童話

 

 あみぐるみ動物園/かすみ草/バラの王様/ポインセチア/椿

 秋桜/風のハープ/ヘリこぶた

 キャラメル・ボックス:第1話〜第7話

 

 


 

童話:あみぐるみ動物園

 

 昔々あるところに……って言っちゃいましたけど、今の日本のお話です。でも、やっぱりみなさんにお話するときはいつとも、どこともわかんない方がいいですね。今日はお花じゃなくて、あみぐるみのお話です。あみぐるみって知ってますか? 毛糸で編んだぬいぐるみって言うか、お人形です。それ以上はわたしもよくわかんないです。でも、あるところにあみぐるみ動物園があるのは知っています。そこにはいろんな動物がいるんですね。

 その中に黒猫のニャンとピンクと白のしま模様のオルガがいました。ニャンは黄色い目のちょっといじわるな男の子で、オルガはオーガニックコットンっていう肌にやさしい素材のやさしい女の子でした。二人はなかよしで、よくおしゃべりをしていました。ホントはかくれんぼとかなわとびとかしたいんですが、あみぐるみなので自由に動いたりできないんです。

「ねえ。あたしたち、どんな人にもらわれていくのかなあ」

「さあね。まあ、あんまり期待しない方がいいよ」

 オルガはニャンの言葉にちょっとびっくりしました。

「どうして? みんなお客さんにすごく気に入られてもらわれていくのに」

「最初はそうさ。わー、かわいい。ママこれ買って、買ってって。……そうやってにこにこして帰っていくよね」

「でしょ? だったら大事にしてもらえるんじゃないの?」

 ニャンはその大きな黄色の目でオルガの方をちょっと見ました。

「そのあとさ、問題は。子どもはあきっぽい。すぐにぽいってされちゃう。お母さんたちがこの前、絵本を買ったばかりでしょとか言うのを聞いたことあるだろ?」

「あるけど……おとなのおねえさんならそんなことないよ」

「その方がもっと期待できないよ。新しい彼氏ができるまでだよ」

 ちょっと、ニャンくん。これって童話なんですけど。

「そうなの?……そんなのオルガやだ!」

 オルガの目のあたりがかあかあしてきました。オルガは泣き虫なんですが、プラスティックの目から涙は出ないので、泣いてもかあかあするだけなんです。

「やだって言ってもそれがげんじつだよ」

「げんじつってなあに?」

「……ぼくにもわかんない。あみぐるみ動物園の外にあるものかな」

 

 それから何日か経って、オルガは赤ちゃんへのプレゼントに、それからもう何日かしてニャンは失恋したばっかりのおねえさんにもらわれていきました。みなさんは失恋って知ってます?……ああ、そうでしたね。最近じゃあ、幼稚園でも失恋したりするんでしたよね。それはともかく、最初は二人ともとてもかわいがられ、大事にされて幸せでした。オルガは甘いにおいのする赤ちゃんと遊んだり、小さなベッドでいっしょにお昼寝したりしていました。ニャンはおねえさんがビールを飲みながらいろんな話をするのを聴いたり、おふとんの中でぎゅって抱きしめられて、ほっぺたに涙が落ちてくるのを感じたりしていました。

 

 時が流れました。赤ちゃんは小さな女の子になって、幼稚園に行くようになりました。そうなるとオルガはおもちゃ箱の片隅で一日中、じっとしていることが多くなりました。少しさびしくなったオルガはニャンのことを思い出していました。おねえさんは新しい彼氏ができて、まんまと、いえ違いました、めでたくお嫁さんになりました。ニャンは真新しい食器棚の中でバラの模様のティカップやフルートグラスと並んでいました。そこからはテレビも見れるので、まあこれものんびりしてていいなって考えていました。

 

 さらに時が流れました。女の子はランドセルを背負って小学校に行くようになりました。赤いランドセルの横にはオルガがゆれていました。おもちゃ箱の中から見つけてもらったんですね。オルガは女の子といっしょにたし算や漢字を覚えました。体育の時間に誰もいない教室で、窓の外の木枯らしを聴きながら、ここはあったかいなって思っていました。お嫁さんになったおねえさんには赤ちゃんが産まれました。ニャンは甘いにおいのする赤ちゃんと遊んだり、小さなベッドでいっしょにお昼寝したりしていました。子どもはあきっぽいっていう、ずっと前の自分の言葉を思い出しながら。……

 

 さらにさらに時が流れました。女の子が4年生になった頃にはオルガはランドセルからはずされて、おもちゃ箱の片隅に逆戻りしていました。すっかり黒ずんでしまって、あちこちすりきれていましたから。ところが女の子は塾に行くの、行かないのでお母さんとケンカしちゃって、とうとうおもちゃ箱のものぜんぶを捨てられてしまいました。……ニャンはまた食器棚の中でテレビを見ていました。ティカップのふちが欠けていたり、フルートグラスの数が減っているのを見て、まあこれもいい方だって考えていました。その時、黒い影がさっと窓を横切ったと思ったら、窓の外のベランダにぼろぼろになったオルガが転がっていました。ごみ袋を食い破ったカラスがくちばしにくわえて、ここまで飛んできたのでしょう。

「オルガ……」

 あみぐるみは声は出せない代わりにガラス越しでも話ができるんです。

「……ニャンくん。ひさしぶり」

 左目も取れてしまったオルガが弱々しく言いました。

「だいじょうぶかい?」

「ううん。もうダメだと思う。あちこちつつかれたし……でも、会えてよかった。カラスさんに感謝しなくちゃ」

「どうして?」

「ニャンくんが言ってたげんじつがわかったよって、言いたかったから」

「……どんな?」

「とても楽しくて、でもつらいものね」

「うん。ぼくももうすぐオルガみたいになるよ」

「ダメだよ。ニャンくんはずっとしあわせでいて」

 ニャンは目のあたりがかあかあしてきました。オルガは少し黙っていましたが、最後の力をふりしぼって言いました。

「でも……」

「でも?」

「あたしはあみぐるみでよかったって思ってる」

 オルガの残った右目も夕暮れとともに光を失っていきました。

 

 

 この画像は、「みきちゃんのあみぐるみコーナー」の

了解を得て使っています。ありがとうございます。

 


 

花の童話:かすみ草

 

 昔々あるところにとてもなまけ者の天使がいました。神様がサンタクロースや聖ヴァレンタインといった多くの聖人をお招きして、パーティをするときには、天使たちはいろいろと準備をお手伝いしなくてはいけないのに、そのなまけ者の天使は何もしませんでした。お掃除のときは雑巾をバケツに向かって投げたり、お料理を作るときは味見ばかりしたり、パーティの飾り付けの天の川を引っ張って遊んだりしていました。

「困ったやつだな」

 神様が言います。

「困ったやつです」

 天使長ガブリエルが首を振りながら答えます。

「どうしたもんかな?」

「どうしたもんでしょう」

「ふむ。人間にして、ちょっと苦労させるか」

「それは名案です。確かに名案です」

 

 そんなわけで、なまけ者の天使は人間にされて下界に落とされてしまいました。おまけにいちばんかわいい男の子の天使だったのに器量の悪い女の子にされてしまったのです。天使が男なのか女なのか、昔のえらい学者が一生懸命議論をしたのですが、結論は出ませんでした。だって、えらい学者さんは天使を見たことがなかったんですからね。……でも、みなさんには本当のことを教えてあげましょう。天使は男の子なんです。ちゃんと見たわたしが言うんだから間違いありません。

 それはともかく、人間の女の子になった天使はそれまでの記憶はぜんぶなくなって、ドリーという名前になりました。記憶はなくなったんですが、なまけ者の性格は変わりませんでした。身よりもなく、貧しいのに働こうとしないのです。ノラ猫といっしょに暮らして、パンやキャンディを分けてもらっていました。いつも汚いなりをして、街をぶらぶら歩いたり、猫たちとノミの取りっこをしたりして、お日様が昇って沈むまでぼんやりしていました。

 

 でも、そんなことがいつまでも続くはずがありません。冬になりました。石畳の路地は氷のように冷たく、見上げる窓の中の暖かさがうらめしく見えます。しもやけになった手の甲を猫たちがなめてくれますが、餌がないのは彼らも同じなのです。雪がちらちらと降ってきます。ドリーはなんだか眠くなってきました。……

 クリスマスの買い物をすませた若い夫婦が凍えた女の子と猫を見つけました。

「このままじゃ死んでしまう」

「どうするの?」

「連れて帰って、お風呂にでも入れてあげないと」

「そんなこと。……悪い病気でも持っていたら」

「心配ないさ。イエス様のお誕生日前にはいいことをしないとね。君もぼくも」

「あたしも?」

 女の子は眠ったままでしたが、猫は気づいて紳士ににゃあにゃあと甘えてきます。

「君は猫を助けるんだ」

「いち、に……7匹もいるわ。あなたは女の子だけなのに」

「これから生まれる赤ちゃんの分さ。これだけいれば十分だろう?」

夫婦には赤ちゃんがどうしても生まれなかったので、奥さんはそう言われるとそれ以上ダメって言えませんでした。

 

 結局、ドリーと猫たちはそのクロードとエマの家でメイドと飼い猫として暮らし始めました。メイドと言っても相変わらずなまけ者のドリーは、お掃除といっても見えるところをちょちょっと拭くだけ、お料理をしてもじゃがいもの皮もまだらに残るような有り様でした。見かねた奥さんが言います。

「困った子だわ」

「困った子だね」

「どうしましょう?」

「どうしようもないだろ。追い出すわけにもいかんさ」

 まだ寒そうに風に震える菩提樹の木に目をやりながらクロードは言います。奥さんはため息をつきながら、ドリーの楽しそうな歌声が聞えてくる台所に行きました。クロードはドリーの歌声が聞えると幸せな気分になるのでした。それはそうでしょう。だって、元は天使の歌声ですから。

 

 春が来て、花が咲き乱れ、小鳥たちがにぎやかにさえずる頃、エマはほんの数日寝込んだだけで、あっけなく死んでしまいました。柩が穴の中に下ろされ、土が掛けられるのをクロードは呆然として見ていました。黒い服を着たドリーも猫たちもしょんぼりとしていました。神父さんの言葉は誰の耳にも入りませんでした。

 それから、もう一度春が来た時にクロードとドリーは結婚しました。その2か月前にこんな会話がありました。

「ねえ。ドリー、ぼくは君の歌をずっと聴いていたいんだ」

「ここに置いていただければ、ずっと歌っていますよ」

「そうじゃなくて。……ぼくと結婚してくれないか?」

「あはは。亡くなったエマに比べればずっと不器量で、なまけ者のあたしとですか?」

「そうだね。でも、なぜだかそうしたいんだ」

 ドリーは黙ってうなずきました。

 

 もう1年経つと女の子の赤ちゃんが、その次の春には男の子の赤ちゃんが生まれました。でも、その赤ちゃんは秋の頃にとても高い熱が出てしまいました。相変わらずなまけ者のドリーは、夜になって猫に教えられるまで気づかなかったのです。びっくりしたクロードとドリーはお医者さんを呼びましたが、明け方赤ちゃんは死んでしまいました。それまで火のように熱かった赤ちゃんが自分の腕の中でだんだん冷たくなっていくのを感じ、ドリーはそれまで流した涙をぜんぶ合わせたよりたくさんの涙を流しました。

 それから、ドリーは変わりました。とてもよく働いて、子どもたちの面倒を細やかに見るお母さんになったのです。子どもたちはすくすくと育ち、赤ちゃんはその後も生まれ、死んだ男の子も含めて7人になりました。その間に猫たちの何匹かは年老いて死にましたが、その子どもたちが生まれ、育ちました。そんなとても幸せな、時々悲しみの混じった日々がずっと続きました。……やがて孫ができる頃、クロードも年老いて死の床に就きました。

「ドリー、最後に歌を聴かせてくれないか」

 それは秋の深まる頃でしたが、ドリーは春に恋人たちが愛をささやき合う歌を唄いました。ドリーの髪も白くなり、顔には深い皺が刻まれていましたが、目を閉じたクロードにはいつまでも若々しい声だけが聞えていました。

 クロードが亡くなって、7年後にドリーにも寿命がきました。多くの子どもや孫やもう何代目かもわからなくなった猫たちに見守られて、静かにその時を待っていると真夜中に神様がやってきました。

「ドリー、わたしを覚えているかい?」

「今、何十年ぶりかで思い出しました」

「おまえはなかなかよくやった。わたしと一緒に帰ろう」

「……いえ、わたしはいいんです」

「いいって? 天使に戻してやろうと言うんだよ」

「いえ、いいんです」

「不思議なことを言うね。どうしてかね?」

「わたしはふつうの人間として死んでいきたいんです。夫や子どもや、猫もそうだったように」

 神様はちょっと驚いて、ドリーの心の中をのぞき込み、決心が固いことがわかったので、もう何も言いませんでした。……

 

 明け方にドリーが冷たくなると神様は天使長ガブリエルに言いました。

「人間を死んでから、花にしてやったことがあったな?」

「はい。神様が愛された者だけ特別に」

「ドリーをそうしてやってくれ」

「あのドリーをですか?」

 神様は黙ってうなずいて立ち去ろうとしましたが、ふと立ち止まり、こう言い添えました。

「あいつの家族と猫も一緒にな」

 その神様の命令に天使長ガブリエルはあれこれ悩んだ末、ドリーと彼女の愛した者たちをかすみ草にしました。

 

 


 

花の童話:バラの王様

 

 昔々あるところにとても悲しんでいる王様がいました。王様にはお互い愛し合っていたきれいなお妃がいたんですが、重い胸の病にかかってしまい、亡くなってしまったのです。王様は来る日も来る日もお部屋で泣いてばかりで、ろくに食事も摂らないようになりました。千もお部屋のある宮殿は舞踏会も音楽会も開かれなくなって、とてもさびしいものになってしまいました。

 心配したお付きの者たちが何とか外の空気に触れていただこうと嫌がる王様を連れ出しました。とてもお天気のいい5月の朝でした。噴水や彫像が並んだ広いお庭の一角に小さな花壇があって、たくさんの花が咲き、朝露がきらきら輝いていました。ここは南の国から嫁いだお妃が自分で花のお世話をしていたところでした。まるで農家の娘のようにドレスをたくし上げて、透き通るように白く、細い指を土まみれにしていた様子が目に浮かびます。そういうとき、お妃様がいちばん生き生きとしていることを王様はよく知っていて、にこにこしながらいつまでも眺めていたのでした。……

