作品批評2

 

 

 「とはずがたり」、または二股三股について(1)〜(9)

 マリアはマリアを殺したか?〜「ダ・ヴィンチ・コード」への一つの批判

 時計はなぜ「とけい」と読めるのか?

 

 


 

「とはずがたり」、または二股三股について

 

(1) 夢に見る薄衣

 

 「とはずがたり」は13世紀、鎌倉時代の二条という後深草院に仕えた女房が書いた自伝的文芸です。内容や背景は追々説明することになりますが、いちばん興味をそそられるのは副題wにあるように後深草院を始めとして、皇族や貴族と次々と関係を結んでいく様子をかなり露骨に描いているところにあるでしょう。それもただ男遍歴ってだけじゃなくて……まあ、それも追々w。

 で、この作品はずっと埋もれていて、よりにもよって戦時下の昭和13年(1938年)に宮内省の図書寮で発見されたんです。もちろん皇国史観真っ盛りの当時、皇族たちの乱れた性生活wが書かれた本を明らかにするわけにもいかず、知られるようになったのは戦後になってからでした。でも、内容が興味深いからなんでしょう、皇居から飛び出した書写本1冊しかないにもかかわらず、とても研究が進みました。おまけに瀬戸内晴美(寂聴)さんが「中世炎上」って小説にしたり、「あさき夢みし」って映画にもなっているそうです。それで、瀬戸内さんの小説(瀬戸内寂聴全集で500ページほどの長編です)も適宜ダシにしながら何回かに分けて紹介したいと思います。もちろん興味深いところだけw。

 まず、いきなり原文を掲げます(新潮日本古典集成64ページ)。

 十二月(しはす)には、常は神事なにかとて、御所ざまはなべて御ひまなきころなり。私にも、年の暮は何となく、行ひをもなど思ひてゐたるに、あいなく言ひならはしたる 十二月の月をしるべに、また思ひ立ちて、夜もすがら語らふほどに、やもめ烏のうかれ声など思ふほどに、「明け過ぎぬるもはしたなし」とて、とどまりゐ給ふも、そらおそろしき心地しながら、向ひゐたるに、文(ふみ)あり。

 この部分は全5巻中、第1巻の後半なんですが、ここまでのところで、二条は後深草院(御所)に処女を奪われて(その時の描写は「薄き衣はいたく綻びてけるにや、残る方なくなり行く」とかなり露骨です)、側室のようになってたんですが、その前からの初恋の人、西園寺実兼(この人も後年、太政大臣になった第一級の貴族です)がいたことが語られています。それで、ここは簡単に言うと年末で院が忙しいのをいいことに自宅に下がって、実兼と一晩中いいことしちゃってたらw院から手紙が着ちゃいましたってことです。でも、さすがにこんなことしてていいのかな(そらおそろしき心地しながら)とは思ってたんですね。で、手紙の内容ですが、

 いつよりもむつましき御言の葉多くて、

「うば玉の 夢にぞ見つる 小夜(さよ)衣 
 あらぬ袂(たもと)を 重ねけりとは

さだかに見つる夢もがな」とあるもいとあさましく、何をいかに見給ふらんとおぼつかなくも覚ゆれども、思ひ入り顔にも何とかは申すべき。

 ひとりのみ かた敷きかぬる 袂には
 月の光ぞ 宿り重ぬる

 われながらつれなく覚えしかども、申しまぎらかし侍りぬ。

 院の手紙にはいつもより愛情あふれる言葉が多かったんですが、添えられた歌が問題で、「夢で、おまえが他の男と袂を重ねているを見たよ」って言うんですね。ドキッてところです。「さだかに見つる夢もがな」はっきりと見た夢だったらなあなんて、カマをかけてるんでしょうか、解釈がむずかしい感じの表現です。

 それで、あわわ何をご覧になったのかしら、まさか「思い入り顔にも」ピンポーンって言うわけにもいかないんでw、「独り寂しく寝ている私の袂には、月の光が毎晩来ているだけですわ」って歌を返しました。我ながら図々しいわねって思うけど、ごまかしちゃったの。……この返歌は瀬戸内さんも丸谷才一も高く評価してるらしいんですが、私は実用上はちょっとまずいような感じがします。だって、「月の光って誰だよ」って訊きたくなりますから。そこを瀬戸内さんはうまく利用しています。

 
(院の)お使いをようやく帰したと思うと、実兼はふたたび蔀戸をおろしてしまって二条を押し倒した。
「さあ、私は月の光ですよ。あなたは不義をしているのではない。ただ月の光に濡れているだけだ。ね、そうでしょう」
 二条はどこにこんな大胆な裏切りの出来る自分がいたのかと、われながら呆れる想いで、実兼の胸の中にしっかりとしがみついていく。(全集第8巻175ページ)


 この作品は最初にも言いましたが、1冊しか底本がないのと言い回しが独特なところがあって、いろんな解釈があります。この部分もそうで、いちばんすごいのは相手が実兼ではなく、皇族の誰かだったというものです。つまり三股目ってことですね。……言い忘れましたが、この時、彼女は16歳、もちろん数え年で、しかもこの年の2月には院の子を産んでいます。しかし、これは序の口に過ぎません。

 


 

(2) 扇の中の壺

 

 すぐ後の原文を掲げます。

 今日はのどかにうち向ひたれば、さすが里のものどもも、女のかぎりは知りはてぬれども、かくなど言ふべきならねば、思ひむせびて過ぎゆくにこそ。

 二条の侍女たちは、女主人が後深草院の側室になって喜んでいたのに、西園寺実兼がのんびり居続けているので、あら、どうしましょって思ったのでしょう。瀬戸内さんはこの時の侍女たちについて、「ひっそりと息をひそめるようにしている。誰もが万一の時の責任を問われるのが怖ろしく、自分だけは知らなかったというふりをしていたいのだった」と描写して、小説らしい奥行きを与えています。かと言って二条は侍女たちに言い訳もできず、思いを押し隠して過ごしていたというわけです。

 さても今宵(こよひ)、塗骨に松を蒔(ま)きたる扇に、銀(しろがね)の油壺を入れて、この人の賜(た)ぶを、人に隠してふところに入れぬと夢に見て、うちおどろきたれば、暁の鐘聞ゆ。いと思ひかけぬ夢をも見つるかな、と思ひてゐたるに、そばなる人、同じさまに見たる由を語るこそ、いかなるべきことにかと不思議なれ。

 さて、「思ひむせびて」というやや破格の、しかし印象的な感情表現の内実は夢となって現われたようです。漆塗りの骨で、蒔絵の松を描いた扇に銀の油壺を添えて実兼がくれたのを懐に隠し入れた、その同じ夢を実兼も見たと言うのです。この夢が実兼の子を孕んだことを象徴していることは明らかですし、実際そのとおりの結果が後に生じるのですが、話が出来すぎていて作者の作為が入っていることも間違いないように思います。

 「とはずがたり」は回想録ではあるものの、いろんな意味でフィクションや逆に事実をぼかしたり(朧化と言います)といった作為が多いと言われます。でも、どんな事実があったかなんて私には興味はありません。同時代人を読者として想定しているはずなので歴史上の事件といったものについては根も葉もないことを書いたりはしないでしょう。そこから先は700年以上も前のことですから、創作しようがしまいがどっちでもいいんで、文芸作品としてよくできているかどうかの方が重要だと思います。そういうふうに考えられない人も多いとは思いますが。……二条はこの個所で読者を意識して妊娠の伏線を張っているわけで、物語的な工夫の一種だと思えばいいんだろうと思います。瀬戸内さんは次のような会話をさせています。

「まあ……何の意味の夢でしょうか」
「もしかしたら……」
 実兼はいいさして口をつぐんだ。
「ね、何の夢でしょう」
「私の子があなたの腹に宿ったのかもしれない」(176ページ)

 解釈を実兼にさせているので、原文から受けるあざとさが減殺されて主人公が純情に見えますね。いずれにしてもこのエピソードが全くの創作だとしても興味深いものだと思います。性的な象徴として扇と油壺はわかりやすく、それを塗骨とか松がさらに強めているわけですが、油壺に扇を入れるのではなく、逆になっているところが難解です。通常、添えてとか、載せてと解釈されていますが、すっきりしません。いっそのこと言葉そのままに扇の中に銀の壺を入れるといったシュールな夢を想像した方がおもしろいような気がします。

 この12月の出来事の翌年の9月に二条は実兼の子を出産します。表向きは院の子として。

 かかるほどに、二十日あまりの曙より、そのここち出できたり。人にかくともいはねば、ただ心知りたる人、一、二人ばかりにて、とかく心ばかりは言ひ騒ぐも、亡きあとまでもいかなる名にかとどまらんと思ふより、なほざりならぬ志をみるにも、いと悲し。いたく取たることなくて、日も暮れぬ。

 20日過ぎから産気づいてきたわけですが、頼りにならない侍女ばかりでこれで死んでしまったら大変って思ってたら、実兼がいろいろと気遣いしてくれて、ほっとひと安心といったところです。当時の(わりと最近まで)出産は命がけだったわけですし、狭い社会ですから自分の死後どんなふうに噂されるかも気になってしまうんですね。

 火ともすほどよりは、殊のほかに近づきて覚ゆれども、ことさら弦打(つるうち)などもせず、ただ衣の下ばかりにて、ひとり悲しみゐたるに、深き鐘の聞ゆるほどにや、あまり堪へがたくや、起きあがるに、「いでや、腰とかやを抱くなるに、さやうのことがなきゆゑに、滞るか。いかに。耐ふべきことぞ」とて、かき起さるる袖にとりつきて、ことなく生れ給ひぬ。まづ、「あなうれし」とて、「重湯とく」など言はるるこそ、いつ習ひけることぞと、心知るどちはあはれがり侍りしか。

 弦打は弓をびゅんびゅんと鳴らして、赤ん坊に憑りつこうとする悪霊を追い払うまじないのようなものなんですが、実兼に言われて妊娠の月をごまかしていたので、それもしないわけです。実兼は出産にも立ち合ってくれて、当時の習慣で座ったまま分娩するのを後ろから抱えて、いろいろと言葉をかけてくれます(ここも解釈がむずかしいんですが、要はそういうことです)。それで陣痛に苦しんでいた二条もその袖にしがみついて産むことができました。赤ん坊について「生まれ給ひぬ」と敬語を使っているのは、表面上は院の子だからです。「あなうれし」(よかった、よかった)も「重湯とく」(二条にあげる重湯を早く)も実兼の台詞です。侍女たちはそんな様子を見て、いつ覚えたのかしらねえと感心しています。

 さても何ぞと、火ともして見給へば、産髪黒々として、今より見開け給ひたるを、ただ一目みれば、恩愛のよしみなれば、あはれならずしもなきを、そばなる白き小袖におし包みて、枕なる刀の小刀にて、臍(ほぞ)の緒うち切りつつ、かき抱きて、人にもいはず外へ出で給ひぬとみしよりほか、またふたたびその面影みざりしこそ。

 赤ん坊は髪の毛もふさふさとして、目を開けていて、親子の情が湧いてくるのですが、実兼は臍の緒を小刀で切ってそのまま連れて出てしまい、二条はその子に二度と会うことはありません。

 「さらば、などや今一目も」と言はまほしけれども、なかなかなればものは言はねど、袖の涙はしるかりけるにや、「よしや、よも。長らへてあらば、見ることのみこそあらめ」など慰めらるれど、一目見合はせられつる面影忘られがたく、女にてさへものし給ひつるを、いかなる方へとだに知らずなりぬると、思ふも悲しけれども、いかにしてと言ふに、さもなければ、人知れぬ音をのみ袖に包みて、夜も明けぬれば、「あまりに心地わびしくて、この暁はや堕し給ひぬ。女にてなどは見え分く程に侍りつるを」など奏しける。「温気(ぬるけ)などおびたたしきには、皆さることと、医師(くすし)も申すぞ。構へていたはれ」とて、薬どもあまた賜はせなどするも、いと恐ろし。

 前半は母親らしい感情が描かれた部分で、我が子の顔をもう一度だけでもと言いたいのを堪えて泣いていると、それを察して「まあ、生きていればまた会えることもありますよ」といたわってくれますが、二条としては顔を忘れることも出来ず、その子がどうなるかあれこれ心配してしまいます。この場面はさっきの臍の緒を自分で切ったところを始め、リアルな描写の中に実兼のてきぱきとした姿と思いやりのある性格がよく現われているところですね。現代の父親でも出産時にここまで頼もしい人はそうそういないでしょう。もちろん実兼としては院にバレないようにうまく切り抜けないと大変なことになるわけですが、そうした打算だけではないと思います。……赤ん坊は実兼の実子として育てられ、一説には後に後深草院の弟、亀山天皇の后になったと言われます。もしそうだとすると……いや、それも追々紹介した方がいいでしょうw。

 「あまりに……」からは院に対する報告です。「女の子と見分けがつくまでにはなっていましたが、流産してしまいました」と申し上げると、「発熱がひどいときにはそういうものだと医者も言っているな。よくよく静養するように」とのお言葉とともに薬をたくさん賜ったのだけれど、何とも罰が当たりそうで恐ろしいということです。

 


 

(3) 御大口のみにて忍ばん

 

