opera

 

ヨハン・シュトラウス「こうもり」

ドビュッシー「ペレアスとメリザンド」

プッチーニ「トゥーランドット」

モーツァルト「魔笛」

ショスタコーヴィッチ「ムツェンスク郡のマクベス夫人」

ボロディン「イーゴリ公」

バルトーク「青ひげ公の城」&「中国の不思議な役人」

モーツァルト「偽の女庭師」

ベルリオーズ「トロイ人」

 

 


  

ヨハン・シュトラウス「こうもり」

 

 

 

 大晦日にウィーンのシュターツ・オーパー(国立歌劇場)で見た「こうもり"Die Fledermaus"」の話です。ウィーンの人は「紅白」よりも「こうもり」です。なーんてこともなくて、一般庶民は行きません。プレミアがついて高いし、あんなとこに行くのは、スノッブだと思ってるんじゃないでしょうか。行くのは、上流階級の人たちか、日本人を始めとした外国人。そういうところはニューイヤー・コンサートと一緒です。テレビでやってないし。

 そんな高いチケットを買うつもりもなく、年越しそばでも食べながら日本を偲ぼうと思ってたんですけど、親戚がウィーンに来まして、けっこうクラシック好き、ウィーン好きなんで、ぜひ見たいと。じゃあ、お供しますってことで、オーパー(単にこう言えばシュターツ・オーパーのことです)からケルントナー通り辺りのチケット・ショップを訪ね歩いて入手しました。前日くらいだったので、すごく高かったですけど、自分の財布からじゃなければ平気w。

 格式の問題だと思いますけど、シュターツ・オーパーはふだんはオペレッタってやらないんです。この年末の「こうもり」だけが例外で、まあ年末だから羽目はずしちゃえみたいなもんでしょうか。フォルクス・オーパーでは見たことがあったんですが、やっぱり舞台が豪華絢爛! それが回るときなんかは思わず、おおーって歓声が上がります。演奏がわかんない私でもウィーンフィルってやっぱきれい! 楽しんで弾いてますね。いっぱい引っ掛けてるのもいるかも^^。

 「こうもり」ってよくできたオペレッタだと思います。序曲はいろんなオペラの中でも5本の指に入るくらい好きです。フィガロもそうですけど、ああいうわくわくするような、これから始まるお芝居が楽しみになるようなのがいいです。おいしいメロディをうまくつなぎあわせて、でもまとまりがよくって。

 ストーリーは、こうもりの格好をして友人のアイゼンシュタインに恥をかかされたファルケが、友人の奥さんのロザリンデなどなどと組んで、浮気をとっちめるのと合わせて復讐するっていう単純なものです。単純で他愛のない話が喜劇には合います。自分の奥さんや召使が見分けられないとか、自分が収監される刑務所長と仲良くいい加減なフランス語でしゃべるなんて、お芝居ならではです。オペレッタの筋って吉本新喜劇とあんまり変わらないドタバタ劇ですし、モーツァルトのオペラ・ブッファだってそうです。それをくだらないって言う人の方がくだらないです。

 でも、この単純なストーリーにユニークな人物がからみ、美しかったり、楽しかったりする音楽や踊りが入ると、とっても生き生きとしたものになります。「こうもり」で言うと、第2幕のロシアの貴族オルロフスキーの奇矯な振る舞いと裏声や第3幕の牢番フロッシュが全く歌わないのにアドリブいっぱいの台詞まわし(地元の人でないとなかなかわからないですが)と12/31の日めくりカレンダーを破くと32日って、お約束のギャグがそうです。それ以上に召使のアデーレがチャーミングでなければなりません。……ああいうのは、小林幸子や北島三郎が出ないと「紅白」の気分が出ないと同じかなぁ。見てないけど^^;。

 構成としてもよくできていて、第1幕のアイゼンシュタインのお屋敷での小粋な喜劇、第2幕のオルロフスキーの邸宅の華やかな宴会とバレエ、第3幕はモノトーンな刑務所での音楽の少ないお芝居となっていて、最後はそこに登場人物が勢ぞろいしてシャンパンを称える歌で終わります。まさに”Wein,Weib und Gesang”なのですが、みんな退屈ennuiを持て余していたから……とまとめちゃうこともできるでしょう。

 でも、刑務所の事務室には必ずフランツ・ヨーゼフ1世(在位1867-1916)の肖像が掛かっています。多民族国家であるがゆえの苦難に耐え、最善の努力をしながら、オーストリア帝国の凋落を押しとどめられず、奥さん(エリーザベト)は暗殺され、長男もマイヤリンクで謎の心中で亡くし、皇太子の甥はサラエヴォで暗殺され(第1次大戦の引き金です)……と悲劇的な、しかしウィーンの人が今も愛してやまない皇帝なのです。ミュージカルでエリーザベトのことは有名になりましたね。

 そういう忍び寄る破滅を前になすすべもない、優雅なennuiなんて、今の日本からは縁遠いものでしょう。……もちろん私はこんなことは考えもせず、楽しくて、典雅なオペレッタを満喫した夜でした。幕間にはシャンパンは高いので、スパーリング・ワインを片手に歴史や内装をスポンサーに紹介したり、着飾ったマダムやフロイラインを眺めたり。そういうのがオーパーの楽しみ方なんです。

