文芸4

 

  冬の恋の歌:古今集・新古今集

  Today is a very good day to die.

  定家勅撰集外歌合

  朱華・萌葱・夏虫・朽葉・紫苑

  誤読された万葉集

  万葉集における「竊かに」の研究

  万葉集に夜露死苦

  未来のイヴ

  正岡子規と大喝采的作品

  伊勢物語瞥見:梓弓

  伊勢物語瞥見:東下り

  


 

  冬の恋の歌:古今集

 

 年賀状の季節です。いつもより早めに準備を始めて、今年は和歌でも載せようと思ったんですが、古今和歌集や新古今和歌集などを見ても新年の歌にはあまりいいものがありません。少なくとも私がいいなって思うような、でも有名でもないような歌って見つかりませんでした。それで冬の歌からあちこち見て選びました。でも、年賀状にふさわしい和歌って実はむずかしいような気がしました。新年早々ですからいくらいい歌でも死んだ人を偲ぶような悲しいのはよくないでしょうし、「わが恋は」なんて句で始まる恋の歌も「いい年してどうしたんだ?」なんて思われちゃうでしょう。相手によっては誤解されてしまうかもしれませんw。

 で、せっかくたくさん見たんだから埋もれさせてしまうのはもったいないと。それで冬の部じゃなく恋の部に入れられているもので季節が冬になっているものをいくつか掲げてみます。今回は古今和歌集からです。

 

  淡雪の たまればかてに くだけつつ

  わが物思ひの しげきころかな

           よみ人しらず

 

 ふわっとした雪がたまって自分の重みで砕け散っていく情景と抑えられない物思いを重ねた歌です。映画やドラマで恋に悩むヒロインの場面の次に雪が落ちてぱあっと散る様子を心象風景として入れたような感じですね。

 

  わが屋戸の 菊の垣根に 置く霜の

  消へかへりてぞ 恋しかりける

           紀友則

 

 屋戸(やど)は庭です。これも冬の菊におりた霜が消えかかっているという情景と命も消えそうになって恋しく思っているという感情を重ねています。この二つは「消へかへりてぞ」だけで結び付けられているのではなく、上の句で描写されていることすべてが恋しいという感情と関連してその内容になっていると考えるべきでしょう。

 

  冬枯れの 野辺とわが身を 思ひせば

  もえても春を 待たましものを

           伊勢

 

 この歌には「物思ひけるころ、ものへまかりける道に野火の燃えけるを見てよめる」という詞書がついていて、作者が野火の炎に感じるものがあるような心理状態だったことが明らかにされています。そこからストレートに来るのは、下の句のたとえ身を燃やしても春には草が萌えいずるだろうという期待だったのかもしれません。しかし、「思ひせば……待たましものを」によって、自分が冬枯れの野原だと思ったとしたら春を待っただろうにと現実とは異なる想像であることが明示されているのですから、結局冬枯れの野原ですらないという絶望的な気持ちが詠まれています。それが「物思ひ」の内容であったのでしょう。

 


 

 冬の恋の歌:新古今集

 

 続きは新古今和歌集から選んでみます。

  

 霜の上に 跡踏みつくる 浜千鳥

 ゆくへもなしと 音(ね)をのみぞ鳴く

     藤原興風

 

 霜の上に足跡をつけて歩いている浜の千鳥は飛んでいく方向もわからないと鳴いてばかりいるという意味ですが、「ふみ」がミソで手紙を書いたのに返事がないと泣いてばかりいますという恨む気持ちが隠されています。こういうのも恋愛詩の定型のようなところがあってさほどの歌ではないと思いますが、霜の上の鳥の足跡というイメージが鮮明なので選びました。歌合の際の題詠で作者は実景を見ていませんが、それは詩としての評価とは何の関係もありません。 

 

 霜氷 心も解けぬ 冬の池に

 夜更けてぞ鳴く 鴛(をし)のひと声

     藤原元真

 

 これも鳥が出てきます。おしどりは♂が鴛で♀が鴦、合わせて「えんおう」と読みます(鳳凰も同じ♂♀です)。夫婦仲の良いたとえでよく使われます。凍りついた夜更けの池に鴛が相手を慕って鳴くということで、「心も解けぬ」という句が情景と気持ちがぴったり重なって出色の出来栄えだと思います。私が見ている解釈本ではこの「心」は作者の心としていますが、それでは声を挙げるという行為と少し隙間が空きます。凍ったままでつれない相手の心=池とし、その畔で嘆いている鴛=自分の気持ちと解してはどうでしょうか。この場合でも鴛が鳴きかけている相手は池ではないという反論がありえるのですが。……野暮なことを言っているようですが、時には論理的に押していくことは表現の煮詰まり具合をみるのに必要なことだと思っています。

 

 床の霜 枕の氷 消えわびぬ

 結びも置かぬ 人の契りに

     藤原定家

 

 同じ霜と氷を出しても定家は床と枕と変化させます。これを華麗な表現と見るか、技巧に走りすぎと見るかは人によるでしょう。さらに、「消えわびぬ=涙が凍った霜や氷がなかなか消えない」と「結びも置かぬ=契りをしっかり結んでくれていなかった」と否定の句を重ねていて、漢詩の対句の影響を感じさせます。「結び」は霜や氷ができる意味も掛けているので、涙は凍らなかったということになってしまうのかもしれません。上の句の畳み掛けるような鮮やかな表現に比べると下の句がやや弱いように思う所以です。

 

 忘れずは なれし袖も 凍るらん

 寝ぬ夜の床の 霜のさ筵(むしろ)

     藤原定家

 

 同じく定家の作です。袖の露は涙で、凍って霜になるというのが前提になっていて、それは床でも枕でも筵(畳表、ゴザのようなものです)でも同じです。おかしいような大げさな表現ですが、まあ女の子マンガの主人公の瞳に星が入ったり、バラの花を背負ったりするのと同じ約束事です。「なれし袖」は一緒に寝る時にお互いの袖を敷いて寝る、それが慣れ親しんだということですから、枕を共にしたその枕というのに近いです。ということで、上の句は「あなたが私のことを忘れていないなら、泣いてくれているでしょうから、あのときの袖も凍っているでしょう」という意味です。何だか上から目線ですが、女性の立場での歌ですからw。

 下の句はそんな恨み言を言いながら泣いている自分を筵の霜で表しています。言葉はするするとつながりますが、表現している場面は二つ(一つは願望)あってけっこう複雑です。……この歌は「むしろに寄せる恋」という題に基づくもので、今の言葉で言えば「ベッドの恋」ってテーマです。霜で白く輝くシーツっていうのはきれいなイメージですし、「さむしろ」はたぶん「寒し」に掛けていて、「忘れずは」というはかない希望や「寝ぬ」というあきらめきれない気持ちと照応してとても味わいがあります。テーマを徹底的に使いきろうという定家らしさが表れている歌だと思います。

 

 通ひ来し 宿の道芝 枯れ枯れに

 跡なき霜の むすぼほれつつ

     皇太后宮大夫俊成女

 

 作者の女性は藤原俊成の養女で孫ですから、定家の姪です。でも、定家のほど複雑ではなく、恋人が通って来たときには足跡がついていた道の芝が枯れて、霜の上にも跡がなく溶けずに凍ったままでいるといった内容です。狭衣物語の「尋ぬべき 草の原さへ 霜枯れて 誰に問はまし 道芝の露」を本歌としながら、尋ね探すを通い来ると行動の方向を逆にしているところが工夫です。それと「かれがれ」は「離れ離れ」でもあるので、訪問が絶えてしまったことを示して下の句にうまくつなげています。

 さて、ちょっとだけ歌を取り出してみても古今集はあまり説明をしなくてもすんなりわかる歌が多く、新古今集は予備知識・周辺知識が必要なものが多いという違いはかなりはっきりと表れたように思います。また、新古今集から選んだものにはすべて霜が出てきます。これは狭いパターン化された素材を元に題詠を行ってきたせいだと思います。洗練されていても清新さがないというのは、作品自体がそうなのか、選者の趣味のせいなのかは今は触れないことにしますが、勅撰集のマンネリの打破は南北朝時代を挟んだ玉葉集や風雅集に委ねられることになります。しかし、詩としての燃焼度の高さは新古今集を頂点として和歌から次第に失われていきます。

 


 

  Today is a very good day to die.

 

 ナンシー・ウッドの「今日は死ぬのにもってこいの日」という詩集を読みました。彼女はニューメキシコ州のタオスに永年暮らし、そこのネイティヴ・アメリカンのプエブロ族に魅せられ、彼らの自然観・死生観を代弁するような詩作を行っているようです。例えばこういうものです。

「テレビがわたしたちの想像力を駄目にしてしまったんだとわたしゃ思うよ。

昔は雲を見て、そん中に鷲やライオンを見たもんだ。

今は雲を見ると、見えるのは自動車だ」p.53

「わたしたちにとっては、神は岩の中、木の中、空の中、至るところに遍在した。太陽はわたしたちの父だったし、大地はわたしたちの母、月や星はわたしたちの兄弟姉妹だった」p.58

「太陽は明るく輝いて、木の葉を豪華な色に染めていました。川の流れは、岩の上でゆるやかな踊りを踊り、『別れの歌』を歌っていました。鳥たちもまた、季節の終わりが近づいたことをわたしに告げていました。……死がやって来ると、喜びがあるのです。年老いた者の死とともに、生の新しい円環が始まります」p.66

 こうした工業化・商業主義への批判、キリスト教のような超越的な一神教の否定、自然との共生と輪廻思想が一緒になったような円環的な死生観。それらは我々日本人には馴染み深く、伝統的な宗教観に近いものだと言えるでしょう。この詩集にはとても写実的なネイティヴ・アメリカンの古老たちの肖像画がたくさん収録されているので、ついついネイティヴ・アメリカン自身の考えが詩になったように思ってしまいます。しかし、彼女が30年以上も彼らと交流してきたとは言え、どこか理屈っぽくてやはり西洋人が自分たちの文明への反省や批判を彼らに仮託したものという気配が濃厚です。

 この本には巻末に原文が掲げられていますが、英語としてもとても素朴なものでわかりやすいものです。ただ詩としては残念ながら燃焼度が足りない気がします。まあ、日本の癒し系の本や心が温まる言葉が書かれた本よりはずっとレヴェルは高いと思いますが。その辺のところを本の邦題(ちょっと訳しすぎですが)の元になったいちばん詩としてよくできているものを見てみましょう(p.39)。

 

 Today is a very good day to die.

 Every living thing is in harmony with me.

 Every voice sings a chorus within me.

 All beauty has come to rest in my eyes.

 All bad thoughts have departed from me.

 Today is a very good day to die.

 My land is peaceful around me.

 My fields have been turned for the last time.

 My house is filled with laughter.

 My children have come home.

 Yes, today is a very good day to die.

 

 タイトルがないだけでなく、スタンザ(連)にも分けられていませんが、1行目が3回繰り返されているので2つに分けることができるでしょう。リフレイン以外の行はEveryとAllという近い意味の言葉で始まり、後半はMyで始まっています。行末を見るとdie,me,me,eyes,me, die,me,time,laughter,home,dieとほぼ韻が踏まれていることがわかります。異質の音はlaughterだけで、それだけにはじけるような笑いの感じがよく出ているように思います。

 使われている言葉をピックアップしていくとharmony,chorus,rest,peacefulと穏やかな言葉が多く、死への恐怖や不安は全くありません。8行目(My fields……)だけちょっと意味が取りにくいかもしれませんが、「畑が最後に耕されてしまった」→「もう畑が耕されることはない」ということです。

 この詩にはここを含めて、4回完了形が使われていますが、語り手が息を引き取るような感じを表しているように思います。特に5行目の「すべての悪い考えが私から離れていった」は最後から2行目の「私の子どもたちは家に戻ってきた」と対応し、かつ意味内容としても反対になっています。悪い考えは出て行き、子どもたちが戻って来て家は笑い声に満たされる。だから、と言うよりはやはりYesと言った方がいいでしょう、「今日は死ぬにはとてもいい日だ」ということなのです。

 


 

  定家勅撰集外歌合

 

 「定家百首」(塚本邦雄)という本を読みました。藤原定家の作品3,564首を収めた「拾遺愚草」から100首を選び、著者が自作詩と解説をつけたもので、小倉百人一首の選者と伝えられる定家の一人百首です。定家は新古今和歌集の代表的歌人というだけでなく、「源氏物語」とともにその後の我が国の美意識を長く支配した歌人ですが、現在も含めて称えられるのは特定の歌に集中しているきらいがあり、必ずしも多くの作品が受容されてきたわけでもないようです。しかし、新古今集などの勅撰和歌集に取られなかったいわば忘れられた歌にもとても魅力的な作品が数多くあることをこの本が教えてくれます。そうしたもののうちいくつかを紹介しようと思いますが、ただ並べるだけでは芸がないので、言葉が通じ合うものをペアにしてあたかも歌合のようにしてみました。

