08年の読売日響・定期演奏会コンサート批評など

 

 

  ショスタコーヴィチの両義性

  日本人とバーンスタインとポピュラリティ

  八つ当たりベートーヴェン

  だるまのブルックナー

  現代音楽の表現力と想像力

  平明なスラヴ音楽

  遠きアメリカに陽は落ちて

  ブラームスとシマノフスキとショスタコーヴィッチとスクロヴァチェフスキ

  ヒンデミットの「レクイエム」をめぐる対話

  11/21読売日響・定期演奏会オールベートーヴェン

  *グレングルード変奏曲

  BSHの楽しみ:12/15読売日響定期演奏会

  あとがき

 

 


 

     ショスタコーヴィチの両義性

 

  1/15にサントリーホールで行われた読売日響の定期演奏会に行って来ました。プログラムはヒュー・ウルフ指揮で、前半がアンティ・シーララのピアノによるバルトークのピアノ協奏曲第3番、後半がショスタコーヴィチの交響曲第11番「1905年」です。ウルフは左足をケガでもしたのか松葉杖をついて登場し、ハイチェアに浅く腰を掛けて指揮しました。イスから転げ落ちたりしないのかなって心配になりましたが、そういうこともなくアンコールに応えて何度も舞台に出て来ました。

 まずバルトークですが、冒頭の葉っぱの上を水滴がころがるようなピアノとそれに寄り添うようなオケが印象的でした。 ただなんか優しすぎてバルトークらしくない曲って感じで、それは最後の方まで拭えませんでした。時に金管が「管弦楽のための協奏曲」を思わせるパッセージを奏でます。

 第2楽章は「Adagio religioso」となっていて白血病に蝕まれた作曲者が祈りを捧げるといった趣きです。実際、チェロのため息からピアノが美しい音色を奏でますが、聴いていくと単純素朴すぎるメロディじゃないかなと思いました。ここはしばしばベートーヴェンの弦楽四重奏曲第15番第3楽章の影響があると言われます(例えばこのウィキの英語版)が、私にはそう聞こえませんでした。ちょっとマーラーっぽい光背のような弦のコラールや木管、金管、マリンバによる鳥の鳴き交わし(聖フランチェスコってところでしょうか)のようなフレーズなど、宗教的な道具立ては揃っているんですが、深みを感じないというか、感傷的に過ぎるというか。……あっさり言っちゃうとバルトークはこういう曲想を書いて来なかったし、それに向いた資質でもないなと思いました。

 第3楽章はかなりバルトークらしい音楽ですが、全盛期のバーバリズムと比べると少しゆるくてキレを欠いた音楽かなって感じです。しかし、結尾の盛り上がりに向けて音を追い込んでいくテクニックは鮮やかなもので、自分の手で完成できなかったのは無念だったでしょう。アンコールはとても短いショパン(曲名は見そびれてしまいました)で、いいか悪いか判断する前に終わってしまいました。


 ショスタコーヴィチですが、この曲は1905年の「血の日曜日事件」を題材としたもので、いろんな革命歌の旋律が使われています。当日のプログラムにはその内容や各楽章の副題を元にした解説があって、それを読みながら聴くとわかった気になります。それを孫引きしても仕方ないんで、そうした音画的・交響詩的な性格に収まらないところに焦点を当てて書いていきます。

 冒頭の弦とハープによる重い霧のような音楽はこの音量も圧倒的な(このホールで聴いたいちばん大きな音に聞こえました)音色も派手な作品の中で、私にはいちばん印象的な旋律でした。耳の底に執拗に残るこの音楽は作品全体を覆う暗いイメージを形成しています。ホルン以外のすべての金管がミュートを掛けて演奏して第1楽章の「宮殿広場」の広がりを表現したり、ティンパニの連打の繰り返しの最後に大太鼓を重ねたりとオケの鳴らし方を知り尽くしたテクニックはあざといほどですが、そこから浮かび上がってくるのは暴力性ということでしょう。ショスタコーヴィッチが比類のない表現力を発揮するのは暴力性だと「ムツェンスク郡のマクベス夫人」などを見て思っているんですが、それは彼がそれだけ「暴力」を目の当たりにし、それに怯え続けたからだろうと思いました。

 シロフォンがキンキンと鳴ります。彼の作品にはシロフォンがよく出てきますが、臆病な自分が慌てふためく様子をカリカチュアライズしたもののような気がします。……いや、そう言ってしまうとどこかズレますね。例の「ショスタコーヴィッチの証言」以来、彼の音楽を裏読みしたくなるのは私だけではないと思うんですが、裏返せばそれですっきりわかるというものでもないと今は思っています。例えばこの曲を表面的にはロシア革命前夜の悲劇を描いているけれど、実は作曲に取り掛かった1956年に起こったハンガリー動乱を表現しているといった解釈は可能でしょう。長く忌まわしいスターリン時代が終わって、フルシチョフが「雪どけ」を演出しながら、ハンガリーの民主化運動を圧殺したこととニコライ2世の慈悲を信じた民衆の悲劇に重ね合わせているといった絵解きです(ここまで書いたところで、ひょっとしてと思って英語版のウィキを見たらそんな感じのことが書いてあるんでおやおやと思いました)。プログラムを誰が考えたか知りませんが、そう考えると前半のバルトークの意味合いもわかった気になろうというものです。

 でも、そう考えてしまってはどこかズレます。だいいち私の耳にハンガリー舞曲らしきものが聞こえたわけではありません。第3楽章は事件の犠牲者へのレクイエムのようなものだとあちこちに書いてありますが(私はレクイエムをそれなり聴いてきたつもりですが)、さっぱりそう聞こえません。すべては耳で聞いたものから出発していない、ものの喩え、言葉の戯れなんでしょう。音楽を音楽として聴くところから出発しないようではソ連の文化当局と変わりません。

 では、何が聞こえたのかといえばとても両義的な音楽です。チェレスタとハープによる哀歌においても、ヴィオラの唄う犠牲者を悼む長いフレーズにおいても、各パートが歌をつないでいく泥臭い革命歌においても、それらを否定するような音が置かれていて、どこか違っている、何か別の意味があるという感覚が立ち昇って来ざるをえません。それが何を表わしているかを言葉にするとズレが生じる、ということはそのambiguousな感覚そのものが作曲家が表現したかったことだろうと思います。

 おそらくソ連体制の下で作曲し続け、生き延びるためには二重言語、二重思考が必要だったのでしょう。それは他の作曲家、芸術家も同じはずですが、服従でも反抗でもない自分たちの置かれた状況そのものを描くことができたのはショスタコーヴィッチだけでしょう。そうした状況は今なお世界のあちこちにありますし、この生ぬるい国においても我々はその場その場で「自分」を使い分け、両義的な意識を持って生きているように思います。現代社会において社会の中で生きようとすればそうせざるをえないのかもしれません。それが彼の音楽に共感する根本的な理由です。素晴らしく不愉快で不気味な音楽です。最終楽章の「警鐘」はやがてイングリッシュ・ホルンに導かれて冒頭の重い霧が這い回り、打楽器を総動員した悪夢のような音楽を教会の鐘を模したテューブラ・ベルが断ち切ってこの曲は終わりました。
 


 

  日本人とバーンスタインとポピュラリティ

 

 3/10にサントリーホールで行われた読売日響の定期演奏会に行って来ました。プログラムは下野竜也指揮で、前半が三善晃のアン・ソワ・ロアンタン《遠き我ながらに》とチョーリャン・リンのヴァイオリン独奏によるバーンスタインのセレナーデ、後半が伊福部昭の倭太鼓とオーケストラのためのロンド・イン・ブーレスクとバーンスタインの「ウエストサイド物語」からシンフォニックダンスです。2月の定期は18日にあったんですが、引越疲れで「こりゃ行っても爆睡するなぁ」と思って、3/14の池袋での名曲シリーズに振り替えました。読売日響の場合、定期会員だと当日に電話するだけで他の人に席を譲ったり、近い時期の別のコンサートに振り替えたりできるんでとても便利です。ということで今週は2回コンサートに行くことになったんで、ブログはあっさり片付けましょう。

