orchestral music & concerto

 

 

ハイドン:オーボエ協奏曲、トランペット協奏曲、ハープシコード協奏曲

ヴェーベルン編曲:6声のリチェルカーレ

「日本のオーケストラ2003」

リストの交響詩

アイヴズ:ニューイングランドの3つの場所

ハチャトゥリアン:ガイーヌ

ブルッフ:スコットランド幻想曲

モーツァルト:ピアノ協奏曲K.175、セレナーデK.205ほか

ベリオ:Orchestral Transcriptions〜拡大・縮小・変形のトランスクリプション

ストラヴィンスキーの冬の祭典

ストラヴィンスキー・ラフマニノフ・ドビュッシー

三角空間の風

 


 

 ハイドン:オーボエ協奏曲、トランペット協奏曲、ハープシコード協奏曲

 

 ハイドン(1732-1809)は、先輩・上司にしたい作曲家No.1ですねw。ユーモアがあって(「驚愕」)、部下に思いやりがあって(「告別」)、ちゃんと才能を評価してくれて(ハイドン・セットの逸話)、何より性格が穏やかで、しかも苦労人。彼の音楽を聴いてるとそう思います。例えばモーツァルトなんかだと、すぐに「おまえなんかバカ、バーカ。ケツをなめろ!」なんて言われそうだし、ベートーヴェンだと……うわー、オタクっぽいなぁ、話が続かないやなんて思っているうちに、「うるさい!出てけ!」ってでかい声で怒鳴られそう。ちなみに友だちにしたい作曲家No.1はシューベルトですね。

 冗談はさておいて、104の交響曲、80を超える弦楽四重奏曲、50曲以上のピアノ・ソナタ、20以上のオペラとオラトリオなどなど、残っているだけでもすごい数ですが、モーツァルト(1756-1791)が生まれた頃から、亡くなって10年後くらいまでの約40年間着実に進歩していった跡をたどると、その後の100年間のヨーロッパ音楽の隆盛の礎を築いたという感慨を持ちます。

 ハイドンの生家は、ウィーンから日帰りで行けるローラウという片田舎にあります。ご覧になってわかるように農家のような造りで、天井も低いです。ここから出発して、ザンクト・シュテファン大聖堂の少年合唱団に入団して音楽的キャリアを始め、地方の宮廷などを転々とした後、30歳前にエステルハーツィ宮廷の副楽長となり、楽長に昇進して30年間お殿様に仕え、その死後、宮廷オーケストラが解散(リストラ!)したのを機に、独立した音楽家としてウィーンなどで活躍したのです。

 人通りもほとんどない(オーストリアの田舎町の休日は大抵そうですが)通りから、これまた訪れる人もほとんどない生家を見ていると、子どもの頃のハイドンと弟のミヒャエルの姿が浮かんでくるようです。

 今回のディスクの中では、チェンバロ協奏曲(演奏はハープシコード)が最も早く1782年で交響曲第73番「狩」の頃、トランペットが1796年で最後の「ロンドン」の頃、オーボエが真作かどうかはっきりしない作品ですが、1800年頃とされています。ただ聴いた感じでは、いわゆるザロモン・セットとは違って、いずれもエステルハーツィ宮廷時のスタイルで、協奏曲というバロック以来の社交的なジャンルにふさわしい、ゆったりと楽しめる音楽だと思います。

 

 


 

 ヴェーベルン編曲「6声のリチェルカーレ」

 

 シェーンベルク(1874-1951)を師とするいわゆる新ウィーン楽派は、バッハから大きな影響を受けています。シェーンベルクはその著作でしばしばバッハに言及し、前奏曲とフーガ変ホ長調BWV552を始めとして多くの編曲を行っています。ベルク(1885-1935)は20世紀のヴァイオリン協奏曲の代表作と言える最後の作品の終末部において、カンタータ「おお永遠、いかずちの言葉」BWV60のコラールから“Es ist genug; Herr, wenn es dir gefaellt.”(満足です。主よ、御心にかなうなら)を引用しています。よく知られているようにこのコンチェルトは、アルマ・マーラーの娘マノンの死を悼んで『ある一人の天使の思い出のために』書かれたもので、コラール旋律はこの複雑な情念に満ちた曲に最期の安らぎを与えています。

 ヴェーベルン(1883-1945)はベルクの作品と同じ頃、「音楽の捧げもの」BWV1079から『6声のリチェルカーレ』を大規模なオーケストラ曲に編曲しています。こうしたことを見ていくと、調性を手放して、12音技法という寄る辺ない航海に出かけた彼らにとって、導きの星ともなり、苦難の時の救いとなったのがバッハのように思えてなりません。

 しかし、その中でも音楽的内容としてバッハに近いと感じさせるのはヴェーベルンの音楽です。最初に彼の音楽を聴いたのは管弦楽曲集で、上掲の曲や「パッサカリア」作品1の題名のせいもあるのでしょうが、その極限まで切り詰めた無駄のない音楽の手触りはバッハのものと近いように思います。私が「フーガの技法」BWV1080に魅せられているからかもしれません。あの曲とロ短調ミサ曲BWV232はバッハの曲としては、実際上の使用目的が明らかでない極めて異例の曲であり、前者は楽器の具体的指示もありません。おそらくバッハが一生をかけて徹底的に追及した対位法技法(Kunst、芸術の意味もあります)を思う存分駆使し、やがてその前に行くであろう神への捧げもの(Opfer)として用意したのでしょう。未完に終わりながら、BACHの音型による署名があるのもそういう気がします。いずれにしてもメカニカルな音の展開のように聞こえながら、だんだん引き込まれ胸が熱くなってくるところがヴェーベルンと共通するものがあるように感じます。