 

 花の香の かすめる月に あくがれて

 夢もさだかに 見えぬ頃かな

      院初度百首

 

 あくがれし 雪と月との 色とめて

 梢にかをる 春の山風  

      花月百首

 

 「あくがる」というのは本来あるべきところから離れていくことから、何かに心が奪われるような意味になって、さらに現代語のあこがれるになったようです。いずれにしても現実から離れた美を求めた定家らにふさわしい感情だろうと思います。ただ現代においてはあこがれのヴェクトルは未来に向かっているように思うんですが、定家の時代には過去に向かっているように思います。

 「花の香の」の歌は梅の香りに月が霞んでいるという情景はすぐに浮かびますが、それ以外に何が詠まれているかはっきりしないでしょう。それはそうで、夢も定かに見えないと言われているんですから。でも、そういう時期というと恋を知り始めた頃じゃないでしょうか。もうちょっと踏み込んで、初めての一夜のことを思い出す女性を想像すればこの歌がわかるような気がします。この歌は後鳥羽院に詠進したものでこうした解釈の手がかりは全くありませんし、塚本邦雄もこんなことは言ってなくて、私の想像に過ぎないんですが。まあ、そう言えばこの後の歌もほとんどそうですけど。

 「あくがれし」の歌は雪月花のうち言葉で出てこないのは花(桜)だけですが、詠まれている情景には逆に雪も月もなく、風にゆれる花だけがあります。これだけでも凝った歌だと思いますけど、何に心が奪われているかと言えば脳裏に浮かぶ雪と月の冴え冴えとした白い色です。ではあくがれているのは誰でしょうか。私は色を留めたものと同じく桜の花の精のような気がして、そう思うとこの歌が違って見えるように思います。

 

 わきかぬる 夢のちぎりに 似たるかな

 夕(ゆふべ)の空に まがふかげろふ

      十題百首

 

 くり返し 春のいとゆふ いくよ経て

 同じみどりの 空に見ゆらむ

      六百番歌合

 

 かげろうにははかない命の蜻蛉と書く虫と春の野原に見られる陽炎と書く自然現象と二つの意味があります。いとゆふは糸遊で、同じくこの二つを意味しています。どちらもゆらゆらしたかすかなものだからでしょう。

 「わきかぬる」の歌は十種の虫を詠んだうちの一つで、ベッドでの約束のはかなさを夕暮れに漂うかげろうに喩えたと言ってしまえばそれだけです。でも、「わきかぬる」という言葉のほのかな色っぽさとそれに呼応した「まがふ」(まぎれる)という形容の的確さは巧みです。

 「くり返し」の歌では地平線に見えるはかない陽炎が前世、来世と生まれ変わっても同じ空をながめる自分といった超現実的な感覚を誘っています。この一瞬の感覚を言葉で繋ぎとめた斬新さが800年経っても変わらないことに感動さえ覚えますが、注意したいのは「みどりの空」と呼ばれていることです。古くは青葉のように緑色も青と呼ばれていたのにわざわざ空をみどりと形容したのはなぜでしょうか。紺碧の空という場合の深い緑なんでしょうか、それとも野原の緑が空に反映しているのでしょうか。様々な解釈ができそうですが、私は幾重にも重なった濃緑の波のようなこの世ならぬ雲を想像します。

 

 脱ぎかへて かたみとまらぬ 夏ごろも

 さてしも花の 面影ぞたつ

      院初度百首

 

 あかざりし 霞の衣 たちこめて

 袖の中なる 花の面影

      千五百番歌合

 

 衣を始めとした着る物が出てくる歌はほとんどが恋愛関係のものと言っていいでしょう。それは男女が共に寝るときに衣を重ね、朝別れるときにそれぞれの着物を交換して別れることから「後朝(きぬぎぬ)」という言葉が出来たことからも想像がつくと思います。

 「脱ぎかへて」の歌の「かたみ」は「片身」ならば夏服の片身ごろが止まらない様子ですし、「形見」ならば春の恋の思い出の品を脱いでしまったという感慨だと解されるわけですが、どちらでもいいというか、両方のイメージを持っているように思います。つまりどちらの場合もふと手を止めて「花の面影」すなわちかつての恋人を思い出すことにつながっているわけです。 

 「あかざりし」の歌は夜明け前の霞を衣に喩え、それに包まれた花を袖の中に喩えたというのが表面の意味で、裏には「脱ぎかへて」と同様に袖の中で恥らっていた恋人がイメージされているのでしょう。「あかざりし」と過去形になっているのが淡い思い出だと感じさせます。

 

 世の常の 雲とは見えず 山ざくら

 今朝やむかしの 夢の面影

     部類歌・春

 

 谷深く うぐいすさそふ 春風に

 まづ花の香や 雲に飛ぶらむ

     韻字四季歌

 

 昔の人は火葬の煙が雲になると考えていたそうで、雲という言葉があるととりあえずは亡き人への追憶といったことを念頭に置く必要があります。そうだとすると「世の常の」の歌は山桜の上に漂う雲が他の誰でもないあの人の面影を想い起こさせるといった意味になります。ただ山桜の遠めにかすむ様子が雲のように見えるといった方がいいでしょうし、必ずしも昔の恋人が死んだというふうに考えなくてもいいようです。それよりも「今朝やむかしの夢の」というなだらかな言葉のつながりがまるでため息のように響くのを聴き取りたいように思います。

 「谷深く」の歌は、白楽天の「遊客漸辞庭有草 樵夫独往嶺無花」のうちの韻字すなわち「花」だけを題にした歌ですが、この律詩の一節全体を換骨奪胎した感があります。それだけに死者との関係は希薄のようです。うぐいすが春風を誘い、梅の香が雲に飛ぶという対句でありながら、漢詩とは違ったなめらかさとさわやかさがあって、春をまず嗅覚から感じるという実感のこもったものになっています。さらに、雲が深い谷にかかっていることでとても大きな情景を作り出しています。

 

 立ちのぼる 南の果てに 雲はあれど

 照る日くまなき 頃の虚(おほぞら)

     韻歌百二十八首

 

 大方の 日かげにいとふ みな月の

 空さへをしき とこなつの花

     詠花鳥和歌各十二首

 

 このペアは言葉としての共通性はないんですが、夏の暑さを感じさせる和歌にはちょっとめずらしい内容の歌です。「立ちのぼる」の歌は入道雲が湧き上がる炎天下で日陰もないような様子を歌ったと思われるんですが、それが壮大さや暑さではなく、塚本邦雄が指摘しているように虚をおおぞらと読ませていることで、白々とした虚無というか、真昼にふと感じる暗い倦怠を感じさせます。

 

 

 「大方の」の歌の常夏はしばしば撫子と同じ花とされるのですが、そんな可憐な花ではなく、強い色彩のこの花をイメージした方がいいでしょう。というのもほとんどの人や花が日陰に逃れる旧暦6月の酷暑であるのに、その空さえ常夏の花は愛しく感じているというのが全体の意味だからです。水無月、常夏という言葉が喚起するイメージがこの歌の命なのです。

 

 風の上に 星の光は 冴えながら
 わざとも降らぬ 霰をぞ聞く
     文集百首

 にほひ来る まくらに寒き 梅が香に
 暗き雨夜の 星や出づらむ
     詠百首和歌

 建礼門院右京大夫集について書いたときに述べたことですが、星を詠んだ和歌のほとんどが七夕伝説に基づくもので、実際の星空を感じさせるものは多くありません。その中でこの二つの歌は題詠でありながら、いえ、題詠であるからこそ常套的な表現を脱しています。「風の上に」の歌はこれも白楽天の「南窓背燈座 風霰晴紛紛」によるものです。「燈」を「星」に変え、それを「風の上に」として、霰が風に散って音を立てて落ちてくる様子を描写した下の句までアーチのように覆って、大きな空間を作り出しています。「わざとも」の意味は「とりたてては」とか「ことさらには」といったところのようですが、あまりぴたっと着地した表現ではない気がします。聴覚と視覚のどちらにも重心が傾きすぎないようにしているとも取れるのですが。
 「にほひ来る」の歌は「梅薫夜風」の題によるものです。これも満天の星ではなく、雨雲の合間の星といった趣ですが、「暗き雨夜の星」という表現は現代のどの国の詩人をも感心させるものがあると思います。これがあって「まくらに寒き」という独り寝の様子もリアルなものになるわけです。また、ここでも初句の「にほひ来る」が「出づらむ」と呼応して、題の「風」を浮かび上がらせています。
 この二つの歌に限らず定家の歌を一言で言えば凝った表現でありながらイメージ、もうちょっと正確に言うとイメジェリが鮮明です。イメジェリについては英語版のウィキペディアになかなかいい説明があるのでそれを見ていただければいいんですが、私は詩とはイメジェリを伝えるものだと思っていて、定家があの手この手を使って苦心したことはウィキが引用しているポオなどが悪戦苦闘したものと同じ質のものでしょう。

 しののめの ゆふつけ鳥の 鳴く声に
 はじめて薄き せみの羽衣
     韻歌百二十八首

 疑ひし 心の秋の 風立たば
 ほたる飛びかふ 空に告げこせ
     一句百首

 次は蝉と蛍です。「しののめ」はもちろん明け方のことで、「ゆふつけ鳥」は「木綿付鳥」で鶏のことです。鶏の首に木綿(ゆう:楮の皮を細く裂いて紐状にしたもの)をつけて、都の四境の関で祓えをしたことからそう言うんだそうですが、「夕告鳥」とも書くので「しののめ」との対比でユーモアのような皮肉なような感じが漂います。それはともかくこの歌の眼目は羽化したばかりの蝉の羽の透明感と明け方のすがすがしさの対応関係でしょう。……鶏が鳴きやんだ頃に蝉はようやく鳴き始めるのでしょうか。
 「疑ひし」の歌は「ほたる飛びかふ」と言っていますし、夏二十首のうちの一つですから夏の歌であることは明らかです。そこを「心の秋の風」と言ったところが意表を突いているわけです。しかし、誠実さを疑っている相手には目の前の蛍が飛び交う空に向かって本当のことを言ってくれと言うのですから、なかなか複雑です。もちろんこうした表現も内容も交錯するところがこの歌の興趣なんでしょう。……この歌をパラフレーズするとそのままポップスの歌詞になるような気がします。それだけ凝縮されているとも言えますし、それをほどいてしまうと情緒的に流れてしまうところがあるという意味でも。

 ながめつつ またばと思ふ 雲の色を
 誰夕暮れと 君たのむらむ
     部類歌・恋

 思ひ出づる 心ぞやがて つきはつる
 ちぎりし空の 入相の鐘
     部類歌・恋

 この二つは夕暮れに寄せる恋です。もうそれだけでせつない恋ってことですが、「ながめつつ」の歌は待ちながらも来ないことを予感しています。でも、わかっていても待ってしまうのが恋というもので、徐々に染まりながら暗くなっていく雲の様子が「雲の色」で実に的確に表現されています。「夕」は「言ふ」を掛けていて「誰言う」が「君頼むらむ」と対応していますが、私は「(いつか来ると)あなたをあてにするでしょう」なのか「(今頃)あの人は私をあてにしているだろう」のどちらかなのか迷います。塚本邦雄は後者のように「君」を主語と解しているようで、そうするとこの歌の語り手は「主語=主人公」の恋人を待たせていることになって感情移入しにくい気がします。でも、前者のように「君」を目的語に解し、「らむ」の解釈をあいまいな感じにするのもあまりよくないなって思います。
 「思ひ出づる」の歌の「入相の鐘」は夕方に鳴らす鐘のことですが、「つきはつる」と縁語であるだけでなく、鐘の音ももう聞こえないと絶望感を強調しています。「ちぎりし」の意味も「また会いに来ると約束した」と「ベッドを共にした」の二通りの解釈が可能ですし、どちらの意味もあると考えていいと思いますが、私は後者の意味の方が強いかなって思います。つまり幸せな日々であれば入相の鐘が響く空は恋人が来るのを知らせるものであったのにということです。

 たまの緒よ 絶えなば絶えね ながらへば
 忍ぶることの よわりもぞする
    式子内親王・新古今和歌集

 思ふこと 空しき夢の なか空に
 絶ゆとも絶ゆな つらきたまの緒
    冬日同詠二十首

 最後は小倉百人一首に定家が選んだ式子内親王の歌と合わせました。彼女の歌は想いを一気に吐き出したような忍ぶ恋の名作で、「たまの緒」は命そのものを表しています。定家の作品は本歌取りとも「絶えねば絶えね」に対して「絶ゆとも絶ゆな」と返した彼女の歌への返歌とも解されるもので、たとえつらくとも死んではいけないと詠っているわけですが、「夢のなか空」という表現ぶりや「思ふこと」が「つらき」につながり、貫くの意味も含め「たまの緒」を導き出しているところなどは内親王と比べると技巧的です。しかし、彼女が53歳で亡くなった1201年には定家は40歳で、この歌は50歳を超えてからのものだそうですから「空しき夢」は定家自身のものでもあると考えられるように思います。謡曲「定家」のようにこの二人に恋愛関係があったという説は昔からあって、その真偽は定かではありませんが、この歌については彼が深い感慨をもって詠んだと想像していいでしょう。

