マタイ受難曲

主よ人の望みの喜びよ

ブランデンブルク協奏曲

カンタータ第180番「装いせよ、愛しき魂よ」

シャコンヌ

ゴルドベルク変奏曲

ヴァイオリン協奏曲第2番

 



 マタイ受難曲

 

 マタイ受難曲はバッハの最大かつ最高傑作であるだけでなく、クラシックの長い歴史の中でも比肩するものを見つけるのすらむずかしい作品でしょう。私自身、よく言われるドストエフスキー体験と同じような意味で、「マタイ受難曲体験」があります。

 これがかのムジークフェラインス・ザールで聴けるというプログラムに惹かれて、行ったのです。ところが、演奏はどうもセミプロ程度のもので、例えばその前に横浜で聴いたカール・リヒターのような緊張感はぜーんぜんない、日曜日の午後にふさわしいのどかなものでした。思わずうつらうつらしながら(コンサートやオペラで居眠りするのは至高の贅沢だと思いますw)、お付き合いをしていたら、コラールを歌っているソプラノパートに目を引き付けられました。

 その2、3人の表情や旋律に合わせてわずかに動くブロンドの髪を見ているうちに、「あ、見えてるんだ」とわかってしまいました。ぞくっとしました。ここにイエスがいる。それが彼女たちには、はっきり見えていて、悩み苦しむ彼に向かって自分たちの歌を捧げているのです。

 もうテクニックなんかは関係ありません。だって、そんなものは人間に対するものだから。全知全能の存在は、その人の魂を丸ごと見ることができるから。そう思って歌っているのだと感じました。……今までと違った感動に襲われるとともに、これは日本人にはかなわないなと思わされました。

 もちろん冷静になってみれば、バッハの演奏には高度のテクニックが必要なのは当然だと思い直しました。シュッツ以来のドイツ系音楽やイタリア系の協奏曲やオペラなどなどに通暁しているのは当然として、聖書やルター派についての宗教的知識も必要です。磯山雅さんはこの曲だけでかなり大部の書物を書いておられますが、それだけ巨大な作品なのです。しかしながら、たとえテクニックと知識が100%あってもそれだけでは、この曲の演奏は不十分で、空虚です。心と呼んでも、魂と呼んでもいいのですが、そういう精神的なもの(直接信仰心があることを意味していません)がやはり100%なければバッハと、バッハが表現しようとしたその向こうの存在は現われないと思います。

 

 


 

 主よ人の望みの喜びよ

 

 この曲は数あるバッハのカンタータの中でも指折りの名作、147番「心と口と行いと生活をもって」の看板曲で、単独でもよく知られていて、様々なアレンジでも親しまれています。でも、私がクラシックを聴き始めたときには聴いた覚えがなく、それだけに新鮮に感じ、すっかり虜になりました。

 大学時代に高校のときの同級生が集まり、「イレギュラー・コンサート」と称して音楽会?をやることになって、合唱と音大に行った連中の演奏でプログラムを組んだんですが、この曲を歌おうと強引に主張し、みんなが受け入れてくれました。テノールパートは内声部なので、練習しているうちに曲の構造がよくわかって、勉強になりました。

 カンタータ全体をピックアップして見ていきましょう。冒頭からトランペットと弦楽の掛け合いに導かれて、弾むように“Herz und Mund und Tat und Leben”(心と口と行いと生活)で始まるコラールも劇的な変化に満ちていてすばらしいものです。4つの名詞を執拗にund=andでつなぐのは野暮ったいのかもしれませんが、バッハの手にかかると信仰を構成する要素を一つずつ数え上げているような、さらに言えばLeben=Life(生きるということ)が心とふだんからの言動の集約であると思わせる、意味深さを帯びてきます。

 第5曲のヴァイオリンのソロと絡み合うソプラノのアリアは、マタイ受難曲などのそれと同じく、歌い出されたとたんに心の中に深く入ってきます。この曲の次に第1部の締めくくりとして、マルティン・ヤーン(ca.1620-82)によるコラール「主よ人の望みの喜びよ」が歌われます。私はコラールは教会という共同体(Gemeinschaft)の歌だと思っていますが、この“Wohl mir, dass ich Jesum habe”(幸せなことに、私はイエスを持つ――私にはイエスがいる)で始まる確信と安らぎに満ちた3拍子のコラールこそがその発想の原点になっています。