「ここの花はすぐにちょん切ってしまえ」

「でも、お妃様が……」

「妃が死んだというのになぜ花の分際で咲いておるのだ」

 

 その日から宮殿には花もなくなってしまいました。咲きかけていたつぼみも含めて、すべての花がちょん切られてしまったのです。そんなある日、王様が仕事をする部屋に入って行くと見慣れない小間使いが花瓶を持っていました。え? 王様が仕事なんかするのかですって? わがまま言ったり、遊んだりばかりしてるのは童話の王様だけです。本当の王様って忙しいんですよ。書類にサインしたり、いろいろ大臣や軍隊に指図したり……よく知りませんけどね。ともかくそこにはまだ女の子と言っていいような小間使いが赤いバラを3本さした花瓶をもって立っていたんです。みなさんがピンポンができそうなくらい大きな王様の仕事机に置こうとしてたみたいですね。

「わしの目の届くところに花を持ってくるんじゃない」

「でも、王様は『花をちょん切れ』っておっしゃったって聞きましたから。これ、もう切ってありますし」

 王様は小娘が口答えをしたのにびっくりしました。大臣や他の国の大使だって王様が言うことに逆らったりしません。それだけ威厳があったんです。だのに……。小鳥のちゅんちゅん鳴く声が窓越しに聞こえてきます。王様は笑い出してしまい、そのまま下がってよいといいました。はらはらして見ていたお付きの者はお妃が亡くなられてから、王様が初めて笑顔を見せられたと大臣にうやうやしく報告しました。

 

 それから王様が仕事の部屋にいくたびにその小間使いが花瓶の水を取替えたり、いろんな花を持ってきたりしました。百合、パンジー、ひまわり……花瓶も首の長い鳥のようなのとか、スープカップのようなのとか、花に合わせていろいろなものが選ばれていました。そんな日が夏頃まで続いたある日のことです。

「その花は何というのだ?」

 最初の日以来、初めて王様が声をかけました。

「すみません。存じません。……バラの品種はとてもたくさんあって」

「ともかくそれはバラか。ふうん」

 小間使いはびっくりしてしまいました。王様はバラという名前も、いえそれだけじゃなく、花の名前を一つも知らなかったのです。お妃がお世話する姿を見ていても花には関心がなかったのです。その日から小間使いが花を持っていくたびに王様は名前を訊き、鵞鳥のペンで書きとめるようになりました。王様はとても勤勉な方だったんですね。

 

 秋の長い陽射しが大きな机まで射し込んでくる頃、小間使いが黄色のバラを持って入ると王様が訊きました。

「何というのだ?」

「これはバラですが」

「そうではない。おまえの名前だ」

「……フィオと申します」

 王様の鵞鳥のペンが動くのを目を丸くして見ていたお付きの者は、大臣にうやうやしく報告しました。

 

 それ以来、王様はフィオと花の話をするのが日課のようになりました。花が花を咲かせるまでとても長い時間とお世話が必要なことやそれぞれの花が咲いている期間とかの話もありました。

「この白いバラはもう少し見ていたかったが」

「ちょん切らなければもっと見ていることができますよ」

 花のことをたくさん勉強した王様にはフィオの答えはわかっていました。

「王様。土についたままお持ちしてはいけませんか? そうすれば散ったとしてもまた次の季節には花を咲かせます」

「花はそうだろう。しかし、妃は……」

「お妃様もずっと王様の中で咲いていらっしゃいます」

 王様は黙ってフィオの透き通った青い目を見ていました。……次の日から花瓶は植木鉢に変わりました。

 

 冬がもうすぐそこまでやって来ました。木々の葉はすっかり落ちて、広いお庭に住む小鳥やリスは木の実を集めたりして、冬ごもりの仕度を急いでいました。フィオが小さな赤いバラのついた植木鉢を持って部屋に入って来ました。

「王様。お世話になりました。今日でお暇をいただきたいのです」

 王様は威厳を取り繕うのも忘れて言いました。

「なんだって? ずっとここにいるわけには行かないのか?」

「申し訳ありません。あたし冬になると生まれたところに帰らなくてはいけないんです」

「春になればまた花が咲く。おまえも来てくれるだろうな?」

 フィオはうやうやしくお辞儀をし、宮殿から去って行きました。

 

 春になりました。でも、フィオは現れませんでした。王様は大臣に命じて、国の隅から隅までフィオを探すよう命じました。早馬が街も田舎もあちこち行きかい、とうとう軍隊まで出動しましたが、見つかりません。王様はしょんぼりして、フィオの残した植木鉢を見ています。心配したお付きの者たちが何とか外の空気に触れていただこうと嫌がる王様を連れ出しました。とてもお天気のいい4月の朝でした。広いお庭の一角のあの小さな花壇にはバラのつぼみがふくらみかけています。フィオが手入れしていたのでしょう。まだ少し冷たい風が赤いつぼみを揺らしました。

「フィオ……」

 その時、これまでのことがふいに想い出され、彼女がバラの精だったことが王様にははっきりとわかりました。……それから、広いお庭も千もお部屋のある宮殿もバラの花で満ちあふれました。それで王様はバラの王様と呼ばれるようになったのです。

 

 

 

 

 


 

花の童話:ポインセチア

 

 ポインセチアの花って真ん中の実のようなところで、赤いところは花じゃないし、葉っぱでもないんですよ。それは知ってました? じゃあ、昔々は赤いところはなくて緑の葉っぱの真ん中に小さな花があるだけだったっていうのは?……知らない人はわたしのお話を聴いて、クリスマスに子どもたちに教えてあげてください。

 

 昔々遠い北の国で、クリスマスについての会議が開かれていました。もちろん議長はサンタクロースで、議題は「花のあるクリスマス」でした。クリスマスの何週間か前に呼び集められた花はみんな寒さにぶるぶるふるえていました。

「……そこで、クリスマスにも花がほしいというわけなんじゃ」

「わたしでは不満なんですか?」

 もみの木が言います。

「不満と言うわけじゃないが、さびしいじゃないか」

「それが不満ってことじゃないですか。じゃあ、お好きな花となかよくすればいいでしょ」

 とげとげしい声でそう言うと、もみの木は金色の玉と綿の雪といっしょに行ってしまいました。

「誰かクリスマスに咲いてくれる花はないか?」

 誰も返事しません。

「いつも美しいバラよ。おまえはどうだ?」

「あたしは霜にだって弱いんですよ? それが雪の降る季節だなんて」

 もみの木よりもっととげとげしい声で怒ります。

「いつも明るいひまわりよ。……おまえが来てくれたらさぞ楽しいだろう」

「あたしはお日様といつもいっしょなんです。クリスマスなんて、お日様はめったに出て来ないじゃないですか」

 ひまわりは黄色い声を張り上げてことわります。

「いつもかわいいチューリップよ。おまえなら待っている子どもたちもよろこぶぞ」

「最近肩がこってて、あたしダメなんです」

 長い首をゆらしながら嫌がります。

 それから、ベゴニアも蘭もコスモスもパンジーも、みんななんのかんのと言って、サンタクロースのお願いを聞いてくれませんでした。サンタクロースはため息をついて、会議の解散を告げ、とぼとぼ歩いて行きます。トナカイのそりだけがついて行きました。花たちはほっとして帰り始めます。

「サンタさんじゃなければ考えてもいいけど」

「そうよね。おじいさんだもん」

「そうそう、それに太ってるし」

「雪の王子様なんかだったら?」

「それなら寒くたってへっちゃら」

 華やかな笑い声が響きます。サンタクロースは、自分の耳がまだそんなに遠くなっていないのを悲しく思いました。すると後から声が聞えます。

「サンタクロースさん、あたしでよかったら……」

「うん? おまえさんは?」

「ポインセチアです」

「ありがとう。でも、おまえさんは花なのかい?」

「ええ、とても小さいんですけど」

「……ありがとう。でも、いいんだよ。大きくなったらお願いするから」

 ポインセチアは、さっき声をかけられたきれいな花たちに比べ、自分がみすぼらしいのを恥ずかしく思いました。でも、それ以上に子どもたちのために働いているサンタクロースのお役に立てないことがくやしかったんです。

 

 どうしても大きな花がほしくていろいろ考えた末、ポインセチアは深い深い谷の奥に住む魔法使いのおばあさんを訪ねることにしました。でも、そこに行くには7つの高い山を越え、7つの大きな川を渡らなくてはならなかったのです。……ポインセチアはとても長くて苦しい旅をして、ようやくたどりつくことができました。暗い洞窟におそるおそる入って行くと声が聞えました。

「おや。ひさしぶりのお客さんだね。700年ぶりかね」

「おばあさん、あたしに大きな花をください」

「お安い御用だよ。どんな色がいいんだね?」

「えっと。……真っ赤なのが」

 とてもうれしくなったポインセチアは、バラの美しさを思い浮かべながら言いました。

「ああ、いいよ。で、いつ咲くんだね?」

「クリスマスの頃です」

「え? そいつは無理だよ。春にしなさい」

 その言葉が終わらないうちに洞窟の外には春がやってきました。花が咲き乱れ、小鳥たちが愛のささやきを交わします。

「春ではダメなんです」

「じゃあ、夏がいいよ」

 その言葉が終わらないうちに洞窟の外には夏がやってきました。木々に葉が繁り、セミたちがせわしなく歌を歌います。

「夏でもダメなんです」

「夏も嫌いなのかい? じゃあ秋だね」

その言葉が終わらないうちに洞窟の外には秋がやってきました。木の葉が色づき、リスたちが木の実を探して駆け回ります。

「どうしてもクリスマスなんです。サンタクロースさんのために」

「そいつは無理だよ。冬に大きな花は咲かないよ。凍ってしまう」

 その言葉が終わらないうちに洞窟の外には冬がやってきました。一面真っ白な雪で覆われ、樹氷の間を吹雪が通り抜けていきます。魔法使いのおばあさんは寒さのおそろしさを知ればわかるだろうと、背中を向けてあやしげなお鍋をかき回します。ポインセチアはぶるぶるふるえながら、それでも我慢していました。

 

 吹雪は7日間続き、ようやくやみました。おばあさんは、すっかり霜と雪にやられて枯れそうになっているポインセチアを見て、ため息をつきました。

「よくわかっただろう? 冬は花どころか葉っぱも落として、じっと耐えるものなんだよ。魔法だって神様が決めたことを変えられやしない」

「わかっています。でも、サンタクロースさんが」

「またそいつのことかい。そんなわがままを聞くことはないんだが。……」

 しばらく考えていた魔法使いのおばあさんは、ぴいぃっと甲高い口笛を鳴らしました。すると真っ白なふくろうが音もなく飛んできて魔法使いのおばあさんの肩に止まりました。おばあさんが何やらささやくのに軽くうなずくと、それからまた音もなく高い山よりもっと高く飛んでいきました。

 

 次の朝、ふくろうが飛んでくるのが見えたかと思うと、シャンシャンと鈴の音が聞えてきました。トナカイの白い息が見えて、サンタクロースのそりがやって来ました。

「やれやれ、年寄りをこんな遠くまで。何の用だね?」

「何の用じゃないよ。あんたがわがままを言うから、見なよ。かわいそうじゃないか」

「おや、いつぞやの。どうした? 枯れそうじゃないか」

「それもこれもあんたがクリスマスに花がほしいって言ったからだろ」

 魔法使いのおばあさんにしかられて、サンタクロースはしょんぼりしました。トナカイも下を向いています。ポインセチアも何だか申し訳ないような気がしました。

「おばあさん、ありがとう。あたしもういいんです」

「いやあたしが乗り出した以上、そうはいかないよ。……あんた、ずいぶんあったかそうなのを着てるね」

「そりゃそうさ。寒い季節に働くからって神様が特別に作ってくださったんだ」

 魔法使いのおばあさんの目が少しだけ動きました。

「そうかい。じゃあ、ごりやくがありそうだ」

 その言葉が終わらないうちにサンタクロースの真っ赤な上着の裾がはらはらと切れて、ポインセチアにくっつきました。するとさすがは神様の特別製、見る見るポインセチアは生気を取り戻し、葉っぱも緑色になりました。

「わっ。何をするんじゃ。切ってしまうなんて」

「だいじょうぶだよ、それくらい。それより見てごらん」

「おほぉ。こりゃ、花のようだ。いや、花よりも美しい」

 それを聞いてポインセチアはとてもうれしくなりました。

 

 ……どうです? ウソだろって? じゃあ、今度サンタクロースに会ったら、上着の後ろの裾を見てください。ちょっとだけ短いですから。

 

 

 

 


 

花のおとぎ話:椿

 

 昔々あるところに庄助さんというお百姓さんがいました。庄助さんはもう30を過ぎているというのにまだ嫁ももらわず、母一人子一人で小さな田んぼを耕して暮らしていました。

 冬の終わり頃のことです。体の具合が悪く臥せっている母親の代わりに、庄助さんは川で大根を洗っていました。手がかじかんで息を吹きかけていたら、水底を細いきれいな魚がすいっと通ったかと思うと、絣の着物を着た若い娘の姿が川面に映りました。振り返ると娘はお山の方をぼんやり見ています。いつの間に来たのだろうと思いながら、庄助さんも雪をかぶったお山を眺めます。

 里に春が来て、つくしやよもぎが顔を出すとお山の雪も少なくなって、黒い馬の形が現れます。そうすると田んぼの代かきの季節です。でも、まだ今は里にも雪がたくさん残っていました。

「おめえ、どっから来ただ?」

 どうしておとぎ話では、こういうどこの方言だかわかんない変なしゃべり方をするんでしょうね。

「わかんね」

「記憶喪失け?」

 あのね、庄助さん。あなたはおとぎ話の主人公でしょ? なんで記憶喪失なんて言葉を知ってるんですか。だいいち結論が早すぎますよ。合コンで前に座った女性に「結婚式はやっぱりチャペルでね」ってブリザードが吹きそうなギャグをかましてるみたいですよ。

