chamber music

 

ショスタコーヴィッチ:弦楽四重奏曲第7番

シューベルト:弦楽四重奏曲全集

ブーレーズ:主のない槌“Le marteau sans maitre”

テレマン:食卓の音楽

メンデルスゾーン:室内楽全集

チャイコフスキー:弦楽四重奏曲、弦楽六重奏曲

モーツァルト:ミラノ四重奏曲、ウィーン四重奏曲、弦楽五重奏曲第1番変ロ長調

ピアノの楽しみ方

野平一郎の音楽

野平一郎を妄想する

 


 

ショスタコーヴィッチ:弦楽四重奏曲第7番

 

 

  かなり前になりますが、ウィーンに2年ほど住んでいました。その間は、オペラやコンサートによく行ったものですが、帰国してからはほとんど行ってなくて、もっぱらCDやDVDです。そうなった理由はグレン・グールドと同じです、というのは冗談で、お金がないのと面倒なだけですが、ウィーンで見聞きした演奏のいくつかは、今でも音楽を聴くときのメートル原器のようなものになっている気がします。

 その一つがコンツェルトハウスで聴いたショスタコーヴィッチの弦楽四重奏曲第7番です。ウィーンに行く前からショスタコーヴィッチは好きな作曲で、弦4全集も持っていましたからなんということもなく聴いていました。ところが第2楽章くらいから、突然変なことが私に起こりました。

 戦場が見えるのです。弾丸の飛び交う音、硝煙のにおいがし、小雨の降る戦場で戦っている兵士がありありと見えました。……あ然とする私の耳には、ショスタコーヴィッチの陰鬱な音楽が鳴り続けます。もちろん「ウェリントンの勝利」とか「大序曲1812年」のような描写音楽ではありません。でも、情景は、楽章が変わるまでずっと見えていました。

 こんな経験は後にも先にもそれっきりなので(この曲についても何度聴いても情景はやってきません)、原因はわからないのですが、自分ではショスタコーヴィッチが描こうとしたものはそういうものだったと信じています。彼の作品には秘められたメッセージがあると以前から言われていますが、それに触れたのだと。

 ……こういう経験は生演奏でしか得られないでしょうし、4人の演奏家の波長がぴたっと合わないと不可能でしょう。しかしながら、これだけの強烈な体験をしたにもかかわらず、そのクァルテットの名前はどうしても思い出せないのです。思い出せない方が自然なのかもしれませんが。

 


 

シューベルト:弦楽四重奏曲全集

 

 

1.弦楽四重奏曲全体について

 

  シューベルト(1797-1828)の弦楽四重奏曲は15曲(2曲は断章)あって、分量は多いのですが、1811年から16年にかけて作曲された第11番までの作品は家族や友人によって演奏されるためのホーム・ミュージックで、歌曲の分野で「糸をつむぐグレートヒェン」、「野ばら」、「魔王」といった傑作が早くもこの時期に産み出されていたのと比べると物足りなく感じます。シンフォニーについても1818年の第6番までが成長期と言いましたが、彼はあふれるようなメロディをアンサンブルとして各声部がよく鳴るように組み立て、複数の楽章を展開させながらまとめ上げる力量を努力して身に付ける必要があったのでしょう。

 そういう訓練を経て、持ち味である陰影に富んだ感情を自在に音楽として繰り広げることができたように思います。その頂点が後で述べる1824年の第14番ニ短調「死と乙女」ですが、1820年のハ短調のアレグロ楽章だけの第12番を聴くだけでもそれまでの曲とは緻密さ、感情の振幅の大きさといった点で格段の進歩を示していて、コントラバスが入るちょっと変わった編成のピアノ五重奏曲イ長調「ます」を前年に作曲したのが何かヒントになったような気がします。いずれにしてもこの数年で歌曲よりももっと構成的な作品を書く実力を獲得したのでしょう。

 「死と乙女」を書き上げた頃に友人に宛てた次のような手紙があります。進行する梅毒とその治療法である水銀蒸気を浴びたために、脱毛や発疹、めまい、頭痛などに悩まされていた中でのものです。

 

 一言でいうと、僕は、自分がこの世で最も不幸で最もみじめな人間だ、と感じているのだ。健康がもう二度と回復しそうもないし、そのことに絶望するあまり、ものごとを良くしようとするかわりに、ますます悪く、悪くしていく人間のことを考えてみてくれ。いわば、最も輝かしい希望が無に帰してしまい、愛と友情の幸福が、せいぜい苦痛のタネにしかならず、(せめて心を鼓舞する)美に対する感動すら消え去ろうとしている人間のことを。君に聞きたい。それはみじめで不幸な人間だと思わないかね?

