明月記の満ち欠け

 

 2008-09-27

 藤原定家の19歳から74歳にわたる日記である「明月記」には身辺の雑事、思うように出世がかなわないことへの不満、火事や強盗などの三面記事的なニュースなどが書き込まれているが、欠落した期間、書かれていない事件も多い。その理由は種々考えられるが、式子内親王の死、承久の変、後鳥羽院の死といった彼の人生と芸術に大きな影響を与えた事件に係る記事がないのは単なる偶然ではないだろう。つまり原本が後世失われたといったことではなく、定家自身が意図的にこれらについて書かなかったか、書いたけれど、自ら捨て去ったと考えるべきだと思う。

 こんなことを言うと国文学者はbibliographyの文脈で批判を行うだろう。彼らは「明月記」をごく単純な意味での日記だと思い込んでいるのだ。しかし、そんなことで定家の何がわかるというのだろう。……まあ、いい。まず仮説を立てよう。

@「明月記」は定家の歌と同様の意味で読者を意識した「作品」である。書いてあることは「事実そのまま」ではなく、彼の意志により編集され、統御されている。

A彼が書かなかったことにも意図があり、それ自体が表現である。「見渡せば花ももみじもなかりけり」の歌が端的に彼の好んだ表現手法を表しているわけで、空白にこそ意味がある。いささか気恥ずかしい言葉だが、「否定美学」が彼の美の神髄と言えるだろう。

 式子内親王の死を例に見ていこう。これも初めにアウトラインを示しておく。建仁元年(1201年)正月25日に彼女は入寂したが、その前の正治2年(1200年)の「明月記」には内親王の元を訪れた記事が多く見える。にもかかわらず、この正月と2月は日記自体がなく、3月以降の分にも内親王関係の記載はない。一周忌の建仁2年正月25日になってやっとわずかな言及がある。……これを「不自然」で作為的だと思わない方がどうかしてるだろうと自分は考える。

 次回はこれをやや細かく見ることにしたい。

 


 

 2008-10-01

正治2年9月から「明月記」を見ていく。
5日には次のような記載がある。
「……大炊殿に参ず。御歌を給はりて之を見る。皆以て神妙なり」

式子内親王のところに行き、歌を見せられての感想。すべて神技絶妙だということだろう。けなすときは懇切丁寧、ほめるときは素っ気ないのはこの人の癖のようだ。

9日には彼女が重い風邪に悩まされていることを聞いたという記載があるが、その後、回復したのか、17日、23日と訪れている。

10月には1日に訪れた際、女房の話として春宮の猶子を預かる話があって、屋敷の修理などいろいろ準備が必要だと聞いている。その後、22日と24日、11月には12日、16日、24日、25日、29日に「大炊殿に参ず」といった簡単な記述がある。内親王がどんな様子で、どんな会話を交わしたか、そもそも呼ばれて行ったのか、定家に何か用があったのか、そうしたことは一切わからない。それは最後まであまり変わらない。御簾の向こうの高貴な女性というイメージが漂っている。後鳥羽院や上司の良経のところにも頻繁に訪れているが、面談の様子が語られているのと対照的だ。

12月5日に次のような記述がある。

「京の使いの便りを聞く。大炊殿の御足、大いに腫れおはしますと云々。驚き少なからず」

定家は洛外の山荘にでもいたのだろう、まずは伝聞で異状が語られる。

7日には内親王の病状への懸念と周りの人々の対応が語られる。

「大炊殿大事におはしますの由、家衡来たりて告ぐ。巳の一点に参入。今日、御灸ありと云々。此の事極めて怖れ有り。折節あさまし。偏へに是れ天魔のなす所なり。此の吉事、定めて遂げられ難し。御所の修理掃除、御悩の間、始むること相応ぜざるか。近代の医家、事においてたのむべからず。雅基偏へに御熱の由を申し、冷し奉る許り。頼基御風脚気の由を申す。而れども用ひられずと云々。午の時許りに御灸を始めらる。但し、更に熱く思し食さずと云々。此の条又恐れ有り。此の御辺、本より御信受無し。惣じて御祈り無し。今日、人々申すに依り、形の如くに御祈り等を行はる」