 三善晃の作品はスコアが60段もある大規模なもので、実際画板のような譜面台が用意されていましたが、音楽の内実は大したことはありません。ちょっと前の「現代音楽」で、「よく西欧の音楽をお勉強しましたね」って感じのものです。霞か霧がもやもや〜んとしたような出だしから、2回ほど早くなっていくんですが、そこがストラヴィンスキーやバルトークっぽいから苦笑せざるをえません。自治体の公共施設のロビーに飾ってあるやたらでかい抽象画みたいと言えばイメージがわくでしょうか。

 次のバーンスタインのセレナーデはプラトンの「シュンポシオン(饗宴)」を元にした曲で、アリストパネスやソクラテスなどの愛についての演説を5楽章の協奏曲に仕立て上げたものです。というと哲学的な内容だとか、同性愛的な傾向だとかが表れているってことになりそうですが、そうは聞こえません。アリストパネスの第2楽章はユーモラスで、アガトンの第4楽章は悲壮っていう程度で、プラトンの作品はきっかけに過ぎないでしょう。ウエストサイド・ストーリーの音楽よりはずっとマジメ(少なくともこの日の演奏はそう感じました)なものですが、とはいえユダヤっぽい交響曲ほどでもないという中途半端な印象でした。管楽器がなく、弦、ハープと多数の打楽器というオケ編成で舞台の中間がぽっかり開いているのも妙な感じで、内容もバロック協奏曲と現代的な響きが併存したようなものでした。

 後半はゴジラの伊福部からですが、まあ大規模なオケで演奏するお祭りのお囃子みたいなもので、なんにもむずかしいところのない音楽です。その意味で彼は三善よりも長く残る可能性があると思いました。ブーレスクなんて言わなくても彼の音楽はユーモアが自然と漂うわけで、あんまりしつこくおっきな音が出るから最後には笑えます。でも、和太鼓が途中から入るところや和声を細かく変化させているところとかは意外と理知的で、破綻なくまとめられているところはオートマティズムみたいな感じすらします。わざわざ倭太鼓と表記したことで、「火の鳥・ヤマト篇」みたいな、いつのどこだかわからない古代風なあやしさは出ていたように思います。

 これを聴いているうちに今日のプログラムのテーマは、日本人作曲家とバーンスタインによる前半は芸術性、後半は大衆性みたいなことかなって思いました。ついでに言うと下野の指揮は見かけによらず客観的(日本で指揮をする以上は必然かもしれませんが)ですから(大ざっぱな意味で)芸術性の高い曲は向いていないというか、何を言いたいかわからないとりとめのないものになりやすい感じです。であれば無理しないで大衆的な音楽を中心にやればよさそうですが、これまた日本でそんなことばかりしてるとまずいんでしょうね。

 最後のシンフォニックダンスは更に大編成で、ドラムス、ピアノ、ビブラフォン、マリンバ、ハープ、ギロ、マラカスなどなどのほか、指パッチンや「マンボ!」という掛け声が入ります。たくさんの楽器を登場させてもそれを十分に使いこなし、絶妙の音の重なりをつくり出していて、単なるミュージカルの器楽演奏版ではありません。器用でサービス精神旺盛なバーンスタインならではの音楽で、下野のキャラにも合ったのか演奏もうまく表現していましたが、どちらかというと楽しくなるというよりはこのオケの技術に感心する方が勝っていたようです。"Somewhere"でのピアノが硬いのが甘いムードに水を注して残念でしたが、フィナーレのミュートの掛かった金管はかすれ声で愛を歌いながら死んでいくヒロインを巧みに表わしていました。

 

<いただいたコメントから>

間違い探しなら (pfaelzerwein) 2008-03-13 16:44:25

「よく西欧の音楽をお勉強しましたね」、「その意味で彼は三善よりも長く残る可能性がある」―

なかなか辛辣な評価ですが、この作曲家に関わらず独創性と技術移植という意味で、否定出来ない芸術文化論議ですね。

逆にバーンスタインと伊福部が同じプログラムにのるのも面白い試みかもしれません。

間違い探しなら三善ですか?その代わりに入れるとすれば誰の曲でしょうかね?

「ポピュラー文化コンサート」もなかなか粋な選曲が難しいかもしれません。

 

名曲コンサートたって… (ぽけっと) 2008-03-13 22:15:00

知らない曲ばかりなんですけど。

シンフォニックダンスはきっと知ってるけど演奏会用はまた別バージョンなのですね、お腹に響きそう。

伊福部さんの曲は、楽譜を作る勉強のために(この文章のとは別の曲ですが)スコアとしばらくつき合いましたけど、譜面づらからもパワーあふれる、いい意味での泥くささ、という感じが伝わってきて印象に残っています。

 

pfaelzerweinさんへ (夢のもつれ) 2008-03-17 11:04:13

お久しぶりです。

最近の現代曲(といってもあまり聴いているわけでもありませんが)はけっこうポップな感じのものが多いように思います。少なくともバリバリの12音主義やセリー主義とかってあんまり流行らないような。。

 

ぽけっとさんへ (夢のもつれ)2008-03-17 11:06:55

シンフォニックダンスはお腹に響きますね。晩ご飯前だからよけいそうですw。

伊福部さんは意図的に土俗性を出しているんでしょうね。それが作品の生命力につながってるかどうかは別としても、日本人にはめずらしいユーモア漂うものになっているのは確かでしょう。

 


 

 八つ当たりベートーヴェン

 

  3/14に東京芸術劇場で行われた読売日響の名曲シリーズに行って来ました。プログラムは下野竜也指揮で、前半がベートーヴェンのコリオラン序曲とピアノ協奏曲第5番「皇帝」、後半が同じくベートーヴェンの交響曲第7番です。先日の記事で書いたように2月定期の振替えチケットなんで席は選べず、3階のやや右寄り5列目でした。ここは昨年度の前半の定期演奏会に使われていて、何回も来ててそのたびに音の硬いのが気になりました。今回はそれほどでもなく、かえって分離がいいかなって思ってたんですが。……ま、その話は後にしますが、どうも今回はダメでした。同じ週に2回行ったせいなのか、土砂降りの雨の中を歩いてきたせいなのか、ステージが遠い席は苦手だからなのか、聴き慣れた曲だから集中力を欠いたのか、「演奏がどうだという以前に(あるいは以後に)どんな曲かを考える」という自分のスタンスが取れませんでした。

 ということで、今回は曲についてほとんど書くことはなく、演奏についての悪口が中心になります。まあ読者も少ないメモランダムのようなものなんで、その時々の気分で(というか実は自分の気分を)書くのもいいかなって。それとも癇癪持ちだったベートーヴェンが憑依したってことにしておきましょうか。で、椎名林檎の「弁解ドビュッシー」の真似したタイトルにしました。……まずコリオラン序曲ですが、始めからなんだか緊張感がないなって思いました。悪くない演奏だけど、何がしたいかわからないからほめ言葉が見つからないっていうか、そんな感じでした。

 次はボリス・ベレゾフスキーの独奏による皇帝ですが、最初に独奏を聴いて軽々と弾く、明るい音でおもしろそうだなって思ったのにオケが弾んでいないというか、テンポが遅いような、わくわくしない演奏で、どうもピアノと噛み合わせが悪かったです。カデンツァになるといい感じになるのに。楽章が進むとどうもベレゾフスキーの方が妥協したのか、つまんない方向に収斂していったようでした。2曲聴いてオケというか、下野は「今日はベトベンの気分じゃないんだ」って言ってるような気がしてしまいました。彼はいつもやる気と元気が満々で、飲み屋で隣の席にいるとうるさいだろうなってタイプに見えるんですけどね。アンコールはよくわからないけど、甘ったるい曲だなと思って帰りにロビーで掲示を見たらやっぱりラフマニノフ(プレリュード作品23-4)でした。

