symphony 1

 

クライバーのリンツ

マーラー第10番(クック補綴版)

ブルックナー第0番

朝比奈隆指揮、大阪フィルのベートーヴェン交響曲全集

マーラー第8番

モーツァルト第25番&第29番

第9シリーズ

 シューベルト

 ブルックナー

 マーラー

 ショスタコーヴィッチ

私はシューマンがわからない

私はまだマーラーがわからない

 

 


 

 クライバーの「リンツ」

  最初の音が鳴った瞬間、今まで聴き慣れていたはずのリンツとは全く別の音楽が始まりました。クライバーの名前は知っていましたが、CDすら聴いたことがなく、初めてムジークフェライン・ザールで見る指揮のカッコいいことと言ったら……それ以上に出てくる音のすべてが驚異でした。ウィーン・フィルの演奏は何度も見ましたが、この時ほど必死になって弾く第1ヴァイオリンは見たことがありません。アバドも、ムーティも、レヴァインも、小澤も、どんな指揮者の時でも、ある意味楽しんで、ある意味余裕を持って演奏していたウィーン・フィルが彼のかすかな動きにも集中し、一糸乱れず反応しようと全身全霊を傾けているのです。しかも、ブルックナーでもマーラーでもなく、ジュピターですらなく、リンツで。……ただ一人クライバーだけが涼しい顔で、優雅にタクトを操ります。指揮者は音を出さないのですから、いくら汗をかいたって、いくら体をよじったって仕方ない、君臨すればいいのだと教えてくれました。

 これがリンツなのか?ほんの数日で間に合わせのように書かれた音楽がこんな意味深いものだったのか?……本当に耳を疑うなんてことはその後も、今に至るまでありません。しかし、時が経つにつれて、モーツァルトの頭の中で響いていた音楽はたぶんこの音に近いものだったに違いない、およそふつうの人間がそれを再現できるとか、ましてや楽譜に表現されているなんて思う方がどうかしていると思うようになりました。天才の音楽は天才にしか演奏できない、言葉にすれば当たり前すぎる話です。

 それ以来、私はモーツァルトは動詞だと思っていますw。この演奏はモーツァルトしてないなぁといった具合に。どんなにスコアを読み込んで勉強していても、新奇な解釈で驚かそうとしても、モーツァルトしていなければ、瞬間、瞬間でその大胆にして繊細な何かが捉えられていなければ演奏は死んだ無意味なものなのです。そのためには常軌を逸したような精神の高さと速さが必要でしょう。

 この時には、ブラームスの2番も演奏され、それも名演だと思いましたが、衝撃力ではリンツに及びませんでした。

 蛇足になりますが、なぜクライバーはめったに指揮台に立つこともなく、レパートリーも極端に狭かったのでしょうか。いろいろ理由もあるでしょうし、何らかの説明もされているのかも知れませんが、私は一つ、子どもっぽい空想を持っています。彼は指揮者になるのに大指揮者のお父さんにかなり反対されたそうです。紆余曲折があって、最後に父は指揮者になることをあきらめようとはしない息子に言ったのではないでしょうか。「いいかい、カルロス。決してパンのために指揮をしてはいけないよ。君の魂が響いたときにだけタクトを持つんだ。約束できるかね」と。……そうしたことを確かめることはもう永遠にできないのですが。

 

 

 


 

 マーラー第10番(クック補綴版)

  朝比奈隆がブルックナーの第9番第4楽章の補綴版について、ミロのヴィーナスに腕をつけるようなものだという趣旨のことを言っていました。Nicola SamaleとGiuseppe Mazzucaによる補綴をインバルが指揮したCDを聴くと、確かによけいなことをしたものだという気がします。いくら資料的に根拠があっても聴く方として納得できなければ「こんな音楽があの深遠なアダージォの後に来るわけがない」と言う権利はあるように思います。

 かと言って、そういう試みが無意味だとか、神聖な大音楽家を汚す行為だとか思っているわけではなく、悪食の私としては取りあえず聴いてみたくなります。マーラーのデリック・クックによる補綴版は昔、ウィン・モリスによる演奏で聴いたことがあって、あの第4楽章の消防士の葬列にヒントを得たという太鼓の音がなんとも凶々しい感じが印象的でした。

 今回はインバルによるCDが図書館にあったので、久しぶりに聴いてみたのですが、十分意味のあるものだと思いました。もちろんマーラーならこういうオーケストレーションにはしなかっただろうというところはありますが、それはクックがやりすぎなかったのを裏付けていると理解すべきでしょう。ちょっと脇道に逸れますが、私は指揮者とか演奏家とか、誰がいいとか、悪いとか鑑定できるような耳はもってないですし、そういうことが得意な方はブログにはいっぱいおられるみたいなので、お任せしてるんですが、インバルって指揮者は、ブルックナーの0番とかその前の習作も録音していて、かつ廉価版なので、必然的に聴くことが多いんですけど、まああんまり大したことないなって気がします。でも、巨匠だと全集(Complete Edition)とかいっても退けるようなのも、何でも取りあえず演奏して、録音するというのも立派な芸だと思います。

 それはともかくこの第1楽章しか通常演奏されない曲は、全5楽章からできていて、4分足らずのPurgatorio(煉獄)を2つのスケルツォが挟み、更に両端楽章が2つのアダージォでできているシンメトリカルというか、サンドイッチみたいな構成になっています。バロックのコンチェルトは、ほとんどが急、緩、急の3楽章構成で、ハイドンも最初は同じような構成でシンフォニーを書いていたのをスケルツォやメヌエットのような舞曲を加えて、4楽章構成にしたことで、シンフォニーの基本骨格(マックス・ヴェーバーのいう理念型)ができたと思うんですが、それらとマーラーの構成方法は似て非なるものだと思います。

 空間芸術なら3楽章もこの5楽章もシンメトリカルな点は同じですから、先祖帰りみたいに見えるかも知れませんが、時間芸術である音楽ではそうは聞こえません。全曲が一望できず、前の楽章が順に記憶の中に残っていくため、両端楽章の印象が強くなるはずで、4楽章の前作第9シンフォニーと同じようなイメージ、すなわち死への恐怖と憧れに彩られた内容を、シンフォニーの基本骨格(とソナタ形式)から汲み取れるものはすべて汲みつくし、崩れていくフォルムの中で表現しているように感じられます。