 9曲目の華やかなトランペットとバスによるアリアが高らかにイエスへの歌の捧げ物を行うことを表明します。1曲目のコラールとこの曲の伴奏部は、トランペット協奏曲のような趣きがあります。そして、歌詞を変えて最後に繰り返されるヤーンのコラールこそが捧げ物なのです。その歌詞の全文を掲げましょう。

 

 Jesus bleibet meine Freude,

 Meines Herzen Trost und Saft,

 Jesus wehret allem Leide,

 Er ist meines Lebens Kraft,

 Meiner Augen Lust und Sonne,

 Meiner Seele Schatz und Wonne ;

 Darum lass ich Jesum nicht

 Aus dem Herzen und Gesicht.

 

 「主よ人の望みの喜びよ」というと何だか硬い感じですが、内容はイエスに捧げるラヴソングのようなものですので、戯れにHPでの物語の中でもやったように女性が彼氏に訴えるような感じで訳してみましょう(願わくばaikoのようにw)。

 

 いつだってあなたは、あたしの喜び

 心をなぐさめてくれる 一杯のジュースみたい

 悪いことや嫌なことから、ぜんぶ守ってくれる

 あなたは、あたしが生きてく力

 見つめてるだけで幸せ、お陽様みたい

 あたしの魂の宝物、大空に舞い上がる気分よ

 だから離さないから

 あたしの心でぎゅっと、あたしの目でじっと♪

 

 さて、「イレギュラー・コンサート」での出来栄えですが、どんなふうに歌ったのか不覚にも全く憶えていません。ただこのコラールが最初に歌われたことと、指揮をしたクリスチャンの友人が目を伏せて何事か祈りの言葉をつぶやき、我々の目を見てタクトを挙げたことだけが記憶にあります。

 


 

ブランデンブルク協奏曲

 

 

 ウィーンに住んでいたときに、バッハの生まれ、働き、亡くなったテューリンゲン州を中心とする地域を車で旅行したことがあります。アイゼナハ、ミュールハウゼン、ヴァイマル、ケーテン、ライプツッヒといったところですが、数時間のドライヴで次の町にいくことができるような狭い地域で、バッハが生涯のほとんどを過ごしたことが実感できましたし、自分の好きなペースで回ることができて、とても幸せでした。管弦楽曲、室内楽曲のほとんどが作曲されたケーテンは、野原や畑の中の長くて細い石畳の道の果てにありました。たぶん彼が馬車に揺られてヴァイマルから移ったときもこの道を通ったんだろうなという古い感じの道でした。

 宮廷には入ることができなかったのが残念ですが、外から見た感じでは、ウィーンやミュンヘンの宮殿はおろか、ハイドンが奉職したエステルハーツィと比べても相当劣るような、田舎のくすんだ小さなお城という印象でした。とてもバッハの華麗なポピュラー作品の多くが生み出された場所には見えませんでした。

 ブランデンブルク協奏曲は、ブランデンブルク辺境伯のクリティアン・ルートヴィヒに1721年に献呈されているためにそのように呼ばれているのですが、その献呈の辞からバッハが職を求めていたことが推測されています。辺境伯の領地はベルリン郊外でしたから、ケーテンから都会に転職したがっていたことは想像に難くないでしょう。しかしながら、このことは6曲が献呈のために新たに書き下ろされたことを意味するわけではなく、少なくとも第1番はヴァイマル時代の1713-16年頃に、第5番はケーテン時代の1718年頃にそれぞれ書かれた初期稿があります。これほど多様な作品がいっぺんに出来上がったと考える方が無理でしょう。他方、全体としての統一感を感じる人は多いでしょう。そこにはバッハの慎重な配慮が張りめぐらされていると思います。