 休憩時間に「月刊オーケストラ」という70ページ以上ある読売日響のブックレットをパラパラめくっていたら、ふだんはプログラム紹介以外はあまり読まないのに魔が差したというか、常任指揮者のスクロヴァチェフスキのことについてとある音楽評論家の文章に目が留まり、私も彼の演奏については書いたことがあるのでついつい読んでしまいました。見開き2ページ、彼の写真があるので実質1ペ−ジ半の文章中、「フルトヴェングラーばりのアッチェレランド」から始まって、「朝比奈、ヴァント逝去後の“ブルックナー指揮者の大空位時代”を救い」、「レーグナーのように職人タイプながら」、「アバドのように普通は聴き取れない木管を浮かび上がらせ」、「フルネは日本で有終の美を飾ったが、現在もボッセ、シュナイトなどその指揮者としての活動の掉尾を日本で飾りつつある名指揮者は多い」とよくもまあ次から次へと他の指揮者の名前を出すわ出すわ。これをもしスクロヴァチェフスキが読んだら怒るか、泣くか、憐れむか、「恐るべき音楽の内実の不在」と思いました。でも、まあこれが日本の音楽評論とリスナーの水準なんでしょうね。お買い物ガイドというか、チケットやCDを買った人に満足感と次なる購買欲を駆り立てる機能しかないものがほとんどかなと思いました。

 後半はベートーヴェンの中でもいちばんノリのいい曲、ということはすべてのクラシック音楽の中でも指折りのノリのいい7番ですが、どうも緊張感のない感じが続いてて、各セクションの間やフレーズの間にふっとすき間が空きます。なぜかなーって思いながら聴いていたら、第1楽章の途中で、自分が聴いている音とステージで指揮者やプレイヤーが聴いている音が違っているんじゃないかと思い当たりました。こう書くと当たり前のことのようですが、ふだんはそんなことは意識しないものです。コントラバスや木管のそれぞれの音までくっきりと聞こえるこのホールのせいだろうかと考えます。

 第4楽章になって、いきなりフルートが左後方からも聞こえて、あっと声を挙げそうになりました。まるで幻日のようです。それからもちょいちょい聞こえますが、音色もちょっと違うし、気持ち悪い代物です。いくら音響をよくし、3階席でもはっきりと聞かせてあげようと思ってもこれはないんじゃないかと思いました。ガンダムの頭のような3階席の壁をにらみます。フィナーレに向かってせっかく金管がぶおぉっと吠え、チェロとコントラバスがうねっているのにノリノリとはいきませんでした。

 ちょっと悲しい気分で、拍手を義務的にして、下野も2回ほど出てきたからそろそろ席を立とうとかと思ったその時、もう一度あっと言いそうになりました。そう、アンコールを始めたんですね。しかも、G線上のアリア。……オール・ベートーヴェンのプログラムでなんでG線上? いや、それ以上にアマチュアじゃあるまいし、アンコールをなぜする? なぜしたい? いや、もちろんそれはイケメン・ピアニストとのだめのテーマソングがお目当てで来た人たちへのサーヴィスなんでしょう。10日とは段違いの席の埋まり具合だったし。でも、私には日本のクラシックの現状を見事に表わした恥ずかしいものでしかありませんでした。まるでフランス料理を食べた後にお勘定をしたらチューインガムをもらったような。

 

<いただいたコメントから>

まあそう怒らずに…w (ぽけっと) 2008-03-21 22:46:39

演奏への不満がホールの造り、アンコールの曲目にまで及んでまさに八つ当たりですねw

恐らく同じ演奏会場にいて、安易に満足したであろうと思われる他の聴衆にも実は多少矛先向いてるんじゃないかな、て気がしましたけど…

八つ当たりしたい演奏会ってあるもんで、理解いたしますw

 

どっちかって言うと (夢のもつれ) 2008-03-25 17:49:24

ホールの方の不満が強かったんですが。。サントリーホールの礼賛や外国人指揮者の崇拝はしたくないんですが、素直に感想のつもりでもそう読めちゃうだろうなって思います。

アンコールの前に席を立ってればもうちょっとよかったかもです。

 


 

 だるまのブルックナー

 

4/18にサントリーホールで行われた読売日響の定期演奏会に行って来ました。プログラムはスタニスラフ・スクロヴァチェフスキ指揮で、ブルックナーの交響曲第5番です。4月からはコントラバスの真上って感じの指揮者から見て斜め45°の席というのは同じですが、いちばん前になりました。ほんの少し前の方に行っただけなのに音がより生々しくなって、スクロヴァチェフスキの手の動きがよく見えます。おおげさに言うとオケの中に入ったような感じです。イスを座り直す音、楽器が床やイスに当たる音、金管に溜まる唾を吹き出す音……楽音以外のいろんな音をオケのメンバーが聞いているということを改めて気づかされます。こうした音は他の席やCDでも聞こえることがありますが、より直接的な響き方です。もちろん一部のオーディオマニアじゃあるまいし、そんな音が聞こえたって別に音楽の理解とは関係ありません。ただコンサートの楽しみ方はいろんなものがあってもいいんだろうし、こういうのもありかなって思いました。サントリーホールが優秀だと言うのも素人くさくてカッコ悪いんですが、いちばん遠い第1ヴァイオリンのソロもちゃんと聞こえましたし、音のバランスもそんなに変じゃなかったんでその方が感心しました。

 さて、肝心の演奏内容ですが、今まで4番と3番をこの指揮者で聴いて、いろいろイメージするものがあったんですが、この日はふつうの演奏に聞こえました。十分に丁寧で力強く、ニュアンスにも富んでいました。この曲はスコア上の問題もほとんどない初めての作品ですが、それが彼のアヴァンギャルドな面を覆い隠してしまったんでしょうか。事前に手持ちのザールブリュッケン放送交響楽団でのCDを聴いていたんですが、さっき挙げたような諸点のどれも実演の方が勝っていたと思います。

 しかし、こういう有名な曲でそういう演奏では私のような書き手には手も足も出ません。妄想したり、ラテン語の歌詞を取っ掛かりにあれこれ言うのが、身上なのに。……ということで、今回はメモ代わりに書き留めておくだけにします。

 第1楽章では金管によるコラールの強奏が「目覚めよと呼ぶ声が聞こえ」って言葉を想起させて、この曲の実質的なスタートなのかなって思いました。第2楽章は楽章の切れ目と間違うほどのゲネラル・パウゼが印象的でした。第2主題は「昔なじみの野暮ったいブルックナーの歌」といったところで、思わずホロリとさせられます。第3楽章は加速する感じが心地よいスケルツォで、バスチューバが野蛮な祖先の記憶を引きずり出します。お決まりのレントラーと代わる代わるしつこく、つまりブルックナー的に繰り返されます。第4楽章はフルートがオペラの中の鳥の声のような旋律を奏でます。当日の印象としてはとてもメカニカルな曲で、ブルックナーが当初持っていた「物語」のシナリオからどんどん遠ざかってしまったんだろうと思いました。

 


 

現代音楽の表現力と想像力

 

 5/19にサントリーホールで行われた読売日響の定期演奏会に行って来ました。プログラムは下野竜也指揮で、ヴァーグナーの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第1幕への前奏曲、山根明季子の「オーケストラのための『ヒトガタ』」、後半がコリリアーノの「ザ・マンハイム・ロケット」と「ハーメルンの笛吹き幻想曲」でした。

 各曲について簡単に触れます。マイスタージンガーですが、金管と弦がちぐはぐな感じでした。タイミングがずれているというほどではないけれど、息が合った演奏とは言えないものでしょう。チューバがやたら元気で、下野の学ランのような服装とカクカクした指揮を見てると応援団みたいだなと思いました。

 委嘱作品で当然「世界初演」の山根の作品ですが、木管の「雲」の上をチューブラベルやビブラフォンといった金物がチンチン鳴る、やたらゲネラル・パウゼの多いものです。ブックレットに掲載された作曲家の「私は、そのように音に包まれる感覚が、身の回りに様々な形のオブジェが明滅したり流体として動いたりするのを、空間インスタレーションとして立体的に体験するかのような感覚として実現することを夢見ています」といった文章を読んだ時からしていた悪い予感は的中しました。つまり平凡な発想をありきたりのイディオムで消化不良なまま楽譜にしたものでした。彼女はまだ若いのでこんな言い方は気の毒なのかもしれませんが、音楽と数学において年齢の若さは未熟さの言い訳にはなりません。

 後半の「ザ・マンハイム・ロケット」はマンハイム楽派が用いた常套手法をほら吹き男爵のロケットに擬したものです。こうした子どもっぽいユーモアと風刺は次のハーメルンにも共通しています。大きな下敷きのようなものを揺らしたり、ラップをくしゃくしゃにしたり、ウィンドマシンや金てこやホイッスルやカウベルやノコギリを持ち出して、様々な音楽家の音楽のカケラを散りばめながら演奏していくのを聴いているとどこかアニメの主題曲のような、調子はずれの幻想を呼び起こすようでした。