 斎宮は天皇の名代として、伊勢神宮に仕える未婚の内親王などのことで、今回登場する方は後深草院とは異母兄妹の関係です。ずっと伊勢に下っていたので、院は会ったこともなかったのですが、母親の大宮院が嵯峨の自宅に院を招き、そこに衣笠にいた斎宮も呼んで引き合わせようとしたところから始まります。20歳過ぎになって都に戻ってきたので、院に引き立ててもらって誰か適当な相手でも見つけてもらおうといったところでしょう。斎宮や賀茂神社に仕える斎院は天皇家にとって、ということは当時の国家にとって重要な役割を担っていたはずですが、いちばん恋愛経験を積むはずの10代に神に仕えて過ごすので、世間知らずになってしまうことが多かったようです。

 明けぬれば、「今日斎宮へ御迎へに、人参るべし」とて、女院の御方より、御牛飼・召次(めしつぎ)、北面の下臈(げらふ)など参る。心ことに出で立たせおはしまして、「御見参あるべし」とて、われもかう織りたる枯野の甘(かん)の御衣(おんぞ)に、龍胆(りんだう)織りたる薄色の御衣、紫苑色の御指貫(さしぬき)、いといたう薫(た)きしめ給ふ。(78ページ)

 院は妹に初めて会うからか、季節の草花を配してずいぶんとおしゃれをしてたんですね。それをわざわざ描写しているのは作者の二条の意図があるわけで、瀬戸内さんが「早くも院の好色の虫がうごめきだしたのが、二条には手にとるようにわかる。とはいっても、やはり実の妹という関わりがあるから、いつもの女のようには運ばないだろう」(213ページ)と説明しているとおりでしょう。

 夕がたになりて「入らせ給ふ」とてあり。 寝殿の南面取り払ひて、鈍色(にぶいろ)の几帳取り出だされ、小几帳など立てられたり。御対面ありと聞えしほどに、女房を御使にて、「前斎宮の御わたり、あまりにあいなく、さびしきやうに侍るに、入らせ給ひて御物語候へかし」と申されたりしかば、やがて入らせ給ひぬ。御太刀もて例の御供に参る。

 夕方に斎宮が来られて、まず大宮院が対面されたのですが、「院がお見えにならないのは、ちょっと愛想そがなさすぎます。斎宮もさびしそうですから、お越しになってお話でも」と女房に使いに寄越されました。では、ということで院が二条をお供にして現われます。

 大宮院、顕紋紗(けんもしゃ)の薄墨の御衣、鈍色(にぶいろ)の御衣(おんぞ)引きかけさせ給ひて、同じ色の小几帳立てられたり。斎宮、紅梅の三つ御衣に青き御単ぞ、なかなかむつかしかりし。御傍親とて候ひ給ふ女房、紫のにほひ五つにて、物の具などもなし。

 ここはかなりイジワルな部分です。大宮院は衣装と調度を合わせたりで地味な中にもセンスが光ってるのに、斎宮ったら色はくどいし、11月というのに紅梅の模様なんてダサイわね。お付きの女房も持ってる衣装をごてごて着てるけど、院の前なのにフォーマルなので揃えられないんだから。って感じでファッション・チェックしてますw。

 斎宮は二十(はたち)にあまり給ふ。ねびととのひたる御さま、神も名残をしたひ給ひけるもことわりに、花といはば、桜にたとへてもよそめはいかがとあやまたれ、霞の袖を重ぬるひまも、いかにせましと思ひぬべき御有様なれば、ましてくまなき御心のうちは、いつしかいかなる御物思ひの種にかと、よそも御心苦しくぞ覚えさせ給ひし。

 さて、斎宮が当時としては女盛りを過ぎていたのを「ねびととのひたる」大人びている様子は伊勢の神様が引き止めたのも道理で、桜の花にも劣らないほどの美しさ、それを袖で隠すのを誰だって何とかしたくなりそうなのをましてや抜け目のない院がそわそわするのは当たり前。それをそばで見ている私もわかるだけにお気の毒に思われたといったところでしょう。「桜」、「霞の袖」、「くまなき」と比喩と連想をつなげているので、かえって意味としては通りにくくなっています。 

 御物語ありて、神路の山の御物語などたえだえ聞え給ひて、「今宵はいたう更け侍りぬ。のどかに明日は、嵐の山の禿(かぶろ)なる梢どもも御覧じて、御帰りあれ」など申させ給ひて、わが御方へ入らせ給ひて、いつしか、「いかがすべき、いかがすべき」と仰せあり。思ひつることよとをかしくてあれば、「幼くより参りししるしに、このこと申しかなへたらん、まめやかに志ありと思はん」など仰せありて、やがて御使に参る。ただ大方なるやうに、「御対面うれしく、御旅寝すさまじくや」などにて、忍びつつ文あり。氷襲(がさね)の薄様にや、
 知られじな 今しも見つる 面影の
 やがて心に かかりけりとは


 とりあえず伊勢の話を斎宮がするとか、院が明日は嵐山に行かれるとよいと勧めるとかお上品な会話をした後、自室に戻って来た途端、「どうしよう、どうしよう」と気持ちを抑えかねている様子。それを二条が案の定と腹で笑っていると「幼い頃から仕えてきたよしみでうまく取り持ってくれれば、誠意があると思うのに」と愛人である二条を使いに立てます。高貴な人ってこんなもんでしょうか。通り一遍のご機嫌伺いに「初めて会ったのにもう心から離れないなんて、あなたはご存じないでしょうね」と熱烈な歌を密かに添えました。
 
 更けぬれば、御前なる人もみなより臥したる、御主も、小几帳ひき寄せて、御とのごもりたるなりけり。近く参りて、事のやう奏すれば、御顔うち赤めて、いと物ものたまはず。文も、見るとしもなくてうちおき給ひぬ。「何とか申すべき」と申せば、「思ひよらぬ御言の葉は、何と申すべき方(かた)もなくて」とばかりにて、また寝給ひぬるも心やましければ、帰り参りてこのよしを申す。「ただ寝給ふらんところへ、みちびけ、みちびけ」とせめさせ給ふもむつかしければ、御供に参らんことはやすくこそ、しるべして参る。

 ところが斎宮はこうしたことに慣れていないために顔を赤らめるだけで、黙っています。お返事を促しても「思いもよらないことなので」と気が効かないこと夥しく、また寝てしまうのでどうしましょと院のところに戻ると「寝ててもいいから、連れてけ、連れてけ」ともう抑えようがないようです。困ったものね、お連れするのは簡単なんだけどと案内します。

 甘(かん)の御衣などはことごとしければ、御大口(おんおほくち)ばかりにて、忍びつつ入らせ給ふ。まづ先に参りて、御障子をやをらあけたれば、ありつるままにて、御殿ごもりたる。御前なる人も寝入りぬるにや、音する人もなく、小さらかにはひ入らせ給ひぬるのち、いかなる御ことどもかありけん。

 私としては今回のような場面もできる限り上品に紹介したいwんですが、ここはそうもいかないところです。要は院は「御大口」ステテコ姿で身をかがめて、男を迎える用意もしていない斎宮のところに夜這いするわけです。「いかなる御ことどもかありけん」どんなことがあったでしょう、じゃないだろって感じです。

 うちすて参らすべきならねば、御上臥ししたる人のそばに寝れば、今ぞおどろきて、「こは誰そ」といふ。「御人少ななるも御いたはしくて、御宿直(とのゐ)し侍る」といらへば、まことと思ひて物語するも、用意なきことやとわびしければ、「眠たしや。更け侍りぬ」といひて、空眠りしてゐたれば、御几帳のうちも遠からぬに、いたく御心も尽さず、はやうちとけ給ひにけりと覚ゆるぞ、あまりに念なかりし。

 二条は院を見守る役目があるので斎宮の女房の側に寝ると、自分の主人が手籠めされているとも気づかず、世間話をしにきてしまう有り様です。主人が主人なら女房も女房だということです。二条としては気になるのは几帳、カーテンの向こうですが、どうも院が手練手管を使うほどのこともなく、あっさりなびいてしまったらしい、つまんないったらありゃしないってところでしょう。

 心強くて明し給はば、いかにおもしろからんと覚えしに、明けすぎぬさきに帰り入らせ給ひて、「桜は、にほひは美しけれども、枝もろく折りやすき花にてある」など仰せありしぞ、さればよと覚え侍りし。日高くなるまで御殿ごもりて、昼といふばかりになりて、おどろかせおはしまして、「けしからず、今朝しもいぎたなかりける」などとて、今ぞ文ある。御返事にはただ、「夢の面影はさむる方なく」などばかりにてありけるとかや。

 院を朝まで強く拒み通せばとてもおもしろかったのになんて感想を述べていますが、そういう感想を持つ女性の方がよほどおもしろいような気がします。自分は14歳の時、最初に院に挑まれた際には拒み通したことが念頭にあるんでしょうか。瀬戸内さんの小説をちょっと引用します。

 もう少し強く長く拒まれたらよかったのに。自分なら、もっともっと抵抗し、院の手に噛みつき、脚を蹴り、膝を胸に押し抱いて身を守っただろう。そう思うのは、すべて、そうするように院にそれとなくしむけられ、覚えてしまった護身法ではなかったか。院はひとつずつ、気長にそれらを、それとなく二条に悟らせるようにしむけながら、二条の抵抗が強くなるほど、それを征服する歓びを増していったにちがいないなかった。あれではあまり趣がなさすぎる。−−そう思ったとたん、二条ははっと気づいた。今、自分が斎宮の抵抗ぶりについてつまらないと考えたことは、女のたしなみからの批判ではなく、院の閨房の趣味に飼い馴らされた嗜好からの非難であったようだと思う。(221ページ)

 瀬戸内さんは、原作が率直に書かれているだけに反発を招きやすい二条の考えや行動を院の嗜好にうまくすり変えていますね。当たり前ですが、原作とそれを元にした小説とでは人物のイメージは全く異なると言っていいでしょう。……それはともかく、院は斎宮のところに明け方までいないで帰ります。ということはそれだけで満足していないってわかりますよね。「折りやすい桜みたいなもんだな」っていう院の感慨は身勝手ですが、二条の「さればよと覚え侍りし」そりゃそうでしょって反応はもっとすごいですね。それで、院は昼近くまで寝てしまいます。「しまった。寝坊しちゃったよ」いい感じなら朝帰りしてすぐに送る後朝(きぬぎぬ)の文も忘れてたんですね。ところが斎宮の返事はそれを咎めるふうもなく、「まだあなたの顔が醒めない夢のように」なんてのぼせちゃってます。

 今回の場面は禁断の恋ってことかなって思っていたら、そういう感じはほとんどなくて、身分は高くても垢抜けない盛りを過ぎた女性を笑い飛ばすのが目的だったようです。モテル女性がモテない女性のことを書くとしばしば残酷になるんでしょうね。なお、時期としては二条が17歳の11月と推定されています。前回紹介した出産、子どもとの離別が9月で、10月には院との間にできた男の子が死んだのを嘆いて出家して諸国遍歴しようなんて思っていたんですが、内容的には関係がないというか、ケロッとしているのは見てきたとおりです。

 


 

(4) 心の中は仏や知らん

 

 さて、このシリーズもいよいよ佳境wに入って来ます。第2巻、作者は18歳になっています。後白河院の供養のための法要が後深草院の御所の敷地内のお堂で行われたときのことです。後白河院は言うまでもなく平家物語の時代に権謀術数を駆使した人で、去年の大河ドラマで平幹二郎がいい味を出してましたね。愛人の丹後局の夏木マリとともにいちばん楽しそうに演技してました。後白河院の孫が安徳天皇と後鳥羽院で、そのまたひ孫が後深草院です。

 かくて三月(やよひ)の頃にもなりぬるに、例の後白河院御八講にてあるに、六条殿長講堂はなければ、正親町(おほぎまち)の長講堂にて行はる。結願十三日に御幸なりぬる間に、御参りある人あり。「還御待ち参らすべし」とて候はせ給ふ。二棟の廊御わたりあり。(102ページ)

 正親町は後深草院の御所で、3月13日が後白河院の命日なんでそれが最終日、その日に偉いお坊さん、阿闍梨が来て、院がお堂から戻って来るのを待っていたということです。このお坊さんは後深草院の弟の性助(しょうじょ)法親王だと言われています。

 参りて見参に入りて、「還御は早くなり侍らん」など申して、帰らんとすれば、「しばしそれに候へ」と仰せらるれば、何の御用ともおぼえねども、そぞろき逃ぐべき御人柄ならねば、候ふに、何となき御昔語り、「故大納言が常に申し侍りしことも、忘れずおぼしめさるる」など仰せらるるも、なつかしきやうにて、のどのどとうち向ひ参らせたるに、何とやらん思ひの外なることを仰せられ出して、「仏も心きたなき勤めとやおぼしめすらんと思ふ」とかや承るも、思はずに不思議なれば、何となくまぎらかして立ち退かんとする袖をさへ控へて、「いかなる暇とだに、せめては頼めよ」とて、まことに偽りならず見ゆる御袖の涙もむつかしきに、還御とてひしめけば、引き放ちまゐらせぬ。

 二条がちょっと言葉をかけて早々に引き下がろうとしたら、まあまあとか言って「亡くなったお父さんがねえ」とかいう昔の話をし始めたわけです。それで「のどのどと」のんびりと話をしてたら、何だか様子がおかしい。瀬戸内さんの小説を引用します。

「あなたは愕くかもしれないが、私はもうこの頃では、仏の前でおつとめするのが怖ろしくなっているのです」
「ええっ」
「仏は、何もかもお見通しです。私の心の中の煩悩の炎もお見通しです。それが怖ろしい」
「煩悩など……阿闍梨さまのような尊いお方には無縁でございましょう」
「二条どの……そう見えますか」
 二条は、その声の常とはちがうひびきにはっとなった。青いほど澄んだ阿闍梨の瞳の白眼に、血走る筋が走っている。黒目の中は火のように燃えているものがある。
「もう、ずっと何年も前から、私はあなたに思いこがれて、煩悩の鬼になっているのです」
 阿闍梨の膝が二条の膝にふれるほど近づいてきて、二条はその手をしっかりとつかまえられていた。(261ページ)