「私のやすらぎは去った。私の心は重い。私はそれを二度と、もう二度と見出すことはないだろう」、僕は今、それこそ毎日こう歌いたいくらいだ。なぜなら、毎夜床に就くたびに、僕はもう二度と目が覚めないことを願い、毎朝目が覚めるたびに、昨日の怨みばかりを告げられるからだ。

……リートの方では、あまり新しいものは作らなかったが、その代り、器楽の作品をたくさん試作してみたよ。ヴァイオリン、ビオラ、チェロのための四重奏曲を二曲、八重奏を一曲、それに四重奏をもう一曲作ろうと思っている。こういう風にして、ともかく僕は、大きなシンフォニーへの道を切拓いていこうと思っている。

 

  肉体的にも精神的にもひどい状態で、自殺すら考えにはあったように思えますが、その中で「大きなシンフォニー」を作曲するために自分に欠けているものを着実に体得し、この地上に爪跡を残そうとしていたことがわかります。たぶんそう遠からず「もう二度と目が覚めなくなる」ことがわかっていたのでしょう。実際あと4年で32歳になる前にそうなってしまったのです。

 さて、こういうふうに説明してくるとシューベルトの室内楽は1820年頃以降のものだけを聴けばよくて、その暗い楽想のところは病苦や死への恐怖を表わしていると理解すればいいように思われるかもしれません。確かに演奏される機会が多いのは「ます」以降の作品ですし、彼の健康状態が作品に影響していることは間違いありません。しかし、第1番の弦楽四重奏曲から順番に聴いていくと、いろいろなことが聞えてきます。第1ヴァイオリン以外がどうにも鳴っていなくて、特に彼の父親が受け持ったチェロ・パートは極めて簡単に書かれていますが、それでも1813年の第4番ハ長調になるとかなりアンサンブルができてきて、しかも彼らしい暗く激しいような楽想が現われてきます。彼の中にあったものが病気によってより強く、より早く引き出されたというふうに感じられます。有名な曲だけじゃなく、いろんなものを聴くことで、その作曲家と付き合うことができるように思います。

 

 2.第14番「死と乙女」

 さて、この曲ほど死の恐怖を生々しく、赤裸々に描いた曲も少ないのではないかと思います。マーラーは言うに及ばず、ショスタコーヴィッチでも、もう少し洗練されたというか、もって回ってというか、シューベルトほどあからさまではありません。上に掲げたエゴン・シーレの同名の悲痛な絵がこの曲に触発されたのかどうか、不明にして知りませんが、その内実において一致するものがあると感じます。

 4楽章全部が短調というのも異様で、ショスタコーヴィッチの最後の弦楽四重奏曲第15番がすべてアダージオで書かれているのと同じく、死に憑かれているとしか表現が見当たりません。病気と政治と理由は全く異なりますが、二人の偉大な作曲家を襲った不条理な苦難を思わずにはいられません。

 ハイドンのところで、友だちにしたい作曲家No.1はシューベルトだということを書きましたが、それはシューベルティアーデに見られるような、社交的でいてどこかおずおずとしたやさしい性格が好きだというだけでなく、この曲のように死の深淵を見つめ続けたところも大きな理由です。

 


 

ブーレーズ:主のない槌“Le marteau sans maitre”

 

 

 みなさんは、いちばん早い曲って訊かれたらどのようにお答えになるでしょうか? ベートーヴェンの第7の終楽章? チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲の終楽章? 剣の舞?……もっといろんな答えがありそうですけど、単にメトロノーム的に早いだけじゃあ早いって感じがしないように思います。音楽的な密度の濃さ、思考の早さがあってスピード感が出るんじゃないでしょうか。そういう意味では、モーツァルトの音楽って早いですね。あれよ、あれよと転調しながら、感情と色彩が変化していきます。

  私はこのブーレーズの曲(1955年の完成ですから、半世紀前ですね)を聴いたとき、その冒頭の何秒間かの早さにあ然としました。「おい、ちょっと待て、今言ったことをもういっぺん言ってみろ!」って感じでした^^。大変な内容のことをあっという間に語っているのです。どんな内容かって? それが言えればいいんですが、純粋に音楽的な思考なんでとても言葉では言えないです。それは例えばモーツァルトのジュピター(ホルストじゃないですよ^^)を言葉で説明しろというくらい無茶な話です。

  でも、ブーレーズが言いたかったことはストレートに「理解」できました。音楽は理解するものじゃないって言う人がいると思いますし、言葉で理解することだけに「理解」という言葉を限定するならそうですが、音楽的な意味で理解できるか、理解できないかという問題は重要です。単に好きか嫌いか、趣味の違いじゃないって思うからです。

  私は「現代音楽」に厳しいんですが、この作品はバリバリの「現代音楽」です。そういう意味ではマイナーなクラシック音楽のうち、更にマイナーなジャンルの音楽です。食うや食わずのインディーズ・バンドよりファンが少ないかも^^;。……まあ指揮者として有名な人の代表作ですから、「Le marteau sans maitre 主のない槌」っていう風変わりなタイトルだけはわりと知られていると思いますが、日本での演奏の機会は少ないんでしょうね。ギタリストなんかはぜひ弾いてみたいと思うでしょうけど。

  で、この傑作にポピュラリティがあるかというと、ないでしょうねぇ^^。20世紀のみならず、ヨーロッパの音楽史上に残る作品だとは思いますが、これから百年経ってもふつうの人がベートーヴェンの音楽と同じように楽しむっていう可能性はないでしょう。メロディはないし、歌と言うよりうめき声って言った方が的確でしょうし(”Pierrot lunaire”がカラオケにあったらおもしろいでしょうね^^)、はなから受け付けない人も多いでしょう。

  「現代音楽」の悲劇は、理解できる人がなぜ自分が好きなのか自分の言葉で理解しておらず、そのことを一般の人がわかる言葉で(つまりセリーとかのタームや楽譜を持ち出さないで)説明できないことにもあるように思います。もちろん、私もそんなことできないんですけど。