 「ハーメルンの笛吹き幻想曲」はフルート独奏が瀬尾和紀で、足立区の中学生がフルートと大小太鼓を演奏しました。ホール全体が闇に包まれた中から音楽が浮かび上がり、最後はティン・ホイッスル(音の硬い縦笛型のピッコロのような感じです)に持ち替えたジョーカーのような服の瀬尾に率いられて子どもたちが1階席の後ろから退場し、再び闇に還るという趣向でした。ストーリーを持つフルート協奏曲といったところですが、音楽的イメージの分量からすると7楽章35分は少し長いかなという気がしました。音楽において重要なのは表現力と想像力かな、いや音楽に限らずすべての芸術においてその価値を支えているのはこの2つじゃないのかな、そんなことを考えた夜でした。

 

<いただいたコメントから>

まずは… (ぽけっと) 2008-06-06 19:40:04

想像力ありきでしょうね。

それが全ての源のように思います。

 

山根さんの文章は、作曲家や演奏家なら誰でもそう思うけど普通は言わないだろって感じのもので逆に新鮮なくらいですねw

 

順番から言うと (夢のもつれ) 2008-06-11 16:23:46

想像力でしょうね。。それなしじゃあ何を表現するのかってことになるんでしょう。

でも、想像力の訓練なんてかえってむずかしいから表現力を磨くところから始めるのかなと思います。

「逆に新鮮」とは辛辣ですね。やっぱり

 


 

  平明なスラヴ音楽

 

 6/9にサントリーホールで行われた読売日響の名曲シリーズに行って来ました。プログラムはアレクサンドル・ラザレフ指揮で、ドヴォルザークの交響詩「真昼の魔女」、プロコフィエフの交響的物語「ピーターと狼」、ボロディンの交響曲第2番でした。

 会員になっている定期演奏会は別の用事があったので、翌週の月曜日に振り替えたんですが、座席は3月までの席とほぼ同じで、なじんだ場所から聴くことができました。スラヴ音楽の中でも平明なものを集めたプログラムと言っていいでしょう。ドヴォルザークだけがあまり知られていない曲だろうと思いますが、タイトルほどおどろおどろしい内容ではなく、中間部がちょっと不気味な感じがするだけでいかにもドヴォルザークらしい平穏無事な音楽です。聴いていたときはなぜこれを持ってきたのかピンと来なかったんですが、ボロディンの第1楽章と近縁性が感じられるもので納得しました。

 「ピーターと狼」には声優の伊倉一恵が語りで登場しました。「三つ目がとおる」の写楽役などをやっているそうですが、アニメっぽいいろんな声を出して、作品が作品ですからそれでどうこう言うこともないんですが、聴衆の年齢層には不似合いでした。指揮者は日本語がわからないだろうと思うのにナレーションとの呼吸がよく合っていたのには感心しました。音楽としては……まあ、この作品は登場人物と楽器(群)を一対一対応にしながら一応の音楽を作り上げたところに意味があるのかなって以前から思っていました。ラヴェルの「ボレロ」と同じようなワン・アイディアで出来た曲で、それだけに終盤にはダレてしまうような。

 後半のボロディンはとても好きな曲です。シンプルでかつ活気にあふれているところがいいんですが、その性格は第1、第4の両端楽章で顕著です。短いテーマを繰り返しながら盛り上げていくのはベートーヴェンの偉大な発明だろうと思いますが、それをフランス風の明澄さで処理した作品のように感じました。最終楽章はシャブリエの「スペイン」を想起させますが、ボロディンの作品の方が少し時期が早いようです。第2楽章のスケルツォはプレスティシモ、第3楽章もアダージョではなくアンダンテです。しかしながら性格はやや複雑で、翳りが感じられます。この辺が(十分には展開されることのなかった)彼のロシア的な側面なんだろうと思います。素材だけでロシアの香りがするなどというのはあまりに手擦れのした言い方でしょう。

 

<いただいたコメントから>

あら (ぽけっと) 2008-06-23 22:25:51

夢さんがボロディンを好きなのは何となく意外な感じですね。

私は映画音楽みたいで好きだけど。

ボロディンって他のロシアのものみたいにどっか引っかかるところがなくて、すっと入ってくる感じがします。

 

ええっー?! (夢のもつれ)2008-06-25 15:08:29

そんなぁ。。って言うほどのこともないかな。ムソルグスキーが好きですからねw。

科学者で西欧的なんて通りいっぺんの説明は好きじゃないですが、この曲とか弦楽四重奏曲(これも第2番が有名ですけど)を聴いてると否定しがたいですね。

 


 

 遠きアメリカに陽は落ちて

 

 7/14にサントリーホールで行われた読売日響の定期演奏会に行って来ました。プログラムはゲルト・アルブレヒト指揮で、前半がヴァーレーズの「アメリカ」、後半がドヴォルザークの交響曲第9番「新世界から」です。アメリカつながりのプログラムですが、それ以外の関連性はほとんどなくて、いちばん聴きにくい音楽といちばん聴きやすい音楽の組合せと言っていいような気がしました。

 ヴァレーズの曲はサイレンが使われていることで有名で、実際にぐるぐるハンドルを回すレトロなサイレンから大きな音が出るのを見れておもしろかったんですが、変化が乏しいのに何回も出てくるから飽きてしまって、あれは何楽器になるんだろうなんてしょうもないことを考えました。空気の出入りを音にしている点では管楽器やオルガンと似てますが、息を使うわけでもパイプがあるわけでもありません。そもそも楽器ではないと言ってしまえばそれまでですが、無理やり考えるとオケで使われることがより多く、一般にはずっと知られていないウィンドマシーンに近いような気がしてきました。どちらも打楽器群の中に置かれて、打楽器奏者(だろうと思います)が演奏するからオケのシステムとしては打楽器ということになるんでしょう。そうすると弦楽器と管楽器以外は全部打楽器ってことになるような気がしてきました。まあ、音楽史的にもそんなところでしょう。

 肝心の曲の方ですが、前からCDを聴いて思っていたのと同じで、どうにも見通しが利かない感じです。だから、サイレン鳴らしてるんだね、とオチをつけてどうするw。最後の方はかなり露骨に「春の祭典」の引用だか模倣だかがありますが、ここまで引っ張っておいてそりゃないでしょって思いました。そのくせわかりにくくて勿体ぶった感じなのは現代音楽(というか前世紀の音楽)の悪い癖です。

 ドヴォルザークの方ですが、最初の方でアルブレヒトははやるオケをしきりに抑えようとしていました。そのため節回しが遅くなって、かといって粘りが出るというよりスピード感や量感が乏しくなってしまったように聞こえました。第2楽章は逆に「遠き山に日は落ちて」が早めのテンポで唄われました。それはそれで情感もけっこうあった(ただしイングリッシュホルンはやや心許ない)し、ヴィオラやオルガンを模した感じのコントラバスがいい雰囲気出してました。

 第3楽章ではトライアングルが頻繁に使われますが、それを聴いているうちに騎士物語をイメージしました。第1トリオは気取った入場式のような、第2トリオはオペラの間奏曲のような。ホルンとトランペット、トロンボーンとチューバの決まりきったような使用法も何か特定の意味合いがあるような感じです。

 最終楽章では一転して金管が強奏され、武張った感じです。シンバルが全曲中1回だけ目立たない形で使われるのがコネタ的に有名ですが、あれはなんなんでしょうね。思いつきで言うと奏者が立ち上がって座る視覚的なところに意味があるような気がしました。要は音楽的な必然性が感じられないということですけど。フィナーレに向かって追い込んでいくところはやっぱりベートーヴェンを連想してしまって、19世紀はベートーヴェン、20世紀はストラヴィンスキーからの距離で分類できるところがあるなぁとちょっとつまんない気がしました。

 


 

 ブラームスとシマノフスキとショスタコーヴィッチとスクロヴァチェフスキ

 

 