 ブーレーズその他による6枚組みのヴェーベルン全集で聴くと、初期の作品はシェーンベルクなどと同じくマーラーなどの後期ロマン派の延長線上にいますが、師と違うのは極端に曲が短く、10分を超えれば長い方です。それで連想されるのはウィーンつながりということもあるのですが、ヴィトゲンシュタイン(1889-1951)です。この20世紀の哲学を切り拓いたとも、哲学を解体したとも言える天才の著作は、厳密で切り詰められた短章からなり、かつインスピレーションに満ちていて、そうしたところがヴェーベルンの音楽の肌合いに近いように感じます。例えば「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」という有名な彼の言葉がありますが、一面から見れば当たり前の言明ですし、他方から見ればいい曲を聴いて感動したら黙っていなさいなぁんて理解することも可能だと思います。ヴィトゲンシュタインの両親は音楽が好きで、ブラームスやマーラーも訪れたことがあり、彼の兄はけっこう有名なピアニストだったそうです。

 ブーレーズは「シェーンベルク、ベルク、ヴェーベルンを“発見”したのちに、彼らの音楽との連続性からマーラーを発見した」と言っているそうです。作曲家としてのブーレーズらしい実感だと思います。もちろん12音技法で書かれた作品を念頭に置いて言ってるわけで(「グレの歌」からマーラーじゃ当たり前すぎますよね)、そういう曲を演奏する時に必要な解析的なアプローチで音楽の構造を見ていくようなスタンスがマーラーを演奏するのに役立ったってところでしょうか。それならいっそ「フーガの技法」を録音してほしいですね。この曲に関してはさっき述べたような理由から、オリジナル楽器による演奏が優位する理由は何もないですから。

 バッハの音楽を聴くのが私のライフワークの一つなんですが、そのためにはすべての音楽を聴くことが必要なことの一つだろうと思っています。もちろん果てしのないことですし、付き合いかねるような音楽も多いのですが。

 

 


 

「日本のオーケストラ2003」

 

 JTがお金を出して作ったアフィニス文化財団という財団法人の支援による日本のオーケストラの演奏を集めた4枚組みのCDの2003年版です。CD自体が非売品で、図書館に寄贈されたもので、日本オーケストラ連盟っていうプロのオケの団体に加盟している23のオーケストラが全部演奏しています。つまり、あまりCD化されることのない日本のオーケストラについて知ってもらおうということで、財団法人の事業としてはとてもいいことだと思いますし、これが続けられているのも好ましいと思います。オールジャパン・シンフォニーオーケストラっていう各オケ選抜メンバーによるものも含めて24曲がほぼ作曲時期順に並んでいます。

 日本のオーケストラの大部分は厳しい財政状況や理解されない環境におかれているし、やれ「のだめ」だ、やれ「トゥーランドット」だと浅薄な流行に振り回されているんでしょうから、悪口は書かないようにしよう、いいものだけを採り上げようと、私にしては殊勝な心がけで聴き始めたんですが、そんなにひどい演奏はなくて、正直ほっとしました^^。

 ただこれはっていうのもちょっと少なかったかなぁ。おとなしいって言うか、教科書的って言うか。えぐいくらいの魅力がないと生き残っていけないって思うんですけどね。東京交響楽団のハイドンのシンフォニーの1番とか群馬交響楽団のベリオのシンフォニアとかはいい演奏だと思いました。。。もしかしたら、あまりreferenceになるほどの演奏がなかっただけかもしれませんが^^;。……まあ1楽章だけの抜粋っていうのが多いんできちんとした評価がむずかしいんですけど、だいたいはオケから提供された音源のようですから、自信のある演奏なんでしょうね。

 それ以上に感じたのは、6曲採り上げられている(つまり3分の1)邦人作品のひどさですね。だいたいは私でも名前くらいは知ってるような有名な作曲家なんですが、およそくだらない。現代音楽には名曲は東京の星のように少ないですが、それにしても……上に挙げたベリオの作品を物差しにするとレヴェルの低さがよくわかります。ベリオのも結局はマーラーの音楽でもっているようなものですが、それでもこのCDに収められた湯浅や三善や大栗や間宮の作品よりはよっぽどちゃんと音楽的内実があります。だいいち「内触覚的宇宙X」なんていうタイトルは作曲家の知的レヴェルの低さを示しているだけです。現代美術を見に行くと、こけおどしのオブジェにもったいぶった幼稚なタイトルがついてるのをよく見かけますが、そんな感じです。……一柳慧の「架橋」だけはまずまずの曲かなと思いましたが。

 


 

リストの交響詩

 

 格安で買った5枚組のリストの交響詩全集を聴いていて思ったことです。交響詩Symphonic Poemは、リストが創始した形式で、ドヴォルザークやスメタナ、フランクやドビュッシー、リヒャルト・シュトラウスなどなどを経て、シベリウスまで作り続けられたわけで、個人が一つの音楽ジャンルをここまで確立した例は寡聞にして知りません。

 リストの娘婿のヴァーグナーの創始した楽劇MusikdramaがR.シュトラウスくらいしか見るべき後継者がなく、しかも途中からオペラに戻っちゃったことと比較しても大したもんです。あまりそういうことは評価されないのかもしれませんが、私は音楽は目で見えないし、手でさわれないものであるだけに形式は、内容と同じくらい大事だと思っています。

 交響詩なんて、交響曲Symphonyに標題をつけて短くしたようなもの、本質的にベルリオーズの幻想交響曲などと同じようなものだと考える向きもあるでしょう。しかし、ずっとリストの交響詩を聴いていると違うことに気づくように思います。