定家の苛立ちがひしひしと伝わってくるが、一体彼は何に苛立っているのか。最近の医者は役に立たないと言ってるのははっきりしている(頼基は典薬頭だという記述が別の個所にあるので、雅基も同じく「医家」であろう)。周りの人間の対応にも不満があるようだ。しかし、それはそうとして、どうも肝心の内親王に病気を治そうという気がないことに憤懣やる方ないといった気配が最後の方から漂っている。食事も摂らない、平癒祈願もしない、周りに言われてやっても形式的だ。そんなことで治るのか。

内親王は前年の正治元年5月と12月、この年の3月と何度も発熱や腫れ物があった。病気がちの人間が、ましてやほとんど医術も薬もない時代の将来の希望もない女性の考えることは決まっているだろう。彼女が生きること自体に倦んでいるんじゃないかと定家が憶測しても不思議はないだろう。そう考えれば「偏へに是れ天魔のなす所なり」という唐突な言葉の真の意味もわかるようだ。

翌8日、「大炊殿に参ず。御有様大略同じ事と云々」
10日、「大炊殿に参ず。御足只同じ事なりと云々」
13日、「大炊殿に参ず。昨日頼基参ず。但し、申す間、又用ひられずと云々。雅基大針を加へ奉る。今日、別の事無し」治療をむずがりながらも針治療は受け入れたというふうに解しておく。

14日、「大炊殿に参ず。二位に謁談し、良々久しく述懐す。此の御事、猶以て増す。更に以て言ふに足らず」お側に仕える者と昔話をしているとこみ上げるものがあると解するのは深読みか。

15日、18日にも暇を見つけて参上し、19日夜には「大炊殿に参ず。昨今、御有様只同じ事なり。但し、人の気色、頗る宜しきに似たり」、26日、「大炊殿に参ず。御足の事、大略御減(おひき)の由、医家申すと云々。喜悦極まりなし」、28日、「大炊殿に参ず。事の外御減の由、医家申す。承り、悦び極まり無し」とあって、生前の内親王に関する記述は終わる。

これをまとめると次のようになる。9月に3回、10月に2回、11月に5回、12月に8回、定家は式子内親王の元を訪れている。その際に直接言葉を交わしたかどうかははっきりしない。というかあえてぼかしてあるようで、特に病気の件についてはおそらく意図的に伝聞という形で記している。しかも、最後の12/26と12/28の「御減=回復」は医者からの話と明記している。もちろん筆者である定家も、読者である我々もそれが「ぬか喜び」に過ぎないと承知の上で。

ドラマでこういうのはよくあるだろう。家族が病気になる。もうダメかとあきらめていると医者が晴れ晴れとした顔で「患者さんの生命力には感心しますね」と言う。みんな抱き合って笑ったり、泣いたりする。ところが場面が一転して遺影が映る。……

次に彼女についての記述が「明月記」に現れるのは1年以上経った翌々年の正月25日である。

「天陰る。雨降り止む。午の時許りに束帯して大炊御門の旧院に参ず。今日御正日(命日)なり。入道左府経営さると云々。彼の一門の人済々。予、衆に交はらずして、尼に謁す」

雨上がりの雲の下に多くの人が左大臣主宰の盛大な一周忌に集まって来ている。自分はそれを一人離れて、尼となったお側に仕えた者と語り合った。……

定家はこれだけきちんと伏線を張って、あえて空白を作って、語りえない想いを語っているわけで、ごくふつうに読めばこうなるしかないように思う。では、次回は学者たちが定家と式子内親王の関係について、どう解しているか見てみることにしよう。

 


 

  2008-10-11

「明月記」に書かれた(あるいは書かれなかった)定家と式子内親王の関係について、学者その他の人たちの考えを見てみよう。

○ 辻彦三郎「藤原定家明月記の研究」吉川弘文館(1977年)
「明月記」理解の基本文献というべきもので、例の「紅旗征戎非吾事」が後からの書き込みであることを実証するなどの成果がある本。「定家と式子内親王」という節(23ページ〜26ページ)を設けて、二人の関係を論述しているが、まず謡曲の「定家」を紹介し、定家の性格からいって内親王への執着という着想は「いかにも適当している」という。要は「ありそうなこと」という意味だろう。