 


 

 

 ドビュッシー「ペレアスとメリザンド」

 

 

 

 「ペレアスとメリザント」は、ドビュッシーの最高傑作だと思います。あの音そのものが幻想を紡ぎだすような「牧神の午後への前奏曲」よりも、ニュアンスだけでできたようなピアノ音楽の一つの極致と感じられる「前奏曲集」よりも、ましてや音画的な「海」なんかよりは。……最初に聴いたとき、ストーリーも歌詞もなんにも知りませんでしたが、まるで水の中に入っていくような透明な音楽だと思ったものです。

 完成されたオペラとしてはこの作品が唯一のもので、リチャード・ランハム・スミスが補筆し、エディソン・デニソフがオーケストレーションを行った「ロドリーグとシメーヌ」ケント・ナガノの指揮で聴きましたが、ドビュッシー以前のドビュッシーと言うべきものでしょう。

 そのCDの解説にも書かれていますが、ヴァーグナーの影響からの離脱が若きドビュッシーにとって最大のテーマであったようで、それはこの「ペレアスとメリザント」においてもなお格闘が続いていることが窺えます。何をもってヴァーグナー的と言うか自体が人によって様々でしょうが、象徴的であまり事件が起こらない舞台、内面の葛藤を重視した音楽といったように、イタリア・オペラ(特にヴェリズモ・オペラ)との相違点で考えるのがわかりやすいでしょう。だとすれば、ヴァーグナーとドビュッシーは、全く異質なものとは言えず、「トリスタンとイゾルデ」や「パルジファル」のような後期の作品に近いようにすら思えるでしょう(それは「カルメン」を想起すれば明らかです)。さらに、レチタティーヴォとアリアでつないでいく19世紀までのオペラと全く違い、Sprachstimmeに近いような歌とも語りともつかない、しかしシェーンベルクにはない感覚的な美しさを十分にもったこの作品での歌唱は、過渡期のみに許される奇跡のような背反するものの共存なのです。

 私は、ブーレーズ指揮、アリスン・ハーグレーのメリザント、ニール・アーチャのペレアス、ドナルド・マクスウェルのゴローのDVDでこれを見て、最初の一音からまぎれもないドビュッシーの音楽である、このオペラの世界に酔い痴れました。メリザントは、遠いどことも知れないところから、ただ「何人もの男から悪さをされた」女として神秘的な森の中の泉の畔に登場します。既にして象徴詩的な世界におけるセクシャルな物語というこの作品の性格がはっきりと現われるとともに、メリザントを中心としてこのオペラ全体が意図的に曖昧(ambiguous)にされた、謎に包まれている――そして、それを音で表現するのに最適なのがドビュッシーの音楽です――ことが様々に強調されます。

 泉に落ちた王冠、暗い城、霧の海を行く難破を予言された帆船、盲目の泉、月明かりの洞窟とサンボリスム好みの情景が次々と登場し、観客にはメリザントが無邪気(でも、それは残酷でもあるのです)であるがゆえに男を悲劇的な運命に導く”femme fatale”であることが印象づけられていきます。それを引き立てるのが世の常識や通常の感情を体現したゴローで、この作品を彼の悲劇として解釈することもできるでしょう。

 このオペラで最も有名で、かつ官能的な場面は、塔の中に夫となったゴローによって、半ば幽閉されたメリザントが父の異なる弟のペレアスによって愛を訴えられるいわゆる第3幕第1場の「髪の場」でしょう。塔から長く落ちてくる彼女の髪の毛は、言葉とは裏腹に彼女の肢体と本心を露わにしています。ペレアスがもう離さないとばかりに髪の毛を柳の枝に結びつけると、彼女の鳩は飛び立ち、暗闇に迷って戻らないのです。彼女の貞節がそうであるように。そのためにゆっくりと破滅に向かう二人の運命がそうであるように。

 そこに現われたゴローは「こんなところで何をしている?」と問いかけながら、答えも待たずに「そんな子どもみたいな遊びはやめなさい」と言ってペレアスとともに去ります。知らない方が賢明な妻の不倫を見た男が常にそう言うように。……

 しかし、結局のところ不安が払拭できないゴローは息子のイニョルドから二人の様子を訊こうとします。この第3幕第4場でボーイ・ソプラノが繰り返す”ma pere……”という歌声はとても印象的ですが、ゴローが訊きたいのは要はキスしたかどうかといった即物的な事実であり、そのためか息子から「お髭も髪も真っ白だ」と言われます。その後で、こともあろうにイニョルドを抱き上げて、メリザントの部屋を覗かせ、妻と弟が不倫していないかを見させます。「ベッドにいるのか?」とここでも即物的な質問を投げかける父。息子は、「ただ二人で離れて壁に寄り添い、身じろぎもせず、一言も言わず立ったまま明かりを見つめているだけ」と答え、不安に戦きます。ゴローはその「子どもみたいな振る舞い」に取りあえず安心するのですが、これはもちろん二人のただならぬ関係、互いに魂を覗き込んでいることを示したものに他ならないでしょう。ゴローは、二人はおろか、息子ほどもものが見えていないのです。

