっちゃ残酷だな」


  解剖学を勉強している俊夫が応える。

「そうなのかな。彼も『nicht der Zweite in Liebe.』って言ってた」

 涼子はそのふられた男の台詞を頭の中で復唱する。『愛において2番目はない』……全くそのとおりだわ。それは排他的で利己的なものだから、残酷なほど。

 11時40分くらいになると、店を出てシュテファン教会前に行く。若者を中心に広い広場が人で埋め尽くされている。12時前から輪になってカウントダウンをする者、ラジカセを鳴らしてラップを踊っている者、花火を上げている者、ヴィデオを撮る者、大騒ぎである。みんなで1リットルのワインのデカンタを3つ半飲んだ麻梨絵が集めたグループは、何だか高揚したような気分でライトアップされた教会を見上げながら話をする。

「あの。ギター下手ね。渋谷のより」
「あは。こっちの方が田舎だもん」
「あのビルの窓のイルミネーションかわいいね」
「ホントだ。おしゃれだしね」

 涼子も取りとめもないおしゃべりをしながら、この1年を振り返るような気分じゃないとどこかで思う。自分が何か贋物のような気がして仕方がない。どこにも本物がない贋物。だから、ピアノも恋愛もうまくいかない。うまくいかないからよけいにそう思う。……

 やがて本当のカウントダウンが始まり、がらんがらんと重い鐘の音が響く。近くの小さな教会の少し軽い音も重なる。淡い雪がちらついてきて、歓声があちこちで挙がる。

 

 

 

 


 

歌物語:霙(みぞれ)

 

 荒れ暮らす 冬の空かな かき曇り

 霙横ぎる 風きほひつつ

            式子内親王・百首歌第一

 

 ホンマ、ええ加減なことばっかり言うてんねんよ。せやろ? この間かてさ、あたし何時間待ったぁ思てんの? 3時間やで。ナンパ橋んとこで、さっむいのに。風邪ひいてもうたわ。ナンパ橋、アホでも風邪ひく寒さかなっちうて俳句読んでる場合かって。ケータイ? したよ、なんべんも。でぇへんねん。メールかて、反応なしや。処置なしや。このボケがぁって、ほったらかしといたってん。そしたら、聞いてよ。夜んなって、あー、明日ツレと飲むことなったから、キャンセルや、悪いなぁやて。一日まちごぉてるんや。開いた口が塞がらんかったわ。ほこりたまったで。

 別れぇてか? 言われんでもたいがいそう思てるわ。せやけどな、アホの子ぉほどかわいいちうやん。……うん、親子やない。そんなていねいに突っ込まんで、よろし。流しとき。あんたもだいぶ大阪の水になじんできたけど、もうちょいやな。あたしら、がっこのせんせえがちょっといちびりの子おったら、吉本行けって進路指導しよるからなぁ。へえやないて。……

 まあ、ちょうどええ感じのボケ具合やな。それ以上はええわ。あたしも突っ込み系の女の子相手してたら、疲れるもんな。おもろいけど、なんや真剣勝負って気ぃになってまうから。あいつはボケやなぁ。……あんた、ボケの方がむずかしいて知ってるやろ? 流れがわかってな、あかん。お客のなんや、熱気ちうか、ボルト。ちゃうて、ボルテージちうかそういうの見えてなあかんのやで。なんの話や。評論家か、あたしは。

 そやねん。あかんねん。すっごいくやしいやんかぁ。あたしなんか、この美貌やろ? ナンパ橋でどんだけしょーもない男が声掛けてきた思う? おまわりは声枯らしとるし、たこ焼き屋は店出すし、橋傾いとったで。せやのに「ああ、間違おてたか」これだけや。「それだけ?」「悪かったな」「それだけ?」「すんまへん」「それだけ?」「何ほしいんや」「しーん」「また、バッグか?」「……チュウ」あ、ごめんな。のろけてもた。

 それで、あんたはどうやねん。ええ男見つかった? おらん? おらんことないやろ、あんたええとこ勤めてるんやし、ぎょうさん若い男おるやん。別れてもぉたん? 早いなぁ。スピーディやね。その速さで次のん探しいや。要らんてことないやろ。要らん、要らんて、首都はテヘランやろ? 一応、府立高校出てるし。出てってくれ言われたっちう噂もあるけどな。……せやけど、男おらんかったら、あれ、なんやホルモン・バランス悪うなるよ。鶴橋で今度食べよか? 炭で焼いてどうするっちうねん。おなか空いてたら、力出えへんやろ? くっらいこと考えてまうやろ? 男もおんなじやて。体も心もあかんなるねん。恋は心の栄養や。ええこと言うやろ? 3年にいっぺんくらいは。

 あ、雪降って来たで。あんたんとこもか? ……雪ちゃうな。窓にびちゃびちゃ音立ててるわ。霙や。よけい寒い感じせえへん? 凍るで、こんな風吹いてるし。だいじょうぶやろか、あいつ。今日は一日軽で営業回る言うとったけど。車よりでかいんやで、太りすぎやっちうねん。ホンマ、心配ばっかりさせよる。……