次に定家が初めて内親王に伺候した治承5年(1181年)正月3日の「三条前斎院に参ず。今日初めて参ず、仰せに依るなり。薫物馨香芬馥たり」という記事について「彼はその場に漂うえもいえぬ薫物の香りをもはや忘れることはできない。二十歳の春の一日であった」といい、また同年9月27日の父俊成に連れられて参上し、「御弾箏の事ありと云々」とあるのを「内親王の弾ずる箏の音に定家は陶酔した」とそれぞれよけいな脚色をつけている。

ところが、肝心の内親王の死に至る明月記の記載には一瞥を与えるのみで、密通があったのかどうかをめぐる江戸時代の黒川道祐「遠碧軒記」や多田義俊の「名賢和歌秘訣」の議論を引用してお茶を濁している。

○ 久保田淳「王朝の歌人9 藤原定家」集英社(1984年)
「恋愛と結婚」と題した節の中で、謡曲の「定家」をマクラにして、初参の折の薫物、御弾箏を挙げるのは辻(1977)と同じである。「定家がおそらく十歳ぐらい年長であったと思われる内親王に憧憬し、それがほとんど恋愛に近い感情にまで高められたことは十分想像できる。けれども、それが現実的行動をともなうことは、まずありえなかったのではないか」(47ページ)と勝手に妄想して、勝手に打ち消している。彼らは謡曲に惑わされているのだろう。

式子内親王の死の前後についても「おそらく定家の精神形成にも無関係ではなく、ましてや歌人としての成長にもそうとう深いところで影響をおよぼしていることはほぼ疑いないこの内親王の死を、彼がどのように受けとめたか、それを直接知ることはできないのである」(137ページ)と言うばかりで、原文とそれが欠けている意味を読み取ろうとしない。

○ 村山修一「藤原定家」吉川弘文館(1962年)
定家の家族や所領地といった一貴族としての側面を詳しく教えてくれるもので、官位を獲得し、栄進するための齷齪もよくわかる。ただそれだけに式子内親王との交渉は記載されていない。つまり二人の関係は、この本の射程である定家の俗世間的な面から外れていると言っていいのだろう。

○ 堀田善衛「定家明月記私抄」新潮社(1986年)
作家が書いたもので、テクストクリティークや書誌学的な厳密さはもとより期待できないが、講談やドラマのようなおもしろやわかりやすさはある。そのヴァレリーやマラルメが出てくる衒学趣味も一定の世代以上の人間には好まれるのかもしれない。しかし、こと式子内親王との関係に関しては辻(1977)のラインを一歩も出ない。すなわち初対面の個所にコメントして「とにかく大変な香りを漂わせてこの皇女は定家を引見しているのである。……ここから定家・式子内親王伝説が出発するのであり、謡曲『定家』をはじめとして、『謡曲拾葉抄』や『渓雲問答』などにスキャンダル風に扱われることになるのである」(50ページ)とし、「ここにすでに失われてしまったに近い、王朝風な『色好み』を想定してみることも、後世の自由である。けれども無理な想定などをしようとすると、この種の書き物は限りもなく異様なことになりかねない」(51ページ)と「どっちやねん!」と突っ込みたくなるような感じである。

内親王の死に関しても「たとえばその死の前年の正治2年には、ざっと私が勘定をしてみただけでも実に36回も訪問しているのである。つまりは10日に1回ということになり、そのうちには『夜半許リニ退出ス」ということが二度もある。これでは式子内親王定家伝説なるものが生じ、謡曲定家などが出て来ることも無理はないかもしれない」(153ページ)などとマメなことしているわりにワンパターンに堕して、それ以上に「明月記」を読み込もうとはしない。「40歳代以後、人はかくの如くにして友人知己や愛した者を失って行くのである。定家の側において先に彼女を失ってはじめて伝説は成立する」と当たり前のことを書かれても「それだけかいっ!」と言うほかない。