 ゴローの嫉妬はペレアスよりもメリザントに向かい、長い髪をつかんで引きずり回したりしたあげく、彼女は女の子を出産した直後に死んでしまいます。その直前、諦念に満ちた盲目の老王アルケルからゴローは「近づいてはいかん。彼女の心を乱してはいかん。ものを言ってはならん。お前には魂というものがわかっていない」と言われてしまうのです。……

 


 

プッチーニ「トゥーランドット」

 

 

 私が観たDVDは、北京の紫禁城で行われた歴史的演奏のライヴ・レコーディングで、メータの指揮、チャン・イーモウの演出によるとても豪華な舞台です。紫禁城という作品の舞台そのものの壮麗さ、装置の絢爛さもさることながら、華麗な衣装や北京舞踏学院の京劇ふうの踊りも申し分ありません。30分のメイキングまでついて3千円というのは安いでしょう。

  しかし、これはある意味不思議なイヴェントです。この作品は、プッチーニ(1858-1924)が最期まで完成に執念を燃やしながら、第3幕の途中までで世を去り、初演の際トスカニーニが「ここでマエストロはペンを擱いたのです」と言って演奏を止めたという伝説があり、ハロルド・ショーンバーグによれば常時演奏され、今も愛されている最後のオペラであるわけですが、それまでの彼自身のオペラのスタイルをなぞったものであり、エキゾチズムでくるまれたメロドラマなのです。簡単に言えば別に中国でなくても、インドでも、トルコでも、インカ帝国でもよさそうなものです。だいいちトゥーランドットなんて全然中国ふうでなく、アラビアン・ナイトあたりの名前でしょう。いつのお話なのかもわかんないし。

  それを堂々と紫禁城内の労働人民文化宮殿前で、多くの中国人を前に清朝ふうの格好をした紅毛碧眼^^の西洋人がイタリア語で歌うというのは、たぶん我々が前作の「蝶々夫人」について感じる以上に違和感があるものでしょう。プッチーニはそれなりに日本や中国の音楽を勉強していたらしいのですが、文化的な違いというのはそう簡単に乗り越えられるものではないのでしょう。我々だって、「韃靼人の踊り」なんて呼び方をしていますから、批判できたものではないんですが。。。韃靼人は中国人がモンゴル系の民族のうち東の方に住んでいた民族を呼んだものらしいですが、ボロディンの「イーゴリ公」の有名な踊りの原題は「ポーロヴェッツ人の踊り」で、黒海北部からモルドヴァにかけて住んでいた遊牧民だったんですね^^。

  このオペラで最も心に訴えかけるのはおそらく可憐なリュウの自己犠牲でしょうし、私がいちばん好きな音楽は、コメディ・デアルテのスタイルで、ピン、パン、ポン(これもずいぶんな名前ですが)の3人の大臣が故郷の自然を懐かしむ場面です。しかし、他の作曲家はこうしたものを陳腐な時代遅れのものとみなすようになって、要はオペラそのものを信じることができなくなってしまったのだろうと思います。

  その根本的原因は、やや性急に言ってしまえばたぶんオペラを支えた市民階級(ブルジョワ)の創造的精神の衰退なのでしょう。そして、プッチーニの精神はミュージカルに受け継がれ、それは階級的意識を持つことを含めて、固定的な定義(つまりカラフのように名前を知られること)を拒否する現代の大衆によって支えられているのだろうと思います。それが真に創造的かどうかはまだ答えは出ていないとしても。

 

 え?「誰も寝てはならぬ」はどうしたのかですって?……あんまりなんとも思わなかったので、書かなかったんですけど。

 


 

モーツァルト「魔笛」

 

 

 

 モーツァルトの「魔笛」を観るといつもある種のとまどいを感じます。一体このオペラは、無邪気なおとぎ話なのか、フリーメーソンの秘儀を示した舞台神聖劇なのか、夜の女王が第1幕と第2幕でなぜ全く反対の役割になってしまうのか、ザラストロの主宰するイシスとオシリスを崇める宗教は本当にタミーノとパミーナを幸せに導くのかなどなど、挙げていけばいろいろ疑問が湧いてきて、「フィガロの結婚」のような完成度がないように感じてしまいます。その理由の一つには筋の運びがぎくしゃくしていて、話が妙に早く進むところと停滞するところが混然としていることがあるのかも知れません。

 脚本の問題であればシカネーダーの責めに帰すべきもののように思いますが、ずっと以前の「後宮からの誘拐」に関する有名な手紙に見られるようにモーツァルトは最も効果を挙げられるよう、脚本の手直しを要求したりしていたわけなので、彼も少なくとも承諾した脚本なのでしょう。