 交響曲の骨格がソナタ形式であることは異論がないと思いますし、それだけに古典派的な要素を持っているわけです(そういう意味では20世紀まで命脈を保ったのは興行的理由が大きかったと思います)が、リストの交響詩は音楽以外の、神話や文学に触発された感情とか自分の見解によって音楽を展開していくわけですから、主情的なロマン派の申し子のような存在です。したがって、主題提示、展開、再現といったお決まりのソナタ形式の作品より、はるかに刺激的です。

 交響詩といっても当然のことながら人それぞれで、R.シュトラウスなどの場合はどうも音画Symphonic Pictureになっている曲が多いように思うのですが、リストは良かれ悪しかれ考えすぎの人ですから、もうちょっと複雑なものになっています。

 


 

 アイヴズ:ニューイングランドの3つの場所

 

 アイヴズ(1874-1954)の本職は保険会社のサラリーマンで、言わば日曜作曲家です。だからと言うわけでもあるのですが^^、私は日曜画家のアンリ・ルソーの絵を連想してしまいます。ルソーの作品では熱帯地方を描いた幻想的な絵が有名ですが、自画像などのようにパリを舞台にした絵も独特の変てこな味わいがあります。せこい収賄事件で裁判にかけられたとき、法廷に彼の絵が持ち出されると傍聴席から笑いが起きたといいますが、当然でしょう。……だってまだ値札がついてなかったんですから^^。

 アイヴズの作品はもうちょっと知的というか、手の込んだものですが、「ニュー・イングランドの3つの場所」とかいくつかの交響曲とかを聴くと、素人のおそろしさと言うか、アカデミックな評価や市場価値を狙わなくていい自由と言うか、いやもう何ともおもしろいものです。アメリカの昔ながらのフォスターとかドヴォルザークふうの音楽に別の旋律や不協和音が乱入してきて、ぐちゃぐちゃになっていく。でもそれが夢のような、記憶のコラージュのような、理外の理とでもいうような刺激的なつながりを持っているのです。

 大雑把には(つまりリスナーの側から言うと)20世紀の音楽は、いわゆる後期ロマン派、ヴァーグナー、マーラー以来の骨格を残した音楽と、12音技法のようなふつうの意味でのメロディを放棄したような音楽の二つに分類できると思います。人気のあるのはもちろん前者で、ストラヴィンスキー、ショスタコーヴィッチ、シベリウス等々なわけです。そして、後者はいつまで経っても「現代音楽」として敬遠されていて、アイヴズもこちらに入れられている気がしますが、私にはこうした2項対立を超えた(あるいは意識がなかった)存在だったように思えます。

 でも、そんな理屈はどうでもいいんです。日曜芸術家の作品はおかしなものなんですから、ルソーの裁判の傍聴人のように笑えばいいんです。わかったような顔なんかしないで。そう、裸の王様は笑ってあげないと。たとえ自分が服を着ていないことに気づいても。……そう言えば、カフカもしがないサラリーマンだったんですよね。

 


 

 ハチャトゥリアン「ガイーヌ」

 

 ハチャトゥリアン(1903-78)と言えば「剣の舞」ですが、それがバレエ「ガイーヌ」の中の1曲だとはあまり知られていないかもしれません。私は、小学校の音楽の授業で「剣の舞」を聴いて、その激しいリズムとスピード感にとても興奮して、親にねだって買ってもらいました。前にも書きましたが、大学に入るまでクラシックには全然興味がなかったので、それまでは、私が持っていた唯一のクラシックだったわけで、「剣の舞」以外に2、3曲が「ガイーヌ」からの抜粋で入っていました。

 すごくひさしぶりに全曲を聴いたわけですが、子どものときの記憶というのは大したもので、すぐに「ああ、これだった」とわかりました。また、「剣の舞」が初演の前日になってもう1曲新しい舞曲が必要になって、明け方まで呻吟したあげく生み出されたものだということを今回のCDのライナーノートで、初めて知りました。

 なつかしいだけでなく、さすがにその後いろんな知識は増えていて、彼はグルジア生まれのアルメニア人で、正規の音楽教育を受けたのは遅かったものの子どもの頃から、アルメニアやアゼルバイジャンの音楽に親しんでいたというCDの解説を読んで、ちょっと複雑な気持ちになりました。昔なら日本ではコーカサス地方で一括りにされていた一帯ですが、アルメニア人とアゼルバイジャン人は領土が入り組んでいてしばしば衝突をしていますし、グルジアはスターリンの母国で、ロシアからの独立を目指して悲惨なテロを行っているチェチェンも近いところです。こうした少数民族の背景や歴史はよく知りませんが、その生涯がほぼソ連という社会主義国家の興亡と一致するハチャトゥリアンが、実質的にロシア人が支配する中で民族色の濃い音楽を書いてきたわけで、その内面はどうだったのだろうかと想像せざるをえません。

 と言うのも、社会主義体制に従順だったように思われる彼も例のジダーノフ批判にさらされたことがありますし、初演時(1942年)には人民の敵である夫の不正を暴露する社会主義的英雄として描かれたヒロインのガイーヌが、1958年のボリショイ劇場での上演時には盲目になった恋人をけなげに助けるメロドラマの主人公に大きく変わっていて、1/3の曲が新たに作曲されています。CDは58年版の録音ですが、解説がLP時代のもので社会主義リアリズム寄りの姿勢なので、その改作の理由は演出の都合のようにしか書かれていませんが、これほどの違いをそんなことで説明はできません。たぶんその間の政治的変化によって作曲家が本来の自分の考えに近いものにしたというか、あまりにも遠いような内容を変更したというものだったのではないでしょうか。