○ 山中智恵子「『明月記』をよむ〜藤原定家の日常」三一書房(1997年)
歌人が書いたもので、「明月記」を年代順に忠実に、というか解釈もなしに抜書きしたような本だが、「はじめに」には自分なりの考えが示されている。「欠巻といえば、『明月記」は、いつも肝心のところが欠けていて、重大危機にあるときの、限りなき悲歎にくれている定家の心境を知ることが出来ないうらみがある」(5ページ)と着眼点はぼくと同じだけど、その先に定家の作為を見ることを躊躇ってしまっている。「建仁元年の三月はじめまで記事を欠くので、この悲痛を量ることが出来ない」と言うばかりである。

一周忌の記事についても内親王の近くに仕えた定家の姉のどちらだろうかといった身元調べのようなことに終始していて、「源家長日記」に見える式子薨去の記事の引用ですませている(98ページ)。そんなことをする暇があるなら、その建仁元年3月に再開された日記が「朝、例の影供の歌、家長の許に送り了んぬ」という記述で始まっていることに目を向けた方がいいだろう。例えばこの歌は49日が終わったことで、内親王を改めて追悼する歌で、家長に送ったのも日付がないのもそれを暗示するためだろうとか。

○ 五味文彦「藤原定家の時代」岩波新書(1991年)
紙背文書などを駆使して時代相を浮かび上がらせようとした歴史書。網野史学的なおもしろさはあるけれど、定家はダシといったところである。「定家と式子内親王の組み合わせは歌人と非婚の皇女という関係だと思う。彼女だって定家より遥かに年上だから、果たして恋愛感情があったかはわかりはしない。ただ憧れはあったと見てもいいんじゃあなのかな」(120ページ)とやはり先行学者の枠組みを出ない。

それに筆者は紙の裏は読んでも、和歌をろくに読んでいないか、読む素養がないようで、若い頃の定家の歌が「達磨歌」と批判されたことを引いて「そうした新風にはきっと東国に生まれた幕府の影響があったんじゃあないかな、と思っているんだ。達磨歌の表現からは、栄西がもたらした禅宗の影響も思い浮かぶが、治承・寿永の内乱といい、また各地に置かれた地頭の存在といい、幕府の影響は何らかの形であったと思う」(151ページ)と無茶苦茶なことを言う。達磨歌についてはまた論じたいが、堀田(1986)はさすがと言うか、当然と言うべきか、「頭も尻尾もない、ダルマの如き歌」(84ページ)と正しく理解している。


さて、こうやって見てくると国文学者を初めとした定家研究のレヴェルが見えてきてしまうだろう。前例踏襲と幼稚な妄想。彼らは結局のところ日本の詩歌史上稀に見る天才詩人二人への敬意も畏怖の念もないのだろう。「弾指すべし」と定家なら言うだろう。内親王がなぜ歌以外の自分を消し去ったのか。定家がなぜ自分と自分を取り巻く様々なものについて驚くほど詳細に語りながら、肝心なことは隠すという、とても手の込んだやり方を取ったのか。そこがイメージできないで彼らの歌を読むのか。イメージを言葉に乗せるのが詩ではないのか。それ以外のどこに詩があるのか。それを探るための参考資料としてはここで挙げたいくつかの本は役に立つところもある。しかし、結局は自分の頭でどこまでイメージできるかしか天才を知る方法はない。

もし、とてもいい映画を観て、一緒に行った人が「ねーねー。結局、あの二人はしょっちゅう会ってたけど、関係あったの?」とか「ヒロインが死ぬ場面がなかったけど、彼はどんなに悲しかったかしら」なんて言ったらどう思うだろうか。そんな人と作品について論じる気になるだろうか。ぼくがこの連載の最初に仮説の@として「明月記」は「作品」だと言ったのはそういう意味だ。ぼくの興味は「明月記」で定家が何を表現しようとしたかにあって、ナマの事実にはない。狭いのかもしれないけれど、謡曲だか歌謡曲だか知らないが、後世の人間が勝手に作ったものを定家になすりつけてごまかしたりしない。