 イタリア語のオペラ・ブッファである「フィガロの結婚」は、ウィーン市内でも立派な公共建築物が立ち並ぶ一角のブルク・テアターで上演されたのに対し、ドイツ語のジング・シュピールの「魔笛」は庶民の台所、ナッシュマルクト(「つまみ食い市場」とでも訳せますか)にほど近いテアター・アウフ・デア・ヴィーデンで上演されています。私がウィーンで暮らし始めた頃、アパルトメントを探すまでこの辺りのペンション(小さなキッチン付の長期滞在向けホテル)にいたので、その下町っぽい感じは親しいもので、ミュージカル「エリーザベト」などを演っていたテアター・アン・デア・ヴィーンはほぼその跡にできたもののようです。こうしたフィガロと魔笛の関係は、東京で言えば三宅坂の国立劇場での狂言とアメ横の芝居小屋のミュージカルのようなものでしょうか。であれば後者については、劇としての破綻のなさよりも、おもしろい場面が次々と現われる飽きのこないもので正解だったのかもしれません。

 私などは、澄ましかえって建前ばかり言っているようなザラストロや弁者よりも、パパゲーノや果ては愛嬌のある悪役のモノスタトスの方に魅力を感じてしまいますし、音楽としても彼らに付けられた音楽の方が楽しいように思います。ましてや夜の女王に対するザラストロらの態度は女性蔑視なんじゃないのかなって思ってしまいます。つまりおとぎ話の方に加担してしまいがちですが、そんなんじゃあ、たぶんウィーンの当時の庶民にもバカにされるでしょうね。彼らにとってもフリーメーソンは(賛否はともかく)身近な新興宗教か流行思想だったからこそ採り上げたのでしょうし、ヴィヴィッドな時事ネタのように感じるものだったこともこのオペラが好評を博した理由のように思います。

 おそらく「魔笛」は最初に挙げたような矛盾が解決されないまま並存しているところにこそ魅力があるのであって、魔笛自体が夜の女王からもらったものであることがその最たるもののような気がします。したがって、現在において、おとぎ話か秘教の修業物語のどちらか一方に偏したような演出は好ましいと思えません。

 ゾロアスター(ザラストロ)教では7という数字がキイナンバーなんですが、3つの和音がこの作品のトレードマークのようになっていたり、善(=ザラストロ)と悪(=夜の女王)がそれぞれ3人の童子と侍女を連れていたりするわけで、数字へのこだわりという点では共通性があります。ただ「魔笛」では道徳的な修業が強調されすぎていて、ゾロアスター教のようなおもしろみはないですね。こんなものにシカネーダーとモーツァルトが全面的に帰依していたと考える必要もないのかも知れません。まあ、パパゲーノ的なお気楽な生き方だけでいいとも思っていなかったでしょうけど。

 


 

 

 ショスタコーヴィッチ「ムツェンスク郡のマクベス夫人」

 

 

 フォルクス・オーパーはオペレッタを中心とした大衆向けのオペラ劇場で、日本でもしばしば公演を行っていて、ウィーンの雰囲気が伝わるということなのか人気があるようです。実際の劇場は市の中心から北にはずれた下町の郊外電車の駅の傍にあり、上演中も電車の振動が伝わってくるようなところです。建物もシュターツ・オーパーとは比べものにならないくらい質素なもので、演奏技術も音色もウィーン・フィルと比べる方が野暮というものです。

  一方、ショスタコーヴィッチの「ムツェンスク郡のマクベス夫人」はロストロポーヴィッチ指揮、奥さんのヴィシネフスカヤ(舌噛みそうw)主演での名盤があって、第14シンフォニー「死者の歌」とともに、強烈な印象をかつての私に与えたものでした。若き日のショスタコーヴィッチが書いた文字通りスキャンダラスなこのオペラが旧ソ連当局の忌諱に触れ、危うく失脚しそうになったというエピソードがありますが、演奏を聴くと当局が見過ごせないのは当然かなとも思いました。日本や欧米諸国から見るとそういうことは表現の自由の弾圧でしかないのですが、全体主義国家としてはすべての事象に責任があるわけで、たとえそれが音楽の分野であろうとイデオロギー的に問題のあるものを放置することは権力の存在基盤に傷をつけてしまいます。それは我が国のいくつかの近隣諸国においても同様でしょう。

  彼はその後も抵抗的姿勢と迎合的反応を繰り返していきます。こういう政治権力と一筋縄でいかないような複雑な関係を続けてきたところが20世紀を代表する作曲家たる所以だと思います。

  よけいなことかも知れませんが、彼に比べれば今の日本での権力批判なんて大したことではありませんし、そういう人たちの思想的な親たちは社会主義リアリズムの名の下にショスタコーヴィッチの作品をあっけらかんと礼賛していたわけで、古本屋でそういう本を見つけると、今も変わらぬ単純素朴な物の見方にとても楽しくなります^^。

  と言うわけで、実演を見れる期待半分、フォルクス・オーパーだからなぁという不安半分といった感じでした。ところが、始まってみるとこれがすごい! アンサンブルなんかはものかは、粗い音でチェロとコントラバスが唸りを上げます。バーバリズム全開。ヒロインの人妻エカテリーナもいいのか?って言いたくなるほどセクシー^^。これじゃあ、使用人のセルゲイが迫っちゃうのもよくわかります。って、言うより、欲求不満の彼女が田舎の退屈な日々に何かが起こることを潜在的に期待しているというのがこのオペラのモメンタムなのです。で、結局、第1幕の最後でセルゲイを受け入れるのですが、その音楽もすごいし、二人の演技もすごい。腰動かしてるし^^。

