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 サティの形をした3つの商品

 トゥルバドゥールの音楽

 古代ギリシアの音楽

 シューマン:女の愛と生涯

 ホイリゲ

 


 

 サティの形をした3つの商品

 

 

 ジムノペディなどを作曲したエリック・サティに「梨の形をした3つの小品」というピアノ曲があって、それとスーパーのサティとのシャレで書いたものです。それだけ?。。はい^^私の書くものってそんなのばっかですから。

@家具売り場

 サティは、音楽をコンサートでうやうやしく演奏されるものでなく、家具のような身近で何気ないものにしようと考え、家具の音楽というのを作曲しました。それを画廊で演奏したところ、客は会話をやめて、聴き入ってしまったので、「しゃべり続けて!音楽を聴かないで!」と叫んだとか。自分の曲が静聴されて怒った最初の作曲家でしょうw。

 でも、この発想はまさにBGMであり、またクラシック音楽の陥っているスノビズムへの批判としても先進的なものだと思います。私の持っているCDには「県知事の私室の壁紙」、「錬鉄の綴れ織り」、「音のタイル張り舗道」が家具の音楽として収められていますが、私は壁紙になる音楽というアイディアをおもしろく思い、物語に使ったことがあります。ただし、音楽としてはぶんちゃか、ぶんちゃかってのがずっと続く……だって模様だもんって感じで、BGMにもならないような代物ですけど^^;

 もっとすごいのが「ヴェクサシオン」っていうピアノ曲で、“いらだち、自尊心を傷つけるもの”って意味だそうですが、主題と2つの変奏からなる短いモティーフを「連続して、ゆっくり840回反復する」と指示されています。これをその指示どおり、1963年にジョン・ケージたち10人で交代しながら演奏(本当の意味での世界初演)したところ、18時間40分かかったそうです。4夜にわたって上演されるヴァーグナーの「ニーベルングの指輪」以上かなw。

 

A海産物売り場

 なまこ、エビと言えばおいしいですし、カタツムリ=エスカルゴだってちょっとしたスーパーなら缶詰や冷凍食品で売ってますね。サティには「干からびた胎児」ってピアノ曲があって、「なまこの胎児」、「甲殻類の胎児」、「柄眼類の胎児」の3曲からなります。柄眼類って角の先に眼のあるカタツムリなんかを言うそうです。

 彼は楽譜にいろんな言葉を書き込みしていて、ずっと昔に高橋悠治がその詩のようなもののナレーションをつけてこの曲や「役人のソナチネ」(小官吏の一日を描いたものですから「官僚的なソナチネ」という訳は違うように思います)などを演奏したのをFMで聴いて、音楽とシンクロしながらどこかズレも残してるところとかが、すごくおもしろかったのを憶えています。解説をつけるとかじゃなく、演奏家を言葉でも刺激しようとしていたように思います。

 でも、こういう生き物の胎児?しかも干からびた?わけわかんないですね。なんかの風刺か当てこすりなんでしょうか。老人になってアカデミズムにくるまれている音楽家とか。でも、風刺ってそのときの状況が失われちゃうとわからなくなりますね。

 

B旅行代理店

 彼の曲でいちばん有名なジムノペディは、古代スパルタの儀式で、神殿で裸の男たちが集団で神に踊りを数日間にわたって捧げるというものだそうです。こじゃれたお店のBGMかと思っていたら、意外ですね。ギリシアへの傾倒は相当なものがあって、グノシエンヌもクノッソス島とか、キリスト教神秘主義の「グノーシス派」が由来だとか言われていて、いずれにしてもギリシアっぽい言葉です。音楽劇「ソクラテス」はその死を描いた厳粛な音楽で、ギリシア物では嘲笑的な態度は見られません。

 「でぶっちょ木製人形へのスケッチとからかい」の第3曲は「エスパニャーニャ」というスペインの猫みたいなタイトルですが、シャブリエやラヴェルやドビュッシーらのスペイン趣味をからかったものです。どうも最初は反ヴァーグナーあたりで相通じるものを感じていたドビュッシーが次第に権威となり、気取ったふうにも見えたんでしょう、いろいろちくちくやってます。

 それにしてもサティって、音楽家以外にも付き合いの広い人です。ピカソ、コクトオ、ディアギレフ、ルネ・クレール、ピカビア、ココ・シャネル、マン・レイなどなど、古きよきパリの文化人の交差点の観があります。そして、唯一の恋人がユトリロの母にして多くの画家に愛されたシュザンヌ・ヴァラドン。