 まあ、簡単に言っちゃえばお坊さんのくせに兄の愛人にセクハラしてるってところです。「仏も心きたなき勤めとやおぼしめすらん」っていい台詞ですね。愛情って言うより、瀬戸内さんが描いたように情欲って感じがよく出ています。「いかなる暇とだに、せめては頼めよ」なんとか時間作って、会ってよと言いながら泣いちゃうところがこの時代の男らしいんですが、そこで院がお帰りだと騒がしくなるところが話をうまく引っ張っています。

 思はずながら、不思議なりつる夢とやいはんなど覚えてゐたるに、御対面ありて、「久しかりけるに」などとて九献すすめ申さるる、御陪膳(はいぜん)をつとむるにも、心の中を人や知らんといとをかし。

 で、兄弟のご対面ってことでお酒になって、二条は給仕をするわけですが、そのときに思っていたのが「心の中を人や知らんといとをかし」です。ここを瀬戸内さんは「阿闍梨の目の中にはまだ邪恋のほむらの影が燃えているようで、二条は目をまともに向けられないが、この一座の中で阿闍梨以外は、あのことを知らないのかと思うと、ふとおかしさもこみあげてくる」としています。

 でも、私はこれでは不十分だと思います。「心の中」って誰の心でしょう? 二条でしょうか、阿闍梨でしょうか。「人や知らん」の人って誰でしょう? この二人以外の院を始めとしたその場の人たちでしょうか。『取り澄ました阿闍梨さまが心の中ではあんなこと考えてたって、あたし以外には誰も知らないなんておかしい』ということでしょうか。「いとをかし」にはもっとタチの悪いものがありそうです。そうした気持ちだけでなく、さらに二条は阿闍梨も「人」の中に入れているような気がします。

 つまり『あたしが本当のところ、あんたたちをどんなふうに思っているのか……院も阿闍梨も他の連中も結局、あたしと寝ることしか考えていないってあたしが見くびっている。そういうあたしの心の中をだーれも知らないなんておかしくって仕方がないわ』といったことじゃないかと思うんです。瀬戸内さんは二条をこんな『悪い女』ではなく、男たちに言い寄られてばかりいる、ある意味不幸なモテる女に描いていますが、原文を読んでいくと主人公(あえて筆者とは別の人格と考えておきます)は、モテるがゆえに男も女も、高貴な人間もそうでない人間も見下している人物のように思えます。

 そこでさらに『そんなことを考えている自分だって大したもんじゃない』って思えればある種の人間観と言えるんでしょうけど、そうではなく「いとをかし」とおもしろがっているだけなんですね。……まあ、この主人公がどういう人間なのかは、このシリーズを最後までお読みいただいて、それぞれ判断していただくのがいいんですが。

 


 

(5) 修法の色

 

 前述のとおり、3月に二条に迫った性助法親王は9月に機会を捉えて再びアプローチを試みます。この間には同じく後深草院の弟の亀山院からも「いかにせん うつつともなき 面影を 夢と思へば 覚むる間もなし」と恋の歌が寄せられています。まあ、よくモテるもんだなと感心しますが、返歌は「うつつとも 夢ともよしや 桜花 咲き散る程と 常ならぬ世に」と軽くかわすところなんかはさすがは恋愛の達人w、斎宮なんかとはセンスが違って、見た目だけじゃあなかったんだなと思わせるものがあります。

 かくしつつ八月(はづき)のころにや、御所に、さしたる御心地にてはなく、そこはかとなく悩みわたり給ふことありて、供御を参らで、御汗垂りなどしつつ日数重なれば、いかなることにかと思ひ騒ぎ、医師(くすし)参りなどして、御灸(やいとう)始めて、十ところばかりせさせおはしましなどすれども、同じさまに渡らせおはしませば、九月(ながつき)の八日よりにや、延命供(えんめいく)始められて、七日過ぎぬるに、なほ同じさまなる御ことなれば、「いかなるべき御ことにか」と嘆くに、さてもこの阿闍梨に御参りあるは、この春、袖の涙の色を見せ給ひしかば、御使に参る折々も、言ひ出しなどし給へども、まぎらはしつつ過ぎ行くに、この程こまやかなる御文を賜はりて、返事をせめわたり給ふ。いとむつかしくて、薄様の元結のそばを破りて、「夢」といふ文字を一つ書きて、参らするとしもなくてうち置きて帰りぬ。(106ページ)

 8月に院の具合が悪くなって「供御」食事も召し上がらなくなったりしたので、医者がお灸をすえたりもするんですが、良くならない。それで9月8日から普賢延命菩薩を本尊とした修法を例の性助法親王が執り行います。一週間やってみてもやっぱり変わり映えがしないのですが、ここでちょっと長めに3月以降の二人のやり取りが紹介されます。二条が院のお使いで法親王のところへ行くと、口説かれたりするのをかわしていたところ、心のこもった手紙を寄越して、返事を強要されるんですね。で、困ったなってことで、髪を留めている紙の端をちぎって、「夢」とだけ書いて、それを置いて帰ります。これってどう思います? 表面的には「私とのことは夢だと思ってください」ってことですが、私には髪の匂いを移した紙に一字だけ書いてお坊さんのところに置いておくなんて、思わせぶりというか、罪作りな気がしますけど。

 また参りたるに、樒(しきみ)の枝を一つ投げ給ふ。取りて片方(かたかた)に行きてみれば、葉にもの書れたり。

 樒摘む 暁起きに 袖ぬれて
 見果てぬ夢の 末ぞゆかしき

 優におもしろくおぼえて、この後すこし心にかかり給ふ心地して、御使に参るもすすましくて、御ものがたりの返事もうちのどまりて申すに、御所へ入らせ給うて御対面ありて、「かくいつとなくわたらせ給ふこと」など嘆き申されて、「御撫物(なでもの)を持たせて、御時(じ)はじまらんほど、聴聞(ちやうもん)所へ人を賜はり候へ」と申させ給ふ。初夜の時はじまるほどに、「御衣(おんぞ)を持ちて聴聞所にまゐれ」と仰せあるほどに、参りたれば、人もみな伴僧(ばんそう)にまゐるべき装束(しやうぞく)しに、おのおの部屋部屋へ出でたるほどにや、人もなし。ただ一人おはしますところへ参りぬ。


 すると法親王もなかなかのもので、次に二条が参上したときに何も言わずに(たぶん仏像に向かったまま)樒の枝を投げます。見てみると葉に歌が書いてあります。この歌は新古今和歌集の小侍従の「樒摘む 山路の露に ぬれにけり 暁起きの 墨染めの袖」を本歌とするもので、下の句の「あなたは夢と言うけれど、その先が気になります」という伝えたい内容と上の句がとてもよく合っていますし、また「袖ぬれて」が「あなたのことを想って、涙を流しています」という隠されたメッセージになっています。で、これを「優におもしろくおぼえて」以来、気になるようになり、お使いも楽しみになり、会話もはずむようになったということです。……ただこの話はちょっとよく出来すぎているような気がしますね。樒って小さな葉っぱですからどうやって歌を書いたんでしょう。フィクションならフィクションでいいんですが、よけいな心配はさせないでほしいです。

 「御所へ入らせ給うて御対面ありて」からは9月の修法の話に戻っています。法親王が院にご対面して、こんなに長く患っておられるのはひょっとすると穢れや呪いのせいかもってことで呪法を行います。院の着物(御撫物)に穢れや呪いを移して、祈祷をする部屋(聴聞所)に最初の勤行をする頃に持って来いということなんで、行ってみるとお供のお坊さんたちも誰もいない。法親王ただ一人のところに来ちゃったんですね。

 「御撫物、いづくに候ふべきぞ」と申す。「道場のそばの局へ」と仰せ言あれば、参りて見るに、顕証気に御灯明の火に輝きたるに、思はずに萎えたる衣にてふとおはしたり。こはいかにと思ふほどに、「仏の御しるべは、くらき道に入りても」など仰せられて、泣く泣く抱きつき給ふも、あまりうたてく覚ゆれども、人の御ため、「こは何ごとぞ」などいふべき御人柄にもあらねば、忍びつつ「仏の御心のうちも」など申せども叶はず。見つる夢の、名残もうつつともなきほどなるに、「時(じ)よくなりぬ」とて伴僧ども参れば、うしろの方より逃げ帰へり給ひて、「後夜(ごや)のほどに、いま一度かならず」と仰せありて、やがて始まるさまは何となきに、参り給ふらんとも覚えねば、いとおそろし。

 院の着物をどこに置きましょうかと訊くと、そばの部屋にとの指示なんで行くと灯明が明々と灯っているところにラフな格好で入って来ます。「み仏のお導きは、たとえ暗い道であっても」と言う法親王の台詞も灯明と対応した隠喩でしょう。地の文と台詞が照応するのは謡曲などではふつうです。まあ、そんなことはどうでもいいですねw。法親王は泣きながら抱きついてきます。相手の身分が身分なんで二条の抵抗も弱々しく、「み仏がどう思われるか」と言っても無駄でした。……「見つる夢の」からはもう事がすんでいて、お供のお坊さんが部屋の外から声を掛けるのに、法親王は慌てて逃げて行きます。院が斎宮の元に忍び込んだ時の描写と同じく、男がカッコ悪い状況をよく見てますね。逃げるさなかに「明け方に、も一回。絶対ね」なんて、そんなんじゃ呪法の効き目なんかあるわけないじゃん、あーおそろし。この部分は難解らしいですが、まあこんな意味じゃないでしょうか。

 御あかしの光さへ、曇りなくさし入りたりつる火影は、来ん世の闇も悲しきに、思ひ焦がるる心はなくて、後夜過ぐるほどに、人間(ひとま)をうかがひて参りたれば、このたびは御時果てて後なれば、少しのどかに見奉るにつけても、むせかへり給ふけしき、心苦しきものから、明けゆく音するに、肌に着たる小袖に、わが御肌なる御小袖をしひて形見にとて着かへ給ひつつ、起きわかれぬる御名残もかたほなるものから、なつかしく、あはれともいひぬべき御さまも、忘れがたき心地して、局にすべりてうち寝たるに、いまの御小袖のつまに物あり。

 で、こんなんじゃ来世は地獄に落ちてしまうと思い、別に法親王を思い焦がれていたわけでもないと言い訳しながら、言われた時間に自ら行ってしまいます。ここではその様子は「少しのどかに見奉る」ちょっとゆっくりめにされちゃいましたとしか書いてないので、物足りませんねw。瀬戸内さんの想像力をお借りしましょう。かなりたっぷり濃厚なんで、ダイジェストで。

 阿闍梨は、二条の手をとると、腕が抜けるかと思うほど強くつかんで部屋の中にひきいれ、物もいわず抱きよせ、物狂おしく抱擁した。(中略)阿闍梨のことばは、すべて火のように燃えあがっているので、二条は耳に阿闍梨の息をふきこまれる度、身体が焼けただれるのではないかと思う。(中略)衣の下の阿闍梨の裸身は、院よりも骨太で男らしく、禁欲の生活の証しの底知れぬ活力がみなぎっていた。(中略)さして恋しいとなどと思ったわけでもない阿闍梨の愛を受けいれて、院や実兼に愛される時と同じように、自分の身体は臆面もなく、激しさに応えている。(291-2ページ)

 で、愛を交わせば交わしたで、別れがつらくなるのは世のならい、着ていた肌着を交換します。この習慣自体は感覚的に理解しやすいと思いますが、「起きわかれぬる御名残もかたほなるものから」と言っている理由がちょっとわかりません。「かたほなる」は不十分とか妙だとかそぐわないとか訳されていますが、その前後に描写されている優雅な後朝(きぬぎぬ)の別れの場面の感想として、それこそそぐわないのです。お坊さんと修法中の異常な交情だったということだからなのか、法親王だけがのぼせていたからなのか、いずれにしても愛を楽しんでも、溺れたりはしない、主人公の良かれ悪しかれ理知的な面が出ている感じです。……部屋に戻って寝ころんでいたら、交換した小袖に何か入っていました。  

 取りてみれば、陸奥紙(みちのくにがみ)をいささか破(や)りて、

  うつつとも 夢ともいまだ 分きかねて
  悲しさ残る 秋の夜の月

とあるも、いかなるひまに書き給ひけんなど、なほざりならぬ御志もそらに知られて、このほどはひまをうかがひつつ、夜を経てといふばかり見奉れば、このたびの御修法(しゆほふ)は、心清からぬ御祈誓、仏の御心中もはづかしきに、二七日の末つ方よりよろしくなり給ひて、三七日にて御結願(けちぐわん)ありて出で給ふ。


 取り出してみると、厚手の紙を破ったものに歌が書いてありました。旧暦9月の15日頃の話ですから晩秋の明け方に残る月とはかない出会いがうまく重ね合わされています。それにほだされて隙を見つけては毎晩と言っていいくらいしちゃって、み仏の手前恥ずかしいのに、院の具合は二週目くらいからだんだん良くなって、三週間で修法が無事終了します。

 明日とての夜、「またいかなる便りをか待ちみん。念誦の床にも塵積もり、護摩の道場も、煙絶えぬべくこそ。おなじ心にだにもあらば、濃き墨染の袂になりつつ、深き山にこもりゐて、幾ほどなきこの世に、物思はでも」など仰せらるるぞ、あまりにむくつけき心地する。明けゆく鐘に音をそへて起きわかれ給ふさま、いつならひ給ふ御言の葉にかと、いとあはれなるほどにみえ給ふ。御袖のしがらみも、洩りてうき名やと、心ぐるしきほどなり。かくしつつ結願ありぬれば、御出でありぬるも、さすが心にかかるこそ、よしなき思ひも数々色添ふ心地し侍れ。

 その別れに前の夜、法親王は「いつまたこんなチャンスがあるんだろう。修行なんかする気がもう起きないよ。あなたがその気になってくれさえすれば山奥でひっそりと二人で暮らそう」などと現実味のないことを言います。夜明けの鐘が鳴って別れていく様子も未練たっぷり、泣く泣くという具合です。まあ、そうやって法親王は去って行きますが、その時の二条の感慨、「よしなき思ひも数々色添ふ心地し侍れ」は悩みがまた増えちゃって困るわってことですが、「色添ふ」というのはどうも満更でもない、いやそれどころかドンジョヴァンニのカタログみたいな感じかなって言うと意地悪すぎますかね?