 彼の音楽は「剣の舞」のような単純素朴なものばかりではなく、ヴァイオリン協奏曲やシンフォニーなどを聴くと、プロコフィエフやショスタコーヴィッチを想起させるようなものですが、彼らほどの複雑さもなければ強烈な個性も感じられず、やはり本領は「ガイーヌ」のような音楽だろうと思います。乗馬の習慣のある民族のリズム感は独特だという話を思い出すような、日本人にはちょっと無理かなっていうリズムが頻出してとても心地よいものでした。

 


 

 ブルッフ:スコットランド幻想曲

 

 

 確か諏訪内晶子のデビューCDで、ブルッフ(1838-1920)のコンチェルト第1番とスコットランド幻想曲の組み合わせです。もう彼女も10年にもなるんですね。ブルッフって人はこの2曲が有名なんで、ヴァイオリニストだって勘違いして、それにしちゃあ、パガニーニよりかはましなオーケストレーションするじゃんって思ってました。今回、これを書くためにラーイナーノーツを始めて読んで、へえシンフォニーを4曲も書いてる人なんだって知りました。日本語の解説がついてるのって激安盤がないからほとんど買わないんですが、これはジャケ買いwしたんですね。

 オケの鳴らし方って意味でも、自由な発想って感じでもスコットランド幻想曲の方がいいですね。序奏を含めて5楽章もあるし。どの楽章もスコットランドの民謡を使ってるみたいですが、印象が強いのは序奏の次の第1楽章と最後の第4楽章でしょうか。私としてはしっとりとした第3楽章が好きですけどね。

 この曲を聴いているとスコットランドに行ったことを思い出しました。ロンドンからエジンバラまでレンタカーで行って、そこでバスツアーに参加しました。スコットランドですから、スコッチウィスキーのディスティラリーでも連れて行ってくれるのかと思ったらそういうのは一切なし^^;。。ひたすらスコットランドの暗い虐げられた歴史遺跡周りって感じでした。この井戸で誰それの首を洗ったとかそういうのです。

 同じイギリスUKって言っても、イングランドとは違ったアイデンティティを持っているんですね。ホテルでイングリッシュ・ブレックファストはおいしいねって言うと、スコッチ・ブレックファストだって言われました。内容はロンドンのといっしょなんですけど^^;。。バスの運転手としゃべってたら、「世界中のものはぜんぶスコットランド人が発明したんだ」って言います。「へ?」って訊いたら、「マクドナルドだろ?マッキントッシュだろ?」だって。Mcがつく名前は『〜の息子』っていう意味のスコットランド語なんですね。

 そうそう、ネス湖にも行きましたけど、お天気はいいし、湖はその辺のダム湖と変わんない感じだし、ネッシー博物館みたいなのがあるんですが、伊豆あたりのせこい施設と変わんなかったですね。でも、夏でも寒い荒涼とした風景はいい感じでしたけど。

 さて、諏訪内晶子の演奏は、当時かなり話題になったのでうまいもんだとは思います。デビュー盤としては。ハイフェッツなんかと比べちゃかわいそうでしょう。彼の演奏ってむずかしいところほど軽々と弾くし、あそこまで技巧が冴えわたると官能的って言っていいほど、気持ちいいですから。やっぱり音楽って耳で聴くものですねw。

 


 

 モーツァルト:ピアノ協奏曲K.175、セレナーデK.205ほか

 

  17、18歳頃(1773‐74年)のモーツァルトに焦点を当てて、交響曲オペラ室内楽宗教曲と見ていって、最後は他のジャンルの曲を採り上げて終わろうと思ってたんですが、だいぶ間が空いてしまいました。一つはもちろん私が怠慢なせいですけど、残っているもののかなりの分量を占めるディヴェルティメントとかセレナードのCDがあまりなくて探していたこともあります。10枚組くらいのをいろいろ見ても不十分なんですが、仕方なく妥協しました。シンフォニーやコンチェルトは全集がいっぱいあるのにディヴェルティメントやセレナーデって軽く見られてるのかなぁ。確かにBGM的なところもあってゆるいって言えばゆるいけど、いちばんモーツァルトらしいって気もするんですが。

  そういうことで全部じゃないので、なんか中途半端なものになってしまいますが、まずは73年のピアノ協奏曲ニ長調K.175です。それまでに7曲ほどの作品(67年に4曲、72年に3曲)があるんですが、J.C.バッハを始めとした他の人の編曲だそうですし、内容的にも試作的な感じですね。そういう意味で、オペラと並んで彼の最も重要なジャンルであるピアノ協奏曲の実質的なスタートというわけです。彼としても自信作であったようで、78年にマンハイムで、81年にウィーンで演奏していますし、K.382のロンドを終楽章に用いたヴァージョンを85年に出版しています。編成もオーボエ、ホルンにトランペットやティンパニーも加えた華やかなものです。

 堂々とした出だしとコケットリーに富んだパッセージが、ああ、モーツァルトのニ長調がここから始まるって感じです。第2楽章もまるでアリアの導入のようなロマンティックなオケに乗って、ピアノがかすかな憂いを帯びた美しい歌を歌います。……でも、機会がなかったのか、76年までピアノ協奏曲は書かれませんでした。