「わかんね」

「名前は?」

「わかんね」

「これからどうすんだ?」

「わかんね」

 何を訊いても「わかんね」ばかりで、庄助さんは困ってしまいました。よく見ると着物の着方もなんか変で、あちこちに泥まじりの雪がついています。悪さでもされて呆けてしまっているのかと不憫に思い、家に連れて帰ることにしました。娘の足取りはちょっとふらふらしていて、村のはずれに咲いていた椿に引っかかかったのか、一輪の花がぽとりと雪道に落ちました。

 

 家と言っても、土間の真ん中にいろりがあって、むしろを敷いて母親が寝ているだけです。庄助さんが娘のことをぼそぼそと説明するのを体を起こして聴いて、「そうけ、そうけ」と何だか勝手に一人合点して、

「おめえさん、ずっとここにいろ。庄助の嫁になってくれろ」と息子と同じように性急な結論を導き出してしまいました。ただ母親は娘の腰の辺りの肉付きを見て、子どももいっぱい産めるし、野良仕事にもよく働くだろうという算段はしていたんですけどね。

「うん」

 なんでここだけ「わかんね」じゃないんだって思いますが、娘はそう言って庄助さんの家にいることになりました。名前がないのはかわいそうなので、小春という名前を付けてやりました。

 

 小春はよく働きました。ご飯の仕度、洗濯、着物の繕い、野良仕事、体の弱い母親の世話……朝から晩まで働いて、不平一つ言いません。貧しいお百姓ですからチャペルで結婚式を挙げるわけもなく、村のみんなが庄助んとこの嫁って呼べばそれで結婚成立です。しかし、春になって、夏になって、秋が来て、また冬が来ても、子どもはできませんでした。当てがはずれた母親の顔が曇ります。

 3年が経ちましたが、やっぱり子どもはできません。体の調子もよくなった母親は小春につらく当たるようになりました。小春は柿の木のそばでしくしく泣きます。庄助さんは家と柿の木の間をおろおろします。こういうときはどっちの側に立つかはっきりした方がいいように思うんですが、なかなかそうできないんですね。どっちの言うことにも「だな、だな」ってうなずくので、こじれるばかりでした。

 母親は跡継ぎを作れないような嫁はいくら働き者でも要らないと思ったんです。ひどい話ですが、田んぼを代々引き継いでいくしかないお百姓としては、そう考えるのはわかんないこともないですね。で、小春を追い出すよう庄助さんにしつこく言いますが、小春が好きですからいくら母親の頼みでも「うん」とは言いません。

「もう少ししたら子もできらあ」とはぐらかします。

「できなんだら?」

「そんときは仕方ね」

「じゃあ、お彼岸までだぞ。ええか?」

 話の成り行き上、庄助さんはうなずくしかありませんでした。秋の終わり頃のことでした。

 

 雪国の長い冬もその時ばかりは庄助さんにはあっという間に過ぎました。お彼岸にはぼた餅を作りますが、貧しい庄助さんの家ではそんなわけにはいきません。そば団子に少しお米を混ぜるくらいがせいぜいです。

 ところが彼岸入りの朝のことです。庄助さんが起きてみると朝いちばんに起きるはずの小春の姿が見えません。かまどには火が入っていて、いろりのそばには本物のぼた餅が二つ置いてあります。

 びっくりして外に出て、小春を探します。春めいてきたとは言え、どんよりとした雲が厚くたれ込めている下を村はずれまで走っていくと小春の小さな背中が見えました。

「小春!」

「世話になっただ。ホントお世話に」

 深々とお辞儀をします。

「行くでね! おっかあはおらが何とかするけ」

「子の産めねぇ嫁は去るしかね」

「そんただわかんね。二本松の松んとこも5年目にできただ」

「……おら、ホントは狐なんだ。ずっと前におまえさんに罠にかかってるところ助けてもらったから」

「DNAが違ったんけ」

 あのね、庄助さん。いいところなんだからわけわかんないこと言わないでください。

「んだ。はなから無理なの承知で来ちまって申し訳ね」

 小春はもう一度お辞儀をすると、くるっと向こうを向いて歩き始めました。

「待ってけろ!」

 あわてて追いかけようとした庄助さんが雪道にすべりそうになると、ばっと一斉に椿の花が落ちました。すぐに顔を上げて追いかけましたが、お山の麓まで続く道のずっと遠くを何度見ても、小春の姿は見当たりませんでした。雲の合間から何本もの光の筋が地上を照らしています。

 

 

 


 

花の童話:秋桜

 

 秋桜ってコスモスのことですね。あんまり桜と似てないような気もしますが、明治時代に入ってきた渡来種のわりにはかなげなところが桜のイメージに近いのかもしれません。コスモスって宇宙とかっていう意味もあるんですが、なぜかご存知ですか?……では、今日のお話を始めましょう。

 

 昔々あるところに小さな宇宙がありました。どれくらい小さいかと言うと、運動会の大玉ころがしの大玉ぐらいです。でも、その中にはちゃんと何千億もの銀河系や星雲があって、それぞれの中にまた何千億もの星があって、その星の中には生き物がいる星もいっぱいありました。そんな小さな宇宙のはじっこの小さな銀河系のそのまたはじっこの小さな星のそのまたはじっこの小さな惑星のそのまたはじっこの小さな島のそのまたはじっこの小さな野原にコスモスとみつばちがいました。

 その一輪の花と一匹のみつばちはとてもなかよしで、花粉を運んでもらう代わりに蜜をあげたりするだけじゃなく、秋のやわらかい陽の下で冗談を言ったり、いろんな楽しい夢をおしゃべりしたりしていました。

「どう? 今日の蜜の味は」

「とってもおいしいよ。ハニー」

「昨日はどこまであたしのかわいい花粉を運んでくれたの?」

「島のはじっこまで行ったよ。でも、君ほどかわいい花はなかったよ」

「そんなに飛んで疲れなかった?」

「うん。疲れちゃったから、巣に戻らないで白樺の木陰で眠ったよ」

「あら、風邪ひいたりしなかった?」

「ぼくは元気だからだいじょうだよ」

 え? 働きバチはめすじゃないのかですって? ああ、これは別の小さな宇宙の…(中略)…小さな野原のお話ですからね。ここでは、おすのハチがあくせく働くんですよ。それにその方がいいって思うでしょ?

「あなたは、どこにでも飛んで行けていいなぁ」

「うん。この島はだいたい飛んじゃったね。海の向こうは無理だけど」

「海ってなあに?」

「水がいっぱいあって、とても広くて、こんな日は青くてきらきらしてて……なつかしいところだよ」

「なつかしい? あなたはそこで生まれたの?」

「ううん。森の中の巣でだけど、なぜだかそんな気がするのさ」

「あたしも海を見てみたいなあ」

 コスモスは風の力を借りて首をゆらしましたが、どうしても海は見えないので、みつばちにもっと海の話をせがみました。

 

 でも、そんな幸せは永続きしませんでした。最初は夜に見える星でした。コスモスがおやすみなさいを言う星がどんどん増えていったのです。お願い事をする流れ星もしきりに天の川を横切ります。次は季節でした。秋だったのにだんだん暑くなってきました。お日様はあまり高く昇らないようになったのに何だか大きくなったように見えます。暑さに弱いみつばちはふらふらと飛んで、コスモスの花びらの裏に止まって少しでも体を冷やそうとします。コスモスはくすぐったいのですが、我慢していました。

 真夏のように暑くなり、やがてもっと暑くなりました。お日様はもっと大きくなり、野原の向こうに沈んでも夜空を青く染めていました。その明るい夜空を星はぎらぎらと輝き、びっしりと空を埋めてもっと明るくしました。……そうなのです。この小さな宇宙が縮んできたのです。元々はもっと大きかったのですが、それが大玉くらいになり、さらに小さくなり始めたのです。元々の大きさですか? まずみなさんが想像してみてください。あ、それよりももうちょっと広いですね。いえ、もうちょっと……宇宙の大きさってホントはそういうものなんですよ。

 こほん。この宇宙も元々はちっちゃな、それこそ大玉みたいな宇宙の元から爆発して今のように大きくなったんですね。そのときに大きなバンって音がしたのかな、ビッグバンって言いますね。コスモスとみつばちの宇宙は、その反対に縮んでいく宇宙なんですね。そっちの方はビッグクランチって言います。大きなチョコのことじゃないみたいですけど。

 

 まあ、そんなことは暑くて、はあはあ言ってるコスモスとみちばちには関係ありません。熱いシャワーのような雨が降ってもすぐに乾いてしまうようなお天気の中で、まわりの草や木は次々としおれたり、枯れたりして、見る見る砂漠のようになりました。虫や動物たちもばたばたと死んでいきます。でも、どういうわけかコスモスとみつばちはかろうじて生き残っていました。

「だいじょうぶ?」

「うん。なんとかね」

「みんな死んじゃったね」

「うん。もうぼくらだけかもしれない」

「ここにいてくれる? ひとりじゃやだ」

「いるよ。もう巣の仲間もダメだし、それに……」

「それに?」

「海もぐらぐらと沸騰してるんだ。気味の悪い色になって」

「とても悲しいこと……」

 

 変化はさらにスピードを上げました。何千何百という星が落ちてきて、地上でお日様が爆発したようになりました。コスモスとみちばちのいる小さな島も大きな火に包まれました。風船が縮むように小さくなっていく宇宙の中では、何百億という星にいたすべての生命が焼け死んで、目に見えない魂だって残ることはできません。

「どうしてあたしたちだけ生き残っているのかしら。まわりは真っ白に燃え上がっているのに」

「そうだね。不思議だ。……でも、ひょっとすると」

「ひょっとすると?」

「もうぼくたちも死んでいるのかもしれないね」

「じゃあ、どうしてこうやってお話できるの?」

「ずっといっしょにいたいってお祈りしていたから?」

 コスモスはなぜだかちょっと笑って、みちばちにささやきました。

「……来て」

 何億度もの高温と地上の何億倍の重力の中で、みつばちはコスモスの花の奥まで入り、動かなくなりました。その少し後で、宇宙のすべての物質が小さなコスモスに殺到してきました。なぜはじっこのはじっこに集るのかですって? ホントは宇宙にははじっこも中心もないんです。どこも、誰もがはじっこと言えばはじっこ。中心と言えば中心なんです。

 そんなふうにして、最後の光とともに小さな宇宙は消え、すべてが終わりました。宇宙がなくなれば何もありません。時間さえもないんです。だからずっと永遠にと言ってもいいのかもしれません。……

 

 野原を埋めつくように咲き乱れ、秋の風にはかなげにゆれるコスモスは、そんな小さな宇宙とその中にいた愛するものを一つずつ抱えているのです。

 

 

 

 


 

童話:風のハープ

 

 

この作品はぽけっとさん作曲の「風が奏でるハープ」とのコラボです。

ぽけっとさんの許可をいただいて、ここで聴けるようにしています。ありがとうございました。

 

  昔々、あるところにとっても腕のいいハープ職人のおじいさんがいました。町から町へ旅をしながら歌を唄って聞かせる吟遊詩人たちは、みんなおじいさんのハープをほしがりました。楽しいときには楽しい音色を、悲しいときには悲しい音色を思いのままに奏でることができたからです。

 でも、おじいさんはもう年を取りすぎていました。木を削りながら、これが最後の子どもになるって思っていました。ハープ作りに熱中しすぎて、おじいさんは結婚もせず、子どももいなかったので、ハープを子どもだと思うようになっていたんですね。手が震えて、目もかすむことが多くなっていましたが、なんとかしてこれだけは完成させたいって思っていました。

「これが完成できるなら、命などくれてやる。……神様お願いです。たとえ悪魔でもかまわんぞ」
「本当かい?」

 かわいい声が聞えましたが、おじいさんは空耳なのかなって思いました。だって、小さな工房兼住まいの家には誰も見当たらなかったんですから。また、のみを持って仕事を始めようとすると、また声が聞えました。

「こっちだよ。……さっきの本当かい?」
 目を上げると、いろんな道具が置いてある棚に小さな男の子がちょこんと座って、足をぶらぶらさせていました。

「どこから入って来たんだ?」
「ぼくは悪魔だから、どこからでも入れるんだよ」
「……ほう、そうなんだ。じゃあ、翼やしっぽはどうした? 忘れたのかい?」
「今は人間の子どもの格好だから、ないんだよ」
「悪魔にしてはずいぶんかわいいと思ったよ。だが、悪いな坊や、今は忙しいんだ」

「かわいい? 忙しい?」

 からかわれているのがわかって、ほっぺたをふくらませました。男の子になっているので魔術も使えず、それしかできなかったんですね。

「でも、明日の朝には死神が迎えに来るんだよ。おじいさん、それを仕上げたいんだろ?」
「そうだよ。……明日の朝じゃ間に合わん」
「だから、ぼくと取り引きしないか?」
「悪魔と取り引きか。それもいいかもしれんな」
「じゃあ、決まりだ。朝が来るまで、おじいさんが若いときのような体にしてあげる。その代わり……」
「わかっとる。これができるんなら、魂なんぞ、おまえにくれてやるさ」
 おじいさんはその子の言うことを信じたわけでもないんですが、これ以上、仕事の邪魔をされたくないので、そう言いました。すると、男の子はにっこり笑いました。

「どんなハープにしたいんだい?」
「わしはこれまで数えきれんほどハープを作ってきた。いつも思っていたのは、ハープを奏でる者の心がそのまま表われるようなものにしたいってことだ」
「そのまま表われるもの?」
「子どもにはむずかしいか。……心にはいろんな風が吹いている。その風が聴く人の心にも吹くようにってことだ」

 男の子はこくんとうなずくと、すうっと消えました。すると手の震えも止まり、目の前のヴェールのようなものも消え、ふしぶしの痛みもなくなりました。おじいさんは作りかけのハープにかがみ込むと、のみを素早く動かし始めました。……完成したハープに朝の陽射しが当たったときには、その前でおじいさんは眠るように死んでいました。微笑みを浮かべながら。

 そのハープはおじいさんの望みどおりのものになりました。

 最初に持ち主になった吟遊詩人は春のような心を持っていました。だから、冬でもその音色を聴いた人たちは、花を咲かせる春の風が吹いてきたと思いました。あたたかい気持ちになり、ほっとしてこっくり、こっくり眠ってしまうのでした。