 


 

(6) うらうらとなべて悲し

 

 二条が20歳の時の8月に院が伏見に行幸したときの話です。行幸と言っても今様を楽しむための遊びです。その最初の夜から本文を見ていきます。

 御所御寝(ぎよしん)の間に、筒井の御所の方へ、ちと用ありて出でたるに、松の嵐も身にしみ、人待つ虫の声も、袖の涙に音を添ふるかと覚えて、待たるる月も澄みのぼりぬるほどなるに、思ひつるよりもものあはれなる心地して、御所へ帰り参らんとて、山里の御所の夜なれば、みな人しづまりぬる心地して、掛湯巻にて通るに、筒井の御所の前なる御簾(みす)の中より、袖をひかゆる人あり。(148ページ)

 院が寝た後に、「ちと用ありて」実兼のところに行こうとしたのでしょうか、会えなかったと解しておきます。それで、松風が身にしみ、松虫(今の鈴虫です)の鳴き声にほろりとしたところに、澄みきった下弦の月が上って来て、思っていたよりも物寂しい気がしたんですね。みんな寝静まっているようです。浴衣のような(季節は合いませんが)着物で、院のところへ戻ろうとする、御簾の中から、誰かに袖を引っ張られます。

 まめやかに化物の心地して、荒らかに「あな悲し」といふ。「夜声には、木霊(こだま)といふもののおとづるなるに、いとまがまがしや」といふ御声は、さにや、と思ふも恐ろしくて、何とはなく引き過ぎんとするに、袂はさながらほころびぬれども、放ち給はず。人の気配もなければ、御簾の中に取り入れられぬ。

 ホントに化け物だと思って、「きゃ、怖い」って大きな声を出したら、「そんな声を出すと木霊という化け物が現われるじゃないか、縁起でもないったらありゃしない」と言われてしまいます。その声が近衛大殿だと気づき、よけいに怖くなって、何事もなかったことにして行ってしまおうとしても、放してくれず、袂が破れてしまいます。誰か来る様子もなく、中に引き入れられてしまいます。近衛大殿は当時摂政だった50歳の鷹司兼平とされていて、貴族としては最高位にあった人物です。そういう人もあたしの色香には惑っちゃうのよね……といったところでしょう。いえ、力ずくのやり方はいけませんねw。

 御所にも人もなし。「こはいかに、こはいかに」と申せども、かなはず。「年月思ひそめし」などは、なべて聞きふりぬることなれば、あなむつかしと覚ゆるに、とかく言ひ契り給ふも、なべてのことと耳にも入らねば、ただ急ぎ参らんとするに、「夜の長きとて御目覚まして、御尋ねある」と言ふにことづけて立ち出でんとするに、「いかなる暇をも作り出でて、帰りこんと誓ヘ」と言はるるも、逃るることなければ、四方(よも)の社にかけぬるも、誓ひの末おそろしき心地して、立ち出でぬ。

 辺りに人はなく、「そんな、そんな」って言ってもダメでした。と書くとされちゃったような感じで、瀬戸内さんも「二条の抵抗も空しく、遂に兼平は二条の上で思いをとげてしまった」(340ページ)と書いてますが、違うような気がします。これまでの院にしても実兼や性助法親王にしても誰も最初は思いをとげていないんです。そういうのって女性の場合、けっこう一貫性があるような気がするんです。……いえ、自信はありませんがw。

 それはともかく兼平は「ずっと思っていたんだよ」なんて聞き古したことを言ったりするもんだから、ホント面倒ねって思ってるのに、あれやこれやと約束めいたことを言うのも、ありきたりすぎて耳にも入らない。ここの「なべて」の繰り返しは、いい年をした高い身分のくせに口説き方が陳腐だと嘲笑しようということなんでしょうね。……もって自戒の念としたいものですw。で、早く院のもとに戻りたいんで「秋の夜長に院が目を覚まされて、あたしを探されます」っていう口実を考えて、立ち去ろうとすると、「どんな機会でも作って、ここに帰ってくると誓いなさい」と言うんで、逃れたい一心で、あちこちの神社の名前を挙げて誓ったものだから、その場はなんとか立ち去ることができましたが、破ったら神罰が、守ったら兼平のものになっちゃうとどっちに転んでも怖ろしい気持ちになっちゃうんですね。 

 また九献参るとて、人々参りてひしめく。なのめならず酔はせおはしまして、若菊をとく帰されたるが念なければ、明日御逗留ありて、いま一度召さるべしと御気色あり。承りぬるよしにてのち、御心ゆきて、九献殊に参りて、御寝になりぬるにも、うたた寝にもあらぬ夢の名残は、うつつとしもなき心地して、まどろまで明けぬ。

 院のところに戻ってみたらって場面ですが、ここは少し端折ります。酔っぱらった院が先ほどまでの宴会に来た白拍子の姉妹の妹の若菊をまた呼べと騒いでいたといったことです。

 今日は御所の御雑掌にてあるべきとて、資高承る。御事おびたたしく用意したり。傾城参りて、おびたたしき御酒盛なり。御所の御走り舞ひとて、ことさらもてなしひしめかる。沈の折敷に金の盃すゑて、麝香のへそ三つ入れて、姉賜はる。金の折敷に、瑠璃の御器にへそ一つ入れて、妹賜はる。

 続けてここも簡単に。翌日も盛大な宴会で、その白拍子が来て院はご機嫌、香木に金の盃、麝香に瑠璃などと贅沢なものが踊りのご褒美に与えられます。「へそ」というのはカタマリのことだそうです。

  後夜打つほどまでも遊び給ふに、また若菊を立たせらるるに、「相応和尚の割不動」数ゆるに、「柿の本の紀僧正、一旦の妄執や残りけん」といふわたりを言ふ折、善勝寺きと見おこせたれば、我も思ひ合はせらるるふしあれば、あはれにも恐ろしくも覚えて、ただ居たり。のちのちは、人々の声、乱舞にて果てぬ。

 明け方近くなるまで宴会が続き、また若菊を舞わせると、「相応和尚の割不動」という今様を姉が歌います。その一節の文句に柿本の紀僧正というお坊さんが文徳天皇のお后に恋焦がれ、物の怪になってしまったという言い伝えをもとにしたのがあったんで、母方の伯父さんの善勝寺大納言こと隆顕がついと二条の顔を見ます。思い当たる節があり、胸が突かれ、怖ろしくも感じてじっと座っていましたということですが、これは前回と今回の間に二条につれなくされた性助法親王が二条と仲を取りもった善勝寺への呪いの起請文を伯父に送って来たことを思い出したからです。この文は「心の中に(二条を)忘るることは、生々世々あべからざれば、われ定めて悪道に堕つべし。されば、この(二条への)恨み尽くる世あるべからず」などと怖いことをいっぱい書き並べ、天照大神や八幡大菩薩といった神仏の名をいっぱい挙げて呪詛したものだったんです。

 御とのごもりてあるに、御腰打ち参らせて候ふに、筒井の御所の夜べの御面影、ここもとにみえて、「ちともの仰せられん」と呼び給へども、いかが立ちあがるべき、動かでゐたるを、「御寝にてある折だに」など、さまざま仰せらるるに、「はや立て。苦しかるまじ」と、忍びやかに仰せらるるぞ、なかなか死ぬばかり悲しき。御あとにあるを、手をさへ取りて引き立てさせ給へば、心の外に立たれぬるに、「御とぎにはこなたにこそ」とて、障子のあなたにて仰せられゐたることどもを、寝入り給ひたるやうにて聞き給ひけるこそあさましけれ。とかく泣きさまたれゐたれども、酔ひ心地やただならざりけん、つひに明けゆくほどに帰し給ひぬ。われ過さずとは言ひながら、悲しきことを尽して、御前に臥したるに、殊にうらうらとおはしますぞ、いと堪へがたき。

 ようやく院がお休みになられるので、腰を叩いてさし上げていたら、兼平が障子の向こうから「ちょっと用を頼みたい」と言います。そうは言っても、院の手前じっとしていたら「院が寝ておられる間だけでも」とかいろいろ言うのに、院は院で「さっさと行け。苦しうない」とぼそぼそと言われるのが死ぬほど悲しいんですね。院の足元にいるのを兼平は手を引っ張るので、心ならずも立ち上がってしまいます。「院の相手をするときには帰してあげますよ」と障子の向こうから言うのを院は寝たふりをして聴いているのも情けない。で、泣きくずれていたけれど、自分も兼平もすごく酔っていたからだろう……ということで、まあ院が勧めるような形で兼平に抱かれちゃうわけです。自分の愛人を渡しちゃう院の気持ちはいろいろと想像されています。そういう変わった性的嗜好があったとか、実力者の兼平にせがまれて拒めなかったとか。

 死にそうな気分で連れて行かれて、ようやく夜が明けて帰って来て、院のそばに横になると、自分の落ち度ではないもののとっても悲しく思っているのに、院がとりわけ朗らかな様子なのはなんとも耐えがたかったというのを読むと、二条がかわいそうに思えます。……ただその辺の院の真意と二条の気持ちについての私の考えは、もうちょっと後で述べましょう。

 今日は還御にてあるべきを、「御名残多き由、傾城申して、いまだ侍る。今日ばかり」と申されて、大殿より御事参るべしとて、また逗留あるも、またいかなることかと悲しくて、局としもなくうち休みたるところヘ、

「短夜の 夢の面影 さめやらで 
 心に残る 袖の移り香

近き御隣の御寝覚もやと、今朝はあさましく」などあり。

 夢とだに なほわきかねて 人知れず
 押ふる袖の 色をみせばや

 たびたび召しあれば、参りたるに、わびしくや思ふらんと思し召しけるにや、殊にうらうらと当り給ふぞ、なかなかあさましき。


 もう都に帰らなくてはいけないのを兼平は「白拍子がお名残多いとまだおりますので、今日だけは」と言い、兼平が主催の宴会を行うことになって、またどんなことになるのかと悲しくなって、ちゃんとした局でもないところで寝ころんでいると、兼平から後朝(きぬぎぬ)の歌が来ます。まあ、「君のことが忘れられないよ」というふつうの歌ですが、短夜というのがひっかかります。8月の中秋なのにちょっと変です。最初の方にも出てきたようにいちばん夜の長さを感じる頃ですから。夢中だったから? 明け方近くからだったから? 秋の歌で短夜という言葉が使われている例を挙げてからそんな説を唱えるべきで、私はこの歌は別のところから持って来るかなんかしたものじゃないかなっていう気がします。つまり少なくともこの歌のやり取りはフィクションだと思います。 

 まあ、それはそれとしてこの話に付き合うと、歌には「すぐお隣で寝ていた院が目を覚まされたんじゃないかと思うにつけ、今朝はなんともはや」という言葉が添えられています。これもずいぶん無神経と言うか、嫌らしい感じですね。で、ニ条の返歌は「夢だったかどうかもまだ分別できず、人知れず泣いて、我慢している私の袖をお見せしたい」というもので、されちゃったのを恨んでいるとも、夢で終わらせるんじゃないでしょうねと迫っているとも取れるなかなかいいものです。そう、なびいたともなびいてないともどっちにも取れるようにするのが後朝の歌の返しの極意なんです。で、院から何回もお呼びがあって、自分がつらく思っているだろうと思っておられるのだろうか、とりわけ朗らかな様子を見せられるのがかえって困ってしまうということです。一見、院は無神経なようですが、実は自分が暗い表情を浮かべると二条が罪悪感を持つと考えているんでしょうか。つまり「気にしてないよ」と暗に示すために。でも、そうされると二条はよけいに後ろめたく思うのかな。

 事ども始まりて、今日はいたく暮れぬほどに御舟に召されて、伏見殿へ出でさせおはしはします。更けゆくほどに、鵜飼召されて、鵜舟、端舟につけて、鵜使はせらる。鵜飼三人参りたるに、着たりし単襲(ひとへがさね)賜ぶなどして、還御なりて後、また酒参りて、酔はせおはしますさまも、今宵はなのめならで、更けぬれば、また御よるなる所へ参りて、「あまた重ぬる旅寝こそすさまじく侍れ。さらでも伏見の里は寝にくきものを」など仰せられて、「紙燭さして賜ベ。むつかしき虫などやうの物もあるらん」と、あまりに仰せらるるもわびしきを、「などや」とさへ仰せ言あるぞ、まめやかに悲しき。「かかる老いのひがみは、おぼし許してんや。いかにぞや見ゆることも、御めのとになり侍らん古きためしも多く」など、御枕にて申さるる、言はん方なく、悲しともおろかならんや。例のうらうらと、「こなたもひとり寝はすさまじく、遠からぬほどにこそ」など申させ給へば、よべの所に宿りぬるこそ。