9/10にサントリーホールで行われた読売日響の定期演奏会に行って来ました。プログラムはスタニスラフ・スクロヴァチェフスキ指揮で、ブラームスの交響曲第3番、シマノフスキのヴァイオリン協奏曲第1番(独奏はアリョーナ・バーエワ)、ショスタコーヴィチの交響曲第1番です。

ブラームスの出だしはおとなしめなのに音(特に木管)がとがっているように感じました。ブルックナーを髣髴とさせるようなもやもやしたところからテーマが立ち現れて来ますが、やっぱりブラームス的な逡巡といったところで、徹底性や突き詰めた表情は良かれ悪しかれありません。

第2楽章を聴いていて思ったのは木管が好きな人だなってことでした。別にいつもいつも木管から入るわけではありませんが、イニシアティヴのかなりの部分を握っている気がします。それを別の角度から言うとエキゾティックな雰囲気がそこはかとなく漂うということになるでしょうか。まったりとしすぎてて集中力の維持がむずかしい楽章でした。

第3楽章はとても有名なメロディが中心となるポコ・アレグレットです。ダイナミック・レンジが広くて聴きやすいんですが、この交響曲にはスケルツォがないことに気がつきました。おそらく(というのは客観的には言い過ぎで、単なる私の妄想ですがw)ブラームスは最初スケルツォを書こうとしたんですが、あんまりいいメロディが出て来たんで、うれしくなってこうしたんでしょう。彼は日頃からメロディが思うように出て来なくて悩んでいたんですね。ブルックナーのようにメロディなんかどうでもいいと吹っ切ればいいんじゃないかと思いますし、ましてやドヴォルザークを羨ましがる理由も私にはわからないんですけど。

それはともかくスケルツォ、あるいはそれに近いものがないためにこの交響曲はユーモアを欠いています。私は歴史上メヌエットからスケルツォに替わったことで、内容的にいちばん大きな意味はユーモアを構造に組み込むということだったんじゃないかと思っていますが、そんなことでこの交響曲は自己陶酔がちょっと鼻につきます。ヘ長調、ハ長調、ハ短調、ヘ短調という各楽章の調性も巧妙というよりは「なんかねぇ」って感じです。

第4楽章はとても爽快な演奏でした。重くて早く、各声部がよく鳴って、わざとらしいほどのソロへの落とし方も鮮やかな印象です。コントラファゴットがチューバの代わりに使われているように聞こえて、木管への偏愛が明らかだと思いますが、「木造建築のブラームス」という言葉が「石造建築のブルックナー」との対比で浮かびました。

 

ここで休憩があって、シマノフスキです。3管というだけじゃなく、ハープ2台、チェレスタ、ピアノ、銅鑼、ヴィブラフォン、小太鼓、シンバル、大太鼓などなどとかなりの大編成です。ちょっと余談ですが、プログラムに楽器編成を書いていないのは毎度のことながら大きな不満です。当日のお客のための冊子でありながら、作曲家の伝記や作曲の背景なんて目に見えない、耳に聞こえないことに紙幅を費やしていながら、「あの楽器はなんだろう」という素朴な疑問に答えていないのは今流行の言葉で言えば顧客満足度を著しく下げています。まあ、音楽学者とか評論家なんて「教養主義」の枠内でしかものを考えていない人が多いし、よく似た表現をあちこちで見るんで、どうせグローヴ辞典あたりの翻案だろうなって思うんですが。「お客はそれで満足してる」という声が聞こえます。そりゃそうでしょう。でも、CSが客の入りやアンケートで「わかる」くらいなら誰も苦労しません。

ソリストのアリョーナ・バーエワが真っ赤なドレスで登場します。長身、美形で若さと自信にあふれたオーラが漂っています。「ペトルーシュカ」を思わせるような冒頭(ストラヴィンスキーの影響は戦間期の音楽において露わです)に続いて瞑想的なソロが入ります。トライアングル、タンバリン、サックスと言葉にすると知的な感じがしませんが、巧みで贅沢な使い方がいいなと思っているとドビュッシーのペレアスのような夢の世界に入っていきます。この辺で、この曲は協奏曲というよりは独奏ヴァイオリン付きの交響詩だと感じました。単一楽章らしい自由な(実際は綿密な)展開から言っても、装いのわりにやや時勢に遅れた内容も。

弱音のトランペットが表す遠くから(現実かもしれません)の呼びかけに応えて、ソロがスペイン風の踊りを披露します。ポーランドと言うとショパン、マズルカとかがクイズの解答としては正解かもしれませんが、私の印象ではコスモポリタンなイメージです。オケが頂点を形作って、驚くほど長い間があってカデンツァになりました。観客を引き付けるだけ引き付けて自分の芸を見せる度胸には恐れ入りました。そういえばスクロヴァチェフスキも自分の間合いでゲネラル・パウゼを取る人です。メトロノーム的な意味では間違っているんでしょうし、それで何か表現できるわけでないでしょうけど、長い休符に自分の意志をこめることはできるように思いました。そして、この日の彼女はそれを十分に表す(何の苦もなく難曲を弾ききるという)技量を持っていました。音があちこちに飛び交い、無調主義っぽいコーダで終わりました。理由はわかりませんし、どうでもいいんですが、アンコールがなかったのも彼女らしいなと思いました。

 

最後のショスタコーヴィッチはスクロヴァチェフスキの才能に感服させられ、指揮者でオケは変わるなと思いました。というか21世紀において、オケはある一定以上のテクニックさえあればいいんで、単なる楽器に過ぎないと感じさせられないような指揮者はダメなのかもしれません。もちろんこんな意見は業界関係者や現場からすると暴論でしょうけど、だからといって彼らに実感を超えた、聴衆にも説得的な指揮者の評価基準があるのかは疑問です。

さて、こんな口熱くさい話をしたのもこの交響曲が暗示と予言に満ちていることを教えてくれたからです。出だしのトランペットから軍隊を連想させます。いわくありげで皮肉っぽい音楽がおもちゃの軍隊を浮かび上がらせます。エカテリーナ2世の息子で、ナポレオンを敗走させたアレクサンドル1世の父親のパーヴェルがこよなく愛したおもちゃの軍隊。1925年という革命と戦争の中間期に書かれた音楽。……

アタッカで入る第2楽章はプロコフィエフのピアノ協奏曲とよく似た感じのピアノが活躍するスケルツォですが、気持ちよく走らせてくれません。強引に流れを止めて、イスラムっぽい音楽を聞かせたりします。

第3楽章にはオーボエがゆったりとしたメロディを奏でますが、「安らぎ」とは似て非なるもので、まさに現代の「安らぎ」そのものです。ショスタコーヴィッチの気質は重くメランコリックなものだと思いますが、強すぎるくらいの知性をこの曲では感じます。この楽章と第4楽章に出てくるヴァイオリンのソロの手順とか、唐突かつ乱暴な小太鼓のロールのクレシェンドが同じく第4楽章につながっているところとかですが、何より「秩序のあるカオス」といった矛盾するイメージが音楽で伝えられるというのはやはりただ事ではないでしょう。

 

 

<いただいたコメントから>

木造建築っていうか… (ぽけっと) 2008-09-30 13:52:35

ブラームスは断片的にああ、牧歌的っ、てとこが多い(メロディメーカーじゃないからこそ?)ような気がします。だからどうしても木管、てことになっちゃうのかな、1楽章にも第2テーマかな?牧歌みたいなとこがありますよね、そう言えばヘ長調だし。

3楽章は♪ドレミ〜〜ソファレッだけであれだけ言えてるんだもんね、うれしくなったでしょう、それは。

シマノフスキは知らなかったのでナクソスで見つけて聞いてみました。官能的で描写的で、生で聞いたらさぞ楽しいでしょう。ちょっと飽きて来た…と思う頃にロマンチックに思い切り盛り上げるし、サービスいっぱいですね。

ショスタコービッチは飽きるヒマのない、緊張感に満ちた音楽です、ピアノがめちゃくちゃ効果的…

と、久々にとりとめなく…

 

プログラムの方が (夢のもつれ) 2008-10-02 13:50:29

とりとめがないというか、テーマがよくわかんなかったですね。。まあ、そういうのがあればいいってもんでもないですけど。

牧歌的かぁって考えてたら、ガーナチョコレートのホルンの旋律が頭に浮かんで取れなくなっちゃいましたw

 


 

  ヒンデミットの「レクイエム」をめぐる対話

 