 次の持ち主は夏のような心を持っていましたから、木陰に誘うような夏の風が吹きました。みんな外套を脱ぎ捨て、陽気に踊り出してしまうのでした。

 そのまた次の持ち主は秋のような心を持っていました。だから、昔のことを思い出させるような風が吹きました。もの思いにふけった人たちはなつかしい人のことを想って、涙を流しました。

 4番目の持ち主は冬のような心を持っていましたから、すべてのものを凍りつかせるような風が吹きました。その音色を聴いた人たちは体を丸くして、歯をガタガタさせてしまうのでした。

 その次の持ち主には心がありませんでした。だから、なんの風も吹きませんでした。とても上手なハープ奏者だったんですが、聴いた人たちは何も感じなかったので、地面に置かれた帽子におカネを入れる人はいませんでした。いつも貧乏で、そのため奥さんに愛想をつかされ、逃げられてしまいました。残された小さい男の子を連れて、町から町へとさまよっていました。わずかなおカネをお酒に変えて、愚痴ばかり言うようなすさんだ毎日を送っていました。そのおカネも男の子が酒場のお使いをしたり、お菓子を町の広場で売ったりして稼いだものでした。

「おれはこんなことをしている人間じゃないんだ。そうさ、お城で宮廷楽長さまになって楽団を指揮してたっておかしかないんだ。それがあいつとくっついて、おまえができちまったからな。……いや、今だって立派なもんなんだ。おれとこのハープなら。だのにこんな田舎じゃ誰も聞く耳を持ってやしない」
 いっしょに安くて強いお酒を飲んでいた行商人は、繰り言に聞き飽きて居眠りを始めてしまっていました。固いパンと薄いスープだけの夕食をすませた男の子は申し訳なさそうにうつむいて座っていました。酔いつぶれた父親を抱きかかえて、今夜の宿をどうやって探そうかと考えながら。

 ある日のことです。小さな町で、いつものようにハープを奏でながら歌を唄っていましたが、集る人も少なく、帽子の中には初めから入れてあるコインしかありませんでした。男の子もお店からお店へと何か手伝わせてくださいとお願いして回りましたが、どこからも相手にしてもらえませんでした。これではお酒どころか食事もできません。もう春が近いとは言え、野宿するにはまだ寒いでしょう。

「おまえ、さっき通ったパン屋でちょっと失敬して来い」

男の子は心臓が飛び出しそうになるほど驚きました。

「おれの外套を貸してやるから、それに隠して、知らんぷりして出てくりゃいいんだ。だいじょうぶだ。うまくやりゃあいいんだ」

 息子の肩に外套を掛けるとぽんぽんと叩きました。仕方なくとぼとぼと通りを歩いていく男の子は大きな外套を着せられて、よけいに小さく見えました。……

 父親が駆けつけたときには、もう男の子は息を引き取る寸前でした。パン屋を出るときに丸いパンを落としてしまい、通りでしたたか殴られたあげく、腹を蹴られて転がっていって向かいのおもちゃ屋の石の壁に頭をぶつけてしまったのでした。

「お父さん。ごめんね……」

 父親の腕の中でそう言って、男の子は死んでいきました。これからは自分一人かと思いましたが、それほど悲しいとは思いませんでした。だって、その吟遊詩人には心がなかったんですから。

 それから何週間かして、別の町で昼間から教会前の広場で酒を飲んでいました。厚い雲の合間から陽が差してきました。

「おい。酒がもうないぞ」

 息子がいるつもりで言ってしまったことに気づき、苦笑いをしながら首を振るとハープにあたたかい陽が当たってきらきらと輝いているのが目に入りました。なぜだか自分でもわからないのですが、何十年ぶりかで涙があふれて来ました。悲しくもなく、息子がかわいそうだとも思っていないのに、涙が止まりません。落ちた涙がハープの弦をかすかに鳴らしました。ぽん、ぽん。その音に誘われて、続きの音を探すように奏で始めました。誰に聞かせようということもなく。……

 広場を行き交う人が集ってきました。なんて楽しい曲なんだろう。春のやわらかな陽射し。心を浮き立たせるような春の風。窓を開けて2階や3階から聴きほれている人もいます。なんて幸せな気持ちにさせる音楽なんだろう。この音が春風を呼んだんだ。恋人たちが肩を抱き合って、微笑みを交わします。老夫婦がうやうやしいお辞儀をし、手を取って踊ります。

 しかし、吟遊詩人は周りのことなどおかまいなしにハープを奏で続けます。音が次の音を求めます。いくら飲んでも喉の渇きがいえないように。弦が1本、また1本と切れて、音がしなくなっても心の中で音楽は続いていました。……夕陽が沈み、もう誰もいなくなった広場で、たった一人になっても音のない演奏は終わりませんでした。

 次の朝、冷たくなった男を早起きの老人が見つけました。

「昨日の吟遊詩人じゃないか。……まるで眠っているようだ。微笑みまで浮かべている」

 老人はそうつぶやいて周りを見回しましたが、どこにもハープは見つかりませんでした。そう、どこにも。

 

 

 


 

童話:ヘリこぶた

 

 こぶたくんは自分がキライでした。こぶたのぬいぐるみなんかに生まれたくなかったし、こぶたのまま一生終わるなんてまっぴらごめんだって思っていました。小さなお店で兄弟たちと並んでいるところをおねえさんに買ってもらって、かわいがってもらっていたんですが、そういうことって、かえって「本当のぼくはこんなんじゃないんだ」ってこぶたくんが考えるようにしちゃうもんなんですね。

 じゃあ、こぶたくんは何になりたかったの?ですか。……こぶたくんは、ヘリコプターになりたかったんです。おねえさんがお出かけをしているお昼どきに、パタパタって音が近づいて来ると窓まで飛んでいって眺めます。え?『ぬいぐるみは歩いたりしないよ』ですって? そうですね。みなさんが見ている前ではね。でも、だるまさんがころんだって遊び知ってるでしょ? ぬいぐるみはとっても上手なんですよ。……冷たく澄んだ青空にきらきら光るヘリコプターが見えると、眠気がいっぺんに吹っ飛んで、カーテンのはじっこをつかんでずっと見つめます。

『いいなぁ。どこにでも飛んで行けるし、どこにでも降りれるんだ。どんな鳥だってヘリコプターほど大きくて、堂々としてないよね』

 そう、こぶたくんは空を飛んでみたかったんですね。空が飛べれば何もかも違った自分になれるような気がしたんです。いつも笑ったような同じ顔をして、おねえさんが楽しそうにその日あったことをお話してくれるのを聴いていたり、たまにお話の途中に涙を流しているのを見つめていたりするだけの毎日がだんだんつまらなくなってしまったんです。ヘリコプターになったら、おねえさんを乗せて野山にピクニックに行ったり、夜の街をデートしたりしたいなって思ってたんです。そうしたらきっとおねえさんが悲しい顔をすることもなくなるんじゃないかって。

 でも、どうしたらいいかわかりません。わかんないんですけど、ヘリコプターを作ってる工場を見つけて頼んでみようって思いました。それである日、おねえさんの部屋の窓からぴょんって飛び降りて、歩いて行きました。街はずれの野原まで来たとき、ふと思いついて、来た道を戻りました。お部屋にうんせうんせとよじ登って、自分が置かれていた棚に開きかけたたんぽぽを置いて、また出て行きました。書置きの手紙の代わりに、おねえさんが夜に帰ってきたときにちょうど咲いているように。……

 なかなかヘリコプターの工場って見つかりませんでした。最初はおもちゃ屋さんに行って訊いてみましたが、本物のヘリコプターのことはわかんないって言われました。町の小さな工場に行きましたが、そこはネジを作っていて『ヘリコプターに使われてるかもしれないよ』と油で汚れた手をズボンの裾で拭きながら、おにいさんが笑いました。ずいぶん遠くまで歩いて、飛行場に着きましたが、ここじゃ作ってないんだよって言われました。

 でも、そこで場所を教えてもらいました。ヘリコプターの工場はとっても遠いところでした。田舎に行く電車に何時間も乗って、それから1両だけの気動車で山の方に向かいました。終点から誰も乗っていない古いガタガタいうバスに揺られて、ようやく着きました。工場は深い谷の中にぽつんと建っていて、なんだか高いビルが地面に沈んだような不思議な形をしていました。

 中に入っていくとしんとしていて、とてもヘリコプターを作っているようには思えませんでした。がらんとした倉庫みたいなところにおじいさんが古い木の机に向かって、何か書き物をしていました。

「こんにちは」
「ああ。何か用かね?」

 顔を上げて、小さなメガネ越しにこぶたくんをじろっと見ます。

「ぼくヘリコプターになりたいんです」
「やれやれ。とうとうぬいぐるみまで来たか」
「ほかにもそういう人が来るんですか?」
「来るさ。若いのも、年寄りも。何がいいんだ? ヘリコプターなんて」
「だって空を自由に飛べるじゃないですか」
「そんなもんじゃないんだが。……みんなそう言っても聞く耳持たんがね」
「やっとここまで来たんです。どうしてもなりたいんです」
「この前は家の中でずっと飼われてるイヌが来たからな。おまえさんもまあ悩みがあるんだろ」
「ぼくでもヘリコプターにしてくれますか?」
「ああ、かまわんよ。……ただし、元には戻れないぞ?」

 その言葉に大きくうなずいているうちに、こぶたくんは眠ってしまったようでした。思い出せないたくさんの夢がちかちかと通り過ぎて、目が覚めるとヘリコプターになっていました。

 最初は新しい体になじめないで、うまく歩くこともできませんでしたが、やがてコツが飲み込めてだんだん空に舞い上がることもできるようになりました。……ヘリコプターになってから、いろんなところへ行って、いろんなことを経験しました。カメラマンを乗せて火事を見に行ったり、山で遭難した人を助けたり、恋人たちを乗せて大きな街の上を回ったり。

 でも、自由に飛ぶなんてことはできませんでした。ちゃんと言われた時間に、言われたとおりに飛んで行かないといけないのです。大空がこんなに狭いものだと始めて知りました。鳥よりも高く、飛行機よりも低いヘリコプターだけの道が見えるようになってきました。どこでも降りられると言っても、決められたところに決まったとおりにしか降りてはいけないのです。飛行機よりは自由で、鳥よりはずっと不自由なのがヘリコプターの生活だったのです。

『おねえさんの部屋の方が広かったかもしれない』

 格納庫の中で、だんだん薄らいでいく記憶をなつかしんで、そう思いました。鳥になればよかったのかなって思ったこともありましたが、きっと鳥は鳥で苦労が多いのさって思うようになっていました。……そう、夢が実現したこぶたくんは、もう夢は見なくなっていたんですね。

 ある日、パイロットを別の飛行場に運ぶというとても簡単な仕事をしました。冬だというのにぽかぽかとあたたかく、飛び慣れたコースをパタパタと飛んでいました。……突然、変な音が自分の中から聞こえました。ローターががくん、がくんと止まったり、動いたりします。コースをはずれ、どんどん高度が下がっていきます。体から油がこぼれているのがわかりました。

『ここは見覚えがある』

 おねえさんが住んでいる街でした。たんぽぽを摘んだ野原が飛び去り、お買い物によくついて行った商店街が真下に見えます。あの部屋に向かって落ちていくのがわかりました。――パイロットはそのすぐそばの小学校の校庭に不時着しようとしましたが、こぶたくんは初めてその指示に逆らいました。

『ぼくはどこまでも飛んで行くんだ』

 電線をかすめるようにしながら、揺れながら飛び、街の外の河原に落ちて、横向けに倒れ、ヘリコプターはすべての機能を終了しました。

 たくさんの人が集まって来て、遠巻きに眺めています。パイロットがころぶように出てきて片手を挙げると、わっと歓声が挙がりました。

「よかったな。無事で」
「うん。よかった。しかし、危なかった。うちなんかすれすれだったぜ」
「うちもそうよ。手を伸ばせば届きそうだったんだから」
「街に落ちてたらって思うと、ぞっとするわ」

 みんなが口々に言う中で、サンダルで走って来たおねえさんだけがぐしゃぐしゃに壊れたヘリコプターをじっと見つめていました。どうしてそれが気になるのか、自分でもよくわからないで。

 

 


 

キャラメルボックス第1話〜不思議なキャラメル

 

 昔々、あるところにルネットという女の子がいました。ルネットは毎日、ガラス瓶の底を並べたような窓を開けて、空想にふけっていました。

 お姫様になってきれいなドレスを着て、舞踏会で王子様と踊ったり、魔法使いになって菜の花畑の上を自由に飛んだり、船乗りになってまだ見たこともない海で冒険をしたり、そんなことを想像して、クレヨンで絵を描いたりしているだけで、あっという間に時間が経ってしまうのでした。クレヨンは女の子の部屋から広い世界に架かる虹のようでした。

 クレヨンの横には鍵がかかる小さな箱がありました。もとはお母さんの宝石箱だったものでしたが、おねだりしてもらったのでした。中にはキャラメルが入っていて、それを知ってる黒猫のメルメルが爪を立てて開けようとしています。メルメルは子猫の頃、街はずれの十字路でみーみー鳴いていたのをルネットに見つけてもらったんです。それ以来、女の子と猫はとってもなかよしでした。

「あーあ。メルメルったらまたそんなことして」
 箱に新しい爪あとがついているのを見て、ルネットはにらみます。猫は知らんぷりして顔をなでています。ルネットもメルメルも甘いものが大好きなんですが、キャラメルはメルメルがいないときにしか食べていなかったのです。なかよしなのにずるいですって? だって、それはお父さんが遠い北の街にお仕事で行ったときに買ってきてくれたもので、?の形に似ためずらしいものだったんですよ。……

 お昼が近いけれど、まだ「お手伝いしなさい」っていうお母さんの声は聞こえません。おなかが空いたルネットは箱を開けて、一つキャラメルを取り出して口に入れようとしました。するとメルメルはにゃあにゃあ鳴きながら、ルネットの顔をペロペロなめ始めました。
「もう仕方ないなぁ」

 口の中でやわらかくなったキャラメルを噛んで半分にして、メルメルにあげました。猫は満足そうに目を細めて、こう言いました。
「ありがと。ルネット」

 ルネットはびっくりしてせっかくのキャラメルを飲み込んでしまいました。
「ど、どうしたの?!」
「あわわ。ぼく人間の言葉しゃべった?」
「……うん。しゃべってるよ。うん」
 ルネットは何回もうなずきました。
「このキャラメルのせいかな? 喉がふわっと広がった感じだから」
「す、すごいよ。お母さんに教えてあげなくちゃ」
「あ、やめた方がいいよ」
「なぜ?」
「メイプル・シロップがこぼれるような気がするんだ」
「なにそれ?」

 ルネットの頭の中が???ってなったときに甘いにおいが下から上がってきました。お昼は大好きなパンケーキです。パンケーキ? まさか……。でも……。
急いで階段を下ったルネットは台所に飛びこんで、「お母さん! 気をつけて!」って叫びました。ところが勢いあまってテーブルにぶつかってしまい……あとはわかりますよね? メイプルシロップを入れたつぼが床に落ちて、がしゃん!