  「現代音楽」だから、さっきから「理解」なんてことを言うんだろ?という向きもあるでしょう。でも、私はモーツァルトがよくわからなかった時期があります。それもわりと長い間。……クラシックを聴き始めた最初はいいんですが、ちょっと聴く経験を積んで、知識も増えてくると、するするっと聴けてしまうモーツァルトが「理解」できなくなりました。嫌いとか言うんじゃないんですが、どこがいいのか腑に落ちてないって言うか、シュターミッツやC.P.E.バッハなどなどと比べてどこが決定的に優れているのかわかんなくなりました。……結局はたくさん聴いて、彼に関する知識も増やして「理解」できるようになったんですけど。

  この作品は、次のような9楽章からなります。

   第1楽章: 「怒る職人」の前奏

  第2楽章: 「孤独な死刑執行人たち」の補遺1

  第3楽章: 「怒る職人」[アルトのSprechstimme]

  第4楽章: 「孤独な死刑執行人たち」の補遺2

  第5楽章: 「美しい建物とさまざまな予感」[アルト]

  第6楽章: 「孤独な死刑執行人たち」[アルト]

  第7楽章: 「怒る職人」の後奏

  第8楽章: 「孤独な死刑執行人たち」の補遺3

  第9楽章: 「美しい建物とさまざまな予感」(変奏)[アルト]

  うーん、シャールの詩に基づくタイトルなんでしょうけど、なんか一般の人からすると引いちゃうような感じでしょうね。この楽章構成にしても、それと声Sprechstimmeを含めた楽器編成との関係にしても分析すると、おもしろいような気もしますがやめておきます。聴いたことのない人は、あんまりそういうのを気にしないで聴いてみてください。いい曲ですよ。

 


 

テレマン:食卓の音楽

 

 

  私はテレマン(1681-1767)の「食卓の音楽:Tafelmusik」というタイトルがとても好きです。端的に古典派以前の音楽と音楽家が置かれた立場を表わしていると同時に、音楽と食事を楽しみましょうよというテレマンのスタイルがいいなぁと思うからです。前者については、ハイドンやモーツァルトもそうした機会音楽を書く職人、召使のようなもの(ハイドンはエステルハーツィ公、モーツァルトはザルツブルク大司教)としてスタートし、悪戦苦闘しながら自立していったわけです。

  それがヴァーグナーになると、逆にバイエルン国王を精神的に支配し、オペラハウスは造らせるわ、城はできるわで大したものに成り上がったわけなんですね。それがTDLのシンデレラ城のモデル、ノイシュヴァンシュタイン城なんかです。……ロマン派の時代って音楽家の主観と財布が膨張した時代だなぁって思います。だってくだらない作曲家、バロック以前だったら忘れられちゃったような人がゴロゴロいますから^^。

  以前から読んでいただいている方はおわかりかも知れませんが、私は演奏家でも、作曲家でもいいんですが、芸術家だから偉いとか、敬意を払うつもりは全然ありません^^。仕事でやってるんだったら、それで飯食ってるんだったら、ある一定以上の技術というか、芸があって当たり前だと思いますから。……そんなに偉く思ってほしいなら、君たちより悪条件下に置かれていたバッハやモーツァルトを超えてからにしてねって^^。

  ポップスまで含めての話ですけど、コンピュータでもできるようなメロディ寄せ集め&退屈リズムの音楽と、リンカーンみたいな音楽(音楽家の、音楽家による、音楽家のための音楽って意味です^^)の狭間で、聴くに値する音楽ってほんとに少ないと思います。職人か召使が作った音楽の方がよほど心に訴える力があるというのは、歴史の皮肉であり、必然でもあるように思います。クラシックの演奏家に至っては……まあこれくらいにしときましょ。 

 後者の音楽を楽しむってことについてですが、バッハと比べてって意味です。性格の差なのか、環境の違いなのか、バッハの音楽は全体として、真面目、真剣、徹底的って言葉で言い表すことができそうです。テレマンはその反対。でも、人間(私?)ってそうそう真面目に、物事を突き詰めてばかりいられませんよね。だのにテレマンの作品って十二分に心に訴えかけるものを持っています。テレマンを超える音楽家は今、ありや?ないや^^。彼は偉そうなふりはしませんけど。

  前置きが長くなりすぎました。テレマンはハンザ同盟市の中心ハンブルクで長く市の音楽総監督を務めました。リュベックのお隣ですね。様々な分野の曲を書いて、数千曲に及ぶとか。まめな人だったのかも。でも、残っているのはその一部で、いったん忘れ去られていたのが、20世紀後半にバッハの研究が進む中で再発見されたようです。こうした事情はヴィヴァルディもそうですし、すごくおおざっぱに言うと、ヘンデル以外のバロックの作曲家はたいていバッハのお蔭で蘇ったんでしょうね。それで音楽の父って?^^

  「食卓の音楽」は3部構成になっていて、例えば第1集は、序曲と組曲(2Fl,Str,bc)、四重奏曲(Fl,Ob,Vn,bc)、協奏曲(Fl,Vn,Str,bc)、三重奏曲(2Vn,bc)、ソロ(Fl,bc)、終曲(2Fl,Str,bc)となっています。つまり、フルートを中心にしていろんな形式、編成の音楽を展開するって感じですね。これが第2集はトランペット、第3集はオーボエに代わります。

  各曲の中身を見ると、組曲はロンドとかジーグとかの舞曲が多くて、終曲はAllegro、中間は4楽章の曲が多いです。オードヴル、各主菜、デザートって感じもしますが、食べすぎですね、これじゃあ^^。

  でも、もし宝くじで1億円、とまでいかなくても100万円も当たったら、やってみたいなぁ。生でこれを演奏させて、フランス料理を食べる会なんて。……食事は一人5万円、ワインは1本10万円で十分、どっちもそれ以上は違いが私にはわかりません。あとは全部演奏につぎ込んで。そういうのが本当の贅沢だと思うんですけど、どうでしょね?