10/20にサントリーホールで行われた読売日響の定期演奏会に我々は行った。プログラムは下野竜也指揮でヒンデミットのシンフォニア・セレーナと「前庭に最後のライラックが咲いたとき〜愛する人々へのレクイエム」であった。


「さて、どうだった?」
「全然ダメ。最初は指揮者の知性のなさに腹が立ったけど、『最後のライラック』を聴いてるうちに作曲家の無神経ぶりに苛立ってきちゃった」
「手厳しいね」
「だってそうじゃない。あの曲って何よ。リンカーン大統領が暗殺されたのを悼んでホイットマンが作った詩に、ドイツから亡命してアメリカの市民権を得たヒンデミットがルーズベルト大統領の死を悼んで1946年に作曲したものでしょ?」
「そうらしいね」
「それを現在の日本で演奏するってどういう意味があるの?」
「……君はアクチュアリティというか、政治性のことを言ってるの?」
「もちろん。宗教曲ってそういうもんじゃない?」
「全部が全部そうなのかは疑問だけど、少なくともこの曲についてはそうだね。歌詞の中に戦死者のことが出て来るから南北戦争とリンカーン、第2次大戦とルーズベルトを題材としているのは確かだし。……とすると、9.11とブッシュ?」
「うん。で、そうじゃないって言うんだったら、どういうつもりなのか答えられないとダメでしょ?」
「ええっと。ブッシュは死んでない。それに今や共和党候補ですらあの戦争とブッシュを称えていない。ブッシュなんかもうおしまい、知らないとか」
「あはは。それで?」
「だから、政治性はない、かな」
「だから、知性もない、でしょ?」

「まあ、下野は『画家マティス』以外はあまり知られていないヒンデミットを日本に紹介したかったんじゃないの?」
「教養主義?欧米の本を翻訳すれば学者面できるみたいな?そんな感じのぬるい演奏だったわね。そんなんじゃヒンデミットの批判もできないでしょ」
「指揮者は批評家である必要はないんじゃないかなぁ」
「だから日本人指揮者はダメなの。外国人指揮者はちゃんと批評してるから、聴いてておもしろいの。スクロヴァチェフスキとか」
「そうなのかなぁ」
「だいたい演奏評からして日本はダメね。あそこでチェロにアクセントをつけたといったベタな耳自慢と壮大かつ華麗な演奏といった空虚な印象論しか語らないでしょ。だから指揮者は成長しないの。違う?」
「まあ、書いてる人に知性や音楽以外の教養を感じることは少ないね」
「音楽の教養なんてないの。音楽の知性って言葉がナンセンスなのと同じ。あるとすればペダントリィだけ」
「……で、ヒンデミット批判って?」
「あなたあの曲聴いて『レクイエム』だって思った?」
「え? だって別にミサの典礼文や定旋律を使わなくても『レクイエム』って名乗ってるのはいっぱいあるじゃない。ブラームスとかブリテンとか」
「じゃあ、宗教曲だと思った?」
「うーん。そう言われるとわかんない。宗教っぽさがないとは思ったけど、それってかえっていいことのような」
「宗教っぽいってどういうのよ」
「おごそかな感じかな。賛美歌みたいな」
「賛美歌って何を賛美するの?」
「そりゃあ、神?」
「あの曲は神を賛美してた?」
「ちょっと歌詞を見てみるね。……うーむ。これは賛美してるとしても神じゃなく、死だね」
「そう。この詩は『死の賛歌』なの。ライラックやつぐみが出て来るからって甘ったるい詩だと思ってると第9部で『Come lovely and soothing death』って死に引きずり込まれるの」
「そこまで言っていいのかなぁ」



「いいのよ。でも、そっちは後で見てみることにして、先にヒンデミット批判の方を片付けると、まず『Requiem for those we love』という原詩にはないよけいな副題をつけたのが間違い。次にその詩の読み方の浅さが中途半端な音楽につながってるの」
「中途半端?」
「この曲を聴いて、戦争を憎む気になる?それとも賛美する気になる?」
「えっと……」
「そうでしょ?戦争のことなんかべっつにぃって感じでしょ?ブリテンみたいなアクチュアリティもなければましてやショスタコーヴィッチみたいな両義性もない」
「第10部の歌詞には『They(the dead soldiers) themselves were fully at rest, they suffer'd not, The living remain'd and suffer'd, the mother suffer'd』とあるね。戦死者たちは安らかだ、苦しんでないって言うんだから、少なくとも戦争批判じゃあないな」
「その個所もマーチと消灯ラッパみたいなのが鳴るだけで、中途半端でしょ。鈍いのよ」
「鈍い?」
「テクストに音楽がどう反応するのかを聴くのが声楽曲の楽しみじゃない。名作曲家はすべて鋭敏に反応してるわよ。元々あたしがおかしいなって思ったのは、第
3部にオルガンとか鐘って言葉が出てくるのにオルガンも鐘も沈黙してたからなの」
「あー、確かにぼくもあれ?って思った」
「鳴らさないなら鳴らさないだけの意味や仕掛けがなきゃダメでしょ。そういう芸当ができなきゃ伝統に従っておとなしく鳴らしてればいいの。まあ、折角配ってくれた歌詞も見ないで音楽を『鑑賞』する人は多いけどね」

 

「じゃあ、原詩の構造を検討しながらヒンデミットの音楽もついでに見ていこうか。全部で16節からなる長い詩は次のように始まる(ただし、ヒンデミットはこれと違って11部に区切って作曲しているのでその対応を示しておこう)。

When lilacs last in the dooryard bloom'd,
And the great star early droop'd in the western sky in the night,
I mourn'd, and yet shall mourn with ever-returning spring.

1行目の last は次の行の early と対照をなす副詞だということと3行目の yet shall のニュアンスを活かして訳すと、

ライラックが前庭でまだ咲いているのに
偉大な星がもう西の夜空に沈んだ。
そのとき私は嘆いた。そして春が来るたびにいつまでも嘆くだろう。

となるかな。ライラックに象徴される自然に触発されて the great star に象徴されるリンカーンの死を嘆くという全体のモチーフがもう出ているわけだね」
「うんうん。第1節から第3節(ヒンデミットの区切りでは第1部)はそれを敷衍してるのね。で、第4節(第2部)では沼のそばで内気で孤独なつぐみ the thrush が現れて、歌を唄う。

Sings by himself a song.
Song of the bleeding throat,
Death's outlet song of life,

となっているから、つぐみは血を吐きながら唄ってるし、それは死の歌なのね」
「Death's outlet song of life は生きているつぐみが死を吐き出す歌なのか、いずれは死ぬつぐみが吐き出す生の歌なのか、どっちなんだろう」
「うーん。この1行が生と死の関係をアイロニカルに表現しているのはわかるんだけど、よくわからないな。でも、ここは暗示的だし、魅力的だね」
「第5節から第7節(第3部)は棺おけの旅ね。田園の描写からだんだん風景が広がって、合衆国 the States 全土が喪に服す様子が浮かび上がってくる。

Coffin that passes through lanes and streets,
Through day and night with the great cloud darkening the land,
With the pomp of the inloop'd flags with the cities draped in black,
With the show of the States themselves as of crepe-veil'd women standing,

この後も With で畳み掛ける表現が続いて気分が盛り上がって、

The dim-lit churches and the shuddering organs -- where amid these you journey,
With the tolling bells' perpetual clang,

と教会のオルガンと鐘が鳴るわけだから、それを活かさないヒンデミットの作曲はダメね」
「第7節はその棺おけにライラックを捧げるという内容で、ここまでが前半部だね。後半の出だしは冒頭と似ていて、第8節(第4部)が星は天体 orb と言い換えられて、その描写がリンカーンの死を悼む内容だし、第9節(第5部)はこれがつぐみの歌と結び付けられる」
「ヒンデミットはそれぞれ舟歌と田舎の歌にしてるわね。第10節と第11節(第6部の途中まで)は偉大な魂を私はどんな歌で飾ればいいのか、彼の墓にはどんな香りがふさわしいのかとつぐみが問いかけて、

Sea-winds blown from the east and west,
Blown from the Eastern sea and blown from the Western sea,
till there on the prairies meeting,