 


 

 朱華・萌葱・夏虫・朽葉・紫苑

 

今回連載を始めた「朱華色の糸」という物語のタイトルを決めるまでいろいろ考えたことはちょっと前に書きましたが、その間にたまたま「色の名前で読み解く日本史」(中江克己著)という本を読んでいて、朱華色(はねず)という言葉とそれが出てくる万葉集の大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)の「思はじと 言ひてしものを 朱華色の 移ろひやすき 我が心かも」という歌を見て、「いただき!」って思いました。何より字面がきれいです。この和歌は「あなたのことを忘れようとしているのに、私の心は朱華色のように変わりやすく、思い出してしまう」っていう内容ですが、心の移ろいやすさを詠む場合には、ふつうは心が離れていくのがテーマになっているのに、ここでは逆に忘れられないってなってるところがおもしろいなって思いました。それだけでなく、「思はじと 言ひてしものを」は『過去にあんなつらい想いをしたのに』といった気持ちが思わず出てしまったような感じで、孤独な想いを詠んだ式子内親王を思わせるとてもいいものです。

肝心の朱華色がどんな色かってことですが、紅花で染めた薄い褪せやすい色だということはこの本に書いてあるんですが、庭梅の色だとも蓮の花の色だとも言われてて、どうも本当の色はよくわからないようです。この本にも色見本が出ていますし、ネットでも探すことはできますが、あまりきれいな色ではないですね。私としては、ピンクっぽい色ってだけで十分で、物語としてはわからない方がイメージが固定しなくていいような気がします。

この本を読んでてわかったのは、万葉の時代から江戸時代まで変化はありますが、赤系なら紅花や蘇芳(すおう)や茜、黄系なら黄蘖(きはだ)や鬱金(うこん)や刈安、青系はなら藍や露草、茶系はクヌギやナラなどの団栗や樹皮、紫系なら紫草(むらさき)の根や、藍と紅花のように青系と赤系を重ねて染め、緑系は黄系と青系を重ねるといった具合に少ない種類の草木を元に灰汁(あく、アルカリ性ですね)や酢を使って、実に様々な染色を工夫してきたということです。ラピスラズリ(瑠璃)を使った群青のような顔料もありますが、多くは植物由来の色ですから、サイトで見ることのできる色ほど鮮やかなものではなく、ずっとやさしい色、例えばフォーレの室内楽のようなものだったんじゃないかと思います。で、野に見ることのできる草花の色を着物に映して身にまとおうとしたものだったようです。

色の名前として美しく、歴史も古いものを目についたまま挙げてみようと思います。

「萌葱色」は葱が萌え出る色からつけられた名前でやや黄みのある緑で、萌黄とも書きますが、言葉の由来から言っても萌葱がいいようです。藍と黄蘖あるいは刈安を使ったとのことです。

「夏虫色」は薄緑色ですが、青い蛾の羽の色からつけられたということらしいです。かつてさる物語に「大水青」を登場させた私としても、あのかすかな色合いを平安時代の貴族たちが愛でていたというのは驚きです。

「朽葉色」は鬱金と紅花で染めた赤みのある茶黄色だそうですが、落葉の色が様々であるようにいろんな色を指していたようです。いずれにしても現在の我々が言葉から想像するよりもずっと明るい色調で、例えば錦に喩えられる水面に浮いた落葉をイメージした方がいいような感じです。

「紫苑色」は紫根で染めた薄い紫色ですが、藍と紅花で染めたという説もあるようです。キク科の紫苑は薄紫の小さな花をつける草だそうです。石川淳の名作「紫苑物語」を想い起こす優美な名前で、シオニズムの語源、旧約聖書の地名シオンをも連想させますね。

でも、これらの色は上で述べたようなものですから、絵の具や色鉛筆やコードのようなきちっと固定した色ではなく、ムラも多かったでしょう。それよりは色の名前からイメージするのがいいような気がします。縦糸と横糸の組み合わせで出すことも多く、また裏地の色と合わせての名前(合わせ色目と言います)も多かったようです。朽葉の合わせ色目は表が紅で裏は黄だそうです。

 


 

 誤読された万葉集

 

 私はこれまで藤原定家らの新古今和歌集の歌の実際の解釈を通して、正岡子規とその追随者たち(つまり短歌と俳句の現在においてもなお主流の人たちということですが)の詩poetryに対する見方があまりにも狭量で、文芸literatureの理解という観点からは取るに足りないものだということをしばしば言ってきました。そのため、彼らが写生の手本として賛美してやまない万葉集にもあまり近づかないようにしていました。

 ところが、思いもかけず自分の物語のタイトルに万葉集の和歌に出てくる言葉を使うことになって、なんとなく気になって図書館で手に取ったのが「誤読された万葉集」(古橋信孝著)です。この本にはいきなりこんなことが書いてあります。「万葉集を『日本人の庶民の素朴な生活感情を素直に表現した歌集』ということはできない」……いいですね。これはおもしろい。こうでなくっちゃって思いました。ブログに書いてある日々のつぶやきみたいなことを5・7・5・7・7なんかにした、サラリーマンや主婦の川柳のようなものが詩になるわけはないですから。

 著者が「人麻呂は妻の死に泣いたのか」、「額田王と天武天皇は不倫の関係だったのか」、「山上憶良は家族思いだったか」といった最初の方のいくつかの章で主張しているのは、万葉集の歌を個人の経験による実感を詠んだもの「実話」だと理解するのは間違いだということです。

 柿本人麻呂は詩作という専門技術をもって宮廷に仕えたプロで、

 秋山の 黄葉(もみぢ)を茂み 迷いぬる
 妹(いも)を求めむ 山道(やまぢ)知らずも

といった和歌もその立場での創作だということが説得力をもって解釈されています。人麻呂個人が妻の死を悼んだというより当時の宮廷にこうした悲しくもやさしい歌への需要があったという方が想像力をかきたてられるように私は思います。

 また、天智天皇の妻の額田王の

 あかねさす 紫野行き 標野(しめの)行き 
 野守は見ずや 君が袖振る

と当時皇太子であった天武天皇の答えた歌、

 紫草(むらさき)の にほへる妹を 憎くあらば
 人妻ゆゑに われ恋ひめやも

は秘められた恋の歌などではなく、天智天皇が行った狩の後の宴会でのざれ歌だと言います。前者の解釈は作者たちをロマンスの中の登場人物にしているのに対し、著者の解釈は作者たち自身が自分たちをそんなふうに見立てて楽しんでいたと見るということです。……どちらが大人のものの見方かは明らかでしょう。

 山上憶良の「瓜食めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲はゆ……」で始まる長歌はとても有名ですが、彼が子ども思いのパパだったかどうかとは無関係に、彼は筑前守などを務めた有能な政治家として、平城京などの都市化の進展の中で家族が崩壊していく当時の状況に対し、家族の情愛を主張したものだと著者は言います。……今の首相や閣僚が憶良のような歌を詠んだら「やさしい人だ」と素直に思う人よりも「なんかうさんくさいな」って感じる人の方が多いでしょうね。それは間違っていないんで、だったらなぜ万葉集とかの古典になると素直になるんでしょうか。

 それを著者はこう説明します。「万葉集は素朴な生活感情がうたわれているからいいという前提があるからに違いない。小学生の作文に文学的な価値を見出す立場と共通するものがある。人間は大人になるに従って、しだいに嘘をつくようになったり、自分を飾るようになったり、社会に合わせるなったり、自分を隠すようになったりする、その点で子供は純真である。そういう考え方を万葉集の評価に当てはめているのである」(p.26)……こういう前提や評価はもちろん幼稚で、あっさり言えば文学以前ですが、冒頭に述べたように明治以降の我が国の文芸の主流でもあったんですね。まあ、今でもそんなに状況は変わっていないでしょう。私は最近の小説や詩といったものを読むのはずっと前にやめていますからよく知りませんが。


 さて、和歌には枕詞や序詞があります。学校の古文の時間には枕詞は「たらちねの」が「母」というふうに特定の言葉に掛かる短いもので、特別の意味がないもの、序詞はこれに対し、そのつど作られる長いもので、意味は一応あるけれど、歌の中心的な内容を担っていないものといったふうに習ったように思います。「どっちにしても大して意味がないんだ。だから古文ってのはわけわかんないだよな。勉強するだけ無駄だあ」って思った人も多いでしょう。古文を英語と同じように語彙と文法の組み合わせで解くパズルのように理解しているとつまらないでしょうし、パズルの回答のような現代語訳は不自然で無味乾燥なものです。

 では、枕詞や序詞ってなんなんでしょうか。著者によればそれは物事の背後にある神々や霊に呼びかけるものだということになります。例えば「あかねさす」は「昼」とか「日」とか「紫」に掛かる枕詞ですが、これは夜明けの空の色を指しているのだろうと。……琉球王朝の歌謡に「あけもどろの花」という明け方の太陽を称えた言葉があるそうですが、琉球も大和朝廷も太陽を神として信仰していました。天照大神は天皇の祖先です。「あかねさす」も神である太陽を称える言葉だと理解されるわけです。こうした神々に呼びかけるいわば呪文のようなものだからこそ平安時代には既に意味がよくわからなくなっていたんですね。

 「たらちねの」は「垂乳根の」と書かれるためにおっぱいが垂れた母という意味に理解されたりしますが、「たら」(充足した)「ち」(霊力の)「ね」(根源)と著者は解します。これが正しいかどうかはちょっと判断しかねますが、地母神やグレートマザーという言葉もあるように「母」が生命の根源であり、場合によってはすべてを破壊する怖ろしい神でもあることはいろんな神話を見ればわかるでしょう。

 たらちねの 母にも告らず(のらず) 包めりし

 心はよしゑ 君がまにまに

 という歌は「母にも告げずに隠してた心だけど、もうあなた次第よ」といった意味ですが(教室の現代語訳としてはダメですけどw)、「たらちねの」のイメージを持っていると少女のおののきのような感情が伝わってくるような気がします。

 では、次に序詞を見てみましょう。

 吾妹子(わぎもこ)が 赤裳(あかも)ひづちて 植ゑし田を

 刈りて収めむ 倉無の浜

という歌ではなんと「刈りて収めむ」までがすべて序詞で、「倉」を導くだけのものです。つまりこの歌は(豊前の国の)倉無の浜という内容しかないわけで、ふつうに考えれば内容空虚もいいところです。しかし、この序詞には「私の恋人が赤いスカートをぬらして植えた田」というとても美しいイメージが含まれています。ただ和歌を詠むのは基本的には朝廷の貴族たちだからその恋人が田植えをするはずもなく、イメージに過ぎないと著者は言います。では、なぜそんな虚構を詠んだのかと言えば、旅の途中で立ち寄った倉無の浜の土地の神を称えることが旅の無事安全を祈るために必要だったからだろうと。

 これは神社であげる祝詞(のりと)と同じような機能を持っていると思えばいいのかもしれません(著者はそう言っているわけではありませんが)。祝詞はお経と違って日本語ですから聞いてるとだいたいの意味はわかりますが、その神社の神を称える修飾の多い部分と具体的にお願い事をする部分に分けることができます。前者は定型化していますが、序詞はそれに創意工夫を凝らして文芸的になったものと考えればいいのかもしれません。実際、この歌は虚構を設定し、美しく詠んでいる点で古今集以降の序詞に近づいているようです。

 ここまで紹介してきたことを簡単にまとめると、万葉集は文芸としての虚構性のあるものだということと、当時の人々の自然観・宗教観に立った呪術性を持っているということになるでしょう。後者の面が強く出るのが挽歌です。刑死した有間皇子が詠んだ歌を見てみましょう。大化の改新は古代最大のクーデタと言えると思うんですが、勝者の中が実権を掌握しようとした中大兄皇子(後の天智天皇)側とこれに担がれた孝徳天皇側に分裂します。孝徳天皇の没後、息子の有間皇子が(おそらく中大兄皇子側の陰謀で)謀反の疑いを掛けられ、処刑されます。捕まえられ、護送される途中の和歌山県みなべ町の磐代(いわしろ)で詠んだ次の歌は、旅の歌の形を取りながらも、こうした史実を踏まえるとそれだけでなく死を予感しながら身の潔白を認めてもらうことを願った歌のように見えてきます。