 

CDo It Yourself

 なんで4つめがあるの?って思った人は、サティにだまされています。「梨の形の3つの小品」は“始まりのようなもの”とか“おまけ”とかあって、全部で7つからなります。私はそんなに書きませんけどねw。え?なんで梨の形なのかって?それはどんなCDにも書いてありますから、私が書くこともないでしょう。省略!^^

 「“真夏の夜の夢”のための5つのしかめ面」、「不愉快な概要」、「冷たい小品」、「左右に見えるもの――眼鏡なしで」、「いつも片目を開けて眠る見事に太った猿の王様を目覚めさせるためのファンファーレ」といったタイトルを見ているうちに自分でもやってみたくなりました。タイトルだけ考えたのでどなたか作曲してください^^。

 まずは、のだめ的に「音楽的不良債権小曲集」。第1曲“赤と黄で”左手で赤バイエル、右手で黄バイエルを弾きます。ドビュッシーをおかずに入れてもいいでしょう。第2曲“教授様のレッスンとインディーズ”指の上げ下げまで細かく指定した部分と青春のほとばしりを感じさせる部分(でも、著作権ぎりぎりまで猿真似で)からなります。第3曲“最終的解決としての再生産”任意のコンクール課題曲を12小節弾いたら、葬送行進曲(プレストで)になります。レントラーが投げやりに演奏され、バッソ・オスティナートで聞こえていたヤマハ音楽教室のテーマソングが全体を覆い、結婚行進曲を打ち消します。この曲集を弾くと親指が痛くなりますw。

 「ニートのための行進曲〜だらだらと長い思春期」短いテーマが現われては突然打ち切られ、長い休止符が続きます。行進曲と言いながらずるずると止まってしまい、“Children’s Corner”が高らかに演奏される中、親指によるモティーフはヒステリックに打ち消されます。

 最後は「団塊の世代は永遠に不滅です」。大曲です。ステージに乗れるだけ楽団員が乗り、更に20人は押し込みます。昔の給食に使われたアルマイト食器が“腹減った”のテーマをにぎやかに奏でます。天覧試合での長嶋さんのホームランのテープの中、金管と木管が喧嘩するようなパッセージが聞こえますが、なぜかヘルメットをかぶり、口にはタオルをかけています。拡声器で指示を出していた指揮者が引きずり下ろされ、一転整然たる演奏に変わりますが、演歌っぽいインスピレーションのない音楽になります。長嶋さんの引退演説が聞こえる中、「地上の星」がずっこけながら演奏され、やがて消えていくと、女声コーラスがショスタコーヴィッチやプロコフィエフも真っ青の力強さで、全体を支配し、終わり……ません。少年合唱団が泣いてもやめてくれません^^;

 


 

 トゥルバドゥールの音楽

 

 

 

 CDの説明によるとトゥルバドゥールとは、12世紀頃に南仏で活躍した、様々な身分の恋愛をテーマとした詩人たちのことで、2,000を超える詩と200を超える旋律が残っているそうです。

 このナクソスのCDは、「声も楽器もノリノリ、一体いつの時代のどんな音楽?」というコピーのとおり、クラシック・コーナーに置いておくのが惜しいような^^異教的雰囲気と自由なリアライゼーションに満ちています。15世紀のデュファイやオケヘム(最初に個人名が記憶されている作曲家たちですが)よりはるか昔に、ホモフォニックなグレゴリオ聖歌が響く教会の外では、こんな音楽が歌われていたと想像するだけで楽しくなります。

 ちょっとシンディ・ローパーを思わせる女声ヴォーカルによるプロヴァンス語の歌詞も、例えば恋のつらさを歯痛に喩えたり、美女を称える歌かと思えばそのお蔭で男は財産を失ったとオチがついていたり、修道僧が修道院長を褒め讃える歌と見せかけておいて院長がガッポリ儲けていることを皮肉ったりと、世俗の歌のおもしろさがいっぱいです。粗い手触りのジーンズのような魅力がありますね。

 これを聴いていると、町の広場で踊りも交えて演奏し、喝采やおひねりを貰いながら旅していた、身分は低くとも自由奔放な吟遊詩人たちの生活を想像してしまいます。ほぼ同時代の後白河上皇が好んだ今様などもこうしたものだったのでしょうか。

 

  遊びをせんとや生まれけむ

  たはぶれせんとや生まれけむ

  遊ぶ子どもの声きけば

  わが身さへこそゆるがるれ

 