そのことと仮説のAの「否定美学」にも関係するけれど、冷泉家時雨亭文庫の件について書いておく必要があるだろう。上に挙げた人たちが定家の意図に気づかないのは欠けた部分の多くが、しかも自筆本で彼の末裔の冷泉家に伝わっている可能性があって、それが公開されるかもしれないからだろう。その辺の曖昧な気分は例えば五味(1991)が承久の乱との関係で「全貌がまだはっきりしていないんだ。京都の冷泉家時雨亭の『明月記」の公刊が待たれるね……やはり良質の史料があることが分かっていると、それを見ずにやるのは勇気がいるんだ」(198ページ)と述べているところにも表れているだろう。それに久保田(1984)によると建仁元年正月、2月にもわずかな逸文が存在するらしい。しかし、材料が揃うまで発言しないなら学問なんかやめた方がいいし、あるいはもっと簡単に「一生やってろ!」と言った方がいいかもしれない。ぼくは定家が式子内親王の死の様子を書かないことで「作品」はまとめられていると思うし、もしそれが出てきてもまた考え直せばいいだけのことだろう。たくさん間違ったり、失敗したことを経験というのだ。

 


 

 2009-02-13

さて、奇妙奇天烈な物語も短いながら一段落したので、明月記に戻ることにして、次は「新儀非拠達磨歌」を取り上げたい。この意味や歴史的位置づけの通常の理解についてはウィキを見てもらえばいいけれど、「目新しく古今集などの典拠を持たない難解な新興宗教のような歌」という保守派からの批判・風刺の言葉だということだろう。

実際の「新儀非拠達磨歌」と言われる歌を見る前に定家自身の言葉を少し検討しておこう。これは「拾遺愚草員外雑歌」に収められた「堀河題百首」のまえがきにある。いや、正確にはまえがきへの書き足しの中にある。「拾遺愚草」は定家自身が認めた正式の歌集で、その「員外雑歌」だから正編への補遺だが、余りもの余計ものその他雑多の歌という意味合いが含まれている。まずまえがきの全文(旧書体やネットでは使いにくい漢字は適宜改めた)を掲げ、その訳文(のようなもの)を解説を含めて示そう。

養和百首披露之後猶可詠堀河院題之由有厳訓、仍寿永元年又詠此歌、今見之一首無可採用之歌、仍漏弃了、而倩案之、当初詠出此歌時、父母忽落感涙将来可長此道之由被放返抄、隆信朝臣寂連等面々吐賞翫之詞、右大臣殿故有称美御消息、俊恵来拭饗応之涙、時之人望以之為始、依思此往事、更書加此奥、殊有赤面之思。

(養和元年(1181年、定家20歳)にデビュー作の初学百首を披露した翌年の寿永元年に、父俊成からの厳命で100年ほど前の堀河院による四季70題、恋10題、雑20題の合計百首を作ったが、今見ると拾遺愚草に採用できるものは何一つとしてないから捨て置いた。しかし、つらつら思うにこれを詠じた時は父母は感涙にむせんで、将来歌道に長けた者になるだろうと言い、隆信や寂蓮といった歌仲間からも賞賛の声があり、さらには右大臣殿(九条兼実であろう)もお誉めになったと仄聞する。世間の評判もこれをきっかけに高かまった。こうした往時を思い、員外雑歌の最後の方に入れるけれど、本当に赤面の思いがある。)

さて、これを読んでどういう感想を持たれただろうか。どんな想い出があっても正編には入れない厳しさや謙虚さだろうか。しかし、九条兼実といえば鎌倉幕府成立前後における朝廷側の大物政治家であり、かつ文化人としても日記「玉葉」などでも一流だから、長い貴族社会の歴史を見ても比肩する存在はちょっと見当たらないだろう。しかも、父俊成ともども御子左家の後ろ盾で、定家自身が仕えた良経の父である。その彼が誉めてくれても、歌の師でもある俊成が感涙にむせんでも一つとしていいのはないと断言するのは、なんだか手の込んだ自慢話のようでもあり、定家が自尊心が強く嫌味だとよく言われるのも当然だろう。ぼくも定家の性格はとてもほめられたものではないと思うけれど、ここまで自分の作品の位置づけに拘るのは類のない子どもっぽさに起因するものなのかもしれない。