 そうした基本トーンの中で、ハプスブルク帝国の辺境でユダヤ人として生まれた自分の出自やウィーンでの成功と達成できなかった想いといった、彼の音楽のelementが次々と浮かび上がり、去って行きます。マーラーはボヘミア、現在のチェコのイフラヴァに近い村に生まれたのですが、ウィーンからそう遠いわけではないものの、ハイドンやブルックナーが田舎出身でもハプスブルク帝国の中に育ったことは変わりないのと比べ、あの辺りは今でも端っこ、辺境という感じがあります。その中でのユダヤ人という存在はカフカなどとも通じるものでしょうし、指揮者としての激務をこなしながら律儀に夏休みだけ作曲するという生活も上昇志向の現われのように思います。カトリックに改宗したことも、20歳近く年下の才色兼備のアルマと結婚したことも同様に思えますし、そうした様々なcomplexがフロイトの診察を受けるような症状と関係があったのでしょう。

 そんなことを考えていると、この曲が#が6つもつく嬰ヘ長調という調性であることが気になりました。管楽器などはずいぶん演奏が大変でしょうし、sonorityに問題が生じることはマーラー自身が百も承知だったでしょう。例えば第1楽章の不協和音の効果を挙げるために、あえてそうしたと考えた方が順当でしょう。しかし、それだけでしょうか? バッハのマタイ受難曲などでは、十字架と結びついた歌詞が登場するときに、♯系の調性が用いられます。20世紀に書かれたシンフォニーにこれを適用するのはおかしいのかもしれませんが、”煉獄”が真ん中に置かれていることなどから言っても的外れとは言いきれないのではないでしょうか。私には“死神が弾くオルガン”のような不協和音を作曲する一方で、意識的ではないにせよ、たくさんの十字架を楽譜に書きつけている彼の姿が思い浮かぶのです。

 

 


 

ブルックナー第0番

 

 

 ウィーンに住んでいた頃、お客さんが来られると、市内をはとバス的にご案内して、もう1日あればザルツブルクにお連れするのが定番でした。アウトバーンを飛ばしながら、モーツァルトの話なんかしてクラシックにちょっと興味がありそうだなって思うと、リンツを過ぎたところで、ブルックナー(1824-1896)が奉職し、永遠の眠りについている修道院の話をします。正直言って、ザルツブルクへ行くのも大概飽きていましたし、先日書いたようにあそこのモーツァルトを食い物にしている、いかにも観光都市的な雰囲気が好きじゃなかったので、あわよくばザンクト・フローリアンに行ってみたかったのです。でも、一度もそれに興味を示した人はいませんでした。……

 そこで思いきって平日に休暇を取って、ザンクト・フローリアンに行きました。ブログのときには書かなかったですけど、向こうの若い女性といっしょにね^^。小高い丘の上に大層立派な修道院が建っていて、それにへばりつくように小さな町がありました。ブルックナー・オルガンにお目にかかろうと、勇んで入っていたら工事中でそのチャペルは見られないって愛想のない掲示。ガーン、そんなぁ……ま、仕方ないのでお墓なのかどうか、修道院の床にブルックナーがなんたらかんたらよくわかんないドイツ語のプレートが嵌め込まれて、小さな花束が手向けられているのに向かって、彼女がやるのを横目で見ながら、片膝ついて額に手を当ててお祈りしました。

 そこのレストランで、グーラーシュっていうしょっぱいハンガリー風シチューとクネーデルっていうもっちゃりした団子を食べました。ブルックナーもこういうの食ってたんだろうなぁって思いながら。

 小さな売店で“Die Bruckner Orgel”っていうカセットを買いました。

「CDは?」

「Nein」

「ないんか」

 他は修道院のガイドブックとか発色の悪い絵ハガキで、ブルックナー・サブレとかアントン餅とかはありません。日本なら絶対あるのに。彼女は日本人ってみやげ物が好きなんだねって感じのことを言ってましたね。……ところがこのカセット、戻ってから聴いてみたら、ブルックナーの曲は2つだけで、あとはバッハ、クープラン、Kropfreiterっていうオルガン奏者の自作自演……まあ、お天気はよくて、うざい観光客はだーれもいなかったし、その他もろもろよかったなぁって思いました。じゃあ、またね。

 

 

 

 

 

 って、おい、作品の話なんもしてないじゃないかっ! はは、なんせ0番ですからw。……うそうそ。ちゃんとやりますよ。それなりに。この作品はリンツで書かれました。ちょっと手前だったんですねw。リンツにはウィーンに行って、まだ日も浅い頃に行きました。リンツ・シンフォニーの街、ブルックナーが作曲家の道を歩みだした街っていうことで、期待したんですけど、でっかい製鉄所があってあたりは真っ赤、街中に入るときれいだけどウィーンに比べればなにもかもちっちゃいです。

 ブルックナー・ハウスっていうコンサートホールも、まあバブル期にあちこちにできた日本のと同じようなものです。ちょうどオーストリアの食事に飽きてきた頃だったので、お昼ご飯に中華料理屋に入ったら悲しくなるような炒麺で、テレサ・テンのBGMと相まって望郷の念が起きてしまいました。……

 この曲は、学生時代にFMで朝比奈隆をゲストに招いた番組の中で彼の指揮、大阪フィルで聴いて以来の付き合いで、第1とか第2より親しみがあります。朝比奈がブルックナーを評して、愚直という言葉を繰り返していたのが印象的でした。私はこの作品をブルックナーのシンフォニーのミニチュアのように考えています。そう、リンツやグラーツがウィーンのミニチュアであるように。

 それにしても着手したのが39歳の頃、完成が45歳ですよ。モーツァルトやシューベルトはとっくに死んでるし、同じ年頃の大シンフォニストと言えば、ハイドンが45番「告別」や49番「受難」のような短調の新しいタイプのシンフォニーに挑戦し、ベートーヴェンが第6から第8によって円熟し、うじうじ1番をいじっていたブラームスだって2番はすぐに書いちゃったし、マーラーは4番から6番、チャイコフスキーは4番、ショスタコーヴィッチは9番(!)を作曲していたんです。