 


 

メンデルスゾーン:室内楽全集

 

  メンデルスゾーンは、シンフォニーやヴァイオリン・コンチェルトなんかを聴いただけで、スパイスの効いていないシューマンくらいにしか思ってなくてぜんぜん評価してなかったんですが、室内楽全集が安かったのでまとめ買いのときに何気にカートに入れて聴いてみたら、びっくり、不明を恥じました。ブラームスによく似たとても濃厚な情感にあふれた音楽で、ロマン派の室内楽の代表的作曲家って言ってもいいと思います。

  私が買ったのは、5枚組みので、チェロソナタ2曲、ピアノトリオ2曲、八重奏曲、弦楽四重奏曲6曲、弦楽五重奏曲、それからコンツェルトシュトゥックっていうラインナップです。これで本当に全部なのかどうか知りませんが、時々1枚を取り出して聴いています。最初にびっくりさせられたチェロソナタがトルトゥリエのチェロがいいのか、1、2番ともにお気に入りですが、今回ざっと改めて聴いてみたところでは、ピアノトリオの2番の第1楽章も一度聴いたら忘れられない魅力を持っていると思いました。

  彼自身がいちばん力を注いだであろう弦楽四重奏曲は確かに出来栄えはいいのですが、ちょっと同じような曲想が多いように感じました。その中では6番の第1楽章が容易ならぬ激情をうかがわせるもので、ニコニコしたお坊ちゃん的なイメージとは全く異なります。

  こういう意外な発見がたまにあるので、衝動買いはやめられませんし、一応は何でも聴いてみようという気になってしまいます。だいたいはがっかりするんですけど。……

 


 

チャイコフスキー:弦楽四重奏曲、弦楽六重奏曲

  

 チャイコフスキー(1840年-93年)の室内楽と言えばモスクワ音楽院の創設者N.G.ルビンシュタインの追悼のために書かれたピアノ三重奏曲イ短調の「ある偉大な芸術家の思い出のために」が有名ですが、他の主な作品としては3曲の弦楽四重奏曲と弦楽六重奏曲があります。ボロディン・カルテットを中心としたメンバーによる2枚組みのCDで聴きました。

  弦楽四重奏曲の第1番ニ長調(1871年)はウクライナの民謡に基づくと言われる第2楽章のアンダンテ・カンタービレがとても有名で、アジアふうのヴァイオリンの歌い回しが我々には親しいものです。ただちょっとそのメロディに耽溺しすぎていて室内楽としてはゆるい感じがします。その他の楽章もとても聴きやすいものです。

  第2番へ長調(1874年)は第1楽章はベートーヴェン以来の伝統に則った厳しい音楽を作ろうとしているようですが、その後の楽章は良かれ悪しかれチャイコフスキーらしいメロディアスな音楽になっています。

  第3番変ホ短調(1876年)は重く暗い奇数楽章と明るく快活な偶数楽章が交代する曲で、親しいヴァイオリニストの死を悼んで書かれたものだそうですが、奇数楽章の延々と続く嘆きにはちょっと付き合いきれないって感じがします。第6シンフォニーの最終楽章のようなわけにはいかないようです。

  弦楽四重奏曲が書かれた1870年代は「白鳥の湖」やシンフォニーの第2番から第4番が書かれた頃で、管弦楽曲には彼らしい巧みさを見せていたのに、この3曲では弦楽四重奏曲に必要な緻密な書法といったものを感じることが少なくて、この分野に向いてなかったのかなって思います。

  弦楽六重奏曲ニ短調「フィレンツェの思い出」(1890‐92年)は晩年の作品で、「くるみわり人形」と同じ頃です。第1、第2楽章は甘いメロディが次々と出てくるチャイコフスキーらしいもので、ブラームスのそれとやや似た印象があります。第3、第4楽章はロシアふうの主題を器用に展開したものです。ということで、フィレンツェに滞在したときの思い出を描いたものってことになっていますが、どこの国の街なんやろかって気がします。でも、弦楽によるディヴェルティメントと思って聴くといい感じです。

  ブラームスもそうですが、無駄のない音楽を強いられる弦楽四重奏曲よりもピアノが入ったり、楽器が増えたりした方が彼らの個性が発揮されているように思います。もっとあっさり言ってしまうと、弦楽四重奏曲はシンフォニー以上にベートーヴェンの重圧が大きくて(なんせ16曲もあるしw)中途半端になってしまって、20世紀に入らないとこれという曲はないようです。つまり弦楽四重奏曲=弦楽によるソナタという固定観念から自由になって、このジャンルがもう一度おもしろくなったように思います。

 


 

 モーツァルト:ミラノ四重奏曲、ウィーン四重奏曲

  弦楽五重奏曲第1番変ロ長調

 

 1873-74年頃で室内楽の分野で目立つのは6曲ずつのミラノ四重奏曲(K155-160)とウィーン四重奏曲(K168-173)でしょう。その名のとおり、ミラノとウィーンの滞在時を中心に作曲されたものです。この次に弦楽四重奏曲を手がけるのは、ほぼ10年後に3年をかけて完成したハイドンセットですから、後で申し上げるように、いかにモーツァルトの作曲技法がハイドンの影響によって進歩したか、もっと言えば室内楽の歴史全体にとって最も重要で感動的な事件(他にありますか?)がどのようにして起こったかを見る上での前提となるものだと言えるでしょう。