  筋を追って紹介する気はないのですが、第2幕では舅のボリスが自分の狙っていた息子の嫁を盗られた腹いせにセルゲイを鞭で引っぱたきます。その音が楽器では出ない衝撃音なんで、ひりひりと痛みが伝わってきます。エカテリーナは鞭打ちに疲れた舅にきのこ料理を食べさせます、もちろん毒入りの。……食欲を満たすその音楽がそのままこの老人のいやらしさ、好色ぶりを現わしています。

  夫も殺した二人は第3幕で結婚式を挙げますが、酒蔵に隠しておいた舅の死体は披露宴で酔っ払った農民にあっけなく見つけられ、宴会に呼んでもらえず暇を持て余していた警察署長らに通報されてしまいます。事件の発生に大喜び、鬱憤を晴らすことができると大はしゃぎの警官どもの描き方には、ショスタコーヴィッチお得意の皮肉と侮蔑が満ち満ちています。この辺は当局のいちばん癇に障ったところでしょうね。

  最終幕は、シベリア流刑囚の悲しみとあきらめの合唱で始まり、終わります。二人とも流刑になったにもかかわらず、エカテリーナは愛する男と一緒にいられるだけで幸福で、心に沁み入る歌でセルゲイに呼びかけます。これに対し、こんな目にあったのはエカテリーナのせいだと心が離れてしまった男は、彼女の靴下を騙して取り上げ、他の女に与えてしまいます。たかが靴下ですが、酷寒の地では命を与えるようなもの。彼女の転落の激しさを見事に象徴しています。周りの女囚に嘲笑されたエカテリーナが「森の奥に真っ黒な小さな湖がある。私の心はその湖のように黒い……」と人間性の奥底を覗き込むような怖ろしいアリアを歌い、男が心を移した女を押し倒しながらいっしょに川に没します。……

  幕が下りて、はぁーーと長いため息が出ました。フォルクス・オーパーに打ちのめされ、手が震えていました。しばらく席を立つこともできませんでした。……私は、不倫と殺人を繰り返したエカテリーナに対して同情を禁じえませんし、誤解を恐れずに言えば彼女の側にいます。世の中の良識や道徳を吹き飛ばしてしまう、それが芸術の力です。しかし、彼女の魂が決して救われることはないだろうとも思います。

  ムソルグスキーから学んだと思われるごつごつした音楽は耳の奥に残り、ショスタコーヴィッチの真っ黒な毒は今も私の中で作用しているようです。

 


 

 ボロディン「イーゴリ公」

 

 

 ロシア5人組って、高校の音楽の時間に無理やり暗記させられたんですが、今でもそうなんでしょうか。記憶力も悪いし、当時はクラシック音楽なんてなーんにも関心がなかったので、キュイ、バラキエフ、ボロディン、ムソルグスキー、リムスキー・コルサコフって言われても、鑑賞のページに「はげ山の一夜」なんていう変なタイトルの曲が載っているムソルグスキー以外は全然覚えられませんでした^^;

  今でもバラキエフは聴いたことがないし、キュイはちょっと前に「25の前奏曲」というのを初めて聴きました。……感想は、まあわざわざ聴くほどのものではないなって感じでした。残りの3人は今さら言うまでもなく、ロシア音楽を代表する作曲家ですが、それぞれの個性なり音楽の質は違いますね。ムソルグスキーはごつごつした、不器用なところが魅力ですが、リムスキー・コルサコフやラヴェルがしたように、どうにかしてあげたくなる音楽。

  リムスキー・コルサコフはオリジナリティや深みという点ではイマイチだけど、器用にオーケストレーションをする人。ボロディンはいちばん西欧風の、おしゃれというか、卓越したメロディ・メーカー。私の中ではそんな感じです。

  それで、有名な「韃靼人の踊り」を含む「イーゴリ公」を観た話です。ところが、これって1969年の旧ソ連の映画なので、音はちょっとどうしようもないですね。ベートーヴェンならともかく、ボロディンで音が悪くては聴けないです。ほかの悪い点も先に言っちゃうと、話がおもしろくない。ブックレットを読んでわかったんですが、ボロディンが断片的に残した草稿をリムスキー・コルサコフとその弟子のグラズノフが何とか上演できるようにまとめ上げたものだそうですが、それだけじゃなくて、ストーリーが平板。

  ロシア民族(ルス)のイーゴリ公が長年の宿敵のアジア系のポーロヴェッツ人(これを日本では韃靼人って言ってるんですね)のコンチャーク汗と戦ったものの敗れ、捕虜になったにもかかわらず、厚遇してもらい、イーゴリ公は汗の説得(ほとんどプロポーズみたいw)や歓待(ここで例の踊りが入ります)にもかかわらず、脱走して自国に帰り、汗を討つべく出陣するところで、終わり。これに一緒に捕まった息子のウラディミールと汗の娘コンチャコーヴナとの恋物語がからむだけ。これじゃあ、ロシア物でなくてもあんまり上演されないのは無理もないなぁ。オペラの筋ってふつう紹介するのが面倒になるくらいのもので、それが見てる分には紆余曲折って感じになってちょうどいいんですが、これはイーゴリ公の内面ってほとんど描かれていないし、子ども同士の愛情も、何より両民族の決戦も未消化のまま終わってしまうので、カタルシスがなくて困っちゃいます。