 つまり他の作曲家が残りの作品がなくたって音楽史に十分名前を残していた年齢になってやっと、それもおずおずとシンフォニーに手を染め始めたわけです。まさにブルックナー・アンファング(開始)、作品と同様、気が長いというか、中年の星ですねw。でも、0番というのはすごい名前です。ブルックナーという人は、自分ではそういうつもりじゃないのにとんでもないことをやってしまうところがあります。

 着手する直前にベートーヴェンの第9を聴いたらしく、同じニ短調で、彼の第3、第9も同じ調性です。他の短調のシンフォニーは、習作(これだって39歳のものです)のヘ短調を別として、第1、第2、第8がハ短調ですから、ベートーヴェンの影響は明らかであると同時に、長い長調の時期を経て、短調に回帰したことも彼らしいと思えます。調性の話になったついでにブルックナーのシンフォニー全部についてみると、第6、第7のイ長調(♯3つ)以外はすべてフラット系です。フラットが多くなると曲がマイルドになるって言う人がいますが、ニ短調と第4の変ホ長調が♭3つで最も多いのですが、どんなもんかなぁ。。

 この作品の中では第1楽章の「えんやこら、どっこい」って歌詞を付けたくなるような素朴で不器用な弦の動きと第3楽章がとりわけ好きです。私は車の中では、眠くならないようにクラシックは聴かないwのですが、ブルックナーの全部のシンフォニーから高揚感を味わえるスケルツォだけをPCで抜いて、CDに焼いて時々聴いています。そうすると、第8、第9に向かって作品全体としてはあれだけ進歩し、洗練されていったのに、スケルツォだけは本質的にはあまり進化していないように思えてきました。スケルツォは彼が少年時代に見た大自然の猛威や田舎の踊りといった思い出を綴る、いちばん肉体に近い原初的な部分だったように感じられます。

 やわらかい線を描くオーバー・エステライヒの野を広々と見渡すザンクト・フローリアンは彼の出生地にも近く、幼少期からしばしば通っていたところです。……

 ――今回はブルックナーふうにしてみました。中々本題に入らず、やたらと長く^^。

 


 

 朝比奈隆指揮、大阪フィルのベートーヴェン交響曲全集

  7枚組みの、第5や第7も単独で1枚に収録した贅沢なものですが、演奏ははっきり言っていただけませんね。ベートーヴェンのシンフォニーって、ドライヴ感って言うか、紀貫之じゃないですが、天地を動かすような力動感がなきゃダメでしょう。そういう意味では、特に最初の1、2、4、8辺りのリズムがなんかずれてるような気色悪さを感じました。そういうのって朝比奈の指揮で時々感じたことですけど、シンプルな曲だけにはっきりしてしまいました。

 後半はそういうことは少ないですが、今度は大阪フィルの弦以外のセクションの弱さが際立ってました。例えば第7は金管、第9は木管が腑抜けたような音程で、大阪出身の私としては阪神が負けが込んだときのように悲しかったです。まあ朝比奈が私淑したフルトヴェングラーを始めとして名演に事欠かないベートーヴェンなんですから、わざわざ聴くこともなかったという結論に至るしかなかったですね。トホホ。

 


 

 マーラー第8番

 マーラーのシンフォニー第8番変ホ長調(1907年)は広く知られているように極めて大人数の演奏家、合唱団を必要とするため、“千人の交響曲”と呼ばれる巨大な作品ですが、そのため象を撫でているような捉えようのなさを私は感じていました。あまりの大編成で、家庭のステレオでうまく再現するのは困難ではないかと思いますが、今回バーンスタイン、ウィーン・フィルらによるDVDで映像とともに聴いて(観て?)、少し中身がわかったような気になりました。

 マーラーは大掛かりな作品の中で神経質と言ってもいいほど、きめ細かな書き込みをしているところがオペラ指揮者らしいわけです。例えば時折現われる辻音楽師ふうのヴァイオリン独奏などに見られるように彼の故郷や出自に対する想いが込められているので、細部がわからないとつまらなく感じます。オペラだけじゃなくて巨大なオーケストラ作品においても視覚の重要性というのはあって、DVDを見ててコンサートにも行かなきゃだめだなって思いました^^。

 指揮台でジャンプしたり、歌ったりするバーンスタインも大変な熱演ですが、独唱者の熱唱ぶりも見事で、エッダ・モーザーを始めとする3人のソプラノ、アグネス・バルツァらの2人のアルト、テノール、ヘルマン・プライのバリトン、ホセ・ファン・ダムのバスを明確に聴きとることができます。

 この作品は大きく2部に分かれていますが、第1部は9世紀のフラバヌス・マウルスという大司教が書いたラテン語の賛歌(hymnus)“来たれ、創造主なる精霊よ”によるテクストで、第2部はゲーテの“ファウスト”の最後の個所、つまりドイツ語をテクストにしていて、独唱者がグレートヒェン(贖罪の女)や法悦の教父などの役割を持つことになります。つまりカトリック的な大規模な合唱曲とコンサート形式の楽劇がつなぎあわされているようなもので、この2つのテクストが内容的に密接不可分に関連しているのかどうかは正直わからない気もします。第2部の最初の部分をあえて器楽だけにしたことで、その格差を埋めているのはわかりますし、少年合唱団の使い方など音楽的には3、4番のような声楽付きの作品と共通点が多いようです。

 ただこれがシンフォニーと言えるのか、そう聞えるのかは疑問で、“大地の歌”とともに形式面から素直に言えばカンタータってことになるでしょうね。第9や第10シンフォニーの構想から窺える厳格な様式感とそれに束縛されない奔放な感覚が彼の中では矛盾しながら共存する、アンビヴァレンツを成していたのでしょう。