  このシリーズではそういう視点ではなく、この時期に絞ってモーツァルトがどうだったのかを見ていきたいのですが、ハイドンセットの彼の充実した書法を知っているだけにディヴェルティメント的な(事実そう考えられているものもミラノ四重奏曲にはあるようです)、主旋律の美しさに頼ったようなゆるい構成の曲が多いのには、正直がっかりしました。弦楽四重奏曲は周知のように音色としても変化に乏しく、和声の基本骨格たる四声部だけで過不足なく作曲しなければいけませんから、ちょっとおおざっぱに言うと作曲家の生の力量が露わになってしまうものです。そのことをこの12曲を聴いて、まざまざと知ることができました。

  でも、モーツァルトの元々の資質はそういうのには向いていなかったのでしょう。彼が終始書きたかったのは、様々な登場人物の性格とその時々の感情の交錯するさまを表現するオペラですし、シンフォニーよりも、コンチェルトよりも、室内楽やピアノ・ソナタよりもオペラは、奇跡のような転調といったモーツァルトの本質を理解する上で重要です。そういう意味では我々日本人は彼を愛することオーストリア人にも劣らないかもしれませんが、十全な理解と言う点では大きなハンデがあります。また、この点はソナタ形式を極限まで使い倒したwベートーヴェンとおかしいくらい対照的です。

  この12曲のうちでは、最後の第13番がニ短調で注目を引きます。シンフォニーの第25番のような激しい感情とまでは言えないとしても、暗い情熱が最後まで解決されないような独自の姿をもっていて、変ロ長調の第12番とともに内容的に最も充実したものでしょう。

  しかし、それ以上に彼らしさが感じられるのは、この時期にぽつんと1曲だけ書かれた弦楽五重奏曲の第1番変ロ長調K174です。ヴィオラが一つ入るだけでなんてのびのびと歌うことができるのか、室内楽のおもしろさ、むずかしさを見ることができるとともに、上述のモーツァルトの資質がとても美しい形で流れ出たものと思います。こういう曲を聴くと、広く知られた神話――作曲など簡単なことだ、私の頭の中の音楽を書き記すだけだから――を信じたくなります。

  この神話を真っ向から否定するのがハイドンセットです。この6曲を書くのに苦心惨憺したことは、モーツァルト自身が述べていることですからそのまま信じればいいのですが、その過程と成果は各曲を仔細に見ることで如実にわかります。目の詰んだアンサンブル、よく機能し、歌う各声部、確かにハイドンに学んだものは大きいのですが、こうした点だけ採っても先生を明らかに超えていて、天才が努力するということの物凄さを知ることができます。

  そして、その成果は室内楽に留まらず、あらゆる分野のオーケストレーションに生かされていきます。その後の彼の書く音楽の和声の緻密さは円熟の域に達していきます。天才は完全に誰も行ったことのない大空へ飛び立つのです。

  ただ、私はフィガロやリンツ以降のモーツァルトの音楽を聴くと、こうした頭の使い方をしていてはとても長生きできない、人間の脳みそはこれほどの曲を創り続けられるほど頑丈にできていないといつも考えてしまうのですが。……

 では、次は宗教曲に行きましょう。

 


 

 ピアノの楽しみ方

 

 例によってBSでクラシックをまとめて視聴していたら、ショパンの時代のピアノを使ったコンサートがありました。中でもショパンのピアノ協奏曲第1番ホ短調を弦楽器5人で伴奏したのがおもしろい試みでした。メンバーはフォルテピアノ:小倉貴久子、ヴァイオリン:桐山建志、白井圭、ヴィオラ:長岡聡季、チェロ:花崎薫、コントラバス:小室昌広で、第一生命ホールでの演奏です。当時は家庭内で演奏できるよう管楽器や打楽器を省略したアレンジの楽譜が出版されていたようで、それに基づく演奏です。小ぶりで軽いハンマーフリューゲルとピアノの間のような音がなかなか趣があって、5弦のフレットのあるコントラバス(バッハのブランデンブルク協奏曲で通奏低音を務めるヴィオローネなのかもしれません)などと相まってintimateな雰囲気を醸し出していました。フルオーケストラで聴くといつも不満の残るこの曲も室内楽的なイメージになると楽しむことができました。ただ楽器の能力に限界があるせいなのか、少なくとも私の耳には音色の変化やニュアンスに乏しいような気がしました。それ以上にヴァイオリンがしばしば音をはずすのがイタかったです。……初期の古楽演奏じゃあるまいし、ユニークな試みだからといって、技術的な破綻があってはどうしようもありません。