 ここも端折ります。宇治川に出て鵜飼を楽しんだりして、戻ってくるとまた酒宴が始まり、夜が更けると兼平が再び院の寝所にやって来て、ここは寝にくいだの虫除けに紙燭をくれだのと露骨な誘いをかけてきて、「老人のわがままですが、光源氏がずっと若い女三宮のパトロンになった例もあるでしょうに」なんてことを言います。院は同じように「なんで行ってやらないの? わたしも独り寝はつまらないから、遠くないところでいてくれ」とほがらかに言い、結局、昨日の夜と同じところでしちゃいます。

 瀬戸内さんは「昨夜にまさるしつこさと激しさで、兼平の求め方は、五十を越えた男とも思えない」などとその様子を描写していますが、それよりおもしろいのは、朝方に戻った二条に院が迫ってくる場面を設定していることです。

 兼平との一睡もさせられなかった一晩で、ほとびた紙のように萎えきっている身体のどのかげに、そんな活力がまだ残されていたのか、二条は、ことばだけはうわごとのように院に許してくれといいつづけながら、身体はしなやぎとうるおいをとりもどし、ことばとはうらはらの開き方をしていくようだった。
「兼平が聞いているよ。そら、足音がそこにしている」

 ……まあ、そろそろ本当のことを言ってもいいと思いますが、瀬戸内さんの描く二条は簡単に言うと、純情なのに男が求めると結局はなんでもしちゃって、感じちゃうというその手の小説やマンガによくある都合のいい女みたいです。私もそういう女性がいればいいなと妄想しますしw、原作もだいたいはそう読めるように書かれているんですが、なまじ自分を主人公にしたために時々したたかな筆者の姿が見え隠れするわけで、私なんかはそこをおもしろがったりするんですね。

 今朝は夜のうちに還御とてひしめけば、起き別れぬるも、「憂き殻残る」と言ひぬべきに、これは御車の尻に参りたるに、西園寺も御車に参る。清水の橋の上までは、みな御車をやり続けたりしに、京極より御幸は北へなるに、残りは西へやり別れし折は、何となく名残惜しきやうに車の影の見られ侍りしこそ、こはいつよりの習はしぞと、わが心ながらおぼつかなく侍りしか。

 翌朝、暗いうちに院は都に戻られるということで、起き上がって兼平と別れたんですが、物憂い抜け殻のようになりながら院の車の後ろに乗ったところ、西園寺実兼も乗って来ました。彼もこの宴会三昧の行楽のお供をしていたんですね。五条の清水の橋まではどの車も一緒だったんですが、京極大路で院は北へ、兼平などは西へと別れます。それが何となく名残惜しいように見えて、これは一体いつから身についたことだろうと不審に思ったというわけです。……かなり強引な、しかも院に様子を悟られながらの情交でありながら、愛情めいたものを感じているんですね。でも、私はこの話はこういう結末のつけ方なんだろうなとしか思いません。つまり筆者としては、二条が老人(当時の50歳はそうでしょう)をも狂わせる魅力の持ち主であることと、院が聞き耳を立てているところでしちゃうっていう読者の興味を惹く場面が描ければそれで十分だったんだろうということです。院の表情が「うらうら」朗らかばかりで、二条の感情が「悲し」ばかりで、でも全然実感を伴わないのもそういうことなんでしょう。そこにいろいろ解釈をつけてもあまりしっくりはこないですね。

 


 

(7) 母も娘も夢もまた

 

 さて、寵愛していたはずの二条を第2巻の終わりで、兼平に貸すようなことをした院のふるまいは第3巻になって、様々な形で現われます。院の娘の遊義門院が病気になったので、性助法親王を招いて祈祷を行うところから見てみます。

 その折しも、御前に人もなくて、向ひ参らせたるに、憂かりし月日の積りつるよりうちはじめ、ただ今までのこと、御袖の涙はよその人目も包みあへぬほどなり。何と申すべき言の葉もなければ、ただうち聞きゐたるに、ほどなく還御なりけるも知らず、同じさまなる口説きごと、御障子のあなたにも聞えけるにや、しばし立ち止まり給ひけるも、いかでか知らん。さるほどに例の人よりは早き御心なれば、さにこそありけれと推し給ひけるぞ、あさましきや。(158ページ)

 法親王と二人きりになると泣きながら口説いてきたんですね。あの呪いの起請文はなんだったんだよって感じですが、瀬戸内さんはここをうまく処理しています。

 あなたを恨み、あなたを呪い殺し、私もその罪で地獄に堕ちたいとどれほど思ったかもしれない。しかし私は、あなたを呪い殺すことも出来ない意気地なしだったんです。(中略)朝も夜も、いや夢の中までも、あなたのおもかげが私を追いつづける。目をとじるやいなやあなたの白い裸身のうねるさま、あなたの宝珠のような乳首のそりかえるさま、あなたのかわいらしい臍やあなたの柔らかな草むら、あなたの貝殻のような足の爪、ああ、それらが私の瞼の中いっぱいに拡がり、私は息も出来ないほどにむせかえってしまうのです。(356ページ)

 ところが、こんな話(かどうかは知りませんがw)を院が立ち聞きしていたんですね。「例の人よりは早き御心なれば」勘のいい人だから二人の関係を察してしまったってわけです。

 入らせ給ひぬれば、さりげなきよしにもてなし給へれども、しぼりもあへざりつる御涙は、包む袂に残りあれば、いかが御覧じとがむらんとあさましきに、火ともすほどに還御なりぬるのち、ことさらしめやかに、人なき宵のことなるに御足など参りて御とのごもりつつ、「さて思ひのほかなりつることを聞きつるかな。さればいかなりけることにか。いはけなかりし御ほどより、かたみにおろかならぬ御事に思ひ参らせ、かやうの道には思ひ掛けぬことと思ふに」とて、うちくどき仰せらるれば、「さることなし」と申すとも、甲斐あるべきことしあらねば、あひ見しことの始めより、別れし月の影まで、つゆくもりなく申したりしかば、

 文の途中ですが、この後の院の台詞が長いのでここでいったん切ります。二人がいるところに院が入ってきて、なにげないふりをしてたんですが、法親王の「しぼりもあへざりつる御涙」絞りきれないほどのっていくらなんでも大げさですが、袖がぬれてたのを見咎めたはずだと。で、夜になっていつものように院の足をさすっていたら、院が「意外なことを聴いてしまった。どういうことなのかな。弟の法親王は幼い頃からお互い隔てなく付き合ってきたが、色恋の道を歩むとは思ってもいなかった」としみじみ言われて、二条は否定しても仕方ないので、最初から洗いざらい言ってしまったんですね。

 「まことに不思議なりける御契りかな。さりながら、さほどに思し召しあまりて、隆顕に道芝せさせられけるを、情なく申したりけるも、御恨みの末もかへすがへすよしなかるべし。昔のためしにも、かかる思ひは人をわかぬことなり。柿の本の僧正、染殿の后の物怪にて、あまた仏菩薩の力尽し給ふといへども、つひにはこれに身を捨て給ひにけるにこそ。志賀寺の聖(ひじり)には、『ゆらぐ玉の緒』と情を残し給ひしかば、すなはち一念の妄執を改めたりき。この御気色なほざりならぬことなり。心得てあひしらひ申せ。われ試みたらば、つゆ人は知るまじ。このほど伺候し給ふべきに、さやうのついであらば、日ごろの恨みを忘れ給ふやうに計らふべし。さやうの勤めの折からは、悪しかるべきに似たれども、われ深く思ふ子細あり。苦しかるまじきことなり」とねんごろに仰せられて、「何ごとにも我に隔つる心のなきにより、かやうに計らひ言ふぞ。いかがなどは、かへすがへす心の恨みも晴る」などと承るにつけても、いかでかわびしからざらん。

 ふつうだったら(私だったらかな?w)そんなことを聞いたら激怒するような気がしますが、院は不思議な縁なんだねとか、ニ条の叔父の隆顕に手引きさせるほど想いを寄せたのを二条が断ったりしたのも、それを法親王が恨みに思ったりしたのもよくないねとか他人事みたいです。ましてや前に出てきた后に横恋慕した柿の本の僧正の話とか、志賀寺の聖が寺に来た宇多天皇の后にやはり想いを寄せたけれど、后の返歌に妄執を捨てた話とかをしてて、なんだか呑気な感じもします。その上で、自分が見てみぬふりをしていればいいんだからと言います。 

 「人より先に見そめて、あまたの年を過ぎぬれば、何ごとにつけても、なほざりならず覚ゆれども、何とやらん、わが心にもかなはぬことのみにて、心の色の見えぬこそいと口惜しけれ。わが新枕(にひまくら)は故典侍大(すけだい)にしも習ひたりしかば、とにかくに人知れず覚えしを、いまだ言ふ甲斐なきほどの心地して、よろづ世の中つつましくて、明け暮れしほどに、冬忠・雅忠などに主(ぬし)づかれて、暇をこそ人わろく窺ひしか。腹の中にありし折も、心もとなく、いつかいつかと、手の中なりしより、さばくりつけてありし」など、昔の古ごとさへ言ひ知らせ給へば、人やりならずあはれも忍びがたくて、明けぬるに、今日より御修法(しゆほふ)始まるべしとて、御壇所いしいしひしめくにも、人知れず、心中には物思はしき心地すれば、顔の色もいかがと、我ながらよその人目もわびしきに、すでに御参りといふにも、つれなく御前に侍るにも、御心のうちいとわびし。

 さらに院の奇妙なモノローグは続いて、二条との縁を語ります。ずっと若いときからかわいく思っていた心を見せられないのが残念だと言い、最初に経験した「新枕」の相手はニ条の亡き母の典侍大(大納言典侍)だったのにまだ自分が若輩だったため、他の男に愛されていた隙を窺うしかなかったと言います。雅忠は二条の父親です。で、二条が母の腹の中にいたときも待ち遠しく、幼い頃からいつかは自分のものにと思ってかわいがっていたよって言うんですね。この母娘二代にわたる愛情は、源氏物語の藤壺、紫の上の姪・叔母関係をなぞったものでしょう。だから、フィクションだということになるのでもなく、当時の上流階級が源氏物語を意識しながら生活を送っていたんだろうと考えてもいいでしょう。母親の時から愛されていたというのは想像をかき立てるものがあり、瀬戸内さんの小説では院と典侍大を主人公にして冒頭から64ページまで創作されています。そういう意味では二条の手並みはなかなかのものですw。……それにしても院のこのへりくだったような態度は理解しにくいですね。まあ、院はマゾヒストだったとか言っちゃえばこれまでの行動もこれからのもすっきりするような感じですが、それって単にレッテル貼って分類してわかった気になってるだけですから。登場人物としての二条は院の話を聴いてすっきりするどころではなく、祈祷の間も「わびし」つらいわを繰り返しています。

 常に御使に参らせらるるにも、日ごろよりも、心の鬼とかやもせん方なき心地するに、いまだ初夜もまだしきほどに、真言のことにつけて、御不審どもを記し申さるる折紙を持ちて参りたるに、いつよりも人もなくて、面影霞む春の月おぼろにさし入りたるに、脇息によりかかりて念誦し給ふほどなり。「憂かりし秋の月影は、ただそのままにとこそ、仏にも申したりつれども、かくてもいと堪へがたく覚ゆるは、なほ身に代ふべきにや。同じ世になき身になし給へとのみ申すも、神も受けぬ禊なればいかがはせん」 とてしばしひき止め給ふも、いかに洩るべき憂き名にかと恐ろしながら、見る夢のいまだ結びも果てぬに、「時(じ)なりぬ」とてひしめけば、うしろの障子より出でぬるも、隔つる関の心地して、「後夜果つるほど」とかへすがへす契り給へども、さのみ憂き節のみとまるべきにしあらねば、またたち帰りたるにも、「悲しさ残る」とありし夜半よりも、今宵はわが身に残る面影も袖の涙に残る心地するは、これやのがれぬ契りならんと、我ながら前の世ゆかしき心地して、うち臥したれども、又寝にみゆる夢もなくて明け果てぬれば、さてしもあらねば、参りて御前の役に従ふに、折しも人少ななる御ほどにて、「夜べは心ありて振舞ひたりしを、思ひ知り給はじな。我知り顔にばしあるな。包み給はんも心苦し」など仰せらるるぞ、なかなか言の葉なき。

 院は二条を法親王のもとに使いに出して、関係を続けさせようとします。そのときの二条自身の気持ちの葛藤を「心の鬼」と表現したのは目を惹きます。法親王は朧月を浴びながら、仏様に願って別れようとしても別れられない、恋人が別れ別れになるなんて神様だってできないさだなんて、悲愴だかキザだかわかんないようなことを言ってます。で、「見る夢のいまだ結びも果てぬに」つまりしちゃったんですね。……朝になって院の前に出ると「昨夜は思うところがあって使いにやったんだが、悟られなかっただろうね。訳知り顔をしちゃだめだよ。気兼ねするとお気の毒だからね」とまたまた気配りの発言です。確かにそう言われては「なかなか言の葉なき」言葉もありませんね。この後をちょっと省略しますが、修法の最後の日になって、院は「今宵ばかりの夜半もふけぬべし。ひま作り出でよかし」最後だから行ってあげなさいとまたまた二条が法親王と関係を持つようにそそのかします。そうやって修法が終わった未明に二条を呼びます。