 そういう矛盾のおもしろさという面では、マーラーと同じユダヤ人のバーンスタインが指揮をしていることも挙げられると思います。承知のようにバーンスタインは「ウェストサイド・ストーリー」を始めとして作曲も多く手がけていて、彼のシンフォニー第3番“カディッシュ”が典型的ですが、常にユダヤ人としてのアイデンティティにこだわってきた人です。もちろんキリスト教徒でない者(マーラーはアルマと結婚する必要からか1897年にユダヤ教からカトリックに改宗しています)が演奏しても全く問題ないですし、信仰心で演奏の良し悪しが決まったら不思議ですが、この曲の宗教性(の有無も含めて)についてバーンスタインは意識的にならざるを得なかったんじゃないかと思うと興味深いものがあります。

 最後の“Das Ewig-Weibliche zieht uns hinan”(永遠の女性的なるもの、我らを引きて行かしむ)という神秘の合唱を聴くと、マーラーはこの詩に音楽をつけたくて、全体を構想したようにも感じられます。コンサートホールの後ろの最上階のブラス群が第1部冒頭のテーマを回想するように響かせると、あたかも天上界の聖霊が我々を迎えに来たように感じられ、この作品が自然や人生をただ肯定するような凡庸な音楽とは次元を異にしていることがわかります。

 

 


 

モーツァルト:第25番&第29番

 

 モーツァルトのシンフォニー25番ト短調K183(1773年)と29番イ長調K201(186a)(1774年)は、天才の初期の傑作で、ファンも多いと思います。特に小ト短調と呼ばれる25番は、小林秀雄やら映画「アマデウス」やらで有名ですが、確かに疾風怒濤と言うか、デモーニッシュと言うか、後の「ドン・ジョヴァンニ」や40番などと共通するものを感じさせます。この17、18歳の若いモーツァルトに一体何があったのか、前々から調べてみたいと思っていました。

 年譜的に言えば6歳以来、ミュンヘン、ウィーン、パリ、ロンドン、ローマ、ミラノとヨーロッパの各地を旅行してはいたものの、いまだザルツブルクの両親の元に住んでいた頃にこの2曲は作曲されていて、彼のシンフォニーに大きな影響を与えたシュターミッツらのいたマンハイムに行くのは、もう少し後のことのようです(ただマンハイム楽派の影響がこの二つの傑作にあるようにも思えます)。そういう意味では、31番パリK297(300a)(1778年)のような新たな地で刺激を受けて作曲されたものではなく、彼の内面的な要因が大きいように思います。

 ただし、短調のシンフォニーという点では、先輩のハイドンの例があり、1767年までに34番ニ短調が、1768年に26番ニ短調「ラメンタツィオーネ」が作曲されていたようですが、直接の影響関係はおそらくないでしょう。でも、かなり近い時期にシンフォニストの代表選手が短調のシンフォニーを手がけていたことは、シンクロニシティのような感じを持ちますね^^。

 内面的な要因と言っても、彼や彼の家族の書いた手紙などといったものに求めるつもりはありません。そんなものは彼の作品ほどの重要性も直接性も持つはずがないからです。

 この2曲はほぼ弦楽のみの編成という点で共通していますが、もちろん意図したものではなく、演奏が予定されていたザルツブルクのオケがそうだったのでしょう。管楽器も打楽器といった彩りがないので、モノトーンな音響になりやすいのですが、そんな印象は微塵もありません。制約条件を逆に魅力に転じるのが天才の常で、素早く極めて繊細に変化する感情が均質な音だからこそ表現できるのだと思えますし、表面的な印象以上にこの2曲には共通点が多いと思います。それだけモーツァルトが才能とそれまでの経験のすべてを傾けた作品なのだと思います。

 29番について言うと、初めて聴いたときに「ロココの華」という言葉が自然と思い浮かびましたし、当時流行した”style gallant”の代表作といって差し支えないと今でも思います。その冒頭部分は、陽が射して花が開いていくさまを超高速度撮影したと言えばいいか、(ちょっと照れくさい言い方ですが)思わぬ愛の告白をされた少女の目から涙があふれてくるようだと言えばいいか、美しさと生命力が漲っています。この曲については、オリジナル楽器の演奏にも良いものが多いでしょうし、それが今や正統なのかもしれませんが、私は最初に聴いたイシュトヴァン・ケルテスによる演奏が忘れられません。

 25番の演奏ですか? 正直申し上げて、悪くない演奏はたくさんありますが、私自身にとっての定番は残念ながらないのです。即物的なインテンポの演奏では暗いほとばしるような情念のようなものが出てきませんし、かと言って思い入れが強すぎてもモーツァルトしてないことになります。

 この2曲の作曲された1773、4年には他に何曲かシンフォニーが作曲されていますが、一聴すれば明らかなように前の時期のスタイルですし、先に挙げた31番パリに至るまで、内容的なレヴェルで言えば36番リンツK425ハ長調(1783年)に至るまで、凌駕されることはなかったと思います。

 ということで、この時期のモーツァルトの他のジャンルの曲も見ていきたいと思います。

 


 

第9シリーズ

 

 1.シューベルト

 

 年の瀬は第9の季節ですけど、だからと言って、ここでベートーヴェンの第9シンフォニーについてうんちくを垂らしているようじゃあ(なんか汚いな)、アマノジャクの私の名がすたります。

 それで、他の大作曲家の第9シンフォニーについてちょこちょこっと書いてみたくなりました。まあクラシックファンなら常識、ふつうの人ならトリヴィア(古いか?)なんですが、ベートーヴェンがああいう偉大な3つの楽章と破天荒な第4楽章を持った曲を書いちゃってから呪いがかかって、後の作曲家は第9を書くと死んじゃうって言われてます。それを見ていきたいと思います。ですから、ベートーヴェン以前の100曲以上書いたハイドンや50曲くらい書いたモーツァルトのはここでは対象外です。

 で、時代順に最初はシューベルト(1797-1828)です。彼のシンフォニーは、1813年の第1から18年の第6までを一連の成長過程として見ることができます。まあ、演奏する場所も公のところじゃないし、演奏者もアマチュア向けのものが多いですからね。とは言え、モーツァルトやベートーヴェンの影響下でありながら、いかに彼が成長したかとか、個性がどのような形で発揮されたかとかを楽しんで聴くことができます。