 続けて聴いたのが軽井沢音楽祭での漆原啓子のヴァイオリンを中心としたもので、シュポアの七重奏曲イ短調とベートーヴェンのピアノ三重奏曲「大公」でしたが、その差は歴然としていました。特に彼女とピアノ:野平一郎、チェロ:銅銀久弥による「大公」ではスタインウェイのピアノは細かく表情を変え、ヴァイオリンやチェロもテクニック、情感ともに十分なレヴェルでした。……それでちょっと思ったのがピアノの楽しみ方ということです。これは私だけじゃないと思うんですが、独奏曲だけじゃなく、室内楽や協奏曲でもピアノって楽譜にはほとんど書かれていないデュナミークや音色の変化をいかに演奏家が表現するかが勝負の分かれ目wになっているんじゃないでしょうか。それは言葉にするとびみょーと言うか曖昧な感じですけど、耳で聴くとかなりはっきりとわかりますよね。ただそういうところで、ベートーヴェンやショパンの演奏が評価されていたのかというとたぶん違うんじゃないかなって思います。誰の耳にもわかりやすい(当時の水準としては)超絶技巧というか、見世物的要素が評価の基準だったんじゃないかと。もし彼らが今演奏したら、「平板でニュアンスに乏しく、作曲家の意図を十分伝えていない」なーんて批評されたかもしれませんw。

 ピアノという楽器は、先祖のハープシコードやチェンバロやハンマーフリューゲルなどなどから飛躍的に進歩し、ピアノフォルテという名前になってからも、重工業化時代にまるで歩調を合わせるように金属のかたまりのようなフレームによって強力な張力を支え、巨大なボディによって広大なホールの隅々まで音を響かせるように進歩してきました。つまりマッチョな体を持つことによって、大きな迫力のある音で大編成のオケとも対等に渡りあえるようになったし、繊細な音色の変化で高度に発達した社会で暮らす人間の複雑でとりとめのないような感情もあますところなく表現できるようになった……まあ、ラフマニノフあたりを念頭に若干皮肉な意味も込めて言ってるんですが。

 ポストモダンだかIT社会だか知りませんが、重厚長大産業の終焉が言われるようになって、重厚長大なピアノやオケの時代も終わったかと言うとそうでもないでしょう。いくらピリオド楽器の演奏が増えても、やはり重厚長大な音楽の表現力は圧倒的なものがあると思います。演奏家自体がそういう楽器で教育を受け、訓練してきていますから、作曲された時代の演奏はそういうものではないなんてお固いことを言ってもその魅力には抗しがたいでしょう。他方、シンセサイザーなどのデジタルな(意味不明で使ってるんですがw)楽器はいまだにニュアンスとは無縁でお話にもなりません。……今の時代が今の感情を十全に表わす楽器を生み出せないでいるのは、どうしてなのかなって思いました。情報の質を問わず量で圧倒する方向に文明が向かっているからなのか、それとも我々の感情が安直でやせ衰えた平板なものになったせいなのか、そんな大げさなことを考えてしまいました。

 


 

 野平一郎の音楽

 

 

ずっと前にベートーヴェンの「大公」の演奏を衛星放送で見たときから、この人のピアノは気になっていました。それはテクニックが優れているとか、表現力があるとかというだけでなく、「あれ?この人いろいろやってるな」ってことでした。お寿司屋さんがただ寿司を握るだけじゃなく、いろんな下ごしらえをしたり、隠し味を入れたりするのを「仕事」をするって言いますが、そんな感じでした。

 で、図書館でベートーヴェンのピアノ・ソナタの15番、19番、20番、21番を演奏したCDを見つけたので、しめしめと思って借りて聴いてみました。これはまさに「仕事」をしている、とてもおもしろい演奏でした。ベートーヴェンのソナタは名演奏がそれこそ掃いて捨てるほどあって、テクニックや表現力という点では彼以上の人はいるでしょうし、作品を作品として味わうのに最高のものとは言えないのかもしれませんが、このCDほど自分自身の頭と腕で「私はベートーヴェンとこういう話し合いをしてきました」と強く感じさせる演奏はそうはないと思ったのです。「仕事」するってことを表現の側からいうとそういうことでしょう。例えば15番の「田園」の第1楽章の現代的な響きと第2楽章の野暮ったい歌い回しの落差はおかしいほどです。また、21番「ヴァルトシュタイン」の第3楽章はベートーヴェンのソナタの中でも私がいちばん好きな楽章の一つですが、その自由自在な躍動感は本当に楽譜どおり弾いてるのかとさえ感じさせるものです。

 このCDには野平自身のかなり長い文章が載せられていて、ドビュッシーやバルトーク、さらにはブーレーズまで言及しながら専門的な楽曲分析がなされています。ところが、私がさっき述べたようなことは全く書かれていなくて、これまたおもしろいと思いました。だってたとえ録音であっても演奏である以上、ある種の即興性というのは積極的な意味であるはずですから。簡単に言えば言ってることとやってることが違っていいんです。演奏家の場合はw。楽曲分析はあくまで下ごしらえなんで、そのままの演奏しかできないなら、そんなのはつまらないだろうと思います。仕事をしただけじゃ「仕事」をした仕事になりませんよ、ってわざとややこしく言ってますが。……え?おまえがトンチンカンなだけじゃないかって?なるほどなかなかユニークな視点ですが、生産的じゃないですねw。

 で、野平は実は作曲家でもあるんですね。どちらかと言うとCDの文章は作曲家としての文章かなって感じで、その緻密なのにさっき言ったような広い視野でものを見てるのがおもしろくなって、今度は彼の作曲したCDを買いました。室内楽が4曲、1988年から2004年にかけて書かれたものです。内容は……素人の大ざっぱさで言うと武満徹とブーレーズを混ぜたような感じですw。あまり時代的な変化は感じられないんですが、CDの最後に入っていた2004年に初演された「冬の四重奏」が心に触れてくるいい作品だと思いました。この曲だけ彼がピアノを弾いていて、それがやっぱり「仕事」をしていたのが大きな理由かもしれませんが。

