朱華色の糸

 

 

                                  思はじと 言ひてしものを 朱華(はねず)色の

                    移ろひやすき 我が心かも

                                             大伴坂上郎女・万葉集第4巻

 

 


 

    第1回

 

  定義1:愛は部分をもたないものである。なぜならすべてを覆ってしまうから。
 定義2:愛を延長すると想いになる。想いは幅のない長さである。なぜならどんな遠い距離でもひたすら相手に届こうとするから。
 定義3:想いが互いに交わったときに生まれる感情の傾きを恋愛という。

 明日からの授業の準備に疲れてしまい、むずがるような気分で、結愛(ゆあ)はユークリッド原論のパロディを書いていた。図形は苦手な生徒が多くて、わかりやすいように説明しようと工夫しても集中させることがむずかしかった。授業中はメールやゲームをやって、試験前になるとあわてて定理を丸暗記しようとするのを何とかしたいと思って、原論を覗いていたりしているうちに飽きてしまったのだった。その最初の定義にある「点」を「愛」に、「線」を「想い」に、「角」を「恋愛」に変えてみた。説明を加えたりしているとなんだか恋愛の達人のように見えるじゃないとちょっと満足して気分が少し明るくなった。でも、こんなのを自分のブログに書いたりしたら「今、恋愛中なんですか?(笑)」なんてコメントが来ちゃいそうだな。結露した窓に映るにやついたような自分の顔に気づき、唇の端を引き締める。

 一人で新潟から出て来て、慣れない東京の中学で都会生まれの生徒や親たちと悪戦苦闘して、彼氏をつくる暇もないけど、スイーツの食べ歩きには余念がない24歳の女の子、それが『駆け出し教師の甘味処』というブログでの結愛、いや、HN“You're…”だった。最初はみんながやっているし、一人暮らしの隙間を埋めるつもりで始めたのだが、コメントがついたりするとうれしい。うれしいと評判も気になったりする。ついついそれに合わせたような記事を書く。そんなことで出来上がった「自分」だけど、やっぱり本当の自分とはちょっと違った人格のようだった。ブログはふだんの生活では我慢していることを吐き出してしまえるのが楽しい反面、「自分」から離れて言ってみたいことがあってもなかなか言えなくなっているのが歯がゆいような感じでもあった。

 ちょっと息抜きにカモミールティを淹れる。立ち昇る香りに煤けたように疲れた気持ちが和む。……ふと見るとケータイにメールが来ている。フラップを開けてみるとやはり耕一からのメールだった。夜の11時と朝の8時、律儀にメールを送ってくる。結愛はそれに返信をしなくてはいけない。彼はそれを催促するわけではないが、遅れたりすると不機嫌なのがメールの文面からでもなんとなくわかる。それが嫌だから返信する。しかし、すぐに返したりすると喜んでいるのか、また急かすような着信ランプが点滅する。だから、寝る前の1時か2時に送る。そんな時間には彼は起きていない。……送信したときがいちばんほっとするなんて、これで遠距離恋愛と言えるのだろうか。想いを通わせるための手段が心の負担になってしまう。東京と新潟の距離よりも2年間の時間の方が大きいような気がする。

「いろんなことがあったものね」

 ため息を吐くようにそうつぶやいて、フラップを閉じて返信を先延ばしにし、冷めかかったお茶を口にする。テトラバッグを長く入れすぎていた。ブログをやっていることは耕一には言っていない。照れくさくて言いそびれたと思っていたが、今となっては言わなくてよかったような気がする。一時期しきりに誘われたmixiなんかがそうだけど、リアルで付き合っている人とネットの世界でも付き合うという気が知れない。友だちからよくブログを始めたから読んでみてと言われ、訪問してみるけれど当たり障りのないコメントを書くのに苦労する。つまらないと言うわけではない。そんなことを言えば自分のだって、身の回りに起きたことを少し脚色して書いているだけだからつまらない代物だ。そうではなく、その友だちの気になるところ、例えば物事すべてに対してルーズなところがくっきりと浮き彫りになっていて、逆にいいところ、例えば寛容なところがとても平凡に見えてしまったりするからだった。しかし、だんだんそれにも慣れて機械的な付き合いができるようになってきた。

「ホントにいつもよく考えているなあって感心してます。このままだと将来がとっても不安ですね」
「むずかしいことはわかんないけど、そういう言い方はないんじゃないかってあたしも思うよ」
「あたしにもよく似た経験があるの。うんうんってうなずきながら読んじゃった」

 最初と最後しか読んでいないのにしょうがないなと苦笑しながらそんなコメントを書いていた。……誰かが今は文章を書かない方が世のため自分のための人がいっぱい書いている時代だと言っていた。そんな人が書くからよけいにいい本は売れなくなり、つまらない本が売れるようになったりする。賞味期限が半年もないようなものばかりだけれど。そんな言葉を思い出した。

 何をあたしはイライラしているんだろう。何か満たされないものがあるのだろうか。いまだに昼も夜も仕事に追われて余裕なんてないのに。……高校生の頃から使っている蛍光スタンドは、ちらついて目に良くないような気がする。

 平行線の公準。ユークリッドの原論というとこれがいつも問題になる。ふつうは「ある直線とその直線外の点があるとき、その点を通り直線と交わらない直線がただ一つ引くことができる。それが元の直線と平行な直線である」といったように定式化されるもので、結愛も最初これを元にパロディを作ろうとしたけれど、それだと「平行」は「気持ちのすれ違い」とか「決して結ばれない愛」になってしまう。なんかやだ。……ところが調べてみると原論の本文自体はもっと複雑な形をしていたのだった。

「もし一つの直線が2つの直線と交差して、同じ側に作る2つの内角(の和)が2直角より小さければ、その2直線を限りなく延長していくとその内角のある側で交わる」

 これが元の形だそうで、確かにわかりにくい。図を描いてみて結愛もようやくその意味がわかったのだが、2直角なんて出てくるところからすると、どうもこれを考えた人は三角形を思い浮かべていたのだろう。つまり交わるかどうかわからない2本の直線にもう1本直線を引いて、その左右どちらかに三角形ができれば平行ではない、逆に平行なら三角形はできないということなんだろう。そう思い当たって、この公準のパロディができた。

 

 

「2つの想いと交錯する別の1つの想いがあったとき、それが生み出す様々な感情の傾きは元の2つの想いが最終的に愛で結ばれるかどうかを明らかにする」

 いろいろ考えてようやくこの文章にたどりついたのだが、出てきたものは今までの自分なら想像もしなかった奇妙なものだった。今日のあたしはどうかしているのかもしれない。……

 


 

    第2回

 

 学校には学校のにおいと音がある。給食と教科書やプリントの印刷物とグラウンドと何より生徒たちの汗臭さの混じったにおい。廊下を走る音と何を言っているかわからないけれど、どこからか聞こえるはしゃいだような歓声と間延びしたような掛け声とボールの弾む音。……そんなにおいと音が冬の午後に漂って、温かすぎる職員室での作業を一層けだるいものにする。

 放課後には教師は残務整理のようなことしかやっていないと思っている者が少なくない。実際、かつてはそれに近かったらしく、来年定年を迎える学年主任は天井に向かって大あくびをしながらぼやく。

「昔は生徒相手に暗くなるまで野球やサッカーやったもんですよ」

「職員会議とか研修会とかなかったんですか?」

 明日配る授業の教材を昨夜仕上げられなかった結愛は、パソコンから半分だけ目を上げて訊く。

「必要なことはちょこちょこっと校長がしゃべっておしまい。研修たってオン・ザ・ジョブって便利な言葉があるからね」

「生徒の成績管理や生活指導用の個人シートを書いたりとかは?」

 ちょっといたずらっぽい笑みを浮かべながらさらに訊く。自分もこの占部という学年主任もいちばん苦手なものだ。占部は目の前で手をぶんぶん振りながら、

「そんなの作らないよ。こちょこちょ字ばっかり書いてどうするんだよ。そんな時間があったら生徒と遊んでた方がなんぼかいいって」と笑う。

 昔の話なのか、今の話なのかわからなくなるのが占部の癖であり、味でもある。確かにそんな牧歌的な関係の方が正しいのかもしれないと結愛も思う。でも、今はやたら会議や研修がある。それ以上に教師は学年主任に報告するための書類を作成し、学年主任は教頭や校長に報告するための書類を作成し、教頭や校長は教育委員会に報告するための書類を作成し、教育委員会はそのまた上の……という具合になっている。保護者に対しても種々の書類を作らなければいけない。「お知らせ」、「お願い」、「気をつけていただきたいこと」……言葉遣いは慎重に、言い回しは気を配って。8時になっても帰れないことが多い。

 最初の頃に結愛が作った「お知らせ」を占部は跡形もなく添削して突き返しながら、

「あとで不利な証拠にならないようにしなきゃダメなんだ」と言った。

 自嘲気味に吐き捨てるように言ってしまうと思いなおしたように彼女の指導役らしく噛んでふくめるよう言った。

「先生のクラスの親たちは、なんて言うかな、『ハズレ』だと思ってるんですよ。新任で、女性で……だから、ちょっとしたことにも目くじらを立てて文句を言ってくる。そのとっかかりを与えないようにしないと大変ですよ」