  良い点は、「ベンハー」みたいな昔のハリウッド映画の向こうを張って、旧ソ連の威信をかけたスペクタクルです。戦闘シーンや草原いっぱいに広がる軍勢はCGを使ってないのになぁwって感心しますし、またキーロフ歌劇場バレエによる「ポーロヴェッツ人の踊り」は音楽とすばらしくよく合っていて、これだけでも一見の価値があります。やっぱりバレエはロシアって感じですね。

 ……それにしても美男、美女揃いの演技(歌手は別で、口パクなんです)を見てもかつてのハリウッドのスペクタクル映画そっくりで、古きよき時代かなって思ったりします^^;。

 


 

バルトーク「青ひげ公の城」

&「中国の不思議な役人」

 

 

 

 

 バルトーク唯一のオペラ「青ひげ公の城」(1911年)は、ペローの童話をルカーチの僚友で作家のバラージュが台本化したもので、元々はコダーイ向けに書かれたものだそうです。ペローの原作は次のような内容です。

 

  見るからに醜く恐ろしい、青いひげを生やした大金持ちの男。男には何回か結婚暦があったが、妻たちがどうなったのかは誰も知らない。その男に、若くて美しい娘が、新しい妻としてやってくる。旅に出ることになった青ひげは、妻に一束の鍵を渡す。

 「この鍵は金貨の入った部屋、この鍵は銀の食器の部屋……そしてこの鍵は小さな部屋。どの部屋に入っても構わないが、小さな部屋だけは決して開けてはいけない。もし開けたら、恐ろしい目にあわせるからな!」

  しかし、若くて美しい妻は好奇心に負けて小部屋の扉を開けてしまう。真っ暗な部屋の床には一面の血の海。そして壁には女たちの死体がぶら下がっていた。若くて美しい妻は、鍵に付いた血を懸命に拭き取ろうとする。しかし鍵からはあとからあとから血が噴き出してくる。

  帰ってきた青ひげは、血の付いた鍵を見て、約束が守られなかったことを知る。

「奥様、あなたの場所はあの女たちのとなりに用意してありますよ。」……

 塔に登った娘は懸命に兄たちに助けを求めた。駆けつけた兄たちは危機一髪で青ひげを殺す。

  

 すなわち、このお話は日本の民話でいう「見るなの座敷」と同じ構造のお話で、開けるな、見るなという禁忌を破った場合には命や妻や富といった大事なものを失うという、世界中に類話がある、人間の集団的無意識の現われと言えるものです。その辺のことはユング派心理学者として出発した河合隼雄の「昔話の構造」なんかを読めばよくわかるでしょう。この話の場合は、禁忌の対象が夫の正体といったところだけにホラー的になるのかもしれませんが、「鶴の恩返し」のような妻の正体の場合は哀しいお話になります。って、ホントかなぁw。

 それはともかく、この原作の構造をバラージュは大きく変更しています。まず、妻ユーデットは先妻たちが殺されたという噂を知っていますし、それまでの家族との関係や世間的な道徳を断ち切って、嫁いできています。その上で城自体を明るいものに変えようとしています。また、7つの扉は彼女が青ひげを説得しながら鍵を受け取り、目の前で開けていくわけで、その過程での二人のやり取りがこのオペラのすべてです。7つの扉の中が青ひげの心の中そのものであることは誰でもわかることで、拷問部屋から開けられていくところなんかは、フロイト的に過ぎるでしょう。まあ、ユング的な物語が現代の夫婦関係に基づいて、サディズムに悩む夫を治療するお話のようになっていると言ったら言い過ぎですかね。

 ストーリーを続けると、第1が拷問部屋、第2が武器庫と恐ろしいものがきた後は、第3が宝物庫、第4が花園、第5が青ひげの領地と美しいものがあり、しかしそれらは彼の血塗られた秘密を露骨なほど示唆しています。第6の扉は涙の湖で、ユーデットは殺された妻たちの涙と思っているように描かれていますが、観客はそうは思わないでしょう。この辺から、私には正直よくわからなくなります。第7の扉の中には、なんと3人の昔の妻が生きたままいてそれぞれ朝、昼、夕暮れを支配しているのです。そして、ユーディットは第4の真夜中を支配する妻として第7の扉に自ら入っていき、扉が閉まります。それで最後が青ひげの「もういつまでも夜だ……夜だ……夜だ……。」

 青ひげって、猟奇的うわさを餌に若い女の子を集めてハーレム作ってた、現代日本にもいそうなせこいオヤジだったの?って、悪態をつきたくなります。これでは青ひげの英雄性も悲劇性もありませんし、ユーディットも大層な名前(アートの方の記事を参照)のわりに最後は主体性ないじゃん。こんなんじゃあ、やっぱりロマンティックなコミュニストは底の浅いフェミニズムに勝てないぞって、わかんないですよねw。……1911年にこの台本は書かれていますが、第1次大戦直前の世相を背景にした現代的な心理劇にしようとして失敗したのかしら。