「ルネット! 気をつけなきゃいけないのはあんたでしょ!」
 こっぴどく叱られている女の子のそばで、ゆっくりと台所に入ってきた黒猫は澄ました顔で床のメイプル・シロップをなめています。メルメルのせいで、今日のパンケーキはメイプル・シロップなしになっちゃったって、うらめしく思っていました。

 さてさて、この不思議な猫とキャラメルはこれからどんな事件を引き起こすんでしょうね。まあ、それはゆっくりお話するとして、今日はこれくらいで。……あ、そうそう、言うの忘れてましたけど、ルネットのお部屋って屋根裏部屋で、周り全部がキャラメルのような色の丸太なんです。

 

この童話の挿絵はすべてmissyさんに描いていただきました。

ありがとうございました。

 


 

 キャラメルボックス:第2話〜キツネの親子

 

 今日は、ルネットはお母さんに頼まれて、コットンのバッグを持ってお肉屋さんにお使いに行きました。シチュー肉を750gとハムを500g、それにソーセージが3本です。忘れないように「お肉750g、ハム500g、ソーセージ3本」ってぶつぶつ言いながら歩いて行きます。近所のおばさんに「おはよう、ルネット。お使い?」って訊かれても、本屋のおじさんに「ルネット。今日はいい天気だね」って声を掛けられても、耳に入りません。真っ直ぐ前を向いてずんずん進みます。

 ようやくお肉屋さんに着いてみると人だかりがして、騒がしくなっています。
「まただよ! ソーセージが盗まれちゃったんだ」
「あら、やだ。何本盗まれたの?」
「1本だよ」
「たった1本? おじさん、数え間違えたんじゃないの?」
「そんなことあるもんか。ここんとこ朝になると1本ずつ減ってるんだ」
 みんな腕組みをしたり、顔を見合わせたりします。ルネットもおじさんの横にぶら下がっている大きなソーセージを思わず数えてしまいます。1本、2本……10本かな11本かなと考えていると、おじさんが声を掛けました。

「ルネットちゃん。お使いかい? 今日はなんだい?」
 おじさんが気を取り直して、仕事に戻ったので集まっていた人も離れていきました。

「あ、はい。えっとね。……シチューのお肉が750g、ハムが500g、それからソーセージが……」
「ほいほい。シチューが3/4、ハムが半分だね。ソーセージは何本?」
 量り売りは1キロの半分とか分数で言うことが多いんですね。おじさんはお肉のかたまりを取り出して切り始めました。でも、ルネットはぶら下がったソーセージを数えているうちに何本って言われたのか、わかんなくなってしまいました。

「あれ? 忘れちゃったの?……持ってるおカネを見せてごらん」
 ぎゅって握りしめて汗ばんだコインをおじさんに見せます。
「ふーむ。これだけあれば5本は買えるけど、ルネットちゃんちは4人家族だから1人1本で、4本じゃなかった?」
「うん! そう4本だよ。思い出した」
 あれあれ。確かにレオンくんって弟がいるけど、前に買ったソーセージが1本残っていたから、お母さんは3本って言ったんですけど。

「このソーセージが盗まれたの?」
 自信を取り戻したルネットは持ち前の好奇心を発揮して、おじさんに訊きます。
「そうなんだよ。燻製が終わったらこうやってぶら下げておくと味が濃くなって、おいしいんだよ。それでどうも夜の間に盗られたんだ」
「どっか開いてたの?」
「そんなことはないよ。表も裏のわしらが住んでる方も夜はぴったり戸締りしているしね。誰も入ったりできないはずなんだ」


「どう思う?」
自分のお部屋で肉屋のおじさんから聴いた話をメルメルにしています。
「どうって。ぼくは探偵じゃないから、わかんないよ」
 キャラメルをもらったメルメルはちょっと眠そうに答えます。
「そうだけどさ。不思議だって思わない?」
「さあ。……ソーセージ食べたいね」
「もう! キャラメルあげたんだから、また予言してよ」
「ああ、なんだそういうことか」
「できるんでしょ?」
「キャラメル食べなくても、未来のことはなんとなくわかるよ」
「え? そうなの?」
「うん。動物ならだいたいできるよ。それを言葉で教えてあげられないだけ」
 へえ、動物ってすごいんだ、なぜ人間はわかんないのかなって思いながら、訊きます。
「じゃあ、これから何が起こるの?」
「夜になったらお肉屋さんに行こうって思ってるでしょ? そしたら暗がりで光る目にぼくとルネットは見つめられて、ぼくは気を失ってしまうんだ」
「光る目に見られただけで? だらしないわね。……それじゃわかんないじゃない。それから?」って訊いたとたんお母さんの声が聞こえてきました。
「ルネット! なんでソーセージが4本もあるの? あんたったら……ちょっと降りてきなさい!」
 キャラメルを食べ終わったメルメルがにやっと笑いながら、一声にゃあと鳴きました。


 夜になりました。ルネットとメルメルはそっと家を抜け出して、お肉屋さんに向かいます。夜の街は人通りもなく、しんと静まりかえっています。満月に近い明るいお月さまに照らされて、石畳に長い影が二つ伸びています。

 お店の前まで来ました。厳重に戸締りがされているようで、泥棒が入ることはむずかしそうに見えます。だんだんこわくなって来て、家に帰ろうかとメルメルを見ると、ひげをお店の屋根の方にくいっと向けます。天窓がちょっとだけ開いているみたいです。隣の居酒屋の前の樽にぴょんと乗ったメルメルは二軒の軒先をジグザグに飛び移りながら、あっという間に屋根に登りました。上から見下ろすメルメルは顔をかきながら、『早く来なよ』と言っているようです。ネコって高いところから見下ろすのが好きなんですよね。

 おてんばで、身の軽いルネットですけど、上るのは大変でした。なかなか手が届かなかったり、足元がぐらぐらしてバランスを崩しそうになったりしました。ようやく屋根まで上りましたが、下を見るとあんなところに落ちたらって考えちゃってこわいので、遠くを見ます。様々な形のレンガ色の屋根が重なり合うのを見るのは初めてでした。

 傾斜の強い屋根をメルメルがすたすた歩く後から、よちよち四つんばいで天窓のところまで行きます。ルネットとメルメルがそおっと中をのぞくと……びゅっと黒い影が中から飛び出して行きました。
「わっ。わっ」
 ルネットは足をすべらせて、危うく屋根から落ちそうになりました。メルメルがスカートの裾をくわえて引っ張ってくれたので、なんとか踏みとどまりましたけど。
「あー。こわかった。……今の何?」
 メルメルは『わかんない』と首を振って、『追いかけるよ』と言わんばかりにひげを通りの先に向けます。
「えー?! せっかく上ったのにもう降りるの?」

 ルネットの言葉に頓着しないで、メルメルは上ったときよりも素早くぴょんぴょんと通りまで降りてしまいました。ルネットは……そりゃ上るよりもこわいですから、時間かかりますよね。やっと地面に着いたと思ったら、休む間もくれないでメルメルは駆け出します。それも通りだけじゃなく、近道なのか建物の間の狭いところもさあっと通り抜けるので、ルネットははぐれないようにするのも大変です。

 公園に出ました。恋人たちが腕を組んで散歩したり、お年寄りたちが目を細めながらカフェオレをゆったりと飲んでいる市立公園です。ここももちろん誰もいません。メルメルは木々が生い茂った芝生の中に入っていきます。昼間ならリスが駆け回ったりするのを見かけるのですが、今は暗い森のように見えます。月明かりもまだらで、ちょっとした石ころや倒木に倒れそうになります。メルメルも伏せるようにしてゆっくりと進むようになり、何かがその先にいるのを感じ取っているようです。ルネット自分の鼓動が聞こえそうになるほどドキドキしていました。……

 あっと声を挙げそうになるほど、近くに光る目が暗闇に浮かび上がりました。どきんとして、かえって逃げ出そうにもその二つの目にピンで留められたようになってしまいました。メルメルはイタチのように立ち上がったかと思ったら、ううーんと言いながら気を失ってそこに倒れてしまいました。メルメルを残して逃げられない勇気を出さなきゃと思って、叫びました。
「誰なの?!」

 声を出して落ち着いたような気がしましたが、光る目に敵意の色が強くなったようです。ところが、がさっと音がすると何か小さなものが出てくるとその目はルネットから視線をはずし、それを追います。

 闇に慣れた目を凝らすとそれは子ギツネでした。何か言いたいことがあるようにルネットを見上げるので、いざというときにメルメルがしゃべれるようにとポケットにキャラメルを1個入れておいたのを思い出し、食べさせてあげました。母親なのでしょう、光る目の持ち主がソーセージをくわえたまますっと子ギツネのそばに行きますが、もう敵意はないようでした。

 キャラメルを口に入れると子ギツネはかわいい声で話し始めました。
「ぼく、タンポポの綿毛を追いかけて野原を走っていたら、悪い人間に捕まっちゃったんです。ずっと馬車で連れられていくのをお母さんは追いかけて、この遠い街まで来ちゃったんです」
「かわいそう……」
「それで、なんとか隙を見てぼくを助け出してくれたんですけど、おうちのある森まで帰る元気もなくて、それでここに」
「そっか。食べる物もないからお母さんがソーセージを盗ったのね」
「はい。とってもおいしいから元気になりました」
「よかったね。でも、お肉屋のおじさんは困ってるんだよ。もうしちゃダメってお母さんに言って」
 子ギツネが母キツネに甘えるように何か言うと、母キツネはソーセージを芝生の上に置いて、ぴょこっと頭を下げました。

「夜明け前にこの街から離れたところに行っておいた方がいいから、今から帰ろうって言ってます。おねえさん、キャラメルありがとう。とってもおいしいかったです」
「うん。元気でね。もう悪い人に捕まらないように気をつけて」

 それから親子のキツネは何度も振り返りながら去っていきました。もう見えなくなって、手を振っていたルネットがあたしもおうちに帰ろうと思ったら……いつの間にか目を覚ましたメルメルは、母キツネが置いていったソーセージをちゃっかり食べていたのでした。

 

 


 

キャラメル・ボックス第3話〜旅芸人の親子

 

 今日は、街の中心の広場で旅芸人たちが曲芸をしています。男の人の肩の上で女の人がまるで地面に立っているようにいろんな技を披露します。バレリーナのようにきれいに片足を上げたり、逆立ちしたり……片手で逆立ちすると周りの見物人から大きな拍手が上がります。体にぴったりしたきれいな模様の服にも人の輪のいちばん前で座って見ているルネットはうっとりします。女の人が何回も宙返りしながら落ちてくるのを男の人がお姫様抱っこでふわりと受け止めます。

 おや? ピンクのだぶだぶの服を着たピエロがぴょこぴょこ出てきました。ボウリングのピンのようなクラブで、ジャグリングを始めました。最初は2本でやっていましたが、女の人がからかうように1本、また1本と投げるとあわてたようにそれをキャッチして、でもだんだん高く投げ上げて、上手に4本もジャグリングしています。街でいちばん大きな教会の鐘楼の上の空にくるっ、くるっとクラブが落ちては上がっていきます。口をぽかんと開けて見ているルネットのそばで、『何がおもしろいんだか』って顔をしていたメルメルは居眠りをしています。

「こらー! 誰の許しがあってここでそんなことをしとるんじゃ!」
 大きな声が響きます。みんなが一斉にそちらを向くと、立派なひげを生やしたお巡りさんがのしのし歩いてきます。人垣の近くでクラブを投げ上げていたピエロは驚いてジャグリングをやめます。

「これはこれは、お巡りさん。お勤めご苦労様でございます。わたくしども見てのとおりのしがない旅芸人、みなさま方のお慰みにと、こうして街から街へとお邪魔しておる次第。北の塩辛い魚のあふれる港、南のシトロンの香りかぐわしき農村、東の万年雪を頂いた山里、西の王様のおわします大いなる街。どこでもこうした教会の前の広場にて、天の高みにおわします神様の慈しみとお上の方々のご寛容をいただきまして、拙き芸をばお目にかけておりまする」
 ピエロの口上の間に、さっきの二人も両側に並んで、うやうやしく片ひざをついてお辞儀をします。
 
「何をうじゃうじゃ言っておるんだ! 他の街のことなんぞ知らん。この街ではわしがいかんと言ったら、いかんのだ!」
 サーベルをがちゃがちゃさせながら、怒鳴り散らします。
「ほら! みんなも仕事に戻るんだ。イースターも終わったというのに、こんなところであやしげな芸を見物してるんじゃない!」

 見物人がぶつぶつ言いながら、散っていきます。お巡りさんに見つからないようにそっと旅芸人におカネを渡すおばあさんもいますが、いくらにもならないでしょう。しょんぼりしながら道具を片付け始めます。ピエロの子どもでしょうか、小さな男の子も手伝っています。彼らの背中を見ているとさっきは気づかなかった衣装の汚れやほころびがルネットの目に入りました。……


 その夜のことです。肉屋さんの隣の居酒屋では仕事を終えたお巡りさんの大きな声が響いています。
「そうなんじゃ。わしがその大悪人を見事捕まえたのを領主様もいたくお喜びでな。それでほれ、この金時計をごほうびに下さったというわけさ。……どうだ? すばらしいだろ? わはは!」

 ワイン樽のような体を揺すりながら、ジョッキでぐいぐい赤ワインを空けて、すっかり赤い顔になっています。同じテーブルの鍛冶職人も仕立て屋も、金時計の自慢話はもう何十回となく聞いているのですが、『ほお、それはすごい』とか『お巡りさんがいればわしらも安心というものだ』とか適当に相槌を打っていれば酒代を出してくれるので話を聴いているフリをしていたんですね。