 権謀術数の権化、源頼朝に言わせると「日本一の大天狗」だそうですが、自由で豊かな感情を持った面もあって、私はこういう複雑な人って好きですね^^。

 


 

 古代ギリシアの音楽

 

 

 このCDは故長岡鉄男さんのコラムを読んで、買ったものです。冒頭のガラスを割ったような音がどこまで再生できるか、そういうオーディオ・チェック用のCDとして見れば、当時の定番だった「春の祭典」なんかメじゃないです。友人が来た時にこれを掛けると、何が壊れたんだ?って顔をして、周囲を見回していましたから^^。

 長岡さんのコラムは大好きでした。オーディオと音楽は関係がないといった透徹した潔さ、オーディオ評論家に新人は出ないという自らを客観的に見る目、メーカーや雑誌と一線を引く職業倫理などなど、少なくとも当時、レコ芸などで書いてある文章で、素直に受け取っていいのは彼だけでした。

 でも、私の場合、長岡さんの影響はオーディオからも、レコ芸的世界からも離れていくという結果になりました。オーディオ的な意味での音は音楽の中身を聴く上で、邪魔にならない程度ならでいいじゃないか、演奏もどんな曲がわかればとりあえずいいじゃないか、というふうに。……ヴァイオリンの弓のヤニが飛ぶ音まで録音されているとか、ブルックナーのシンフォニーのこっちの演奏とあっちの演奏がどうたら、こうたら、そんなCDショップの店員みたいな知識よりも、ともかくいろんな音楽を聴く(それこそ古代ギリシアからブーレーズまで)、しかも限られた予算の中で、というふうにだんだんなってきました。

 高級アンプを買うおカネがあればCDが1,000枚は買える時代です。いくらブルックナーのシンフォニーがすばらしくてもせいぜい2、3枚もあればわかるだろう、どの演奏が決定盤だなんてぐちゃぐちゃ言う前に興味を覚えた曲があれば店頭にあるものをパッパっと買えばいいじゃないかと考えてしまうようになりました。

 それは長岡さんがオーディオというものを突き詰めれば「非常識な世界」になるということを見せてくれたお蔭ですし、彼のコラムを読んでいれば大抵の音楽評論家が、曲の中から適当につまみ食いしたところに手持ちの形容詞を当てはめただけってことが自然とわかってしまったからでした。何より彼らはその曲がなぜ優れているのか、どういう意味があるのか、自分の言葉で語ることは結局できないのでした。その根本的な理由は彼らが専門外の本なんか読まないし、広い視野を持っていないからです。……それは私の言葉で言うと教養の欠如にほかなりません。そうした文章は退屈としか言いようがありません。

 曲の中身を聴く、特に分析的に聴くのにいちばん適した再生機器は、私の場合、CDウォークマンやHDDプレイヤーだというのが結論です。そんなのはオーディオの楽しみを知らない人間の言うことだ、とおっしゃる方もいるでしょうね。じゃあ、あなたはどんな家に住んでるんでしょうか? 広さが最低20畳分はあって(もちろん床はムクの木材です)、天井まで3メートル以上あって、壁も床も全部1メートル以上の厚さがあれば、つまりヨーロッパのちょっと上のクラスのアパルトメントなら、ラジカセに毛の生えたような再生機器でもびっくりするような音が出ますよ。……

 さて、このPaniagua、Atrium Musicae de MadridによるCDについてもうちょっとは触れておかないと羊頭狗肉ですね。でも、演奏というか、古代の楽譜(?)のリアライゼーションとしては、ちょっと退屈です。いろんな楽器とお経のような変な声から受ける印象は、明るい地中海風景ではなく、ディオニュソス的な秘教のイメージです。あるいはいろいろな民族音楽の寄せ集めふうという点では、タン・ドゥンの作品に近いようにも感じます。……音を圧縮したHDDプレイヤーでは、ガラスの割れる音はしませんが、このCDの音楽について語るには十分です。

 


 

 シューマン:女の愛と生涯

 

 シューマン(1810-56)って人は、一つのジャンルの曲を集中して作曲する傾向があって、特に有名なのがクララ・ヴィーク(1819-96)との結婚にメドが立った1840年の「歌の年」で、「詩人の恋」、「リーダークラウス」、「女の愛と生涯」などを作曲しています。シャミッソーの連作詩による「女の愛と生涯」は8曲からなりますが、CDの解説者の多くはその歌詞に疑問を呈しています。と言うのも、題名からもわかるように初心な少女が結婚し、子どもを産んで、夫の突然の死を迎えるというストーリー性があるんですが、その内容が「わたしのようなつまらない女をすばらしいあなたが愛してくれるなんて」とか「わたしを高いところからやさしく見つめてくれるあなた」っていう自己卑下に満ちているからです。