 磐代の 浜松が枝を 引き結び

 真幸く(まさきく)あらば また還り見む

 松の枝を結ぶのは昔の旅は危険で不慮の死も多かったので、自分の魂を結びつけて再び帰れるよう願を掛けているわけです。「真幸くあらば」は旅の歌の定型句だそうで、同様に戻って来られるよう願う言い方です。結びつけた魂は帰路に回収していくのでしょう。それができないで残ってしまうと本人にとっても他の旅人や土地の人にとってもよくないわけです。そこで長忌寸意吉麻呂(ながのいみきおきまろ)が結び松を見て、哀しみ嗚咽しながら詠んだと言われるのが次の歌です。

 磐代の 岸の松が枝 結びけむ

 人は帰りて また見けむかも

 「また見けむ」また見たのだろうかと言っても、もちろん有間皇子はこの松を二度と見ることはできなかったのですが、別の旅人が寄せた歌というスタイルを取っているのでしょう。あるいはこの歌を詠むことで皇子の魂に自分は忘れていないからと呼びかけ、慰めようとしたのでしょう。……皇子の歌とこの歌は、旅の歌という形に留まっているだけに陳腐な言い方ですが、人生は旅だという感慨を深くします。

 家にあれば 笥(け)に盛る飯(いひ)を 草枕

 旅にしあれば 椎の葉に盛る

 この歌の方が有間皇子の歌としては有名かもしれません。「家にいればちゃんとした器に入れるご飯なのに旅行中だから椎の葉っぱなんかに盛らないといけない」という一般的な旅の不便さを詠んだもののように見えます。椎の葉っぱは小さいから自分が食べるために盛るのではなく、神へのお供えだという説がありますが、そうであっても旅の無事を祈るという先の歌と同じ範疇のものになるだけです。そこから先は読む側の主観として死を前にした皇子が何を見て、何を祈ったのかを想像すればいいように思います。

 ただ万葉集の編者はこれらに「有間皇子自ら傷みて松が枝を結ぶ歌二首」という詞書をつけて、挽歌の最初に置き、これに寄せた長忌寸意吉麻呂の歌二首(もう一つは別の作者のようです)と山上憶良の歌を加えて、わざわざ「右の件の歌どもは、柩を挽く時に作る所にあらずといへども、歌の心を准擬す(歌の内容は挽歌に準じる)」という注をつけています。さらにそれでも足りないと言わんばかりに文武天皇が紀伊行幸の際に結び松を訪れ、宮廷歌人の柿本人麻呂に詠ませた歌を載せています(これらは私は優れたものとは思えないので掲げませんが)。

 そうした配慮をしてからやっと天智天皇への挽歌がずらずら並ぶという具合で、露骨な編集意図を感じます。……おそらく後世、藤原氏に追い落とされた菅原道真が祟りをなしたのを怖れ、天神様に祀り上げたのと同様に、国家的な行事であった万葉集の編纂において、無理をしてでも非業の死を遂げた皇子に対して特別の計らいをする必要があったのでしょう。挽歌はただ単に死者を悼む歌ではなく、不慮の死を遂げた魂が祟りをなすことを避け、逆に守護してくれることを祈願するものだったと著者は言います。

 

 

鎮魂ですね (ぽけっと)  

古代から祟りは怖がられていたみたいですもんね。

そんなにコワいなら非道なことしなきゃいいのに、ていつも思ってしまうんですが、あ、逆?鎮魂のノウハウがいっぱいあるからやっちゃうのかな、歌でも効き目あるっていうんですから。

万葉集の歌は虚構を詠んでいる、ということは最古の歌集から既に文学として形を成していたということをこの記事の上で読んでしきりに感心していました。

今回の枕詞の説明や序詞が祝詞、ていうのもとてもおもしろいです。

でもちょっとわからないことがあるんですけどお。

有間皇子の歌も虚構ととらえるのですか?

心情があまりにも伝わってくるように思うのですけど。

それともこのような呪術性に重きを置いていると思われる歌は、虚構を詠むというのとはまた別の次元の作り方をされているということでしょうか。

うまく質問できませんが、つまり下の記事を読むと全ての歌が作り物なのかな、と思えたので。

 

えっとですね (夢のもつれ)  

有間皇子の歌は旅の歌としての形っていうか作法に則って詠んでると思います。ですので、虚構性はなくもないんでしょうが、薄いと思っています。また同様に辞世の歌ととらえるのは字面だけからはちょっと無理だと思いますし、ただの旅の歌と思った方がわずか18歳で刑死した皇子の哀れさが募るようにも思います。

広い意味での呪術性は旅の無事生還を祈願するところにはあるわけで、その無念の魂を人々が慰めようとしたんでしょう。

そんなわけで、私はあまりべたべた皇子に追従する(他のはそんな感じです)ことなく、作法どおりに詠まれた長忌寸意吉麻呂の歌が余韻があっていいなと思うんです。

 

そうかあ (ぽけっと)

有間皇子の運命を知っているから、私なんか心情が出てるように思い込んでしまっているのですね。

作法通りですか、そう思ってもう一度見ると美しい歌ですね。

 

うんうん (夢のもつれ)

その「思い込み」は私も同じです。悲痛な思いを胸に松の枝を見上げたり、ご飯に目を落としている皇子の姿をどうしても思い浮かべてしまいますね。……若くして非業の最期を遂げた何人かの歴史上の人物にはそういう「物語」があっていいんだろうと思います。

 


 

 万葉集における「竊かに」の研究

 

 「竊かに」は「ひそかに」と読むんですが、別にマジメな研究でもなんでもありませんw。万葉集の恋愛を詠んだ「相聞(相問)」をぽつぽつ読んでて、「竊かに」の解説に「万葉集の題詞・左注(要は歌の前後にある説明書きです)にこの字を用いている場合、必ず男女の秘事に関する記述が見られる」とあったのに興味を惹かれたんですね。そのいくつかを見てみましょう。

 まず、天武天皇の子の大津皇子の歌の題詞を見ます。皇子は、体格や容姿が逞しく、性格も寛大で、学問にも優れ、多くの人に慕われたそうです。そのせいかあちこちの女性と関係を持っていて、万葉集にもたくさんの相聞歌が載せられています。その一つに「大津皇子、竊かに石川女郎(いしかはのいらつめ)に婚ふ(あふ)時に、津守連通(つもりのむらじとほる)がその事を占へ露はすに、皇子の作らす歌一首」というのがあります。これは兄の草壁皇子の愛人だった石川女郎と通じたのを津守連通が占いで見抜いたということで、これに応えて皇子は、

 大船の 津守が占(うら)に 告らむ(のらむ)とは 

 まさしに知りて 我が二人寝し

 おまえごときの占いに出ることくらい百も承知で、俺たちは寝たんだよって、すごいですね。大胆不敵で、自信家だったんだろうなって感じですが、「大船の」という「津守」を導くための枕詞のような詩句も、おまえはせこせこ港を守っていろ、俺たちは大船に乗って悠々と船出するからというイメージを誘う感じでいいですね。しかし、兄の愛人と不倫しちゃったのにここまで開き直っちゃっていいのかなって気もします。古今集以下の勅撰集には見られない直截さがとてもおもしろいんですが。

 次も大津皇子関係ですが、「大津皇子、竊かに伊勢神宮に下りて上り来る時に、大伯皇女(おほくにのひめみこ)の作らす歌二首」というものです。これだけだと皇子が伊勢神宮に行った折にそこにいた大伯皇女と通じたということですが、まずこの皇女は皇子の同母姉です。古代においては異母姉妹と通じるのは許されるというか、理想的な結婚と考えられていた節(だから妻や恋人を妹[いも]と呼ぶ)がありますが、同母姉妹と通じるのはタブー、しかもかなり重大なタブーでした。なぜそうなのかはいろんな理由があるでしょうが、一つには妻問い婚が通常だったので、同母姉妹とは幼い頃から同居しているのに対し、異母姉妹とは別居していたからでしょう。

 もう一つ皇子はタブーを犯しています。この時なぜ皇女が伊勢神宮にいたかと言えば斎宮だったからです。斎宮は天皇の名代として天照大神に仕える身で、もちろん結婚は許されていないわけで、源氏物語などにもしばしば重要な役回りで登場しています。天武天皇は壬申の乱の戦勝祈願の礼として、しばらく途絶えていたこの職に自らの皇女を就けたようです。まあ、すごく俗っぽく言えば日本一の巫女さんとしちゃったってことです。

 じゃあ、なんでそんな2重にイケナイことを皇子はしたのかって話は前置きが長すぎるんで、皇女の歌を見てからにしましょう。

 我が背子を 大和へ遣ると さ夜ふけて

 暁(あかとき)露に 我が立ち濡れし

 

 二人行けど 行き過ぎ難き 秋山を

 いかにか君が ひとり越ゆらむ

 最初のは立ち去った皇子のことを考えて、一晩中外に立っていたということですし、2つめのは伊勢から大和への山道の困難さを二人でも大変なのにと思い遣る内容になっています。甘い一夜の思い出にふけるものでも、心変わりしないかと心配するものでもありません。つまりこの2首は通常の後朝(きぬぎぬ)の歌とはちょっと違っています。それもそのはずこの年の9月9日に父の天武天皇が崩御して、皇子の運命は一変したのです。皇后である後の持統天皇は自分の子の草壁皇子を皇太子にしようと画策し、姉の子の大津皇子を退けようとします。その結果、伊勢神宮に行った直後の10月2日に逮捕され、翌日には処刑されてしまいます。おそらく伊勢に行った時に既に皇子は自分の運命を悟っていたでしょうし、皇女もわかっていたのだろうと思います。

 そう考えた方がこの2首がなぜ通常の歌と違っているのかも理解できる気がしますし、弟でもあり、今や夫ともなった男の行く末を思い、立ち尽くしていた彼女の心情が伝わってくるようです。また、皇子がいくら大胆な性格だとは言え、なぜ2つもタブーを犯したのかも想像できそうです。……女性遍歴を重ねたのは実の姉をずっと慕っていたからだという映画やマンガのような想像を私はしませんが。

 ちょっと主題からはずれてしまうんですが、皇女が皇子の死を悼んで詠んだ歌がいくつも万葉集に収められています。その中でも最も優れたものと思うものを一つだけ挙げます。皇子の遺骸を奈良と大阪の境にある二上山に葬った時のものだそうです。

 うつそみの 人なる我(あれ)や 明日よりは

 二上山(ふたがみやま)を 弟(いろせ)と我(あ)が見む

 山はこの世(うつそみ)とあの世を隔てるものでしょうし、二上山の穏やかな稜線を見て育った私には仲の良いきょうだいになぞらえたものだという気がしてなりません。

 なお、これらの歌について無名の人による伝承歌を皇子や皇女に帰して、歌物語ふうに仕立てたものと見る立場もあるようです。特に皇女の「我が背子を」と「二人行けど」の歌についてはそういう気配も感じられます。その真偽はともかくとして、そういう万葉集をフィクショナルなものとして理解する見方こそが「誤読された万葉集」の立場でしょうから、それを否定することもないでしょう。じゃあ、ここまで書いたことは無意味なんでしょうか?……例えばマクベスはなぜ自ら破滅するような道を選んだのかってことをあたかも実在の人物の実際の話のようにして論じることは無意味ではないでしょう。それと同様だと私は思います。問題は「何がどのように語られているのか」という文芸の本質にどうアプローチするかってことだと思いますから。

 

 では、次に有名な伝説で、三島由紀夫も小説の題材にした「軽王子(かるのみこ)と衣通姫(そとおりひめ)」を採り上げます。允恭天皇(仁徳天皇の第4皇子)の第1皇子で木梨軽王子は同母妹の軽大郎女(かるのおほいらつめ)を愛し、通じてしまいます。この皇女は体の光が衣服を通って外に出るほど美しかったため衣通郎女(そとほりのいらつめ)と呼ばれていました。ところが、臣下たちは皇太子である皇子に背き、弟の穴穂皇子につきます。そこで皇子は腹心の家に逃れますが、その者にも裏切られ、捕らえられてしまいます。結局、伊予の道後温泉に流された皇子は追いかけてきた皇女と心中して果てます。

 これが古事記の伝えるこの二人のお話なんですが、その間に二人の歌を始めとして12ものいろんな種類の歌が挿入されていて、さながら歌物語のようです。で、万葉集はこれらの歌の中から皇女が詠んだ短歌形式の歌を一つだけ選んで第2巻の「相聞」(恋愛歌のことで、古今集以降は恋の部となります)に載せています。この歌を題詞とともに掲げましょう。

 古事記に曰く、軽太子、軽大郎女に奸けぬ(たはけぬ)。故にその太子を伊予の湯に流す。この時に、衣通王(そとほりのおほきみ)、恋慕に堪(あ)へずして、追ひ往く時に、歌ひて曰く