 バルトークの音楽も同様に、と言うと言い過ぎでしょうが、あまり感心しません。彼の取り柄って、バーバリズムと引き締まったリズムによるスピード感だと私は思うんですが、どうもこのオペラではキレがありません。今いち乗れなかったのかなって想像してしまいます。

 

 「中国の不思議な役人」(1919年)は、やはりハンガリーの劇作家レンジェルが台本を書いたパントマイムのための音楽ですが、そのあらすじをバルトーク自身がインタヴューで語っていますので、それを紹介しましょう。

 3人のならず者が、一人の若く美しい娘を使って男たちをおびき寄せ、彼らの金品を奪い取ろうと計画します。第1と第2の男は貧乏な男、第3の男が金持ちの中国の役人でした。娘が中国人を踊りでもてなすと、その男に愛への欲望がめざめるのですが、娘は恐れて退きます。

 ならず者たちが役人に襲いかかり、首を絞めたり、剣で刺し殺そうとするのですが、すべて失敗します。愛に燃えて娘を欲する役人を抑えつけることができません。そこで娘が役人の欲望を満たしてやると、役人は息絶えて倒れてしまうのです。

 この作品は先ほど述べたバルトークの長所をすべて兼ね備えています。ちょっとストラヴィンスキー、特に「ペトルーシュカ」(1911年)の影響が強いように思いますが、いかがわしさや中国の役人(mandarin)のねっとりした欲望がよく表現されています。死体が青く光るところなんかとてもいいですね。

 さて、こんなふうに2つの作品を並べるとどうもバルトークの趣味がはっきりしてきますし、なぜ「青ひげ公の城」の出来があんまりよくないのかもわかるような気がします。ペローが採取した昔話の原型では、当然新妻も八つ裂きにされていたはずで、それがいくら反道徳的でも、前近代的でも人の心の奥底に潜む真実なのです。って、「本当は残酷な童話」シリーズでみなさんよくご存知ですよねw。

 


 

モーツァルト「偽の女庭師」

 

 

 

 このオペラ「偽の女庭師」は、シンフォニー第29番が作曲された1774年から75年にかけて書かれたものです。80年から82年の「イドメネオ」K366や「後宮からの誘拐」K384ほども知られていないでしょうし、上演されることは今でも少ないと思います。私は、オペラの良し悪しは音だけではわからないと思っていて、(実演がむずかしいとしても)DVDが普及した現在ではCDだけで評価するのはどうかと思います。ですので、このオペラもそうしたいところです。ドイツ語でのDVDはタワーレコードで見たことはあるのですが、どうしても買う気になれませんでした。脇道に逸れますが、なかなかいいオペラのDVDって少ないように思いますし、何より日本語字幕付きとなるとまだまだレパートリーが不十分です。だって、オペラを楽しもうというのに英語の勉強なんかしたくないですからねw。映画に比べて購買層が圧倒的に薄いですから仕方ないんですが。

 ということで、今回はアーノンクール指揮、ウィーン・コンツェント・ムジクスによるCDで聴いたんですけど、音楽はいきいきしてるし、それなり聴かせどころもあってなかなかいいです。何より音があふれ出てくるような感じは、青年期にさしかかった頃のモーツァルトの魅力にあふれています。

  ストーリーは、ベルフォーレ伯爵に殺されかけた侯爵令嬢ヴィオランティ(グルベローヴァが演じています)がからくも一命を取り留め、身分を隠して女庭師サンドリーナになって、ラゴネーロの市長ドン・アキナーゼ(トマス・モーザ)のところにいるのを見そめられて、紆余曲折(便利な言葉ですw)の後、結局伯爵と結ばれる。それに伯爵と婚約していた市長の姪アルミンダと騎士ラミーロ、ヴィオランテの従者ナルドと市長の小間使いセルペッタの二つの恋愛やら、さや当てやらがからまるというお話です。始まってすぐに結論までわかっちゃうところが典型的なオペラ・ブッファで、これがドイツ語じゃ聴く気しないでしょう? ただ、伯爵もヴィオランテも途中で気が狂ってしまうというところが無理やりまとめるために取ってつけたような感じで、台本が悪いと言われる所以なのかも知れません。

 個々の音楽としては、転調が感情や情景の変化をうまく表わしているところがモーツァルトらしいところです。第1幕のサンドリーナのカヴァティーナ「雉は鳴く、伴侶のもとを離れ」の繊細でやさしい感じは「フィガロの結婚」を感じさせますし、第2幕のアルミンダのアリア「私は罰してやりたい、恥ずべき男のあなたを」は第25番のシンフォニーに非常に似た感じの短調で、暗い情念を表わしています。同じ第2幕のサンドリーナのアリア「残酷な男たちよ、おお、神様! 立ち止まりなさい」の不安感も同じ性格のものと感じられます。その他にも後年の作品と共通する音楽が多く聞こえます。

 しかし、そうしたこと以上に各幕のフィナーレにおいて主要登場人物が勝手勝手に歌いながら、音楽として見事にまとめられていくところに、オペラ・ブッファの常套手段の中でモーツァルトの比類のない真価が発揮されていると感じられます。……さて、次は室内楽です。