 それから1時間以上も経ってから、上機嫌のお巡りさんが外に出てきました。職人たちがぺこぺこお礼を言うのを手で制しながら、ふらふらと歩いていきました。月はありません。またたく星たちがお巡りさんだいじょうぶかしらと目をぱちくりさせながら、いつになくあやしげな足取りを見つめていました。……

 次の朝は早くから街は大騒ぎでした。
「え? なんだって? お巡りさんが襲われたって?」
「そうなのよ。昨日の夜遅くに花屋のあたりで、後ろから殴られたんですって」
「一体誰が?!」
「お巡りさんが今、探してるわ。頭に包帯をぐるぐる巻いてたって」
「だいじょうぶなの? そんなケガをしてるのに」
「さあ? 『わしの大事な金時計を盗むとはけしからん。なんとしても見つけて懲らしめてやるんだ』ってすごい剣幕なんですって。家にも帰ってないらしいわよ」
「あら! あのご自慢の金時計が盗られちゃったの? それは大変だわ」
 市場のあちらこちらで、おかみさんたちとお店の人が話をしています。お巡りさんが襲われるなんてとみんな不安そうですが、いつも威張ったりしているだけに金時計がなくなったと聞いて、ちょっと口の端で笑っている人もいます。

 お昼過ぎにルネットが学校から帰って来たときも、おうちの前に何人も集まってその話をしていました。
「犯人が捕まったんですって!」
「誰なの?!」
「それがあの旅芸人なんだって言うから、びっくりするじゃない? 宿屋にいるところをさっき見つかって、お巡りさんに連れて行かれたのよ」
「あの人たちが? 昨日、広場から追い出されたからって、そんなことするようには……」
「そうなんだけど、なんでもお巡りさんが襲われたところにあの、なんていうの? 放り投げるやつ」
「えっと、クラブ?」
「そうそう、それが落ちてたらしいの」
 街の人たちは昨日の一件では旅芸人に同情していたのですが、はっきりとした証拠があるんじゃしょうがない、でも、どうしてそんなことを……そんなことを思いながら、みんな顔を見合わせています。それを聞いていたルネットもどきどきして、胸がつぶれてしまいそうになりました。黙って重い足取りで自分のお部屋に上がって行きます。

 ルネットはカバンをベッドに放り出したまま、机にひじを突いて、窓の外を眺めながらぼんやり考えていましたが、ふと思いついたようにキャラメルを箱から出して、床で自分の影と遊んでいたメルメルにあげました。
「なに考え込んでたの?」
「あたしにはどうしてもあの旅芸人さんたちが悪いことをするように思えないのよ」
「人は見かけによらないって言うからね。ネコと違って服を着たり、お化粧したりするし」
「でも、大事なクラブでお巡りさんを殴ったりしないわ。それを放り出して逃げちゃうなんて」
「ふむ。……それで?」
「ね? メルメル、手を貸して。昨日の晩に何があったのか教えて」
「あのさ、これから起こることは見えても、昨日の夜に誰がお巡りさんを殴ったかなんてわかんないよ。そんなにあの人たちのことが心配なら、ネコの手を借りる前に自分で考えるんだね」
「……いじわる!」
 メルメルはそっぽを向いて、窓からぴょんと屋根の上に乗って、お散歩に出かけてしまいました。

 

 

 さて、メルメルも手伝ってくれないので、仕方なくルネットは旅芸人たちが無実だという手がかりを求めて、一人であちこち訪ね歩きました。お巡りさんが襲われた花屋さんに行くと、春の花がたくさん並んでいます。パンジー、チューリップ、マーガレット……色とりどりの花に見とれてしまいます。

「ルネットちゃん、どうだいきれいだろ? お安くしておくよ」
 花屋のおじさんに声を掛けられて、はっと気がつきました。
「昨日の夜、おじさんは何か気がついたことない?」
「ああ、そのことかい。いや、いろんな人に訊かれるけど、昨日はぐっすり眠っていたからね。うちの女房もそんな物音は聞こえなかったって言うんだよ」

 花屋さんの周りのお店や家にも訊いてみましたが、事件のことは誰も知りません。お巡りさんが飲んでいた居酒屋まで、足取りを逆にたどりながら訊いていきますが、手がかりになるような話は聞けませんでした。居酒屋のおじさんにも訊いてみました。

「うーん。お巡りさんは職人たちと飲んで、ずいぶん酔っぱらって帰ったねぇ。でも、それもいつものことで、別にふだんと変わりなかったよ」
「後をつけたような人とか見ませんでした?」
 ルネットはいっぱしの探偵のようなことを訊きます。
「見なかったね」
「そうですか……」
「いろんなところで訊いているんだね。あ、そうだ。旅芸人の泊まっていた宿屋にいってみたらどうだい? 何かわかるかもしれないよ」

 ルネットは居酒屋のおじさんの言うとおり宿屋に行ってみました。宿屋のおじさんはお巡りさんに散々訊かれたみたいで、ルネットの質問にもうんざりした様子でした。
「だから、何にも知らないって言ってるんだ。あの旅芸人たちだっておかしな素振りはなかったよ。……そりゃあ、お巡りさんが殴られた時間にあの人たちがうちにいたかどうかなんてわかんないさ。子どもはずっといたって言ってるけどね」
「子どもって、あの旅芸人のですか?」
 ルネットは広場の片づけを手伝っていた小さな男の子の姿を思い出しました。
「そうだよ。なんだったら自分で訊いてみたらいいよ」
「まだ、ここにいるんですか?」
「親たちが捕まったからって、追い出すわけにもいかないじゃないか」

 ルネットは台所のわきの窓もない小さな部屋に案内されました。男の子はひざを抱えて、じっと床を見ていました。
「こんにちは。あたしルネット。お父さんたちがお巡りさんを殴ったって……」
「お父さんも、お母さんも、叔父さんもそんなことをする人じゃないよ!」
「うん。あたしもそう思うの。……そうか、あの人たちって君のお父さんとお母さんと叔父さんなんだ。すごく上手だよね。あたしすっかり夢中になったよ」
「お父さんたちは国でいちばん上手なんだから。……ううん。世界中でいちばんだよ」
「そうだね。……だから、またお父さんたちが無実だっていう証拠を探しているの」
「お巡りさんが見せてくれたあのクラブは違うんだよ」
「それってお巡りさんが殴られた場所に落ちてたクラブのこと?……違うって、お父さんたちのじゃないの?」
「あれは古いのなんだ。ぼくが練習するためにお父さんがくれたんだよ。もう1個はここにあるよ」
「そのことお巡りさんに言ったの?」
「言ったけど、『古かろうが新しかろうがおまえらのものに間違いないんだろ?』って言うだけで、それ以上訊いてくれないで、お父さんたちを連れてってしまったんだ」
「うん。それで?」
 ルネットは何か洞くつの先に光が見えてきたような気がしました。
「昨日の昼にこの前の道でジャグリングの練習をしていたら、手がすべって知らないおばさんのお尻に当たっちゃったんだ。おばさん怒っちゃって、取り上げられたの」
「その人って誰?」
「知らない。でも、『これであの酔っ払い亭主をやっつけてやるから。そしたら、明日には返してあげるよ』って」
 ルネットは声を挙げそうになりました。その子を置いて宿屋から飛び出し、お巡りさんの家に走って行きました。

「おばさん、こんにちは」
「おや。ルネットちゃんじゃないか。どうしたの、そんなに急いで」
 息をはあはあ弾ませながら、訊きます。
「おばさん、クラブどこにあるの?」
「クラブ? なんだいそれ」
「あの旅芸人の人たちが使ってた。空高く投げ上げて……」
「ああ、あれかい? 昨日の夜から見当たらないんだよ。あの子に返さなきゃいけないのに困ってるんだよ」
「どこかで落としたりしてない? 花屋さんのところとか」
「おや? あたしが昨日の夜、そこに行ったのをなんで知ってるの?」
 わくわくしたルネットはそれには答えずにいちばん知りたいことを訊きました。
「そしたら、金時計がどこにあるか知らない?」
「金時計? それなら、ここにあるよ」
 お巡りさんのおかみさんは、エプロンのポケットから鎖のついた金時計を取り出しました。
「あそこで、飲んだくれてぐうぐう寝てるもんだから、懲らしめてやろうと思って、持って来たんだよ。……今日はまだ帰って来ないところを見ると探してるのかね」
「おばさん! いっしょに来て!」

 おかみさんの手を引っ張って、警察署に向かいます。道々今朝からの街の大騒ぎのことを話します。そのたびにおかみさんは「あら、まあ、そんなことになってるなんて知らなかったわ。ずっと家にいたから」とか「クラブでお尻の一つも引っぱたいてやろうと思ったんだよ」とか「あの子には悪いことしちゃったわね」とか言っていました。……

 それから、警察署で起こったことはみなさんも想像がつくでしょう。お巡りさんもおかみさんも頭をかきながら、牢屋に放り込まれていた旅芸人に謝ります。実はお巡りさんは殴られたのではなくて、夜明け近くに起き上がった拍子に頭を地面にぶつけたのでした。
「ホントにあんたはそそっかしいんだから、これに懲りてお酒もほどほどにするんだね」
「おまえだって、人の物をむやみに持って行ったりするんじゃない。ましてやそれで亭主をぶとうとするなんて」
 それを聞いていた署長さんも旅芸人たちもほがらかに笑います。

 次の日のことです。広場では旅芸人が前にもまして見事な曲芸を繰り広げています。お巡りさんとおかみさんの隣にはあの男の子がいて、楽しそうに話をしています。お父さんのピエロが赤いハンカチを広げ、くるくるっと回すと、なんと大きなペロペロキャンディが出てきました。それをルネットのところに持って来て、うやうやしく差し出します。それを見ていたメルメルが「にゃあ」と鳴くと、指の間から小さな飴玉が現われます。素早くピエロの肩に乗ったメルメルに観客はこれも曲芸と思って、拍手喝さいが湧き起こりました。……『メルメルは今回は何もしてないのに』とルネットはキャンディをなめながら思いました。

 


 

キャラメルボックス第4話〜古代の遺跡

 

 今日は、ルネットは友だちとピクニックに出かけました。もちろんメルメルも一緒です。街を出て街道を行くと次第に見渡す限りの草原が広がっていきます。赤や黄色のお花が咲いているところを見つけてると、女の子たちは歓声を挙げて花を摘み、ブーケやネックレスを作ります。男の子たちは取っ組み合いをしてごろごろ転がっていったりします。メルメルはルネットがかぶせてくれた冠をちょっとうるさそうにしながら、蝶を追いかけたりしていました。

 取っ組み合いにも飽きた男の子たちが言います。
「ねえ。あの森の中を探検してみようよ」
「あの森は深いから行っちゃダメって言われてるじゃない。森の精がいて、かわいい子を捕まえて帰さないようにしちゃうって」
「これだけいればだいじょうぶさ。ちょっと行ってみるだけだから。……それともおまえら、森の精に気に入られるほどかわいいなんて、思ってんの?」
「なにさ!そんなことないわよ」
 そんなふうに言われては女の子たちも付き合わざるを得ません。

 森の中はほの暗く、湿った枯葉のにおいがします。道は何回か枝分かれして行くたびにだんだん細くなって、木の根っこが歩くのに邪魔になってきます。
「分かれ道にはこうやって、目印をつけておくのさ」といちばん元気な男の子が小さなナイフで星型の印を木の幹につけていきます。冒険物語の主人公になったような気分だったのでしょうけど、それもだんだん小さく、浅い彫り方になっていきます。威勢よく歩いていた男の子たちも女の子たちと歩調を合わせて、固まって歩くようになっていました。誰かのおなかがぐーっと鳴ります。まだお昼も食べてないんですね。

 すっかり下草に覆われていたので気づかなかったんですが、いつの間にか道は石畳の真っ直ぐな道になっていました。深い森の中のとても古い石畳の道。街道とはつながっていない場所なのに一体誰が造ったんでしょう。……行く手がだんだん開けてきました。森が突然終わって、彫刻を施した大きな石柱が何本も立ち並んだ場所に出ました。そこだけぽっかりと広場のようになっていて、まぶしいくらい陽の光がふりそそいでいます。不安になっていた子どもたちはいっぺんで元気を取り戻しました。わあっと歓声を挙げて石柱の方に走って行きます。近寄ってみると大理石の階段もあるし、水盤のようなものもあります。

「すげえ。これって古い時代のえっと……」
「遺跡よ!何千年も前の!」
 まるでカーテンを肩からかけたような衣装の貴族がきれいな肩の出たドレスを着た貴婦人を連れて歩いているところや鎧兜を身に付けた軍人が馬から颯爽と降りてくるところを想像しました。……
「姫。今日はことのほかうるわしいご機嫌で」
「おほほ。今宵は楽しい舞踏会ですもの」
「た、大変です! 蛮族が我らが領地内に侵入してまいりました!」
 そんなお芝居で笑い合いながら、バスケットからサンドウィッチとお茶を取り出してお昼にします。ルネットは、お母さんと一緒に作ったハムとチーズとトマトのサンドウィッチをメルメルと食べながら、お姫様よりも戦場を駆け回る騎士の方がおもしろそうだなって思っていました。

 お昼が終わってからかくれんぼをすることになりました。倒れた柱の陰や鬱蒼とした草むらに隠れます。何回かオニが代わって、ルネットはもっと見つけにくいところを探して森の方に歩いて行きました。メルメルがスカートの裾を引っ張りますが、「だいじょうぶよ」と言って、道から離れていきました。……

 すとん! ルネットは一体何が起きたのかすぐにはわかりませんでした。足の置くところがすっとなくなったかと思ったら、目の前が暗くなって、どすん! お尻を打ってしまって、あわてて上を見上げるとまあるい小さな空が見えます。
「メルメル!」と呼ぶとそおっと顔がのぞきます。どうやら井戸のような穴に落っこちてしまったようです。失敗、失敗って、照れ笑いしながら、上ろうとしますが、じっとり湿った壁には手や足を乗せるような場所はありません。何度やってもじきにつるっとすべって落ちてしまいます。穴はルネットが手足を伸ばしたよりはずっと大きくて、突っ張って上っていくこともできません。