  君が行き 日(け)長くなりぬ やまたづの

  迎へを行かむ 待つには待たじ

 やまたづはにわとこの木のことだと古事記にも万葉集にも同じ注がついています。にわとこの葉っぱは向かい合わせに出るので「迎へ」の枕詞になるわけです。あなたが行ってしまってからの日も長くなった、迎えに行こう、待ってはいられないって意味ですね。兄でもあり、恋人でもある皇子を恋焦がれる気持ちが表されているといったところでしょう。

 ところが話はここからなんです。この歌には注が後にくっついています(後につくから左注といいます)。ちょっと引用すると、「右の一首の歌は、古事記と類聚歌林と説(い)ふ所同じくあらず、歌主もまた異なり。因りて日本紀に検(ただ)すに、……」として、日本書紀から2箇所はしょりながら、でもかなり長い引用をしています。万葉集も日本書紀も地の文はほぼ漢文ですが、300字近く漢字がずらずら並ぶのでちょっと異様です。そこが私が引っかかりを覚えてあれこれ調べ始めた理由なんです。

 ここで引用されている日本書紀での皇子と皇女の話は古事記の話とちょっと違っています(これに関してウィキペディアの「衣通姫伝説」の記事(07年4月現在)は古事記によると言いながら、日本書紀のみの記述をかなり混入させています)。允恭天皇の治世23年の3月に皇子が皇太子になったと歴史書らしくきちんと書いて、皇子の容姿が佳麗で、見た人が自ずから感嘆したこと、皇女も顔が良かったとなっています。

 そこから少し省略があるんですが、そこには前々から皇子は皇女と通じたいと思ってはいたものの罪になることを恐れて我慢していたけれど、気持ちが高ぶって死にそうになったので、「徒空(いたづら)に死(みう)せむよりは、罪有りと雖(いえど)も、何ぞ忍ぶること得むや」と思ったと書かれています。禁断の恋に身悶えする皇子の気持ちがよく表現されたところです。

 それで、皇子は「遂に竊(ひそ)かに通(たは)け」つまりついに秘かに皇女と通じ、それで胸のつかえが少し癒えました。ところが、24年6月に天皇が召し上がる羹(あつもの、熱いスープですね)が凝固して氷となります。それをあやしんで、理由を占わせたところ、占い師は「内乱有り。蓋し親親(はらからどち)相奸(あいたは)けたるか」と言います。内乱とは穏やかではない言葉ですが、これは唐の律令用語で近親相姦の罪のことなんですね。同母姉妹と交わることは倫理的な意味だけでなく、法律上も罪だったということです。

 ちょっと脇道に逸れますが、この真夏に羹が凍ったという印象的なエピソードはなんだか中国の歴史書に出てきそうな話で、いかにも漢籍に詳しい日本書紀の編者らしいフィクションです。ただこのエピソードがあるので、後で皇子が暴虐を行い、婦女に淫行したので、人望をなくしてみんな穴穂皇子の方についたという展開にスムーズにつながります。古事記には近親相姦が明らかになったとは書かれていませんし、なぜ人望をなくしたかの理由についても記述はありません。この辺が日本書紀が論理的と言えば論理的だけど、理屈っぽい感じもするところです。

 さて、話を戻して再び万葉集では省略されているんですが、別の臣下が皇子と皇女の名前を天皇に申し上げたので、皇子を尋問したところ事実だと判明します。しかし、皇子は皇太子ですから罪に落とすことはできません。

 それで、皇女を伊予に流します(則ち軽大郎女皇女を伊予に流す)。ここは引用されているんですが、古事記が皇子の方が伊予に流されたとしているのと違っています。歴史としてどっちだったかは私には関心がないんですが、日本書紀の書き方だとさっきの歌は皇女のものにはできないでしょうし、事実、載っていません。つまり万葉集の編者は日本書紀によればこの歌は皇女の作ではないですよと言いたかったんでしょう。

 だとすると「君が行き」の歌は誰が作ったんでしょうか。……万葉集は実は日本書紀からもう1箇所引用しています。その内容は允恭天皇の先々代の仁徳天皇のことです。仁徳天皇の22年の正月に天皇が八田皇女(やたのひめみこ)を召し入れようと3回も歌を詠んで磐姫(いわのひめ)皇后に頼んだのに許してもらえなかったんです。ところがそれであきらめなかった天皇はずっと後の30年の9月になって、皇后の留守中に皇女を娶り、それを皇后はひどく恨みに思ったんですね。これがなんの関係があるかと言うと、次のような皇后の歌が第2巻の冒頭に載っているんです。題詞と左注とともに掲げます。

 

 磐姫皇后、天皇を思ひて作らす歌四首

  君が行き 日(け)長くなりぬ 山尋ね

  迎へか行かむ 待ちにか待たむ

 右の一首の歌は、山上憶良臣の類聚歌林に載せたり。

 

 言葉使いは少し違いますが、意味内容は軽大郎女のものと同じと言っていいでしょう。これが「古事記と類聚歌林と説(い)ふ所同じくあらず、歌主もまた異なり」の意味です。昔も今もこんなに似ているのが偶然のわけはないんで、(軽大郎女がパクったんだとすればJASRACwじゃなかった、万葉集の編者が許すわけはないんで)一つの歌をちょっとアレンジして二人の作者に編者が振り分けたんだろうと思います。

 で、磐姫皇后については題詞にあるように全部で4首(実はもう一つあるとも思えますがそれはここの議論にはあまり関係ありません)当てられていますが、どれも仁徳天皇を恋い慕う内容です。これほど恋しいなら死んだ方がましだとか、黒髪に霜が降りるまで待ちますとか、いつになったら私の恋は止むのでしょうとか。……ところが、これらの歌はどれ一つとして日本書紀にも古事記にも出てきません。出てくるのは天皇が八田皇女を召し入れたいと言うのに対し、二人の女を入れるのはよくないとたしなめる歌と八田皇女を娶ったのに憤慨して故郷に帰ってしまう時の歌です。

 するとこういう憶測ができそうです。万葉集の編者は嫉妬深いと評判の悪い(仁徳天皇は例の民のかまどの話などで聖帝として評判がいいですからなおさらです)磐姫皇后の名誉挽回のために軽大郎女の歌やその他の伝承歌を持ってきて恋愛歌の冒頭に置いたんじゃないか。ただそれだけでは古事記が軽大郎女の歌としていることと矛盾を来たすので、山上憶良が編纂した類聚歌林を持ってきて「君が行き」の歌の作者に二つの説があるように見せかけたんじゃないかと(類聚歌林は現存しないので、これを全くの虚構とする人もいます)。

 少なくとも前に見た挽歌の冒頭に有間皇子の歌を置いたのと同じような意味合いが相聞においてもあるんじゃないでしょうか。つまり磐姫皇后と軽大郎女という名前を万葉集における恋の歌の最初に出す必要があったんじゃないかと。よく言われる説としては、磐姫皇后が有力豪族の葛城氏の出身だったので配慮したというものですが、それなら簡単に「古事記は軽大郎女の作としているが、類聚歌林は磐姫皇后の作としている」という注だけですませることもできたはずで、わざわざ皇女の作としても掲載したり、日本書紀から皇后の嫉妬と皇女の近親相姦を長々引用する必要性がわかりません。

 そこで万葉集の編者の意図をさらに深読みすると、歌の内容である二人のひたむきな恋を称揚するというようにも、あるいは彼女たちの例を出して嫉妬や近親相姦を戒める(中国の史書では諷するというのを好みます)ようにも思えます。さらに、無念のまま死んだ(皇后は何度も天皇が会いに来たのに都には戻りませんでした)彼女たちの魂を慰め、祀ることでようやく恋の歌集を始めることができるという宗教感覚があったようにも思えるのです。

 長い左注は「今、案(かむが)ふるに、二代二時に、この歌を見ず」と結ばれています。仁徳天皇の時代にも允恭天皇の時代にも日本書紀にはこの歌は出ていないと空々しく言うのは、本当の作者が磐姫皇后でも軽大郎女でもない(民間に伝承されたものが元の歌でしょう)ことを暗示しているようにも見えるのでなおさらです。……ちなみに允恭天皇の没年は453年で、万葉集の成立は759年以降とされていますから300年も昔の話で、彼女たちの歌だとしても歴史なのか伝説なのかいずれにせよ茫漠たる過去のことです。

 なお、日本書紀では衣通郎姫(そとほしのいらつめ)は軽大郎女ではなく、その叔母で允恭天皇の皇后の妹のことです。で、この叔母の方も天皇に望まれ、それを皇后が嫉妬するという八田皇女と磐姫皇后とちょうど同じような関係があります。天皇に限らず何人もの女性を娶ることも、それを正妻の地位にある人が嫉妬するのも古代には多かったんでしょうが、ただの偶然とするには気になったので書いておきました。衣通姫ってまるでかぐや姫の祖先のようですが、美女の代名詞のようなものだったのかもしれません。でも、軽大郎女が恋の相手が兄でもあり、悲劇的な最期を遂げたので一人そう呼ばれるようになったのでしょう。

 


 

 万葉集に夜露死苦

 

 李寧煕(イ・ヨンヒ)という人の「甦る万葉集」という本を読みました。万葉集を古代韓国語(朝鮮語)で読むと従来の解釈とは全く違った意味が見えてくるという内容です。そういうのはいくつもあるのは知っていますが、少なくともこの本はかなり問題を含んでいます。それを挙げていくことで「万葉集を読む」ということ、ひいては「詩を読む」ことがどういうことなのか、私の考えが示せるような気がするので書いてみます。

 まず万葉集はカタカナやひらがなができる以前のものですから、全部漢字で書かれています。例えば通常、

 青旗の 木幡(こはた)の上を 通ふとは

 目には見れども 直(ただ)に逢はぬかも

となっている第2巻の倭大后の歌は実際には、

 青旗乃 木旗能上乎 賀欲布跡羽

 目尓者雖視 直尓不相香裳

と書かれているわけです。これが万葉仮名ですが、著者はこの読み方も、大后が亡くなった夫の天智天皇の魂に思いを馳せたものだという通常の解釈も間違いだと言います。これは韓国語で読むのが正しく、天智天皇が天武天皇に殺された(事実だとすると大発見でしょうね)ことを知らせた歌だと言うのです。まず著者の読み方を見ると、

J1 日本式の音読み

J2 日本式の訓読み

K1 韓国式の音読み

K2 韓国式の訓読み

 この4種類の混合です。まず日本式の音読み・訓読みについて説明すると、従来の読み方で「青旗乃」を「あをはたの」と読むのが訓読みです。つまり漢字の意味するところを日本語に変えて読んでいる(書き方から言うと、日本語と意味内容が合う漢字を並べている)わけです。漢字の表意性を生かしたやり方ですね。これに対し、「賀欲布跡羽」は「かよふとは」と読みますが、漢字の意味とは全く関係がなく、その音だけを借りて日本語を表すのに使っていて、これが音読みです。漢字の表音性を生かしたやり方ですね。ところがもう一つ漢文の書き下しに近いところがあります。「雖視」を「みれども」、「不相」を「あはぬ」と読むところです。訓読みの延長上に漢字の順番を変えて読んでいるわけで、現代では例が少ないですが、「為替=かわせ」なんかがそうです。……日本固有の文字がない時代に日本語をどのように表記するかいろいろ試行錯誤があったんですね。

 で、韓国式の音読み・訓読みも同じです。著者によると「青」は「青い」という意味の「ゴラ」、「旗」は発音が「ギ」で「それ」という意味、「乃」は発音が「ネ」で、一緒になって「ギネ」となって「それだ」という意味なんだそうです。しかし、これだけでもいろんな疑問が湧いてきます。まず日本式でも韓国式でも訓読みでの表記は中国人なら大体の意味は了解できるでしょうが、音読みはちんぷんかんぷんでしょう。あっさり言えば文字(漢字)も満足に使えない野蛮な連中と思うはずです。もちろん当時は中国の文明が最高のもので、日本や韓国(朝鮮)の上流階級の価値観も同じようなものだったと考えるのが自然です。だから、上手下手は別にして、日本書紀は漢文で、古事記も基本的には漢文で書かれています。これに対し、万葉集は日本語の歌をそのまま写し取ろうとしたからこそ「賀欲布跡羽」といった表記を工夫したわけで、こうした努力が元になって音だけを表すカナができ、(訓読みする)漢字と混ぜて書くという独特の方法ができたと考えられます。