 アーノンクールの演奏のDVD を見るといろいろなことがわかりますが、各曲をかいつまんで順に見ていきましょう。第1番は2本のホルンを初めとして、3本のオーボエ、ファゴット、ヴィオリーノ・ピッコロと呼ばれる小型ヴァイオリンといった独奏楽器を持つ、華やかな曲です。ホルンが活躍するため、ヘンデルを思わせるような君主が主催する狩りをイメージした音楽のような印象があって、辺境伯へのあいさつと宮廷を賛美するような趣があります。とすれば第2楽章のヴィオリーノ・ピッコロのソロは小姓のボーイ・ソプラノの歌のようにも。第4楽章のメヌエットは狩りの後の舞踏で、踊り手を変えながら宴は続くといったところでしょう。

 第2番は、第1番の華やかさを引き継いで、ホルンとオーボエに代わってトランペットとリコーダーの掛け合いが聴きどころになっています。第1番もそうですが、この曲でも金管の出し入れが巧みだと感じます。第2楽章は木管2、弦2(アーノンクールは通奏低音をチェロで弾いています)による室内楽となっていて、4つの楽器が何の無理もなく絡み合いますし、特にヴァイオリンがバッハ独特のパセティックなパッセージを奏でます。

 第3番は、驚くべき音響上の創意と工夫が凝らされた曲です。ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロが三角形に配置され、楽器群ごとの掛け合いと3人ずつのパート内でのリレーと言った複雑かつ華麗な音楽がエネルギーに満ちて展開されていきます。9人の奏者全員が高いレヴェルを要するのは言うまでもありませんが、バッハの作曲技術の独創性を遺憾なく示すものとなっています。この3×3の曲が第3番に置かれていることは意識的なものなのでしょうが、おもしろいのは3楽章構成でありながら、第2楽章は楽譜上は2つの和音が書かれているだけで、演奏家の即興に委ねられていることです。この曲が演奏できるような演奏家であれば自由に第2楽章を展開して三位一体の音楽を完成することができるでしょう?と問いかけながら、辺境伯に想像させ、興味を惹こうとしたように感じます。

 第4番は、リコーダーを用いている点で、第2番と共通していますが、ヴァイオリンと2本のリコーダーの呼び交わしによって、第3番の緻密な室内楽的なものから再び社交的なものになっています。アーノンクールが第3番と第4番の演奏順を入れ替えているのはそういう理由があるのでしょう。確かに例えば宮廷内のロマンスを想像させるようなところがあって、彼は第2楽章でリコーダーを2階の回廊で演奏させていますが、貴婦人がバルコニーにもたれかかりながら恋を嘆いているような情景を想像させます。第3楽章はヴァイオリンがリードして、バッハらしい目の詰んだフーガを奏でます。

 第5番は、第1楽章でヴァイオリンとフラウト・トラヴェルソ(フルート)に促されてふつうは通奏低音を受け持つチェンバロが独奏楽器となって、長い技巧的なカデンツァを奏でます。古典派からロマン派にかけて協奏曲の中心となったピアノ協奏曲がここに始まると言われるものですが、初期稿はもっと短かったので、バッハ自身のチェンバロ演奏の力を示す意味もあったのだろうと思われます。第2楽章は3つの独奏楽器による室内楽となります。この楽章には初期稿にはなかったアフェットゥオーソ(情愛を込めて)とめずらしく主情的な表示がされていますが、この頃に後妻として娶ったアンナ・マグダレーナに密かに向けられたものと考えるのはロマンティックに過ぎるでしょうか。第3楽章はジーグを用いた軽やかなフーガになっています。

 第6番は、3の倍数ということで第3番と同じく弦楽器だけの編成ですが、ヴァイオリンを欠くというこれまた音楽史上極めて特異な曲です。旋律楽器に対位法をさせるのと同じで、こういうハンディを逆に生かして稠密な音楽を創造するのがバッハらしいところで、第1楽章はふだん内声部を受け持っている、音色としても地味なヴィオラとヴィオラ・ダ・ガンバによる協奏曲のように聞えます。第3楽章は2つのヴィオラとチェロを独奏楽器としながら、協奏曲集の最後を締めくくるのにふさわしく全体でダイナミックに進行していきます。これもバッハが好んだジーグであり、魂の舞踏と呼びたいような名品です。