「みんな! 助けて!」とか「かくれんぼじゃないの。穴に落っこちてしまったの!」って叫びますが、いくら待ってもみんなは来てくれません。メルメルもみんなを探しに広場に行きましたが、ずいぶん経ってから、首を悲しげに振りながら戻って来ました。そう、友だちはてっきりルネットが一人で先に帰ったものだと思って、そこを引き揚げてしまったのです。……だんだんルネットは自分がとんでもないことになっていることがわかってきました。この穴から出られなくて、誰も助けに来てくれないと喉が渇いて、おなかがすいて、しまいには死んでしまう。死んじゃっても誰にも見つけてもらえない。絵本の挿絵にあった牢屋の中で骸骨になった人みたいになっちゃう。……そんなことを想像すると、さみしくて、悲しくて、しくしく泣き出してしまいました。ルネットを励ますようにメルメルは「にゃあ、にゃあ」といつになく強く鳴きます。

 泣き疲れてルネットは少し眠り、夢を見ました。ルネットがお姫様で、悪い継母の差し金でお城の地下牢に閉じ込められていました。すると騎士になったメルメルがそっとやって来て言いました。
「お姫様、希望を捨ててはいけません。わたしがきっとお助けしますから」
「メルメル、あなただけが頼りです」
ルネットは本当は『あたしが騎士になりたかったのに』って、思っていたんですけどね。
「はい、お任せください。ただ、お姫様のその……愛をいただければわたしも一層がんばれるのですが」
「あら、それってキスしてほしいってこと?」
「いえ、そんなのよりキャラメルが」

 そこで、目が覚めました。もう夕暮れがせまっていました。ああ、やっぱりこんな穴の中にいるんだと悲しかったのですが、ポケットにキャラメルが一つあるのに気づきました。
「メルメル! 受け止めて!」と叫んで、キャラメルを心配そうに見ているメルメルに向かって思いきり投げ上げました。ころん、ころん。穴の上まで届かないで戻って来ました。でも、夢の中のメルメルの言葉を思い出して、何度も何度も投げます。からん、からん。そんないじわるな音が何回続いたでしょう。すうっとキャラメルが消えて、音がしなかったと思ったら、メルメルの声が聞えました。
「ルネット、よくがんばったね。もうだいじょうぶ。待ってて」
そう言うと、メルメルは身を翻して、駆けて行きました。まるで本物の騎士のように素早く走って行きます。すっかり日が暮れていましたが、メルメルは迷うことなく森の出口を目指します。すると遠くの方でたいまつがいくつか見えてきました。

 街に戻った友だちは、ルネットが戻っていないことを知ると親たちにそのことを告げました。ルネットのお父さんを先頭に捜索隊が編成されて、森まで来たのでした。メルメルはネコがしゃべったりしたらみんなびっくりしてしまうし、気味悪がられてルネットの家にいれなくなるかもしれないと思いました。……木に登って、大人たちの掲げるたいまつがすぐそばまで来るのを待ちます。

「おまえらは何者じゃ」
 無理に低い声を出します。大人たちは驚いて立ち止まります。
「ここは森の精が支配するところ、こんな夜に大勢来るとは何ごとじゃ」
「こ、これは森の精でしたか。実はわたしの娘のルネットがこの森で迷っております。どうかお返しください。お願いでございます」
 いつもメルメルのことを『ねずみ一匹捕らないで、役立たずだ』とけなしているお父さんがうやうやしく答えるので、おかしくなってしまいます。
「ふぉふぉ、今度だけは許してやろう。娘ならあちらにおる。ついて来るがいい。しかし、わしの姿をそのたいまつで照らしたりすれば娘は戻らんからな」

 メルメルは木の枝から枝に飛び移りながら、案内します。大人たちは本当に森の精がいたんだとすっかり信じ込んでついて行きます。
「さあ、そこに深い穴がある。その中に娘はおる。気をつけんとおまえたちも落ちてしまうぞ」

 キャラメルが全部溶けて口の中から消えてしまう寸前にメルメルはそう言いました。……こうして、ルネットはロープにつかまって引き上げてもらうことができました。すっかり身体が冷えてしまい、寒さに震えていたルネットにあたたかいスープが差し出されました。何食わぬ顔で現われてルネットのひざに乗ったメルメルに小さな声で「メルメル、ありがとう」と言って、二人でスープをふうふう言いながら食べました。

 

 


 

キャラメル・ボックス第5話〜レオン

 

 

 何日も雨が降り続いています。春とは言え、冷たい雨が窓をぬらし、下の通りを行き交う傘もまばらです。外に出ることも、友だちと遊ぶこともずっとできないでいるルネットはちょっとご機嫌ななめです。

「お姉ちゃん。トランプしない?」
 弟のレオンくんが部屋に来ても、
「いやよ。あんた負けるとすぐ泣くから」って、相手にしません。
「泣かないよ。一回でいいからさ。いいじゃない。ね?……」
「ほら、もう泣き出してるじゃない」
 メルメルのぷにぷにした足をいじりながら、窓の方を向いてしまいます。
「泣いてないもん。なんだよ、ケチ!」
レオンくんは泣きべそをかきながら、出て行きます。メルメルもルネットの手の甲をひっかくと、トンっと床に降りてレオンくんの後を追います。

 よけいに退屈になったルネットは絵を描くことにしました。この前のピクニックの絵です。古代の遺跡をグレーのクレヨンで、周りの森を深みどりのクレヨンで、みんなで青空の下でお弁当を食べているところを……あれ? 青のクレヨンが見つかりません。せっかくこの雨の気分を晴らそうとしてるのに青空が描けないなんて。さては……

「レオン! レオン!」
 ドアを開けて、下に向かって弟を呼びます。
「なあに? お姉ちゃん」
「あんた、あたしのクレヨンまた使ったでしょ? ちょっと来なさい!」
 おそるおそる階段を上がってきたレオンくんは、落ち着かない様子でメルメルを抱きしめています。
「青のクレヨンがないのよ。あんたって自分の顔だって、船や飛行機だって、なんだって青で描くじゃない。どこにやったの?」
「知らないよ。使ってないよ」
 レオンくんは『昨日の昨日、お姉ちゃんがいないときに使ったけど、ちゃんと返したよね』って思いながら、下を向いています。
「ちょっとお姉ちゃんの目を見なさい! 怒らないから正直に言いなさい!」
ルネットちゃん、その言い方っていつもお母さんに言われてるのと同じだね。怒らないからって言いながら、もう怒ってるところまで。
「知らないよ。ちゃんと返したよ」
「ほら! やっぱり使ったんだ。ホントにあんたって子は。……探してよ! 今すぐ」
 ぷんぷん怒って、とうとう泣き出したレオンくんからメルメルを取り上げて、バタンとドアを閉めました。

 もう絵を描く気も失せてしまったルネットは、ベッドに横たわってメルメルの背中を撫でています。『あの子ってすぐに物をなくしちゃうんだから。ちょっとベッドの下を見れば見つかる靴下だって探せないんだもん』そんなことを考えながら自分のベッドの下をのぞき込みますが、もちろんそんなところにクレヨンはありません。少し気持ちが納まって、キャラメルをメルメルと食べることにしました。……

「ね? どこにあるの?」
「さあ、この家の中にあるんじゃない?」
「そんなのわかってるってば」
「じゃあ、探せばいいじゃない?」
「それが大変だから訊いてるのに……最近、予言してくれないのね」
「ん。……クレヨンは見つかるぞよ。ちゃんと探せばな」
 メルメルは森の精の声を出して、ゆっくりと部屋から出て行きました。

 ルネットはお母さんからシチューに入れるマッシュルームを買ってきてくれと頼まれました。雨の中をお使いに行くのはいやだったんですが、マッシュルームの入っていないシチューなんてもっといやなので仕方ありません。赤い長靴を履いて、赤い傘をさして出かけました。レオンくんはまだクレヨンを探しています。おもちゃ箱をひっくり返して探しました。ちょっと積み木でお城を作ったりしましたけどね。居間のあちこちも探しました。棚の上のくるみ割りの兵隊で戦争ごっこをしましたけどね。……どうしても見つからないんです。

 するとメルメルがレオンくんのズボンの裾を引っ張ります。
「どうしたの? ぼくはいそがしいんだけど」
 でも、メルメルがにやっと笑ったような気がしたので、後をついて行きました。台所に入ると食器棚の裏を首をかしげるように見て、「にゃあ」と鳴きました。レオンくんがつられて覗いて見ると……ぼんやりと棒のようなものが見えるじゃないですか!
 
「あった! すごいや、メルメル!」
 大喜びで床にしゃがんで手を伸ばしますが、ずっと奥の方にあるので、レオンくんの小さな手でもなかなか届きません。もうちょっと。肩に食器棚の角が当たって痛いです。でも、お姉ちゃんの大事なクレヨンを取らないと。指先に触れます。確かにクレヨンです。かえって奥の方に転がりそうです。……ああ、どうしよう。手を引っ込めて、床にお尻をつけて座り込んでしまいます。メルメルはお行儀よく座って、レオンくんを見つめています。

 がんばらなくっちゃ。大きく息を吸って、食器棚に顔をくっつけ、腕をいっぱいに伸ばして……やった! 指に触れると同時に爪でひっかいて、こっちに引き寄せます。まるでネコがそうするように。暗がりから青いクレヨンが出てきました。

「ただいま」
ルネットが帰って来ました。
「お姉ちゃん。あったよ。ほら!」
 クレヨンを持って、うれしそうに自分を見たレオンくんを見て、ルネットははっとしました。昨日、お留守番をしているときに台所でお絵描きをしていたことを思い出したのです。あのときクレヨンが落ちたのに気づかないで、全部揃っているかよく確かめないで片付けてしまったんです。だのにこの子は腕をほこりだらけにして、顔に食器棚の跡までつけて……

「レオン。ごめんね」
 ぎゅっと弟を抱きしめました。
「どうしたの?」
「あたしが探さないといけなかったのに。……疑って本当にごめん」
「見つかってよかったね。メルメルが教えてくれたんだよ」
「うんうん。ごほうび上げなくちゃね」
 メルメルが片目を細めてるのを見て、ルネットはわかってたんだって思いました。
「ぼく、ガムを持ってるよ」
 レオンくんはポケットのガムをメルメルに上げました。メルメルはちょっと変な顔をしながら、噛み始めました。
「ね。トランプしようか?」
「いいの?……でも、お絵かきしようよ?」
仲直りをした二人は屋根裏部屋でクレヨンを半分に折って、青空と青い船を描き始めました。

「ふぎゃ」
 変な声が窓辺から聞こえたので見上げると、メルメルが顔いっぱいねばねばとくっついたガムと格闘していました。
「あはは。メルメルったら」
「あ、ほら。お姉ちゃん、虹が見えるよ」
 陽が差してきて、もうすぐ雨もあがりそうです。


 


 

キャラメルボックス第6話〜お菓子のウサギ

 

 

 今日は初夏を思わせるようなさわやかなお天気なので、ルネットはメルメルとお散歩に出かけました。街でいちばんにぎやかな通りにはきれいなショーウィンドウが並んでいます。
「見て見て、あのドレス。とってもかわいいレースがついて、色も素敵ね。着てみたいなあ……」
 顔をくっつけるようにしていつまでも見てるので、退屈しちゃったメルメルはルネットのすねに脚をかけて、『早く行こうよ』って催促します。本屋さんの前では、
「ほら、新しい絵本が出てるよ。『お話しする猫とお転婆娘』だって、どんなのかしら」としばらく眺めたり、大きな花瓶や繊細な模様のティカップを売っている陶器のお店では、
「お花畑みたいだよね。あれでティパーティをしてみたいなあ」とうっとりしています。

 でも、何より二人、じゃなかった一人と一匹が見とれてしまったのは、お菓子屋さんのショーウィンドウでした。チョコレートのお城や大きなケーキが丸ごといくつも並べてあって、その前にはマジパンで作ったとてもかわいい動物が並んでいたんです。マジパンって、みなさんご存知ですか? アーモンドの粉とシロップを練ったお菓子で、いろんな色をつけて粘土みたいにいろんなものができるんですよ。『女の子に付き合うのって疲れるね』って顔をしてたメルメルもしげしげと眺めています。

「あのお城の窓とか細かいところまでよくできてるなあ。食べるの惜しいよね。……あんな大きなケーキ一人で食べてみたいね。でも、ちょっと無理かな。太っちゃうと困るし、メルメルにもちょっと分けてあげるね」
 ルネットちゃん、買ったわけでもないのに話がどんどん先に進んでるんですけど。「あのネコってメルメルにちょっと似てない? 色は違うけど、気取ったポーズ取ってるところなんかさ?」
メルメルはちょっと振り返り、首を振って、『似てないよ』って表情で他のマジパンの動物を見ています。どうもかわいいウサギを見ているような。……
「あのウサギが好きなの? そうなんだ。あれくらいならあたしのお小遣いでも買えるかも。……今はおカネ持ってきてないけど、明日買ってあげるね」
 メルメルはうれしそうにルネットのすねにほおをすり寄せて、『にゃあ』と甘い鳴き声を出しました。

 次の日、学校から帰ったルネットはメルメルにマジパンのウサギを買ってあげるために出かけました。お店に行く途中に、この前いっしょに森の中に遊びに行った友だちに会いました。
「ルネット、ちょうどよかったわ。あたしの家でトランプするんだけど、人数が足りないのよ。来ない?」
「今から、お菓子屋さんに行くのよ。その後だったら……」
「お菓子屋さんなら、あたしの家の向こうじゃない。後でもいいんでしょ?」
 それもそうかなって思って、ルネットは友だちの家でトランプをすることになりました。……

「あれ? もうこんな時間、すっかり遅くなっちゃった。あたし帰るね」
 トランプに夢中になっているうちに外は夕方になってしまいました。あわてて友だちの家を出て、お菓子屋さんに急ぎ足で向かいます。お店に近づくにつれてだんだんルネットは走り始めていました。空が暗くなり始めていたので、お菓子屋さんのショーウィンドウは遠くからでもきらきら輝いて見えます。それを目指して走って行くと、大きなシャンデリアのように見えて来ます。親子連れとぶつかりそうになって、あわててぴょんとよけたりします。