 ところが当時、韓国においてそうした自国語の発音を漢字で表し、漢字本来の意味による表記と混ぜて書くなんて、ある意味野蛮な工夫があったのか、著者は全く示していません。私の憶測では日本なんかよりずっと中国の文明に忠実だった韓国の上流階級がそんなことをするはずはなく、ちゃんとした漢詩や漢文をできるだけ中国の上流階級と同じようなものになるよう作っていたんだろうと思います。著者はわずかに「三国遺事」に漢字の音声を使って表記した歌「新羅郷歌(ヒャンガ)」があったことを挙げていますが(73ページ)、この史書は13世紀(日本では鎌倉時代)に成立したものですし、ヒャンガは14首しか収められていないそうですから、韓国の上流階級が7世紀にどんなふうな歌を作り、表記していたかをきちんと立証することは不可能でしょう。

 上流階級に私がこだわっているのは著者が天智天皇や天武天皇や額田王を百済や高句麗の王族だったと主張しているからです(82ページ)。また、彼らの歌には著者の読みによると政治やセックスを題材にした批判精神があるんだそうです(79ページ)。果たして当時の韓国の王族たちがそんな現代詩人みたいな自由奔放な歌を作りえたのか、これまた何の根拠も示されていません。当時の中国において上流階級が題材の詩を作っていたとは寡聞にして知りません。古代から中世にかけてラテン語が、絶対王政期においてフランス語が、ヨーロッパの共通言語であったように、東アジアにおいては長く中国語=漢文が共通言語であったわけです。ロシアの貴族がフランス語しか話せなかったというほどではないでしょうが、日本でも韓国でも漢文がある程度読み書きでき、どういうものが詩であり、詩でないかといった美意識を持っていないようでは上流階級ではいられなかったでしょう。……こうした伝統は鴎外、漱石まで続いていましたし、そもそも詩というものは同質的な身分の人たちのサロンやサークルの中でかなり濃密な美意識の共有があって、その中で洗練を競い、わずかな新味を愛でたのが洋の東西を問わず歴史のほとんどじゃないかなって思うんですけどね。いや、現代詩人だってそうは変わらないとさえ思いますが。

 テキストの読みに話を戻すと著者の読み(記号で日韓・音訓別を示しますが、曖昧な書き方のところがあります)と解釈はこんなふうになっています。

 青K2 旗K1 乃K1(ゴラギネ 「青=大海人皇子・天武天皇のこと」にやられた!)

 木K1 旗K1 能K1 上J2 乎K1(ナムギヌンウベオ 言い残すお上を拝し)

 賀J1 欲K1 布J1 跡K1 羽J1(ガヨブトゥバ 駕籠引きとめて)

 目J2 尓K1 者K1 雖J1 視K1(メイジャスイシ 担がせたらすぐ亡くなられた)

 直J1 尓K1 不K1 相K1 香J1 裳J2(ジョギブルサンコモ まことにかわいそうである)

 こうやって整理するとわかるのはほとんどが日・韓の音読みで「賀欲布跡羽」式だということです。漢字の意味をそのまま使っているのは「青」だけで、他の「上」、「目」、「裳」は日本の訓読みのウエ、メ、モという音を韓国語の表記に使ったという複雑な使用法だそうです。通常の読みが半分以上は漢字の意味を生かした訓読みなのに。

 つまり著者は適当に4種類の発音をつまみ食いして自分の気に入るように組み合わせ、いつの時代の韓国語だかわからない代物(年代はどこにも書かれていません)で、解釈というか内容を創作しているだけです。しかもそれ以上に問題なのはさっき挙げた「雖」の譲歩の意味と「不」の否定の意味を無視していることです。これでは万葉集の編者が漢字や漢文を全く知らないことになるでしょう。さすがに気が引けたのか著者は訳文では「不憫である」なんて言葉を使って糊塗してますが。……そう、つまり著者のやり方は、公園の「夜露死苦」という落書きを「夜の露に濡れて死ぬほど苦しかったことだなあ」なんて解釈するのとなんら変わりがないのです。

 

  李寧煕の読み方には、意味として恣意的だという以外にも問題があります。それは韻律の問題です。万葉集の短歌形式の場合は言うまでもなく5・7・5・7・7でできていますし、他の長歌などもきちんとした定型性を持っています。著者の韓国語による読み方は定型性を持っているようには見えませんし、少なくともそれを示していません。この本では10くらいの短歌について韓国語の読みを示していますが、そのうち2つだけについて4・6・4・6・6があると言っていますが、その形式が古代韓国において使われていたのか否か全く触れていませんし、ましてや四六駢儷体との関係についても全く述べていません。たまたま定型性が見られたときだけ言っているんじゃないかという感じです。

 しかしながら、これまたお手本の中国の漢詩について言うと5字×4行の五言絶句や、7字×8行の七言律詩は単に漢字がきれいにそろっているだけでなく、平仄や押韻の規則が厳格に定められています。それに比べると万葉集の歌はずいぶんゆるいのですが、いずれにしても本来声に出して「歌う」ものですから、韻律(詩の音楽性と言えばわかりやすいかもしれません)がちゃんとあります。いや、詩においては定型性よりも音楽性はもっと本質的だと私は思いますし、現代の自由律詩でも内的韻律は極めて重要で、そうした点を無視するのは詩がわかっていないと言わざるをえません。

 さて、ネットを検索してみると韓国語(朝鮮語)以外にも万葉集をアイヌ語やポリネシア語で読んだりしてるのもあります。なんでそんな楽しいことになるのかというと読みが確定していない歌がいくつかあるのと、通常の読み方では意味がすっきりしない歌があるからでしょう。有名なのが第1巻の「紀の温泉(ゆ)に(斉明天皇が)幸(いでま)せる時に、額田王の作る歌」と題する第1巻9番目の次の歌です。

 莫囂円隣之 大相七兄爪謁気 吾瀬子之
 射立為兼 吾可新何本

 初句と2句が特に難解で、100通りほどの読み(つまり学者の数ほどってことでしょう)があるそうですが、確定していません。じゃあ、この歌は暗号か何かなのかと言うと(ヘブライ語で莫はミカエル、囂はガブリエル、円はウリエル、隣はラファエルを表わしているという魅力的な解釈がありますw)3句を「わがせこの=私の夫の」と読むことにはほぼ異論はないようですから、他の句もふつうの日本語だと考えるのが常識的だと思います。さらに3句の前は12文字なので5と7に区切り(もう区切っちゃってますが)、1文字に1音が当てられている(つまり「賀欲布跡羽」式の音読み)と考えるのが妥当でしょう(李寧煕はこの歌はクロス・ワード・パズルだと言っていますけどw)。

 あとは万葉集などの歌謡における各文字の音読みの場合の使用状況を見て、読みの候補を絞り込んでいくんじゃないかなって思います。……もちろんこの程度のことは専門家は当然やっているはずでしょうし、それをやれば楽しい解釈も魅力的な解釈も成立しないことがはっきりするように思います。つまり宝探しじゃあるまいし、いきなり正解を探そうとするんじゃなくて、範囲を絞り込んで今までの読みの中で、可能性の濃淡をつけていけばいいんじゃないかと。あれこれ自説を立てるのもいいんですけど、学問って「そんなことはありえない」と断言することも大事な使命だと思います。

 もう一度「青旗の」の歌に戻ると、通常の読みと解釈ですっきり意味が通るかと言うと問題はあるように思います(いくつかは李寧煕も指摘していることで、従来の解釈への批判としては正しいものを含んでいます)。通常の解釈は「木幡の山の上を(天智天皇の魂が)行き来していると目には見えるけれども、じかにはもうお逢いできない」というものです。この解釈では天皇の崩御後の歌だとしているわけですが、この歌の題詞には「一書に曰く、近江天皇の聖躰不豫(みやまひ)したまひて、御病急(には)かなる時に、大后の奉献(たてまつ)る御歌一首」とあります。つまり天皇が危篤のときの歌だとされているのを無視しています。であるのにこの解釈が支持されるのはおそらく「直(ただ)に逢はぬかも=直接には逢えない」という末の句があるからでしょう。題詞と末の句を矛盾しないようにするためには危篤時に天皇と皇后が逢えない理由なり事情を別途考えるしかないと思います。

 また、「青旗の」は宇治の木幡に掛かる枕詞だと言いますが、他の用例では葛木山や忍坂の山に掛かっているのに木幡は山の名前ではありません。また、木幡は天智天皇の陵墓のある山科に近く、飛鳥と行き来する途上だから天皇の魂も通ったのだろうと解されていますが、ネットの地図で見ると山科と木幡は10キロ近く離れていますし、なんでそんなところに皇后の倭大后がいたのかなって気がします。何より天皇は自ら遷都した近江大津宮で亡くなった後に山科に葬られたわけですから、ますます崩御後時間が経ってからの歌ということになります。つまり原文で「木旗」と表記されている言葉は木幡という地名ではないでしょう。「青旗の」とセットで考えることもできそうです。

 さらにわからないのは、魂に対応する言葉がないのになぜそれが「山の上を行き来し」、しかも「目に見える」ことになるんでしょう。「目には見れども」と言うからにはふつうの人がふつうに見えるものを指していると解するのが常識的じゃないでしょうか。私が見ている小学館の日本古典文学全集では「天皇の肉体から離れた霊魂が大后の目には幻となって見えたのだろう」と言っていますが、勝手に魂を持ち出しておいてそれが見えないじゃないかって言われたら、幻でも見たんだろだなんてずいぶんな言い草だなって思いますね。

 じゃあ、どうするんだよって言われそうですね。……この歌の一つ前は「天皇の聖躬不豫(みやまひ)したまふ時に、大后の奉(たてまつ)る御歌一首」というほぼ同じ題詞を持つ、

 天の原 振り放(さ)け見れば 大君の
 御寿(みいのち)は長く 天足らしたり

という歌が収められています。これは天を仰いだら天皇の命は長く、その生命力は天に満ちていたって意味ですが、「青旗の」の歌をこれとの関係で解釈することができると思います。つまり倭大后が見ていたのはやはり天空だろうと思います。そこに魂や面影みたいなよけいなものは見ない(見るとすれば天皇の生命力を保証するものとしての空でしょう)。なんらかの事情があって天皇と離れた地(おそらく飛鳥)にいて、危篤の知らせを聞いた皇后が「あの空は近江につながっているけれど、直接お顔を見ることはできない」という感情を詠んだんじゃないかって思います。で、最後に残るのが「青旗の 木旗の上を」ですが、「青旗」は上述したように他の例では山に掛かるので、通常言われるように緑の林か森と解するのがいいのかもしれません。「木旗こはた」は夕焼け小焼けとかなかよしこよしとか言うときと同じで、語調を整えながらそれがいっぱいある感じを出したもののような気がします。つまり緑の森の上をということです。いずれにしても空を見つめながら無事を祈願する歌ということで、前の歌と共通のイメジェリとモチーフを持つものだと思います。

 さっき「莫囂円隣之」のところで自分の解釈を出すよりもよけいな解釈を消去する方が重要じゃないかって言いながら、自分勝手な説を称えてしまいました。読み方をあまり変えなくても別の解釈はできることを示しただけで、確固たる自信があるわけではありません(「青旗」についてはもっといろんなイメージもあります)。そんなことより私が強調したかったのは詩を読むためには、まずテキストを文字と韻律の両面からちゃんと読むこと、作者の社会的地位や置かれた立場をいろんな面から考えること、編者の意図を探ること、その上でできるだけよけいな仮定を置かないで解釈できる方途を考えて、作品のイメジェリとモチーフを発見することだろうと思います。大胆な説や人を驚かす着眼はそうした作業を尽くした後でいいんじゃないかって思います。

 


 

   未来のイヴ

 

 

 ヴィリエ・ド・リラダンの「未来のイヴ」を読みました。450ページほどある小説を電車の中の立ち読みだけで読んだのでずいぶん長期間かかって、季節も変わってしまいました。ところがこの小説は実に変化に乏しいものです。あらすじはあのエジソンが恩人の若い貴族エワルド卿のためにその発明の才を活かしてアンドロイド(ちなみにこの言葉自体がリラダンの造語だそうです)を造ってあげたものの、それが船火事のためにあっけなく焼けてしまうというものに過ぎません。しかもそのアンドロイドのハダリーがエワルド卿の美人だけれど、中身のない恋人の代わりに完璧な女性、すなわち未来のイヴとして登場するのは最後の80ページくらいです。そこまではエジソンとエワルド卿のペダントリと幻想に満ちた会話が延々と続いていくという具合です。

 この小説が新人賞の応募作品ならおそらくというか、確実に1次選考で落とされると思いますし、たとえ自費出版されてもほとんど売れないでしょう。生身の人間(つまり現実)より機械(つまり幻想)の方が高い精神と力を持つというモチーフ、テーマなら今の作家はずっとおもしろく起伏のあるストーリーを考えられるでしょう。いや、むしろ考えないではいられないはずです。……今の小説はハラハラドキドキのストーリーとか、涙と感動の物語といったキャッチフレーズでだいたい括れてしまうもので、まあマーケットリサーチで味決めをするとそうなるんでしょうけど、私には読み終わるとすぐに忘れてしまう消耗品のようにしか思えません。奇想天外とか大胆不敵とかいっても実は商品としてちゃんとパッケージされていて、この作品のように読者のことなんかほうっておく勇気はありません。そこまでの傲慢さを持ち得ないのかもしれません。今に限らず日本の小説(もちろん読んでいないものは大量にありますが)は昔からおもしろくしようとしすぎていて、読者をはねつけるほどの内容と分量を持つのは森鴎外の史伝くらいでしょう。