 次は同じ83年の2つのヴァイオリンのためのコンチェルトーネ、ハ長調K.190です。コンチェルトーネってなんでしょね。小さいコンチェルトくらいの意味でしょうか。ピアノ協奏曲の場合と同じようにもう一人と競演する機会があったんでしょうが、調べていません。曲としてはヴァイオリンとオーボエが追っかけっこをするところがおもしろいんでしょうね。でも、音楽としての作りは典型的なザルツブルク時代のモーツァルトで、75年にまとめて書かれた5曲のヴァイオリン協奏曲につながるんですが、それ以降はぷっつり書こうとしなかったらしいです。その原因は76年に自分を差し置いてイタリア人をザルツブルクの宮廷音楽監督に据えられたのを屈辱に感じて、ヴァイオリンを弾くのが嫌になったせいだという説が最近読んだ本にありました。いずれにしてもヴァイオリン奏者の方は成熟したモーツァルトのコンチェルトがほしいでしょうね。

 ハンカチを手の上に乗せて弾くなどといった見世物みたいなもので、神童ぶりをヨーロッパ中に披露した(父レオポルドに披露させられた?)彼としては意外なんですが、ピアノ・ソナタは74年から75年に作曲された6曲(K.279-284)が最初です。ただ62年の6歳くらいから68年までに20曲近いヴァイオリン・ソナタを書いていて、これらはヴァイオリン・パートはピアノをなぞるような簡単なものなので(レオポルドが弾いたのかな?)、実質的にはピアノ・ソナタと言うべきものです。その上に立ったピアノソナタですが、コロコロときれいなメロディがころがるヴァイオリン・ソナタから、例えばヘ長調のK.280の第2楽章などを聴くと陰影のある音楽になっているのがわかりますし、まとめて作曲されたのにもかかわらずテーマの展開の仕方が見る見る豊かになっているのはすごいなって思います。私はグールドのおよそ正統的じゃないもので聴いていますが、青年モーツァルトをからかうような、一緒にはしゃぐような演奏はそれはそれでおもしろいものです。最後に書かれたニ長調のK.284の出だしの躍動感あふれる走り出すような弾き方は、モーツァルトが発展途上のピアノの可能性を見つけたことを表わすかのようです。

 さて、問題のディヴェルティメントとセレナードです。私が聴けたのはセレナードの二つともニ長調のK.185とK.203、やはりニ長調のディヴェルティメントK.205、やはりニ長調のマーチK.189です。セレナードは弦に2つずつのオーボエ(又はフルート)、ホルン、トランペットで、K.203にはファゴットも入るようです。ディヴェルティメントは弦にファゴット、2つのホルンが入り、マーチは2つずつのフルート、ホルン、トランペットが入ります。どれも結婚式とかのお祝いの音楽といった感じで、明るく快活な音楽ですが、K.205はカヴァティーナふうの序奏で始まり、メランコリックなところや不安定に感じられるところもあって、この時期の彼の心情を想像したくなるような心に残る作品です。これら以外に聴けなかったものを列挙しておきます。見落としもあると思いますが、ディヴェルティメント変ホ長調K.166、変ロ長調K.186、弦と管楽器による16のメヌエットK.176、マーチニ長調K.237です。

 別に結論をつける必要もないようなとりとめのないものでしたが、一時期に絞って聴いていくといろんなことがわかっておもしろかったですし、最初に抱いた「この時期にモーツァルトの内面で何かが変わった」という直観はそんなに間違っていなかったように思います。神童は自らを耕し、比類ない天才に変貌したのです。

 


 

 ベリオ:Orchestral Transcriptions〜拡大・縮小・変形のトランスクリプション

 

 

 編曲って言ってもいいんですが、それだとポップスのアレンジと同じようなものだと思われそうなんで、ちょっとむずかしめのトランスクリプションって言葉を使います。やさしい日本語で言えば書き換えってことです。ポップスのアレンジは、私は商品化だと思っています。たぶんギターやピアノのコード伴奏くらいしかないデモテープにベースやドラムスやシンセなどなどをつけて、世の中で売れるようパッケージングする作業じゃないかと。……この出来不出来にはかなり差があって、例えばアニメの声優さんの歌だとしばしば伴奏はシンセだけのチープでトホホな代物だったりします。

 それはともかくクラシックではトランスクリプションっていっぱいあって、大ざっぱに楽器編成の縮小か、拡大に分けられるような気がします。オーケストラの曲をピアノで弾けるようにしたのなんかが縮小で、例えばリストはベートーヴェンのシンフォニーを編曲しています。これはピアノの腕前を誇示するためのものなんだろうと思いますが、CDなどがない時代に家庭とかで、オーケストラ曲を楽しむために盛んに編曲されていました。今でも合唱やオペラの練習ではピアノ伴奏でやりますし、声楽用のヴォーカル・スコアは伴奏はピアノ用の2段のものがふつうでしょう。

 拡大の方の例としては、ムソルグスキーのピアノ曲「展覧会の絵」をラヴェルがオーケストレーションしたのが有名で、原曲よりよほどポピュラーです。シャブリエの狂詩曲「スペイン」も元はピアノ曲だったのを作曲家自身がオケ用に編曲したんじゃなかったかなって思います。4手のピアノ、つまり連弾だとたいていのオケ曲はまあ弾けるんですが、ブラームスのハンガリー舞曲もドヴォルザークのスラヴ舞曲も連弾曲を作曲家自身が編曲したものです。