 シューベルトのシンフォニーの第7以降のナンバリングはややこしいところがありますが、私が聴いたコリン・ディヴィスのシンフォニー全集の解説に従っておくと、第7は演奏不可能な草稿のみなので欠番みたいなものです。それで、22年の第8「未完成」と26年の第9をそれぞれ全く独立したものとして理解した方がいいでしょう。ところが、第8と第9は私には素直に飲み込めないものです。小説に喩えてみれば、第8はたっぷりと心理の綾を味あわせてくれるもののドラマの途中で終わってしまったものって感じです。もちろんすごく人気のある曲であるからこそ悪態をついてるんですが。

 第9の方はもうどの楽章も長い、長い。おもしろいエピソードが満載なので人気連載になって、いつ果てることもなくえんえんと引き伸ばしてしまったような感じです。暇で気だるいお正月向けですね。ちょっとくらいうつらうつらしてもまだやってますから。シューベルトってピアノ曲もそうですが、こういうクセがあって終われなくなっちゃうんですよ。たぶん作曲ができる人なら「ここでこういうコーダにすれば終われるだろ!」って突っ込みを入れたくなるでしょうね。でも、出だしからしてホント歌うようなどこか翳りのある、忘れられないメロディ満載ですから聴いたことのない方は、ぜひ聴いてみてください。

 ……それにしても形式面でこれほど欠陥のある名曲は空前絶後でしょう。しかも2曲! そこがシューベルトの魅力です。 

 


 

 2.ブルックナー

 

 さて、お次はブルックナー(1824-96)です。今やこの次に紹介するマーラーと並んで、オケのレパートリーとして欠くことのできないものです。なぜか? どっちも極めて大規模のオーケストラがめいっぱい鳴って、しかも長くて聴き応えがあるからでしょう。まあ、元を取った気になるからじゃないかなって邪推しています。この二人は接点はあったし、ヴァーグナーの影響を大きく受けていたという共通点はあるんですが、内容的にはずいぶん違うと思います。例えばハイドンとモーツァルトが気質が違うのに音楽的には似てるところが多いのとは対照的です。マーラーの音楽がヴァーグナーやリヒャルト・シュトラウスと似てるところがあるのに、ブルックナーの音楽に似たものはちょっと思い浮かびません。作曲家と言えども時代と環境の子。それらから逃れることはできないんですが、ブルックナーの音楽はかなり離れてますね。

 彼自身はそういうつもりはあまりなかったと思います。ヴァーグナーに捧げるような第3シンフォニーを書いたし、ベートーヴェンをなぞってシンフォニーを書いていたんだろうと思います。え?!って思う人もいるかもしれませんが、二人のシンフォニーの調性を見てください。前にも書きましたが、ブルックナーのシンフォニーは習作を除くとすべてベートーヴェンがシンフォニーで使ったものです。特に短調のものは6曲あるんですが、ハ短調とニ短調ばっかり。ベートーヴェンの第5と第9の調性です。それで、ブルックナーの第9ですが、もちろんニ短調。まあ、なんて素朴な人なんでしょ。

 このシンフォニーは彼の死によって第3楽章までで未完に終わってて、それを予感したブルックナーは自作のテ・デウムっていう宗教曲を第4楽章の代わりに演奏してもいいって言ったそうですけど、こんなの全然合いません。だって調性としてはニ短調から遠いハ長調の曲ですから。

 じゃあ、なんでそんな言葉を残したのか? これまた簡単ですよ。最終楽章にベートーヴェンと同じく大規模な独唱と合唱の音楽がほしかったんです。もうちょっと言えば、テ・デウムって国家的な祝賀行事にしばしば使われるもので、そういうおおげさな感じを好んだのか、神の勝利を讃え、救いを求める歌詞のうち、例えば次のような一節が死を前にした彼の心境に合ってたんでしょうね。


  Tu ad liberandum suscepturus hominem,
  non horruisti Virginis uterum.
  Tu devicto mortis aculeo,
  aperuisti credentibus regna caelorum.

  あなたは世を救うためにあえて人となり、
  処女の胎内に入ることもおじけづくことはなかった。
  あなたは死のとげにうち勝ち、
  信ずる者のために天国を開かれた。


 前にもちょっと書きましたが、実際にはブルックナーはニ短調で第4楽章のスケッチをかなり進めていて、それを元にNicola SamaleとGiuseppe Mazzucaって人が補筆・完成したものがあってインバルがCDにしています。でも、私には「こんな音楽があの深遠なアダージォの後に来るわけがない」としか思えませんでした。そう、このシンフォニーは3楽章まででも実にすばらしい音楽です。ブルックナーの音楽はさっきも書いたように他とは相当違ってるし、あまり取っ付きがよくないと思いますが、何回か聴いていると良さが必ずわかってきます。聴いたことのない人には最初には第4「ロマンティック」って呼ばれてるのが聞きやすくてお勧めですが、いきなり第9と並ぶ充実した内容の巨大な第8もかえっていいかもしれません。お風呂でも入ったつもりでどっぷり聴いてみれば……。

 で、何がいいんだって言われるとむずかしいですし、いろんな人がいろんなことを言ってると思いますが、田舎生れの人が田園風景を描いたものだっていうふうに素朴wに考えればいいと思います。まあモーツァルトの音楽と正反対のものって思ってればいいかもしれません。優雅じゃなく素朴、華麗じゃなく愚直。でも、どちらも音楽ってこんなことまで表現できるんだっていう深い体験をさせてくれます。

 さて、ブルックナーのシンフォニーって9曲じゃないんです。さっき触れたヘ短調の習作とその次にニ短調の0番があります。だから11曲。それもこれもベートーヴェンの9曲が作曲家の前に立ち塞がって、気軽にシンフォニーを書けなくしちゃったんですね。

 


 

3.マーラー

 

 マーラー(1860-1911)はベートーヴェンの呪いをいちばん気にした人みたいです。第8シンフォニーまで書いて、あえて「大地の歌」っていう番号を持たないシンフォニーを書いて言わば厄払いをし、それから第9番に取り掛かりました。そこまでしたのに第10番を書いている途中で死んでしまいました。おそるべしベトちゃんw。「大地の歌」から第9、第10は死の影につきまとわれたもので、しかもその影はだんだん暗く、不吉なものになっていきます。第10シンフォニーについては以前に書きましたので、読んでいただければ幸いです。