そもそも「拾遺愚草」という名前にしてからがへりくだった表現であるのに、それに入れるのは恥ずかしいものとして別途「員外雑歌」を編むというやり方は、(自分を評価するはずの)後世の目を強烈に意識しているのだろう。あるいは私家集を編むにはこれだけの冷徹な判断が必要だと後世に範を垂れているのかもしれない。

感想はこれくらいにして、肝心の書き足しの原文と訳文(と言うより創作かもしれないけど)を掲げよう。

但件人望僅三四年歟、自文治建久以来称新儀非拠達磨歌、為天下貴賤被悪已欲被弃置、及正治建仁蒙天満天神溟助、応聖主聖朝之勅愛、僅継家跡猶此道事、秘而不浅。

ただ、この人気もわずか3、4年のことだったんだ。文治(元年は1185年、定家24歳)から建久(元年は1190年)にかけては頭の古い奴らから「新儀非拠達磨歌」なんて言われてたから、自分でも「あー、そうだよインド伝来の全く新しい歌さ」って開き直ってガンガンやってたら、もう世の中の連中みんなから嫌われるやら、憎まれるやらで、相手にされなくなったんだ。で、やっと正治(元年は1199年、定家は38歳)から建仁(元年は1201年)になって天神様のご加護や後鳥羽院のご贔屓にあずかって、なんとか歌の家を継ぐことができたし、今も歌の道をやってるってわけ。ずっと深いところに隠しておいたことだけどね。

原文にはいくつかよくわからない点がある。まず20代半ばから「新儀非據達磨歌」と称され、ではなく自ら称したと読めることである。常識で言って自称するとも思えないから、とりあえず二重に訳しておいたが、すっきりしない。

次にそれが原因で40歳近くまで世間からつまはじきにされていたように読めるが、長すぎるのではないか。その間、文治4年(1188年)に成った父俊成が編纂した「千載和歌集」には多くはないが8首入集(鴨長明は1首入って大喜びしている)し、その後も家隆や主人の良経らと何度も様々な趣向で百首歌合などを交わしていたのに。何より建久4年(1193年)には良経が主催し、俊成が判者を務めた質量ともに空前の歌合である「六百番歌合」に百首出詠しているのだから、ある程度の身贔屓があったとしても御子左家の立派な跡継ぎであるのはもちろん、当時の代表的な歌人の一人であるとみなされていただろう。一体どういう事態を指して「被弃置」捨て置かれなどと言うのか。あるいはそれは単に天神(菅原道真)や後鳥羽院の恩を強調するための文飾なのか。

もう一つは小さなことのようだけど、最後の「秘而不浅」の意味するところである。「秘して浅からず」と読むとしても彼は何を秘したのだろうか。その秘したことは浅くないと言うのだが、それはこれを書いたおそらく老境にあった定家のどんな想いを表しているのだろうか。

少し脇道に逸れるけれど、久保田淳の「訳注・藤原定家全歌集下巻」の解説(480ページ)によれば「拾遺愚草」は定家が55歳の建保4年(1216年)にいったん成立した後、その後72歳頃まで増補していったもので、「員外雑歌」の問題の「堀河題百首」は他の歌より後に入れたとする。さっき見たまえがきの「更書加此奥」更にこの奥に書き加えるとあることからそう考えるのは自然なのだが、だからといって20年くらいの幅がそんなに縮まるわけでもないだろう。ぼくは、

 拾遺愚草>員外雑歌中の堀河題百首以外>堀河題百首とまえがき>書き足し

という順で成立したという推測はできないと思う。定家のやることだからどんな順で書いたか知れたものではない。だから、どれも50代半ば以降としかとりあえず言えないだろう。