 さて、全体としてはこれまで見てきたように6曲は、基本的には3+3で構成されていて前半は派手な野外音楽的傾向が強く、後半は内省的な室内楽(chamber music)の方向になっているように思えますが、楽器の構成から見ると2曲ずつのペアのようにも感じられるという工夫がされています。しかし、それ以上にすばらしいのが各楽章ごとに独奏楽器を出し入れしたり、リピエーノ(伴奏部)を休ませて室内楽を繰り広げるなど、独自の性格を与えていることです。つまり、楽団員すべてに陽が当たる個所があり、満足いくような配慮がされているのでしょう。それだけに理想的なメンバーが揃わなければ演奏できないわけで、自分に任せてもらえばそれを作ってみせましょうというアピールだったように感じられますが、それがそのまま、全体の眺望と繊細な各部分が有機的に結びついた世界を展開するという、バッハの作曲家としての比類のない実力を示しています。ブランデブルク協奏曲ほど多様性と統一性を持った曲集は、協奏曲の分野に限らず、空前絶後のものなのですが、その献呈譜は顧みられることなく、しまい込まれてしまったのです。

 


 

 カンタータ第180番「装いせよ、愛しき魂よ」

 

 新約聖書のマタイ福音書第22章で、イエスが次のような話をしています。……天の御国は、ある王が自分の子のために結婚披露宴を設けたことにたとえられると。最初に招待した客は来たがらなかったばかりか、知らせに来た王の家来を捕まえて、殺してしまった。それで怒った王は、その招待客を皆殺しにし、町を焼き払ってしまった。次に王は、家来に街に出て、誰でもいいから招くように命令した。それで、宴会場は人でいっぱいになったが、その中に婚礼の礼服を着ていない男が一人いた。王がなぜ礼服を着て来なかったのかを問い質しても、その男は答えなかったので、王は「こいつの手足を縛って、外の暗闇に放り出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ」と命じた。このように招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのだ。まあ、だいたいこんなふうなイエスの話です。

 良く言えば素朴な、悪く言えば福音史家の教養のなさを物語るお話だと思います。これと同様の話はルカ福音書第14章にもありますが、それには皆殺しとか手足を縛って放り出すといったことは書かれていません。

 それはともかく、このマタイ福音書のたとえ話を元に1653年にJ.フランクが作ったコラールを第1曲、第3曲、第7曲に配し、このカンタータ180番”Schumucke dich, o liebe Seele”(1724年、ライプツィッヒ)は構成されています。特に第1曲は「装いせよ、おお、愛しき魂よ。暗い罪の洞穴を離れ、明るい光のもとに出て、華やかに輝き始めるがいい……」と魅力的なコラールで始まります。歩むような弦楽合奏の上に、装いを象徴するリコーダーとそれに応えるオーボエ。神の宴に招かれる魂の喜びがバッハらしい直截さで表現されています。第2曲のテノールのアリアは、フルートと通奏低音だけ。「救い主が扉を叩く。すぐに心の門を開けなさい」細かく上下するフルートはイエスが扉を叩く音とも、それを迎える魂の喜びとも聞えます。第3曲のソプラノのレチタティーヴォとアリオーソは、ヴィオロンチェロ・ピッコロ(5弦の小型のチェロ)と通奏低音。「私の心は神と一つとなることを渇望している」とコラール旋律を歌うソプラノにチェロが寄り添います。バッハは神が傍にいることを表現するときにしばしばチェロを使うように、私は感じています。

 第4曲のアルトのレチタティーヴォは、2つのリコーダーと通奏低音。「私の心は、神の深遠さに恐れを、その愛の偉大さに喜びを感じます」教会での信仰告白にステンドグラスから光が落ちてくるようなリコーダーの静かな動きです。第5曲のソプラノのアリアは、弦楽合奏が戻ってきて舞曲を奏でながら、「命の太陽、五感の光」と神を称えます。第6曲のバスのレチタティーヴォは、通奏低音だけで「信仰において、あなたの愛をいつでも想うのです」と控えめに、しかし力強く述べます。終曲は通奏低音だけの伴奏でのコラールです。「招かれざる客とならないよう、イエスの愛を正しく知るように」おそらく、信者たち全員が立ち上がって合唱するのでしょう。