 体系的な解説をするつもりはないんで、一般的な話はこれくらいにして、縮小と拡大の例を一つずつ挙げましょう。まずはアール・ワイルドっていう1915年生まれのアメリカのピアニストの演奏です。この人は81年にカーネギーホールで全部トランスクリプションのプログラムのコンサートを行っていて、主な曲目は、グルック「オルフェオのメロディ」、バッハ「トッカータとフーガ、ニ短調」、ヴァーグナー「イゾルデの愛の死」、リムスキー・コルサコフ「くまんばちの飛行」、クライスラー「愛の悲しみ」、ヨハン・シュトラウス「美しき青きドナウ」で、その他にショパンの歌曲「ポーランドの6つの歌」、ロッシーニやドニゼッティのオペラのアリアからの編曲などです。

 大編成のオーケストラ曲なんかを縮小して、ピアノだけで弾いてしまう技巧はすごいし、コンサートで聴けば拍手喝采しちゃいますが、正直言って一体なんのためにやってるのかなって思いました。いくら上手に弾いたってバッハのオルガン曲をピアノでやる意味はわかりませんし、クライスラーのヴァイオリン曲を編曲したラフマニノフやショパンの数少ない歌曲を編曲したリストの気がしれません。

 で、ライナーノーツを読むとワイルドはトランスクリプションが多くの自由を与えてくれて、自分の解釈ができるから好きなんだそうで、愉快で、おもしろく、多彩で、豊かな響きをあやつれるし、様々な音色が出せると言っています。これは確かに演奏に表われていて、超絶技巧的なところよりも細やかな音の表情の変化の方が魅力的で、単に指が回るとかそういう人ではありません。……考えてみればベートーヴェンやリストやショパンやドビュッシーといった基本的なレパートリーは、多くの巨匠(多すぎるかもしれませんw)がたいていのことをやってしまっています。だから彼は、「あ、ここは誰々のと同じね」って感じで、弾く方も聴く方も自由が奪われてしまっていると言いたいように思えました。……

 私が上で「なんのためにやっているのか」って言ったのも、そうした巨匠のありがたい演奏には何かためになるものがあるという幻想に取り付かれているせいなのかもしれません。スポーツやサーカスと同じように人をびっくりさせればそれでいいんだっていう考えもあるでしょうし、リストやラフマニノフがそういう面を持っていたのは事実でしょう。内容のある演奏とか精神性を感じる演奏と言っても、それが技術の修得より困難だという保証はどこにもありません。

 次はベリオ(1925‐2003)の作品をシャイーの指揮で、ミラノ・ジュゼッペ・ヴェルディ交響楽団が演奏した“Orchestral Transcriptions”というCDです。ベリオはマーラーの第2シンフォニーをフィーチャー(便利な言葉ですねw)した「シンフォニア」が有名ですが、このCDには原曲の時代順に次のような作品のトランスクリプションが集められています。パーセル「妖精の女王」の導入組曲から「ホーンパイプ」(69年初演)、バッハ「フーガの技法」からコントラプンクトゥス]\(01年)、ボッケリーニ「マドリッドの夜の夜営ラッパ」の4つのヴァージョン(75年)、モーツァルトのためのディヴェルティメント「恋人か女房がこのパパゲーノに」の12のアスペクト(56年)、シューベルトの交響曲スケッチに基づく「レンダリング」(90年)、ブラームス「クラリネットソナタ第1番ヘ短調」のオーケストラ編曲(86年)。

 このうち最もふつうの意味での編曲、さっき言った拡大に近いのがブラームスで、その反対に原曲の面影を留めていないのがモーツァルトです。ブラームスは第4シンフォニーの味わいと共通するもので、室内楽的(当たり前ですがw)で濃厚な情念がとてもよく出ています。モーツァルトは「魔笛」のアリアが元だとはちょっとわからないバリバリの現代曲ですが、それでもモーツァルトの時代の音楽のイメージはちゃんと漂っています。この曲は、現代曲専門のドナウエッシンゲン音楽祭が半世紀前のモーツァルトの生誕200年を記念して、ヘンツェ、アイネムなどとともに委嘱したものだそうです。

 シューベルトのスケッチによる「レンダリング」(翻訳とか解釈といった意味です)は、シューベルトが完成させればこうなっただろうと思わせる見事な音楽がチェレスタの先導する雲のような靄のような音楽に呑み込まれるという不思議な代物で、シューベルトの持っていた病んだ精神がチェレスタの能天気な音色によって、かえって伝わってきます。バッハのコントラプンクトゥス]\は「フーガの技法」の終曲で、ベリオはあまり手を加えることなくリアライゼーションを手堅く進めていきますが、最後に例のBACHの音型が現われると音楽は静かに崩れ落ちていきます。

 ベリオの作品は編曲とか変奏曲とは違ったものだという気がします。楽器編成に合うように音を足したり、引いたりする編曲も、テーマを使って自分の音楽を展開していく変奏曲も素材となった音楽からすれば外側にあるように思いますが、彼の場合はその内側に入って自分の音楽に変形させているような。……私が原曲を知らないパーセルやボッケリーニを含めて、シャイーの選曲のセンスでしょうか、現代の視点から書き換えられた音楽史を聴くような趣があってとてもおもしろかったですねw。

 


 

  ストラヴィンスキーの冬の祭典

 

 

  年末年始に図書館からストラヴィンスキーのCDを片っ端から借りて聴いていました。3大バレエを始めとしたよく聴いたことのあるのは除きましたが、それでもいろいろあって感心しちゃいました。発表年代順に並べてみます。

@ 弦楽四重奏のための3つの小品1914年:アルバンベルク四重奏団によるもので、弦楽四重奏のためのコンチェルティーノ1920年とラウール・デュフィの追悼のための2重カノン1959年、アイネムの弦楽四重奏曲第1番がカップリングされています。3つの小品はペトルーシュカのような芝居小屋的な雰囲気があり、コンチェルティーノは春の祭典に近いバーバリズムを感じさせて、一般的なストラヴィンスキーのイメージを弦楽四重奏の形で聴くことができます。アイネムの作品も地味ですが、冒頭部分がなかなか魅力的です。