これらの点をどう理解すればいいのか。この書き足しは全歌集下巻の注では「底本頭書細字」となっているから、上の方にこちょこちょと書いてあるものだろうけど、そうであっても定家のなんらかの思惑があったようにぼくには思える。つまりこれもまた定家の意図が隠された「作品」ではないかと。この仮説が正しいかはどうかは次回以降を読んでもらうほかはないが、直観的には答は明らかだと思っている。すなわち「新儀非拠達磨歌」という言葉は鴨長明の「無名抄」その他の文献にも出て来るにもかかわらず、必ず他を圧してこの文章が引用されるのだから。

 


 

 2009-02-23

前回投げかけたいくつかの謎を明らかにしていくために年表を作ってみた。といっても一から作ったわけではなく、「訳注・藤原定家全歌集下巻」の年譜から問題の時期の前後の定家19歳から42歳(言うまでもなく数え年である)を抜き書きして、少し手を加えただけである。

 

年代・定家の年齢

和歌:拾遺愚草

上1-1500、中1501-2025下2026-2791

員外雑歌2792-3663

員外之外・補遺3664-4608

明月記の記事

(記事が5日以下の月)

その他

1180(治承4年)19歳

 

2月〜7月、9月(日付なし:紅旗征戎吾が事にあらず)〜10月、11月〜12月

8月源頼朝挙兵

1181(養和元年)20歳

初学百首(1-100)

正月(3日:三条前斎院=式子内親王に初参)、3月〜6月、8月〜9月、11月〜12月

 

1182(寿永元年)21歳

堀河題百首(3462-3561)

 欠

 

1183(寿永2年)22歳

 

 欠

 

1184(元暦元年)23歳

 

 欠

 

1185(文治元年)24歳

 

 欠

 

1186(文治2年)25歳

二見浦百首(101-200)

 欠

 

1187(文治3年)26歳

皇后宮大輔百首(201-300)

閑居百首(301-400)

侍従藤原公仲勧進冬十首(2317-2326)

 欠

 

 

1188(文治4年)27歳

千載和歌集に8首入集

(52,90,116,154,169,172,234,3824

 4月(22日:千載和歌集奏覧の記事あり)、9月

 

1189(文治4年)28歳

奉和無動寺法印早率露胆百首(401-500)

重奉和早率百首(501-600)

女御入内御屏風歌(1779-1816)

権大納言良経家雪十首歌(2357-2366)

 欠

 

1190(建久元年)29歳

一字百首(2792-2891)

一句百首(2892-2991)

花月百首(601-700)

慈円、次いで良経と各十首歌の贈答(3896- 3915)

 12月

 

1191(建久2年)30歳

良経に和して「いろは四十七首」を詠む(2992- 3038)

家隆に和して「いろは四十七首」を詠む(3039- 3085)

二十首歌を良経に献ずる(3086- 3105)

良経の「木火土金水…」の十五首歌に和す(3170- 3184)

十題百首(701-800)

 8月、12月〜閏12月

 

1192(建久3年)31歳

良経宅にて「いまこむと」の歌三十三首を詠む(3137- 3169)

 3月(大炊殿=式子内親王記事多し)〜5月

 

1193(建久4年)32歳

慈円と十首歌を贈答(2618- (2627))

六百番歌合百首(801-900)

 

 

1194(建久5年)33歳

 

 12月

 

1195(建久6年)34歳

左大将家当座勒句十首(2211-2220)

大雪にちなみ、慈円と十首を贈答(3916- 3926)

 12月

 

1196(建久7年)35歳

内大臣家韻歌百廿八首和歌(1501-1628)

内大臣家「をみなへし」「ふちはかま」「かたおもひ」「たひのみち」を上に置く二十首(2226- 2235, 2454- 2458, 2556- 2560)

内大臣家「あきはなを…」を上に置く三十一首(3106- 3136)

 

 2月〜7月

 

1197(建久8年)36歳

 

 8月、12月

 

1198(建久9年)37歳

仁和寺宮守覚法親王家五十首(1629- 1678, 3789, 4585- 4592

 正月(1日に日食の記事あり)〜2月、12月

 