 コラールは単に合唱とか、ドイツ語の讃美歌という意味だけではなく、素朴なリート風のスタイルを持っていて、ルター派の教会に集った信者が気軽に唱和することができるものを言います。すなわち、コラールとは信仰によって結びついた共同体の歌なのです。これを中心にしたカンタータがバッハの後、急速に作曲されなくなったのは1737年にシャイベが批判したような音楽的な嗜好の変化(バロックの対位法から前期古典派style galantの和声法)だけではなく、こうした宗教的共同体が衰えていったことが根本的な原因だと私は考えています。つまり、バッハの音楽は個人の感情や思想を語るものではなく、共同体の祈りや想いとともにある、それが後の作曲家が束になってかかっても適わない理由の一つではないかと思うのです。

 いずれにしても、カンタータを始めとした宗教的声楽曲はバッハの音楽の中心です。私の持っている小学館のバッハ全集のCDの枚数で言うと、全部で144枚のうちカンタータ(若干の世俗カンタータを含みます)だけで68枚、受難曲やミサ曲を入れると84枚と半分以上になります。

 


 

 シャコンヌ

 

 

 私は元々はクラシック音楽には関心がなくて、ロックやポップスを聴いていたんですが、それも熱心というほどでもなく、音楽なしでも別にどうってことのない人間でした。大学に何とかかんとか入って、高尚な趣味もないとなぁなんて思って、クラシックを聴くようになったんですから、しょうもない話です^^;。……もし今、学生時代を送っていたら、PCにはまってゲームかネット、いずれにしてもアキバ系を極めているだろうと思うにつけ、早く生まれすぎたような気がします。

 それで何を聴くかといっても手がかりがないので、名曲を紹介&解説した文庫本を片手に聴き始めた頃にこの曲に出会いました。シャコンヌは、もちろん「無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番(BWV1004)」の終曲ですが、最初に聴いたのはブゾーニによるピアノ編曲でした。

 こうした予備知識は何もなくて、なんとなくFMに耳を傾けていたのですが、だんだんただならぬ感情が迫ってきて、あの畳み掛けるようなパッセージに翻弄され、曲が終わったときにはとんでもないものを聴かされてしまったと思いました。今でもそのときのことは周りの様子を含め、ありありと思い出すことができるんですが、それ以来、音楽は言葉を使わずに思想を伝えることができると思っています。「思想」って私の場合、感情とか感覚というよりももっと具体的な、精密で揺るぎないもの、でも言葉では説明できないものっていうくらいの意味ですが、そのときはこんなところまでバッハは考えたのかという、生意気な、しかし正直な実感として驚きと感嘆の念を抱いたものでした。

 そんなわけで、しばらくはクラシックに詳しい友人を見るとシャコンヌってすごいよな、なんてことを吹聴していましたが、どうも話が噛み合いません。え?ヴァイオリンの曲なの?……そうそう、そうだったね^^;。

 慌てて、大学の生協に行って、シゲティのを買いました。美麗な音よりも彼の厳しい音がこの曲にはいいと思ったんですよって言うのは、ウッソー^^。。。単に安かったからです、はい。モノーラルだけどヴァイオリンだけだから問題ないだろ?^^ってな感じで。……ざらざら、ぎしぎしした音でしたけど、その思いつめたような表現で何度も聴いたので、当時名盤の誉れの高かったシェリングの端正な演奏を聴いてもかえって物足りなく思ったものでした。

 ヴァイオリンで聴き慣れると、あんなに感動したはずのピアノの編曲も、もう聴く必要がないやって冷たいもんでした。ギターの編曲とかもありますけど、あの無理な重音の連続が独特のマチエールと緊張感を作りだしてるんで、それがないとね^^。

 バッハって人は、よくこういう無理なことをさせるんです。無伴奏フルート・ソナタがミニマムな形ですが、逆立ちしたって単音しか出ない旋律楽器のフルートに主旋律と伴奏の両方を演奏させています。それはさすがに線ですが、無伴奏ヴァイオリンとチェロだと和音を弾かせて、キイボードの曲に近いようにもなりますし、だからブゾーニやブラームスのピアノ編曲もあるわけです。シャコンヌにはオルガンの音をたぶん模したようなところもありますね。