 いくら19世紀の終わり頃のフランス(初稿は1879年)の作品とはいえ、この小説が日の目を見るのは大変だったようで、リラダンは貴族の生まれながら貧窮を極め、家具一つない部屋の床板に腹ばいになってインクを水で薄め、時にはタバコの空箱にマッチの軸木を使って書いたという伝説すらあるそうです。新聞で連載されても途中で打ち切りになること数度、書物として刊行されたときには原稿が完成してから7年の歳月を経ていました。しかし、作品の中には貧乏くささや苦労じみたところは微塵もありません。

 「未来のイヴ」には同時代のヴェルヌやウェルズを思わせるようなSF的な言説はたくさんありますし、フィギュアのようなオタク的な興味を惹くところもあるのかもしれませんが、そんなおもしろいものではないと保証しておきます。おもしろくもなく、あっさり退屈といっていいものなのに読み通せたのは自分でも不思議ですが、たぶん小説にしかできないことが行われているからでしょう。小説は映画やマンガの代用品ではないはずですが、そんな感じのものはいくらでもあります。しかし、このほとんど動きのない長々しい会話の続く小説を映画やマンガにするのは不可能です。言葉だけですべてを組み立てるのが小説の必要条件であり、読者をいかに想像の世界に連れていくかが十分条件だとするとこれがその極端な形でもあり、正道でもあるのだろうと思います。

  


 

 正岡子規と大喝采的作品(2008-01-20)

 

 正岡子規の「歌よみに与ふる書」を読みました。私はこれまで事あるごとに子規の万葉集一辺倒、写実至上主義を非難してきたんですが、この近代短歌の出発点となった書を読んだことはありませんでした。実朝その他の少数の歌人の作品を除いて、古今集以降の和歌をことごとく否定する偏狭な態度は新古今集びいきの私にはとてもついていけませんでしたが、

「(古今集を)真似るをのみ芸とする後世の奴(やつこ)こそ気の知れぬ奴には候なれ。それも十年か二十年の事ならともかくも、二百年たつても三百年たつてもその糟粕を嘗めてをる不見識には驚き入候」(9ページ)という苛立ちはよくわかります。それはただ自分の目指す文芸の方向性を正当化しようというよりは、今からは想像できないような大げさな動機に基づくものだったのでしょう。「日本文学の城壁を今少し堅固に致したく、外国の髯づらどもが大砲を発たうが地雷火を仕掛けうが、びくとも致さぬほどの城壁に致したき心願有之」(26ページ)

という文芸における富国強兵策というべきものだったのです。陸羯南が主宰する「日本」にこの論文が載ったのは明治31年(1898年)の春、日清・日露両戦争のちょうど間の時期です。

 この本には同時期に書かれたいくつかの歌に関する文章が入っていて、その中の「人々に答ふ」というのは「歌よみに与ふる書」に対する既存歌壇からの批判への再反論ですが、その一節に本居宣長の「最多数の日本人を感動せしむる力ありと信ずる」を次の歌を挙げて論じます。

 敷島の 大和心を 人問はば
 朝日に匂ふ 山桜花

「余は毫もこの歌に感動せられざるのみならず、なかなかに浅薄拙劣なるを見る」と言い切ります(92ページ)。「その大欠点は『人問はば』とあらば、下に『と答へん』と置かざるべからず。『と答へん』の語なければ『人問はば』の語、浮きて利かず、従ひて厭味を生ずるなり。されど天下多数の人が感動するは、この平凡にして解しやすき傾向と、この厭味ある言葉(人問はば)の働きとにあるべく、宣長の作意もまたここにあるべし。宣長の詩趣の解し加減と、天下多数の人の詩趣の解し加減と、あたかも一致してこの大喝采を博せり。大喝采的の作品必ずしも可ならざるなり。……語を更へて言はば、多数素人へのあてこみは少数黒人(くろうと)の最も厭忌する方法を取らざるべからず」

 この一節は文芸における大衆性やスノビスムを余すところなく批判したものだと思います。言うまでもないでしょうが、芸術全般においても事情は変わらないし、現在においても「大喝采的作品」の多くがそうでしょう。

 それでずいぶん子規を見直した気になっていたんですが、次の「曙覧の歌」という幕末期の清貧の歌人、橘曙覧を紹介した文章を読んでがっかりしました。というのも次のような歌が挙げられているからです。

 壁くぐる 竹に肩する 窓のうち 
 みじろくたびに かれもえだ振る

 あるじをも ここにかしこに 追たてて
 壁ぬるをのこ 屋中塗りめぐる

 たのしみは まれに魚烹て(にて) 児等(こら)皆が
 うましうましと いひて食ふ時

 たのしみは 小豆の飯(いい)の 冷えたるを
 茶漬てふ物に なしてくふ時

 確かにそれまでの古今集をなぞったような和歌とは題材も歌いぶりも違います。子規が自分の目指す歌の先輩を見つけた気になるのもよくわかります。このままで近代の歌人の作と言っても通用するでしょう。しかし、それらが持つ単なる写実、「それがどうした?」と言いたくなるような詩情の乏しさも共有しているようです(詩情が全くないとは言いません。ちょっとは詩情を感じたものを選びましたから)。「たのしみは」で始まる一連の歌は彼の歌の中で最も有名なもので、生活の実感をありのまま唄ったものとして褒めそやす人も多いでしょう。それとほぼ同じ理由で、私には先ほどの「大喝采的作品」の典型例だと思えます。この「独楽吟」と題された歌は五十首余りあるそうですが、こういうのもあります。

 たのしみは 戎夷(えみし)よろこぶ 世の中に
 皇国(みくに)忘れぬ 人を見るとき

 この手の歌にはもっと激しいのもあります。

 国汚す 奴(やつこ)あらばと 太刀抜て
 仇(あだ)にもあらぬ 壁に物いふ

 子規もまた曙覧の「敬神尊王」ぶりを喧伝したくて挙げているわけですが、私にはこうした歌は後の短歌が時代に迎合していった方向をこれまた先駆けているように思えます。歴史の高みから言ってしまえば詩情を軽視した結果にすぎないでしょう。……題材や内容で詩の価値は決まらない。ただ詩趣・詩情の高さで決まる。そう言ってしまえばこの文章の論旨もすっきりするわけですが、なかなかそうはいきません。詩趣・詩情などと言っても、時代の常識や通念から簡単には自由になれないからです。

 


 

  伊勢物語瞥見:梓弓(2008-02-07)

 

 

 

 出光博物館の「王朝の恋―描かれた伊勢物語―」(1月9日〜2月17日)に行って来ました。伊勢物語の様々な場面が絵画、書、工芸品のモチーフに活かされた様子を幅広く知ることができてとてもおもしろいものでした。そのお蔭で高校の授業で習った「かきつばた」の歌くらいしか知らなかったこの歌物語への興味が湧いてきました。

 それで図書館で日本古典文学全集(小学館・福井貞助校注、訳)を借りて、絵巻物(単独の絵も多いのですが、伊勢物語に取材した絵画を総称してこう呼んでおきます)の題材になっている原文を拾い読みしているうちにさらに興味やいろんな想像が湧いてきました。で、講談社の学術文庫(阿部俊子訳注)も買ったところ、この物語に入れ込んだ解説に共感するものがありました。そんなわけで、いくつかのお話についていつもながらの俄仕込みの勝手なことを言ってみたくなりました。

 最初に取り上げるのは第24段の「梓弓」です。まず原文にざっとした訳を挟みながら掲げます。


 むかし、男、片田舎に住みけり。男、宮仕へしにとて、別れおしみてゆきにけるままに、三年来ざりければ、待ちわびたりけるに、いとねむごろにいひける人に、「今宵逢はむ」とちぎりたりけるに、この男来たりけり。「この戸あけたまへ」とたたきけれど、あけで、歌をなんよみて出したりける。
(片田舎に住んでいた男が宮中勤めをするため、女と別れた。3年経って帰って来ないので、女は言い寄ってきた別の男に「今晩あなたのものに」と約束していたら、元の男が来て「この戸を開けてくれ」と叩いたが、女は開けずに歌を詠んで渡した)

 あらたまの 年の三年を 待ちわびて
 ただ今宵こそ 新枕(にゐまくら)すれ
 (3年もの間私は待ち疲れて、まさに今夜、新婚の夜を迎えるのです)

といひ出したりければ、
(と歌を詠んで差し出すと)

 梓弓 ま弓つき弓 年を経て
 わがせしがごと うるはしみせよ
 (何年もの間、私がしたように新しい夫を愛しみなさい)

といひて、去なむとしければ、女、
(と言って、立ち去ろうとしたので女は)

 梓弓 引けど引かねど 昔より 
 心は君に よりにしものを
 (あなたが私の心を引こうが引くまいが昔から心はあなたに寄り添っていたのに)

といひけれど、男かへりにけり。女、いとかなしくて、後にたちておひゆけど、えおひつかで、清水にある所に伏しにけり。そこなりける岩に、およびの血して書きつけける。
(と言ったけれど、男は帰ってしまった。女はとても悲しくて、後を追って行ったけれど、追いつけず、清水が湧いている所に打ち伏した。そこの岩に指の血で書きつけた)

 あひ思はで 離れ(かれ)ぬる人を とどめかね
 わが身は今ぞ 消えはてぬめる
 (私のようには思ってくれないで離れてしまった人を引き止められず、私の身は今、消えてしまうのだろう)

と書きて、そこにいたづらになりにけり。
(と書いて、そこで死んでしまった)


 先に挙げた2冊の解釈本は和歌の解釈に重点を置いて解説し、特に阿部はこの直前の第24段の有名な「筒井筒」との共通性と相違点を指摘しています。しかし、読者である我々には指の血(たぶん指を噛み切ったんでしょう)で岩に歌を書いて死んだ女の激しくせつない姿が印象に残るでしょうし、絵巻物もその場面を描いています。我々の興味はこの話が実話なのか、作者の創作なのか、あるいは言い伝えから採録されたものなのかといったことに向かうわけですが、学者は答えてくれません。他の書物に当たれば?というもっともな指摘もあるでしょうけど、言いたいのは学者の関心と読者の好奇心は一致しないことがあるということです。絵巻物にはその時代の読者の好奇心が反映されていると考えていいでしょう。その辺のズレを我々がこの物語を読んでいく際のポイントの一つとします。

 次に物語全体に関わることですが、「梓弓」の段に出てくる男は在原業平ではありません。平城天皇と桓武天皇を祖父に持つ皇族だった彼が片田舎に住んで、仕官しに都に行くはずがないからです。伊勢物語は主人公という点から見ると3つに分けることができると思います。すなわち、

〔樵阿魑鵑欧覆い發里梁召療仂貎擁がどの皇族・貴族か特定されていて、そのため「男」とされている主人公が業平であることが明らかなもの、

△呂辰り業平だとは言い切れないものの「男」が高位の貴族らしいことなどから、そう考えても矛盾がないもの、

「男」の身分などから業平とは考えられないもの、

の3つです。

 この分類はある程度この物語の成立事情と関係するだろうと思います。つまり、

,篭畔燭力族里鮓気砲靴晋式の伝記、

△枠鷂式の伝記と和歌の達人であり、色好みの貴族であった業平に仮託されたお話の混合、

は和歌にまつわる伝承や和歌を元にしたお話が紛れ込んだもの、

といったようなことです。しかし、そうだとするとなどが継ぎ足される前の書写本があってもよさそうですが、残念ながらそうしたものは見つかっていません。

 我々としては今のところ「伊勢物語の主人公は在原業平」という受験知識のような先入見は捨てた方がいいかもしれません。例えば作者は業平の歌を始めとしたお気に入りの和歌を元に物語を書いてみたくなった、その際に既に見聞きしていた話も収録したし、新たに自分でも拵えてみた。もちろん複数の人間が編者となって出来上がった場合もあるでしょう。……この物語は古今和歌集の詞書や左注(後書きのようなものです)と共通・類似することが多いのですが、それもこんな想像を助けてくれます。だから紀貫之が作者だという説があるんでしょうけど、我々としてはそういう学者が熱心になることは避けて、この物語は主人公も書きぶりも複数あるという現代小説的な特徴?をもう一つのポイントとしましょう。