 それは新米の結愛もよくわかった。目を伏せてうなずくしかなかった。今はもっとよくわかる。わかりすぎているくらいだ。……当たり前のことだが、誰でも学校に行ったことがある。だから、保護者は学校のことなんか全部わかっているように思っている。そして、何か言いたくなる。まるで料理や掃除や洗濯と同じように。ましてや大学を出たばかりの女の子が教師だなんて、というわけだ。中学3年の時に新任の女性教師が担任と知って、彼女の母親は「受験前にどういうつもりなのかしら」などと他の母親たちと長電話をしていた。……この2年間、あの母親の姿を何度思い浮かべたことだろう。

 自分でも頑張ってきたと思う。それは占部だけじゃなく、教頭も校長も認めてくれているような気がする。初めの頃は結愛に対する言葉遣いや仕草がお嬢さん扱いだったのが、最近は30代の教師と同等になった。しかし、それだけに自分で考えて自分でやり遂げなければならない。授業もそう。生徒の生活指導もそう。人を頼るのは頼りない証拠だ。

 ……小学校に上がるちょっと前に自転車を練習したのを思い出す。コマをはずし、父親が後ろを持ってくれているのも必要ないように感じ、ある時ふっと走り出す。あれが自由と不安って言うんだろうと思う。目の前の世界を覆っていた薄い膜が不意になくなったような感覚。あれは脳が歓喜と危険を同時に感じているから起こるんだろう。学校に来るのが楽しくて、怖い。でも、学校を出るとくたくたになっていて、渋谷から乗る電車に座れたりすると寝過ごして吉祥寺まで行ってしまっていたりする。

「生徒と遊んでるかい?」

 今度は窓の方を見ながら占部が訊く。確かに最初はどっちが先生だかわからないような付き合い方を生徒としていて、「先生って恋愛経験、乏しくない?」なんて言われたこともあった。それが去年の卒業式で女子生徒と抱き合ってわあわあ泣いてから、かえって自分は教師で友だちではないと心の深いところで思い知った。それからは生徒と他愛のない会話をしていてもなんだか個人シートが頭の中にあるような気がしてならない。嫌な大人になった気がする。でも、そんなのは中途半端なだけだと思う。占部はようやく階段の踊り場まで上がってきた結愛に2階まで登ってこいと言っているのだろう。ずっと上の階から。

「遊びたいですね。もうちょっとあったかくなったら」

「先生は寒いのは強いんじゃない?……それに寒くても暑くても年がら年中遊んでるのもいる」

 そう、さっきから他のどの生徒よりも大きくて、太い声が聞こえていた。窓ガラスを通り抜けて土埃が入ってくるような気がする。意外と(とよく言われるのだが)人見知りをする結愛はまだ直接話をしたことがないが、噂は聞いている。校長が着任して半年ほど体育教師だと思っていたとか、近くのコンビニで生徒と早食いをしていたのを見つかったとか。……どうやらその体育会系美術教師はオフサイドを教えようと躍起になっているようだ。

 


 

    第3回

 

 外から帰って来た校長が占部を呼んだ。結愛に片目でニヤッと笑って立って行く。『また愚痴の聞き役だよ』といったころなんだろう。校長は学校行事やPTAの会合、教育委員会との折衝といった表向きの仕事は教頭と話をするが、雑談したり、愚痴ったりしたいときは占部を相手にする。それは組織の中で保身を図りながら昇進することがいちばん大事と考えているのが透けて見える教頭とそんなことはおよそ考えたことのない占部との性格の違い、相性によるものだろう。……この区では正式名称は教頭だが、校内では「副校長」という名称を名乗ることが許されている。教頭はもちろん「副校長」と呼ばれなければご機嫌が悪い。しかし、本人以外はドラマに出てくる「教頭先生」にぴったり当てはまる人だよねと思っている。

 ようやく教材が仕上がって、外がすっかり暗くなってから占部が戻って来た。結愛は黙っている。『どうでした?』と訊けば『別に』という返事が返ってくる。黙っていれば向こうから言う。恋愛は相変わらず下手くそなのにそれ以外の男心はなんだかよくわかるようになった。最近では『結愛ちゃんはおじさんキラーだ』などと言われているらしい。しばらくすると占部が少しぎこちなくからかうように言う。

「算数をますますわかんなくする教材はできた?」

「ええ、できました。さらにわかんなくする教材ですけど」

 国語の教師の占部は何かというと数学を「算数」と言って悪口を言う。最初はけっこうムキになって反論したりしたが、かまってほしいだけだとわかったので受け流すことにしている。ちょっと物足りないような顔をしているのを横目で見る。

「先生が校長の相手をした方がよさそうだな」

「……どうしてですか?」

「ぼくだと議論しちゃうから」

「だから校長先生が頼りにしているんじゃないですか」

 顔の前でまた手をぶんぶん振りながら、

「勘弁してよ。頼りにしてたらもっと給料上げてくれてるよ」

と言う。『管理職なんて生徒を教えるのがイヤなやつがやるもんだ』と飲み会の席で言っていたくせにとおかしくなる。そんな前置きがあって校長との会話を紹介し始めた。……進学実績の話だった。この区の中学校はどこもサイトを開いていて、そこには必ずどんな高校に何人行ったか進学実績が目立つように掲載されている。なぜなら学区は一応定められているが、親の希望により区内のどの中学でも通学することができるからだ。

 そうなると必然的に有名校への進学実績があるところが多くの生徒を集めることができる。事実、近隣の中学との「競争」に負けて生徒数が激減している学校があって、そこの校長は肩身が狭いどころではないそうだ。いや、それどころか、せめて学区内の小学校の卒業生は確保したいとこの時期になると校長は小学校回りをする。今日行った小学校の校長からこう言われたそうだ。

「うちは国立や私立に行く子が多いですからね。……まあ、大勢が判明する2月の中旬にでもおいでください」

 そうなのだ。小学校もある程度学区を離れて選ぶことができて、中学入試の結果が入学する1年生の数を左右する。さすがに義務教育だからサイトには進学実績までは掲載されていないが、親同士の口コミはそれ以上に素早く、かつ強力な影響力を持つ。6年も先のことなのにとは思うが、現実にそうだから仕方ない。人気のある小学校はますます人が集まり、校長の鼻息は荒く、人気のない小学校には生徒もできると言われている教師も集まらない。

「まるでうちに来る子は絞りかすみたいな言い方なんですから」

 校長が占部に何度も愚痴ったのはそういうことだった。それを聞いて、結愛はつくづくここは東京なんだと思った。学区で決まった小学校、中学校に進学し、進学校と言っても県立校ばかりの故郷とは全く違っている。何より親も生徒も意識が違う。まるで市場調査をして製品開発をするような感覚のような。……でも、そんなふうには思っていない。選択の自由、教育の自由化、民間活力の導入、情報公開、説明責任等々のとても反論できそうもない言葉で飾られている。それらは正しいのだろう。生徒と暗くなるまで遊んでいればいい時代でも環境でもない。教師はまるで塾の講師のように「興味を惹く授業」を工夫しなければならない。何より進学実績という「結果」を出さなくてはならない。「絞りかす」のような子でももっと絞るしかない。なぜなら彼らは「商品価値」がなくてはならないから。

「先生は地方のご出身でいらっしゃるから」

 最初そう言われたときには自分の垢抜けない化粧や身なりのことを言われているのかと思ったが、そうではなかった。0歳からの教育なんてことを本気で考えて、驚くほどのカネをつぎ込んでいる人間がかなりいる、そういう街だということを知らないと暗に言われていたのだった。東京が何を望み、何を切り捨てようとする街なのか知らないとあきれられていたのだった。……そうしたことを1年くらいかかってようやく思い知らされ、改めて自分がのんびり屋だと自覚せざるをえなかった。

 


     

    第4回

 

 ひさしぶりに何もすることのない日曜日だった。一日寝ていてもいいのだけれど、昨日の土曜日もずっと部屋に閉じこもって授業の準備をしていたから気晴らしがしたくなった。渋谷や新宿に出かけてもいいし、給料が出たばかりだけど、だからと言って気を緩めて使ってしまい、給料日前にピンチになってしまったことが何回もあったから、誘惑の多いところには行かない方がいいかなと思った。ちなみにこの区に限らず都の学校職員の給料日は毎月15日。一般的に公務員の給料日は民間よりも早くて、就職した時には何か得をしたような気がしたけど、早くもらえば早くなくなるだけってだんだんわかってきた。

 近所を散歩してみよう。結愛が住んでいるワンルームマンションから少し歩くと羽根木公園がある。そこは広いし、起伏もあるから散歩するのにはよかった。広くて平たい、見渡す限りの公園というのはジョギングをしたりするにはいいのかもしれないけれど、向こうから来る人に遠くから見られるのは、なんとなく緊張してしまって歩き方がぎこちなくなってしまう。故郷では会う人はほとんどが知り合いだから会釈する癖がついていて、東京でそんなことをすると変に思われかねない。そんなことをいろいろ考えてしまうからかもしれない。