 もう一つ全体的なことを。マーラーのシンフォニーは声楽付のものと器楽だけのものに大別することができます。声楽付が第2、第3、第4、第8、「大地の歌」で、器楽だけのものが第1、第5、第6、第7、第9、第10です。つまりけっこう集中しているわけです。なぜそうなのかとか言い出すと長くなるので、やめておきますが、最初に聴くなら声楽付ではかわいい児童合唱の入った第3、器楽だけのならヴィスコンティの映画「ヴェニスに死す」で有名になった、うっとりするようなアダージェットを含む第5をお勧めします。

 さて、肝心の第9(1910年)ですが、冒頭はまさにこのアダージェットを思わせるようなけだるい美しさに満ちていて、『あ、マーラーの音楽だ』と感じさせます。その音楽に耳を傾けていればここにしかない世界に連れて行ってくれます。マーラーのシンフォニーはブルックナーと同じく長いんですが、これも1時間半はかかる作品です。にもかかわらず実に緻密に、作為と工夫の限りが尽くされていることは楽譜の読めない私にもわかります。これを夏休みと忙しい指揮者稼業の中で書いたっていうのはなんて勤勉な人なんだろうって思います。

 編成はマーラーとしてはあまり大きくないようですが、各パートの使い方がうまいのでよく鳴ります。複雑な構成で、次々と楽想が現われて消えるのに散漫な感じや“並べただけ”っていう印象は微塵もありません。きれいな多面体結晶を見るようなイメージです。それらを貫いているものを死への不安だとか諦念だとか言っても間違ってはいないかも知れませんが、やはり音楽でしか表現できない内実があって、言葉なんか寄せつけないものがあります。

 ブルックナーや第10番のときに調性のことを書いたので、ここでも見ておきます。第1楽章ニ長調(#2つ)、第2楽章ハ長調(調号なし)、第3楽章イ短調(調号なし)、第4楽章変ニ長調(♭5つ!)。最後の楽章があこがれを抱きながら暗く沈みこんでいくような感じなのはこれからもわかりますし、何よりD→C→D♭と全音一つ分の中だけで動かすという発想も、それを違和感を抱かせずに(でも音感のいい人には異様に)聴かせる技術も、ふつうじゃないように思います。そう、この暗い美しさをたたえた作品は偉大であると同時に行き詰まり、極限といったもの自体をも現わしていると思います。

 




 

4.ショスタコーヴィッチ

 

  さて、このシリーズもいよいよって言うほどでもありませんが、最終回です。でも、この曲は今まで紹介してきた中でもいちばん評価がむずかしいでしょうね。シューベルトもブルックナーもマーラーも名曲ですって言ってればとりあえずすみますが、ショスタコーヴィッチの第9って、ふつうはベトちゃんの呪いを逃れるため軽めの曲にしたって言われてますから。演奏も最短の30分足らず。重量級のシンフォニーをいっぱい書いた彼にしては手抜きって言われても仕方ないでしょうね。お蔭でなのかどうなのか、彼は結局15曲のシンフォニーを書いて、まあベトちゃん以降の最高記録。くだらない作曲家はもちろん対象外。

 そういう意味ではこれを彼の代表曲に挙げるのはウケねらいでしかないでしょう。シンフォニーだと第5とかシュワちゃんの「ちーちんぷい♪ぷい♪」のCMで有名になった第7とかかな。私は第4とか第14が好きですけど。第14は「死者の歌」で、とてもこわい詩と音楽のカンタータみたいなものですが。

 私は20世紀で最高の作曲家って訊かれたら、躊躇なくショスタコーヴィッチを挙げます。なぜか? 音楽と政治の間で微妙な緊張関係の下で、自分の音楽を書ききったからです。こう言うと音楽以外のことで判断するなんてバカじゃないの?って言われるでしょう。でも、音楽ってなんなのかわからなくなっちゃったのが20世紀じゃないんですか? ピアノの前でしばらく何もしないなんて一発芸みたいなものを作ったジョン・ケージを挙げるまでもなく。……シェーンベルクたちが始めた12音音楽やその流れをくむ調性やメロディを放棄した音楽は、結局クラシックを聴く人を減らしただけです。この間ヴェーベルンについて書いたことと矛盾するみたいですが、こんなのふつうの人は聴かないよな、音楽のプロしかわからないしなっていうのはいつも感じています。新しい音楽が楽しくなければ古いのだって聴かれません。今のポップスを聴いている人がその音楽の元になっているビートルズとかをだんだん聴くようなことを考えてみれば明らかでしょう。逆説的ですが、玄人はだませても素人をだますことはできません。玄人は理屈と知識で考えて良い悪いを判断しますが、素人は常識と感覚で決めますから。

 別の言い方で言えば20世紀の音楽のかなりの部分は偽善的です。特に政治との関係において。芸術に限らず、多くの分野で政治との関係が強まったのが20世紀ですが、あまり気づかない例を挙げましょうか。ブリテンに戦争レクイエムって曲があります。第2次大戦で敵味方で戦い、亡くなったイギリスとドイツとソ連の若者たちに捧げられたものです。感動的ですね。英語、ドイツ語、ロシア語で戦争の悲惨と融和を説く。誰も反対できませんね。……だから、アマノジャクの私は政治的でうさんくさい作品だと感じます。音楽的にも中途半端だなって思います。これに類した作品は我が国にもいっぱいあるでしょう。

 さて、長々と書いてきたことがショスタコーヴィッチを高く評価する理由です。ソ連という、体制に反対どころか否定的なことを言っただけで、銃殺か、シベリアの収容所や精神病院に送られるような国で、彼も何回も失脚し、生命の危険にさらされ、その度に迎合したり、うまく逃げたり、要は体制や権力との間で右往左往したところが好きです。音楽は政治と無関係ですなんていう人は無自覚なだけで、北朝鮮にだっているでしょう。