 “いやー、こんな女性が理想ですね”なーんて解説を書けば女性たちから総スカンを食うのはわかりきっていますから、身の安全wのためにも苦言の一つも言ってアリバイを確保しておかないとまずいわけですが、もしかしたら男の本音はこんなところかも知れません。「女の愛と生涯」のヒロインが“ありえねー”だったら、エルメスだって“ありえねー”って思いますから、どっちも男の集合的無意識の化身かもw。

 まあ、冗談はともかく、シャミッソーって詩人は40歳くらいで16歳の少女と結婚したうらやましいような大変なような人だそうですが、憶測するに若い妻に対する教訓を与えるために作詩したんじゃないでしょうか(効果のほどはわかりませんが)。そっちの方はどうでもいいんですが、なぜシューマンはこれを採り上げて作曲したんでしょうね。当時20歳すぎのクララはシューマンのピアノの先生の娘で、自身ピアニストとして既に有名で、作曲もするような才能に恵まれた人です。そんな彼女をこの詩のように家庭婦人として閉じ込めておけるって思う方が不思議です。シューマンは何よりも評論家として世に出たことから言っても批判精神は旺盛なはずなのに。……常識的な解決方法としては、自己卑下的なところには無頓着に、単純に平和な家庭を夢見て作曲したっていうことになるんでしょうか。

 クララの父親の猛烈な反対があったのを裁判まで起こして押しきったってことからも、この際、クララを自分の支配下に置きたいって思ってもおかしくないように思います。自分勝手で、気まぐれなのはロマン派の特徴wですし、シューマンはまさにそういう人ですから。客観的には愚かなことでも、主観的にはそうせざるを得ないってことでしょうか。

 ちょっとここで各曲をごく簡単に見ておきましょう。各曲には固有のタイトルがないようで、最初の1行を取っていますが、第1曲「あの方に初めてお会いして以来」出会った時のときめきと怖れ。第2曲「誰よりもすばらしいお方」相手を讃え、自分を卑下するものですが、音楽的には優れたものだと思います。第3曲「何がどうなっているのかさっぱりわからない」プロポーズされた驚きと戸惑い。第4曲「わたしの指の指輪よ」婚約の喜びと夫への献身の誓い。第5曲「手伝ってちょうだい、妹たちよ」婚礼の日に妹たちに着付けを手伝わせながら……まあ、のろけてるんですかねw。第6曲「愛しい友のように、あなたは」子どもが授かったことを夫に告げる。第7曲「わたしの心に、わたしの胸に」母親となった喜び、赤ちゃんへのやさしいまなざし。第8曲「あなたはわたしに初めて苦しみを与えました」夫の死による空虚な世界。これもやはり抑制された悲しみが伝わってくる、いい曲だと思います。

 図書館にエリーザベト・シュワルツコップとアンネ・ゾフィー・フォン・オッターの2枚があったんで両方借りて、聴き比べでもしようかな……シュワルツコップはこの歌曲集の世界に納まっているけれど、若い世代のフォン・オッターは突き放して歌っている、なーんて予定原稿を考えていたんですが、そんなことないですねw。どちらもがっかりするくらいきちんとこの世界を再現しています。シュワルツコップはリートの名手らしく繊細で親密な世界を、フォン・オッターはオペラ的な、もっと言うとズボン役のような少年っぽい瑞々しさを。だから、ちょっと退屈。……カップリングされているリーダークラウスとかの陰影に富んだ世界がおもしろいです。って、浮気しちゃいかんですねw。

 シャミッソーの連作詩には実は9番目があって、ヒロインが年老いて、孫娘が嫁いでいくのに、自分の結婚生活を思い出しながらあれこれと忠告するという内容だそうです。こんな非ロマンティックな詩に作曲しなかったのは、シューマンの卓見だと思いますが、夫の死で止めたのは予言的というか、フロイト流に言えばタナトス的な欲望が働いていたのかも知れません。つまり若い妻を置いて世を去っていきたいという。