A オペラ・ロシニョール(ナイチンゲール)1914年:ブーレーズ指揮で、とても短いオペラです。死神に憑かれた中国の皇帝をナイチンゲールが救うという「トゥーランドット」みたいなお話で、日本からの使者も出てきます。音楽、特に第1幕はドビュッシーの「ペレアスとメリザンド」を思わせるところがあります。全編夜が舞台なんでよけいそんな感じです。

B 11の楽器のためのラグタイム1918年:アシュケナージのピアノ・指揮で、息子のディミトリがクラリネットを演奏しています。トリオ版(クラリネット、ヴァイオリン、ピアノ)の兵士の物語1919年や七重奏曲1953年といった室内楽曲がカップリングされています。

C バレエ・プルチネルラ1920年:ホグウッド指揮による声楽パート付きので、ダンバートンオークス協奏曲1938年とカップリングされています。さらにチャーミングな序曲の原曲になったガローのトリオ・ソナタとペルゴレージのシンフォニアも入っていて、いかにもホグウッドらしい工夫がされています。

D 「ペトルーシュカ」からの3楽章1922年:キーシンのピアノで、スクリャービンの5つの前奏曲、ピアノ・ソナタ第3番、メトネルの追憶のソナタがカップリングされています。この曲が難曲であることはのだめのお蔭で広く知られるようになったんじゃないかって思いますが、それだけにキーシンの超絶技巧が快感で、音がやたら多いのを整然としたタッチで弾くので腕が3本あるんじゃないかって思わせます。のだめ関連のCDをショップで立ち聞きしたらますますそれを実感して、ストラヴィンスキーはピアノが上手じゃなかったらしいのになって思いました。

E ピアノ・ソナタ第2番1924年:ヴェデルニコフの演奏で、ショスタコーヴィッチのピアノ・ソナタ第1番、第2番とカレトニコフのレント・ヴァリエーションとカップリングされています。

F バレエ・ミューズを導くアポロ1947年版:エサ-ペッカ・サロネンの指揮で、弦楽のためのニ調の協奏曲と古いイギリスのテキストによるカンタータがカップリングされています。

G ピアノと管楽器のための協奏曲1950年版:ポール・クロスリーのピアノ、エサ-ペッカ・サロネンの指揮で、ピアノとオーケストラのためのカプリッチョ1949年版、管楽器のシンフォニー、ピアノとオーケストラのための楽章がカップリングされています。

H オペラ・放蕩児の遍歴1951年:ケント・ナガノ指揮によるもので、18世紀のイギリスを舞台にした英語のオペラです。音楽に力があってきびきびしてて、舞台を見てみたいなって思いました。

I バレエ・アゴン1957年:ムラヴィンスキーの指揮で、ウェーバーの舞踏への勧誘やラヴェルのボレロなどがカップリングされています。

 本を読みながらだらっと聴いただけですし、ライナーノーツも読んでないので、全部についてコメントはできませんが、これだけ聴いてもわりと飽きが来なかったです。それはよく言われるようにカメレオンのようにいろんなスタイルの音楽を書いたからですが、A、C、F、H、Iと舞台作品が多いこととも関係しますけど、とてもサーヴィス精神旺盛な人だったからかなって思います。しかし、そういうことを含めてなんとなくバルトークやショスタコーヴィッチよりも低く見られてるような気がするのは私だけでしょうか。

 


 

 ストラヴィンスキー・ラフマニノフ・ドビュッシー

 

  07年の7/17に池袋の東京芸術劇場で行われた読売日響の定期演奏会に行って来ました。プログラムはパオロ・カリニャーニ指揮で、前半がストラヴィンスキーのサーカス・ポルカとラフマニノフのピアノ協奏曲第2番、後半がストラヴィンスキーの「春の祭典」でした。お目当ては春の祭典だったんですが、ありていに言ってCDで聴き慣れた曲を実演で聴いたっていう以上のものがあったのかどうか疑問です。この曲の命と(私が思っている)ノリのよさがあまり感じられなくて、特に前半の最後近くまでは不意に音楽に隙間が空いて、緊張の糸が切れてしまうような個所が何回かありました。当初予定されたラファエル・フリューベック・デ・ブルゴスが体調不良でカリニャーニに変更になったんですが、まさかこんなポピュラーな曲で指揮者とオケの意思疎通に問題があったとも思えないんですが。リズムもどうも私が理解していた(主に聴いてきたのがマゼールのCDですが)のと違って、ト・タン・ターン・タンというリズムがあったとして、それがタン・タ・ターン・タみたい(違うかなw)に聞こえて、なんだか野暮ったく感じることがありました。まあ、その辺は趣味というか慣れなのかもしれなくて、また聴いてみたいなってことでいいんですが。……良かったところを挙げると木管がとても気持ち良かったです。冒頭のファゴットは危うい感じがありましたけど、あとは森の中から漂う霊気みたいなのがフルートの低音などを中心によく出ていました。

 最初のサーカス・ポルカは4分ほどの短い曲ですが、ストラヴィンスキーが好んだと思われる芝居小屋の雰囲気が濃厚な楽しい気楽な曲です。この曲からすると春の祭典は作曲家が鋭敏な知性を傾けて拵えた数学の証明問題のような感じかなって思いました。