 「さても今宵、不思議なる夢をこそ見つれ。いまの五鈷を賜びつるを、我にちとひき隠して懐に入れつるを、袖を控へて、『これほど心知りてあるに、などかくは』といはれて、わびしげに思ひて涙のこぼれつるを、払ひて取り出でたりつるをみれば、銀(しろがね)にてありける。『故法皇の御物なれば、わがにせん』と言ひて、立ちながら取ると思ひて夢さめぬ。今宵必ずしるしあることあるらんと覚ゆるぞ。もしさもあらば、疑ふところなき岩根の松をこそ」など仰せられしかども、まことと頼むべきにしあらぬに、その後は月たつまでことさら御言葉にもかからねば、とにかくにわが過ちのみあれば、人を憂しと申すべきことならで、明け暮るるに、思ひ合せらるることさへあれば、何となるべき世の仕儀とも覚えぬに、三月の初めつ方にや、常よりも御人少なにて、夜の供御などいふこともなくて、二棟の方へ入らせおはします、御供に召さる。いかなることをかなんど思へども、尽きせずなだらかなる御言葉いひ契り給ふも、うれしとや言はん、またわびしとや言はましなど思ふに、「ありし夢の後は、わざとこそ言はざりつれ。月を隔てんと待ちつるも、いと心細しや」と仰せらるるにこそ、されば思し召すやうありけるにこそ、とあさましかりしか。違はずその月よりただならねば、疑ひまぎるべきことにしなきにつけては、見し夢の名残もいまさら心に掛るぞはかなき。

 院は不思議な夢を見たと言うのです。先が5つに分かれた密教の仏具である五鈷を二条が法親王からもらったのを院に隠して懐に入れたのを袖を引っ張って「これだけ開けっぴろげにしてるのに、どうしてそんなことをするのだ」と言われて、悲しげに涙がこぼれたのを払って、取り出した五鈷を見たら銀でできていた。「亡き父後嵯峨法皇から(弟の法親王が)もらったものだから自分のものにしよう」と言って、立ちながら取ると夢から覚めた。この夜に妊娠したんだろう。もしそうなら、疑いなく法親王の胤だ。

 このシリーズの最初に実兼の子を宿した時にも「塗骨に松を蒔きたる扇に、銀(しろがね)の油壺を入れて」という夢を紹介しましたが、よく似ています。似すぎていると言ってもいいでしょう。違うのは妊娠の予兆の夢だという解釈を院が行っている点です。それは法親王の子であることをはっきりさせるために、「夜の供御などいふこともなくて」しばらく二条と関係を持つのを避けるというこの後のストーリー展開のためとしか思えません。そのように考えても自分の妊娠に夢の予兆をからめたがるというのは、なかなか興味深い性的嗜好の持ち主です。「岩根の松」は源氏物語で柏木の胤の薫を引き取る光源氏が「誰が世にか 種は蒔きしと 人問はば いかが岩根の 松は答へん」と詠んだのが元で、これまた源氏物語をなぞった行動でしょう。最後の「違はずその月より」の一文はかなり露骨で、やっぱり妊娠しちゃってて、いいことしちゃった結果のお腹の子のことも気になっちゃう、はああって感じですねw。

 


 

(8) 屏風の後ろにて

 

 五鈷の夢で妊娠を予言されてから8か月後、作者24歳の10月のことです。後深草院の実母、大宮院が脚気を病んだので、院が弟の亀山院とともに亡父後嵯峨院のいた嵯峨殿に見舞いました。大宮院の病状は大したものではなかったので、兄弟両院が酒宴を執り行いました。その夜のこと。

 「いと御人少なに侍るに、御宿直(とのゐ)つかうまつるべし」とて、二所御寝になる。ただ一人候へば、「御足に参れ」など承るも、むつかしけれども、誰に譲るべしともおぼえねば、候ふに、「この両所の御傍に寝させさせ給へ」と、しきりに新院申さる。「ただしは、所狭き身のほどにて候とて、里に候ふを、にはかに人もなしとて参りて候ふに、召し出でて候へば、あたりも苦しげに候ふ。かからざらん折は」など申さるれども、「御傍にて候はんずれば、過ち候はじ。女三の御方をだに御許されあるに、なぞしもこれにかぎり候ふべき。『わが身は、いづれにても、御心に掛り候はんをば』と申しおき侍りし、その誓ひもかひなく」 など申させ給ふに、(181ページ)

 説明の都合上、文の途中でいったん切ります。両院がいっしょに寝るんですが、お仕えするものが少ないから二条に命が下ります。いつものように足を揉めって言われ、新院・亀山院がいるのでイヤだなって思いながら、揉んでると「二人の傍に寝かせましょうよ」と新院が何回も院に言います。「でも、身重で里に下がっていたのを急な行幸だから人もいなくて呼び出したんですが、立ち居振る舞いも苦しそうです。そうでなければいいんですが」と院は言ってくれますが、新院は「あなたの傍ですから、過ちはないでしょう。朱雀院は弟の光源氏に女三宮を与えたのに、いいじゃないですか。私はどの女房でもお気に召したならどうぞって前から申しておりますのに、甲斐のない約束をしてしまいました」なんて、良からぬことはしないって言いながら、源氏物語を持ち出してその気は十分にあることを匂わせています。

 亀山院についてはこのシリーズでも時々顔を出していて、第2回には実兼との間にできた女の子が后になったという説を紹介しましたし、第5回には「君が忘れられない」といった(表現としてはもっと凝っていますが)歌を二条に送ったことにふれました。紹介しなかった本文にはもっといろんな誘いかけがあります。そういう意味では言い寄ること自体は意外でもなんでもないんですが、身重の女性に兄院の前でスワッピングまがいに迫るところが異常です。それだけに「とはずがたり」好みだなと思います。……新院ともしちゃうと性助法親王と合わせ、兄弟3人目ってことになるんですねw。ところがこの二人の院は歴史上とても注目される兄弟なんです。というのも、父親の後嵯峨院が弟の亀山院をひいきしたために兄弟間で深い対立が生じ、後深草院の子孫と亀山院の子孫とが皇位継承を争い、それを鎌倉幕府が政治的に利用して持明院統と大覚寺統、後の南北朝の分裂につながったんですね。亀山院の孫が後醍醐天皇で、足利義満の力で南北朝が統一されるのは1392年、このお話の時点(1281年頃)の100年以上後のことです。今の皇室は後深草院、持明院統・北朝の系統です。 

 折節按察使の二品のもとに御わたりありし前の斎宮へ、「入らせ給ふべし」など申す。宮をやうやう申さるるほどなりしかばにや。「御傍に候へ」と仰せらるるともなく、いたく酔ひすぐさせ給ひたるほどに、御寝になりぬ。御前にもさしたる人もなければ、「外(ほか)へはいかが」とて、御屏風後に具し、ありきなどせさせ給ふも、つゆ知り給はぬぞあさましきや。

 ここは意味がとてもつかみにくいところです。まず、私が参照している新潮日本古典集成(福田秀一校注)に従って逐語訳的に示します。たまたま亀山院の乳母の按察使の二品のところにおられた前斎宮に「こちらへおいで下さい」などと私(二条)が申し上げた。斎宮を新院がいろいろ口説いておられる頃だったからだろうか。院は私に「自分の傍に控えていなさい」とおっしゃったがまもなく、ひどく酔い過ぎていたので寝てしまわれた。院の御前にもこれといった人もいないので。新院は「外へ出るまでもない」と屏風の後に私を連れて行って、引き回しなどされたのを院が少しも御存知ないのは困ったことであった。……この解釈は院が寝ている部屋で、新院が屏風の陰に二条を連れて行ってモノにしてしまったということです。これに対し、瀬戸内さんは次のような描写しています。

 そのうち、按察使の二品の許においでになっていらっしゃった衣笠の前斎宮へ、
「こちらへおいで下さい」
など、院から申しいれる。まもなく、斎宮がいらっしゃったという報せが来て、院はいそいそと出迎えに行ってしまった。どこの部屋で斎宮をもてなしているのだろうと思いながら、二条は手持ち無沙汰にしていた。
 新院は「そばにいておくれ」というかいわないかで、ひどく酔いが出て、急に眠ってしまわれた。
 誰もいないので、そのまま捨ててもおけず新院の足許に屏風をたてまわし、そのかげで二条はまどろんだ。新院はすっかり寝込んでしまい、院が夜出歩いたことさえ知らない。(387ページ)


 同じ本文を元にしたと思えないほど違っていますが、瀬戸内さんが創作した訳でなく、ここの部分の解釈が学者によって大きく異なっているんです。相違点の中心は言動の主体を誰と解するかでしょう。
 〜虻惶椶鮓討鵑世里話か? 院の指示か、新院の指示か。
◆ 峺翹気妨へ」と言ったのは誰か? 御傍とは誰の傍なのか?
 「いたく酔ひすぐ」したのは誰か?
ぁ 岾阿悗呂いが」と言ったのは誰か?
ァ 峺耿風後に具し、ありきなどせさせ給ふ」たのは誰か? 結局どういう行動を示したものなのか?
といったところです。

 まず、前斎宮はこのシリーズの第3回に出てきた両院の妹で、院にされちゃって、捨てられた女性ですから、院の指示というのは考えにくいように思いますし、「宮をやうやう申さるるほどなりしかばにや」という一文がよけいに理解しにくくなります(瀬戸内さんはこの文を飛ばしています)。まあ、新院の乳母のところにいるんですから、新院が呼んだと解するのが自然でしょう。ただ、そうだとしてもなぜこんな場所におもしろみもなさそうな斎宮を呼ぼうとするのか、実際に来たのか、この後全く出て来ないのでよくわかりません。
 △麓敬表現という、天皇や上皇の場合、自分で自分に敬語をつける、新入社員マナーだとおかしいような言い回しがあるんでややこしくなるんですね。上の2つともこの自敬表現だと取っていて、しゃべった人を院とするか新院とするかの違いです。
 はかなり重要なポイントです。だって、二条に迫ろうとしていた新院が寝ちゃったということなら、話の興味はなくなってしまいますからw。……まあ△汎韻舷佑箸垢詈が自然なような気がします。
 い和羯譴任呂覆、二条が心の中で「ここを外すわけにはいかない」と思ったという解釈で、瀬戸内さんは書いているようです。
 イ郎任盧て颪覆箸海蹐任后A管瑤鮨訓,旅堝阿箸靴董△佞弔出歩くことと解される「ありき」を「引き回す」=しちゃう、とかなり飛躍した解釈をするか、主語を頻繁に入れ替えて、でもあんまりおもしろくもないような解釈をするかです。また、「具し」を「候て」の誤写と見て、私(二条)が屏風の陰でご奉仕していると、院が出歩くのも、新院は全然気づかないでと解する説もあるようです。場面としてはいちばん刺激的かもしれませんがw。

 私は以降についてはこう考えています。院が新院のそばにいてあげなさいって言ったのでしょう。兼平や性助法親王のときと同じパターンだろうってことで。で、酔ったのか、フリなのか知りませんが寝ちゃうと。後は院が「つゆ知り給はぬ」までずっと新院の行動です。「ありき」はやはり出歩いたと解します。つまり、これといった人がいないので、新院は「外ではどうかな」と言って、私を屏風の後に連れて行って、そのまま出て行っちゃったことも院は全然知らないなんてあきれたもんだわと。……これじゃあ、意味がわかんないですね。でも、わかんないものを無理に理解することもないと思います。この個所の主眼は院が寝ちゃって、何も知らないなんて「あさましきや」というコメントにあるはずです。これが新院ではドラマとして成り立ちません。その間のことは屏風の陰に隠れてわからないと言った方がいいように思います。その原因が原文が筆写の過程で乱れたからなのか、元からわざと混乱するように曖昧に書いてあったからなのかは、他に書写本が見つかりでもしない限りわからないでしょう。……ただ後の個所も含めて考えると筆者としてはかなりきわどいことがあったけれど、最後の一線は超えなかったと思わせようとしているように思えます。それがこの主人公のいつものパターンでもあるので。

 明方近くなれば、御傍へ帰り入らせ給ひて、おどろかし聞え給ふにぞ、はじめておどろき給ひぬる。「御寝ぎたなさに、御添臥(そへぶし)も逃げにけり」など申させ給へば、「ただ今までここに侍りつ」など申さるるもなかなか恐ろしけれど、犯せる罪もそれとなければ、頼みをかけて侍るに、とかくの御沙汰もなくて、また夕方になれば、今日は新院の御分とて、景房が御事したり。「昨日西園寺の御雑掌に、今日景房が、御所の御代官ながら並び参らせたる、雑掌柄わろし」など、人々つぶやき申すもありしかども、御事は、うちまかせたる式の供御、九献など、常のことなり。女院の御方へ、染物にて岩を作りて、地盤に水の紋をして、沈(ぢん)の舟に丁子を積みて参らす。一院へ銀(しろがね)の柳筥に沈の御枕を据ゑて参る。 女房たちのなかに糸綿にて山滝の景色などして参らす。男たちの中ヘ、色革染物にて柿作りて参らせなどしたるに、「ことに一人、この御方に候ふに」など仰せられたりけるにや、唐綾・紫村濃十づつを、五十四帖の草子に作りて、源氏の名を書きて賜びたり。御酒盛は夜べに皆事ども尽きて、今宵はさしたることなくて果てぬ。