 


 

 ベルリオーズ「トロイ人」

 

 

 このオペラは上演時間4時間を超え、全5幕、2部からなる大作です。2日に分けて上演されることも多いようですが、内容も第1、2幕の第1部はトロイの予言者カサンドラの物語、第2部はカルタゴの女王ディドーの物語にはっきりと分かれています。グランド・オペラってかえって話の筋が単純だったりしますが、これも割り切って言ってしまうと、第1部は有名なトロイの木馬の話で、祖国の危機をカサンドラが予言しても誰も耳を傾けず、木馬を入れてしまったがためにトロイはギリシアの兵によって滅ぼされますが、カサンドラとトロイの女たちは辱めを受けることを拒んで自決するというものです。

 第2部はトロイ滅亡の際にイタリアに行って祖国を再建するよう神託を受けたエネアスがカルタゴに漂着し、ディドーと恋仲になるもののリーダーとしての使命からやはりイタリアを目指して出発し、それに絶望したディドーが自ら命を絶つというものです。古代ローマのウェルギリウスがローマ建国を題材にした叙事詩「アエネイアス」を元にベルリオーズ自らが台本を書いたもので、エネアス(アエネイアス)は全体を通して登場しますが、深い内面は感じられず、印象的なアリアがあるわけでもありません。

 2003年10月にパリのシャトレ座での公演で、カサンドラがアンナ・カテリーナ・アントナッチ、ディドーがスーザン・グレイアム、エネアスがグレゴリー・クンデ、ガーディナー指揮、オルケストル・レヴォリュショネル・エ・ロマンティークによる演奏をBSでやっていたのを録画しておいたんですが、時間がなかったり、見ても途中で寝ちゃったりで、完食じゃなかった、完視聴するのは大変でした。

 舞台はモダンな簡素なものですが、とても凝ったおもしろいものでした。大きな鏡が舞台奥に斜めに置いてあるらしく、多くの群衆が登場する場面で、上から見た動きも見えるのがとてもダイナミックな感じでした。フランスのグランド・オペラは必ずバレエが入るんですが(入らないものはオペラ・コミークということになります)、この上演では内容に合わせたしゃれたデザインの小道具を持ったダンスふうのパントマイムのような感じで、それがベルリオーズの音楽にはよく合っていました。モダンな演出で、兵士たちが持っている武器が自動小銃だったりするのはあまり意味があると思いませんでしたけど。

 第1部の衣装は男女とも全員が黒で独りカサンドラだけが白いドレスで、彼女の孤独な予言者の立場をはっきりと示していて、彼女の予言が実現した第2幕では黒のドレスになって、多くの女たちと価値観を共有して、ともに死んでいくのはとても効果的でした。実は元々のギリシア神話ではカサンドラはここで死なず、凌辱された上、ギリシアの総大将アガメムノンによって戦利品として連れていかれ、彼の妻のクリュタイメストラによってアガメムノンともども殺害されます。こうした悲惨な自らの運命をすべて予知しながら……。

 第2部のディドーも女王らしく白か黒なんですが、本来はバレエ・パントマイムで演じられる彼女とエネアスが狩りに出て嵐に遭って、洞くつで結ばれる第4幕第1場をもっぱらオケの演奏だけにして、彼女が歓喜の表情を浮かべるところだけ赤いドレスで出てくるのもしゃれた演出でした。……第2部は裏切られたディドーがエネアスの行き先、イタリアに呪詛の言葉を投げかけ、カルタゴの英雄がいつか復讐するだろうと予言します。でも、その者の名前を挙げて「ハンニバル!」とまで言っちゃうのには笑っちゃいました。

 さて、肝心の音楽ですが、ベルリオーズらしい劇的でスケールの大きな表現が随所に聴くことができますし、レチタティーヴォ(語りに近い部分)がなく、オケもほとんどノンストップで鳴っているのはヴァーグナーを思わせるものです。この作品は1856-63年のものなので、ヴァーグナーは「ローエングリン」を経て、「ラインの黄金」に取りかかり、「トリスタンとイゾルデ」を完成させた、まさに絶頂期と言っていい頃です。そう考えると幻想交響曲(1830年)や劇的交響曲「ロミオとジュリエット」(1839年)で、前衛そのものだった彼も時代の最先端の地位を譲ったと言わざるをえないような気がします。良かれ悪しかれ強烈な個性というかアクがなく、部分的に聴いただけでは彼の作品とわからないんじゃないでしょうか。

 カサンドラの予言はアポロンの呪いで誰も信じないようにさせられていたんですが、そうでなくても人間というのは不吉な予言は信じたがらず、しばしばそういう予言をする者を嫌悪するものだと思いますが、そうした孤独や自らの死さえも予知してしまう彼女の悲劇はとてもよく伝わってきて、作者自身の経験を投影してみたい気にさせられました。そうそう、主人公のエネアスはトロイの王家出身なんで、直系の英雄ヘクトルと結び付けられて何度も「ヘクトルの子」という言い方がでてきますが、Hectorってベルリオーズのファースト・ネームなんですね。幼少期からウェルギリウスには親しんでいたということですが、隠れた作曲動機のような気がします。