 このCDにも彼自身がかなりいろんなことを書いていますが、今のところ読んでないふりをしておきますw。それよりは彼のコンサートがあったら行ってみたいなという気持ちの方が強いですね。

 


 

 野平一郎を妄想する

 

 

 07年2/27に白寿ホールで行われた漆原啓子のリサイタルに行って来ました。代々木公園のそばにある300席の室内楽用のホールで、電位治療器などを造ってる白寿生科学研究所の本社ビルの7階にあります。新しくていいデザインだと思いますが、私の席が最前列の左の方だったのでホールとしての音響のほどはわかりませんでした。舞台も低いので最前列でも目線はピアノの椅子の座面くらいの高さです。

 今回の目的は野平一郎の実演を見聞きすることで、漆原のヴァイオリンは二の次ですが、実際にはそうもいきません。プログラムの冒頭はバッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第2番イ短調です。彼女のデビュー25周年記念の6回シリーズのリサイタルの2回目で、たぶん無伴奏ソナタとパルティータを全部弾くのでしょう。ちなみに女性演奏者の場合はプログラムにも生まれた年は書いてありませんが、17歳でデビューしたとの記載があるのでバレバレですw。……いえ、まだまだお若くて、性格もかわいい人とお見受けしましたけど。

 で、ふつうの言い方だと区切りの年にヴァイオリニストの聖典に取り組むってことなんでしょうけど、ありていに言うと出来は悪かったです。この曲は第2楽章の長大なフーガが何よりポイントですが、それが音がしばしばはずれてしまって、結局この曲の内容、例えば深い悲しみが表現されていないという結果になりました。おそらく彼女自身が不調に気づいていて、気持ちを落ち着かせようとしたのか、フーガが終わった後にかなり長い調弦を行っていました。最終楽章のアレグロは少しよくなっていたと思います。……最高の演奏者が最高の状態で弾かないと味も素っ気もない曲になるんだなっていうのが実感です。

 次はブラームスの第2番イ長調のソナタでした。ピアノの伴奏を得て、最初のアタックから同じ演奏者と思えない音が出てきたので驚きました。まるで陸に揚げられてぱくぱくしてた魚が川に帰ったような。あ、こういうのを水を得た魚って言うんですねw。しかし、私は野平のピアノを聴いているので、あまり特別なことをしないで伴奏に徹しているような弾き方が少し不満です。このリサイタルは漆原のもので、その彼女が不安定になっているのを立て直すのが先決なのはわかるんですが。

 そうやってヴァイオリンのソナタとしてはなかなかいい感じで、でもデュオのソナタとしてはやや物足りない感じで進んでいくうちに「あ、勝負は後半ってことか」って思いました。バッハとブラームスはコマーシャル上の理由があったでしょう。実際、野平目当ての私ですらブラームスが入っていたのがチケットを買う決め手になりました。でも、プログラムとして組み立てた側(それが漆原単独の考えか、二人の相談の上なのかはともかく)としてはプーランクとミヨーになんらかの意味合いを持たせたんだろうと思います。……そう思い当たって、私の妄想が始まりましたw。

 「この曲はさらっと客観的に行きましょう。ブラームスのセンチメンタリズムにずぶずぶになっちゃうと後に響きますから」いや、野平が本当にそんなことを考えたどうかなんて、もちろん知りませんよ。知りませんけど、彼の能力からすればもっと情緒纏綿たる感じでヴァイオリンと懇ろな音楽を作り上げることは容易でしょう。それにどんな妄想をもって演奏を聴いても何か人に害を及ぼすわけじゃないしね。妄想なんかしてないで、彼自身に訊いたらいいんじゃないのですって?あはは。全然わかってませんね。インタヴューすればなんでも教えてもらえるって思う人は詐欺師のカモになりますよ。芸術家も興行師も詐欺師と縁戚関係があると思いませんか?……

 この調子で次に浮かんだのが彼はピアノを弾きながら指揮をしているという妄想です。律儀そうに伴奏をしながら彼女をコントロールしている別の野平がいるということですね。なんかますます妄想らしくなってきましたw。聴いた音に反応してピアノを弾いているというのでなく、漆原がやるだろうことを完全に予測してピアノを弾いている自分に指令を出している、そんな感じです。これは後半が楽しみです。残念なのはピアノの指使いがいちばんよく見える席なのにヴァイオリニストが邪魔になって見えにくいということだけですw。

 さて、休憩後のサティのフォロワーたち、ちょっと癖のあるチーズみたいな二人ですが、最初はプーランクのヴァイオリン・ソナタで、ジネット・ヌヴーの依嘱によるものだそうです。初めて聴く曲でしたが、私の印象としては耳になじみやすいパッセージをパッチワークのようにつないだ作品ってところです。反アカデミズム的な志向を持ちながらも、大衆音楽にはならないような知的操作が加わっていると言ってもいいでしょう。羽目をはずしてもやっぱり優等生って感じもするんですけどね。