海風は東からも、西からも吹き
大西洋からも、太平洋からも吹き
ようやく大草原で出会った

と唄われるのね。この詩でここがいちばん好きよ」
「広がりが感じられるよね。その後は田園風景になって、次第に都会に場面が転換して、工場と労働者が現れる。音楽もそれらしくオルガンを動員して大げさなクライマックスを作っている。第12節(第6部の残り)はその続きで、マンハッタンの高層ビルやオハイオの岸辺、ミズーリ川と具体的な地名が出て来る。ずっと引っ張ってきて、ようやくアメリカが唄い上げられるところがいいね」
「第13節と長い第14節の途中までが第8部ね。つぐみが自然とその中で働く人びとを唄い、そしてヒンデミットが『賛美歌:愛する人びとのために Hymn"For Those We Love"』と名付けた一節が来る。

And I knew death, its thought, and the sacred knowledge of death.
Then with the knowledge of death as walking one side me,
And the thought of death close-walking the other side of me,
And I in the middle as with companions, and as holding the hands of companions,

これって、死についての熟考と死に関する知識と手をつないで歩いているってことよね。これのどこが愛する人たちへの賛美歌になるのかしら」
「死への想念に挟まれた自分、死を友にしているってイメージだね。神の慈愛にすがることで死者たちの魂を地獄から救おうとするレクイエムの目的とは違うね。全く相反するとか、矛盾するとまでは言えないけど、キリスト教的ではないし、ここでイメージされている死はあくまで自分の死だからね」
「それ以上に問題なのはここがバリトンのソロになってること。賛美歌って教会で信者が共に歌うものよ。自分たちが神の下で companions であることを確かめるためのもので、一人で唄うものじゃないって。詩の内容からは孤独なソロが正解だけど」
「要は『Hymn"For Those We Love"』って勝手にタイトルをつけた意図が邪だって言うんでしょ?」
「まあね」
「この後は第13節を繰り返すメゾソプラノとつぐみが『死のキャロル the carol of death』と唄い始めると告げるバリトンの二重唱か」
「その長いキャロルがそのまま第9部になってる。キャロルって聖歌って訳されるけど、祝う歌、楽しい歌って感じよね。確かにホイットマンもそうだわ。ただし、死の到来を喜んでるってことだけど。

Come lovely and soothing death,
Undulate round the world, serenely arriving, arriving,
In the day, in the night, to all, to each,
Sooner or later delicate death.
For life and joy, and for objects and knowledge curious,
And for love, sweet love -- but praise! praise! praise!
For the sure-enwinding arms of cool-enfolding death.

讃えよ!讃えよ!讃えよ!冷たく包み込む死のしっかりと巻きつく両腕をってちょっと怖いわね。音楽は翳りのある賛歌といった趣きで悪くないけど」
「From me to thee glad serenades,
Dances for thee I propose saluting thee,
adornments and feastings for thee,

セレナードに乗って死とダンスを踊るんだね。ここでヴィブラフォンが鳴って、舞踏会で美女にダンスを申し込むときのような原詩の感じがよく出てる。あたしは牡丹灯篭っていうか、ネクロフィアを思い出しちゃうけど」
「次の第15節(第10部)に戦場の描写がマーチに乗って出てくるのもすごいなって思うわ。現代の詩人には死への賛歌と戦死者の死体を繋げるような芸当はできないでしょ。従軍体験を元にした悲惨な光景をさんざ描いておいて本人たちは苦しんでいない、安らかだって言われてもねえ」
「I saw battle-corpses, myriads of them,
And the white skeletons of young men, I saw them,
I saw the debris and debris of all the dead soldiers of the war,
But I saw they were not as was thought,
They themselves were fully at rest, they suffer'd not,
The living remain'd and suffer'd, the mother suffer'd,
And the wife and the child and the musing comrade suffer'd,
And the armies that remain'd suffer'd.

残された母親や妻子や戦友は苦しんでいるんだよね。それはそれ、これはこれってことなのかな」
「気持ちのもって行き場がない感じね。でも、この詩の内容から言うとリンカーンの死を悼む気持ちと死を讃えるのがメインで、戦死者や遺族のことは大した問題じゃないのかもね」
「そうかもしれない。最後の第16節(第11部)は全体の内容をダイジェストしたような感じだけど、死者への言及は、

Comrades mine and I in the midst,
and their memory ever to keep for the dead I loved so well,
For the sweetest, wisest soul of all my days and lands
-- and this for his dear sake,

となっていて明らかにリンカーンのことしか言ってないからね」
「南北戦争はそれでいいかもしれないけど、第2次大戦にそれはないよって。ヒンデミットはどういうつもりだったのかしら」
「うーん。ナチスに追われて亡命したアメリカにおべっかをつかった?」
「そう。国民的詩人のホイットマンを使ってね。学識は高いけど、無節操な御用学者を連想しちゃったわ」
「音楽的にも勿体ぶってはいるけど、突き詰めたところはないし。まあ、こうやって見ていって、よくわかったね」


「うん。とっつきにくいけど、宗教曲とか宗教画ってわかりやすいよね。あ、そうそう。最後に一言。会場で配られた歌詞の訳がひどかったわ。石田一志っていう武蔵野音大の大学院で音楽学を専攻した研究者で、著書や訳書もいろいろあって王子ホールの芸術顧問やミュージック・ペンクラブ・ジャパン会長なんかもやった人みたいだからあえて言うんだけど、きちんと辞書を引いて、英語の意味を理解してから日本語にしなさい」
「そうだね。詩だからこそ文法的なこともちゃんと詰めないとダメなのに the welcome night and the stars が『ようこそ夜と星』ってなってたのは笑っちゃったね。……教え子かなんかに下請けさせたんじゃないの?」
「恥ずかしいってことではどっちも同じよ。ノンブランドなら見逃してあげてもよかったけどさ。うまい下手じゃなく、ここで引用した部分部分ほとんどすべてに誤訳があるんだもん、勘弁してよ」

 

<いただいたコメントから>

ふうん… (ぽけっと)2008-11-23 10:35:02

イメージ広がるいい詩じゃないの、このテンプレートもよくマッチして、と思いながら見ていましたが、竜頭蛇尾な感じもしますね。

でもなんでオルガンと鐘を鳴らさなかったんでしょうね、何か意図があったのかしら、聞き手の心の中で鳴らしてくださいとか敢えてキリスト教的なものを避けたとか。

曲を知らないからなんとも言えないけど。

 

星3つ半 (夢のもつれ)2008-11-24 00:44:53

の映画って感じで、部分部分はいいものがあるし、ストーリーも悪くないのに読後の印象がどこか散漫な感じでした。

最初に三位一体とか出てくるからキリスト教的なものを避けてるわけでもないようで、独自の解釈をしてるんでしょうね。

 


 

  11/21読売日響・定期演奏会オールベートーヴェン

 

 11/21にサントリーホールで行われた読売日響の定期演奏会はあたしが代わりに行った。プログラムはオスモ・ヴァンスカの指揮で、ぜーんぶベートーヴェンのプログラム。今さらあいつみたいに彼の作品の分析やっても仕方ないから聞こえた音だけについて書いてみるね。たまにはそういうのもいいじゃない。

 最初はコリオラン序曲。チェロとコントラバスが指揮者から見て、左手の第1ヴァイオリンの後ろにいる。木管ナイス。ティンパニ、タイミングずれる。ピッチも狂ってる。そういえば木管のピッチもおかしい。目をつぶって聴いてると金管が唾を吹き出す時のような音が時々別の方向から聞こえる。目を開けると指揮者の息遣いだとわかった。ちょっとうるさい。

 次はシンフォニー第4番。Mov.1 いい感じの出だし。やや長い間が空く。木管のせい?リズム感悪いよ。フルートのソロはいいね。クラは少し劣るかな。金管頑張りすぎー。Mov.2 ああ、低弦を逆さまにしたのは「一体感の確保」ってところかなとなんか納得。ストリングスがくるりんって回る感じ、いいじゃん。ヤヴァイ、えへん虫が来ちゃった。ここで咳したらあたしの沽券に関わる。なんとか唾飲んで堪える。でも、だんだんいい気持ちに。クラのぷぷぷがワンダフル。あ、音だけの世界だ。意識が遠くなっているのに音楽は隅々まで聞こえる。首が下がっていく、眠っているように見えるかな。Mov.3は何も書くことない。Mov.4でヴァンスカが片方を上げて、もう片方を下げるのがなんかおかしい。見事なクレッシェンド。ファゴット、盛り上げが足りないよ。力不足かな。休憩に入って、「ユーモアがないよなぁ」ってふと独り言。