 やっとお店に着きました。ところが……どうしたことでしょう。あのウサギだけがなく、白いクロスが少しだけ空いています。いくら目を凝らして隅々まで見てもありません。ルネットには他の動物たちがなぜそこに小さな隙間があるのか知らんぷりしているように思えます。思いきって重いドアを開けて中に入ります。
「いらっしゃい」
「あの、あそこにあったウサギなんですけど」
「ああ、たった今、売れました」
 お菓子屋さんのご主人はにこにこしながら言いました。
「え?!」
「ほんの少し前ですよ。小さな坊ちゃんが気に入って」
「……同じものはないんですか?」
「作ってないですね。まあ、あれはわたしの楽しみみたいなものなんで。……他のじゃダメですか? ネコなんて、けっこう自慢なんですがね」
 その言葉を聞きながら、『失礼します』ってあいさつするのも忘れてルネットは外に出ました。どうしよう。メルメルになんて言えばいいんだろう。友だちの家で遊んだりする前に行けばよかったんだ。ルネットは悔やみました。どうしたらいいか途方にくれました。……あれこれ言い訳を考えているうちに、最初から売りきれてたってウソついちゃおかなって、ちょっと思いましたが、メルメルの目を思い出すとそんなことを考えた自分が恥ずかしくなりました。とぼとぼ歩いているのに、考えがどうどう巡りしているからなのか、思いのほか早く家に着いてしまいました。

「ただいま……」
小さな声でそう言うと、そのまま自分の部屋に上がります。後をついてきたメルメルにキャラメルをあげます。
「メルメル、ごめん」
「どうしたの? 忘れちゃったの?」
 ルネットはつっかえ、つっかえ、今日のことを話しました。メルメルは小首をかしげながら黙っていましたが、最後まで聴くと、
「そう。仕方ないよね」とつぶやくように言うと、開いた窓からすっと外に出て行きました。いちばんの友だちだと思っていたのに、約束が破られてショックだというメルメルの気持ちが目に見えるようにわかって、涙があふれてきました。

 メルメルは帰って来ませんでした。朝になっても、その日のお昼を過ぎて、おやつの時間になっても。気まぐれにいなくなることは時々あってご飯の時間にいないこともありますが、おやつの時間には必ず部屋でルネットといっしょにいて、おしゃべりしたり、ふざけあったりしてたのに。……朝から、気になって仕方なかったルネットはとうとう決心したように外に出かけました。

「こんにちは」
「いらっしゃい。……おや? 昨日のお嬢ちゃんだね」
「すみません。ウサギを作ってもらえませんか?」
「え? いや、それは昨日も説明したように」
「でも、ウサギがないとダメなんです。メルメルがいなくなっちゃったんです」
「えっと、よくわからないね。……ちゃんと話してごらん」
 ルネットは落ち着いてと自分に言い聞かせながら、唾を飲み込んでから話を始めます。お菓子屋さんのご主人はひざに手を当てて、腰をかがめながら時々うなずいています。……

 それから、しばらくしてこの街の人たちは、紙袋を持ったルネットがあちこちでメルメルを探しているのを見かけました。
「すみません。メルメル知りませんか? 黒い小さなネコなんですけど」
 そう訊かれた人たちの答は「さあ、見かけなかったね」だったり、「黒ネコねえ。さっきあの路地を横切ったような気がするよ」だったり、「うちにいっぱいいるよ。一匹あげようか?」だったりしました。……ルネットは手がかりらしいものを聞くたびに行ったり来たりします。また陽が暮れていきます。
「どうしよう」
 ため息といっしょにそんな言葉が思わず口をついて出ました。ううん。どうしようじゃない。ルネットは首を振ります。どうしてもメルメルを探すの。この街のどこかにいるから。あたしから逃げたけど、あたしが探しに来るのをきっと待ってるんだから。だって、あたしたちは友だちだから。……

 市立公園の前に出ました。キツネの親子をここで見つけたのを思い出しました。薄暗い公園に入って行くのはこわかったんですが、何かひらめくものがありました。きっとこの辺だったって思って、目を凝らしていると……いました! 木の下で、草の上に丸くなって寝ています。声はかけずにそっと横に座ります。ねえ、メルメル。ルネットは心の中で語りかけます。あたしはもう約束を破ったりしないから、出て行ったりしないで。あたしたちずっといっしょにいようね。ずっと、ずっと友だちでいようね。……

 ふと気づくと紙袋がかさかさと音を立てています。いつの間にか目を覚ましたメルメルがマジパンのにおいを嗅ぎつけて、開けようとしているのです。
「あはは。今開けてあげるから」
 ところがあったかい中を持ち歩いて、しかも無意識にルネットが握りしめたりしたせいでしょうか、ウサギの耳がひしゃげていました。
「あー、ごめん。こんなになっちゃって」
 するともうその耳にかじりついていたメルメルはこう言いました。
「いいよ。この方が食べるのに惜しくないしね。……あれ? ぼく今しゃべってる?」
「うん。ちょっと材料が足りないなっておじさんが言うから、キャラメルを足したの」「ふふ。そっか。キャラメルウサギもおいしいね。ルネットも食べなよ」
「うん。食べながら帰ろ。お母さんが心配しちゃうから」
一人と一匹は一番星に見守られながら、おうちに帰りました。

 


 

キャラメルボックス第7話〜さよなら、メルメル

 

 ある日のことです。学校から帰ってきたルネットがキャラメルを食べようと箱を空けるとあと1個しかないことに気づきました。このキャラメルってお父さんが遠い北の街にお仕事で行ったときに買ってきてくれたもので、?の形をしためずらしいものだったんです。みなさん、覚えてました? 
「ねえねえ、また北の街にお仕事に行ったりしないの?」
 ちょうど家で本を読んでいたお父さんに訊きました。
「うん?……ああ、来週には行くことになりそうだよ。ははん。今度は何を買ってきてほしいんだい?」
「またあのキャラメルがいいな。だって、メルメルが……」
「ん? メルメルがどうしたんだ?」
 ルネットはしまったと思いました。猫にキャラメルをあげてるなんて言ったらお説教されるに決まってますし、ましてやそれをなめると人間の言葉をしゃべるだなんて……
「ううん。メルメルどこに行ったのかなって。……探してたら、お父さんがいたからお願いしとこうって思って」
 あわててごまかします。
「そこにいるじゃないか」
「にゃあ」
 いつの間にかメルメルはすぐそばにいて、ルネットだけに見える方の目でウィンクしました。
「あ、ホントだ。……で、買ってきてくれる?」
「いいよ。いつまでも子どもっぽいんだな」
 だって、きれいな洋服やかわいいお人形もほしいけど、メルメルとお話できなくなっちゃうと困るもんって思いました。

 それから少し経って、ルネットとメルメルは通りを歩いていました。
「今日は、いいお天気だね。……ね? メルメルと会った街はずれの十字路まで行ってみない?」
「うん、いいよ。ずっと行ってないもんね」
 メルメルはルネットにだけ聞こえるように返事をします。お父さんが約束してくれて、すっかり安心したルネットは最後の1個をメルメルと分けて、なめながら散歩しているんです。本当に今日は澄みきった青空で、あくびをすると喉の奥まで明るくなりそうです。自然と軽やかな歩き方になります。
ところがそのとき、キキッーと大きな音がしたかと思うと、
「危ない! ルネット!」とメルメルが叫びました。と同時に何かやわらかいものが横腹にぶつかり、ルネットはびっくりして飛びのきました。そのすぐ前を灰色のトラックが突然現われて停まりました。青い空を小さな黒いものが横切って、ゆっくり落ちていきます。
「メルメル!」
 石畳に叩きつけられたメルメルは動きません。なんだか縮こまったように見えます。いつもなら高いところから落ちても、しゃんと立ってすましているのに。……人が集まって来ます。トラックの運転手が降りてきて、鳥打帽を脱いでしょんぼりしています。明け方までかかって木の人形を作っていて、それをおもちゃ屋さんに届けた帰りだったんです。ついうとうとしてしまって……はっと気がつくと女の子が目の前に迫っていました。あわててブレーキを踏むと猫が女の子にぶつかって、猫が代わりにぶつかって来た。そういうことを周りの人に青ざめた顔で説明します。
「メルメル! メルメル! 死んじゃやだ」
 ルネットは泣きながらそう言って、しゃがみ込んでメルメルを抱きしめます。周りの大人たちの言葉なんか耳に入りません。
「不思議なんだ。『危ない!』ってどこかから聞こえたんだ。それにあの猫はぶつかる直前におれの目を見たんだ。……なんて言えばいいのか。おれの頭の後ろを見てるような目だった」
 お使いに行ったりする果物屋のおばさんが駆け寄ります。
「あんた! どこ見て運転してんのよ! ルネットちゃん、ケガはない? うん、猫ちゃんがね。……あたしがとっても腕のいい獣医さんに連れて行ってあげるから」
 肩を抱かれるようにして、獣医さんのところに向かいます。人の輪が散らかっていきます。

 立派なひげの獣医さんが診察を終わって、手を消毒液で洗いながら看護婦さんに指示をしています。
「先生、メルメルはだいじょうぶですか?」
 獣医さんはメルメルの顔をじっと見てから、ゆっくりと言いました。
「ふむ。ひどくぶつけているからね。手当てはしたんだが」
 その言葉でルネットはまた涙ぐんでいます。獣医さんは大きなイスに座ってひげをいじりながら続けます。
「ふむ。今夜がヤマだろうね」
「ヤマってなんですか?……もしかしてメルメルが」
「ふむ。今はわからないってことだよ」
「そんな。先生は治してくれないんですか?」
「ルネットちゃん。すべては神様がお決めになることなんだよ」
 見かねて、そばについていたおばさんが言いました。
「ふむ。大事な友だちなんだね?」
「はい。いちばんの友だちです」
 それを聞くと獣医さんはおや?という表情を浮かべました。動物をかわいがるお年寄りとかはたくさん来るんですが、家族とか友だちの代わりにしているだけで、動物の都合は関係ないような人が多いのに、この子はこの猫と友だち付き合いをしているような言い方をするなって思ったからでした。

 結局、果物屋のおばさんはルネットをおうちまで送って、お母さんにいろいろ説明してくれました。お母さんが何度もお礼を言っている間にルネットはメルメルを抱いて部屋に入りました。ベッドにメルメルをそっと寝かせ、そばにひざまずいてお祈りをします。メルメルと遊んだり、冒険したり、お話したことが次々と思い出されます。……しばらくして、メルメルが目を開けました。
「メルメル。だいじょうぶ? 痛い?」
 メルメルは元気がなさそうに目を細めましたが、『心配しないで』と言っているようにも思えました。
「何かしてほしいことない? 食べたいものとかない?」
 メルメルはキャラメルの入っていた箱に目をやったような気がします。なんてことでしょう。キャラメルはもうないんです。部屋のどこかに落ちていないか探しましたが、見つかりません。他の部屋も前にレオンくんがクレヨンを探したように探しましたが、ありません。
「メルメル、ごめんね。キャラメルもうないの。……でも、お父さんが今度買って来てくれるから」
 そう聞くと、メルメルはちょっとだけ口を開けて何か言いたそうにしましたが、そのまま眠りに落ちていきました。
 
「ルネット」
 その小さな声で、ルネットはびくっとして目が覚めました。晩ご飯も食べずに看病していたら、いつの間にか眠ってしまっていたんです。壁の時計はちょうど12時をさしています。
「良くなったの? しゃべれるの?」
「ううん。ぼくはもうダメだろうね。だから神様が最後のお願いをかなえてくれたんだと思うよ」
「そんな……猫は7つの命があるんでしょ?」
「ふふ。でも、それも使い果たしたみたいだ。いいんだよ。ルネットとお話できてよかった」
「うんうん。でも、良くなるまであまりしゃべらないで」
「だいじょうぶだよ。何も心配ないよ。……ルネット、あのキャラメルのおかげで本当に楽しかったね」
「うん。そうだね」

 メルメルはこれまでにいっしょに遊んだり、冒険したり、お話したことをルネットが思い出したのと同じように話しました。そう、それだけメルメルとルネットは気持ちがいっしょだったんですね。その長い話の最後にメルメルは言いました。
「最初のメイプルシロップをひっくり返した失敗では、君は慎重さを学んだよね。それから、キツネの親子を助けたときには勇気を出さなきゃって思ったんじゃないかな。旅芸人がおまわりさんに捕まったときには、自分で考えて行動した」
 ルネットは黙ってうなずきながら、メルメルの声が何か遠くから響いてくるように感じていました。
「……ピクニックに行って深い穴に落っこちたときには、決して希望を捨てないことを学んだ。クレヨンがなくなってレオンくんを疑ったときには信じることの大切さを知ったよね。マジパンのウサギでは約束を守ることがとても大事だってわかったんじゃないかな」
「うんうん。みんなメルメルのおかげだよ」
「そんなことはないよ。君は君の力でそういったたくさんのことを学んできたんだ。でさ、最後にもう一つちょっとしたことを言いたいんだ」
「うん。なあに?」
「自分でも、大切な人でも、誰でもいつかは死んでしまうってことだよ。そのことを頭の片隅の小さな箱に入れておいて。……」
 その言葉が終わるか終わらないうちに、ルネットはすうっと眠ってしまいました。ベッドに伏せた顔を上げたときには、朝になっていました。
「メルメル!」
 手を伸ばし、さわってみるとメルメルは冷たくなっていました。
「メルメル」
 抱きしめて頬ずりすると、メルメルの身体はずっと軽くなっていて、力なくゆれます。しなやかでつやのあった毛はなんだか毛羽立ってしまい、目はぎゅっと閉じられています。夜中にメルメルが話したことも、いいえ、これまでのいろんなことも夢だったような気がして、ルネットは声を挙げて泣きました。

 それから長い年月が流れました。今日は、ルネットの結婚式です。
「そろそろ行くわよ」
 お母さんの声が下から聞こえます。
「はーい」
 ウェディングドレスを着たルネットは階段を降りる途中でふと立ち止まり、自分の部屋に戻りました。タンスをあちこち開けて、ずっと奥にしまってあった猫の爪あとのある小さな箱を探すと、それを持ってキャラメルのような色の丸太に囲まれた部屋を出ます。戸口のところでちょっとあいさつするように腰をかがめ、「さよなら。メルメル」とつぶやいて、ドアを閉めました。