 せやな。こんなぽかぽかした部屋でぬくぬくしとったら、なんや申しわけないような、しめしめちうような気ぃになるなぁ。あたし寒いのはだいっ嫌いやけど、窓からこういう空ながめるん好きやわぁ。ね? 子どもんとき、露いっぱいついた窓ガラスに絵描いたりせえへんかった? うん。やってるんや。今。ハートやなぁ。相合傘やなぁ。……でも、あかんな。もうそれ以上描からへん。夢なくなってもうたんかなぁ。そんなことないけど、女の子描いてもどんなブランドもんやとか、家描いても間取りはどんなやとか、ちまちましてもうた。……泣きなや。あたしにうつるやんか。

 言うてもええか? あんたはええ子や。ええとこいっぱいある。せやけど、そういうの出すの嫌がってるわ。人に見せたがらへん。弱みや思てるんやない? ちゃう? 暗いから、か。……言うたらなんやけど、そんなんみんなそうやで。まともなやつはな。あたしらどんだけ暗い人間やったか今度教えたるわ。あいつもあたしも前はどんだけめちゃめちゃやったか。こわなるで、しょうもないホラーなんか問題ならんで。せやけど、今は関係ない。霙みたいなもんや。積もらんわ。あはは。

 うん、またいつでも電話して。元気出しや。ホルモンや、ホルモン。

 

 

 

 


 

 

 

 

 

絵物語:窓辺で手紙を読む女

 

最愛のベアトリスへ

 あなたは母になる時期を控えて、いささか神経質になっているのではないかと思います。それがときめきを表したもので、あなたが手紙に書いていたような不安を持っているわけではないことを祈ります。これは心得ておく必要があることなのですが、結婚は愛情とその証があって始めて永続的なものとなります。と同時に経済的な問題は少なくともしばしばその幸せに陰を落としてしまうのです。それらをしっかりとつかまえていなくてはなりません。カルヴァン教徒の人たちがしばしばわたしたちカトリック教徒について言うように自堕落であってはならないのです。

 あなたもよく知っていることですが、あなたのお父さんのヤンが亡くなってほどなく、あなたたちの養育費をなんとか確保しようとわたしが破産を申し立てたときのことです。高等法院の薄暗い部屋で固いベンチに座って石の床を見ながら、わたしは初めて経済的な問題の容赦なさを思い知らされました。わたしのお母さんの財産、ヤンの画商としての利益、画家としての収入、その順番でわたしたちの生活は支えられ、わたしはそれまで何も心配する必要がなかったのです。でも、結局のところあなたを含めて10人を超える子どもを産み育て、ラピスラズリを使った驚くほど高価な絵具を買い求めたことなどで、それらは費えてしまったのです。ヤンのすばらしい絵の多くは、がっかりするような値段で他人の手に次々と渡ってしまいました。この悲しい話は経済的な問題の大切さを理解するのに十分すぎると思います。

 話をあなたの身の上に起こったことに戻しましょう。わたしも最初の赤ちゃん、お姉さんのマーリアを身ごもったときは、あなたと同じような感情だったような気がします。ちょうどヤンはアムステルダムやハーグに画商として旅行していました。わたしはそれを手紙で告げましたが、返事はすぐには来ませんでした。あれこれと手紙の行方を心配したり、不幸なことが起きていないか海辺の街の方を眺めていたりしました。ようやく返事が来て、女中のタンネケが気を利かせて階下から呼んでくれた時は、あわてて階段を落ちそうになってしまいました。今考えてもぞっとするようなことですが。

 そんなにまでして待った手紙の内容はとても簡単なものでした。絵の売り買いの結果がまるで会計報告書を思わせるような書きぶりで記され、その最後に(今でも暗唱することができるのですが)「最愛の妻よ、あなたとあなたの中に宿った神様からの贈り物に幸いあらんことを。御身大切に」とだけ書かれていました。わたしはその素っ気ないような手紙を何度も読み返しました。……

 

 このことをずっと後になってからヤンに話したところ、あの不思議な目の色を輝かせて、ぜひ絵にしようと言ったのです。急いで着替えさせられ、髪の毛を束ねました。窓が開け放たれ、テーブルに厚いクロスが慎重に形を整えられ、ボウルに果物を持ってくるよう命じられました。窓はもちろん海辺の街に向かって開かれています。実際に海の香りが部屋の中に流れ込んできて、わたしは彼の才能がもたらしたものだと感じました。果物の数があなたたち子どもの数と同じくらいなのも偶然とは思えません。

 ただこの絵には最初、あなたも見慣れたキューピッドの絵が壁に掲げられていて、カーテンはなかったのです。その変更の理由をヤンは説明したりしませんでしたが、独りで手紙を読む女に注意を集中させようということではないかと思いました。女の表情と画面の光(光り輝くカーテンの美しさは何と言えばいいのでしょう)がひたむきな愛をあますことなく表現しているので、キューピッドが登場する必要はないのです。

 わたしは完成した絵を見せられたときに、あの時の手紙が実際とは全然違ったすばらしい恋文になっていると冗談っぽく言いました。するとヤンは「あの時に書きたかったのはこれだよ」と言いました。そのいつもの低くくぐもった返事を聞いたとき、わたしはあふれる涙を抑えることができませんでした。……今はあの絵がさきほど言ったようなことのためにわたしたちの元にないことで、抑えきれないものを感じます。ヤンとわたしが生まれ育ったデルフトを離れているわたしにとってはなおさらそうなのです。

 最愛の娘よ、あなたとあなたの中に宿った神様からの贈り物に幸いあらんことを。御身大切に。

 

                          カタリーナ・フェルメール

                                 ブレダにて