 命名祝日序曲。気持ちいい三和音の出だし。でも、あれ?なんかぎくしゃくしてる。練習不足?でも、最後の方でよくなった。軽くて安直って感じだからいいのかな。

 最後はシンフォニー第8番。Mov.1 わずかに遅れた。第2ヴァイオリン、がんばれー。ピアノの部分でのユニゾンがいいね。おおー、ベートーヴェンキターー。ピチカートwunderbaaar! Mov.2 タクト置いて指揮してる。全体的に少し噛みあってない。オーボエ、のほーずに吹きすぎ。Mov.3 タクト持つ。よく響く。ファゴット、がんばってる。ムーディな個所。木管はもっとアンサンブルを。Mov.4 ベトちゃんはこの曲で、何を言いたかったの?乙女とのときめくkuss?もーそー?一斉にスコアをめくる音。ラッパ、ダメ。いろいろはずすんだもん。でも、まあいい方なのかな。この日本では。3回だけ拍手に付き合って席を立つ。じゃあまたね♪

 

<いただいたコメントから>

実況放送ですねw (ぽけっと) 2008-11-23 17:29:08

ひらがなにして箇条書きになっただけのような気もするけど、でも確かに演奏中そんなこと心の中でぶつぶつ言っちゃいますよね。

次は「指揮者、ふりかぶってフォルテッシモ、お〜っとラッパはずした〜〜…」なんていうのはどうでしょう。

 

これは (夢のもつれ) 2008-11-24 01:01:51

演奏中のメモをほとんどそのまま書いたんで、すごく楽でした。。まあ、何か調べたくなるような演奏以外は毎月のはこれでいいかなと

 


 

  グレングルード変奏曲

 

0.Aria

グールドがゴルドベルク変奏曲を演奏したのではなく、ゴルドベルク変奏曲がグルードを演奏したのである。

衝撃?誇り?そんなものはどちらでもいいと考えただろう。

とりわけ聴衆や厳密さを欠く演奏など何ほどのものかと。

 

1.〜30.の変奏

(オートマティズム。太陽があるのと同じくらいの疑いのなさ、風に舞う……)

 

00.Aria da capo

グールドがゴルドベルク変奏曲を変奏し終えたのではなく、ゴルドベルク変奏曲がグルードを変奏しきったのである。

バッハへの畏敬?嫌悪感?恍惚?

演奏し終えるまで生きていられるよう、

神に祈ったかもしれない。

弾き終えれば眠れるように。

 

すべてがそこに向かう。

 




  BSHの楽しみ:12/15読売日響定期演奏会

 

12/15の読売日響の広上 淳一指揮の定期演奏会の感想を簡単に。

1曲目は、ヴァイオリン:ルノー・カプソン、チェロ:ゴーティエ・カプソンによるブラームスのヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲。ほとんど気持ちよく寝てしまったので特に書くことはない。アンコールはヘンデルのパッサカリアだったのかな、なかなか喜悦感のあふれるいい演奏だった。

休憩後の2曲目もブラームスで、ピアノ四重奏曲第1番をシェーンベルクがオケ用に編曲したもの。ピアノをどのパートにやらせるかがポイントだと思った。クラリネットを始めとする木管;ブラス;マリンバやトライアングルなどの打楽器の、3つが担当というのはすぐにわかったけど、もう一つあるような気がして見ていると、ちょっと先にいるコントラバス奏者がインテルメッツォのところで、さあっと楽譜を撫でるのに気づいて、あっと思った。隣の奏者に「ここがポイントだから入念にね」と確認したのだろう。どうやらチェロとともに低弦が4つ目のパートらしい。

それがわかるといかにもシェーンベルクらしい知的でウィットに富んだ工夫が聞こえてくる。簡単に言えば(弦だけの)3+(ピアノを加えた)4の組み合わせによって、再構築しているわけで、トライアングルはそのキイのようなものだろう。

こういう秘儀のようなことを明確に聞かせてくれた広上とオケに拍手を送りたい。日本人も捨てたものではない。ただ、彼の指揮姿は小澤に似て、田舎の社交ダンスのようなものだし、少々息遣いが早く:荒くて、若さを感じさせるのはグールドを想起させた。

 

 

<いただいたコメントから>

とな* 2008年12月19日 18:01

演奏会はとても心地よかった感じが伝わってきます。

譜面を撫でるところまで見てるなんて 隅々まで味わって

いるのですねえ。。。奏者の息遣いまで聴こえてきそうです。

 

本文とは関係無いですが ノーベル賞授賞式なんてどうせつまらない ものだろうと、見逃しました、悔しい! 天才はすごいですねっ

ちなみに 物理学の研究をされている方のブログを拝見したら 南部さんは もう「さん」とか「先生」という敬称をつけるレベル ではない、と書いてありました。

ニュートン、とか 坂元竜馬、とか、敬称なしでしょ? って。ナルホドー  

 

ノリタン☆夢のもつれ 2008年12月22日 20:00

息遣いはふつうに聞こえるようになったので、4月からは最前列に行くことにしました。

 

 それと似たブログはぼくも読みました。でも、なぜ南部さんが天才なのか、肝心の効能効果とか、ましてや副作用については全然書いてないですけどw

 


 

  あとがき 08.01.25記

 

 08年のクラシック音楽についての記事をアップするのに際し、いくつかコメントします。

 まず内容ですが、11月のオールベートーヴェンから大きく異なっています。文体からして変なふうになっていますし。これは他で書いたように、ずっと片想いだった音楽が微笑んでくれるようになったというぼく自身の感覚の変化によるものです。遠慮なく書いてしまえば一般の聴衆が聞こえないものが聞こえる、通常の演奏家が見えない楽曲の構造が見えるということです。原因は長年にわたりいろんな音楽を毎日何時間も聞いてきたからという直接的なもの以外に、体を鍛えてきたからとか、この時期に精神的なストレスが重なったということが挙げられるでしょう(後者についてはグールドについての奇妙な文章が暗示しています)。……古代ギリシアのアテナイでは音楽と運動が市民(すなわち戦士)にとって必須の教養であったそうですが、人間理解の深さを感じさせるエピソードです。

 でも、そういう兆候は前からあって、例えば1月のバルトークやショスタコーヴィッチについては、凡百の解説を超えて、曲の構造の分析とその結果浮かび上がる作曲家そのものの評価を行っています。……何をえらそうなという声がしそうですけど、ではあなたはそれなしに音楽を聴いて何の足しになるんですか?まあ、せいぜい気晴らし・暇つぶし・ディヴェルティスマンとして聞くんでしょうね。ふつうの人はそうなんでしょうし、演奏家だって多くはそうかもしれない。しかしながら、あいにくそんなのではモーツァルトのディヴェルティメントだってわかりゃしませんよと悪態で返しておきましょう。

 また、聴感がよくなってきて、音楽の細部や中身がよく聞こえるようになったのはいいけれど、一般人の無教養・無神経に苛立ってしまい、感情を露骨に示しすぎることも既に3月の池袋のコンサートに現れています。この記事によってとあるSNSのコミュから(演奏家に対する敬意がないとかなんとかを一応の理由にして)追い出されたんですが、まあ、日本の音楽批評の現状について、ホントのことを言うとそうなるのはやむをえないかなって思っています。

 そういう意味ではヒンデミットをホイットマンの詩のテクスト分析から批判したものは、ぼくの従来のスタイルの典型・最終型かもしれません。いくら書いてもわかんない人には有害無益だし、わかっている人には音楽を聴く場合の当然の前提が多く、大きなお世話なのかもしれないので。

 毎月のコンサートについて書くのは自分に課した義務のようなものですが、それだけにその時々のぼくの「天気概況」を示しているように思います。こういうとまたマジメとか律儀だとかお友だちに言われそうですけど、他人や国家から押し付けられた義務はイヤだし、適当にごまかそうと思いますが、自分で決めたことくらい守れなくてどうすると思っています。これまたふつうの人とは違うのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

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