 それで第9シンフォニー(1945)ですが、第5、第7と堂々たる作品でソ連芸術の実力を示して、さあ戦争に勝利したことでもあり、どれだけの大作なのかと思えば短い、からかうような調子の作品。体制側の批判を受ける原因になりました。でも、音楽だけを聴くとコンパクトに自分の音楽をまとめたって感じがします。いくらでも長くできるのを緊密な構成に仕立てたんじゃないでしょうか。第1楽章はおもちゃの戦争のような感じで、カリカチュアなんでしょうけど。そうした皮肉な調子も彼の本質です。

 


 

 私はシューマンがわからない

 

 昨日(07 1/22)、サントリーホールでグシュルバウアー指揮の読売日本交響楽団のコンサートを聴きに行きました。プログラムは全部シューマンの作品で、交響曲の第1番と第2番が中心です。先日のスーパーエッシャー展に引き続き、「ナマに触れる2007」第2弾です。別に宣伝文句でもないんですが。

 これまた先に結論を言うとタイトルどおりで、元々彼の交響曲は感心したことがなかったんですが、改めて私ってシューマンがわかってないなって痛感しました。それを演奏のせいにできるほど知ってるわけでもありません。ですから、これから書くことはわかってる人にとっては当たり前のことか、取るに足らないことか、バカげたことかのどれかでしょう。書かない方がいいくらいですが、せっかくチケットを買って足を運んでなんもなしじゃさびしいので意地で書きます。

 えっと席は舞台のすぐ横、左手の2階席、ほぼ第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンの境目の延長上でした。各パートのバランスは悪いですし、音が溶け合う前のを聴いてるような感じです。でも、それだけに前からだとあまりよく見えない木管や金管のセクションがやっていることがよく見えて、クラリネット奏者がしきりに溜まった水滴を吹き出す尺八みたいな音やチェロの指板に弦が当たる音とかが聞こえます。コンサートにはこれから何回も行くつもりですから最初からいい席は取るつもりはなくて、こういう席もいいかなと思っていました。さすがに舞台の後ろは遠い昔にウィーンフィルを最初にムジークフェラインで聴いた時に逆向きの硬い音だったので、懲りているんですが。

 で、そこで考えてたのは、トライアングルって1番の第1楽章の後半しか出番がなくて後はずっと座ってるだけだからつまんないだろうな、ゲームでもしたくならないのかな、でもこれでちゃんと給料もらえるんだったらいいなといったしょうもないことでした。そう思うと演奏してる楽器よりも演奏してない楽器の方が気になってしまいました。弦と木管は始終出番があるのにホルン以外の金管は中間の2つの楽章は1番も2番もとてもヒマそうでした。つまりきらびやかな両端楽章と地味な緩徐楽章(1番は第2楽章でラルゴ、2番は第3楽章でアダージョ)とスケルツォという作りは同じです。

 特にトロンボーンは楽器も大きいし、使ってないときは床に置くので目立ちます。3つも揃えるなんてもったいない感じです。CDを聴いてるだけじゃ楽器の出し入れなんてなかなか気づかないし、テレビやDVDでもやってるところはアップにしてもサボってる(わけじゃないけど)ところを映さないんで、実演ならではかなって思いました。

 あんまりやってないところばかり見ても退屈なんで、次に木管に目を留めました。オーボエとクラリネットはだいたい同じタイミングで吹いています。それがユニゾンなのか和音なのかは耳が悪いのでわかりませんが、フルートが時々色をつけてファゴットが下を支えるというのがだいたいの行き方のようでした。ファゴットの音は聞き分けられませんが、大きいから演奏をやめると目立ちます。すると音がなくなったというのもわかります。下を支えるというのはそういうことなんでしょう。第1は4つ、第2でも3つもあったホルンも下を支えるのがだいたいの仕事で、だから他の金管と行動を共にしていません。

 さて、こんなことは楽譜があればすぐわかることですし、それでシューマンがこの2つの交響曲でやりたかったことがわかるわけでもありません。曲全体としてどうかってことを書かないと具合が悪いですが、その前にプログラムの他の2つの曲のことを触れておきます。最初はシューマンが唯一完成させたオペラ「ゲノフェーファ」の序曲でした。よくある序曲ですねとしか言いようがないんですが、次の第1番と同じ編成にするのはちょっと大きいような感じのする曲でした。休憩の後の歌曲「悲劇」のオーケストラ版は小編成でよかったのかもしれません。ソプラノとテノールが歌うハイネの詩による短い曲を3つつないだもので、青い花が出てきたり、駆け落ちして死んじゃったカップルのことを知らないで別の若い恋人が墓の前で愛をささやくってところがロマン派好みです。ソプラノのドイツ語の子音が甘いのが気になりました。

 交響曲の1番はポピュラーな曲で、冒頭の魅力的なメロディと最後の盛り上がりはとても親しみやすいんですが、第2楽章から最後まで切れ目なしに続くのがかえって内容的な連関をつけるのに苦労してたのかなって感じがしました。シューマンはオーケストレーションが弱いって言われることがあって、私も「最小限の音の重ね方で最大限のスケール感を出す」という意味では上手とは言えないと思ってはいるんですが、そうしたことは昨日の席ではちょっと判断できませんでした。それよりはギクシャクとしたモチーフのつなぎ方が気になりました。モチーフのつなぎ方ってベタっとしてもダメだし、意外感と流露感の間をいくのがむずかしいんでしょうけど。

 それ以上にちゃんと聴いたことのない2番の方が引っ掛かりが多かったです。最初は「あれ?ベトちゃんの第9っぽいじゃん」と思いました。もやもやした序奏から始まるのは間違いなくその影響でしょう。でも、それがブラームスやブルックナーみたいにうまくパロれてないっていうか、もやもやが晴れないままにやっぱりパッチワーク的になっていくような感じがしました。第2楽章にスケルツォを置いたのも第9の影響でしょうし、詳しく見ていけばもっとあるでしょうけど。