 広めの石段を登ると紅梅が咲いている。思わずほおっと声が出そうになる。老人が一眼レフで熱心に写真を撮っている。桜の頃よりもずっと冷たく澄みきった青空に濃すぎるくらいのピンクが鮮やかだ。枝の下まで行って見上げる。ふわっと匂いがしたけれど、すぐに遠ざかる。ゆるやかな風の中にほんの一筋か二筋だけ香りの糸が混じっているみたいだと思う。花の色に比べていかにもとりとめがない。昔の人は梅は匂いを楽しむものと考えていたそうだが、感覚が鋭いのか繊細なのか不思議な気がするくらいだ。自分も携帯で撮ってみようと思ったがやめた。この花の姿にふさわしくないような気がする。

 公園の真ん中辺りでは梅まつりをやっていた。いくつかの売店と大道芸のようなパフォーマンスをしている。そっちの方は近寄らないで梅林を眺める。さっきのよりも少し薄めの紅梅と白梅が混じり合いながら並んでいる。いや赤と白なんてそんなに単純に言うことはできない。もっと微妙な色合いがあるんだから。そう考えたのは、たぶん木曜日に美術教室で見たものが影響しているのだろう。……

 

 

 木曜日の放課後、明朝のホームルームで配らなければならない校長からの「お知らせ」を柳井がまだ取りに来ていないから帰ってしまわないうちに美術教室に持って行ってやってくれと占部に言われた。窓からグラウンドを眺めて、

「今日はサッカー部の練習がないみたいだから、あそこだろう。……職員室にいたことがないんだから」

と笑いながら封筒に入った印刷物を渡された。最上階の4階まで上がって行くとしんと静かで、日なたのにおいがする。なんだか生徒がするようにそっとドアを開けて顔をのぞかせる。体育会系美術教師はジーンズにジャージの上衣のような服装で、美術用の大きな机にたくさんの……あれは生徒の描いた絵だろうか? いや、もっと大きいからキャンバス? 違う、織り上げた布のように見える。それらが何枚も重なり合って、陽が当たっているのに両手を突いて目を落としているようだ。結愛が声を掛けようとしたとたん振り向いたが、急に暗い方を見たから誰とはわからない。

「あの、占部先生が柳井先生にこれをって」

「ああ、そこに置いといて」

 まったくぶっきらぼうな人だなと思いながら、離れた教卓の方に歩く。

「ここでいいですか?」

「あ、すみません。てっきり生徒かなって思ったんで。あなたは……えっと」

「由良です」

「ああ、数学の先生、でしたっけ」

 ふだんなら、どうせあたしはスーツを着てても未成年と間違えられますからと心の中ででも毒づきたくなるところだが、なんだか布が気になる。その色合いと手触り(まだ触ってもいないのに)に惹かれている。そういうときに結愛が浮かべる表情は一言で言ってしまうとぼんやりとしたものだった。ふだんはキラキラと輝いている瞳の光が奥に沈んで、曖昧な線が目元から小鼻にかけて漂う。バラ色の唇が開きそうになってつややかな前歯がのぞき、胸郭がわずかに持ち上がってゆらぐ。……一瞥でその様子を見て取った柳井は、

「この布に興味があるんですか?」

と訊いた。由良先生がその質問に答えるでもなく、何か疑問でもあるように小首をかしげるのを見て、さもおかしそうに「こっちにおいで」とも言わず、布の説明を始めた。

「これはね、昔ながらの染料で染めたんですよ。赤いのなら紅花、茜。こっちの黄色のは黄蘖(きはだ)や鬱金(うこん)。この青いのは藍や露草。……」

「露草ですか?」

 引き寄せられるようにそばに近づいて熱心に見ているのがふと恥ずかしくなって、聞き知った草の名前が出たので言葉をはさんだ。

「そうだよ。あの露草。探すのが大変だったんだから。ぼくが小さい頃はあちこちに生えてたんだけどな。……昔の人はそんなありふれた植物を染料に使っていた。いや、可憐な花の色を布にうつして身にまといたかったんじゃないかな」

 野に咲く花を身にまとう。そんなことは考えたこともなかった。鮮やかなプリント地や単純化された刺繍くらいでしか服と花は結びつかない。

「この茶色いのなんかはクヌギやナラの団栗や樹の皮ですよ。こういうのを重ね染めをしたり、灰汁や酢で発色を良くしたりして、化学染料のない時代はいろいろ工夫してたんだな」

 です・ますとだよ・だなが混じっている。きっとこの人は人前でしゃべるのが苦手なタイプなんだろうとそこだけ結愛は冷静に判断した。

「ほら、これは藍と黄蘖で染めた萌葱ですけど、こっちとはなんか違うでしょ?」

 何にも知らない結愛に説明するのが楽しくなったのか、二枚の麻の布を出してきて持たせてくれる。言われてみると色合いも手触りも少し違うようだ。

「ね?……麻糸の下処理の仕方と織り方が違うんですよ。ぼくは油をずっとやってきたんだけど、絵の具にはこういうのがないからね。それがおもしろいなって」

 ふと見ると手が染料だろうかところどころ青くなっている。

「これで……着物でも作るんですか?」

「え?……あはは。いや、そういうことは考えたことがないなあ。確かに最近は染物屋みたいなことばかりしていますけどね。最初はちょっとしたいたずらっていうか、好奇心だったんだけど、なんかはまっちゃって」

「いたずらですか?」

 この人ならさもありなんと思いながら、顔の右側だけで微笑みながら訊く。

「うん。はねず色ってどんなのかなって。……庭梅だとか、蓮の花だとか言われるんだけど、わかんないんだ。でも、言葉がきれいでしょ?」

 赤鉛筆を胸のポケットから出して、くしゃくしゃのメモ用紙に書いて見せた。朱華。結愛の顔を見上げるようにして笑う。

「昔の色って萌葱、夏虫、朽葉、紫苑ってとてもいい名前がついてる。その中でもこの朱華って字が華やかなのに色褪せやすい色ってことで知られてるんだよ。だから、どんな色かはっきりしないのかな。だから、よけいに作ってみたいのかな。……」

 

 その遊びから帰って来た子どもが報告するような言い方を聴いているだけで、時間を忘れてしまいそうになった。なんだかあの15分ほどの会話ばかりあたしは思い出している。この公園が梅で有名だなんて今まで知らなかったのに今日ここに来たのも偶然ではないような気がしている。……このあでやかな紅梅の色に朱華色は近いのだろうか。いや、もしかするとこの白梅のクリーム色やピンク色の混じった、何より光を吸い込んだような色に近いのかもしれない。そんなことを考えながら、何気なく頬を手で挟んでみると思いのほか熱かったのに結愛は戸惑いを感じた。 

 


    

    第5回

 

 結愛は“You're…”のブログをひさしぶりに更新した。

 

  「新宿にて」

 よろっと新宿の南口に行きました

 新宿ってすごく広くて迷子になりそうで、行くたびに緊張です

 

 西口と東口って全然違うし、

 南口は……

 

 まるでニューヨーク!

 

 今日のお目当ては最近評判のクリスピークリーム・ドーナッツです

 

 ウッドのテラスにぽんぽんとお店が並んでて、とっても素敵です

 カップルがいっぱい。ううっ

 

 「あ、あれかな?」って思ったとたん。

 「ええっ。……何?この人だかりはっ?!」

 

 行列はぐるぐるって回ってさらに線路の上の橋の真ん中までつながってます

 やだぁ、平日なのに1時間以上は待たないとダメみたい

 この日は並ぶ元気もなくて、すごすご帰ろうと……

 

 その隣にいい感じのイタリアン・レストランが

 ……しかも5時までケーキセット830円!