 キイボードにはコンチェルトや室内楽をさせちゃいます。イタリア協奏曲トリオ・ソナタがそうで、二段鍵盤のチェンバロによる前者の方が派手で、有名かも知れませんが、オルガンによる後者では足まで使って(バッハは足だけで簡単な曲なら弾けたそうです)、3つの楽器を一人で演奏させようという飛んでもないもので、内容的にもバッハ特有の底知れない深さを湛えた名曲です。

 そんなわけで、いくら指が回っても横の旋律を追うような感じで、縦の線を意識しないでこの曲を弾くと世にも無残なことになります。……美声自慢のコロラトゥーラ・ソプラノのようなヴァイオリニストよりも、内声部をちゃんと聴いてアンサンブルを作り上げてきた人の方が向くような気がします。

 10年ほど前に「無伴奏シャコンヌ」(Le Joueur de Violon)というヴァン・ダムの監督で、ギドン・クレーメルが演奏した映画がありました。すごく期待して見たんですが、私にはこの曲の映画化?としても、独立した映画としても、何だか中途半端で、退屈な気がしました。地下鉄の通路でこの曲を弾きながらロマ(ジプシー)っぽい音楽や踊りと融合していくところなんかは、シャコンヌという舞曲の根っこのところを示すようでおもしろかったんですが。

 それから同じ頃かも知れませんが、この曲がある女性の死を悼んで作曲されたという説があったようです。直接その論文を見たことはないので、真偽のほどはわかりませんが、確かに組曲の一部としては異様な長さと悲劇的なイメージからありそうなことかも知れません。私はこの説に接したときに漱石が大塚楠緒子を追悼して詠んだ「有る程の菊抛げ入れよ棺の中」という、激しい悲しみを感じさせる句を思い出しました。ただバッハにそうしたロマンティックなエピソードを想像してもあまり意味がないかも知れません。生半な解釈=言葉など及ぶところではないからです。

 冒頭に書いたように専らロックやポップスを高校生くらいまで聴いていたわけですが、当時はその歌詞から未熟ながら“生き方”というか、“哲学”というか、そういうものを受け取っていたように思います。今もそうなんでしょう。青臭くて“ふふん”って感じしかしないJ-POPの歌詞からも今の若い人たちは、「自分のことを言ってくれている」と感じているからこそ、熱狂するんだと思います。

 何だかわからないけどやたら切迫した気分が青春と言うべきもので、たぶん私がシャコンヌに魅せられたきっかけもそこにあったと今にして思います。でも、それが伝えてきた音によるメッセージは、私という小さな容器よりもはるかに大きなもので、あふれてしまうばかりだったのです。……

 


 

ゴルドベルク変奏曲

 

 

 シャコンヌと同様、私がクラシックを聴き始めた頃の話です。クラシックに詳しい友人たちに言わせると、グールドの演奏は、おもしろいけれどやりすぎっていう評価でした。そうか、際物みたいなものなのか、やっぱりチェンバロで弾かないとねと今も変わらぬ生判りをしていたんですが、いざグールドの55年の旧盤の演奏を聴いてみると、こんなにわくわくする曲だったのか、いやいやこれは恣意的な演奏で、よい子wは聴いちゃいけないんだなんて、複雑な気持ちになりました。

 でも、今聴いてみると、旧盤は意外なほどおとなしく聞こえます。それは新盤を聴いてしまっていることももちろんあるのですが、グールドがこの曲の演奏のパラダイムを決定的に変えてしまったからでしょう。例えば、Trompe-l'oeil(だまし絵)の一種で何が描いてあるかわからない絵がいったんある物に見えてしまうと、それ以外には見えないというのと似ています。表面的な類似があるとかないとかは別にして、チェンバロによる演奏でもグールドによって確実に演奏と聴く側の耳が変化させられています。すなわち、彼の演奏は極めて稀な“創造的なもの”なのです。

 通常の演奏家は、コンサートにおける演奏を第一義に考えているはずで、優れた演奏家ほどそうした一回しかない(Einmaligkeit)観客と共有された体験を重視し、録音はその影のようなものとみなしているでしょう。それに背を向けたからこそ、(作曲家の聴かせたかったことの)単なる再現でしかないはずの演奏が創造性を持つようになったように思います。