 他のポイントは追々見ることとして、「梓弓」をもう少し分析します。まずこの話を女の側からの独り言にしてみましょう。ここでは上の訳(学者の解釈もそうですが)と異なり「ちぎりたりける」を既に別の男とベッドインしたと解します。……この3年間、あたしは待ち続けたのにあなたは帰って来てくれなかった。だから別の男と枕を交わしてしまった。よりによってその夜にあなたが帰って来てしまうなんて。その気持ちをわかってくれもしないで「俺を愛したようにそいつにもしてやれよ」だなんて言う。「どうなったって心はあんたのものなのに」って叫んでも戻ってくれない。追いかけても追いつけない。涙も枯れ果てたあたしは消えてしまうしかないの。

 まあ、こんな感じですが、中に別の男がいては戸も開けられずに「あらたまの」の歌で拒否した理由もその後で追いかけてしまった理由も納得しやすいように思います。3年間ほったらかしにされたら別の男に嫁いでもいいという法律があったそうですが、だからといってさっさと引き下がる男もどうかなって気もします。少なくとも「梓弓ま弓つき弓」の歌は思いやりがあるようでないなって感じです。都にいい女がいるけど義理堅く帰って来たら拒否されて、ラッキーって思ったような。

 我々としてはここでなぜ「清水にある所」が出て来るのかを考えたいところです。もちろん歌の「離れ=枯れ」と対比されていて、さらに露のようなはかない命という常套表現につながっているのですが、おそらくは女の心を表象していて、目の前に立ち塞がる岩(黄泉の国との境にある千引岩を連想してもいいでしょう)とともに読者に強いイメージを植え付けるためでしょう。ヴィジュアルなものはここまで戸しか出て来なかったのにクライマックスで2つ出して来たところに作者の手腕を感じます。

 さて、本当は「梓弓」の意味を始めとして和歌や絵巻物について述べておきたいことはあるんですが、とりあえず未完成なままでアップします。少しずつ公開しながら加筆・修正するというのもブログらしくていいかなって思ったもので。

 


 

  伊勢物語瞥見:東下り(2008-03-30)

 

 

 前回の梓弓をきちんと完成させてから他の段に行くべきなんでしょうけど、別のところにちょっかいを出したくなりました。それもこともあろうにいちばん有名な「むかし、男ありけり。その男、身をえうなきものに思ひなして、京にはあらじ、あづまの方にすむべき国をもとめにとてゆきけり」で始まる第9段の「東下り」についてです。この主人公の男がなぜ東国に行ったのかが気になってしまったんですね。

 まず、この段の構成を見ると三河の国の八橋、駿河の国の宇津の山、富士の山、武蔵の国と下つ総の国の間のすみだ河と4つの場所が出てきて、それらに対応して4首の歌が掲げられています。この段については自ら京を捨てて友だちと一緒に東国に旅立ったのに京を偲んで泣いてばかりいるとよく言われます。




例えば八橋では沢のほとりにかきつばたがきれいに咲いているのを見て、

 から衣 きつつなれにし つましあれば
 はるばるきぬる たびをしぞ思ふ

という唄を詠んでは「みな人、かれいひの上に涙おとしてほとびにけり」と泣くし、隅田川では見かけた白い鳥の名が「都鳥」というのを聞いて、

 名にし負はば いざこと問はむ みやこどり
 わが思ふ人は ありやなしやと

と詠んでは「船こぞりて泣きにけり」といった具合です。他の2首も宇津の山中で京で見知った人に託した恋人への和歌と(旧暦)五月に雪が降る富士をあきれたように詠んだ和歌ですから、見慣れぬ土地を楽しんでいるとはとても思えません。そんなに京がよければじっとしてればいいじゃないかって思うのが自然でしょう。





 

 この二首は古今和歌集にも業平の歌として収録されているんですが、おもしろいことに伊勢物語の本文と酷似した異例に長い詞書が付されています。そのわずかな違いの一つが「かれいひの上に涙おとしてほとびにけり」と「船こぞりて泣きにけり」がカットされている点です。伊勢物語を元にして古今集の編者が詞書を書いたとすれば(私はそう考えますが)、この個所は和歌に対する客観的な注釈であるべき詞書にふさわしくないと考えたのでしょう。それは逆に言えばこの泣く場面が物語らしさを形成していると言える気がします。

 そこで旅の動機が問題になるわけです。通常は(先行する段で述べられている)失恋の痛手を癒すためだとか、業平の兄の行平が信濃守だったのでその関係で旅行したとされているようです。これに対し、阿部俊子(講談社学術文庫:伊勢物語・上p.62)は平城天皇と桓武天皇を祖父に持つ貴種であった業平が藤原氏の勢力伸張を背景に繰り広げられた様々な権力闘争の中で自らを「身を要なき者」に思う基底があったとしています。阿部はそうした史実があったとしているわけではなく、「この物語において、当時の人が、ある男を造形し、この歌物語をまとめ上げる時、あるいは後に筆を加えて行く場合、当然の理解なり推測なりとして描いていた業平の心の襞や行動の動機として見ていたであろうもの」を考察したのだとしています。つまりお話の主人公としてどのような動機が想定されるのに適切かという観点から、彼の政治的立場による旅の動機を提出しているわけです。

 前回、伊勢物語の各段は主人公という点から見ると、

〔樵阿魑鵑欧覆い發里梁召療仂貎擁がどの皇族・貴族か特定されていて、そのため「男」とされている主人公が業平であることが明らかなもの、

△呂辰り業平だとは言い切れないものの「男」が高位の貴族らしいことなどから、そう考えても矛盾がないもの、

「男」の身分などから業平とは考えられないもの、

の3つに分けられるということを言いました。これから言うと阿部の考えはこの段を,謀たるものとした上で考究を展開していることになりそうです。でも、この段には(典型的な,紡阿垢訝覆妨られるような)他の登場人物がどの皇族・貴族か特定できるような記述はなく、つまり叙述の仕方自体に史実性が低く、業平的な人物のお話といった趣きの△里茲Δ覆發里世蹐Δ隼廚┐泙后

 換言すれば旅の動機、すなわちこの段の主人公が「身を要なきもの」に思った原因を失恋のような個人的事情や兄の地方赴任のような伝記的事実や政治的立場よりも、もうちょっと物語的な広がりをもって考えていいのではないかということです。それは例えばこの段を貴種流離譚の一類型として捉えるということです。貴種流離譚についてはウィキに要領よくまとめられているので、それを前提(そこでもこの段が貴種流離譚の一つとして挙げられています)として話を進めますが、ここで注目したいのは古事記における代表的な英雄、ヤマトタケルです。

 まずヤマトタケル(倭建命)についてざっと見ましょう。彼は最初から「東西の荒ぶる神、及(また)伏はぬ(まつろわぬ)人等を平げたまひき」(古事記・景行天皇 砲半匆陲気譴討い董東西の異種族に対するヤマト朝廷の征討軍を表象したもののように思われます。ところがこの基本的な性格の下で、古事記における彼の活躍の叙述の仕方は西と東でかなり違いがあります。

 最初にヤマトタケルはその「たけく荒きこころ」を景行天皇に恐れられ、熊曾建(くまそたける)の兄弟を討ちに行き、続いて出雲建(いずもたける)などを平らげます。ところがこれらの異種族の長がどこにいたのか、そこがどんな様子だったのかといった地理的な記述は全くありません。

 で、任務を十分に果たして戻ったヤマトタケルに対し、天皇は「東の方十二道の荒ぶる神、及(また)まつろはぬ人等を言向け和平せ(やはせ)」と今度は東も征服して来いと命令します。そこでヤマトタケルはおそらく戦勝祈願のため伊勢神宮に行き、そこで斎宮となっていた叔母の倭比売命(やまとひめのみこと)に次のように言います。陛下は西の悪者をやっつけて間もないのに、手勢もくれないで東国を平らげて来いとおっしゃる。「天皇既に吾死ねと思ほす所以か……猶吾既に死ねと思ほし看す(めす)なり」私に死ねとおっしゃっているのです。

 強すぎる英雄が王から疎まれ、悲劇的な死を遂げるのは古今東西の神話や歴史や文芸作品に見られることで、この瞬間から私はヤマトタケルが本当の意味での英雄になったのだと思います。おとぎ話の主人公からオペラのタイトルロールへの変身です。しかも、この相手の倭比売命は西に向かう際には御衣御裳(みそみも=衣装)を、この時は草薙の剣と御嚢(みふくろ=いざというときに開ける袋)を授けていますから、いわば天照大御神の代理としてヤマトタケルの守り神であったと言っていいでしょう。現実の天皇の企みはどうであれ、彼の使命は神々が寿いでいるということです。

 さて、その東征についての叙述ですが、国名・地名が頻出します。尾張国では土地の娘と婚約をし、相武(相模)国では御嚢と草薙の剣を使い、国造を焼き殺したという具合ですが、特に向かい火を点けたから焼遣(焼津)とか、亡き妻を思慕して「あづまはや(わが妻よ)」と3度呼んだので東国を阿豆麻(あづま)と呼ぶようになったとか、歩き疲れて餅を3つに曲げ重ねたように足が腫れ曲がったから三重というふうに地名の起源のような話がたくさん出てきて、西国の叙述と著しい対照をなしています。おそらくヤマトタケルに係る伝説が東国に伝わっていたのか、あるいは東国の人たちが自分たちと彼を結び付けたがっていたのでしょう。後世の弘法大師にまつわる各地の伝説を想起すればその辺の事情も想像できるでしょう。

 そして、戦いに疲れたヤマトタケルは鈴鹿山中で死に瀕し、故郷を偲んで唄います。その4首のうち、

 倭は 国のまほろば 
 たたなづく 青垣
 山隠れる(ごもれる) 倭し美し(うるはし)

という緑濃き山に囲まれた大和を褒め称えた歌と

 愛し(はし)けやし 吾家(わぎへ)の方よ 雲居立ち来も

我が家の方に立つ雲を見て懐かしむ歌はとても感動的です。ほどなくして彼は異郷で没し、大和から来た后や皇子によって葬られたのですが、その前で「八尋白智鳥(やひろしろちどり)に化りて(なりて)、天に翔けりて浜に向ひて飛び行きぬ」大きな白い鳥になり、飛び去ります。

 私は伊勢物語の東下りの段の作者は、主人公をこのヤマトタケルの伝説に(意識的か無意識かはともかく)重ね合わせていると考えます。ヤマトタケルは自らを要なき者と考えましたし、業平も阿部が言うように貴種であるがゆえにそう思うことがありえたでしょう。様々な土地(最初に見たように具体的地名が出て来ます)を遍歴しながら故郷を偲んでばかりいるのも、心ならずも東征を続けた英雄の姿が背景にあるからです。

 飛躍が過ぎるでしょうか? そういう気もします。しかし、主人公が東国を遍歴するのはこの段だけではなく、第7段の伊勢・尾張のあはひの海、第8段の信濃の浅間の嶽、第10段の武蔵の入間郡のみよしのの里、第14・15・116段の陸奥などなど多くあります。これらは業平に帰すことが困難なEな話もあるのですが、それだけになぜ主人公が東ばかりに行くのか(畿内より西ではわずかに第62段に筑紫が出て来るだけです)、いや行かせるのか、一考に値する問題だろうと思います。

 さらに、次回に見ることにしますが、在原業平が勅使として伊勢神宮に行った際に斎宮と恋愛関係にあったことが第69段の「狩の使い」で史実として語られています。この段の存在をもって「伊勢物語」の名前の由来だとするのが有力説のようですが、弱いと感じます。伊勢の神に寿がれた男の話と考えてはどうでしょうか。

 こう述べていくと都鳥(ゆりかもめと言われます)の一節はヤマトタケルの化身が想起されているとしたくなるところですが、それは違うように思います。なぜなら「白き鳥の、はしとあしと赤き、鴫の大きさなる」と描写されているからです。実際の都鳥がどうであれ、言葉としてくちばしと脚が赤いと言えば「八尋白智鳥」と重なりません。言語表現とはそういうものです。

 東国を旅すること自体が帰郷することがかなわず海に向かって飛んでいったいにしえの英雄に自らをなぞらえる自己の悲劇化であったというのは、日本の文芸における伝統であったような気さえしますが、そんな大きな問題を考えるのは今後の楽しみに取っておきましょう。





 今回、これを書くに当たって業平橋と隅田川に架かる言問橋に行ってみました。もちろんかつての隅田川がどこを流れていたのかさえ定かではないでしょうから、浅草にほど近いあの辺りに業平が行ったとは思えませんが、東京の地名でこれほど由来が古く、かつ著名な文芸作品に典拠を持つものも少ないでしょうから行く意味があると考えたわけです。ところが業平橋には由来を書いた銘板一つなく、言問橋に碑はあるにはありますが、磨滅(赤御影石の部分です)してほとんど読めません。それはそれで、なるほどねと気が済んだんですが。