 

 ケーキをいくつもおねえさんがプレートに載せて持って来てくれます

 「あの、Zuppa Inglaiseってどれですか?」

 「これです」と三角帽子のかわいいのを指します

 「あれ? スープみたいなのに漬かってるってわけじゃないんですね」

 なーんてイタリア語の知識を見せちゃいました

 

 「ええ、Zuppaってスープって意味なんですけど、これはメレンゲを……」

 おねえさんには申し訳ないんですけど、内容は聞いてなかったです

 彼女のやさしい表情でなんか自己嫌悪になってた心を癒してもらったような

 きっと素敵な彼氏がいるんだろうなあ

 

 「……っていうもので、でもなんでZuppaっていうんでしょうね」と少し笑います  

 「じゃあ、これをください」

 

 メレンゲの下はひんやりとしたカスタードクリームといちじくが層になっていて、とてもジューシーでした

 熱いコーヒーを飲んで、ほっと一息

 このZuppa Inglaiseのことはずっと時間が経っても覚えてるような気がしました

 

 

 なんということもないブログだけれど、書いているうちに結愛は流れてくる涙を何度も拭った。一昨日のことが思い出され、書けなかった気持ちがこみ上げてきた。……新宿には耕一と一緒に行くことになっていた。休暇が取れるから東京に来るはずだったのが前日の朝になって、急な仕事が入ったというメールが来た。

「ごめん。どうしても休めなくなった」

「そう、仕方ないね。仕事頑張って」

「あっさりしてるんだね。もうちょっと残念がってくれるかと思った」

 カチンときた。自分からドタキャンしておいてなんだ。ちょっと親指が震えるのを意識しながら素早く返信する。

「あたしが残念がれば休めるわけ? ウザいだけじゃない」

「ウザいってことはないだろ? 男の仕事には責任があるんだ」

「ああ、そうでしょうね。もういいよ」

 鬱陶しく思われたくないっていう気持ちも汲んでくれないで、自分が非難されていると誤解してしまう、そういう耕一の態度を単なる読み違えと思えず、心の狭さだと感じてしまう。関係がうまくいっていれば「あたしの言葉足らずだったわ」と自分から引くのだけれど。「男の仕事」なんていう見ようによってはかわいげのある言葉も、ふだんよく言っている『こっちに帰って来いよ』という言葉と結びついて、自分の仕事、つまりは結愛自身を軽く見てるんだとしか思えない。……「もういいよ」その言葉の意味はわかっていた。2、3回書いたり、消したりしてから、嫌いな注射をされる時のような顔をして送信ボタンを押した。

 夜の11時に電話が掛かってきた。ほんの5分ほどしゃべったが、あまり内容は覚えていなかった。仕事のことをいろいろと説明し、でも結愛が生返事ばかりするのに苛立ったためかお互いのためにしばらく付き合いを中断しようと彼が威嚇するようなニュアンスで言い出したのをぼんやり聞いていた。その電話を受けるまでに結愛は自分の感情は整理してしまっていたので、最後にこう言った。

「だから、もういいの。終わりでいいじゃない」

「ああ、そうなんだ? うん、そうかもね」

「うん、じゃあね」

 『仕事頑張ってね』それくらいは言うつもりだったのに電話は向こうから切れた。学生時代から……そうか、4年間も自分でも感心するくらい根気よく(結愛は苦笑いのような表情を浮かべた)付き合ってきたのに。これで終わりなんだ。終わりってなんてあっけないんだろう。

 自分の休暇を取り消す気にもなれなくて、予定していた新宿を独りで歩きながら、繰り返し同じことを考えていた。街を見ても、人を見てもまるで少し付き合いのあった友だちが死んだときのような喪失感を覚えた。悲しみが心の中心にどっかり居座る前、世界が明るすぎるように見える空虚な気持ち。やさしくケーキの説明をしてくれるウェイトレスの笑顔に感情の水疱がつぶれそうになってひやりとする。

 一体自分はこれからどうなるんだろう、いやどうしたいのだろう。アップしたブログをぼんやりと眺めながらそんなことを考えていた。それは考えたくない。考えない方がいい。……あの行列を見たときに『彼と一緒なら1時間でも、2時間でも並ぶのにな』って思ったけれど、それは耕一のことではないのはわかっていた。しかし、それはいけないこと。友だちは恋愛相談をすると結愛がモラルを重んじたようなアドヴァイスが多いのをからかう。自分でもそんなにマジメに考えなくていいのかもしれないと思うことがある。もっと要領よく恋愛を楽しめばいいじゃないって。でも、そんなことはあたしにはできそうもない。

 いや、違う。そんなとりとめのないまだはっきりしない感情のことではない。自分が考えるのを避けているのはもっと自分のずるい面なのかもしれない。……ひょっとするとあたしはケンカしなくていいものをケンカにし、単なる冷却期間だったものを完全な終わりにしようとしたのかもしれない。新宿に出かけ、このブログを書いたことによって、本当の自分の気持ちが見えてきたのかもしれない。

 


    

    第6回

 

  ブログをやっているといろいろと「お付き合い」ができる。スイーツ好き同士だったり、新潟出身というつながりもある。もっと単純に若い女の独り暮らしだからとマメというかベタベタというかコメントをくれる男もいる。そういう男たちは頃合いを見計らってか、オフ会をやらないかとメールや管理者しか読めないコメントで誘ってくる。結愛は性格的に臆病な方だから、引いてしまうような対応しかできない。そうなると目に見えて相手の対応は散漫になって、やっぱり会うことだけが目的だったのかと苦笑いしてしまう。

 ただ和菓子の写真がきれいなブログを長くやっているおばさまから誘われた時には気持ちが動いた。文章にしても画像にしてもとてもていねいで上品な感じがして、どんな人だろうと想像をかきたてるものがあった。おばさまと勝手に想像しているが、年齢を公開しているわけではないから自分よりずっと年上の感じだというだけで、30代なのか、40代なのか、もっと上なのかはわからない。誘われて始めて考えたことだが、その「くみ」というHNの人が結婚しているのかどうなのかもわからない。以前から時々オフ会をやっていてその日も3人ほど来るから、よかったら顔を出してと「川本」という名前で予約していると有楽町の居酒屋のURLが書いてあった。

 渋谷から乗り慣れない山手線に乗り換えて、座席がないのに面食らう。ヴァーチャルな世界での「お付き合い」から実際の世界の付き合いに移行するのは始めてというのも今どきっぽくないなあと思いながら、緊張する自分を意識せざるをえなかった。……プリントアウトした地図を何度も確かめながら、それでもどっちのビルに店があるのかなかなかわからなくてうろうろしてしまった。5分ほどの遅刻で気にすることもないくらいだが、気にしてしまうタチだった。地下2階の奥まったところにあった店の従業員に訊いて案内される。

「遅くなってすみません。えっとあの……結愛です」
 ここはHNで呼び合うべきかな、でも自分は言葉にすると本名と同じだからと思いながら、中年の女性が2人、若い女性が1人いるのを見て取った。どっちが「くみ」さんなのか迷う。
「だいじょうぶ。だいじょうぶ。あたしたちも来たばかりだから」
 40前後の下半身にかけてどっしりした体つきのいかにも主婦といったタイプの女性がにこにこしながら言う。
「とりあえずビールでいい?」
 座ると同時に隣の席の自分とあまり変わらない年頃の子が訊く。見るとジョッキが半分くらい空いている。メタルフレームのメガネが涼しげな感じの50近い女性はウーロン茶だかウーロンハイを前に置いて、「“なか”です。よろしく」と見覚えのあるHNを言う。確かガーデニングやインテリア小物などのブログだったようだ。
「あたしは“てぃんかーべる”です。よろしくね」と言ったのは隣の子ではなく、向かい奥にどっしり構えた主婦タイプだった。結愛はそのアンバランスに吹き出しそうになるのを堪えた。喫茶店やペンションの名前ならそうしたズレはありがちなことだし、ケーキとドラ焼きとアイスデザートをおやつに食べたなんて記事を上げていたりするんだから当然なのかもしれない。しかし、そうすると……
「川本未来(みく)、“くみ”です」と隣の子がいたずらっぽい目で笑いながら言う。
「えー?!」
 “てぃんかーべる”で飲み込んだ分まで吐き出すような大声が出て、自分でもびっくりしてしまった。


「あのときはホント驚いたなあ。てっきりおばさまだと思ってたし、HNだって“くみ”だなんて、本名の方が若いなんてないよ」
「前にやってたブログで変なのが絡んできて面倒くさかったからね。でも、あの『えー?!』っていうのは結愛ちゃんらしかったよね」
 2缶目を空けながら未来が言う。
「そうかなあ。おとなしい方だと思ってるんですけど」
「ふだんは知らないけど、ブログだとわりとハジケてるじゃない」
 あっさりそう言われるとそうなのかもしれない。ふだん抑えてる分が出てしまうのか、いつもと違う自分になってみたいと思っているからそうなのか。いや、そもそもそんなにはっきりした自分なんてなくて、立場や役割でいろいろ変わるのかもしれない。……未来が透かし見るような目をしながらにやにや笑っている。
「結愛ちゃんって、わかりやすいなあ。人の言うことをホント素直に聞くよね」
「あ、またズバリ言う。……未来さんに言われると『そうかな、そうだな』って思っちゃうのよ」

 オフ会で会ってから何回目だろう。他の(正真正銘の)おばさまたちとはそれっきりなのに、気が合うのか、タイミングがいいのか、今日は飲みたいなと思っていると未来から連絡があったり、「お元気ですか」といったメールを送ると勤務先の学校のそばに行く用事があるという返事が来たりする。そういうのは人と付き合う上で実際には大きな要因なのかもしれない。例えば3回誘ったとして、先約がある、仕事が忙しい、体の調子が悪いと続けて断られたらもう誘えないだろう。たとえそれが本当だとしても何か会いたくない理由があるんじゃないかと思ってしまう。そこまでいかなくても、すんなりアポが取れないというのはなんとなく声を掛けずらいものだ。今にしてみればそうしたことも耕一とぎくしゃくしてしまった原因の一つのように思える。
 そうした気安さがあったからなのか、自分の部屋に呼んだのだった。未来の提案で食材を持ち寄ることにした。