 この個所の始めもしゃべっている人をどっちに取るのかで全く反対になります。新院が院を起こしたと解します。院が「寝過ごしたから、添臥の二条も逃げてしまったな」と読者である我々からするとかなりわざとらしいことを言うと新院は「ただ今までここに侍りつ」たった今までお傍にいましたよと二条のためにウソを言いいます。それで「なかなか恐ろしけれど、犯せる罪もそれとなければ」ひどく恐ろしいけれど、罪を犯したというわけでもないからとなるわけです。わざわざ罪という思わせぶりな言葉を、しかも否定しながら使っています。しかし、院は二条に罪はないとは思ってくれないのか、お呼びがかかりません。そこから後はいつもの宴会の場面で、誰が世話役をやるかとか、その飾り付けや源氏物語を用いた趣向の話なんかが書いてあります。

 春宮大夫は、風の気とて今日は出仕(すし)なし。「わざとならんかし」「まことに」など、沙汰あり。今宵も桟敷殿に、両院御渡りありて供御もこれにて参る。御陪膳両方を勤む。夜も一所に御寝になる。御添臥に候ふも、などやらん、むつかしく覚ゆれども、逃るる所なくて宮仕ひゐたるも、いまさら憂き世の習ひも思ひ知られ侍る。

 この春宮大夫は二条の初恋の人、実兼です。風邪をひいて出勤して来ないのを「仮病だろう」「いや本当でしょう」なんて取沙汰されているわけですが、人数も少ない嵯峨殿でのこと、新院とのことは当然耳にしているはずで、嫉妬してるんでしょうか。……てなことを想像させるためにわざわざ書いたんでしょうねw。で、両院のお給仕をし、一緒に寝ているところに添い寝します。イヤだけど、逃げるところもなくてご奉仕しました、今さらながらつらい世の中だと思い知ったわってところです。ここも新院と関係があったかどうかはっきりとは書いていませんが、たぶんあったのでしょう。最上級の男たちから愛されたというのが筆者の執筆目的の一つのようですからw。

 


 

(9) 小袖を上に着て語りぬ

 

 かなり時間が飛んで、10年ほど経った第4巻の二条34歳の出来事を採り上げます。この間、性助法親王は死に、後深草院の寵愛は衰えて、二条は院の御所を追い出されてしまいます。こう書くと尾羽打ち枯らしたように見えますが、何のなんの、大宮院の母、つまり後深草院の祖母の北山准后の90歳を祝うパーティに呼ばれたことを誇ろうとするのか、その盛大な模様を延々と描写したりしています。また、第4巻、第5巻は一転して出家した二条が諸国を遍歴した内容が中心になりますが、それも「あはれさも悲しさも、遣る方なき心地して」といった旅の不便さや苦労を綴りながら、あまり実感がこもっていないように思えます。つまり、第3巻までの院の指示でいろんな男たち(とは言え高位の者ばかりですが)と関係しちゃう破目になったときに「悲し」とか言ってたのと同じような感じがしてしまいます。

 というのも、旅の描写が伊勢物語や西行の遍歴を追体験しているような、もっとわかりやすく言っちゃうと絵葉書を見ながら書いているような印象なんです。「とはずがたり」の前半の華麗な御所での生活と、後半の出家した後の諸国遍歴の旅との間に断絶があるとか、その関係をどう考えるかとかよく問題になるみたいですが、私は前半は源氏物語、後半は伊勢物語をそれぞれなぞりながら独自性を出したもの、すなわちパロディじゃないかと思います。もちろんそれ以外にもいろんな物語や西行なんかの伝説は博引傍証されているんだと思いますが、いずれにしても文学的な枠組みが先にあって、その中で作者の実体験がちりばめられたものと考えた方が時期や場所の間違いや矛盾(これはいっぱいあって研究者の頭痛のタネのようですが)がすんなり理解できるように思います。……虚構が現実より優先する人って昔も今もいたと思いません?

 前置きが長くなりました。都を出て、鎌倉、善光寺、浅草寺といったところまで足を伸ばし、奈良の当麻寺に参ったという記述の後です。

 二月の頃にや都へ帰り上るついでに八幡へ参りぬ。奈良より八幡へは、道のほど遠くて、日の入るほどに参り着きて、猪鼻を登りて宝前へ参るに、石見の国の者とて矮人(ひきうど)の参るを行き連れて、「いかなる宿縁にてかかる片輪人となりけんなど、思ひ知らずや」と言ひつつ行くに、馬場殿の御所開きたり。
 
 奈良から京都に帰る際に男山の岩清水八幡宮にお参りしたんですが、猪鼻坂から登って行く途中で石見国出身の小人症の人と一緒になって、「どんな因果でそんな障害を持って生まれたのか、思い当たることはないの?」と相当無神経なことを訊いています。尼さんのくせにけしからんと思うのは現代の考え方で、二条は尼だからこそ因果応報を説くのがふさわしいと考えていたのかもしれません。因果応報説は来世のためにいいことをしましょうっていう積極的な面はあるんですが、この世で不幸な境遇にある人は前世で悪いことをしたからだという消極的な説明に使われると始末が悪いですね。でも、考え方としては極めて論理的なんで片方だけ採るわけにはいかないでしょう。
 
 検校などが籠りたる折も開けば、必ず御幸など言ひ聞かする人も、道のほどにてもなかりつれば、思ひも寄り参らせで過ぎゆくほどに、楼門を登るところへ、召次(めしつぎ)などにやとおぼゆる者出できて、「馬場殿の御所へ参れ」と言ふ。「誰かわたらせ給ふぞ。誰と知りて、さることを承るべきことおぼえず。あの矮人などがことか」と言へば、「さも候はず。紛ふべきことならず。御ことにて候ふ。一昨日より、富の小路殿の一院御幸にて候ふ」と言ふ。ともかくも物も申されず。

 八幡宮の中の馬場殿という建物に後深草院が来ていたわけで、それを知るまでの過程をやや細かく描写して、「ともかくも物も申されず」という思いがけず招かれた驚きを強調しようとしているのでしょう。検校はこの場合は重要な寺社を監督する役職名です。

 年月は、心のうちに忘るる御ことはなかりしかども、一年(ひととせ)、今はと思ひ捨てし折、京極殿の局より参りたりしをこそ、この世の限りとは思ひしに、苔の袂、苔の衣、霜・雪・霰(あられ)に萎れ果てたる身の有様は、誰かは見知らんと思ひつるに、誰か見知りけんなど思ひて、なほ御所よりの御事とは思ひ寄り参らせで、女房たちの中にあやしと見る人などのありて、ひが目にやとて問はるるにこそ、など案じゐたるほどに、北面の下臈一人走りて、「とく」と言ふなり。何と遁るべきやうもなければ、北の端なる御妻戸の縁に候へば、「なかなか人の見るも目立たし。内へ入れ」と仰せある御声は、さすが昔ながらに変らせおはしまさねば、こはいかなりつることぞと思ふより胸つぶれて、少しも動かれぬを、「とくとく」と承れば、なかなかにて参りぬ。

 この部分の前半も院の直々のご指名wであることを強調するための独り言(むずかしく言うと内語とか心中思惟ですが)のようなもので、次のような内容でしょう。年月が経っても院のことは忘れようもないんですけど、あの時、院へのご奉公も思い切って、もう二度とお会いすることもないと出家してやつれた姿になったんだから、誰にもわからないって思ったのに、誰がわかったのかしら、いくらなんでも院じゃないわね、昔の女房仲間で「あら?」って思った人がいて「間違いかしら」ってことで確かめようとしたのかしら、なんて思ってると下人が走って来て「お急ぎ下さい」って言うのよ。……かなり端折ってみてもこれだけしつこい感じになります。「何と遁るべきやうもなければ」待ってましたと訳したいくらいです。でも、そんなことはおくびにも出さず、「そこは目立つから、もそっとこっちへ」という院の声が昔と変わらないので、胸がつぶれて少しも動けない。ここは実感がこもっててうまいですね。で、さらに促されてじゃあとばかりにそばに行きます。

 「ゆゆしく見忘られぬにて、年月隔りぬれども、忘れざりつる心の色は思ひ知れ」などより始めて、「昔今の事ども、移り変る世のならひ、あぢきなく思し召さるる」など、さまざま承りしほどに、寝ぬに明けゆく短夜は、ほどなく明けゆく空になれば、「御籠りのほどは必ず籠りて、またも心静かに」など承りて、立ち給ふとて、御肌に召されたる御小袖を三つ脱がせおはしまして、「人知れぬ形見ぞ、身を放つなよ」とて賜はせし心のうちは、来し方行く末の事も、来ん世の闇も、よろづ思ひ忘れて、悲しさもあはれさも何と申しやる方なきに、はしたなく明けぬれば、「さらばよ」とて引き立てさせおはしましぬる御名残は、御あと懐しく匂ひ、近きほどの御移り香も、墨染の袂にとどまりぬる心地して、人目あやしく目立たしければ、御形見の御小袖を墨染の衣の下に重ぬるも、びんなく悲しきものから、
 重ねしも 昔になりぬ 恋ごろも
 今は涙に 墨染の袖


 院は「年月が経っているのに、よくもおまえを見分けたんだから、私の気持ちはわかるだろう」とまさに二条が聞きたかった言葉を言ってくれて、「世の中はすっかり変わってしまって、つまらないもんだ」などと話をしているうちに寝る間もなく夜が明け始めてしまいます。春の2月に短夜と言うのはおかしいですし、前に指摘したように兼平の歌ではこともあろうに8月の中秋で使っています。この作品には他にもこうした例があって、たぶん二条は書いている季節を気にしていない(つまり事実があったとしても相当脚色している)のと短夜という言葉を「物足りない夜」くらいの感じで使っているような気がします。その想いが院の言葉と下着である小袖を3枚も与えるということに現われているのでしょう。で、いちばんの関心事項wはこの2人の僧形の男女(院はこの場面の前年に出家しています)がしちゃったかどうかでしょう。あるいは筆者は読者にどっちに理解してほしかくて書いたのかでしょう。

 そういうことがあったことを否定する人たちってけっこういるみたいですが、そんなのは出家の身でそんなことをするわけはないとか、いけないわっていう外的な理由だか気持ちに惑わされているんじゃないかって思います。だって、これが俗世の男女だったら小袖を交わしたことで(性助法親王のときにもありましたが)、結論は明らかじゃないかなって思います。って言うより二条は、僧形同士でっていう刺激的な場面を想像してもらいたかったんだし、そこをはっきりするために通常の交情と同じように書いたように思います。瀬戸内さんはつまんない教義や道徳なんかより、筆者の意図をちゃんと汲んでwこう書かれています。

「もう黒髪もございませんのに」
 つぶやく二条にこだわらず、院はいっそう力をこめてその身体を引きよせた。院の手で、白い頭巾がはがされると、すがすがしい小さな青い頭があらわれた。
「女という女をわたしは閨に招いたが、まだ尼僧を抱いたことはないのだよ」
「はい、わたくしがおそばに居ります間は」
「いや、そちに去られた後もだ。しかし、一度は尼僧を抱いてみたかった。そちは結局、わたしの望みのすべてを適えてくれる女だったのだね」
「とんでもございません、御所様は誤解していらっしゃいます。わたくしはこれでも……」
 二条はそこまでつづけた言葉をとぎらせた。
 あえぎを洩らすまいとして歯を噛み、全身をしなわせる。その脚を院の膝が押さえこんだ。院の動きが二条の声を更にとぎらせた。(468ページ)


 こう考えた方が「来ん世の闇」地獄に落ちちゃうって言葉も生きてくるでしょう。この言葉は性助法親王との時にも出てきていました。二条の歌はさらっとしていながら、「重ね」が衣を互いに重ね、情を重ねたの二重の意味があったり、涙が住むと意味が含ませてあったりしてうまいものです。
 
 むなしく残る御面影を袖の涙に残して立ち侍るも、夢に夢見る心地して、今日ばかりも候うて、今一たびも、のどかなる御ついでもやなど思ひ参らせながら、憂き面影も、思ひ寄らずながらは、力なき身のあやまりとも思し召されぬべし。あまりにうちつけにとどまりて、またの御言の葉を待ち参らせ顔ならんも、思ふところなきにもなりぬべしなど、心に心をいましめて都へ出づる心の中、さながら推し量るべし。

 次の朝の感慨といったところです。それだけにわかりにくいんで箇条書き的に書きます。昨夜のことはもう夢の夢のようにはかなく思える。今日も控えていればもう一度ゆっくりとお会いする機会はないかな。あんなことになったのは弱い女の過ちと思ってもらえるだろうか。かと言ってぐずぐずしてお言葉をかけていただきたいような顔をしているのもみっともない。そうした気持ちを押し殺して都へ行く私の気持ち、みなさんわかってね。まあそんなところでしょう。

 御宮めぐりをまれ、今一たびよそながら見参らせんと思ひて、墨染の袂は御覧じもぞつけらるると思ひて、賜はりたりし御小袖を上に着て、女房の中にまじりて見参らするに、御裘代(きうたい)の姿も昔には変りたるも、あはれにおぼえさせおはしますに、階段登らせおはしますとては、資高の中納言、侍従の宰相と申しし頃にや、御手を引き参らせて入らせおはします。「同じ袂なつかしく」などさまざま承りて、いはけなかりし世の事まで数々仰せありつるさへ、さながら耳の底にとどまり、御面影は袖の涙に宿りて、御山を出で侍りて都へと北へはうち向けども、わが魂はさながら御山にとどまりぬる心地して帰りぬ。