 さて、知ってる人は知ってると思いますし、知らない人は知らないと思うんですがw、私はラフマニノフとオクラが嫌いです。それはちょっと言い過ぎで、オクラは食べないけど、ラフマニノフは聞きます。でも、なんか似てると思いません? ほら、彼の曲ってねばねばしてて、指に毛が生えてるような感じでしょ?w ねばねばなんかしてないって? そうかなあ。例えば第3楽章で何回か出てくる右手のトリルって、私には全部1回ずつ多いと思いますけど。この曲の中ではこの楽章がいちばんいいかなって聴いてたのに。で、それとは別にどこかラプソディ・イン・ブルーに似てるような気がしました。まあ、私が誰かと誰かが似てるって言っても、賛成してもらえないことが多いんですが。

 後先になってますが、独奏は辻井伸行でした。彼のピアノはとても清潔な感じで、チョコレートが溶けたようになっちゃいそうな(好きな人にはそこがいいんでしょうね)第2楽章でも粒立ちのいい音を響かせていました。ただ打鍵がいまいち弱いのか、はったりがきかないのか、しばしばオケの中に埋没してしまうようでした。つまり指に毛が生えてないんですねw(強引だあ)。だもんで、演奏の手柄も責任も全部独り占めしちゃうぞっていう気概が足りないように思いました。

 で、この夜、いちばん感動したのは彼がアンコールで弾いたドビュッシーでした。映像(これはイマージュと呼ぶべきですが)第1集の「水に映る影」だというのは帰るときに掲示を見たんでわかったんですが、最初のフレーズを聴いたときから、「あ、(ラフマニノフでも他のロシアの作曲家でもなく)ドビュッシーだ」という意外感とともに、彼が自分が本当に好きな曲を弾いてみせてくれたという共感みたいなものがわいてきました。この人がドビュッシーにどんなイメージを乗せようとしているのか、じっくり聴いてみたいと思わせる演奏でした。

 


 

  三角空間の風

 

 10/22にサントリーホールで行われた読売日響の定期演奏会に行って来ました。プログラムは下野竜也指揮で、前半が ヒンデミットの歌劇「ヌシュ・ヌシ」からの舞曲と交響曲「画家マティス」、後半がシュレーカーのバレエ組曲「王女の誕生日」と細川俊夫の「オーケストラのためのダンス・イマジネール」でした。このプログラムは、現代音楽を親しみやすくというコンセプトで、かつ踊りの曲をあしらってメインの細川の曲につなげるという工夫なんでしょうけど、やっぱりブルックナーに比べると空席がかなり目立ちました。

 ヒンデミットの舞曲の方はシロフォンとチェレスタがアクセントになっていて、弦のスピード感もあり、ビルマの音楽が聞こえてなかなか楽しめました。でも、マティアス・グリューネヴァルトの方は額縁構造はわかっても肝心の絵に描かれてるものが見えて来ないんで、やっぱりこの曲って私にはピンと来ないなって思いました。

 シュレーカーって名前すら聞いたことがなかったんで、少しぐぐってみるとユダヤ人ってことでナチスに排斥された作曲家のようです。その辺でヒンデミットとつながるのかなって思ったんですが、曲の内容もよく言えば親しみやすい、悪く言えば時代遅れで、似たところがあります。バレエの筋はこちらを見ていただければいいんですが、プロコフィエフあたりが好みそうな皮肉な感じのものです。ギターとマンドリンが各4、ハープ2、チェレスタ、いろんな打楽器といった贅沢な編成で、地中海風の明るいものでした。

 細川俊夫のは読売日響45周年記念委嘱作品ということで、セッティングに時間がかかるので、下野がちょっとあいさつをしました。曲が始まったとたん「あ、ATG映画の音楽みたい」って思いました。ATG映画の音楽なんて言われてもわかんない人が多いと思いますが、能の音楽と雅楽を混ぜて表現主義的に仕上げた現代音楽です、って無茶苦茶言ってますねw。まあ、前に見た「あさき夢みし」とかから私が勝手に名前をつけてるんですが。

 要は音楽のイディオムが新しくないってことなんですけど、曲のテーマはダンスっていうより風じゃないかなって思いました。いくつも風鈴が使われてて、風の音もしきりに鳴っていたので。ウィンドマシン(PCじゃないですw)かなと思ったらどうもトロンボーンのムラ息でやっていたようです。和楽器の音を西洋の楽器=オケのメンバーにさせていて、尺八や篠笛の音をフルートやピッコロが上手に模倣していました。

 楽器の配置にも工夫があって、ピアノとハープがステージの真ん中にあって、ステージ後方の両側に打楽器、さらに両サイドの2階席入り口にホルン、トランペット、トロンボーンがあります。ということは私の席のちょっと前に打楽器があって、真後ろにバンダがあったんですね。左側(第1ヴァイオリン側)がいつも先に鳴って、呼び交わすように右側が同様の音型を描くというパターンで、つまり三角形(あるいは四角錐)の空間を作ろうということですが、こういうシンメトリカルな感覚は西洋音楽的かなって思います。いろいろ考えて作られているけれど、それがインスピレーションを感じさせるものではなかったような気がします。……演奏終了後、細川がステージに呼ばれましたが、熱狂的なアプローズで迎えられたとは言えなかったです。

 かなり日にちが経ってからのしかも短いブログになりました。それというのも下野の指揮に魅力がなかったからなんです。わかりやすくてエネルギッシュな振り方ですが、色気がないというか、ニュアンスに乏しいというか。曲についてくわしく書いていく気力がわかなくてほったらかしにしてたんですが、でも行ったコンサートは記録しておこうと決めてるので書きました。