「これお芋が入っているの? おいしいね」
「いももちっていうの。さつま芋ともち米を撞いただけなんだけど」
 佐渡にいる祖母が作ってくれたもので、昨日着いた実家からの宅配便に入っていたのだった。いつも「こんな『あったか下着』なんか着れるわけないじゃない」とか「歯ブラシくらい東京でも買えるのに」などとぶつぶつ言いながら、でもなつかしい故郷のにおいがするものだった。子どもの時以来のいろんな光景や会話がいももちには結びついていて、それを全く知らない未来の前で食べるのはなんだか照れくさく、少しぶっきらぼうな言い方になる。

「この味と食感の出会いは新鮮ね」
 和菓子のような評価をする。
「これは揚げてあるの?」
 話題を換えるように未来が持ってきた手羽先をつまみながら訊く。
「うん、二度揚げしてあるの」
「そっか、骨があるからね。下味をつけてから揚げるの?」
「ううん。揚げてからタレに入れるんだよ。名古屋の居酒屋さんだと必ずあるの」
「あ、これってそうなんだ。お酒に合うよね」
 未来がずっと名古屋近辺で育ったという話は前に聞いたことがあって、そのときは「中部地方だけど、全然無関係な愛知と新潟」というネタで盛り上がった。
「でも、こればっかりじゃあ太っちゃうよ。こっちの方がいいって」
 結愛が母親が送ってくれた食材で作ったひじきや切り干し大根の煮物に箸を伸ばしながら言う。
「未来さんはだいじょうぶじゃない。あたしの方がやばいよ」
 ここが心配だ、そこがなんとかならないか、どんなことをやってるのといった話が続く。おいしいものの話とダイエットの話は相反するが、どちらも女同士の飲み会で盛り上がる話題だ。……本当はもっと盛り上がるネタはあるのだが、まだそれぞれのちょうどいい酒量になっていないのだろう。
 


    

    第7回

 

  一人暮らしだとどうしても外食やコンビニで買うことが多くなる。自炊の方が安くつくし、栄養のバランスもとりやすいけれど、食材、特に野菜が余って困るという話になった。
「キャベツや白菜だと4分の1でもいつまでもあったりするよね」と結愛が言うと、
「うんうん。でも、あたしはキャベツは1個買うことが多いよ」と未来が意外なことを言う。
「そんなに買ってどうするの?」
「千切りにするの。夜中に」
「え? 朝食べるから?」
「食べるけど、時々無性に切りたくなるの。なんか煮詰まったときとか『あー、もうやだ』ってなると、よしって思って、包丁を研ぐの」
「夜中に?」
「うん、2時頃とかもあるよ。……で、よく切れる包丁でトントントントンって切るの。1個切るとおっきなボウルに山盛りになって、すっきりするの」
「なんかすごいね。ご近所の人が気持ち悪がらないかな」
「ふふ。変な音がするから覗いたら……見たなあって?」
「あはは。そういうのって怖いよ。でも、それがストレスの解消になるんだ?」
「うん、そうかな。ちょっと違うかもしれないけど」
「と言いますと?」
「……後で考えると男と別れようかなって時とかが多いの」
「へえ」
 結愛は男との関係を断ち切るという象徴的行為なんてありがちな解釈はしないけれど、物事にこだわりがなさそうな未来の意外な面を聞いたような気がする。
「それでさっぱりできる?」
「うん。さっぱりできるよ」
 自分は自分から別れを言ったくせにまだ耕一とのことを引きずっている。未練があるとかじゃなくて、傷口がふさがっていないというか、4年間の楽しかったり、悩んだりしたいろんな思い出がふとした拍子に飛び出してくる。春物の服を出せばデートの一場面が鮮やかに蘇る。なんでトマトソースのパスタなんか頼んだんだろうと思いながら、いつまでもフォークを回していた。……

「あたしきのこスパゲティ得意なんだよ」
 突然心の中を見抜かれたようでびっくりした。もの思いにふけると自然と手が動いたりするのがくせなのを前にもからかわれたことがある。照れ隠しするように言う。
「あ、あたしも好き」
「バターとしょうゆで味付けして、柚子胡椒を最後に入れるの」
「それっておいしいかも。柚子の香りがきのこと合って」
「うん、そうなのよ。……結愛ちゃん、男と別れたの?」
 また突然言われてしまった。でも、2回目だったのと不意を突かれたせいで、
「うん、別れちゃった」とすんなり言ってしまえた。
「ふったんでしょ?」
「……そんなことないけど」
「ふうん。ま、すんだことだもんね」
「そう。すんだこと」
「でも、すっきりしてないね」
「そう見える?」
「うん。なんとなくね」
 未来のその言い方は、自分が終わってしまった恋をずるずるひきずっているように見えていることを伝えていた。キャベツの話もだからしてくれたのだろう。だのに未来は知らんぷりして缶ビールをまた開けている。
「あたしってダメね」
 明るく言ったつもりが少し暗くなって、しかも少しタイミングが遅れたのがよけいダメな感じだと思った。
「そんなことないよ。かわいいよ」
「そんなことないよ。未来さんの方がかわいいよ」
「あたしはダメよ」
 少しずつ笑いながら言い合う。
「ダメじゃないって。モテるでしょ?」
「うーん。いろいろ寄って来るのはいるけど、変なのばっか」
「変なの?」
「あたしのこと知らないくせに自分の気持ちばっかりぶつけてくるの」
「ああ、そういうのっているね。やだね」
「やだよ。あたしだっていろいろあるのに」
 それはそう思う。未来は自分なんかよりずっと自分のことを語るけれど、それは結局自分の中に言葉にしきれないものがあるからじゃないかと思う。それに比べると結愛は自分はとても単純でわかりやすい人間だと思うのだが、ふつうの人は逆に思うらしい。特に男どもは……
「あの、ここは『そんなことないだろ』って突っ込むところなんですけど」
「あ、そうか。……不器用なもんで」
「結愛ちゃんが『あたしだっていろいろあるのよ』っていうと男子はドキってするだろうね」
「そうかな。じゃあ、ミステリアス系でいってみようかな」
 また、少しお酒がまわったようだ。行動や性格がガラッと変わるわけでもないが、ふだん船を繋ぎとめている錨が水底を離れ、潮が満ちるとともに漂い始める。そんな感覚だ。

 いももちを噛む。佐渡の風景が目に浮かぶ。島の北端には二ツ亀という名前のとおりの形の小さな島があって、砂州でつながっている。潮が満ちると砂州は水面下に没するけれど、砂州の左右に打ち寄せる波は折り目の違う布のように見えるのだった。小学生の頃、海水浴で祖母らと一緒に行った結愛は、自然が作った墳墓のような緑の島を砂で模して作って遊んだ。夜には民宿の窓から見えるイカ釣り船の灯りが水平線の高さを教えてくれた。「佐渡は変わってないんだろうね」母はいももちを食べるたびに同じことを言う。……そんな話をわかりにくいかなと気にしながら未来を相手にしゃべる。だいたいは聞き役が多い結愛なのに思い浮かぶことをそのままに話した。

 黙って聴いていた未来が言う。
「なんか海でも行きたいね」
「うん。行きたいね」
「いいこと思い出して、悪いこと忘れて」
「うんうん。……未来さんも忘れたいことあるの?」
「そりゃあるよ。……でも、男のことじゃないな」
「そうなの?」
「あたしは別れた男は死んだものだって思ってるから」
「死んだもの?」
 また驚かされる。伏せていた目を上げるとにこにこしながらいももちを食べている未来の顔が見える。
「うん、死んだ人って関係ないでしょ? だからそう思うことにしてるの。というか死んでいただくの。頭の中で」
「へえ、そうなんだ」
 やっぱりいろいろあるなと思う。
「でさ、たまに別れた男に会うのよ。けっこう世間って狭いなって思うんだけど、街で見かけるの」
「会っちゃうんだ。どうするの?」
「その時はね、ああ、成仏してないんだって思うことにしてるの」
「あはは、ゾンビが歩いてるんだって?」
「そうそう、もう手を合わせちゃうわよ」
 声を挙げて笑ってしまう。ワンルームマンションなんて名前ばかり、ぺかぺかの壁越しに声や物音が聞こえやすいからふだんは気をつけているのにどうしたことだろう。おかしくて笑いをこらえられない。楽しくて、今起こっているのになつかしいような気もする。きっと夜の海を船が遠く流されていってしまったせいだろう。

 


    

    第8回

 

  それは結愛が教師になって間もない頃だった。3年生の無理数の授業の中で√2は1.4142……と無限に続いて終わりがないという話をしていたら、ある生徒が、
「そんなの知っていて、何か役に立つんですか?」と言われてしまった。少しうろたえながら、
「こういうのが数学らしいかなと思って……」と言うと、さらに、
「数学なんか勉強してなんの役に立つんですか?」と追い討ちをかけられた。この疑問自体はよく言われるものだし、中学・高校で数学の教師をしている者は一度は問い詰められたことがあるだろう。結愛も教師を志した学生の頃から考えてきたことでもあった。しかし、実際に特定の授業の特定の場面で言われるとすんなりと答えることはむずかしかった。その生徒が成績のわりといい方の子だということやまだ初々しい結愛がどう答えるだろうと好奇の目で見ている他の生徒のことを意識するとよけいにぎこちない感じになってしまう。……