 ハ長調なのは彼が発見したシューベルトの第8番(第9番)の影響かもしれませんが、部分的に似ていたとしても歌い始めると止まらないシューベルトとすぐに他の楽想を書きたくなってしまうシューマンはほとんど正反対の気質だと思います。ずっと発展していくとそれぞれブルックナーとマーラーになるっていうか。……この交響曲はモチーフを消化しきってないという意味で、登場人物を出しすぎた小説のようなものかなって思います。こんなふうに書いていくとさもけなしているみたいですが、例えば弦の各部の音の渡し方とか細かいところに工夫が凝らしてあって、最初に書いたようにわからないものの後を引くようなものでした。

 


 

  私はまだマーラーがわからない

 

 好評の「ナマで聴いてもわからない」シリーズですw。一昨日(1/25)にサントリーホールで小林研一郎指揮の日本フィルによるマーラーの交響曲第9番を聴いてきました。1週間に2回も行くなんてどういう騒ぎだと思いますが、たまたま興味があるのが重なったからです。この後の予定は今のところありません。

 この80分ほどかかる大曲については私も記事を書いたことがありますし、それなりわかっているつもりでしたが、実演で聴いてみるとまだまだわかんないことだらけだというのが本音です。ふつうのコンサート評っていうかブログだと「今回で日本フィルの音楽監督を辞する炎のコバケンは、マーラーの死と別れのシンフォニーを(中略)という斬新なアプローチで捉え、またオーケストラもこれによく応えて(中略)と演奏した。まことに別れにふさわしい一夜であった」といったものなんでしょうけど、そんなことはとても書けません。だって、そういうのってマーラーの表現したかったことを十分把握していることが前提としてあって、それと演奏を比較するってことだと思いますが、演奏終了後にコバケンがしゃべった(ちょっと驚きました)ところによると彼だって底知れないマーラーの世界に戦いていたそうですから、私がわかるはずもありません。

 次に、聴く人がマーラーの作品を十全に理解しているとしても、直接聴いた音と全く音を出さない指揮者が考えたことをなんで、すっと結びつけられるのか違和感があります。そこがピアノとかの演奏を批評する場合と指揮者の「演奏」を批評する場合との違いがあります。よくクラシックをあまり聴いたことがない人が「同じ曲なのに指揮者で違いがあるの?」って疑問を口にしますが、まあそれと同じようなことです。クラシックファンはそういうのを聞くとせせら笑いながら(少なくともお腹の中では)何枚かのCDを聴かせるでしょう。……すると「おおー、全然違う!」でも、それってテンポの違いに由来する場合が多いでしょうねw。

 なんだか揚げ足取りや嫌味を言ってるみたいですけど、この曲の解説なんかを見るとだいたいは作曲当時のマーラーの状況を述べて、彼自身が楽譜に書き込んだことと合わせてこの世との別れや死への不安なんかを描いたものとされてるんですが、ホントなの?って思っちゃったんですね。みんな音だけ聴いててそう聞こえるの? そう思って聴くからそう聞こえるんで、縛られちゃってんじゃない? そんな気がします。作曲家が楽譜にどんな言葉を書こうとそれはせいぜいが演奏家に向けられたものであって、その言葉を聴衆に周知徹底してくれなんてことは夢にも思っていないでしょうに。

 確かに実際聴くとそういった想いに捕らわれることは事実です。しかし、私が実際に聴いてこれがそうだと指摘できるのは2つだけです。コントラファゴットの音を聴いて「ドンジョヴァンニ」の騎士長の石像を連想したのと、だんだんに楽器が減っていく末尾の構成からハイドンの「告別」シンフォニーを連想した、それだけしか死や別れを具体的に聞き取ることはできませんでした。でも、そう思ってしまう。ベートーヴェンの第9と並んで「感染力」の強い作品だなと思います。聴き終わった人が人類みな兄弟って思ったり、人生のはかなさを感じながら帰るってなんかいかがわしいんじゃないかって思いますけど。

 少なくとも「それだけかいっ!」て思います。そんな簡単に言葉に還元できるような代物ではないでしょと。楽器だけ見ても、ピッコロ、バスクラリネット、コントラファゴット、大太鼓、小太鼓、シンバル、トライアングル、タム・タム、グロッケンシュピール、低音の鐘(別に大きなものではありません)といったあまりオーケストラに登場しないものがいっぱい出てきて、まるで子どもためのオーケストラ案内ですが、ウィーンで指揮者をずっとやってたマーラーはそういうサーヴィス精神が旺盛な人だったと思います。

 その使い方も例えばピッコロとヴァイオリンのハーモニクスを重ねて出てくる音は、かわいいだけって思ってたこの楽器のイメージを一新するものでした。席は2階席の最後列近くほぼ正面でしたが、耳だけじゃなくて目も悪いので誰が何をやってるかがあまり見えなくて、シューマンのときの席の方がよかったなと残念です。……ついでにいうとトライアングルだけとってもシューマンよりはるかに上手に使っています。

 オケのメンバーのみんなの顔を立てるっていうのはマーラーの場合、おそらく本能みたいなものだったのかなって思いました。ヴァーグナーとかレハールとかの引用なんてことよりも「お、ここの田舎の踊りはヴィオラにやらせますか」とか「このモチーフは第2ヴァイオリンから始めるんだ。なるほどね」とか「今、コントラバスは何をした?」とか「へえ、最後になってチェロにソロをやらせるのか」とか、聴いてないと(というか聴いてても)さっぱり何を言ってるのかわからないところがぞくぞくするほどおもしろいんです。……きっとこういう言葉にできない仕掛けや工夫はマーラーが書いた楽譜にはいっぱい詰まっているはずで、それを汲み取る楽しみがまだまだあるってことです。

 私は前回も指揮者やオケのことは書きませんでしたし、これからもあまり書くことはないでしょう。それは最初の話と関連しますが、演奏を軽んじてるわけでなく、曲や作曲家のことを書いていても当然聴いた体験を元にしているわけで、上に書いたようなことはすべて彼らのお蔭だと思っているからです。だから書くとすると、曲を味わう上で妨げになったようなこと、例えばトランペットがしばしば音程をはずし、音色も軽薄だったとか、コバケンがひょいっと脚を上げるのがウィーンで見た小澤征爾と似てて恥ずかしかったとか、そういう悪口にしかなりませんw。