 で、肝心の演奏ですが、第1楽章のアレグロ・コン・フォーコ(火のように)にぴったりの目が覚めるようにキレが良くて運動量の多いヴァイオリンで、音の意味とか内容とか面倒なこと抜きで「あー、快感!」って感じです。そういうのってライヴならではですね。技巧的な難所の方がよりクールに演奏できているようでした。野平のピアノも同様で、彼女が振りかぶって弓を弦に向かって叩き下ろす動作までイメージして演奏しているように思えます。ピアノの音は炊き立てのコシヒカリwのようにつやつやと輝いています。粒立ちがいいんですが、強い音でも決して硬くない。フォルテで連打するマリンバのマレット(ばち)に毛糸で編んだカヴァーがついているってところです。次のミヨーで1音だけそのカヴァーがはずれた音が出ちゃったのでわかりました。

 途中からピアノの音だけ聴くようにしました。そのために来たんですから。第2楽章はインテルメッツォ(間奏曲)と言いながらけっこう長いものです。スペインのフランコ政権によって銃殺されたロルカの「ギターが夢に涙を流させる」という詩句が引用されているそうで、作品全体も亡き彼に捧げられているとのことです。お約束の涙のポロンポロン・ピッチカートがあったりしますが、そんなに悲しげな音楽ではないように思いました。この夜の漆原はどうも緩徐楽章においてたっぷりと歌い上げていくことができなかったようです。最前列の席だったんでそう感じたのかもしれませんが。……妄想している私の言い方だと、野平が濃厚なシーンに引きずり込むことよりも、はじけて踊り回る方に引っ張ったということになります。ただそれもずっとではなく、時々。強くなく、ゆるめに。第3楽章はプレスト・トラジコ(悲劇的な)ですが、ほぼ第1楽章と同じような印象で、気持ちよく終わりました。この曲がいちばんよかったですね。

 最後はミヨーの「屋根の上の牡牛」でした。プーランクの作品以上に俗っぽいと言うか、ラテンっぽいキャバレーの音楽って感じで、楽しいものです。多調性とかいう解説もありますが、モーツァルトの「音楽の冗談」と同様で、調子っぱずれのミュージシャンや踊り子が次々出ては「引っ込め!」って言われるのをユーモラスに描いたってところじゃないでしょうか。

 ところが、なまじ音楽的素養がある作曲家が工夫を凝らして作ったものをこれまた作曲もやるピアニストが演奏するものだから、ハチャメチャなおもしろさはなくて、わりとすぐに飽きてきます。そこをカデンツァとかで手を変え品を変えもたせようとしますが、元がバレエ音楽で、しかもテーマ・ミュージック(これ自体は魅力的ですが)に常に戻って来るので、一定の枠に収まっている印象はぬぐえません。

 まあ、そんなむずかしいことを言わずに名手漆原がピタッとズレた音wを出しているのや正確無比に野平が調律の狂ったピアノを弾いているのを楽しめばいいんでしょう。先日、浮世の義理でヴァイオリンの発表会に行ったんですが、そのときの気色悪い音のはずれ方やか笑いをこらえるのに苦労するこけ方とは違う、気持ちのいい、楽しいズレ方です。……調律の狂ったピアノを模しているのか、ミスタッチを模しているのか自信はないんですが、ある幅の音だけズレていたような気がするのでそう書きました。違ってたらご指摘ください。ズレは直しますw。

 この曲の野平のやっていたこともプーランクと同じようでした。キャバレーの無口なピアニストのような渋さ。時々挑発するけれど、「何をしてるんだ?」って言われる前にすっと身を引く。……だから、よけいに気になって集中して聴こうとしていたら、突然えへん虫がやってきちゃったんです。演奏の途中に、しかも最前列で。こんなんで咳込んでしまうなんて最悪です。必死にこらえます。楽章間で咳払いするのだって、前々からわざとらしいと思ってる私ですから。ううっ苦しい。これからはコンサートに行くときはのど飴は必携だあ。後ろで何度もくしゃみするお気楽な人間がいます。周囲の殺気を感じないんでしょうか。それにしてもこんな強力なえへん虫は初めてです。だ、だめぇ。唾を飲み込んでやりすごすのが精一杯でとても演奏を聴いてられません。……

 まあ、最後の5分くらいはそうやって悶えていたので、野平がライヴで何をする人なのかは次回以降に持ち越しです。アンコールはフォーレのロマンスとプーランクの歌曲でした。彼が伴奏以外の何もしてなかったので、何も言うことはありません。 

 

  

そりゃあ… (ぽけっと)  

最前列で妄想している人がいるんだもの、演奏者としてはやりにくかったかも知れませんよお。元はと言えば調子が悪かったから妄想が始まったわけでしょうけど…うむむ、ニワトリとタマゴ…

プーランクの「反アカデミズムの…」というくだりは、そうそう、それそれ!と激しくうなずきました。

なんか明るい人ぶってるけど、ほんとはネクラなんじゃ、と思うこともあります。

管楽器の曲はどれも生き生きしてるんですが。

野平さん、おとなしかったですか、伴奏以外の何もしていないというのも、実はよく聴くとくせものだったりするんですけどね。

リベンジ計画必須ですね。

えへん虫はとてもお気の毒でした。

あれはツライよね。

 

妄想の続きw (夢のもつれ)

憶測に過ぎるんで本文には書かなかったんですが、漆原さんの不調を見て、「今夜はサポートに徹しよう」と思ったような気がします。彼女はしきりに恐縮して、野平さんを立てていましたし。かなり自己規制したから間歇的にしか彼の本領が出なかったというか。

でも、そういうこと全部ひっくるめて室内楽のおもしろさだと思いますね。

プーランクの曲ってけっこう聴いてるんですが、どううもよくわからなかったのがぽけっとさんの賛同を得て、わかっちゃった気になりました。