 3月になって、美術教室で柳井と話す回数も重ねた頃、独り言のようにそんな話をしたのだった。
「数学の勉強がなんの役に立つのか、か」
「ええ。今でもそう訊かれたらうまく答える自信がないんですけど」
「美術ならなんの役にも立たないって答えればいいから気楽だな」
「そんな……」
「実際そう言ったこともあるけどね。おまえら役にも立たんことをいっぱいやってるくせにうるさいって」
 いかにもおかしそうに声を立てて笑う。陽の光が春めいてきたような感じだ。それはそうかもしれない、生徒は役に立たなくても自分の好きなことはするだろう。テレビを見たり、雑誌を読んだり、友達同士おしゃべりをしたり、他愛もないことをメールしたり、恋をしたり。……
「でも、数学は苦手で嫌いな子が多いんです」
「そうだね。美術みたいに好きなように描いてみろって言うわけにはいかないね」
 あの言葉がショックだったのは、一つは数学に興味を持ってもらおうとした自分の試み自体を否定されたように感じたからだった。『どう甘みをつけてもそれは苦い薬なんだろ? だったらよけいなことはしないで、さっさと済ませてくれ』そんなふうに言われたような気がしたのだ。確かに計算や解法に習熟するという一種の訓練のような要素が数学という科目には多い。『ドリルって頭に叩き込んで穴を開けることだ』占部が言ったことがある。
「上手に描けるようにならなくていいんですか?」
「幸か不幸か美術にはそれだけの授業時間も教師が指導上クリアすべき目標も与えられていないね」
 2週に1回、2時限の美術と週に3回授業をして宿題を出す数学とでは重みが違う。その重さが教師にも生徒にものしかかる。なんだかため息を吐きたくなる。
「せっかくの時間なのに苦痛だけじゃかわいそうで」
「そうだね。だからやりがいもあるんじゃない?」
 そうなのかもしれない。そう言ってもらうだけで違うような気がする。でも、自分はなぜこんな話を柳井にしたのだろう。
「あ、すみません。なんか先生に失礼なことを言ってたような」
「そんなことはないけど。……でも、おもしろいね。由良先生って会話がつながってないようで、つながってるんだね」
「あ、はい。すみません。友だちにも言われるんです。話が見えないって」
 考えたことを全部口に出したりせずに飛び石のように言うから、唐突に聞こえる。どうも内語と発語をちゃんと区別できない子どものようなところがあるのかもしれない。誰にでもそうなるわけではないのだが。
「つながってますか?」
「うん、なんかわかるよ」
 沈黙が降りる。男性と二人きりで教室にいてそうなると、ただでさえ人見知りする結愛は落ち着かなくなりそうなものだが、なぜだか気にならない。わずかに脚をぶらぶらさせながら、床のピータイルが剥がれかけているのを眺めたりしている。ふだんから何を考えているのか、いないのか茫洋としてつかまえどころのない柳井がふと訊く。
「√2に終わりがないって証明むずかしいの?」
「ううん、むずかしくないですよ」
 ぼんやりした気分のまま立ち上がり、黒板に向かって簡単な数式を書き始める。
「もし終わりがあるとしたら、a/bと分数で書けるわけでしょう?」
 なんだか授業をしているみたいだ。美術教室で数学の授業をするなんて。
「ええっと」
「だって、例えば1.2345なら12,345/10,000と書けるわけで」
「ああ、そうか……なるほど」
 素直に聴いてくれるのがなんだかうれしい。わからないところは少し首をかしげて説明を付け足すように促してくれる。しかし、それも最後のところまでだった。
「……ということで、分数で書けるとしたのが間違いなんで、書ききれない、終わりがないってことになるんです」
「ふうん。……そうか背理法ってやつか。それって、どうもだまされたような気になるんだよね」
「そうですね。その気持ちはわかります。前提が間違ってるからその反対のことが証明されたって考えにくいんでしょう」
「嫌いだと仮定すると矛盾が生じるから、好きってことだって言われてもねえ」
 少し困ったような顔になる。あれかこれかのどちらか、中間がないからこそ背理法が使えるので、現実の世界はそうはいかない。いや、数学教師の自分自身がどっちつかずの中途半端だらけだ。

 


    

    第9回

 

 「ぼくが数学がわかんなくなったのも終わりのない小数だったな」
 また、黙ってしまった結愛の様子を見て柳井が口を開く。
「先生も数学苦手だったんですか?」
 なんとなくうれしいのは変なのかもしれない。
「そりゃそうだよ。……こんな高級なやつじゃないけど」
 黒板の前に来て、結愛が板書したのをノックするように示して、それから0.999999……と書く。
「これがぴったり1なんだっていうのがわかんなかった」
「ああ、それもよくわかります」
 感覚的にしっくり来ないということなんだろう。思わず説明したくなる。
「いや、いいんだ。1/3が0.333333……だからそれを3倍してみたらわかるって言うんだろ?」
 うなずきながら、できのいい生徒を見るような目になっている。
「でもさ、0.333333……で3が続くのと、0.999999……で9が続くのってなんか違うんだよな」
 今度は目が点になっているのかもしれない。そんなふうにコロコロ表情が変わる新米の先生をからかっておもしろがっている男子生徒みたいに言う。
「だって、0.333333……の方は同じ数がなんとなく並んでるだけって感じだけど、0.999999……の方は一生懸命1に近づこうとしてる感じしない?」
「はあ」
「わかんないかな。追いつこうとしてるのにどうしても追いつけない、そんな感じなんですよ。だからもう追いついてる、同じなんだって言われるとつまんない。わかんないか」
 自分で言って笑っている。でも、これと似たような論法を聞いたことがある。『アキレスと亀』だったか。ただ結愛は何が問題なのか自体が理解できなかったような気がする。
「えっと、先生は小数点以下の9を順に書き足していってるみたいに思ってません?」
「ああ、そういえばそんな感じだね」
「でも、最初から9は無限に、どこまでも書いてあるんですよ。だからだんだんに近づくとか追いつくとかはないんじゃないですか?」
「ははあ、なるほど。そうか。……じゃあ、この黒板もこの教室も9でびっしり埋め尽くされてて、それだけじゃ足りなくて世界中が……耳なし芳一状態?」
「そうですね」
 うなずきながら柳井の表情に引き込まれるように笑ってしまう。
「……数学者ってなんかすごいイメージ持ってるんだね」
「そんなの持ってませんよ。それより数字が追いかけたり、周りを埋め尽くしたりなんて考える方がすごいです」
「なんでもヴィジュアルに考えちゃうって思ってるでしょ? まあ、そうなんだけどさ」
「あたし自身がそういうの得意じゃないんですよ。立体図形とかイメージできなくって」
「それで授業だいじょうぶなの?」
「いっぱい予習しますよ。ソフトとか使っていろんな図を描いて、もう大変です」
 自分でも甘えるような感じでしゃべっていると思う。大学時代の友だちが指導教官にそんな態度を見せたりするとひそかに眉を顰めたりする方だったのに。
「授業の準備か。ぼくもそんな時期があったな」
 ここにいてもグラウンドにいても、いつでも好きなことをしているように見える柳井も新米教師の頃からそうだったわけでもないのだろう。でも、職員室にはあまり寄り付かなかったような気がする。……いろいろに想像してしまうけれど、それをストレートに訊くことができない。自分の性格もあるが、柳井が結愛のプロフィールのようなことを訊いて来ないからだ。関心がないのだろうか。遠慮をしているのだろうか。そんなことを気にする自分がおかしいのだろうか。

 何気ないとしか言いようのない会話を繰り返し思い出しながら、バス停に向かって歩く。あまり長い間話をしていてもという考えが働いてちょっとぎこちなく「あ、そろそろあたし」と話を打ち切ってしまった。女子生徒に見られたら噂になるとかそういうわけでもないが、傍若無人に振舞えるタイプでもない。陽が長くなってきたのを実感させる夕焼けを眺めているとずっと以前の高校生の頃の自分も同じような気持ちで歩いていたような気がする。

 

 




         第10回

 