1199(正治元年)38歳

左大臣良経家冬十首歌合(2330- 2337, 2450, 2546)

 正月(1日に日食*の記事あり)〜9月、12月

 *事実に反するか

1200(正治2年)39歳

左大臣良経家十題二十番撰歌合(2055, 2056, 2107, 2170, 2200, 2349, 2373, 2382, 2432, 2547)

院初度百首(901-1000)

仙洞十人歌合(2031, 2077, 2104-5, 2143, 2154, 2338, 2355, 2385, 2386)

 正月〜4月、7月〜12月

  

1201(建仁元年)40歳

老若五十首歌合(1679-1728)

千五百番歌合百首(1001-1100)

撰歌合(2155-2164)

院句題五十首(1729-1778)

 3月〜4月、6月〜12月

 式子内親王没(明月記の記事により1/25が命日とされる)

1202(建仁2年)41歳

水無瀬殿恋十五首歌合(2415-2429)

 正月(式子内親王一周忌の記事)〜9月、閏10月〜12月

 

1203(建仁3年)42歳

良経家詩歌合(10首2053-4, 2127-8, 2152-3, 2351-2, 2551-2)

釈阿九十賀屏風歌(1817,3734-44

 正月〜12月

 

 

 和歌の欄には10首以上まとまったもののみを掲げた。それ以下の断片を含めるとごちゃごちゃして定家の作歌活動と後年の「拾遺愚草」の編纂意図がかえって見えにくくなると考えたからである。「明月記」の欄も月単位にまとめ、記事が5つ以下の場合はわかるようにしておいた。

まずこの表から見て取れることは空白の時期である。和歌で言うと21歳(寿永元年)の「堀河題百首」から25歳(文治2年)の「二見浦百首」までであり、その後も33歳、36歳辺りは空白か、あっても少ない。「明月記」はもっと甚だしく、21歳からわずかな記事を挟みながら31歳(建久3年)まで、あるいは37歳(建久9年)までを空白の時期と見ることもできるだろう。

次に感じるのは定家の「拾遺愚草」の編集者としての客観的な視点である。上巻を「初学百首」から始まる百首歌15編に当て、中巻には「内大臣家韻歌百廿八首和歌」(この時期の内大臣は主人の九条良経)から始まる五十首歌や屏風歌17編を収め、下巻には種々の歌合や私詠を季節や恋などの部類立てで766首収録している。そして、本編に入れるのに値しないものは「員外雑歌」とする。それにすら漏れた定家作と伝えられた歌を子孫の冷泉為久(1686-1741)らが「員外之外・補遺」としてまとめたのだが、それは千首近くあり、千載和歌集に既に収録されていたものさえある。

この強い価値判断に基づく構成は日本人にはほとんど見られないような気がする。ぼくは「史記」の本紀、世家、列伝といった整然としたヒラルキー的構成を連想し、和歌にも身分があるのかと感じた。しかし、それはあくまでこの表よりかなり後の定家の価値基準に従った構成であろう。その基準から選別され、残ったものを我々は見ているわけである。

「拾遺愚草」も「明月記」もかつての自分が書いたもののうち、秘すべきとされたものはあっさり捨て去り、残すべきと考えられたものだけが残っているとぼくは思う。いつもどおりの飛躍した仮説を言ってしまうと「明月記」の空白や中断には式子内親王との交流と逝去、「院初度百首」に始まる後鳥羽院の引き立てが関係しているのではないか。

憶測に憶測を重ねても仕方ないのかもしれないが、その時期以前の29歳から31歳頃に「拾遺愚草」に入れなかった歌が多く、その後もいちばん作歌活動が活発になっていいはずの30代が寡作なのは謎と言っていいだろう。作られなかったのか、作ったけれど捨てたのか、もちろん今の時点ではわからないが、その辺に「秘而不浅」と述懐した意味があるのかもしれない。こうした問題意識を持てば「新儀非拠達磨歌」を探す方向もなんとなくわかってきそうである。