 前の部分で終わっているような感じだったんですが、院が八幡宮のいろんな社を巡るのを二条が眺めながら抱いた感慨が更に付け加わっています。ただここで墨染めの衣では院が見つけてしまうから、いただいた小袖を上に着たというのは奇妙な感じがします。男物の下着を上に着るのが当時の服装としては変ではないとしても、院からすれば「やめてくれよ」って気がするんじゃないかと思うんですね。……「御裘代の姿」は院が法服を着ていることを指します。昨夜、「同じ墨染めの衣になったのも感慨ひとしおだ」などと院が言って、自分の幼い頃のことまでいろいろおっしゃったのが耳の底に留まり、面影が袖の涙に宿って、八幡宮の山を出て都に向かっても、私の魂はそのまま山に留まっているような気がした。漢文のような対句表現を使いながらとても流麗な文章です。

 さて、このシリーズもかなり長くなりましたが、これで終わりです。刺激的な場面だけwピックアップしてちょこちょこと適当なことを書こうというもくろみだったんですが、思いの外たくさん紹介することになりました。それだけおもしろい作品だということなのかもしれませんが、あまり共感しませんでした。……彼女が書いていることをそのまま受け取れば、無理やりいろんな男と関係させられ、妊娠しても子どもから引き離され、出家して諸国を遍歴することになり、最後には院が亡くなって、その葬列を裸足で追って行く(ここがいちばん有名な場面かもしれません)という悲劇的なものになるでしょう。でも、ちょっと原文を読んでいくと言葉とは裏腹に「どう? あたしはこんなにモテルのよ。あたしはこんなにいろんなことを経験したのよ」という作者の自慢顔がチラつくような気がして仕方がありませんでした。

 「とはずがたり」訊かれもしないのにべらべらしゃべると言っては酷なような気もしますが、作者に自己劇化の傾向があることは誰も否定できないでしょう。そこにこの作品の“現代性”があると言うと話ができすぎているかもしれません。まあ、さっき書いたように昔も今もこういう人っていますよねっていうあんまり知的じゃない結論です。……そういうありきたりの結論を避けようと思って、つまみ食いに徹してきたんですが。

 


 

 マリアはマリアを殺したか?〜「ダ・ヴィンチ・コード」への一つの批判

 

 

  黄金比とフィボナッチ数列について書いている過程で、「ダ・ヴィンチ・コード」がこれらを取り上げていることを知りました。私はひねくれ者なんでベストセラーの本は読みませんし、ましてや話題の映画の原作本なんて、といったところですが、仄聞するところによるとだいぶミスリーディングなことが書かれている様子。であればちゃんと読んだ上で、批判すべきところは批判した方がいいだろうと思い、気恥ずかしい思い(それが読まない理由の最たるものかもしれませんw)をしながら文庫版を買いました。

 で、読んでみたんですが、感想としては教養(らしきもの)+エンターティメントとしてはいいんじゃないかなってところです。それ以上でも以下でもなく。……なぜ大して評価できないかを書きましょう。その理由はいちばん最初にあります。いきなり「事実」って見出しでうじゃうじゃ書いてあって、まとめふうに「この小説における芸術作品、建築物、文書、秘密儀式に関する記述は、すべて事実に基づいている」ですって。一体こんなカルト宗教の文書みたいな書き出しで、著者のダン・ブラウンは何をねらったんでしょうか?

 まともに取りあうとすれば、「イエスはマグダラのマリアと結婚し、子どもをもうけたが、その事実はカトリック教会によって隠されてきた。それを暗示したのがダ・ヴィンチの『最後の晩餐』を始めとする作品だ」っていうのは本当なんですよって主張したいんでしょうか。……もしそうなら本来は学術論文でやるべきことであり、いくら宣伝効果が高いといっても小説でやっては自分の頭でものを考える人間に通用すると思えません。小説に事実が含まれていてもそれは大ウソを信じさせるためのワナですw。これは優れた小説ほどそうです。「そんなことはない。エンターティメントの要素があっても例えばダ・ヴィンチの作品の解釈は目からウロコものだ」という人がいるかもしれません。その気持ちはわからないこともないんで、「芸術作品に関する記述は、すべて事実に基づいている」としたらどうなるかお見せしましょう。

 『最後の晩餐』にはマグダラのマリアが描かれていて、イエスは彼女に自分の後を継いでいくように言ったのに女性差別の傾向のあったペテロが不満を持っていて、その地位を奪ったことをダ・ヴィンチは示唆しているといったことを登場人物に語らせています。「ペテロが脅しつけるような様子でマグダラのマリアに迫り、刃の形にした手を首へ突きつけている。<岩窟の聖母>に描かれていたのと同じ、威嚇のしぐさだ」(中巻162ページ)

 ここは非常におもしろいところで、初代教皇のペテロ(ヴァチカンがサン・ピエトロ大聖堂なのはこのためです)への深刻な批判ですから、カトリックの信者としては耐えがたいものがあるかもしれません。しかし、そうだとするなら、著者自身が触れているルーヴルの『岩窟の聖母』もこの論理の延長上で解釈しなくてはならないでしょう。この作品についてはこう書いています。「ワシの鉤爪のようなマリアの指が、目に見えぬ頭を握っている。そして最も恐ろしいのは、マリアの曲がった指の真下で、ウリエルが手で何かを切るしぐさ−−マリアの鉤爪につかまれた目に見えぬ頭部を、喉もとあたりで掻き切るしぐさである」(上巻254ページ)

 私には聖母マリアが洗礼者ヨハネに祝福するために手をかざしているようにしか見えませんが、もし「目に見えぬ頭部」があるとすれば彼の論理から言うとそれはマグダラのマリアの頭ということになるでしょうし、大天使ウリエルといっしょになって彼女を殺したということをダ・ヴィンチは暗示したことになるでしょう。少なくとも聖母マリアは自分の子イエスの遺言に反してペテロの教会乗っ取りに荷担した。これが結論でなければおかしいくらいです。ちなみに四福音書によれば聖母マリアはマグダラのマリアらとともにイエスの磔刑と復活に立ち会っていますから、イエス昇天後の教会(と言えるほどのものがあったとは思えませんが)のあり方について発言力を持っていたとしても何ら不思議はありません。

 しかし、そんな論理の徹底性は彼にはありません。だってマリア様を非難するなんて、エンタメじゃなくなっちゃうからw。……その後、小説では興味深いはずの初期のキリスト教の話はどっかに行っちゃって、イエスの血脈なんてどうでもいい話にすり変わってきちゃいます。これじゃあ、カトリックにとって大した問題ではないと思います。だって、古代ローマに倣ったんでしょうけど、枢機卿らによる選挙(コンクラーベ)で代々教皇を選んできましたから。

 ま、そういうことです。だからまともに取り合うわけにはいかないんです。とすると「事実」って書いてあるのは「本当にあった怖〜いおはなし」っていうのと同じような意味なんでしょう。……比較するのも気の毒ですが、イエスの教えとペテロに始まるキリスト教を峻別したニーチェや『カラマーゾフの兄弟』の中で大審問官を描いたドストエフスキーなら、キリスト教徒じゃない私にも深い感銘を与えてくれるんですけどね。

 


 

 時計はなぜ「とけい」と読めるのか?

 

 「難読語の由来」(中村幸弘著)という本を読みました。図書館で立ち読みしたらタイトルのようなことが書いてあって、おもしろいなと思って借りました。時を計るから「時計」で、読むのもなんにもむずかしくないようですが、「時」という漢字は音読みが「ジ」、訓読みが「とき」ですからふつうに読めば「じけい」のはずですし、訓+音の湯桶読みでも「ときけい」にしかなりません(音+訓で読むのが重箱読みです)。つまり時を「と」と読むのは「時計」だけの特殊な読み方なんですね。……実はとけいを「時計」と書くようになったのはどうも明治になってからで、それまでは「土圭」、「斗計」、「斗鶏」、「斗影」、「斗景」、「辰器」などの文字が当てられてきたんです。明治以降でも泉鏡花の小説で土圭というのを見たことがあるような気がします。しかもこの「とけい」という言葉の語源はよくわからないんだそうです。そうすると時計という漢字を当てたのは優れた発想あるいは発明だったということですね。

 欠伸があくび、心太がところてん、注連縄がしめなわなんていうテレビのクイズに出てくるような難読語よりも、時計のような一見当たり前の言葉について、なぜそういう漢字を当てるかの話の方が私にはおもしろかったので、そんな例をもう少し挙げてみます。ただ語源にしても読み方にしてもいろんな説があってそれらも触れられていますが、いちいち紹介するのは面倒なんで著者の結論だけにします。

 明後日(あさって)って毎日のように使う言葉ですが、なぜそう言うんでしょうか。これは「あす去りて」→「あす去って」からだそうです。明日が去って後の日だからということですね。その次の日の「しあさって」は重明後日(しきあさって)じゃないかと。さらにその次の日(えっと4日後ですか)を「やのあさって」とか言ったりしますが、彌の明後日(いやのあさって)だそうです。彌はさらにとかいよいよといったような意味ですから。ただ「やのあさって」っては私が生まれた大阪では使わなかったような気がしますし、逆に「しあさって」の代わりに使う地方もあるそうです。……でも、本当に知りたかったのは、そもそもなぜ明日をあすやあしたって言うのか、この二つの言い方に違いはあるのかといったことだったんですが。

 田舎は元々は平安京の外全部をそう呼びました。たぶん江戸時代になるまで京都に近い地域以外は、田舎だったでしょう(今でも京都の人はそう思ってる節がありますけどw)。で、その語源は「たいなか」のようです。「たい」は田居で田んぼのこと、「なか」は中と解するよりも人居で舎と同じ意味ということだそうです。田んぼの中の建物といったところでしょうか。

 団扇の読みはちょっとむずかしいかもしれませんが、うちわですね。エアコンがこれだけ普及しても、地球温暖化防止ということなのか、わりと駅で配っていたりします。なぜうちわというかは打ち払う羽といったところのようです。団の文字を使っているのは丸いものだからで、団子(だんご)や団栗(どんぐり)も同じです。「言われてみればそうだ」ととても感心しました。

 為替という経済の仕組みというか制度は鎌倉時代からあるそうで、江戸時代に発達しました。元々は「かわし」で交わしなんですね。替がその交換という意味で、為がするという動詞を表わしているわけですから、漢文のようにひっくり返して読むべきものなんです。替為と書かなくても無理なくかわせと読めるのがかえって不思議です。

 果物の果を「くだ」と読んでも意味はさっぱりわかりませんね。これは「木だ」なんです。……けだものは毛の物、くだものは木の物で、「だ」は現代の「の」と同じ意味の助詞です。さらに果に植物の実という意味は中国にはないそうで、果実も果樹も日本で生まれた漢語だそうです。へえと思いました。

 掃除は元々は漢字のとおりそうじょと言っていたのが、変化したということのようです。古文の時間に除目(じもく)という官職の任命式が出てきましたが、あれと同じです。

 月の最初は一日(ついたち)ですが、なぜそういうんでしょう。これは月立ちで、「き」が「い」に変化したわけです。ついたちという言葉で月の最初の方を広く指す場合も、元日だけを意味する場合もあったそうです。ついでに二十日(はつか)は、20進法(両手両足の指で数えるということです)の最後なんで、果つる+日ということです。日が「か」になるのは二日、三日……と同じですね。二十歳(はたち)の「ち」は二つ、三つという場合の「つ」の変化したもので、年齢だけを指した言葉ではなかったようです。

 一人、二人はどうでしょう。「り」は人という意味なんでしょうか。……ひとりは「ひとあり」又は「ひとおり」で漢字ではどちらも「一在」です。一人の人がいるか、一人で座っているかということです。二人以上の場合は「あり」でしょうから、こちらの方が説明が簡単だと思います。……今では使いませんが、みたり、よたりとも言いました。

 部屋もごくふつうに読めますが、「部」を「へ」と読むのはこれだけです。語り部などと濁るのはありますけど。この字は分ける意味を持つので、元々あった「へや」という言葉に当てたようです。亭子や戸屋や隔屋とも書かれたそうです。ところがこの「へや」は離れのような建物も呼ぶようで、これらの書き方を見ていると全部そういう感じがしてきます。

 真似という言葉は、まねという日本語に漢字を当てたように見えます。まねぶという動詞があって、これと学ぶは関係があるようです。勉強は真似るところからなんて校長先生が朝礼で言いそうな感じです。語源的には似るという意味の「に」に意味を強める接頭語の「ま」がついたものだそうです。

 眼鏡という言葉は、16世紀に目に掛けるメガネが伝来する前からあったようです。鑑別能力のことを眼の尺度(さしがね)という意味でそう呼んでいて、眼鏡を掛けて視力がよくなるからその器具もそう呼ぶようになったと。そうすると「メガネにかなう」という言い方も理解しやすいわけです。漢字の方は器具の方に引きずられているわけですが、遠眼鏡(望遠鏡)や虫眼鏡もそれから派生したんでしょう。

 行方不明という言葉の「方」を「え」と読むのもこういう場合だけです。元々は「ゆくへ」で万葉集にも現代と同じ方向という意味で出てくる言葉で、「方」はそのあたりという意味の「辺」と同一です。海辺、岸辺なんかがそうですね。

 さて、この本では小豆、真面目、大人なども挙げられていて、漢字との対応などはいろんな文献で明らかにされていてなぜそう読むかはわかりますが、なぜそういう日本語になったのか、なぜおとなをおとなというのかといったことはなかなかわからないようです。身近な基本的な言葉ほど考え始めるとむずかしくなるんですね。