「先生、最近なんかきれい。メイクとか変えたの?」
 放課後に2、3人の女子生徒とおしゃべりしていたら突然そう言われた。
「え? そうかな。別に変えてないけど」
「じゃあ、きっと恋をしてるんだ。そうでしょ?」
 やっぱりそう来るかと思っていたら、もう全員が「ホント? マジ?」とか「相手の人、誰?」とかキャーキャー騒ぎ出す。中学生くらいの女の子ってしょうがないなとも、自分だって恋愛を本当の意味では知らないのに関心だけは旺盛な時期があったなとも思う。
「あのね。先生がそう見えるっていうのはさ、紗莉(さり)ちゃんが恋してるからじゃないの?」
 授業中は名字+さん付けで呼ぶけれど、そうでないときは女子は下の名前+ちゃん付けで呼ぶことが多い。それがいい面も悪い面もあるのはわかっているが、彼女たちが話しやすいのは確かのようで、それが生徒を知る上で大事なんだと思っている。
「えー、違うよ。ないない」
「あるよー。この間コクられたんじゃないの?」
「ないって」
 また、大騒ぎになる。誰が恋してるかは恋してる人間がいちばんよくわかる。それはお互い様。話をすり替えて悪いような気もするけど、それも恋愛術の一つなの。



「でも、先生この頃よく美術室にいるね」
 ふだん物静かな蒔貴(まき)がぽつりと言う。美術室に出入りする時間帯も訪れる間隔も目立たないように気を配っていたはずなのにと焦ってしまう。好奇心のカタマリのような生徒や教師のアンテナから逃れることは不可能なんだろうか。しかし、それ以上に気になるのはすぐにでも飛びつきそうな発言なのに他の生徒たちの反応が微妙というか鈍い。蒔貴の声が低かったせいなのか、意味合いがわからなかったせいなのか、いやそんなことはないはずだ。なんだろう、まるでそのことに触れるのを避けているようにさえ思える。……



 それはそれですんだのだけれど、結愛の心には引っ掛かりがずっと残った。バスで渋谷に出て、電車に乗ってからもあれこれ考えたけれど、わからない。ただ他の子も結愛が美術室にいる柳井と親しくしていることを知っていたのはどうも間違いないようだ。すると紗莉はカマを掛けたということなんだろうか。見下ろすようなつもりでおしゃべりに付き合っていたはずなのに、逆に自分がおもしろがられていたのか。そんなネガティヴな思考にずぶずぶと陥ってしまいそうになる。
 こういうときは誰かに話してしまうか、おいしいものを食べるかして発散するのがいい。でも、いちばん話をしたい柳井にはいちばん話せない。生徒の間で噂になってるみたいよなんて何度生まれ変わっても自分には言えそうもない。じゃあ、未来か。彼女なら明るくからかって、笑い飛ばしてくれるような気がする。少し考えてから『お元気ですか?』という件名のメールをつり革にぶら下がりながら打つ。
 友だちには結愛のメールはまるで手紙みたいだと言われていて、自分でも文章が硬いなと思う。今何してる? 今どこ? 起きた。疲れた。最低。そんなことを彼氏や友人にメールするのは抵抗がある。だらだらと他人とつながったって孤独感が募るだけじゃないのか。どこかでそう考えている自分がいる。
「結愛は俺の中に踏み込んで来てくれない」
 耕一に言われたことがある。硬い表情でうつむいてしまったけれど、今になって考えれば腕にしがみついて「ズカズカ」とでも言えばよかったのだろう。可愛げがないのか、媚びないのか、あたしはあたしと開き直れない性格と根は同じような気がする。あたしはあたし。この東京でどれだけたくさんの人がため息とともにそうつぶやいているんだろう。仕方ないよ。



 携帯を開いたり閉じたりしているうちに高校以来の友人でこっちにいるが、めったに連絡しないもものことを思い出した。彼女は良かれ悪しかれ男に媚びるタイプで、彼氏を取ったの取らないのといった話はよく耳にした。疎遠になっていたのも、今、連絡しようと思ったのもそれが理由だった。時には器用になりたい。……未来へのメールを少し変え、「新潟が政令指定都市になるなんて信じられないよね」といった言葉を付け加えて送った。

 



 もう東松原に着いてしまった。未来からも、ももからも返事はまだ来ない。駅から細い商店街を歩いて行くと食品スーパーがあって、そこでその日の夕食の材料を買うのが日課だ。中に入っていろいろ見て歩くけれど、目に入って来ない。お腹が空いていない訳ではなく、料理をするのが気晴らしにはならず、わずらわしいだけのように感じるのだった。父親が晩ご飯を食べない夜は母が大儀そうにしていたが、今の自分はあんな顔をしているのかもしれない。冷蔵ケースの前を歩くと体が冷えてきそうだ。外食は苦手で、ラーメン屋や牛丼屋さえも入ったことは少ない。
 四角い一人用のチーズケーキに載ったレモンピールがおいしそうに見える。そうか、別にご飯を作らなくても代わりに甘いものとかおつまみで、お酒を飲んじゃえと思いついた。いつもいつもそんなことをしてたら栄養バランスが崩れるし、それ以上にだらしない感じだけど、たまにはいいじゃない。ぱあっといきましょ、独りだけど。
 クラッカーにオリーヴにヤギの乳のチーズ。リンツのビターオレンジ・チョコ。乾しいちじくにフォションのアールグレイ・アイス。でも、コンビニのもっと安くて、ヴォリュームがあって、ジャンクで、どっぷり浸かってしまえる甘いものもほしいような気がしてきた。盛り上がっているのか、やけっぱちになっているのか自分でもよくわからない。ただ自分の部屋に帰って、蛍光灯が点くまでの時間が嫌だっただけかもしれないが。

 


 

    第11回

 

 シャワーを浴びてさっぱりしてから、ピーチジョンのピンクと黒のキャミソールを着る。ぱあっといきましょ、男に見せるわけじゃないけど。

 携帯がコタツの上で震える。このヴァイブレーションの音を口真似するのが得意な子がいて、飲み会でやったらみんな一瞬自分の携帯の在り処を探ったものだ。カラオケボックスのインターフォンのプルルって音の真似も得意で、座ったまま「1時間延長ね」って言ったら、「もう終電だから帰ろうよ」と応えた子がいた。……ぶるぶるなんて言いながらフラップを開ける。未来からのメールだ。

『元気してた? ここんとこ仕事が山のようにあって大変。ヒマになったらまた飲もうね。お互いガンバロー、おー』

 ちょっと画面を見つめたまま立っている。濡れたバスタオルが重い。気を取り直してレジ袋の中のものをコタツの上に並べていく。冷蔵庫から梅酒ソーダと缶チューハイを持って来る。さて、食べようかしらと思ったけど、面倒がらずにグラスに氷を入れ、お皿とバターナイフとフォークを持って来ることにした。独りだから、誰も見ていないから缶のまま、スーパーのトレイのままなんてだらしくなくて、きれいじゃない。ううん、それ以上に飲めば飲むほど食べれば食べるほど、さみしくなって、みじめな気分になるだけじゃないのって思う。アルミとプラスティックは心を包むのにふさわしくない。ガラスと陶器は飲食物に表情を与えてくれる。乾杯。いただきます。

 テレビでも見ようかと思ってスイッチを入れたとたん下品な芸人が見え、わざとらしい笑いが響く。生徒の間で人気があるヴァラエティ番組だとわかったが、その向こうで視聴者も出演者も蔑んでいる得意げな顔の制作者が見えそうで消した。モノを作るってそんなことじゃない。じゃあ、どんなもの? ええっと、これがいいわ。東京事変のDVDをかける。

 梅酒を飲みながらクラッカーにチーズを塗り、スライスしたオリーヴを載せて食べる。なんだろう。椎名林檎の歌を聴くとせつなくなる。周りの世界に苛立って、自分に苛立って、それが「現実を嗤う」ってことなんだろう。「現実」って言葉が頭に浮かぶとやっぱりみじめな気分になる。「現実をちゃんと見つめなきゃダメよ」って生徒に言ってるくせに。言われた生徒はみじめな表情を浮かべる。今のあたしと同じように。成績のこと、生活態度のこと、将来のこと、そんなことを言われてみじめな気分にならない方がおかしい。「若いから未来がある」って言われるけど、それはダメな自分に毎日、ことあるごとに向き合わされるってことなんだ。……なんでキャミソールの上からでもお肉がつかめちゃうわけ? 缶チューハイをもう一杯。いいのよ、カロリーカットだから。チーズケーキをプロセスチーズのように薄く切って口に運ぶ。ぱあっといきましょ。理由もなく悲しい夜は。

 

 あたしに足りないものはなんだろう。恋かな男かな。ちょっと違うのよね。恋してたって相手が半分しか見えてないことがある。男がいたって苛立って重荷に感じてることもある。あの人のことがよくわからない。わからないから生徒たちのちょっとした反応まで気になってしまう。全部わかってしまうとかえってつまらないなんて言うけれど、実際、耕一のときは最初ドキドキ、最後うんざりだった。全部わかってしまったからかえって安らげるって人がいいの。飛行機はスピードを上げて離陸し、雲の上に出るとポーンって音がしてシートベルト着用のサインが消える。チューハイは置いてないの? ふう。