 こうしたことは、楽譜を知的に分析するというだけで得られるものではありません。およそバッハの演奏においては知的アプローチがなければ箸にも棒にもかかりませんが、感情面でも深いものが要求されます。では、知と情が50%、50%ならいいかというとそれでは足りません。どちらも100%でなくては本当の演奏にならないと思いますが、それは生身の人間には不可能だとしても常識よりずっと高いレヴェルでバランスが取れていることが要求されるのです。こんなことは実際の演奏家が骨身に沁みてわかっているでしょうけど。

 とは言え、そうでもないように思える人もいます。園田高弘のCDが図書館にあったので、借りたことがありますが、エドヴィン・フィッシャーとかの名前を出しながら、わざとグールドには言及せず、でも彼を暗に批判してるのだろうというようなライナーノーツを書いていて、それはそれでいいんですが、ともかく文章として権威ぶっているけれど、思考がゆるいと言うか、知的レヴェルが低いと言うか、旧世代の演奏家の漫筆って感じでした。演奏はつまんないの一言、曲本来の不眠症解消という目的にはぴったりw。

 一時期話題になったホッフスタッターの「ゲーデル・エッシャー・バッハ」もグールドの演奏なくしては生まれなかったでしょうが、ゲーデルやエッシャーについてはいざ知らず、バッハについては何も教えてはくれません。バッハは演奏家が自分の自由に演奏しても、何かわかったようなことを書いても、全然かまわないと思いますが、そうやってバッハをつかまえたと思ったら、見えてきたのは自分のうぬぼれ顔だったっていう、鏡のような人だと思います。

 グールドの演奏については、DVDで聴くのがいいように思います。音楽が目の前で生まれていくダイナミズムを如実に見ることができますし、何より音がすばらしいです。どのように調律しているのか知りませんが、ものすごい合い方をしていて、純正律的な響きがします。それが”情”の部分ですが、そうした音を聴いていると、彼のレコード録音の最初と最後がこの曲だったことに思いが及びます。アリアで始まり、人間のあらゆる感情を遍歴していくような変奏を重ねて、アリアに戻る、この鏡のような世界にグールド自身が閉じ込められていくかのように。

 


 

ヴァイオリン協奏曲第2番

 

 

 

 このヴァイオリン協奏曲第2番ホ長調BWV1042(BWVはバッハ作品目録番号で、モーツァルトのケッヘル番号のようなものです)は、前に採り上げたブランデンブルク協奏曲と同じくケーテンで、ほぼ同じ頃に作曲されたとされています。しかしながら、曲の構造としては他の2曲のヴァイオリン協奏曲(一つは2つのヴァイオリンのためのもの)と同じく、ヴィヴァルディのそれを踏襲したものと言ってよいようです。急―緩―急の3楽章、両端楽章がともに主調でいわゆるリトルネッロ形式を取りながら拍子は2拍子系と3拍子系(この曲の場合は4/4と3/8)と変化がつけられ、中間楽章は同じ調号の平行調(この曲では嬰ハ短調)からなるといったことです。

 つまり協奏曲の先進国であるイタリアで完成された形を忠実になぞっているわけですが、であるにもかかわらず、安易な感じは微塵もなく、生気に満ち満ちていて、私がこれまで聴いたヴァイオリン協奏曲の中で最も好きな曲です。特に第1楽章の短い主題がトゥッティとともに繰り返し現われる(これがリトルネッロ形式ということですが)ところは、生きる喜びそのものと言いたくなるような本能に働きかける力を持っています。もちろんブルッフやプロコフィエフのような難曲はおろか、有名なメンコン、チャイコンよりもずっと簡単で、ちょっと上手な子どもなら弾けるようなものではあるんですが。

 なぜそれほどの魅力があるのかは細かい分析が必要なのでしょうけど、皆川達夫だったと思いますが、昔のFM番組で、ヴィヴァルディの曲でもなんでもバッハが編曲するとまぎれもなくバッハの作品になってしまうと言っていたのを思い出します。それは逆に言えば、いかに堅牢な作品に見えてもほんの少し違うだけでバッハの音楽の魅力はそうではなくなってしまうような微妙なところで成り立っているということじゃないかって思います。