 実際にクララが40歳にもならないうちにシューマンは投身自殺を図ったあげく、精神病院で死にます。クララはその後40年にわたり夫の業績を残すべく努力する一方、ブラームスの愛情を十分わかっていたはずなのに、アルマ・マーラーのような浮名を流すこともなく、余生を過ごします。シューマンの描いた「歌の輪(リーダークラウス)」に閉じ込められたかのように。……

 


 

 ホイリゲ

 

 

 

 私は脂っこいものが好きです。。いえ、健康に良くないことはわかっていますが、そのためにフィットネスをやっているようなもんです。そんな私には、ウィーンのホイリゲという、ワインの新酒(ホイリゲ)を飲ませる郊外の居酒屋はうってつけです。皮ごとの豚や鶏のローストやソーセージと山盛りのジャガイモ、キャベツの酢漬けなどなど、その一人前の多いこと。。。いっぺんで脂肪過多になってしまいます。でも、今でも時々食べたいなと、あの味を思い出します。

 ワインもテイスティングなんかなし!銘柄なんかありません。白か赤かと、1リットルとか半リットルとかの分量を注文するだけ。ボジョレヌーボのようなありがたいものではありません。1/4リットルなんて頼めば、日本人は酒に弱いなとからかわれます。

 そういうところでは、やはり音楽。流しのヴァイオリンとアコーディオンが席を回り、シュランメルンと呼ばれる民謡だか俗謡を奏でます。演奏に声を合わせて歌い、おばさんとおじさんが何とも楽しそうに踊ります。

 これはどうも演歌のような感じで、私には入っていけない世界でしたので、ヴィナー・ブルート(ウィーンかたぎ)、メリーウィドウ(ルスティゲ・ヴィトヴェ)ワルツといったオペレッタのさわりのところを頼んでいました。モーツァルトなんて頼んではいけません。一度アイネ・クライネ…を言ってみたら、全然通じませんでした。日本人と見ると「さくら、さくら」なんて弾いてくれるのもいますが、どうみてもチップ稼ぎだけで、周りの雰囲気を考えるとよくありません。

 日本人は慣れてないので仕方ないのですが、チップのあげ方が下手で、少なすぎたり、多すぎたり、日本では下にも置かれないような人がうろうろしているのは、どうもみっともないものです。相手のことを気にするからでしょう。こちらは主人(Herr)、あっちは楽士。出来栄えに応じて、下げ渡せばよいのです。身分をわきまえないとあっちだって迷惑です。

 お気に入りの店があって、そこのヴァイオリニストはブルッフもイザイも知らないでしょうが、日本の音大出なんてめじゃない腕前です。顔なじみになると、いい感じで場を盛り上げてくれます。いろいろ話してみると、黒い髪、黒い目の東欧系の名前を持つ彼は、ウィーンは家賃が高いからなんと隣国スロヴァキアの首都ブラスティラヴァから、毎晩通ってくるとのことでした。彼らの生活の一端とヨーロッパの国のあり方を窺わせる話でした。

 ある夜、髪の毛が栗色、目はグレーのヴィナリン(ウィーンのお嬢さん)とその店に行った折、いつもならリクエストを求める彼が静かに弾き始めます。彼の演奏に耳を傾けながらおしゃべりをしていますが、私は彼女の目をじっと見ていました。どうしてこの瞳が表情によって、鳶色に見えたり、緑がかって見えるのかと。ハンガリー風の田園舞曲に音楽が変わり、彼女は手を優雅に上げて、ゆったりと踊り始めます、座ったままで。周りのテーブルから声がかかりますが、それはいつもの囃し立てるようなものではなく、短い感嘆の声です。ヴァイオリンのパッセージに合わせて、揺れる髪の毛の色合いも微妙に変化するようです。子どもの頃はブロンドだったという話をうなずかせるような。……夢のようなひと時の後、彼女は初めて若い女性らしいはにかみを見せました。ワインの酔いも手伝って、私はウィンクする彼に多すぎるチップを握らせました。。。

 私がウィーンを離れる何日か前に独りで、その店に行きました。いつものヴィナー・ブルート(直訳するとウィーンの血です)の演奏に小声でいっしょに歌いました。そんなことはしたことはなかったんですが。ふだんはチィゴイネルヴァイゼンはめったに弾いてくれませんでした。彼の中の血がこの難曲をいい加減に弾くことを許さないように感じていましたが、その日は快く弾いてくれました。激しく、熱く、そして颯爽と。……

 音楽は終わりました。私も明るく彼と別れを告げなくてはなりません。Auf Wiedersehen! また会えるように、と。