 林檎がはにかむ。時々居心地の悪そうな顔をする。才能というカードの裏には孤独って書いてある。あたしなんかが言うのはおこがましいんだけど。でも、いいな。あんなふうにヒマラヤの上を飛ぶ鳥のように孤独になってみたい。こんな中途半端で、コンビニの数ほどもある孤独じゃなく。また携帯が震える。ももからのメールだろう。フラップを開けてディスプレイを見る。『目を疑う』って陳腐な表現がふさわしいことはたまにあるけれど、うれしいことってほとんどない。そのほとんどないはずのことがあった。柳井からのメールでしかも「今週末空いてますか? よかったら一緒に見たい美術展があるんですが」。何回読んでもそれっきりしか書いていない。OKに決まってる。すぐに返信したい。でも、それじゃあタメがない。せめて30分は間をおかないと。……やだもう、予定以上に飲むしかないじゃない。ぱあっとなんて気合はもう必要ない。音量ももうちょっと抑えよう。

 でも、なんだろう。これってデートの誘い? それともタダ券が手に入ったから? はい、1番が正解だと思います。なぜなら筆者は「一緒に見たい」と言っていますから。占部先生、どうですか? そうですね。それに筆者は美術教師ですからタダ券で行くようなことは考えにくいでしょうね。うんうん、うん。……落ち着いて、そんなに浮かれないで。じりじりするような気分でなんとか20分まで我慢して、ゆっくり文面を考えようとしたけれど、あっという間にできてしまった。「ありがとうございます。はい。空いていますのでお供いたします」あのさ、桃太郎じゃないんだからお供いたしますはないんじゃない? じゃあ、ご一緒させてください? なんか三つ指ついたみたいに古風だけど、いいでしょ。まだ23分しか経ってないけど、いいや、送っちゃえ。

 1分も経たないうちに返事が来た。「こちらこそ、ありがとう。いきなり誘ってまずかったかなって思ったんですが、学校で言うのはなんだか照れくさくて」早いなあ。タメないなあ。でも、そういうの好きよ。これはもうデートしか考えられませんよ。筆者の心情がよくわかりますね。でも、いつどこに行くのかしら。気になるな。でも、まだ水曜日なのにそんなせっついたようなこと訊けない。そう、5W1Hなんて美術と数学には関係ないの。英語と国語に任せておけばいい。あ、缶チューハイなくなっちゃった。ワインあったかな。料理酒でもいいくらいだわ。

 ももがおみやげでくれたキィウィワインがあった。見るからに甘そうだから冷蔵庫の奥で熟成されていたもので、明日頭痛に悩まされそうな気がしたが、高揚した気分には勝てず氷をいっぱい入れて飲むことにした。乾杯。あたしたちのようにスイートね。なんか返信したいな。電話かけてくれればいいのに。そうすれば何を着て行こうかなとか他愛のない話ができるのに。4月ってあったかいのか、寒いのか、その日にならないとわかんない。いちばんおしゃれできそうで、いちばん失敗しやすそう。柳井とテレパシーで話してるような気分で、クローゼットをごそごそしたくなってきたら急にピーチジョンが恥ずかしくなった。酔いがずっと忘れていた感覚を呼び覚ましたのだった。

 


 

    第12回

 

 そこは水族館のような美術館だった。どこからともなく射し込む青い光に満たされた空間に四角い絵が浮かび上がっていた。光が微かに揺らぐと絵の印象も違って見える。見る位置でも異なったふうに見える。結愛は展覧会に行ったことがあまりなくて絵をどうやって見ればいいかわからない。自分の好きなように見ればいいということくらいはわかっているけど、ここに並んでいる絵は何が描かれているのかもはっきりしない。ピカソの絵がわからない絵の代表のように言われるけれど、彼の絵はほとんどが人物画で、男か女か子どもか大人かくらいはすぐにわかるから別にむずかしいと思ったことはない。模様のような絵とか、絵の具をぶちまけたような絵とかもタイトルに「三角錐の音楽」とか「微分不能な違和感」とかあればなんとなく納得してしまう。それは同じような形が変化して描いてあるとか、不調和な色がギザギザに重なってるとかいうくらいのことだけれど、それが見つかれば落ち着くわけだから。……ところがここの絵はどれも何かの形はあるけれど、それが何を表わしているのかはっきりしない。ロールシャッハ・テストに近いのかもしれないが、もっといろんなものが描かれているようだし、シンメトリカルでもない。タイトルは「作品XCIX」といったもので取っ掛かりがない。きれいな色とかタッチが温かそうだとかいうまるで生地を見たときの感想のようなところに逃げ込もうと思ったけれど、青い光が邪魔をしてしまう。

 傍らの柳井が解説してくれないかなと思うが、時々独り言のように言うだけだった。「なるほど二重底のスキャンダルってわけか」とか「なぜと考えさせて、素材から目を逸らせばしてやったりなんでしょうね」と謎掛けのようなことを言われても返事のしようがない。いつも履いているジーンズに綿のブルーのジャケット、中にやわらかい糸を編んだ紺のシャツを彼は着ていた。青ばかりだけど、同じじゃない。うん、青にはいろんな青があるんだ。海の青、空の青、水の青、光の青、目の青……でも、青って不思議だ。空が青いわけじゃない。海が青いわけじゃない。そう見えているだけ。青は触れられない色。話し方はやさしくて、いつになくにこやかだけど、あたしがわかっているかどうか気に掛けてくれたりしない。どこか上の空。どこか海の底を見つめているような目。

 もちろんこれは夢だ。ただの夢。最初からわかっていたと思うのは夢から醒めかけているからに他ならない。でも、目を覚ましたくないとむずがるように思っている。そんなことが無駄なのは繰り返されたことなんだけど。体は明るい水面の方へ吸い寄せられるように上がっていくしかないんだけど。どうして気づかなかったんだろう。誰も隠していたわけでもなく、自分が鈍感だっただけなんだ。美術室に入る自分はどんなふうに見えていたのか。恥ずかしい。恥ずかしいようなことはしていないと考えても気持ちは抑えられない。

 楽しい1日だった。最後の5分までは。白いスプリング・コートのひざにコーヒーをほんの1滴落としただけでもう着れなくなるようにみすぼらしく感じてしまう1日。

 

「この絵はここから見るといいですよ」

 すっと絵の前に行って立ち、その場所を譲る。立ち位置と額縁の両端がちょうど30度の三角定規の形になる。確かに雪景色に陽が当たっているのが鮮やかになった気がする。√3の距離がいいんだろうかと思うけれど、そんなことは言わない。

「絵を見る場所って決まっているんですね」

 爪先を少しだけ動かして訊く。

「そんなことはないんだけど、画家によってはそういう人がいるかな。あと絵を備え付ける部屋の関係でそうすることも。ダ・ヴィンチなんかはそうした制約をおもしろがっていたみたいで」

 もたもたした言葉のようで、バラードを聴くような気分になる声と話し方だった。いつまでも聴いていたい終わってほしくない曲。でも、そわそわとして落ち着かない時間。……

 

 要所を押さえた解説を聴きながら作品を見終わって、広い庭園を見渡すカフェでお茶をした。

「こんなあまり人の来ない展覧会に連れて来て申し訳ないな」

「そんなことないです。空いてていいです。いえ、人込みがとても苦手なんです。あたし田舎育ちだから。それに……とっても楽しいです」

「うん、ぼくも混んでる展覧会は苦手なんだ。絵を見ててもなんだか雑踏の向こう側の人としゃべってるような気になっちゃう」

 その言い方につられるように笑う。絵を描く人はそんなふうに見てるんだ。

「絵と会話してるんですよね。画集、複製画だとどんな感じになるんですか?」

 なんだかインタヴュアーみたいだと自分でもおかしくなる。

「見合い写真かな。でも、実物の方がいいところが違うかな」

「オリジナルの方がやっぱりいいですよね」

 少しひやりとしながら会話を途切れさせたくなくて言う。

「うん。原画を見る前に勉強するのにはいいんだけど、一度見ちゃうと複製画は見ないなあ。かえって混乱するから」

「混乱ですか」

「頭というか、目というか、自分がストックしたのと違うものを見せられるからね」

 この人の目の中にはたくさんの絵がストックされているんだ。とても小さな場所にたくさんの名画がひっそりとしまわれた美術館のように。

「ぼくの記憶の方が正確だと言うんじゃなくて、交わした会話が織り込まれてるから」

 そう言い足したけれど、後半は容易に想像できた。その勢いで訊いた。

「朱華色は見つかりました?」

 おや?という目で返事が返ってくる。

「……なかなか簡単にはいかないな。それに見つけたと思ってもすぐに色褪せてしまうかもしれない」

 ちょっと間が空いて結愛はカップの底に残ったコーヒーを見つめていた。気まずくなる少し前に柳井が伝票を持って立ち上がる。レジを済ませてドアの外の春の匂いを想像しながら訊いた。

「先生は展覧会はふだんお一人で行かれるんですか?」

「うん。うちのやつも付き合ってくれないから」

 また誘ってほしくて訊いたことだったのに周りがストロボに照らされたように見えた。

「そうなんですか」

 なぜこういうときに平静に言えたかどうかなんかを気にするんだろう。なぜこの人の手が染料でところどころ青くなっているのをじっと見ていたりするんだろう。駅までの短い道を歩きながら繰り返し考えていた。

 

 

(続く)